- HOME
- >
- READING
- >
- Magic Story -未踏世界の物語-
- >
- タルキール:龍嵐録
- >
- サイドストーリー マルドゥ:稲妻が語る我らの物語
MAGIC STORY
タルキール:龍嵐録

サイドストーリー マルドゥ:稲妻が語る我らの物語

2025年3月11日
嵐が吹き荒れると、パーラはよく眠れたためしがなかった。彼女は草原の娘たちがそうであるように、片足を罠にかけられた獣の唸り声のごとき風音の中でも眠ることができた。移動する乗騎の背中に固定され、両手を鞍の脇の輪に引っ掛けて直立した状態で眠ることができた。空腹や怪我、厳しい寒さで二度と目覚めないかもしれないという不安の中でも眠ることができた。
龍の嵐は何かが違っていた。何度も体験しているにも関わらず、そして肉体が感知していないときでさえ、彼女の感覚はそれを危険なものと認識し続けた。その上、初めて体験した龍の嵐は彼女に心が焼け焦げてしまうほどの変化をもたらし、誰にも気づかれないところへと稲妻の傷跡を残していった。その結果、嵐に遭遇する中ではよく眠れず、半ば以上には理解できない夢の表層をあちらこちらへと浅く滑っていた。
「パーラ!」母親が半狂乱の叫びを上げながら、赤ん坊を腰にくくりつけて旅の天幕の中を駆けてきた。彼女たちは塩路沿いを進む隊商に同行していた。これは幼いパーラにとっては貴重な体験で、偉大なるアラシンの都を越えてからというもの、人々や軍獣の群れに目を奪われていた。パーラは皆が喜んでくれるので、大きくなったら自分は隊商の護衛兵になるんだとよく言っていたが、なぜそう言うたびに皆が笑うのかは理解していなかった。
今は誰も笑っていなかった。天幕の外では遠くから龍の嵐の轟音が響き、剣と剣がぶつかり合う金属音や、鈍いながらももっと酷い衝撃が皮鎧を打つような戦闘の音をほとんどかき消していた。どこかでラクダが悲鳴を上げ、その絶望的な音にパーラは被った毛布の中で固まってしまい、母親が急いで近寄ってきても動くことができなかった。
天幕の外では戦士たちが叫んでいたが、その言葉は騒音の中で理解できるものではなかった。いや、騒音のせいだけではない。この夢を見るときはいつもそうだったが、それらの声がよく聞こえるにも関わらず、言っていることが一言も理解できないのだとパーラは気づいた。それらの言葉は、その夜の恐怖、そして龍の嵐の轟音によって奪われていた。
それに気づいても夢は終わることなく、よどみなく続いていく――いつもそうだ――母親は天幕の中を走ってパーラを毛布の山から引きずり出し、懐から小刀を取り出して天幕の壁に突き刺す。パーラをしっかりと抱きしめたまま、母親は小刀に全体重をかけて刃を走らせ、その革を切り裂く。
母親は娘の肩に腕を回し、娘を押し込みながら追いかける形で壁の穴を通り抜け、続いてパーラの腕を掴んだまま走り出す。その背後では火が回って天幕を焼き尽くし、戦闘の音は遠ざかり、パーラは母親によって夜の闇へと引きずり込まれる。赤ん坊のレフィアはこの混乱の中でもぐっすりと眠っている。パーラはただただ走り、走り、訳も分からぬまま危険から逃げる。すでに終わった命を救うために――
パーラははっと息を呑んで目を覚ました。身体をまっすぐに起こし、枕と子猫たちを放り出した。彼女の傍らで丸くなっていたレフィアは、小さく不機嫌そうな声を出して彼女の腕を掴み、再び横に寝かせようとした。パーラは妹へと探るような視線を向けた。
「寝てるの? それともおねだりしてるの?」と彼女は尋ねた。
「お願いしながら寝てるの」レフィアはそう言って、片目を開けてパーラを見上げられる程度には仰向けになった。「寒いんだもの。嵐が来てるでしょう、寝ましょうよ。夜中に出ていって雷の試練を始めちゃいけないのよ」
子猫のうち一匹が不機嫌そうに鳴いた。レフィアは体を起こしてその子猫を掴み、パーラの顔に押し付けた。
「ほらね?」とレフィアは言う。「子猫が泣いちゃってる。子猫を泣かせちゃだめなのよ」
「子猫だもの」パーラは困ったように言った。「何でも泣くものなのよ。昨日、一匹がバッタを捕まえたけど、大きすぎてびっくりして泣いちゃって、他の子は自分にはバッタがないって泣いてたのよ。泣き止ませるためだけに、網を持ってバッタを捕まえてきなさい、って母さんが言うかと思っちゃったわ」
「お姉ちゃんは試練の特訓があったから言われなかったのよ」レフィアはこぼした。「わたしが行くことになっちゃったんだから」
パーラは目をぱちくりとし、笑いながら毛布の中に倒れ込んだ。レフィアも一緒に笑い、姉にくっついて暖を取り戻した。子猫たちもめいめいにすり寄ってきた。オークの幼児ほどの逞しい黄褐色の生き物が人間ふたりの周りに寄り掛かり、その重みでパーラは再びゆっくりと、否応なしに眠りへと落ちていった。
夜は更け、外の嵐は今なお続いていた。
その逃亡が辛うじて成功したのは、彼女たちを探していた政治的暗殺者たちが天幕について間違った説明を受け取っていたからに他ならない。パーラは街を出発したときのことを時折思い返すが、そのつど母親が城壁近くの商人から新しい天幕を買おうとしていたことも思い出される。その商人はあなたがたのような身分の女性に相応しい装飾や美しい模様のものが何もなく、地味な布のものしか売れるものがないと詫びていた。だがこれは本当の記憶なのだろうか。それとも、怯えた子供の断片的な記憶からつじつまを合わせようとしているのだろうか?
