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MAGIC STORY
タルキール:龍嵐録

第2話 それは前兆か

2025年3月4日
見つめられることには慣れていた。畏れを込めた質問や必死の祈りを浴びせられることにも。大天使の姿を見ると、人はそういう気持ちになるものだ。しかし小さな子供が翼にしがみついて、こう尋ねてくることには慣れていなかった。
「お姉ちゃん、龍?」
輝きを放つ両目をエルズペスは瞬かせた。自分をじっと見上げる丸い顔に、怯えはなかった。
「りゅう?」
「だって、羽根があって――」子供がそう言いかけた時、憤慨した女性の悲鳴がどこか遠くであがった。おそらく母親だろう。なるほど確かに、お前は何者なのかと尋ねに来た人物は他に誰もいない。ここに到着した時、出迎えてくれたのは取り乱したひとりの高官だった。ナーセットに会いに来たのだと説明すると、道師を連れて来るまで寛いでいるようにと丁重に言われた。いずれにせよナーセットの民は、少なくとも礼儀正しかった。記憶が正しければジェスカイと言ったか。「それと、手と足がぜんぶで四本」子供は続けた。その言葉を話す様子には、何かじれったいところがあった。まるで最高級の陶器を使えと言われ、それが壊れないように用心深く見張っているかのような。「だから、お姉ちゃんは龍でしょ」
エルズペスはその意味を考えた。「そうなのですか?」
子供は頷いた。
その断定は、ある意味で理にかなっていた。タルキールのドラゴンがいかに異質であるか、その姿がいかに多様であるかという話を聞いたことがある。おそらく、この次元の親たちにとっては、四肢と二枚の翼を持つものはすべてドラゴンであると子供たちに言い聞かせる方が手っ取り早いのだろう。暗闇の中で奇妙な音が聞こえても近づかないようにという、一律の警告。
だが、駆け寄ってきて娘の肩を両手で掴んだ女性の顔には、本物の恐怖が浮かんでいた。
「申し訳ございません」その女性は言い、エルズペスと子供の間に割り込んだ。子供は大声で抗議しつつも母親の背後についた。
「お母さん、龍のお姉ちゃんとお話ししたい」
「娘はまだ礼節を学んでおりません。どうかこの子の言うことでお気を悪くなさらぬよう」
エルズペスは鎧をまとう手を伸ばした。だが相手の女性が身をすくめて後ずさると、かすかに驚いた。人間であった頃であれば声をあげて笑ったか、あるいは親子を安心させようともっと努力したのかもしれない。親子を安心させようともっと努力したりもしたのかもしれない。だが大天使となってからは、正しい行いを成すという本能がすべてを圧倒していた。あらゆる衝動が抑えられ、取るに足らないものとなった。そして、目の前の女性が今求めているのは、安全な距離を置くこと。エルズペスから離れること。この船の空間が許す限り遠くまで逃げること。それだけだった。
「気を悪くなどしていません」エルズペスは翼を背中にしっかりと折り畳み、顎を引き、冷静な堅苦しさにその女性が安心してくれることを願った。「皆さんが崇拝する神々の祝福がありますように」
そして大天使に向けられたのは、奇妙な視線だった。母親は不安げな笑みを浮かべ、娘を片腕で抱えると米袋のように肩に担ぎ上げ、その安全を確信するとエルズペスから後ずさった。四歩後退したところで女性は背を向け、小走りに駆け出した。言い争う声が聞こえた。
「でも、お母さん、あの龍のお姉ちゃん」
「何度でも言います、あの方は龍ではありません」
「龍じゃないなら」子供は勝ち誇ったように叫んだ。屈しない論理で親を言いくるめたというように。「どうしてお話ししちゃいけないの?」
「もし私が間違っていたら大変だからです!」
ふたりの声は辺りの雑音へとかき消えた。ランタンの列が宙に浮いており、エルズペスが発する真珠のような光よりも柔らかな色合いに輝いていた。何にも縛られることなく風に揺れるランタン。ようやく独りになり、エルズペスはこの飛空船を観察した。かつてはひとつの寺院だったか、あるいは寺院の集合だったのかもしれない――少なくとも何かの災害が起こる以前は。何が起こったのかはともかく、ジェスカイはその残骸を捨てるのは忍びなかったのだろう。屋根付きの建物が、巨大な船の船首に沿って慎重に層をなしていた。湾曲したそのひさしは空色と金で飾られ、所々でひび割れや修理の跡が縞模様を描いていた。その頂上からは朱色の大きな明かりが吊り下げられていた。そこかしこに修行僧の姿があった。巻物を抱えている者、あるいは横帆を渡る者、索具の手入れをする者、甲板を拭く者。彼らは熟練した身のこなしで効率的に動いていた。定命の関心事からは切り離されたにもかかわらず、その様子を見るのは楽しいとエルズペスは思った。
