MAGIC STORY

タルキール:龍嵐録

EPISODE 03

サイドストーリー アブザン:不屈の花

Rhiannon Rasmussen
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2025年3月3日

 

 メトマの生徒七名は列をなしてひとりずつ地下の洞窟へと入っていき、師の視線に背筋を伸ばした。そのうち三名はクルーマ、メトマと同じくメヴァク家に養子として迎えられた孤児たちである。メトマは次に告げる発言の重要性を強調するため、もったいぶって咳払いをした。

 「これは皆さんが仲間たちとの一生の思い出として共有することになるであろう、秘密の時間です。ここで話されることは、この七名の皆さんだけのものです。この先ずっと、お互いに助け合わなければなりません。よろしいですか?」

 「ご先祖様に会えるの?」小さなロクソドンのエンティが甲高い声を上げた。

 オークの若者ゴールは侮蔑を込めて静かに息を吐き捨てた。

 メトマは首を横に振った。「私たちの尊き祖先はまだ樹に現れてはいません」

 ゴールはいきなりわめき立てた。「俺たちの族樹は、アナフェンザ様の秘密の木立から挿し木を持ち込んでたった二年だ! もうみっつの家系から最初の挿し木っていう栄誉を申し込まれたけど、全部断ってきてるんだぞ」

 その熱意は喜ばしいものだった。メトマはそれ以上の激発を未然に防ぐために手を挙げて制し、続ける。「そうです。祖先が現れていない若い樹から枝を取ると、その樹はすっかり枯れてしまいます。ですから、私たちの樹から祖先が顕現するまでは、全員でかわるがわるその成長を世話するのです。族樹は私たちの家の強さを表します。私たちは根と枝のように結ばれているのです。お互いの繋がりが私たちを強くするのです」

 「今日、族樹は皆さんを、成人としての栄誉と責任をもつ者として家に迎え入れます。これからは約束の言葉を知っていれば、この部屋に戻ってきて安息や助言を求めたり、樹のお世話やメヴァク家の心との交信を行うことができます。よく聞くのですよ」

 メトマは掛け金に手を押し当て、みっつの単語を口にした。手のひらに振動が流れた。鍵の魔法の脈動は消え、掛け金がその姿を現した。メトマはその温かな青銅を掴み、カチリという音を立てて押し下げ、中へと進んだ。若者たちが厳粛な眼差しで後を追う。メトマは若者たちが樹の元でぐずぐずしないようにと願った。朝のコーヒーが飲みたくてたまらないのだ。

 カトロスのカルスト下層のすべてがそうであるように、この部屋もまた有能な地象師によって岩から形成されていた。その空間は監視塔と同等の高さがあり、木立の下には地域の家系全員が集合できるほどだ。周囲の壁は活力を与える光で輝いていた。循環の呪文によって空気が動き続け、崖の表面にまで達する精巧に刻まれた換気坑を通してそよ風が吹き抜ける。壁沿いには無人の長椅子が並べられていた。

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アート:Forrest Imel

 わずか二年前、この族樹は脆弱な若木に過ぎなかった。今やメトマの身長の二倍にまで成長している。やや貧しい樹冠は、日光ではなくメヴァク家の信仰と忠誠によって育まれた若葉で艶めいていた。しかし蕾の気配はなかった――祖先がこの神聖なる樹を花開かせ、黄金の霊花が咲き誇る気配は。

 この神聖な部屋には、常に家の構成員がひとり詰めている。今朝は、管理人補佐のセミルが樹の向こう側を掃除していた。彼は背が高く細身で、髪は黒く、顎髭は整えられていた。メトマと同じクルーマで、数年前にメヴァクへと連れてこられたのだ。

 彼はいつでも温和で事務的で、いてもいなくても変わらないような存在だった。野心など全くなく、この地から一歩も出ることがなかった。自分とは全く違う! メトマは名声を博し、アブザンの栄光すべてを目にし、カンであるフェロザーに尽くすつもりだった。

 だが今は包囲が続く中で、子供たちの教育に追われている。

 一団が整列する中、彼女はもう一度ため息をこらえた。今週の郵送物はもう届いているはずだ。おそらく、兵站隊長への任命願いを認めるというカンからの公式文書がようやく。あの尊大で大口ばかり叩くジャルジス大尉より、自分のほうがはるかに適任だ。アガーチ家には、族樹すらないのだから!

