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MAGIC STORY
神々の軍勢
エモンベリーの赤色
エモンベリーの赤色
Clayton Kroh / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2014年2月5日
運命の工作員の手を煩わせることはない。単純にアドラステイアの鋏が必要というだけだ。なんて恥ずかしい、彼女はそう考えて大きな溜息をついた。彼女の姉妹たちは、一人は巨大な古樫の長机の向こう側、もう一人は二人の中ほどで、彼女らの間に広げられた素晴らしい綴れ織りの作品に見入っていた。
二本の織り糸。一本は青、もう一本は金、それらは綴れ織りの旅を並んで始め、今やもつれ合っていた。それは繰り返され、その時ごとに新たなもつれとなって、時に美しく、時に痛ましく、時にその両方だった。だが素晴らしい美とは悲劇の中にこそある。アドラステイアはその綴れ織りの糸の中に見てきたものに感化されはしなかった。彼女は全体の繁栄を考えねばならない。これら二本の特別な織り糸は、本当に美しい模様を創造してくれる。互いに絡み合いながら、それは青色と金色を分かとうとするような模様の中、暗い色調の織り糸に縁取られている。
この二本の織模様は型にとらわれておらず、アドラステイアにとってさえその印象はとても並みはずれたものだった。彼女の技術の公平さと効率は有名で、長きに渡って評価をほしいままにしていた。溜息の時は過ぎ去り、そして彼女は織り糸に発達したもつれへと、鋏で務めを果たす時だった。
パーヴィオスは彼の暗い部屋で、横たわったまま目覚めた。太陽神ヘリオッドは地平線に姿を隠して長かった。日中の行軍で疲れきっていたにもかかわらず、彼は眠れなかった。父親に引かれて、都市国家アクロスのあらゆる大通りと小路を通ったに違いない。政治役人や外交官、銀行家、商売人といった者達の果てしなく続く名簿に、パーヴィオスを紹介しようという意図だった。彼は自分の頭の後ろの壁、その向こう側に横たわっているタナシスのことだけを考えた。タナシスは自分が残していった手紙を読んだだろうか、贈り物を見つけてくれただろうかと疑問に思った。それは隣の家の背後、タナシスの父親が鍛冶に使用する石炭の山の下へ先だって隠しておいたものだ。
《啓蒙の神殿》 アート:Svetlin Velinov |
もうタナシスに会えないと考えれば考えるほど、喉元に結び目が締まるようだった。今からちょうど二日後、パーヴィオスの父は彼をメレティスへと送り返す計画だった。傑出した政治家の娘との婚姻のために――可愛らしいが退屈な娘、その滑らかな顔は年がら年中整えられて赤らんでいた、まるで一時間ごとに洗っているのではないかというくらいに。娘の父親はパーヴィオスへと、両家の間の婚約のしるしとして見事な小剣を一振り贈った。パーヴィオスは立ちつくしたまま動けず、その剣を受け取ることができなかった。両腕があまりに重かった。その剣は、彼をこの娘と父親達の政治的企てへと縛りつける枷にも等しい。パーヴィオスの父親は素早く前へと進み出ると、彼に代わってその贈り物を受け取った。それでおしまいだった。
あと二日で、彼はタナシスとは二度と会えなくなってしまう、そしてそう考えると、睡眠など貴重な時間の浪費に思えるのだった。