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アート:Leon Tukker |
「エルスペス・ティレルさん」背後から声が聞こえた。「お会いするのは初めてですが、評判はお聞きしています。私の事もご存知ですよね。ようやくお会いできて嬉しく思います。私たちには共通の友人が沢山いますから」
振り向くと、僧たちと同じ青と白の衣をまとう女性がいた。違いといえば、僧たちのそれよりも豪奢で装飾が施されていることか。その表情は穏やかだが不可解で、笑顔は儀礼的なものだった。
「ナーセットと申します。ジェスカイの道師を務めております。私をお探しとのことで」
エルズペスは無益な礼儀に時間を浪費しなかった。「多元宇宙の至る所でドラゴンの嵐が出現しています。タルキールがいかにしてそれを食い止めているのか、それをお尋ねしたくて来ました」
ナーセットの表情が変わった。かすかな懸念。
「来ていただいたことが無駄にならなければ良いのですが」早くも船室へと向かいながらナーセットは言い、エルズペスにも来るように指を曲げて示した。「私の書斎へおいでください。龍の嵐について、互いの知識を突き合わせる必要があります。状況は私たちの想像をはるかに超えて悪化しているのかもしれません」
ジェスカイのもてなしの慣習をナーセットは知っていたが、相手が大天使である場合の正しい作法については確信が持てなかった。自分が知る限り、エルズペスは最初から天上の存在だったわけではない。かつては人間だったが、彼女を知る者の話を聞くに、当時から今と同じ厳格な価値観を持っていたという。胸の小さな痛みとともに、ナーセットはアジャニを思った。彼がどれだけエルズペスを愛していたのかを、その正義への献身を、慈悲を、そして無辜の者たちを守る熱意を愛していたのかを思い返した。
彼女はタミヨウと物語の会を思った。どんなに些細な逸話であっても、あらゆることを学びたいと願ったムーンフォークの女性。エルズペスとその勇気について最初に聞かせてくれたのはタミヨウだった。友人たちが無事であればと願っていたが、それは叶わなかった。友人――共に座って物語を共有し、何時間も耳を傾け、口に上ったあらゆる物語を飲み干す人々を他に何と呼ぶだろう? 灯が消えて久遠の闇を歩くことが叶わなくなった当初、ナーセットは喪失感を覚えた。だがその後に安堵がやって来た。今はタルキールを、タルキールのことだけを考え、荒廃した故郷を再建する仕事に全身全霊を注ぐことができる。それでも皆に、他のプレインズウォーカーに会えないのは寂しかった。何にも属さないとはどういうことか、肉体と伝統が決して志すことのできないものを求めることがどういうことかを理解してくれる、数少ない者たち。
「タミヨウさんがここにいらしてくれたなら、どんなに喜んだでしょうか」エルズペスが言った。その光は消えかけた蝋燭のようだった。
「ええ、きっと」ナーセットは自身の声の荒々しさに驚いた。「それと、アジャニさんも」
「アジャニとニッサさんを取り戻すために、思いつくかぎりのものが犠牲になりました。ひとりの女性の命。生きているプレインズウォーカーの灯、そして死んだプレインズウォーカーの。アジャニ……私は時々思うのです。むしろ彼が望んだのは――」
その言葉は喉につかえて消えた。
「心の奥底では」ナーセットはゆっくりと言った。その沈黙には棘が生えていた。どちらかが不注意であれば、過去からの傷を自ら受けにいくことになる。「アジャニさんが望むのは、ただ安らぎのみです」
「ええ」