 彼女は目の前の儀式に考えを戻そうとした。メトマの頷きに応え、若者たちはみな跪いて手のひらを樹の幹へと押し当てた。しばらくすると、樹は目に見えない方法で若者たちの存在を承認し、皆は「おお」と驚きの声を小さく漏らした。儀式とその重々しい存在感はいつも彼女の混乱した考えを落ち着かせてくれる。

 儀式は終了し、メトマは若者たちを部屋から連れ出した。その背後で扉は閉まり、掛け金を吸い込んで、どのような手段をもってしても開けられない滑らかな表面が残った。

 「さあ行きなさい」と彼女は言った。「厨房が待っていますよ」


 メトマは執務室に入った。小さな部屋に置かれた家具はわずかだ。椅子、机、本棚、戸棚、そして収納箱がひとつだけ。壁は剥き出しの岩のままだった。彼女の唯一の贅沢は、満開の花を咲かせた族樹の精巧な彫刻が施された入り口の扉そのものだった。そして隅には、彼女が触れることで解除される魔法の鍵が掛かった鎧戸棚がひとつ。メトマはいつかきっとカンからの召集があるはずだと考え、自分の装備を磨きあげて油を差し、毎日欠かさず点検していた。彼女が求めていたのはそれだけだったが、それでも返答はなかった。

 メトマは本を脇へと寄せ、また次の手紙を書き始めた。

 部屋の外からの物音が訪れる者を知らせた。ロクソドンの補佐官ヴァウティが、盆に乗せた朝のコーヒーを届けようと扉を開けた。かつてヴァウティはポットいっぱいのコーヒーを運んできていた。しかし今は配給制となり、一日に一杯へと減らされてしまっていた。それでもその香りは良く、楽しみでもあった。そのためメトマの機嫌はどうにか保たれていた。

 ヴァウティが耳をはためかせながら盆を机の上に置き、小さな杯の蓋を外すまでは。

 メトマは愕然とし、真っ黒な液体をじっと見た。「クリームは?」

 ヴァウティは長い鼻に皺を寄せた。「我々の厩舎が民兵に封鎖されまして」

 「何のために? 私たちの馬は何か月も前に包囲を理由に徴発されたでしょう」

 「それが、馬を奪いに来たわけではないようで」

 「牛のために? 私の牛を狙って?」メトマは勢いよく立ち上がって部屋から出ていった。そのまま交差する通路を足早に通り抜けて、工房と厩舎へと続く通路に向かう。ヴァウティはコーヒーの盆を持ったまま追いかけた。まるで朝の一杯を飲まなければ上官は爆発してしまう、それを怖れているかのように。もちろんメトマはクリーム入りのコーヒーが大好きだったが、彼女の奥底に火をつけたのはそれだけが理由ではない。刺激臭のする厩舎に突入したところで、完全装備のアブザンの戦士五、六人が二頭の雌牛と一歳の子牛を捕えているところを、そしてその横にいた得意げな表情のジャルジスを見つけたからだ。彼の鎧は磨き上げられ、汚れひとつ付いていなかった。その胸当てを飾る祖先の目はきらきらと輝くかのようだ。きちんと執務室で嘆願書に記入すればいいのに、なぜこの壁の中で危険を冒そうとするのだろうか?

 彼女が詰め寄って来るのを、ジャルジスは満足げな笑みで待ち受けた。

 「おお、メトマ中尉。久しぶりじゃないか。会うのはいったい、ふむ、いつぶりだ? お前が俺の臨時兵站隊長の座を奪おうとしてきたとき以来か? その気性の荒さじゃあ誰にも好かれないよな」

 「私の牛をどうするつもりですか?」メトマは問い詰める。

 ジャルジスの笑みは、些細な勝利に広がった。「評議会からもらった権限で未報告の牛を徴発してるだけさ」

 「私は牛を管理収容し、飼育する許可を得ています。去年カンの宮廷から戻ってきたときに評議会に申請済みです。牛はカンその人からの賜り物です!」

 「そうかい? そんな許可証は見たことないし、執務室にも書類はなかったぜ」

 「もしないなら、誰かが持ち去ったのです」

 「そりゃあやっちゃいけないことだな」彼は挑発するように、あざけりを含んだ笑みを広げた。もちろん、許可証の違法窃盗に関する調査を要請できるのは――あるいは拒否できるのは――ジャルジスの権限だ。

 メトマはすぐにでも彼を殴りたい気持ちでいっぱいで、ジャルジスもそれを理解していた。しかし彼の両脇には、包囲に耐え続けて擦り切れた鎧を身に着け、険しい表情で不機嫌そうにしているアブザン民兵が何人もいる。もしかすると牛がいるという贅沢を彼らは気に入らないのかもしれない。

 「さて、失礼するよ、他に用事があるもんでね」彼はメトマを押しのけて去って行った。


 広い地下の傾斜路をメトマとヴァウティは一緒に登り、そのまま都市の奥へと向かった。カトロスのカルストは堅牢かつ驚嘆すべき石彫刻の都市であり、難民が身を隠す質素な洞窟から始まった壮大な避難所でもあるが、ここでも包囲の跡は見られた。メトマは布で仕切られた緊急避難所を通り過ぎる。そのアーチ道は街の上方にある果樹園から取り寄せた木材で補修されていた。当の果樹園は投石器の直撃を食らって破壊され、血痕は完全には洗い流されていなかった。包囲が始まる前、柱が並ぶ大広間は食べ物の屋台、コーヒーや紅茶、香草や香辛料、飾り帯、豪華な絨毯、詩や哀歌の本、砂漠産の水晶、龍の嵐製のガラス製品等、こまごまとした贅沢品を取り扱う露店が並んでいた。しかし今は兵站隊長の命令により、露店での商いは禁止されている。あらゆる物資や労働はジャルジスの部署を通されることになっているのだ。空っぽの露店は彼の得意げな顔の象徴と言ったところか。