タナシスと連絡をとるのはとても難しくなっていて、贈り物の在処を知らせるのは簡単ではなかった。隣同士に住んでおり隔てるのは単純な石造りの壁だけとはいえ、両親達は友人同士ではなく、彼らはアクロスの反対側に住んだ方が良いくらいだ。両家の父親同士は互いの交流を避けていた。パーヴィオスの父親はメレティスの大使で、彼ら二人は六ヶ月前にアクロスへと引っ越してきた。それはパーヴィオスの父親が望んだ職ではなかった。彼にとってアクロスのこの地位へと追い立てられることは降職であり、そのため彼はしばしば不機嫌になった。この小さな家に住むようになってそう経たない頃、父親は隣の鍛冶職人と口論になり、パーヴィオスはその鍛冶職人の、物静かで美形の息子との関わりを禁止された。
暗闇の中でパーヴィオスは寝返りをうちながら思った、タナシスが手紙を読んでくれたかどうか自分にはわからないのだと。だがそれは想定していた。早朝、父親によって都市国家中の政治的そぞろ歩きへと連れ出される前に、彼は羊皮紙を一枚とインクの瓶、そして羽根ペンを父親の執務室から拝借した時に。二人の進路は住居に十分に近かったため、正午の食事のために休息しようと提案することができた。パーヴィオスは自室へと滑り込んでタナシスへと素早く手紙を書いた、石炭の山の中を探すようにと。彼はその手紙を肌着の下へと押し込み、食卓へと戻って父親との食事に加わった。彼は素早くビスケットを食べたが、窓の外、道の向こうの鍛冶工場を注意深く監視し続けていた。
タナシスは父親の弟子となって鍛冶職人となる訓練を受けていた。パーヴィオスからは父子が働いている様子が見えた。タナシスの顔は煤で汚れていた。彼の顔はいつも煤で汚れており、そのため笑ったり話したりするまで、彼は厳しく真面目な人物に見えるのだった。彼が父親と働いている時は無表情に押し黙って、その紅潮した顔は赤熱する金属を水へと投じたように、硬くそして汗にきらめいていた。
タナシスの父親が視界から姿を消した。パーヴィオスは父親へと断って席を立ち、何処へ行くのかと父親に尋ねられる前に外へ出た。
すぐに二人の目が合った。タナシスはどうやら彼が父親とともに家に戻り、再び出て来るまでを見ていたらしかった。タナシスの表情から不機嫌さが消え、彼の存在を認めて微笑んだ。パーヴィオスはタナシスから見えるように肌着から手紙を取り出し、それを丸めるとタナシスの家の扉の近くの石の下に置いた。彼が振り返ると、タナシスはもう見てはいなかった。父親が戻ってきて、彼は再び不機嫌そうな顔になった。手紙を隠した場所を見てくれただろうか? パーヴィオスにそれを確認するすべは無かった。そして自分の父親が歩行杖を手に家から出てきて、一緒に来るように命じた。
タナシスは不満に思っている、パーヴィオスはわかっていた。彼自身も同じだったからだ。タナシスは鍛冶職人になどなりたくないのだ。
「俺はルーコスになりたいんだ」 初めて会った日、タナシスは彼にそう言った。父親達が仲違いをする前の素晴らしき日々、彼ら同士が会うことを禁止されていなかった頃。タナシスはアクロスのすぐ外にある秘密の場所を教えてくれた。広々とした、だが隔離された岩の露頭で、城壁の外の山々へと下りていく狭い曲がりくねった道から外れたすぐの所にあった。アクロスからそう離れていないながらも、その場所からは都市国家の胸壁も見えず、街路の喧騒も聞こえなかった。エモンベリーの樹が一本、露頭の端の近くに生えていた。その低い枝は酸っぱく白い果実で垂れていた。しばしば、ウサギが近くの巣から飛び出してその場所を通過し、樹の根元にまだらに育つ数少ない新たな新芽や草をかじっていた。
《山》 アート:Raoul Vitale |
「ルーコス?」
「アクロス軍の狼さ」 タナシスは返答した。「テーロスで最も屈強な戦士なんだ」
タナシスはパーヴィオスへと、アクロスの壮大な伝説を語った。二人は並んで座り、太陽に温められた巨石に寄りかかり、両脚は伸ばして、埃っぽいサンダルを投げだしていた。タナシスは生き生きと語り、彼の足はパーヴィオスのそれをかすった。アクロス軍について語るタナシスの熱意と強い勢いに、パーヴィオスは心を動かされずにはいられなかった。彼はその流れに身を委ね、心は水に浮かぶ葉のように運ばれていった。