血に濡れた絹のように重い、気まずい沈黙がふたりを覆った。両者は島のように大きな机によって隔てられていた。当初、ナーセットはこの仰々しさに抗議したのだった。墨壺と巻物、教本と未翻訳の書物を置くだけの十分な空間があればいいと言ったが、ジェスカイには新たな象徴が必要だと官人たちは主張した。そして道師としてそれに従うのは義務なのだと。そうして彼女はしかるべきお飾りを押し付けられることになり、それは極めて官僚的な見た目の机から始まっていた。
「先ほど仰っていましたよね、状況は私たちの想像以上に悪いかもしれないと」
「タルキールの龍の嵐は、とても激しくなってきています」話題が変わったことをナーセットは喜んだ。悲しみというものは扱いが難しい。同情を軽蔑し、悪い知らせを率直に聞くことを好む農民がいる一方で、愛する者が亡くなったと聞かされて子供のように泣く、吹きガラスのように脆い戦士もいる。エルズペスがそのどちらに近いのかはわからない。さらに悪いことに、ジェスカイは来世という概念に無関心だ。大天使がそれに非難の目を向けることは疑いない。とはいえ、そうではないかもしれない。アジャニは言っていた――
ナーセットはかぶりを振った。集中しなければ。アジャニはタルキールを訪れていたが、彼女はそれを人伝に聞かなければならなかった。そして彼が連絡を取ってくるのを何日も待っていた。だが今はそれを考える時ではない。
そんな態度を、アジャニは冷たいと思ったのだろうか?
失望させてしまったのだろうか?
「タルキールそのものを作り変えてしまうほどに」ナーセットは巻物入れから地図を取り出し、机の上に広げた。紙には注釈がまだらに書かれていた。この数か月間に自分が記した覚え書きだ。「ある場所では水位が上昇し、またある場所では陥没孔が発生しています。新たな地質構造さえ見られます。それ自体も懸念材料です、生態系に深刻な影響を及ぼしますから。ですがこことここ、それとここを見てください」
ナーセットは地図上の三地点を指さした。それぞれが太い円で囲まれていた。
「マルドゥの協力者によれば、草原に鱗が生えはじめた場所があるそうです」
「鱗? つまり、土地そのものが――」
「いえ、違います、何も生きて動き出してはいないそうです」ナーセットは少し考えて続けた。「……今はまだ。報告によりますと、爬虫類の目を持つ牛や、翼の生えた猫がいるそうです。どれほどが作り話かはわかりませんが、一つ確かなのは、そういった場所には太古の力が働いているということです。それも、ウギンのように強大な何かが」
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アート:Leon Tukker |
「ウギンの行方は知れないはずです」エルズペスが言った。
ナーセットは頷いた。「そしてボーラスは死にました。理論上は、同等の力をもつ他の古龍の仕業という可能性もあります。とはいえウギンは、同族は皆死んだと信じています」彼女は短く息を吸った。「ウギンがタルキールを離れたことが関係している、そう私は確信しています。ウギンの存在が元々の嵐を作り出した……とまでは行かなくとも、引き起こした。ですが私たちの記録によれば、ウギンがいる限り嵐はある一定の激しさを越えることはありませんでした。従って、ウギンの存在が何か重しのようなものとして働き、この次元を抑制していたと考えるのが妥当かと――」
そこでナーセットは我に返り、苛立ちをこらえて言葉の洪水を飲み込んだ。エルズペスはナーセットの理論など求めていない。客人が求めていないものを浴びせるべきではない。それが礼節というものであり、少なくともナーセットはそう教えられていた。
「いずれにせよ」ナーセットは声を滑らかにして平静に言った。「多くの龍が生まれ、それぞれが以前よりも大きく、強く、飢えています。この事実さえなければ、龍の嵐は対処可能な問題だったでしょう。古い群れと戦う方法を私たちは学んできましたが……この新たな龍たちは、私たちが知るすべてに逆らっています」
「ナーセットさんが行使した儀式に解決策があるとしたら?」エルズペスが尋ねた。「それを修正さえすれば、解決するかもしれません――」
「できません」かすれて震えた声でナーセットは言った。「試すつもりもありません。ご存知ではないはずです。あの儀式は……」