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アート:Volkan Baga

 「昨夜、スゥルタイの屍術は闘技場区域にまで達しまして」とヴァウティは言った。「二名が死亡、十一名が被害を受けています」

 「今朝の報告書にはその襲撃について記載されていませんでしたね」メトマは顔を上げ、ひび割れて修復された大理石のアーチを見上げた。「情報不足は家族を混乱させ、配置の空白を招きます! 士気は下がっています。食料も不足しています。あとどれくらい持ちますか?」

 ヴァウティは弱々しく悲し気な声を漏らすことしかできなかった。龍の嵐から都市を守るには魔道士がまるで足りておらず、敵の牽制攻撃に対してはなおさらだ。スゥルタイの屍術師たちは要求と有毒呪文、その両方を突き付けてきた。こんな争いはおかしなことだとメトマはいつも思っていた。解決できない本当の原因は、龍によって支配域として定められていた崖が宝石や塩を豊富に産出するため、その採掘権をスゥルタイが要求して来ているところにある。彼女が反乱軍として戦っていたとき、それはドロモカの群れとの戦いだった。自由のための戦いは正当だった。清廉だった。噂、秘密、そして強欲に妨げられるようなことはなかった。

 評議会の大広間が正面に広がっている。かつて大学だった場所は今や病棟となり、人々がひっきりなしに歩き、足を引きずり、あるいは担がれて出入りしていた。左側では新しい市場の入り口が縄で囲われ、すべての取引はあの悪賢いジャルジスが率いる兵站事業部によって厳しく管理されているという内容の看板が掲げられていた。人々は整然と列に並び、支援を待っていた。だがメトマが列に近寄ったその時、静かなざわめきは床が震え壁が揺れるほどのすさまじい衝撃音に飲み込まれた。メトマはよろめき片膝をついた。壁を照らす輝かしい琥珀色の網目模様が、まるでそれを成す魔法そのものが損傷したかのように点滅していた。

 メトマは扉に駆け寄り勢いよく開け放つと、舞い上がる埃と砂粒を顔面に浴びせられた。巨大な石が事務室の壁を突き抜けて、三台の机を潰していた。役人三名は全員死亡しており、投石が最初に着弾した場所にいたひとりは今や血と肉の染みと化していた。着弾点の隣に座っていた役人は、岩が砕けた際に飛び散ったいくつもの破片に刺し貫かれていた。三人目は投げ出されたように手足を広げて倒れており、外傷は見当たらない。しかしメトマが彼女の横に跪いて脈を調べてみると、その役人は死んでいた。魔法が消えゆく際のかすかなもやが、石に呪文がかけられていてその威力を強化していたことを示唆していた。

 メトマは扉まで走って戻り、その入り口で立ち止まって広場を見回した。難民たちが野営を許可されていた古市場は厚い粉塵の層に覆われ、頭上の崩れた屋根から槍のように貫き通す陽光で明るく照らされていた。その集中砲撃は何年もかけて編み込まれた防御魔法をついに破り、都市の天井を突き抜けたのだった。人々は慌てふためき、泣き叫び、助けを求めて大声を上げていた。梁は崩れ落ち、避難所は倒壊し、放棄されていた市場の露店は続けざまの激しい砲撃に壊滅していた。

 ヴァウティとメトマは負傷者の方へと走った。十歩も進まないうちに、折れた腕を押さえた男が二人の前によろめきながら現れた。「お願いだ、中尉さん。みんなが瓦礫の下敷きに。助けてくれ」

 彼女は振り返ってみたが、助けに向かおうとする都市警備員や兵站担当官の姿は広場のどこにも見当たらなかった。おそらくジャルジスは難民のことなど気にしてもいないのだろう。彼は、資源の浪費になるため難民を都市内へと受け入れるべきではないと主張したのではないか? この襲撃に対して牛や礼節が何の役に立つというのだろうか?

 「そこに案内してください」と彼女は言った。男はかつて市場の路地だった道を先導し、一行は市場の端の屋台へとたどり着いた。巨大な梁が瓦礫の隙間に刺さっており、数人がそれを引き抜こうとしていた。

 「どなたが閉じ込められているのですか?」メトマは近づきながら尋ねた。

 傍観者の一人が三人の名前を挙げたが、彼女が聞き取れたのはゴールという名だけだった。自分の生徒の? まさか。「梁を引っ張っては駄目です。建物がさらに崩れてしまいます。持ち上げなければ」

 「持ち上げるのに時間をかけていたらみな死んでしまいます」と誰かが言った。

 「静かに!」メトマは跪き、梁がどのように落ちて地面に打ち込まれたかを調べた。他の者たちに身振りで合図する。「ヴァウティ兵卒の手助けをして下さい。その気がないなら下がって。あなたとあなた、そこに立って。この梁の端を手のひらの幅ほど持ち上げられたなら、てこの原理を用いて安定させられます」ヴァウティはすでに壊れた柱を持ち上げようとしていた。瓦礫はてこの支点として問題なく利用できる。メトマは傍観者たちに、ぐずぐずしないで位置に着くよう指示した。彼女の合図で全員が力を込めたが、梁は大きくきしむ音を出すばかりでほとんど動かなかった。彼女も参加し、粉塵の中で咳をこらえた。腕は焼けるように熱かったが、その分の効果はあった。

