MAGIC STORY

タルキール:龍嵐録

EPISODE 10

第7話 再び

Cassandra Khaw
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2025年3月17日

 

 肋骨の下で龍の心臓が脈打つのを、サルカン・ヴォルは感じた。湿って震えるその赤い熱はまるで彼の内で燃えているようで、かつ彼を焼き尽くすようだった。無理矢理奪われたひとつの命は、決して大人しく死んだままではいなかった。自らの悲嘆のために犠牲とした不幸な獣は、彼へと叫んでいた。それは夜も昼も嘆いた――彼が奪ったものを、彼の行いを、彼がどのようにそれを切り開いて心臓を生で食らったのかを。無論それが幽霊なのか、自身の罪悪感なのか、サルカンにはわからなかった。結局のところ、そのようなことは問題ではないのだ。

 サルカンが吼えると、灰色の空がそれに応えて波打った。雲の中からさらなる龍たちが現れ、サルカンはそれらの内に崇敬を見た。崇拝を見た。獲物へと導いてもらえる、二度と飢えることはないのだというそれらの信頼を見た。そうせずにはいられないのだ。その龍たちは自分のものなのだ。その事実を、サルカンは腹の中にくすぶる炎と同じほどに知っていた。あの儀式は龍の嵐に対して、そして彼自身に対して何かを起こしたのだった。自身の変身はともかく、龍たちを掌握するとは予想していなかった。だが問題ない。失望させはしない。あの龍たちは自分のものだが、サルカンもまた龍たちのものだった。今までも、これからもずっと。タルキールが再び龍に支配される世界となるために、彼は必要なことをするつもりだった。

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アート:Kai Carpenter


 そして最初にしなければならいのは、あの寺院を破壊すること。

 エルズペスとナーセットに会った時に、もっと注意を払っておくべきだった。あの時知っていたなら、すぐに寺院へと向かい、この惨めな建築物をそっくり破壊していただろう。龍へと変身したことにより、遂に寺院の中から発せられる力に応じることができた――自分が龍を操る力に匹敵する、タルキールでも唯一のもの。だが、まだ手遅れではない。

 こうして完全な身体を取り戻したのだ。もはやかつての残骸ではない。その寺院が消え去れば、自分が耐えてきたことを、弱弱しい人間の姿という屈辱をようやく忘れ始めることができる。残りの生を悪夢とともに過ごすのだとしても構わない。必要ならば、罪悪感の亡霊とともに何世紀をも生きてやろう。この瞬間、この完璧な栄光のためなら、何度でもすべてを破壊し、何千回でも世界を灰塵と帰してやろう。

 この力を奪うことは誰にもできない。二度とできない。


 瞑想領土の残滓があの恐ろしい虚無へと燃え尽きる中、領界路はひとつの星のように輝いていた。おたからは泣き止まなかった。それはジェイスを失ったためなのか、怯えているからなのか、あるいはそれが問題なのかどうかすらナーセットにはわからなかった。大丈夫、おたからに力強くそう言いたかったが、彼女にはできなかった。自分がそんなありきたりの言葉を簡単に口にできる人物であればどんなに良かっただろうか。大丈夫になるのか、それどころかこの先ずっと、大丈夫になることがあるのかどうかもわからなかった。何といってもそこには、足枷を外されて恍惚と高笑いをするボーラスがいるのだ。ボーラスがあの虚空へと立ち上がり、ウギンが飛びかかり、片割れを抑えつけようと試み、失敗する。ボーラスとウギンは明滅しながら存在から消え、あの無に食われ、今や死んだのかもしれない。けれどそれは誰にもわからない。ボーラスは死亡し、ウギンは姿を消したと思っていたが、どちらも真実ではなかったのだから。