パーヴィオスは新たな住処とアクロス人の戦士的文化についてはほとんど知らなかった。当初、パーヴィオスは故郷である美しい都市メレティスからこの孤立した山々へと移動してきたことから彼らへと腹を立て、責めていた。メレティスを去るにあたって、彼はデカティアでの学問を終わらせねばならなかった――アクロスに彼の魔法の指導を続けてくれる秘術師はいない。そして魔法はパーヴィオスが楽しんでいた数少ないものの一つだった。それは父親の野望から外れる一つの道を約束するものだった。アクロスにて、父親の抑圧的な期待と彼の人生に対する支配は避けられなくなった。それは全て、無作法で攻撃的なアクロス人の責任だった。
だがタナシスと会い、パーヴィオスはその憤りを長続きさせられなかった。パーヴィオスはタナシスが刺々しい物言いをするのを聞いたことがなかった。ひび一つ入れられない都市国家アクロスの石の心臓、偉大なるコロフォンの戦士となる訓練を受けたいという彼の望みを邪魔する父親に対してさえも。代わりに、タナシスは父親へと弟子入りさせられていた。彼はとても失望しているように見えた、パーヴィオスが感じる以上にずっと深く。タナシスはあらゆるものを耐え忍ぶべく造られたように見えた。背は高く陽に焼け、肩幅はメレティスの壮大な石造りの建物、その巨大な石壁を強化する四分円のアーチのように広く頑丈だった。彼はその黒髪を軍隊の新兵のように短く刈っていた。タナシスは偉大な戦士になれる、彼はそう確信していた。
知り合ってから最初の二ヶ月、二人は可能な限り頻繁にその露頭で会った。パーヴィオスも自身の物語を話しはじめ、そしてデカティアで過ごした頃に習った謎かけや単純な魔法でタナシスを楽しませた。彼はより個人的な話をゆっくりと打ち明けていったが、メレティスの娘との婚約の話は告げなかった。
日は次第に短くなり、山の空気は冷たさを増していった。だがそれでも二人は互いの話を語るために会っていた。とある特別に寒い日のこと、パーヴィオスは外套も着ずに家から出た。ひとたびメレティスへと戻り、パーヴィオスが結婚してからの計画について絶え間なく口にする父親から急いで逃れてのことだった。それが間違いだったと思ったのは彼がアクロスの頼もしい城壁の外へと出て、山の冷たい風に凍えた時だった。外套を取りに戻ってはタナシスとの待ち合わせに遅れる、そして父親から問いただされるかもしれない。そのため彼はそのまま進んだ。
二人はいつものように座し、とはいえ巨石はパーヴィオスの背中を冷たく圧迫し、太陽は雲の背後へと頻繁に見え隠れして彼を震えさせた。一つ目峠、アクロスの英雄達がそこに住むサイクロプスと戦うという物語のさなか、タナシスは自身の外套を脱ぐとそれでパーヴィオスを包んだ。語りの最高潮の興奮を失わせることなく。その簡素な外套はウサギの毛皮で縁どられ、革は長年使いこまれて柔らかかった。それは煙と、打たれた青銅と、タナシス自身の匂いを運んでくれた。パーヴィオスはその外套を引き寄せて毛皮の襟で首回りを包むと、親しく心地よい友の匂いを深く吸い込んだ。
《一つ目峠のサイクロプス》 アート:Kev Walker |
ヘリオッド神が地平線に触れた時、彼らは立ち上がって都市国家へと戻るべく歩きだした。パーヴィオスは外套を脱ごうとしたが、タナシスは彼の肩にその手を置いた。「持ってていいよ」 彼は言った。パーヴィオスはそれ以来、寒い季節の間ずっとその外套を毎日身につけてきた。