 「ヴァウティ! 今です!」

 ロクソドンは柱を奥へと押し込み、先ほどの負傷した男も巨大な梁を持ち上げるのを手伝った。梁が動き、砂埃が降り注いだ。メトマは腹ばいになり、中の暗い空間を覗き込んだ。ぼんやりと三人の姿が浮かぶ。時間を無駄にはできない。梁は頭上で危なっかしく固定されずにいたが、彼女は身をよじりながら中へと入る。家財道具の破片が腹に引っかかるのを感じた。空気はよどんで苦しい。砂で息が詰まる。「ゴール! 聞こえますか?」

 人影のひとつが身じろぎをした。全員が若者だったが、ほかの二人は見覚えが無かった。そのうちの一人は足があらぬ方向へと折れ曲がっていた。

 「メトマ姉?」

 「這ってこられますか? ほかの二人をこちらまで引っ張って!」

 ゴールは一人の手首をつかんで、這って進んできた。恐ろしい、裂けるようなきしむ音と共に梁が動き、一筋の光が差した。ゴールの冷静な顔には血が飛び散っていたが、表面的な傷だけで済むことを願う。頭という立場は常に血という犠牲を払うものだ。ヴァウティはあの巨大な梁をどれだけ長く支えていられるだろうか? メトマは隙間の中へと慎重に転がり込み、奥に回り込んだ。残された若者の腰に腕を回して引っ張る。しっかりと掴むのは難しかったが、ゆっくりと出口の方に戻っていく。

 ヴァウティが荒々しい声をひとつ発した。もうあまり長くはもたないということ。尻込みしてはいられない。「ゴール、出られそう?」

 「俺は大丈夫、でも――」

 きしむ音がメトマに警告する。彼女は決心を固めた。若者を胸に抱えて持ち上げ、そのまま兜で頭突きをするように突進し、ついに梁の向こう側の光の中へと飛び出して、その勢いで無様に手足をもつれさせながら路地へと転がり出た。ヴァウティが吼え、梁は重々しい音を立てて落ちた。

 ゴールは友人の隣に座り、角のある額に手を押し当てた。メトマが運び出した少年は息があるようだった。

 「ゴール、無事ですか?」

 「はい、先生」ゴールは青ざめながらもしっかりと返答した。

 「よろしい。他の子たちの面倒をみているように」

 メトマは立ち上がり、鎧の汚れを払い落として、脚や腕を痛めたりひねったりしていないか確認していると、この古市場で絶対に見るはずのないものが目に飛び込んできた。遠くで彼女の牛たちが、差し込む陽光の中を過ぎていった。それを率いるのは――セミル。

 「ご先祖様、姉さんの無事を感謝します」ヴァウティが彼女のそばへとやってきた。

 「私の牛が!」メトマは手を振り叫んだ。

 「え?」ヴァウティは驚きつつもあたりを見回したが、牛もセミルも消えていた。

 「こちらです!」

 ヴァウティは反論せず、駆け出したメトマをただ追いかけた。メトマは膝の痛みを覚えたが、そんなことを気にしている暇があるだろうか? なぜセミルが?

 混乱し怯えている難民たちの集団を迂回しなければならなかったが、ようやく司祭たちが中心アーチ道をくぐって到着し始めた。メトマはちらりと振り返ったが、兵站部隊の装備を身に着けた者は誰もいなかった。ジャルジスの部下たちが最初に到着すべきだろうに!

 「見つけました!」ヴァウティが言った。彼女の方が背が高い。「東門に向かっています!」

 「あの門は閉鎖されていましたね」

 あるいは……閉鎖していると役人は言った。砲撃での破壊に晒された地域から脱すると、メトマとヴァウティは再び走り出した。古市場の奥では、来てまもない難民たちが避難所の入り口ですくみあがっていた。

 門に近づくにつれ辺りは暗くなっていった。両開きの扉は鉄で補強されており、両脇を監視所に挟まれている。門の前の小さな広場に来ると、監視所はもぬけの殻だった。民兵は被害者を助けに行ったのだろうか? いや、持ち場を離れることはないだろう。少なくとも門は閉じたままだ。

 それとも……本当に助けに行った? 清々しい空気が鼻を通った。大きな扉の片方がほんの僅か開いているからだが、魔法による攻撃で明かりまでも損傷し、その先はほとんど見えなかった。メトマはヴァウティの力を借りて扉を引っ張り開くと、大きく暖かな体へとまともにぶつかった。

 この模様は――私の牛! ぶつかられた牛は驚いて尻尾を振った。

 メトマは牛のすぐ前にいる細身の人物に飛び掛かり、その肩を掴んで思い切り引っ張った。彼はよろめき、ぐらつきながらもその手を振りほどく。暗すぎて顔はほとんど判別できなかったが、その悲鳴と物腰から判断するに、間違いなくセミルだ。