 「ナーセットさん、急いで――」エルズペスの声が、未来についての恐怖を切り裂いた。

 鎧を着た手が衣服を包み、彼女を持ち上げ、領界路の入り口へと運んでいくのを感じた。ナーセットはおたからをしっかりと抱きしめ、その毛皮の後頭部を掌で包んだ。すすり泣きでこの子の身体が震えているのが感じられた。入口を越えるのは銀色の水たまりを踏み越えるようで、あるいは海から何もない空へと飛び込むようでもあった。まるで次元渡りのようにも感じ、新しい歌詞でうたわれる古い歌のようでもあったが、何が起こっているのかを把握するよりも早く向こう側に出た。そこはあの寺院の外だった。エルズペスは宙に浮いており、そしてヴラスカもどういうわけか隣にいて、おたからへと両腕を差し出した。ナーセットは無言でその子供を渡したが、何が起こったのかについては今なお混乱していた。一度に理解するにはあまりに多すぎた――あまりに多くの衝撃、事実、考慮すべき異なる未来。大気が肺を焦がした。ボーラスが解放された今、それをゲートウォッチに知らせねばならない。そもそもゲートウォッチはまだ存在するのだろうか? その疑問が意味するところは悲惨だった。そして多元宇宙に広がる龍の嵐という問題もある。ウギンとボーラスが自由になったことで状況は悪化するのだろうか、それとも改善するのだろうか? 彼らの争いでそのすべてが変わるのだろうか? まず何を心配すればいいのだろうか。今起こっていることに集中しなければならない。沈思黙考に没頭するわけにはいかない。優先順位に従って、これらの問題を順番に対処しなければ。混乱は誰の役にも、何の役にも立たない。けれど何もかもが、あまりに混乱しきって、そして空は――

 ナーセットは新鮮な空気を欲した。空が見たかった。その廃墟は、領界路の揺らめく光で照らされていても、墓場のように狭く閉ざされていると感じた。外に出なければ。再び集中し、この荒れ狂う心に平衡を取り戻さなければ。彼女は暗い階段を二段ずつ上っていき、そして不意に何かの壇上に立った。頭上の空は暗く、ナーセットは戸惑った。自分たちがやって来た時は夜だっただろうか? 思い出せなかった。瞑想領土への旅と、その後に起こったすべての出来事により、ナーセットは困惑しきりだった。

 そしてゆっくりと、ひとつの物事への認識が灰のように降りてきた。地平線は数多の龍の翼で黒く染まっていた。今までに見たこともないほど沢山の龍。あまりの多さに、自分たちはまだ瞑想領土にいるのだと心のどこかで確信するほどだった。これもまたひとつの幻視なのだと。

 「何が起こってるんだ?」ヴラスカの声が聞こえた。

 ナーセットが振り返ると、その女性はエルズペスに追いかけられるようにして寺院から出てきた。おたからはその腕の中で身体を丸め、静かに泣いていた。

 「わかりません」ナーセットはかぶりを振った。「これは龍の嵐ではありません。気象条件がおかしいのです。龍がこのような形で集まることは滅多にありません。他に唯一できる説明は――」

 続く言葉は口の中で途切れ、消え去った。

 「サルカン」エルズペスが死面のような顔で言った。「彼がここにいます」

 「サルカンなんてどうでもいいよ!」ヴラスカが怒鳴った。「ジェイスはどうなったんだ?」

 ヴラスカの言葉には気付かない様子で、エルズペスはゆっくりと剣を抜いた。「アジャニがもっと誇張して言ってくれれば良かったのですが。あのドラゴンたちは今にも襲いかかってくるでしょう。逃げるべきですが、すぐに追いつかれると思います。私が引き留めます――」彼女の視線はヴラスカと、その腕の中で震えるおたからへと向けられた。「その子を安全な場所へ連れて行ってください」

 「そうさせてもらうよ」ヴラスカが答えると、彼女とおたからを隠蔽の呪文が包み込んだ。

 「貴女は――」ナーセットへと向き直りながら、エルズペスはそう言いかけた。

 ナーセットはかぶりを振った。「ひとりで対峙することはありません」

 「人々を守るのが私の役割です」エルズペスは優しく言った。その瞳は真珠のような輝きを内から放っていた。「闇に対して先陣を切り、自らの身を守れない人々を守るのが私の義務です」

 「そして私はジェスカイの道師です」ナーセットは同じように、冷静に言った。「タルキールは私の故郷です。それを守るために龍王たちと戦いました。引き続きこの地のために、サルカン・ヴォルと戦うつもりです」

 エルズペスの顔に笑みが浮かんだ。激しくも優しく、その悲嘆の中にいるのは人間そのものだった。

 「自分たちの物語がどのように始まり、どのように終わるかは選べません」ナーセットの両腕と胸に青い光が揺らめいた。「私たちが選べるのは、物語をどう生きるかだけです。ある友人がそう言ってくれました」