タナシスはまた、辛い話も明かしてくれた。彼はじっとうつむいて、母親について語った。パーヴィオスがアクロスへとやって来るちょうど三ヶ月前、彼女がいかにして死んだかを。タナシスの母はとても独立心の強い職人で、彼女手製の陶器や宝石を売るためにしばしば旅に出ていた。そして旅から戻るのはいつになるのか、信頼できる予定を常に家族へと伝えていた。ある日、彼女は戻ってこなかった。タナシスと父親は彼女を捜索した。そして街道から遠く離れた山地で彼女の鞄を発見した。それは引き裂かれて血に汚れ、手製の宝石が零れ出ていた。獣に襲われたことは明らかだったが、彼女の遺体は何も発見できなかった。それから間もなく、タナシスがアクロス軍へ入ることへと父親が示していた難色は、それは確固とした禁止という厳しいものになった。
タナシスは語り終えると顔を上げた。彼の眼は赤く縁どられていた。そこに涙はなかったが、押し寄せる悲しみと喪失の波を押し留めようともがき、こらえていた。パーヴィオスはそこに何か別のものも見た、そう思った。孤独から手を伸ばし、増してゆく、友への愛。それとも、彼はただ自身の映し身を見ているだけなのだろうか? いや。それはここにある。彼は確信していた。
パーヴィオスは彼を引き寄せて抱き締め、その頬へと口付けをした。タナシスはパーヴィオスの大胆さに驚いたかのように、不意に硬直した。彼の両肩は二人を隔てる壁のようにそこにあった。彼はパーヴィオスへと抱擁を返しはしなかった。その時間は唐突に終わり、パーヴィオスは彼を解放した。彼らはサンダルを履いて曲がりくねった道をアクロスの家へと、押し黙ったまま戻った。
その後、父親同士の喧嘩が勃発し、二人は最早その露頭で会うことはできなくなった。そしてパーヴィオスがタナシスへと手紙を残す三日前、父親は告げた。この週末には来たる婚姻の準備のためにメレティスへ発つと。
パーヴィオスは眠りへと滑り込み、だが何かが彼の額に当たって目を覚ました。顔を手で払うと、髪に小石が引っ掛かっているのがわかった。暗闇の中、彼は上体を起こしてその小石を指で転がした。起き出して蝋燭をつけて確かめようかと考えていると、また別の小石が額に当たった。囁き声が聞こえた。彼の名前を呼んでいるようだった。
「パーヴィオス」 それは頭上から聞こえてきていた。パーヴィオスは寝台の上に立ち、静かに耳を澄ました。
「パーヴィオス、俺だ、タナシスだ」
その声は壁から聞こえてくるようで、だがまるでタナシスが部屋に一緒にいるようにも聞こえた。パーヴィオスは壁に手を滑らせ、小さなひび割れを発見した。彼はそのひび割れを覗きこんだが、暗闇で何も見えなかった。彼は壁に身体をつけた。「タナシス?」
「パーヴィオス!」 タナシスが声を上げた。「死んだみたいに眠るんだな」
パーヴィオスは思わず壁に頭をぶつけた。「声が聞けて嬉しいよ」 彼は言った。その瞬間、ただ友に会えなかった寂しさにひたすら圧倒されていた。「嬉しいよ、本当に」 彼は大声で繰り返した、そして不意に愚かだと思った。
「シーッ! 親父達を起こす気か」
「僕の父親は俺を君に会わせようとしない。毎日、仕事の間ずっと、僕を街じゅうに連れ回してる」
「俺の親父も君に会わせてくれないよ」 タナシスが返答した。そして長い無言があった。「パーヴィオス?」
「ああ」 パーヴィオスは静かに答えた。「ここにいるよ」
「君に会いたい」
パーヴィオスは思った、口を開いて喋ったなら、興奮に叫ばずにはいられないだろう。もしくはもっと悪いことに、目が覚めてこれがただの夢だとわかるかもしれない。「ああ! 僕も君に会いたいよ!」 彼はそう返答したかった。そして互いを隔てる壁が瓦礫になるまで叩き壊したかった。だがこの瞬間、彼は息をすることすらできそうになかった、ましてや腕を上げることも。