 「これはどういうことです?」彼女は問い詰めた。兵站部隊でも民兵でもない、おとなしく控えめなセミルが牛に用などあろうはずもない。ヴァウティはメトマの背後へと急いで追いついた。

 セミルは牛の手綱を落とすと、暗闇の中、囲われた傾斜路を登って外門へと駆け出した。その門の向こうには――踏み荒らされた畑や、焼け落ちた工房といった――無人地帯が広がっており、更にその先にはスゥルタイの野営地がある。

 「牛を連れ帰って」メトマは背後のヴァウティに告げ、セミルを追って全力で駆けた。

 訓練を欠かさなかった若い頃、彼女は都市防壁の内部にあるさまざまに入り組んだ隠れ場所や監視所、狭い警戒通路などをよじ登ったものだった。セミルにはこの迷路を通り抜けて防壁の頂上まで登る以外に選択肢はないはずだ。メトマは素早く進むための近道を知っていた。防壁内部の監視所はこの頂上まで続く岩作りの急階段を守るものだ。メトマは暗闇の中を全速力で駆け抜け、頂上にたどり着くと昇降口を肩で押し開けて外へ飛び出した。

 防壁は十歩ほどの幅で、目も眩むほどの高さがあった。落下すれば死に至る。しかし防壁上に警備兵はいなかった。いったいどこへ?

 彼女は振り返り、都市庭園、内圃、工房、そして屋外型の寺院がかつて建っていた、開けた地平を見た。まだ昼だったので、かつての攻撃による窪地や瓦礫、裂けた樹木、そしてアブザンの魔道士たちが白魔術の網で囲い込み捕えた死霊術の渦などが点在する、見捨てられた地の様子を眺めることができた。さらに遠くには、巨大な囲壁の奥にそびえ立つ鋭い塔がいくつも並んでいた。それがスゥルタイの包囲攻城兵器の位置というわけだ。そのすべてが沈黙していた。メトマはその静けさを信用していなかった。

 防壁外には濁った霧が立ち込めており、触手めいて隙間を探すかのようにこの胸壁の周囲を渦巻いていたが、それ以上の高さにまでは登ってこなかった。この濃い霧は外部から外門へと忍び寄るものを――あるいは都市から密かに逃げ出すものを隠してしまうだろう。

 靴が石に擦れる音が聞こえて、メトマははっとした。彼女は振り向いて腕を振り上げた。刃の一撃が肩に激しく打ちつけられたが、鎧が衝撃のほとんどを吸収してくれた。セミルが刃をくるりと回して今度は逆側から切りつけようとした瞬間、彼女は屈みざま左足を蹴りだし、彼の足首を引っ掛けた。セミルは横によろめいて膝をつき、体勢を整えようと刃を大きく振り回した。柄に翡翠の蛇が巻き付いた、スゥルタイの鎌を。

 「私に勝てたことなどないでしょうに」メトマは言った。「何故今ならできると思ったのですか?」

 「お前とは同胞でも何でもない!」セミルは飛び上がり、刃先で彼女の胴を切りつけた。メトマは後ずさり、刃が胸当てをわずかにかすめた。彼は素早く手首を返して鎌の柄をメトマの胸元へと叩きつけ、彼女は胸壁まで突き飛ばされた。セミルは再び突進したが、メトマは辛うじて身をかわした。刃が壁にぶつかりガチリと音を鳴らした。今回は彼女も備えていた。そのままセミルの間合いに入り込み、その両手首を掴んで、彼が痛みでうめき声をあげるまで強く握りしめた。そして近くへと引き寄せた。

 「私の牛たちをどうするつもりですか? 東門に誰もいないのは何故ですか?」

 彼はその手を振りほどこうとしたが、メトマは激怒しており、今やその怒りが力の源となっていた。彼女はセミルの膝裏に蹴りを入れ、相手は不格好に倒れ込んだ。続けてメトマは鎌を奪い取った。

 そしてそのまま彼の胸に膝を当てて押さえつける。「答えなさい、セミル・メヴァク!」

 歯を食いしばり、彼は言った。「アブザンは故郷から連れ去った子供を愛しているとお前は信じているのかもしれない。だが奴らは俺たちを軽蔑している。お前のことも。あいつらがクルーマを本物のアブザンとして見ることはないんだ!」

 「それは違います! 祖先は私たちに語りかけてくれます!」

 「なぜ奴らはお前を兵站隊長に任命しなかったと思う? 誰だってジャルジスよりもお前の方が有能だと知っている。お前がカンその人から称賛を勝ち取ったことも! それでもその任に着いたのはあいつだ。メトマ、お前じゃない。よそ者の俺たちじゃないんだ!」

 彼女は首を振って否定したが、その身に寒気が走った。「いいえ。セミル、あなたと私は敵同士ではありません。誰に何を言われたのだとしても。スゥルタイがあなたに毒を吹き込んだのです」