彼女が確実に覚えているのは、頭上の嵐から身を守ることもできぬまま夜の闇を駆け続け、炎上する野営地の明かりが丘の向こうに消えるまで走り続けたということぐらいだ。自分たちは互いの存在と、パーラが肩に巻いていた毛布一枚だけを頼りに逃げ切ることができた。それ以外は全て失ってしまった。
パーラは、母親が肩を抱き、今は勇気を持って、賢く、強くあれ、そしてとにかく静かにするのだと言っていたことを思い出した。その記憶は、塩路沿いを辿る道から遠く外れた大草原へと迷い込んだ恐ろしい日の翌朝から、何度も繰り返されていた。パーラは、母親の目に浮かんだ恐怖と、母親の指が自分の腕に食い込んで痛いほどだったことを覚えていた。
彼女は、母親が実際にどんな言葉をかけたのかだけは覚えていなかった。それらは恐怖によって生じた虚無の中へと失われ、二度と取り戻せないのだろう。
起こった出来事の全容を、あるいは母親が語れる限りの全容をパーラが知るまでには何年もかかった。彼女の父親は、アブザンの家族間における政治的対立において形勢の悪い側にいた。塩路沿いを巡るその旅は、父親が立場を固めるまでの間、家族を危険から遠ざけるための策だった。父親は母親同様、事態が好転しない限り安全が保障されないことを理解していた。それどころか、自分が死ねば妻や子供たちは家族の避難所から追い出されることになるだろうと。
事態は好転しなかった。結果的には生き延びたが、帰る家もなく、祖先の間にも近づけなかった。自分たちは追放者なのだ。そして面と向かって告げられることはなかったとしても、パーラは真夜中に母親が泣いているのを見て、父親が死んだことを悟っていた。それが、父親が自分たちを探しに来ない唯一の理由なのだ。
自分たちも死んでいたかもしれない。食料も水もないまま何日間も大草原を彷徨い、さらには次に龍の嵐が発生する時期が刻一刻と近づき、空気は雷の前兆で静電気のきらめきを放つようになり、乱雲の重苦しさと爬虫類のような匂いが他のすべてを覆い隠していた。もし次の嵐が襲ってきたときにまだ外にいたなら、そのせいで死んでいたのだろう。
そうなる前に、嵐の偵察と追跡を任じられていたマルドゥの狩猟隊がパーラ達三人と遭遇し、見慣れぬ武器、そして同じく聞き慣れぬ要求を付きつけつつ輪となって取り囲んだ。パーラとレフィアにとっては馴染みのないものだったが、母親は違った。母親は以前にも塩路を旅したことがあり、外交術には時に相手が理解できる言葉で、相手の条件の下で話し合うことが求められると理解していた。準備なしで行うことなど滅多になかった相手の文化に則ったやりとりを、母親はなんとかうまく続けようと尽力した。普段は甘い口調の声はそのためにそっけなく途切れ途切れなものとなっていた。それでも母親は自分たちの状況を伝えることができ、狩猟隊は野営地に戻るときにパーラとその家族を連れて行ったのだった。
マルドゥは元アブザンの外交官を必要とはしていなかったが、母親とその子供たちのために場所を用意し、もし働く気があるのならと滞在を歓迎した。三日が経ち、その間母親は自分を必要とする仕事が何かないかと探し続けていた。そこである狩人が気の毒に思い、高山へと狩人たちを運ぶ巨大なマヌル――乗騎猫のうち一匹が行方不明であることを母親に知らせた。子猫たちの世話が必要であり、そうしなければ母猫を追って死んでしまうだろうと。
![]() |
アート:Alexander Mokhov |
パーラとレフィアはそれ以来、次から次へと生まれるマヌルネコたちと同じ天幕で共に暮らしていた。野営地にいるネコ科の乗騎のうち半数は装具を外して自由になると、耳を掻いてもらいに来ては彼女たちに干し肉をねだるようになっていた。狩猟隊や戦士たちに同行するほどの名誉があるわけではないが、立派な仕事ではあった。
パーラは再び目覚めた。今度は周囲で野営地の活気づく様子が聞こえてきたからだ。パーラが身体を起こすと、乗っていた子猫がレフィアの方へと転げた。レフィアはあくびをしながら体を伸ばし、寝返りを打つと再びすぐさま眠りについた。パーラはそんな妹を尻目に立ち上がって素早く荷物をまとめ、天幕の出入口から明るく爽やかな朝の光の下へと足を踏み出した。
母親はいつも通りすでに起きていて、肉屋の天幕から肉を入れた手桶を運びこみ、餌入れに詰め込んでから夜間用厩舎に入っていた成体の猫たちを放していた。「お早うございます、パーラ」母親は上品に挨拶した。「今日がその日ですよ。準備はできていますか?」
「この一年間準備してきたわ」
「こんなことをしなくてもよいのですよ。マルドゥの戦士であることを証明するために命を危険に晒すか否かに関わらず、あなたは常にこの氏族の中に居場所があります。猫たちは常に世話を必要とし、あなたを知る者があなたを軽んじることはないのですから」
パーラはその場に立ち止まり、母親がそう言うたびに耐えがたくなる怒りを飲み込んだ。家族は今やマルドゥの一員だったが、母親はアブザンが今でも帰還を歓迎するかのように、パーラがマルドゥを去りたがっているかのように振る舞った。「同じ年頃の子たちは、戦士じゃない私のことをいつもからかってくる」パーラは絞り出すような声で言った。「長老たちは、私はマルドゥの者だって言う。だけどアルタンや取り巻きは、私の仲間のはずの人たちは……ここで生まれてないやつは本物の氏族員にはなれないって言う。あの人たちは、同じ集団で育ってもマルドゥになるわけじゃない、猫と一緒に育ってもお前は子猫になってないだろうって言うの。だからやらなきゃ、そうしないとあの人たちは私がここの一員だってことを絶対に認めない」