これまでナーセットは、タルキールで起きたことや龍王たちに対する革命における自身の役割についての説明を必要最小限に留めていた。理由の半分は自分自身への賛辞を聞き飽きていたからであり、もう半分は、既に多くの悲しみがあり、それ以上付け加える必要を感じなかったからだった。重みに耐えきれなくなるのでは――彼女の内なる、子供っぽい小さな部分はそれを懸念していた。けれどおそらく、詳しく説明すべきだったのだろう。そうすれば今この時は楽になっていたはずだ。
「あの儀式は」ナーセットは繰り返した。「精霊龍を召喚しただけではなかったのです。それは……」自分自身すらほとんど理解していない事柄をどう言葉にすればいいのだろう? それはどこか無作法で、無責任に思えた。「私が理解する限りでは、タルキールの繊細な均衡を揺るがし、連鎖反応をもたらしたのかもしれません」
「そして、ご自身が力を貸したなら、歴史が繰り返されるのではないかと恐れているのですね」エルズペスの物腰に変化はなかった。感情はなく、冷静。
「その通りです。オジュタイ様がいれば状況は違っていたのかも――」
過去と、ひどく忌々しいその棘。昨今のジェスカイが忌み嫌う存在である龍王の名を、いとも簡単に口にしたことにナーセットはひるんだ。幸い、エルズペスの顔にはいかなる批判もなかった。いやむしろ、冷たい鋼のような静けさ以外には何の表情もないように見えた。
「タルキールは苦しんでいますが、少なくとも自身の次元に働いている力については熟知しています。各氏族にはそれぞれ不測の事態に対する策と防衛手段があります。ここではない場所で何が起こっているかを私は考えたくありません。法則が全く異なり、最悪の事態に対して身を守る術を持たない世界で」ナーセットはかぶりを振った。「可能性はあまりに多く、そのどれも良いものではありません。私は――」
だが続く言葉は、何かが衝突して砕けるような騒音と低く切迫した鐘の音にかき消された。何か尋常でない物事が起こっているという警告。エルズペスとナーセットはすぐさま立ち上がった。怒鳴り声が壁を突き抜けて聞こえ、甲高く必死な女性の泣き叫びが喧騒を切り裂いた。
「何でしょう?」エルズペスは変わらず落ち着いていたが、その手は既に剣の柄に触れていた。
ナーセットは首をもたげて耳を傾けた。鐘はその音と律動で異なる意味を伝える。その内容は理解できたが、聞いたことのないものだった。新しく、この僧院が経験したことのない、予想はしていたものの紙上でしか知らない災害。鐘が再び鳴り響いた。
「龍です」書斎から駆け出しながらナーセットは言った。「野生の龍が学問所に!」
無論、これまでにも襲撃はあった。野生の龍は飢えや悪意から時折ジェスカイの防衛を試したが、それらは散発的でやる気のないもので、速やかに追い返されていた。オジュタイの群れの残党はもっと狂暴だったが、それらもまた追い払われた。かつて一度も、野生の龍が飛空船の甲板にたどり着いたことはなかった。空乗りとその乗騎たちがそれを確かなものとしていた。
だが今、ここにその一度がある。
そしてそれは船の上というだけでなく、学問所の中に。ナーセットは恐怖に身震いをした。今が夜だというのがせめてもの救いだった。最年少の生徒たちは、家族や友人と過ごす時間を確保するために昼間にのみ授業を受ける。学問の追求は重要だが、人として成長することも同等に重要であり、そのためには世界との実際の関係を築かなければならない。つまり今教室にいるのはもっと年長の子供たち、選択科目に志願するほどの意欲と才能がある子供たちだ。ナーセットは彼らの教科課程をよく知っていた。彼らは直ちに餌食になることはないだろう。
とはいえ「直ちに」が過ぎたなら? 龍はまだ中にいるのだ。
どういうわけか、あらゆる防御策を回避して。
そんなことが可能だというなら、それは――
ナーセットは続く考えを断ち切った。憶測に意味はなく、現場へ向かって被害を確かめる以外にすべきことはない。状況を判断して優先順位を見極め、何ができるかを突き止めねばならない。既に何人が死んだのかを見極めなければならない。教師たちは全員、揺るぎない勇気を持っている。龍が子供たちのもとへ辿り着くためには、彼らを突破しなければならないだろう。そして、そのために、犠牲者が出るのだろう。唯一の疑問は、それが何人にのぼるのか。