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アート:Flavio Greco Paglia

 セミルは横に転がり、思わず――完全に!――力が抜けていたメトマは彼が振りほどくのを阻止できなかった。その勢いで彼女は床に背中を激しく打ち、一瞬息ができなくなった。鎌は胸壁をかすめながら回転し、金属と石がこすれて火花が散った。彼女が体勢を立て直す間に、セミルは胸壁の上へと飛び上がっていた。

 メトマは彼の腕を掴み、その手首に手を添えた。「何をするつもりですか?」

 「家に帰る」と彼は言った。「何年も前からそのつもりだった。毒を吹き込まれてなどいない! 自分の道は自分で選ぶ! これがジャルジスとの取引だ。あの男がこの謀を持ちかけてきた、俺の役目は、お前が大切な牛を追いかけて街中を駆け回るようにする、それだけだ!」

 霧の触手が手足のごとく彼女の足元から巻き上ってきた。なまめかしく魅惑的な、スゥルタイの魔術。「セミル、ジャルジスは単に私たちを弱らせたいだけです。あなたは私と同じ、メヴァク家の一員です!」

 「俺はメヴァク家の一員だったことなんてない。俺はスゥルタイだ」セミルは彼女を自らの運命に引きずり込もうと、防壁から身を投げた。

 メトマの腹部が石壁に叩きつけられ、衝撃に息が詰まる。落下はしなかったが、セミルの握力はまるで鉄のそれのようだ。彼の重みに引きずられ、肩が、胴体が胸壁を越えた。血が頭に上り、血管が脈打ち熱くなった。冷たい霧が顔を刺す。彼女はセミルの指をひっかき、掴まれていないほうの手で叩き、籠手の先端でえぐった。言葉にならないうめき声と共に――絶望的な笑いか陶酔的な悲鳴か、彼女にはうかがい知れなかったが――セミルは彼女の手首を放し、霧の中へと落ちた。

 墜落音はなかった。霧が網を張って彼を受け止めたかのように。

 メトマは身体を持ち上げ、防壁の中へと倒れ込んだ。全身が痛い。肩の切り傷はひどく痛むし、血も垂れている。靴に彼が落としていった鎌が当たり、彼女はそれを拾い上げて油膜の張った刃を調べ、ようやく再び思考を巡らせられるようになり、息を整えた。

 セミルは死んだか、あるいは傷ついてはいるが生きていて、スゥルタイの斥候に発見されるかもしれない。それとも死んでいても、屍術師にとっては役に立つのだろうか。それからどうなる? スゥルタイは何も持たない彼をそのまま受け入れるのだろうか?

 だがジャルジスが彼に牛をあてがったのは、メトマの気をそらすために過ぎなかった。何から?

 考えるまでもない。彼女は理解していた。心が憎しみで満たされた。アガーチ家は自分たちの族樹を求めていたが、挿し木を断られていた。家の族樹が得られるまでには何年も、あるいは何世代もかかるかもしれない。そしてその家の心の部屋、大切な族樹の育成室に入ることは誰にもできない――約束の言葉を知らなければ。

 その言葉は、管理人補佐のセミルが知っていた。思いもよらない裏切り。

 彼女は内階段へと走り、階段を駆け降りると、二人の困惑した民兵が監視所や人気のない地下道を調べているのを見つけた。

 「ここの警備についておられましたか?」とひとりが呼びかけてきた。「勤務を放棄したのは誰なのか、ご存知ですか?」

 「ジャルジス大尉に聞いてください! 責任者は彼です!」と彼女は叫んだ。メトマは牛たちを誘導していたヴァウティに手を振って合図をし、彼女が鼻を揺らして応えたのを確認してから、人生で一番速く走った。

 誰もいないメヴァク家の地下道に、遠くからの騒ぎがこだましていた。彼女は最も古い地下道を進み、山の中心へと駆け、最深部へと戻ってきた。族樹の世話をしたり、貧しい樹冠の下で一時間ほど瞑想したりするつもりがなければ誰も来ないこの場所へと。

 聖域の扉は開いたままだった。メトマは最後の数歩を、できる限り音を立てないように忍び寄る。まず樹に目を向けると、それは今朝見たときと全く同じように立っていた。管理人はまだ見当たらない。毒殺されたのだろうか? 包囲攻撃の支援に召集されただけ? だがメヴァクとは違う家の意匠が施された鎧を身に着け、重そうなナイフを手にした男が、そこに屈んでいた。その隣には、うつぶせに倒れた身体があった。

 倒れているのはいつも何かを尋ねてくる小さなロクソドン、エンティだった。その鮮やかな色合いの衣服は血まみれだった。

 メトマはセミルの鎌をまだ握ったままだった。その細い柄と完璧な重量バランスが、共に育ったあの若者が彼女の愛する家を裏切ったことを思い出させた。まさにアブザン、族樹、そしてメヴァク家の祖先に関わる全てを裏切ったジャルジスのように。