「集団の指導者たちがすでにあなたの言葉を代言しているのに、なぜ子供たちの言うことを気にするのですか?」
「だってお母さんの言う『子供たち』が、私が一生付き合っていかなきゃならない人たちだから。それがどういう意味か私は知ってる。お父さんの家が領土の境界線を無視してマルドゥを追い払ったことも知ってる。マルドゥは私たちを草原に置き去りにして死なせたってよかった。でもここの人たちはそうしなかった。だからここが今の私の家なの。それを皆に分かってもらいたい、先に身を引いていく人たちだけでなく、最後まで肩を並べ続けることになる人たちにも」
「あの人の家は……指導者が変わってから侵略を止めましたよ」
「私たちを追い出したあとのことでしょう。ごめん、お母さん。これはやらなきゃいけないことなの」
「ですが雷の試練はとても……危険なのですよ、パーラ」
「マルドゥの若者全員が等しく危険なんだからいいのよ」
「マルドゥの若者全員が等しく私の娘というわけではないのですよ!」
「そのうち二人は娘よ。私はやる。もう成人したのだから、自分で自分のことを決める権利があるってことは認めてほしい」
「パーラ……」
「愛してるわ、お母さん。でも準備をしないと」
パーラは大股で歩を進めた。母親を――自分の母親を――まるでよそ者であるかのように追い払ってしまったことを自覚し、胃が締め付けられるようにひどく痛んだ。そうして入浴用の天幕に入り、出入口の内側に設置された長椅子に自分の衣服を丁寧に置いた。
彼女がこの浴場に入るのを許されたのは、一か月前の誕生日が初めてだった。そのせいもあって、起きたときには湯が沸かされ、起床する野営地の者たちが入浴できるよう熱を保たれているという風習にはまだ慣れていない。共同入浴用の天幕ではあるが、入浴中に他人と一緒になることにもまだ不安を感じる。そのためパーラは素早く体を洗い、大雑把に体を拭き、同じように手早く服を着た。衣服の留め金と結び紐を締めてから慎重に髪を編み込みはじめ、しかるべき髪型になるようピンで留めた。
手際はよかった――だが、試練の準備を喜んで手伝ってくれる家族がいる参加者たちよりは遅かった。パーラが天幕から出ると、参加者たちはすでに中央広場に集まっているようだった。彼女の心は不安に揺れた。まだ準備ができていない。今日乗るはずの乗騎には鞍もつけていないし、食料もまだ――
そう思われたが、乗騎はレフィアに連れられておとなしくパーラのほうへと付いてきていた。レフィアはまだ寝巻姿で、髪は乱雑に絡まりもつれて鳥の巣のようだった。彼女は、まだ相棒となる乗り手が決まっていないマヌルネコの中で一番大きいものを選んでいた。一才の雄で、姉妹にとてもよく懐いている。パーラが自身の乗騎を所有できる地位を得たならば、一生の相棒になるであろう獣だ。マヌルネコは旅の準備を整えられていた。胸と腹には鎧がしっかりと巻き付けられており、鞍袋には半分ほどしか中身が入っていないようだったが、可能な限りの愛と伝統で満たされていた。
「あなたは嵐からの贈り物ね」パーラはそう声をかけながら急いで妹の後に続いた。
「そうよ」とレフィアは言った。妹は集まった参加者たちのほうを見た。そこにいた何人かは妹の髪と服装を見てくすくすと笑い、露骨に見下していた。「お願いね? 向こうにいったら、精霊龍さまが感心するぐらい大きくてまぶしい稲妻を捕まえてよ。あの人たちも恥をかけばいいんだわ」
「そうね」パーラが答える。「でも、将来あなたが捕まえる稲妻よりちょっと大きい程度にしておいてあげる」
「何言ってるの。わたしは稲妻を追いかけたりしないわよ、斥候や戦士になるつもりもないし。成人したらすぐにお母さんの仕事を引き継ぐわ。地位とかいい結婚相手とかよりも子猫の世話をしたいもの。マルドゥはお姉ちゃんみたいな人と同じぐらい、わたしみたいな人を必要としてるわ。ほら、お姉ちゃんのすごいところをみんなに見せてきて」
「もちろん」とパーラは約束した。彼女は身を乗り出し、一瞬レフィアの額に自身の額を寄せて、それから振り返ってマヌルネコの鞍に跨り、ほかの参加者たちが集まっている場所へと向かわせた。
いよいよ始まりの時だ。
「雷の試練は、お前たちの人生で最も重要な時というわけではない。ここまでの人生において、最も重要な時というだけだ」参加者たちを山へと導く任務を与えられた隊長が言う。「お前たちがそれぞれ最善を尽くして備えてきたことを願っておく。共に出発した人数のままで戻ってこられるのが一番だがね」
気のせいだろうか、それとも隊長はそう言いながら視線をこちらに向けていただろうか? パーラは思わず総毛立ったが、背筋を伸ばして鞍に跨ったまま身動きしなかった。
「お前たちは、旅の助けになるよう家族が用意してくれた贈り物を持って行くことが許されている」と隊長は続けた。