エルズペスは彼女のすぐ背後を駆け、その光が廊下に淡い影を投げかけた。周囲では僧たちが怯えた子供や民間人を避難させ、あるいは自ら龍へと駆けていった。ナーセットの内を誇らしさが身震いのように走った。彼らは善良で、平時には謙虚でありながら、危機においては卓絶した存在となる。ナーセットは彼らとは正反対の人々を沢山知っていた。絶え間なく自慢し、逆境の兆しがあるとすぐに挫けるような。だが嵐鶴の修行僧たちは違う。彼らはこれまでにもその勇気を証明してきたのだ。そして今回も。
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アート:Marco Gorlei |
ナーセットとエルズペスは通路の角を曲がった。学問所は、より良い未来を夢見る種のように、飛空船の奥に座している。その建設にあたっては白熱した議論が何か月も交わされた。ある者は、生徒たちが周囲の世界を自由に見渡せるようにと、塔の最上階に学問所を建てることを提案した。またある者はそれを自殺行為であると咎め、何層もの防衛と百もの脱出口がある場所に隠すのが最善だと提案した。後者の意見が勝利したことにナーセットは心から感謝していた。特に、猛攻撃が続いて船が激しく揺れ動いている今は。更に沢山の僧たちが駆けてきた。彼らは負傷者を腕に抱き、灰色の埃にまみれていた。ナーセットは彼らひとりひとりに指を触れ、少しの速度と持久力を吹き込んだ。最も印象的な魔法とは言えないが、他に何かをする時間はない。
近くでは度重なる攻撃で何かが壊れ、船が苦痛のうなり声を上げているようだった。遠くでは悲鳴が聞こえた。
ナーセットは激しく動揺した。
「もう少しです」彼女はその言葉に祈りを込めた。
ふたりは最後の階段を下りた。すると目の前に、船を襲ったものの顔があった。その龍がいかにして自分たちの防御をかいくぐったのかを、そして設計計画の致命的な過ちをナーセットは察した。龍の下の床は空に向かってぽっかりと開いていた――船体を突き破り、木や金属をかじって入ってきたのだ。この侵入者にとって通路は狭すぎるほどだった。氷河から切り出された氷の塊のような巨獣。鋭すぎる歯と狂暴な様相、しなやかな動き。身体はとても巨大で、船の中に完全に入っているのは頭と喉、そして一本の肢だけだった。その光景には滑稽なところもあったが、ナーセットは笑う気にはなれなかった。血で汚れた口元、歯の間から突き出た生気のない腕、助けてくれというように差し出された掌……
隣で、エルズペスがかすかな鉄の囁きとともに剣を抜いた。
龍はその音も、自身の巨体を取り囲む僧たちも気にせず、壊したばかりの部屋をじっと見つめていた。扉は焼け落ち、肋骨のような残骸が残るのみだった。その隙間から見えたものがあった。身を寄せ合って縮こまる5人の若者、その前で扉の残骸へと両手を差し出して立つ6人目、そしてその決意に満ちた顔。空気がかすかに銀色に染まったことから、ナーセットはその少女が迫りくる巨獣と自身との間に障壁を張ったのだとわかった。
「長くはもちませんね」エルズペスは簡潔に、冷酷なほど穏やかに言った。
「ええ」ナーセットは頷いた。「長くは」
龍の表皮には傷が点々と刻まれ、薄い血の膜が張っていた。僧たちはできる限りのことをしたのだ。だが龍の皮膚はあまりに固く、そして武器の届く範囲は限られていた。龍は大きく息をつき、もう一度つき、喉を激しく動かした。まるで刺さった骨を引き抜こうとしているかのように。気温が急激に降下した。ナーセットが口を開くと、息が空気中に白く漂った。
「私を信頼して頂けますか?」
エルズペスは返答せず、ただ翼を広げて舞い上がった。その姿はどんな星よりも明るく、伝説の通りに美しかった。他の次元で、信者たちが天使を追って地獄の入口へと向かう理由をナーセットは理解した。自分自身が武器であると世界へ示すかのように、エルズペスは輝く剣を掲げた。
「合図をしましたら、喉元に飛び込んで深く切りつけて欲しいのです」