 こみあげてくる怒りが彼女を駆り立てた。鎌を振り上げ、全力で詰め寄る。侵入者は肩越しにそれに気づいて飛び上がり、彼女が振り回した鎌から巧みに身をかわした。

 動かないエンティの身体につまずかないよう、メトマは跳んだ。そのまま空中で回転して両足でしっかり着地すると、膝を曲げて身構え、ジャルジスと向き合った。

 「どうしてこんなことができるのです? いくらあなたと言えども!」彼女は吐き捨てた。「自らの利得のために族樹を殺そうとするなどとは!」

 「カンに優遇されてるお前の家は、また枝をもらえばいいだろう」と彼は言う。孤独なセミルをそそのかした言葉に違いない。「だが俺の家はずっと族樹を断られてきた。その価値がある存在でありながらな。だから、自分の手で問題を解決しようってだけさ」

 メトマはじりじりと横へ動き、柔らかく光る樹へと近づく。今朝よりも輝いているような? 銀色の樹皮に浮かぶ金の模様は今朝からあっただろうか? それとも疲れと怒りでそう見えるだけ?

 「自分に価値があるというその口で、自らの利得のために族樹を切ると言う。あなたはアブザンではありません!」

 「お前こそ真のアブザンではない」と彼は怒鳴り返す。「俺は偉大なるアラシンの都で生まれた! お前らクルーマは龍の暴君、ドロモカが俺たちに押し付けた存在に過ぎない」

 「私もアブザンです、あなたと同じほどに」

 彼は軽蔑を込めて笑い飛ばした。「メトマ、お前の成果に対して、アブザンからは何が与えられた? あの気まぐれな若造のカンは媚びてくる相手に勲章や褒章を配るだけだ。そしてカトロスのカルスト評議会はお前に軍事任務を任せることすらしない」

 ジャルジスは跳躍し、その一跳びで彼女に受け流す間も与えず間合いを詰めた。彼はメトマに体当たりし、彼女の肩に熱い痛みが広がった。セミルが切りつけた場所だ。彼女は背後へと倒れ込み、次の攻撃をもくろむジャルジスは紅潮し怒り狂った表情で彼女に迫ってきた。

 彼女はかかとで床を蹴り、後ろへ、そして横へと転がった。ナイフの重い刃が硬い床でがちりと音を立て、岩の表面を滑って明るい火花が弧を描いた。しかし彼は体勢を立て直して攻め続け、彼女は蟹のように這いまわりながらセミルの鎌も用いてその攻撃をかわしていった。立ち上がって反撃する暇はない。逃げ続けるのみ。肩がずきずきと痛んだ。染み出た血が、胸当ての滑らかな表面に真っ赤な跡を残して流れ下った。

 ジャルジスは彼女を追いかけて歩みを進め、帯革から鈍く輝く斧を抜いて不気味な笑みを浮かべた。メトマは細い幹に背中を押し付けた――彼女の胴体ほどの太さしかなく、暴君ドロモカがアブザンを分断するよりも前の頑強な族樹とは程遠かった。彼の斧は樹に深く食い込み、一撃で樹を殺してしまうかもしれない。

 「ただ切り倒すだけのつもりだったが、やるところを今見せてやるよ」そう言って彼は低くうなりながら、土を踏みしめて斧を振り上げた。

 幹を背にして両足を踏ん張り、メトマは無理矢理身体を起こした。痛みと失血で眩暈に襲われる。武器を振り上げるのも痛みを伴ったが、彼女は歯を食いしばって不意の突きをジャルジスに繰り出した。とにかくこの男を追い払えれば。だが彼は横に跳び、メトマは自分の失敗に気づく。今やジャルジスは彼女の身体ごと叩き切る必要もなく、適切な角度で斧を振り下ろせるのだ。

 頭の中に雑音が響く。集中しようとするが、視界がぼやけてきた。気を失ってしまうのだろうか? 部屋の壁から発せられる琥珀色の光が薄れ、族樹の樹冠が輝く。幻覚だろうか、金色の花びらが目の前をゆっくりと舞い降りていった。

 ジャルジスは鋭く大きな声で叫び、前方へと突進する。メトマはしっかりと立ち、斧の柄に鎌の内側を引っ掛けて絡め取る。ジャルジスは罵りの言葉を吐きながら彼女を払いのけ、樹を叩き切ろうと力を込めた。メトマの膝が震え、背中は幹に強く押しつけられた。肩は麻痺し始めている。指の感覚はもうない。

 金色の閃光が目の前に走った。落ちてきた花びらが頬を撫で、族樹の幹が強く新たな光で輝き始める。

 「メヴァク家の娘よ、わたしたちがあなたに力を授けましょう」声が聞こえた。空気の振動ではなく、身体を通って感じられた。「聞いて、メトマ、自慢のお姉ちゃん。私が一緒に戦ってあげる」

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アート:Bastien L. Deharme

 輝く黄金色の姿が樹から踏み出た。きらめく鎧を身にまとったロクソドンの姿が、霊の葉を通して広がる光のように揺れていた。小柄だったが、生前に花開こうとしていた決然とした優雅さを感じさせた。その声は枝の間を吹き抜ける風のようだった。容赦ない視線を向けられてジャルジスは驚きの叫びを上げ、一歩後ずさってそのロクソドンを凝視した。