パーラは周囲の参加者の鞍袋には目を向けず、前を見続けるよう意識した。参加者はみな自分よりも装備を整えていて、旅の役に立つ道具を用意し、干し肉や握り飯よりも栄養のある食べ物を携帯していた。大家族からの参加者は、より良い装備を物々交換で得ることが可能だった。パーラに用意できたのはマヌルネコ、縄、寝具、食料、そして水。あとはレフィアから受け取った狩猟用の小刀と、捕えた稲妻を収納するための瓶だけだ。
それで充分だった。嵐に対する準備が不十分でもすべてを危険に晒すことを厭わない、かつてのマルドゥがそうしていたように挑むつもりだった。決まりも前例もなく、確実に生き残る方法もなかった時代にそれを成し遂げた光砕く者、テルサのように。当時のテルサは、今のパーラ同様に覚悟があった。他の参加者より支援は少なかったかもしれず、それでいて失うものははるかに多かった。
この一団の最高の狩人の息子のひとりであり、パーラの試練参加に対して最も大きな反対の声を上げていたアルタンは、自身の競争用の隼の背から彼女へと忌々しげな視線を向けた。パーラは耐えていたが、目は合わせなかった。
「俺たち氏族の本当の子から食い物を奪うだけじゃ飽き足らず、今度は俺たちの試練まで盗む気でいるのか?」と彼は低い声で囁いた。「お前が参加なんてしたらこの試練の名誉が損なわれるんだよ」
「今参加を取りやめても、恥じることはない」と隊長は言った。「それでもまた挑戦する機会はあるし、評判も変わらない」
遠くで嵐が轟き、隊長の嘘を際立たせた。怪我や病気が理由で最初の試練を辞退した者は許される。しかし嵐を前にして臆病な態度を見せた者は、今後ずっと臆病者と断じられ、評価が覆ることはない。一族に生まれた者には二度目の機会があるかもしれない。自分に二度目はない。
「失敗するだけだ」アルタンは言う。「怪我する前に引き返すんだな」
参加者たちは誰も動かずに、期待に満ちた目で隊長を見続けた。
「ならばよし」と隊長は言った。「お前たちの試練の始まりだ」
一団は勢いよく出発した。試練のこの部分は競争ではなく、戦士を志願する者たちが自身の乗騎についてどれだけよく理解しているのかを測るものだった。中にはすでに無理をさせすぎて、山にたどり着く前に動物を疲れさせてしまう者たちもいた。他にも、その種族に適していない方法で騎乗する者たちがいた。競争用の隼を鎧装トカゲのように操ろうとしたり、走る気を失わせるほど猫を急がせようとしたりだ。アルタンは自身が騎乗している動物について理解していない様子だった。そこでパーラはすぐに彼を抜き去って、試練のこの段階では近寄られないようにした。
パーラは前屈みになってマヌルネコに上体を寄せ、耳の後ろを掻いてあげた。「風の向くままに走って」と彼女が言うと、マヌルネコはがぜん軽やかに駆け出した。
若いマヌルネコは、近くに獲物や脅威がなければ、たやすく走ってくれる。遊びだと思ってくれる。パーラが口笛を吹くと、マヌルネコは速度を上げて山に向かって全速力で走りだした。他の参加者にも、自身の乗騎から彼女同様の成果を引き出すことに成功した者たちがいた。そのほとんどは、彼女と同じように生まれたときから訓練してきた動物に乗っていた。彼女が追い抜くと何人かは称賛の眼差しを向け、頷いて実力を認めた。パーラは乗騎を乗りこなしていた。彼女の同輩となる者たちは、たとえ一団の中における彼女の立場を疑問に思うことがあったとしても、彼女の騎乗については高く評価するだろう。
主野営地は、山の麓から乗騎でたった一日の場所に設営された。参加者たちは、次の龍の嵐が発生するのを一週間以上待つことになった。いざ試練の時が来たなら、たまたま山の近くにいて稲妻を捕えられるだろうと楽観するわけにはいかない。試練の参加者たちは、成功が望める妥当な場所に留まる必要があった。
![]() |
アート:Danny Schwartz |
日が経つにつれ、パーラは他の参加者をほとんど見かけなくなっていた。参加者たちは時に近くに現れては草の中へと消え、時には遠出して挑戦相手の気配を探した。さらに数日が経過し、雷鳴はますます頻繁に鳴り響いた。嵐が頭上に迫り、午後の長い指が大地を掴もうとする中、周囲には山の麓のなだらかな斜面が現れていた。波のように起伏がある地面がマヌルネコの速度を落とさせた。マヌルネコの足は速いが、急がせすぎては体勢を崩してしまうこともあるので、ひとまず急いで失敗するよりはとパーラは用心して進むことにした。
パーラはより慎重に進んでいたため、アルタンの乗騎隼がどこからともなく飛び掛かってきたときにマヌルネコを急停止させることができた。相手が予想していた位置にたどり着く前に乗騎を留め、衝突することなく前を通り過ぎる隼から目を離さなかった。
アルタンは手綱を強く引き、乗騎をパーラへと向けた。彼女は顔をしかめ、軽蔑の態度を隠そうともしなかった。自分たちは今、試練の最中だ。あらゆる点で平等だった。アルタンは、パーラを参加させることでマルドゥの最も神聖な儀式の名誉が損なわれると言った。それに賛同する者はほとんどいなかったが、彼がそれを公言したという事実が、パーラを今なお不愉快にさせていた。一団の要請よりも自分の要求を優先したがっておいて、なぜ自分のほうが優れたマルドゥなのだと喧伝できるのだろうか?