天使は龍の消化器官や至近距離での氷のブレスを生き延びられるのか、それはわからない。けれど自分たち全員の中で、やらねばならないことを成し遂げられる可能性が最も高いのはエルズペスだった。龍であっても、その口は赤い歯茎と滑らかな肉で、喉もまだ肉だった。変わらぬ表情の一瞥を天使から向けられ、ナーセットは人としてのエルズペスを知らなかったことを後悔した。天が墓所から掘り起こしてその勇者とした、不滅の存在を。
「では、合図を下さい」
龍は息を吸い込んだ。冷気が辺りの大気に重みを与え、喉の奥に白いものが渦巻く様子が見えた。ナーセットは立ち並ぶ僧たちに下がるよう身振りで指示し、瞬きもせずにその輝きを見つめた。目に涙がにじんだ。機会は一度しかない。早すぎたなら、天使の体質が真に試される。遅すぎたなら……まあ、その先を考える必要はないだろう。
蜂蜜のように、時がゆっくりと流れた。
「今です!」
剣を光明のように掲げ、エルズペスは開いた口へと頭から飛び込んだ。切り裂く刃をナーセットは見た。深く、龍の口蓋を貫いて――
彼女は手を振り上げて僧たちに合図をした。今だ。
どろりとした血が噴き出して緞帳のように流れ落ち、天使をずぶ濡れにし、明るい銀色の鎧が毒々しい赤に染まった。
ナーセットは5人の僧とともに駆け、瓦礫を除けながら突き進んだ。もう3人の僧が盾を掲げて彼女たちを援護した。
龍は憤慨して頭部を右に振り、壁を叩き壊した。
その衝撃が空気を震わせるのをナーセットは感じたが、盾は持ちこたえた。
龍はエルズペスに噛みつこうとしたが、その行動は頭蓋骨に刺さった剣を更に深く食い込ませるだけだった。天使は剣を更に高く突き上げ、粘液で覆われた組織に柄まで深々と刺した。怪物の咆哮は悲鳴に変わった。
子供たちは僧から僧へと渡され、抱えられて廊下を遠ざかっていった。2、3、4。その姿が見えなくなるたびにナーセットは小声で数えた。
6人。
天使と龍はどちらも相手の脅威から逃れられず、次なる動きが取れずにいた。だが守るべき者たちが無事に避難したため、嵐鶴の僧たちにもはや遠慮の必要はなくなった。彼らは一斉に再び武器を取り、武器を持たない者たちは燃え上がる光を手にまとった。エルズペスは彼らに突破口を与えたのだ。龍の口から泡が沸き出した。天使は半円を描くように力強く身体をひねり、敵の口から筋肉の塊を切り落とした。龍はひとつ息をつき、声にならない声をあげた。そして僧たちが襲いかかった。鋼鉄と拳が軟らかな組織を粉砕し、歯を砕き、顎の中は屠殺場と化した。
そこまでだった。飢えた思考は逃げたいという欲求に取って代わられ、龍は攻撃者たちから離れようともがいた。口が大きく開かれると、エルズペスがその中から踏み出た。龍はナーセットを不吉な視線で見つめると滑るように船体の穴へと退き、音を立てて舞い上がった。
「甲板へ戻っていきます」エルズペスが言った。
喉元で血管が激しく脈打つのを今なお感じながら、ナーセットは大天使を見つめた。エルズペスの髪は血で染まり、まるで赤い人形のようだった。翼の輝きさえも変化しており、もはやあのまばゆい金色ではなく、赤みがかった光を放っていた。それでも表情は不気味なほどに穏やかだった。
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アート:David Astruga |
「では、追撃しましょう」ナーセットが言い、ふたりは階段をめざした。アドレナリンが退きはじめ、足が重く感じた。エルズペスがただ滑るように前を進むのがありがたく、また羨ましいと思えた。ふたりはタルキールの空に吹き荒れる風の中へと飛び出した。左から甲高い咆哮が聞こえ、空乗りたちが龍と交戦したことを告げた。ナーセットは両手をうねらせて魔法の渦をまとわせ、龍が甲板に降りてきたなら攻撃しようと身構えたが、獣の方はあの廊下での敵と再び対峙する気はないようだった。龍は一度咆哮し、その悪臭を冷たい風のようにナーセットは感じた。そして白く凍り付いた息を口から吹きながら、龍は船の側面から離れていった。ナーセットは筋肉が緩むのを感じた。あとは空乗りたちが対処してくれるだろう。
エルズペスが隣で力を抜いた。この大天使も同じ結論に達したらしい。「ナーセットさんがどのような決断を下そうとも、私はそれを尊重します。多元宇宙の力にはなれないとジェスカイの方々が言うのであれば、私はここを離れ、他の場所で助力を求めます。ですが、何もしなければドラゴンたちは他の次元を食い尽くすでしょう。皆さんの知識を役立てたいのです」