 そしてその言葉に、エルズペスの蒼白な顔が思い出で一瞬和らいだ。

 「その通りです」大天使はその言葉とともに、宙へと舞い上がった。


 近づくドラゴンの群れを、その開いた大口と歯、輝く瞳に宿る恐ろしい約束を見て、エルズペスの心のどこかは……怖れた。だが鉤爪が皮膚に食い込むようにその恐怖を押しつけられても、それは問題ではないと彼女は理解していた。人間であった彼女は敬愛した神の前に立ち、そして一度は信頼した神に殺された。人間であった彼女はジェイスの意図を察して彼を剣で突き刺し、爆発しつつあった酒杯を手に取って久遠の闇へと駆けた。あれは痛かった。ああ、痛かったのだ。そこには恐怖があったが、恐怖は彼女が正しいことを成すのを止めなかった。たとえサルカン・ヴォルに殺されるとしても、たとえ嚙み千切る牙と引き裂く爪の大虐殺に終わるとしても、死ぬのは初めてではない。

 「サルカン・ヴォル!」百体ものドラゴンが一斉に挑発の吠え声をあげる、その不協和音の中でエルズペスは叫んだ。彼女の声は挑戦を響かせ、剣を高く掲げるとそれは揺れ動く闇の中に一筋の孤独な光となった。「言いましたよね、もう一度追ってきたなら貴方は死ぬと」

 「エルズペス・ティレル」サルカンは小さく笑いながら答えた。目の前の巨大な獣から発せられるその声は、反響し増幅されているものの、それ以外は人間の時と変わらないというのがとても奇妙だった。「ああ、覚えているとも。俺を脅していたな。言っただろう、多元宇宙のすべてが龍の住処となる。生きたまま龍たちに食べられるがいい」

 それに応えて大天使は掲げていた剣を下ろし、その切先をサルカンへと向けた。

 「貴方がたを怖れはしません」

 サルカンが笑うと、その口には炎が満ちていた。

 「怖れた方がいい」


 自分たちはここで死ぬ、ナーセットはそう思った。一体の龍が翠緑の矢のように迫り、近づき、ついにはその両目に映る自身の姿が見えるほどだった。その悪意ある銅色の両目の中に、彼女の魔法の青い輝きが蝋燭のようにきらめいていた。自分とエルズペスは、この終わりのない猛攻撃の中でいずれ死ぬ。唯一の疑問は、それがいつなのかということだった。驚いたことに、死ぬという考えはほとんど恐怖をもたらさなかった。主に、それは心配で満ちていた――ジェスカイの人々への心配、タルキールへの心配、自分たちがいなくなった後に何が起こるのかという心配。けれど自分たちが生きている限り、戦っている限り、ここで起こっている物事にアブザンの斥候たちが気付く時間はある。手遅れになる前に誰かが何かをする時間はある。一秒一秒が貴重だ。たとえ自分たちの血と肉をもって確保しなければならないとしても。

 高く、もっと高く、エルズペスとサルカンは昇っていった。大天使は彗星のように飛び、あらゆる角度からサルカンを襲ったが、彼女はとても小さかった。サルカンの巨体に対するエルズペスはひとつの燃えさし、明るいひとつの火花に過ぎなかった。今にも集中力が切れ、敵に叩き落とされてしまうのではとナーセットは怖れた。けれどそのようなことを考えてはいけない。今ではない。龍たちが寺院を破壊しようとしている今ではない。鷹のようにそれらは遺跡に飛びかかり、屋根を凹ませ、壁を壊し、建物を引き裂き、古代の石材を小動物の骨のように砕いていった。龍が口を開き、喉の奥の湿った熱が何か辛辣な匂いを放った。だがこの破壊は何のために? ナーセットはわからなかった。

 この個体は毒を吐く――そう思った瞬間、ナーセットの内に別の考えがこだました。この破壊行為には何の意味もない。瞑想領土は消滅した。龍たちが領界路を破壊しようとしているのでなければ……