「呼ばれてもいないのにここまで来るとは、なんて思い上がったやつだ」彼は唸り声をあげ、長靴の中から刃物を取り出した。それは短くも物騒に湾曲した形状の、草刈り用の小刀だった。岩場の多い地域に移動する前に、草食動物の餌を集めておくためのものだ。草を刈るためのものではあるが、もちろん肉にもひどい怪我を負わせることは可能であり、パーラはその攻撃範囲に近寄らない方が賢明であると分かっていた。
「私は団の統率者から騎乗の許可を得ている」と彼女は言い返した。「成人もしたし、あなた達と同じぐらい長くこの一団にいる。嵐の影に求められているものが誰もいないからこそ、それが自分たちのものだということを権利として主張し、そのために騎乗する。私には手に入れたいものがある、そのために戦ってきた。退きなさい」
「いやだね」彼は鳥を前へと急き立てながら唸った。
アルタンの母親は素晴らしい狩人だったが、訓練士ではなかった。そしてアルタンに彼が思っているほどの騎乗経験が無いことは明らかだった。彼は手綱を強く引きすぎたため、鳥はその命令に正しく反応しなかった。パーラはマヌルネコを麓の丘の先へと向かわせ、逃げた。
「戻ってこいよ!」彼は叫んだ。「大ごとにするつもりはないさ。身の程を分からせて、いるべき場所に帰りたいって思わせるだけだ」
パーラは傷を負うつもりはなかった。彼女はマヌルネコをどんどん高所へと、鳥類が有利な平地から遠ざかるようにと走らせ続けた。騎乗用の猛禽類は草原を食らう野火のように素早く移動し、乗騎となる他のほとんどすべての動物よりも速いが、高所に登るためのものではない。皮肉にも、鳥は高いところが苦手なのだ。
アルタンはパーラを追いかけた。彼の鳥はよく訓練されていた。彼が手綱を強く引きすぎたままでも、指示通りに追いかけようとしていた。そして岩が地面に浅く埋まった低い丘をよじ登り、丘の側面に爪を深く食い込ませて、追跡しながら土を四方八方に飛び散らせた。地面の岩はその爪先で外れ始め、ごとごとと音をたてながら斜面を転がり落ちていった。
パーラは鞍上で体をひねって振り返り、遠く離れているアルタンに届くかの如く片手を伸ばした。「アルタン! 気をつけて!」と叫ぶ。
彼は彼女を睨みつけながら再び手綱を引き、丘を越えるよう鳥を促した。鳥は体勢を保つために翼を広げようとしたが、遅すぎた。乗騎の足元の大きな岩が地面から外れて転げ落ち、アルタンは驚きに目を見開いた。そして彼らは丘を転げ落ちていった。アルタンは転がりながら叫び声を上げ、パーラは彼らが地面に衝突する鈍い音と、落ちた岩が割れる音を聞いた。
彼女は猫の鞍から飛び降り、倒れたままの追跡者を見下ろした。「競争相手」と表現するのは大げさすぎるように思えた。彼が一団での彼女の立場を気に食わないと公言したこと以外には、お互いに何も競い合ったことなどなかったからだ。
アルタンと鳥は丘の終端でもつれ合い、彼の足は落石に半分挟まれていた。丘の斜面の半分が彼らに向かって崩れ落ち、その場に釘付けにしたかのようだった。
「動くんじゃないわよ!」パーラは大声を上げた。動けないとは思うが。それから、靴の側面で滑り降りるような形で丘を数フィート先まで駆け降りた。平らな地面にまでたどり着くとアルタンの元まで駆け寄り、屈んで岩を転がし退かそうとした。
彼は苦痛の表情を浮かべたが、パーラの二度の試みまでは口をつぐんでいた。彼女がアルタンの胸より大きな岩を再び退かそうとしたとき、彼は激しい呼吸音であえぎ、手を挙げて彼女に止めるよう伝えた。
「こんなことをしても俺は考えを変えないぞ」とアルタンは言った。「俺たちの中にお前の居場所はない。ちょっと岩を動かしたぐらいで心変わりはしない」
「多分足は折れてる」パーラはそう答えて、岩を動かそうとし続けた。「このままだと筋肉が傷ついて腫れてくるかも。足を失うかもしれない。退かしたほうがいいわ」
「なぜ助ける? 俺はお前が嫌いなんだぞ」
彼女は彼を見ながら肩をすくめ、短く答えた。「マルドゥならそうする」
彼はパーラが岩を動かし続けるのを見届け、それが終わったら両手の力で可能な限り上半身を起こした。彼女は背を向け、マヌルネコの方へと歩いていった。
アルタンは先ほど脅しをかけるために用いていた小刀を取り出し、彼女の足元の草むらへと危なくないように放った。パーラは驚いて振り返った。
「山頂まで俺も連れていってくれるか?」と彼は尋ねた。
彼女は屈みこんで小刀を拾い、腰帯に滑り込ませた。「いいわよ」と言い、向きなおって丘を再び登り始めた。
彼女は猫の背に乗りながら振り返った。彼の姿は岩山の影で見えなかったが、彼はそこにいるし、頂上まで共にある。もう後戻りはできない。そもそもできるはずなどなかった。