ナーセットは破壊された船を見渡した。僧たちは期待に満ちた顔で彼女を見つめていた。
「明日」ナーセットはそう答えた。「朝になりましたら決定をお伝えします」
被害状況の確認には数時間を要した。ナーセットが安堵したことに、死者はごく僅かだった。負傷者は沢山いたが、嵐鶴の僧院は治癒師で有名であり、治療にあたる僧も不足していない。最も大きな被害を受けたのは船そのものだった。船体の一部が失われ、修理は困難と思われた。職人たちは龍の背に乗って苦労して作業するか、船が直ちに沈むことなく着水する方法を工夫しなければならないだろう。
だがそれを考えるのは明日でいい。
ナーセットが被害を受けた家族それぞれと話す間、エルズペスは瞑想するような沈黙を保ってその後に続いた。そしてエルズペスは浴室へと案内され、ナーセットは評議会とともに次週の計画を協議するために離れた。どの村がこの状況の影響を受けるのか、住民たちが問題なく対応できるようにするためにはどの僧院に連絡を取る必要があるのか。ナーセットがようやく道師としての務めを終え、エルズペスのもとへと静かに戻ってきたのは夜明けのわずか数時間前だった。
「この部屋をお使いください」ナーセットは天使を個室へと案内した。彼女は廊下の端にある目立たない扉を開け、部屋の中を身振りで示した。灯火が中の空間に心地良く暖かな青銅色を投げかけ、エルズペスの翼の影を長く伸ばした。まるで彼女がその空間をすっかり満たしているかのように見えた。
僧院の部屋の中で、ここは最も豪華なもののひとつだった。寝具は贅沢で柔らかく、隅には上質な椅子が置かれて読書のための空間がしつらえてある。他氏族の代表者が宿泊する際には、常にここが使われていた。エルズペスは部屋を探索するようにゆっくりと歩き回り、ナーセットはその様子に不安を感じながら見守った。無表情なその天使の顔が、心配そうな輝きを帯びた。まるで当惑しているような。
「良いのですか? この部屋をもっと必要とする方が他にいらっしゃるのではありませんか」
「いえ、いえ」ナーセットは答えた。「今夜はエルズペスさんのものです。どうか寛いでください」
エルズペスの表情に、通り過ぎる翼の影のような警戒心がちらついた。
「ありがとうございます」エルズペスは細心の注意を払って言い、そのためナーセットは自分がひどい失態を犯したのではないかと感じた。だがエルズペスは彼女を固い腕で抱きしめ、それ以上の分析をさせなかった。「ナーセットさんはとても親切な方だとアジャニは言っていました。それが全て真実だとわかって嬉しく思います。明日の朝に話をしましょう」
エルズペスは下がり、ナーセットは天使から発せられる黄金色の熱に打たれた。まるでその胸の中には心臓ではなく太陽を抱いているような。ナーセットはそっけなく頷いた。互いに、世間話と心遣いにはもう疲れ果てていた。数秒間見つめ合った後、彼女は言った。「そろそろ休んでください。話は明日に」
そしてジェスカイの道師が背後で扉を閉める時も、エルズペスは観兵式で見られるような凛とした姿勢で立ち続けていた。ナーセットは訝しんだ――そもそも天使は眠るのだろうかと。
「テイガム?」
ナーセットは眠気に目をこすりながら、年上のその僧が書斎に入ってくるのを待った。この数年は彼にとってあまり良いものではなかった。若い頃と同じ程に筋肉質ではあったが、目と口の周囲には死肉を食う鳥のように皺が寄りはじめていた。頬はこけ、頭蓋骨はナーセットの記憶にあるよりもくっきりと突き出ていた。
「道師、このような時間に邪魔をして申し訳ありません」テイガムは小さく頭を下げて言った。「ですが、問題は緊急を要するのです」
「再建作業についてですか? 船体にかなり大きな穴が開いているのは承知していますが、何者もそこに近づかぬよう警備の僧を配置しています。明日、職人の方々が作業を開始します。私は単に――」
テイガムは苛立つように口元を引き締めた。「そうではありません」
「であれば何ですか?」