 あるいは、それに辿り着こうとしているのでなければ。

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アート:Joshua Raphael


 それに気付いてもなお、ナーセットは笑みを浮かべた。跳躍し、龍の息が大気に満ちる中で魔法を用いてそれを両手に集め、上に送り出し、その龍が飛ぶ勢いを誘導して肩から石に激突させた。着地すると彼女は黒い身体の個体を同じように対処したが、この時は背中に赤い棘が鰭のように生えた、家ほどの大きさの鶴に似た龍へと誘導した。死に物狂いの戦いの中に奇妙な平穏があった。少なくとも、これは思い付きの行動ではない。間違いなく自分は死ぬ、けれどまだだ。今ではない。嵐を前にした雀のようにエルズペスがサルカンに立ち向かっているのだから。そしてその認識という静寂の中で、死の瞬間が先延ばしにされていくという確信の中で、ナーセットは失っていたものを見つけた――自身の中心、オジュタイと共にあった頃に知っていた、深く突き通せない静寂。学ぶこと、耳を傾けること、自分の身体と魔法を信頼することだけがあった頃の。そして、不意に、それは世界で最も簡単なこととなった。

 ナーセットは龍の大渦の中で旋回し、一体を回避し、もう一体を嵐の中へと突き返した。驚いた龍の耳障りな悲鳴が届いた。彼女は噛みつく歯を横に避けた。噛みついてきたとすら思えなかった。巨大ゆえに不器用なのだ。いつしかナーセットは喜びに笑っていた。これは長くは続かないだろう。いつか集中力が途切れるだろう。斃れるだろう。けれど今はまだその時ではない。


 アジャニが過去を振り返ると、ひとつの墓地が見えた。自分の怒りと自尊心が殺した人々で埋め尽くされた墓地。一体何度、正しいことや必要なことではなく、優先すべきことを選んできたのだろう? 振り返ってみると、エリシュ・ノーンに飼われていた頃の行動に罪悪感を覚える本当の理由は、ファイレクシアの支配下でとった行動を許せない本当の理由はそれなのかもしれない。自分の意志や判断を欠いていると認識していなかったからではない。世界が実に単純化され、疑念も後悔も打ち砕かれ、目的という堅固なものだけが残ったことに心の一部で安堵していたからだった。何かに服従していることに、確信の内にあることに安心感を抱いていたのだ――眼下の世界がぼやけて駆け抜けていく中、アジャニはそう認めることができた。何と憎むべき自分自身だろうか。

 だが、起こったことを変えられはしない。『過去は死者たちに任せるのです。彼らと一緒にそこに留まる必要はありません』……エルズペスはそう言ってくれた。だが自分は、他に選択肢はないと答えた。今なら認めることができる。悲嘆とともに埋葬されることには、安心感もあったと。前に進むことよりも簡単だと。

 安全だと。

 「あれはナーセット殿でしょうか。あの方は――何と素晴らしい戦士なのでしょうか、アジャニ。ジェスカイについては色々言いましたが、撤回します。彼らは極めて目覚ましい人々です。ナーセット殿が龍たちを食い止めています。ご覧なさい、あの方は――まずい、あれが見えているのかどうか。私たちも間に合うかどうか!」フェロザーは周囲でうなる風に負けじと怒鳴った。その声には滅多にない狂乱があった。彼女はカンではなく兵士の正装を再びまとい、慣れた手つきでドラゴンの手綱を握っていた。

 アジャニは眼下の光景を見下ろし、フェロザーの叫びの意味をはっきりと理解した。ナーセットは石の演壇に立ち、四方八方をドラゴンに囲まれていた。油泥の怪物が階段を昇って迫りつつあるが、彼女の角度からは見えない。そのぎらつく姿は視界から消えつつあった。ドラゴンの背に乗っていたとしても、不意討ちを阻止するには間に合うわけもない。友のひとりが死ぬ様子をただ見ているしかないのだろうか?

 それとも、何かをすることを選ぶか。

 その選択肢の単純さ、その簡単な真実にアジャニは笑いそうになった。そう、ただ、何かをすると選べばいいのだ。自分の足で立ち、生き続けている限り、この力を持ち続けるだろう。ただ要求すればいいのだ――生きることを、これまでは怖れて手を伸ばせなかった機会を掴むことを、簡単には倒れないと信じることを。そして倒れても、再び立ち上がればいい。人生とは生者のためのもの。今必要なのは、これまでずっとやってきたこと、つまり信念とともに飛び込むことだけ。