マヌルネコは長い距離を一定の速度で移動できるよう飼育されており、地面が平らであっても傾斜があってもそれほど気にしない。猫は彼女をどんどん高所へと運んでいった。山腹でなにやら動いている他の参加者たちが遠目に見えたが、それらからは十分に離れた道を進んでいった。アルタンの攻撃は試練の決まり事によって問題なく認められているものだった。どの参加者も、他の参加者の武装解除や無力化を試みて構わないのだ。雷の試練を乗り越えたと喧伝できるものは多いが、その中で勝者は一人だけであり、最も眩しく輝く稲妻を持ち帰ったものだけが嵐の恩恵として戦名を名乗ることが許される。皆、自分がそうなることを望んでいた。ちょっとした競争が、皆をより努力させ、より早く登らせ、より恐れぬよう煽るというだけだ。
それは本当に効果があるのかとパーラが訝しんでいると、一本の矢が彼女の頭のすぐそばを通過し、矢羽根が頬をかすめた。彼女はとっさに身をよじり、周囲の丘に襲撃者の姿がないかと慎重に探った。そして細めた目で、光を反射する留め具をやや離れた位置に確認した。乗騎トカゲ上の射手が次の矢を放とうと弓を引き絞っていた。
パーラはマヌルネコの背中へと身を低く屈め、手綱を手放し、首元の分厚い毛の壁へと両手を突っ込んだ。「頂上にたどり着いたら一緒に名前をもらいましょう」彼女は優しい声で猫を元気づけた。「私は氏族から名前を貰って、あなたも自分の名前を貰うの。私は戦士になって、あなたは私に貰われる。さあ、私たちを救って、あなたの名前を勝ち取ってちょうだい、私の勇敢な猫さん」
マヌルネコは、いくつかの明確で単純な命令を除き、調教師の言葉を理解できない。しかしその声色の違いは理解しており、更にこの猫は生まれてからずっと彼女と訓練してきたのだ。彼女の体が射手の方へとわずかに傾いていたので、猫はその方向へと飛び出し、でこぼこした丘の中腹を全速力で駆け抜けた。猫の腹が地面をかすめ、パーラのつま先が岩に掠る。猫は減速も停止もしなかった。
二本目の矢を引いていた射手は、身動きできず貴重な数秒間を無駄にした。標的というものは通常、驚いた野兎のように跳びかかってくるわけでもないし、野兎にはよく訓練された乗騎マヌルネコのような歯や爪はない。射手は弓を下ろし、トカゲの手綱を掴んで方向転換しようとしたが、すでに速度を上げていたマヌルネコはかなりの距離を詰めていた。
急速に迫ったパーラは猫の首回りから片手を離し、射手が緩く握っていた弓を掴んだ。強く引っ張り、その手から引きはがす。パーラは乗騎を急停止させ、荒れていた猫と自分の呼吸を整え始めた。射手は放つつもりだった矢の握りをずらし、パーラを刺そうとするかのように握り締めた。
「何なの? あなたは私を頂上に登らせないことにこだわって、氏族の掟に逆らってまで仲間を攻撃するの? どうして? あなたはあの人たちみたいに私を敵視してはいなかったでしょう。これが何になるの?」
「勝利者は一人だけだからよ」と射手は鋭い口調で言った。「他の人たちは大したことのない嵐の影を捕まえると思う。だから私はできるだけ競争相手を排除するつもりだったのよ」
「他の弓は持ってるの?」
「ないわよ」
「そう、だったらあなたは氏族なしの山賊みたいに石でも投げつけるしかないわね」とパーラは応じた。「これは返さないわよ」
射手はパーラを睨みつけた。「正々堂々と勝負しなさいよ!」
「何もしてない私を撃とうとしたのは正々堂々だったかしら」
射手は突然身を乗り出し、まだ握っていた矢でパーラを刺そうとした。パーラは前腕でそれを防御しつつ軸を掴んで指で折り、無力化した。射手はわずかな間パーラを呆然と見つめ、それから力なく肩を落とし、背中の矢筒を降ろした。「奪うつもりなら、全部奪っておいたほうがいいわよ」
パーラは警戒しながら相手を見つめ、何らかの策略であるという証拠を待った。何もなかった。彼女は手を伸ばして矢筒を受け取り、肩に掛けた。「来年もあるわ。そのころには、妨害する必要も感じなくなるかもしれないわよ」
「そうかもね」意気消沈した様子の返事だった。射手はトカゲを山の麓へと向け、遠くで待っている一団へと向かってゆっくりと走らせた。
パーラは彼女が帰る様子を見守りながら、これが何らかの策略だと判明しこちらへと向きなおって突撃してくる時を待った。そうはならなかったので、パーラはマヌルネコの手綱を握り、この大きな騎乗猫を山頂へと向かわせ、登っていった。
嵐はいよいよ近くなり、空気は電気を帯び始めて、パーラのうなじの毛が逆立った。彼女は乗騎を操りながら、用心深く空を見上げていた。頂上にたどり着いていよいよ嵐に挑むという手前で、たまたま落ちてきた雷に打たれるというのは残酷な冗談にすぎる。
前方