かつて自分たちは対等の立場にあった。状況が違えば、彼を友人として望んでいたかもしれない。だがテイガムにとって、ナーセットは腹立たしい存在だった――龍の眼の聖域での途方もなく素早い出世、そしてオジュタイが向けた多くの寵愛。彼を責めることはできなかった。自分とは異なり、テイガムは自分たちの龍へと忠実であり続けたのだ。追放か古の忠誠かの選択を迫られさえしなければ、テイガムはオジュタイを捨てなかっただろう。勿論、オジュタイに対するクーデターを彼が率いることもなかったはずだ。とはいえ、共通の歴史をもつという親密さは、自分たちがある種の歪んだ仲間意識を共有していることを意味していた。それだけではなく、彼もまたオジュタイを失った悲しみを抱いている。だからこそナーセットはテイガムに自由を与えていた。
「道師の客人についてです」テイガムは腕を組み、入り口に立ったままでいた。
「エルズペスさんですか? 今日はとても力になっていただいたではありませんか」
「あの者はこれから起こる物事の前兆に過ぎません」
その言葉にナーセットは驚き、笑い声を発した。「テイガム、貴方が迷信深い者だとは思っていませんでした――」
「道師、曖昧な表現であったことをお許し下さい。もっと分かり易い表現で言わせて頂きます。これまで野生の龍は、あのような暴力の誘惑に駆られることはありませんでした」
ナーセットは黙り込んだ。
「単なる偶然かもしれません。ですが今日の襲撃が、あの者の到着の結果であった可能性は否定できません」テイガムは声を和らげて続けた。「そして、再び同じことが起こる危険を冒すわけにはいきません。既に我々の力は削がれています。再び襲われたらどうなりますか?」
「エルズペスさんの存在が原因であるという証拠はありません」
「原因ではないという証拠もありません」その返答は息が詰まるほど穏やかだった。彼の言葉に悪意はなかった。その必要はないのだ。「我々は神聖なるものをすべて民のために手放した。そうだったではありませんか? ジェスカイの自由を買えるという希望を抱いて過去を破壊し、未来を燃やした。もし我々がまた何者かのために死なねばならないとしたら、その自由に何の意味がありますか? 何者かのために死ぬ運命であるというなら、それはオジュタイ様のためであるべきでした」
他の誰かがその言葉を聞いたなら、裏切りとみなしたかもしれない。だがナーセットにそれはできなかった。
「あの者を追い払ってください、ナーセット。ジェスカイから可能な限り遠くへ」テイガムは再び促した。「貴女は今や道師なのです。民に対する責任こそが第一なのです。くれぐれもそれをお忘れなきよう」
そしてナーセットは、それに対しては何も言わなかった。
星のない漆黒の闇に光が差し始めた頃、エルズペスは丁寧に扉を叩く音を聞いた。それを開けると、申し訳なさそうな表情でナーセットが立っていた。
「申し訳ありません、ジェスカイは力になれません」
エルズペスは頷いた。元々タルキールに特別な期待を持って来たわけではない。ただ警告し、解決策を見つけたいという願望だけを持ってのことだった。力を貸してくれるよう説得できればもっと良かったが、それはタルキールの義務ではない。大天使は――
ナーセットは肩に掛けた背負い袋の紐を調整し、その表情に獰猛な光が満ちた。
「ですが、私は参ります」
(Tr. Mayuko Wakatsuki)
Tarkir: Dragonstorm タルキール:龍嵐録
- EPISODE 01 第1話 物語とその骨子
- EPISODE 02 第2話 それは前兆か
- EPISODE 03 サイドストーリー アブザン:不屈の花
- EPISODE 04 第3話 過去が食らうもの
- EPISODE 05 第4話 炎の心臓
- EPISODE 06 サイドストーリー ジェスカイ:知られざる道
- EPISODE 07 第5話 巡りくるもの
- EPISODE 08 第6話 救いなき愛
- EPISODE 09 サイドストーリー スゥルタイ:心変わりと裏切り
- EPISODE 10 第7話 再び
- EPISODE 11 サイドストーリー マルドゥ:稲妻が語る我らの物語
- EPISODE 12 サイドストーリー ティムール:共に生き抜く
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