 「掴まりなさい、アジャニ。降下します――何をしているのですか?」

 そして、彼は文字通りにそうした。


 ほんの一瞬、ナーセットはエルズペスが斃れたと思った。嵐に食われた空に白い猛火が燃える様を見て、彼女の心は砕かれた。だが、見えた白色は羽根ではなかった。それは毛皮であり、宙を切り裂く光は天上の存在の死を告げるものではなく、アジャニが頭上高くに掲げた斧だった。ナーセットには見えない太陽が、その鋼にきらめいていたのだ。幻覚を見ているのではと考える余裕はなかった。アジャニが飛び降りてきたとわかった次の瞬間、宙から一体の生き物が姿を現した。膿と煙を滴らせ、白い歯だけがはっきりと見えていた。それは顎を突き出して噛みついてきたが、不意に筋肉が緩んでいなければその間に囚われていただろう。頭部が石の床に転がり、その目から光が消えた。そして頭を失った首の上にアジャニが立っていた。死体の傷口からは奇妙な黒い液体が滴り落ちていた。

 「どうやって――アジャニさん、まさか私たちを探して来たのですか」彼の姿を見たナーセットの喜びは、だが立ち消えた。「ですが、ここにいてはいけません。行ってください。私たち三人では足りません」

 「私たち三人だけではない」

 その言葉とともにアブザン氏族の龍たちが嵐の中から現れ、サルカンの群れへと襲いかかった。


 すんでのところだった。捉えられたと思った瞬間、エルズペスは身をかわした。サルカンの爪が翼の羽根を引き裂いたのを感じた。大天使は剣の柄頭を握り直した。サルカンは物憂げで、嬉しそうでさえあった。まるで、翼の折れた雀がもう死んでいると気付かずに遊ぶ猫のような。

 だがそれは問題ではない。

 ここでの自分の役割は勝つことではない。時間を稼ぐためにここにいるのだ。

 必要のないはずの深呼吸をひとつして、エルズペスは自分が疲れていると気付き驚いた。傷や痛み、人間らしさ、信じられないほどの弱さを感じること……それがどのようなものか、忘れてしまったと思っていた。

 「剣を捨てろ、そうすれば痛まないようにしてやろう。エルズペスよ」

 大天使は歯を食いしばってサルカンへと突進した。ぼんやりと、これが最後の抵抗であると悟っていた。もし自分の魂が再び久遠の闇に落ちたとしても、セラは優しくしてくれるだろうか? この力を上手く活用できるほど長く生き延びられなかったことを、あまり失望せずにいてくれるだろうか?

 少なくとも、片目くらいは奪う。エルズペスはそう決意した。そうすればナーセットや他の者たちに多少の優位を与えてやれるだろう。もしかしたらそれで彼らは生き残ることができるかもしれない。

 エルズペスは敬礼のように剣を持ち上げ、息を吸い込んだ。心の内なる嵐は静まった。彼女はサルカンの喉の奥に燃え盛るマグマを見つめ、再びあの酒杯を思った。それがどのように燃え、その爆破で自分自身がどのように砕け散り、虚無へと消えていったかを。エルズペスは翼を背中に畳み、ひとつの石のように空を急降下していった。サルカンがそれを丸呑みにしようと大口を開けた時、驚いたことに、彼女が感じたのは安堵だった。

 そして――

 「サルカン・ヴォル、私の友よ、どうか聞いてくれ。お願いだ」


 アジャニはかつて、カラスについての物語をひとつ聞いたことがある。彼らは、特に繁殖期には、巣の近くにやって来る鷹を襲うために集まるのだと。言うまでもなく、一対一ではカラスは自身より大きな捕食者から逃げる以外に手段はない。だが集えば有利となる。サルカンを変化させた魔法が何であれ、それは野生のドラゴンたちにも影響を与えていた。彼らはアジャニがこれまで見たどのドラゴンよりも大きく、強くなっていた。だがアブザンのドラゴンとその乗り手は、一体の獣のように一心同体で戦っていた。これまでにも見てきたもの、倒してきたものであるように戦っていた。何と言っても、彼らは氏族の祖先から何世紀にも渡って受け継がれてきた知識を活用できるのだ。ならば、勝てるかもしれない。

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アート:Joshua Raphael

 ただしそれは、野生のドラゴンの数が増えるのを止めた場合の話だ。ドラゴンたちは目の前で次から次へと雲から現れ、見たこともないほどの速度で増えていった。そしてそれらの顔は、ドラゴンというよりは悪夢から這い出てきたもののようだった。