 「エンティ」メトマの口から囁きがこぼれた。傷はひどく、失血でふらついていたが、新たな力があふれ出るのがわかった。彼女は鎌をしっかりと握り締め、断固たる決意をもって前進した。

 今度はジャルジスが一歩、二歩と後退し、岩の床にまで下がった。メトマは叫びながら突撃した。彼女は切りつけ、反撃を受け流し、部屋の端まで、相手の両脚が壁の長椅子にぶつかるまで容赦なく押し返した。ジャルジスは追いつめられた。

 「俺を殺せはしない!」彼は息を切らしながら言った。「俺は評議会に任命された士官なのだからな!」

 「あなたはアブザンの信条すべてに対する裏切り者です」と彼女は言いながら再び突きを繰り出し、それを彼が必死に斧で受け流したところで横を取り、防御をかいくぐって鎌の刃先を確実に彼の腹へと突き刺した。

 彼は衝撃にうめき声をあげ、前へと崩れ落ち、口を動かしたが声は出ず、しばらくそのまま身動きしなかった。鋭く危険な刃、裏切り者の命を絶つにふさわしい裏切り者の武器だ、と彼女は思った。刃をひねりながら抜き、今度は胸に突き刺す。彼はごぼごぼと喉を鳴らした。

 刃を引き抜く。ジャルジスはうつ伏せに倒れ、死んだ。メトマはスゥルタイの鎌を死体の上に落とし、立ち尽くした。手はしびれ、思考は空のまま、樹を見つめた。

 エンティの存在は消えていた。動かなくなったその身体は族樹の根の上に倒れていた。樹冠にて一輪のつぼみが開き、太陽のように輝く優美な花を咲かせていた。


 ヴァウティと、そして気を揉むドゥヴジン評議員と会うべく、メトマは故ジャルジス大尉の執務室へと向かった。あの裏切り者との戦いから一昼夜が経ち、傷はよくなったものの完治には程遠く、動きはまだぎこちなかった。彼女が扉を開けると魔法が壁を照らし、机ひとつと壁沿いに棚が並ぶ質素な部屋が現れた。棚は箱や袋が満載で、それぞれに札が貼られていた。机の上には台帳が何冊か置かれていた。彼女が台帳を開くと、それは徴発された物品の目録だった。別の台帳には、重要度順に並べられた百人以上の死者の一覧があった。難民は名前ではなく人数でのみ数えられていた。三冊目の台帳には、兵站部に届いた手紙や通達、それと宮廷宛ての手紙や通達が記録されていた。先へと読み進めると、案の定、包囲開始の三十日後にカンへと送った最初の手紙についての記録が見つかった。メトマの名前の横には番号が書かれていた。

 彼女は棚に沿って歩き、番号に対応した箱を見つけた。箱の鍵は簡単に開いた。中には手紙の束が入っていた。彼女は戻ってそれを机の上に置いた。「これらは送られていません。評議会による被害報告書もです。兵站部への要求書はアガーチ家の金庫かジャルジスの懐に入っているかもしれませんね。あるいはジャルジスが、包囲を長引かせる見返りとしてスゥルタイに渡したかもしれません」

 ドゥヴジンは早口になる。「しかしカンがおっしゃるには――」

 「餓死するまで戦えと? 彼女には本当の報告は届いていないでしょう。私たちの状況も、死傷者の数も。しかし議員殿、私に状況を修復させていただけるのであれば、この問題の報告は不要となるかもしれません」

 ドゥヴジンは冷酷な関心を覗かせつつ顔を上げた。「どういうおつもりですかな、中尉? 私を脅迫するおつもりか?」

 「そのようなことは全く」とメトマは淀みなく述べた。「カトロスのカルストとカンにお仕えするために全力を尽くしたい、と言いたいのです。私を兵站隊長に任命してください。そうすればジャルジスの腐敗とスゥルタイとの共謀を――それにそれを見抜けなかった議員殿の不見識を――無かったかのように消し去ってみせます。そして約束しましょう、カンに私たちの窮状をご理解いただけたら、増援が到着してスゥルタイの包囲軍は追い払われることでしょう」返答を待たずに、メトマは疲れ切った様子で執務室を後にした。

 「驚くことばかりです」メトマの後を追いながらヴァウティは言った。「さて、病棟に戻っていただけますか?」

 一時間も経たないうちに、癒し手たちは再びメトマの鎧を脱がせて入れ替わり立ち代わり傷の手当てをしていた。最後の癒し手が立ち去ると、ヴァウティが入ってきた。その手には羽ペンと紙、そして食事を盛りつけた皿と蓋つきの杯。空腹ではない、だがロクソドンが杯を置いて蓋を開けると、コーヒーのよい香りが漂い、真っ黒なはずの液体はたっぷりのクリームで明るい色を帯びていた。「ご要望の通りです、大尉」

 メトマはありがたみを噛み締めながら、ゆっくりと一口味わった。


(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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