の草むらの中で何かかさかさと音がした。パーラは乗騎を止めて滑り降り、草むらに向かって慎重に歩を進めた。音は繰り返し聞こえてくる。彼女は矢をつがえて弓を引き、打ち込んで草をかき分けると、地面で蠢き鱗を互いにこすり合わせる毒蛇の巣が露わになった。思わずひるむ。蛇たちには山にいる権利がある。それらはここに住んでいるだけで、何も悪いことはしていない。それでも、試練の最中に誰かが傷を負うのはよくない。二本目の矢を撃ち、巣を挟み込むように地面に刺しておくことで、後から来る者たちのための印とした。巣をつくっている毒蛇が理由もなく移動することはまずないだろう。おそらくここに卵を産み、離れずにそれを守っているのだ。巣に十分な目印を付けたことで、他の参加者がうっかり巣に踏み入ることはないはずだ。そう確信したパーラはマヌルネコの元に戻って鞍に飛び乗り、手綱を握って、平和に集う毒蛇から離れていった。
山頂が見え、嵐は急速に近づいた。暗雲は色とりどりの稲妻をその内に伴い空を覆っていた。パーラは可能な限り乗騎を急かし、勝利が単なる他人の伝説ではなく自分の現実となるように頂上へと急いだ。
地勢は挑戦的な場所が選ばれてはいるが、不可能な場所ではない。マルドゥは若い戦士が実力を証明することが不可欠であることを理解しているが、そうではあっても、子供たちにはできるだけ生き延びて欲しいのだ。彼女は手綱を引いて猫を上へと向かわせた。猫はその指示に全力で従い、山腹の最後の数フィートをゆっくりとぎこちなく登っていった。
嵐は重たくのしかかる羊毛の毛布のようで、その中では稲妻がうねり輝き、時折それが嵐から放たれては地面に突き刺さって岩を叩いていた。パーラは息を切らした乗騎の背中から滑り降り、目標を捕えるための稲妻の瓶を取り出した。彼女は貪欲に、なおかつ細心の注意を払い、参加者のために準備された平坦な場所の中央へと向かった。
膝裏に石が当たり、彼女はよろめきながら振り返った。そこには、山腹を歩いて登り切り、背後に騎乗山羊を連れた同じ年頃の少女がいた。「エミナ」パーラは疲れて抑揚のない声で言った。「何をするの?」
「あなたは絶対にマルドゥにはなれないわ」とエミナは答えた。「氏族は生まれて成るもので、選ばれるものじゃないってアルタンは言っていた」
「氏族の他の人たちも指導者たちも、あなたの両親もそうは言っていないわ」とパーラは反論してアルタンから譲り受けた小刀を腰から抜き、それと同時にエミナは投石器を後ろに構えた。「山もそうは言っていない」この山において彼女は、氏族の一員から武器を譲られ、後から来る者たちのために危険を知らせ、全体の生存に貢献することを示してきた。その手に稲妻があろうとなかろうと、彼女は精神、肉体、そして魂においてマルドゥであることを証明していた。嵐への挑戦は最後の一歩に過ぎなかった。
エミナは次の石を投げつけた。パーラは横に走ってからエミナに向かって突進し、投石器の紐部分を狙って切りつけたが、エミナは投石器を小刀にきつく絡ませて引っ張った。それと同時に嵐からの電撃が周囲を襲った。稲妻は二人の皮膚を通って躍り、熱ではない火で二人を燃やした。
パーラは遠くからの龍たちの叫び声を、火の燃える音と剣のぶつかり合う音を聞いた。彼女は、周囲を囲む雲の虹色の眩しさに抗い、無理やり目を開いた。するとすべては光り輝き、まるで多面晶の中心を見つめているかのようだった。それは屈折しながら周囲に散乱し、信じられないほどに美しく、信じられないほどに危険だった。
その光の中で、巣をつくり閉じこもる毒蛇のように稲妻がうねっていた。毒蛇が草茂る土の上に棲んでいたように、これが稲妻の住処なのだ。もうエミナの姿は見えず、声も聞こえず、気配も感じられなかった。あるのは嵐と、近くで渦巻いている毒蛇の頭を持つ稲妻たちだけだった。
不意に、真の試練が明らかになった。氏族に対する真の愛を持たずに近づいたならば、この毒蛇はそれを察知し、立っているこの場へと襲い掛かってくるのだろう。嵐の毒は自分の理解を超えているに違いない。
![]() |
アート:Josiah "Jo" Cameron |
パーラは手と心を共に伸ばし、蛇へと手のひらを差し出した。蛇たちは舌でそれをくすぐり、絡み合いながら身もだえし、一匹また一匹と離れていった。ついには一番大きな蛇だけが見つめていた。その蛇は彼女の手に鼻先をぶつけて這い上ってくる。彼女は蛇を指で包み込み、嵐から蛇を――稲妻を捕えて――引き抜いた。
その世界は今までに見たことがないほど明るく光り輝き、そして消え去った。
パーラは自分の体の下でマヌルネコが静かに歩く音で気付き、目を開けた。彼女の両手は体が落ちないようにと鞍の頭絡に縛り付けられており、前方ではエミナがアルタンとあの射手を伴って乗騎を走らせていた。アルタンの足には添え木がされており、彼もまた鞍に縛られてはいたが、誰もがマルドゥに相応しくあるよう、堂々と誇らしげにしていた。
パーラやエミナたちは山の麓に近づき、そこでは一団の残りの者たちが彼女たちの成功あるいは失敗を見守ろうと集まっていた。エミナはパーラと猫を引き従えて進んでいった。