 「サルカンを止めなければ」アジャニは言った。「彼がドラゴンを呼んでいる。彼さえ説得できれば――」

 ナーセットが彼を見た。彼女がまたがるドラゴンはジェスカイ氏族のドラゴンのほとんどよりも大型で、ナーセットが慣れているものよりもずんぐりとしていたが、彼女の不器用な手綱さばきにも動じていないようだった。彼女にそのドラゴンを連れてきたのはフェロザーその人だった。「私たちの最高の、かわいらしい友です。きっとこの経験は気に入りますよ。ジェスカイの龍をけなすつもりはありませんが、私たちの方が間違いなくしっかりしていますからね」誇らしい笑みでフェロザーは陽気にそう言うと、ナーセットが何か言い返す前に自身の龍の背中に飛び乗って離れていったのだった。

 「もはや話で解決できるような状態ではないと思います」ナーセットは言った。

 「エルズペスと君が私と話そうとしてくれなかったら、今私はきっとここにはいなかった」

 「それとこれとは別です」

 「何にせよ、試してみなければ」アジャニは自身のドラゴンを進ませ、ナーセットの反論が届かないよう離れた。彼女の言う通りだとはわかっていた。それとこれとは違う。だがアジャニの灯が点火した時に見つけ出してくれたのはサルカンであり、彼なりの荒っぽい流儀で親切にしてくれたのだった。その必要などないにもかかわらず、ドラゴンのカーサスから救ってくれたのだった。当時自分たちは他人同士だったが、それでも優しくしてくれた。憤怒と悲嘆にはそれぞれ相応しい場所があり、正しく扱う必要がある。覚醒したばかりのプレインズウォーカーにそう諭してくれたのはサルカンだった。サルカンの内には思いやりがある。アジャニはそれを知っていた。

 その思いやりはまだ、そこにあるはずだ。

 そして、複数の物事が同時に起こった――

 アジャニの吠え声。「サルカン・ヴォル、私の友よ、どうか聞いてくれ。お願いだ」

 一筋の彗星、いや、エルズペス? サルカンに向かって、その口に向かって、その歯の間に向かって、眩しい金色の光が勢いよく落ちていく。

 そしてサルカンが、それに食らいつく。

 「サルカン、こんなものは君ではない」声に狼狽を込めないよう、アジャニは必死にこらえた。彼はその光景から目を離すことができなかった。エルズペスの姿がサルカンの顎に捕えられていた。鎧をまとう手がドラゴンの口蓋を押し上げ、耐えていた。

 アジャニの言葉に、そのドラゴンは逡巡した。

 「こんなものは君ではない」アジャニは、今度はより優しく、両腕を広げて言った。「お願いだ。私は君のことを知っている。こんなものは真の君ではない」

 「お前の、ことは、覚えている」サルカンはぎこちなく声を響かせた。

 「私も、君が何者だったかを覚えている。信義を重んじる人物だったことを覚えている。君は――」

 「サルカン、嵐の絆の儀式を用いたのですね?」不意にナーセットが言った。その声は比較的静かではあったが、怒りをもって響いた。「誰かがあなたに教えたのですね。テイガムですか? 儀式をそこまで堕落させるには、何かおぞましい犠牲を捧げたのでしょう。サルカン、何をしたのですか? あの呪文を堕落させるために、自分自身の何を切り取ったのですか? 私たちは命を捧げました。あなたは誰の命を捧げたのですか?」

 サルカンの表情に何かがちらつき、それが何であるかを理解するまでにアジャニは一瞬を要した――羞恥。その隙にエルズペスは彼の口から転がり出るように抜け出し、どこかぼんやりとした様子で翼を羽ばたかせながら宙を落ちていった。

 「お前は、のうのうと生きていながら、俺を裁けるとでも思っているのか」サルカンはうめいた。

 「そうではない――」エルズペスの不器用な落下を見つめながら、アジャニはかぶりを振った。彼はナーセットへと向き直った。「私はサルカンを知っている。彼の内には善き人物がいる。それだけではなく、サルカンには他者の手駒とされた過去がある。彼は二度とそのようなことを許さないだろう」

 「そうだとしたら、私たちが知っているのは全く違う人物ですね」ナーセットはひどく空ろな声で言った。「私の知っているサルカンは、妄想のためにあらゆる次元を破壊するでしょう」