《宿命的心酔》 アート:Winona Nelson |
「また会えるかい?」 タナシスの声はさらに小さくなった。
パーヴィオスは息をして壁に寄った。「わからない――」 彼は躊躇しながら言った。「――あの時以来、僕は――」 彼は口ごもった。「うん」 最終的に彼は頷いた。
「明日、正午に会えるかな?」
「どうにかする」
「君を待ってる」 タナシスは言った。「おやすみ、パーヴィオス」
「おやすみ、タナシス」 パーヴィオスは上掛けの中へと這い戻った。
「それと贈り物をありがとう、パーヴィオス」
パーヴィオスは微笑むと、眠るのが待ち切れなかった。寝台に引いたウサギの毛皮の外套を顎まで引き寄せ、深く息を吸うと眠りへと滑り込んだ。
織り糸のもつれは解き難い。アドラステイアはそれを彼女の柔らかく皺の寄った指で揉み、撚りをほぐそうと鉤針ですいた。もしかしたら一つは救えるだろうか、その曲がりくねった旅を続けるために? だが悲しいかな、これら二本の糸を共に編んだ妹の器用な技巧は彼らの運命を固く結び付けており、一つだけを終わらせるという試みは浅はかだと言える。一つは縦糸、一つは横糸。片方を失えばもう片方は綴れ織りを弱め、取り返しのつかない裂け目を残すだけだろう。とはいえ彼女と姉妹たちは統制してきた、テーロスの全てのもの、その多くの運命を――神々そのものの運命さえも――曲げるべきではない規則があり、また決して壊してはならない規則も幾つか存在する。
《運命をほぐす者》 アート:David Palumbo |
彼女は長机の下から、黒すんだ染みのある粗末な作りの箱を取り出した。それはこの世界には決して育たない、節くれだった古の木から造られていた。彼女はそれを開くと、箱の銀の蝶番は軋む音をまったくたてなかった。内部は熟した桃の色をしたビロードで縁取られ、三つの道具がその底に綺麗に並んでいた。銀の指抜き、長く繊細な骨製の千枚通し、そして一対の曲がった黒檀の鋏。アドラステイアは鋏を手に取り、箱を長机の下に戻した。
その鋏は夜空の虚空のように黒く、琥珀色の明りも偏在するニクスの領域も反射していなかった。その刀身は取手から始まり、まっすぐで鋭く、互いに寸分違わず噛み合う。だが閉じられたなら著しく不調和となり、わずかに湾曲して不可解に内へと入り、そして互いを通り越して切断は終わる。その鋏は完全に閉じられたことはなかった。かつて、パーフォロス神は彼女へと新たな鋏の一振りを提供していた。その贈り物に彼女と姉妹たちはこの良き三十三年間、絶え間なく笑ったものだった。
アドラステイアは撚り糸のもつれへと再び向き直った。ある者は個々の織り糸の状態は危険すぎると見るだろう、彼女はそう考えた。生者や神々は欠陥とみなすであろう芸術的価値は抜きにして。一つの欠陥は審判を暗示している。それは一連の除外をめぐる基準を必要とし、そしてそれらはある瞬間から次まで調和し続けることが予期される。この部屋において、そのようなものは幻影に過ぎない。運命には欠陥も、永続する美もない。真の美とはただ一つ、冷静な完全さのみ。
それでも、はかない瞬間に、アドラステイアはその織り糸に美を感じ取り、真価を知り、そして時折、称賛を抱いた。だがそういった瞬間が過ぎ去れば、常に残るのは完成を待ち受ける務めだった。
そこだ。彼女は後ろからそのもつれを解いた。準備はいい。アドラステイアはそれを親指と人指し指で摘んだ。それらは針の絶え間ない刺激と無限に続く織り糸の動きにすり減って強張り、硬化していた。彼女は歪んだ鋏を大きく開き、刃の先端をもつれの喉元へと構えた。