パーラは目を閉じ、縛り付けられた手の指を自分のマヌルネコの首元へと埋めた。いや――自分のものではない。決して自分のものにはならないのだ。この子は他の誰かに譲り渡され、この子の名前が他の誰かから呼ばれても、自分の口から呼ばれることは決してない。決して戦士になることはできない。決して――
古老のひとりが彼女のそばに来て、その手の縄を解いて鞍から下ろした。彼女は地面に滑り降り、ふらつきながら立つのが精一杯で、古老が稲妻の瓶をそっと差し出すのをただ見つめることしかできなかった。
「エミナは、これがお前さんのだと言っておる」と彼は告げた。「本当かね?」
「あ――はい?」彼女はそれだけを言った。
「お前さんの仲間は面白い話をしていてな」と彼は続けた。「あの者たちは山でお前さんに挑み、触る必要のない傷を開き、自分たちの氏族――つまりお前さんの氏族に対するお前さんの権利を否定してしまった、と言っておってな。だが自分たちが間違っていた、お前さんは嵐に乗り込む前にあの者たちを打ち負かし、なおかつ助けようとしたと。氏族がお前さんに何も与えない中、お前さんは氏族を思いやり支援してくれていた、と」
パーラは何も言わなかった。
「パーラは最初に山頂に到達したわ」エミナがその場に近づきながら言った。「この子は嵐の稲妻を掴み取った。私のはそれよりもっと弱くて、この子ほど長く耐えられなかった」
パーラは目を伏せた。目尻に涙が浮かんできた。パーラの母親が群衆をかき分けてやってきて、パーラの火脹れした両手を握った。「これからはあなたをなんと呼べばいいのかしら?」と母親は尋ねた。「勇気に溢れた、偉大で、勇敢な名前?」
パーラは首を横に振った。「私は親切を受けて、親切を返したからここにいるのよ」と彼女は答えた。「私はパーラ、氏族を助ける者、そしてここが私の居場所なの」疲労の波がパーラを襲い、彼女はマヌルネコに体を預けた。「氏族の戦士として、私は乗騎を要求できる。この子は私のよ。山で私によく従ってくれたし、この子がいなければ成功しなかった。名前は、稲妻よ」
周囲から歓声が上がった。妹が矢のようにパーラに体当たりし、母親と二人で笑いながらパーラの腰に抱きついた。パーラの内にようやく実感が湧いてきた――ここが我が家なのだと。
(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)
Tarkir: Dragonstorm タルキール:龍嵐録
- EPISODE 01 第1話 物語とその骨子
- EPISODE 02 第2話 それは前兆か
- EPISODE 03 サイドストーリー アブザン:不屈の花
- EPISODE 04 第3話 過去が食らうもの
- EPISODE 05 第4話 炎の心臓
- EPISODE 06 サイドストーリー ジェスカイ:知られざる道
- EPISODE 07 第5話 巡りくるもの
- EPISODE 08 第6話 救いなき愛
- EPISODE 09 サイドストーリー スゥルタイ:心変わりと裏切り
- EPISODE 10 第7話 再び
- EPISODE 11 サイドストーリー マルドゥ:稲妻が語る我らの物語
- EPISODE 12 サイドストーリー ティムール:共に生き抜く
OTHER STORY その他のストーリー
-
タルキール:龍嵐録
-
霊気走破
-
ダスクモーン:戦慄の館
-
ブルームバロウ
-
サンダー・ジャンクションの無法者
-
カルロフ邸殺人事件
-
イクサラン:失われし洞窟
-
エルドレインの森
-
機械兵団の進軍:決戦の後に
-
機械兵団の進軍
-
ファイレクシア:完全なる統一
-
兄弟戦争
-
団結のドミナリア
-
ニューカペナの街角
-
神河:輝ける世界
-
イニストラード:真紅の契り
-
イニストラード:真夜中の狩り
-
ストリクスヘイヴン:魔法学院
-
カルドハイム
-
ゼンディカーの夜明け
-
イコリア:巨獣の棲処
-
テーロス還魂記
-
灯争大戦
-
ラヴニカの献身
-
ラヴニカのギルド
-
基本セット2019
-
ドミナリア
-
イクサランの相克
-
Unstable
-
アイコニックマスターズ
-
イクサラン
-
破滅の刻
-
アモンケット
-
霊気紛争
-
統率者2016
-
カラデシュ
-
コンスピラシー:王位争奪
-
異界月
-
エターナルマスターズ
-
イニストラードを覆う影
-
ゲートウォッチの誓い
-
統率者2015
-
戦乱のゼンディカー
-
マジック・オリジン
-
モダンマスターズ2015
-
タルキール龍紀伝
-
運命再編
-
統率者2014
-
タルキール覇王譚
-
基本セット2015
-
コンスピラシー
-
ニクスへの旅
-
神々の軍勢
-
統率者2013
-
テーロス
-
基本セット2014
-
ドラゴンの迷路
-
ギルド門侵犯
-
ラヴニカへの回帰
-
基本セット2013
-
多元宇宙の物語