 「妄想だと?」低く厚く、静かな声でサルカンは言った。アジャニが彼から引き出しかけた人間性は今や消し去られていた。その心臓があるべき場所で燃える、暗黒の炎によって。「違う、違う、違う! そんなものとは程遠い。俺は多元宇宙に仕返しをしてやりたいのだ。炎で洗い流してやりたいのだ。俺のすべてを、俺が愛したすべてを奪い取った多元宇宙に! 俺は今やそれを取り戻した、だから二度と奪われないようにしてやろう。必要とあらば、何度でもすべてを破壊してやろう。まずは、あの女からだ」

 サルカンは向きを変え、その身体の大きさにあるまじき速度でエルズペスをめがけて飛んでいった。


 アジャニは乗騎を急がせた。十分に速ければ、エルズペスを捕まえられるだろう。急がなければ。もっと速くなければ。再び彼女を失うわけにはいかない。エルズペスの死をもう一度見るつもりはない。


 ナーセットは友人たちを見た――そう、友人たち。今やそう呼べるだろう。そして何が危険にさらされているかを即座に理解した。愛する人々を沢山失ってきた。これ以上失うつもりはない。身振りひとつでナーセットは魔法を唱え、アジャニとエルズペスを包み込んだ。一方には速さを、もう一方には護りを。


 あらゆる物語、あらゆる命は、その長さや輝きに関わらず、ひとつの場所で終わりを迎える。神々ですら死ぬ。世界ですら終わる。重要なのは、その間に何が起こり、それぞれの命が後に何を残したか。


 ――捕まえた。

 アジャニは両腕を大天使に回し、胸へと抱き寄せた。その間に彼のドラゴンは素早く旋回してサルカンの口から離れ、一瞬前までふたりがいた空間を炎の波が満たした。

 捕まえた。間に合った。エルズペスは無事で、彼の腕の中でひとつの星のように輝いていた。煙に巻かれたような表情で、無事で、生きている。エルズペスは、生きている。

 笑い声にも、すすり泣きにも聞こえるような声でエルズペスが尋ねた。「かつての私の死を埋め合わせに来たのですか?」

 「違う」アジャニは斧を構え、獰猛な笑みを浮かべた。「この今を、君と共に戦うために」


 シィコが傍にいてくれれば、とナーセットは思った。あるいはフェロザーの精霊龍の姿を乱闘の中に見ることができれば。だが、彼らは別のどこかにいる方がいい。自分とアブザンのカンが死んだとしても、少なくとも誰かが民を守ってくれるだろう。アブザンの龍たちは心臓が破裂せんとばかりに獰猛に戦い、野生の龍を追い返していった。そして一瞬、ナーセットは希望を抱いた。

 だがそして、その一体が敵の二体によって羊皮紙のように引きちぎられ、乗り手は一口で飲み込まれた。翼を酸に腐食され、アブザンの龍がもう一体空を落下した。そしてもう一体、また一体と石のように。それらとともにナーセットの楽観も潰えた。けれど自分たちは勝つために戦っていたのではない。時間を稼ぐために戦っていたのだ。サルカンを殺すか追い払うかしていれば勝機はあったのかもしれないが、サルカンは彼女たちの奮闘をものともしていないようだった。

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アート:Camille Alquier


 六体。八体。十二体が死んだ。犠牲の数は増え、野生の龍たちは自分たちが優位だと気付いて態度を変えていた。彼らはもはやナーセットの仲間を警戒しているようには見えなかった。それどころか、今や彼らの戦い方には喜びがあった。ナーセットをぞわりとさせる遊び心があった。

 「彼の目です」アジャニとナーセットの間を飛びながらエルズペスが言った。三人はたった今、口だけでできたような野生の龍からひとりの若い龍乗りを救ったところだった。「私たちがそれぞれサルカンの目をひとつずつ狙えば、視力を奪うことができるかもしれません――」

 言外の意味がひとつ。代わりに、ひとりは犠牲となる。

 「何もないよりはましだ」アジャニが言った。「私が先導しよう」

 「私ができます」ナーセットも言った。「私の方が、彼の動き方をしっかり見極められます」

 ふたりは視線を交わし、そして小さく頷いた。

 「君が行ってくれ。私たちは後に続く」

 今の統治状態を維持する方法について、ジェスカイに残していた指示は十分だっただろうか? ナーセットはそう願った。最初の数か月は混乱するかもしれないが、自分が亡くなっても彼らは生き延びるだろう。タルキールが生き延びると仮定して。多元宇宙がまだここにあると仮定して――ナーセットはその考えを押しのけた。龍の嵐は今も更なる怪物を生み出している。その一体ごとが前よりも奇妙な、大きな姿で。これらはまもなく空を、大地を、その牙が届くすべてのものを飲み込んでしまうのだろう。そうなるのだろう――サルカンが再び挑戦の咆哮をあげ、ナーセットはそう悟った。誰もが、そしてすべての龍が彼を見つめた。サルカンが執り行った儀式が、どういうわけか龍たちを彼に縛り付けているのだ。絶対的な支配。今何かをしなければ、手遅れになってしまう。

 集中するのだ。まるで冬の思い出のように、オジュタイの声が心をよぎった。

 「ところで、嫌なら付き合わなくてもいいのですよ」一瞬の後、ナーセットは乗騎の喉の脇を軽く叩きながら言った。「逃げてもいいのですよ」

 その龍は鼻で笑って答えた。「そんなことをしたら、先祖に会った時にいつまでも言われ続けるだろうな」

 さあ、その時が来た。

 「用意はいいですか?」ナーセットは尋ねた。

 「はい」エルズペスが答えた。

 「いつでもいい」アジャニも。

 そして彼女は――


 そこまでだ。

 ウギンの声が大気に反響した。音というよりは感覚、骨を波打たせて伝わる地震のような力だった。その命令を直接向けられたわけではなかったが、それでもナーセットはひるんだ。その精霊龍は大気をガラスのように粉々に砕いてタルキールに入り、野生の龍たちは恐怖の悲鳴をあげながらただ逃げ去った。ウギンは血まみれで消耗しており、背を曲げたその輪郭には敗北が刻まれていた。今のような状況でなければ、ナーセットの内に生まれたのはウギンに崇拝を捧げたいという衝動だけだっただろう。だが、ウギンのそのような姿に彼女は恐怖を覚えた。

 ボーラスはどうなったのだろうか?

 「断る!」サルカンは吼え、羽ばたいてウギンに近づいた。もし怒りで相手を殺せるのであれば、ウギンの心臓はその巨大な胸の中で止まっていただろう。「お前からの苦しみはもう沢山だ! お前など――」

 そこまでだ。ウギンは繰り返し、ゆっくりとサルカンに向き直った。ウギンにはサルカンにはない堅固さが、実体感があった。明瞭なのはウギンだけで、他のすべてはぼやけた映像であるかのようだった。

 「お前に屈服はしない!」サルカンはそう叫ぶと深く息を吸い込み、火の奔流を放った。

 だがウギンにとっては、そのような炎は冷水も同然だった。精霊龍はサルカンを見つめたが、ナーセットはそこに浮かぶ悲しみを完全に読み解くことはできなかった。こちらが顔をそむけたくなるほどの後悔、ウギンだけが背負うのであろう羞恥。ウギンは巨大な口を開いた。そして吐き出された幽霊火には色も熱もなかったが、サルカンはそれに包み込まれて悲鳴をあげた。宙で暴れ苦しむ彼をナーセットはただ見ていることしかできなかった。その炎からは逃れられず、鱗は焼け落ちて桃色の筋肉が露出し、それもまた黒く焦げた。咆哮ひとつとともにサルカンは嵐の中へ飛び込み、そして、終わった。

 すべてが終わった。

 全く。我が目が届かないとなれば、龍の嵐は子供のように我儘に振舞う。ウギンは小さな、疲れた笑い声とともに言った。我は躾を怠っていたようだ。

 「ウギン様」ナーセットは声を詰まらせた。「私は――」

 そして我は、片割れを見失った。恐らく、ニコル・ボーラスは解き放たれた。


 初めに、それは無だった。そしてその無へと水の一滴が落ち、そしてまた一滴、また一滴と続き、遂にはその無の上に、傷ひとつない銀の水盤が現れた。見ている者がいたなら、水に映るものが、水面下にひとつの形が動く様子がわかっただろう。まるで、同じく特徴のない世界への窓を覗き込んでいるかのように。そしてひとつの姿が定まってきた。青い外套をまとう輪郭が。



(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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