先にその露頭に到着したのはパーヴィオスだった。空は雲っており非常に寒かった。外套の下、彼は食糧と衣服とナイフ、メレティスのデカティアを去る時に教師が与えてくれた秘術の教本、火打道具、そして長旅に必要な様々な物品を背負っていた。その朝早く、父親より先に目覚めると、彼は心を決めた。メレティスには戻らない。タナシスの前から去り、別の者と結婚するという考えは彼の腹にもつれ、それは恐慌となって彼を掴んだ。どこへ行くべきかはわからなかったが、もしタナシスが了承してくれたなら、行き先は決められるだろう。
彼はタナシスが贈り物を持ってきてくれることを願っていた。メレティスにて婚姻の証として彼に贈られた小剣。もし彼とタナシスが共にいることが定めなら、その剣は二人の運命において欠かせないものとなるだろう。
もしタナシスが拒否したなら、パーヴィオスは独りで旅立とうと決心していた。もしかしたら命を絶つかもしれない......タナシスのいない人生など受け入れられそうにないだろう。そう考えて彼は不安になった。タナシスは拒否するかもしれない――今回もまた自分は無遠慮すぎるだろうか、ここで一緒に過ごした最後の日のように? 彼は冷や汗をかき始めた。外套を脱いで背負い袋を下ろし、その二つを地面に置いた。冷気に打たれ、彼は温まるために葡萄酒の袋を取り出した。
パーヴィオスは唸り声を聞いた。かつて遭遇したどんな獣から聞いたものよりも低く恐ろしいものだった。この広い露頭と下り坂の小路の向こう側に、動くものがぼんやりと見えた。雪の毛色をした分厚いたてがみの獣が、一羽のウサギを引き裂いていた。パーヴィオスは身動きしなかったが、そのウサギが殺され、裂かれ、素早い噛みつきで食われるのを見ていた。その殺し屋の顎からは血と毛皮がしたたっていた。
《羊毛鬣のライオン》 アート:Slawomir Maniak |
それは顔を上げ、空気の匂いを嗅ぎ、そしてパーヴィオスを見た。
恐慌に陥り、パーヴィオスは獣と反対の方向へ駆け出し、エモンベリーの樹を過ぎて狭い曲がりくねった道を転げ落ちるように下った。タナシスとここへ来ていた時、彼は露頭やそこへ至る小路の向こうを探検したことはなかった。そのジグザグの小路が二人の会合場所の向こう、どこへと続いているのかを彼は知らなかったが、ゆっくり考える余裕などなかった。
彼は振り返らなかった。小路は次第に狭く危険になっていき、足を踏み外す危険は冒せなかった。そして獣が背後にいるのか、彼を捕えるために飛びかかろうとしているのかなど知りたくもなかった。それならせめて素早く起こって欲しいと思った、あのウサギのように。
パーヴィオスは峡谷の底に辿り着いたが、それでも立ち止まりも振り返りもしなかった。前方の岩壁の間に小さな開口が、小さな洞窟があるのを見た。彼はそこに達するとはい登って中に入った。彼は息をひそめ、隠れ場所が見つからないように息切れも抑えた。
どれだけの時間、どれだけの距離を逃げてきたのかわからなかった。息切れは収まったが、彼は恐怖と寒さに震えた。そして獣が来るかどうかを見張りながら、しばらくの間その場にじっとしていた。それは姿を現すことはなかった。
新たな恐怖が彼を捕らえた。タナシスは自分に会いにやって来ているはずだ。彼は獣の顎へとまっすぐに進んで行ったのかもしれない。
パーヴィオスは隠れ場所から這い出た。獣の姿はどこにも無かった。彼は曲がりくねった道を急ぎ戻ったが、険しい峡谷の壁を登る足取りは遅かった。
露頭の近くまで辿り着く頃には夜になっていた、だがあの生物が彼の荷物を漁った様子が見てとれた。彼の持ち物は散らばり、背負い袋は引き裂かれて露頭の端に転がっていた。それは血で汚れていた。パーヴィオスはそれが獣の食べたウサギのものであることを願った。
パーヴィオスは露頭へと登ってきた。「タナシス?」 彼は呼びかけた。「隠れてるのか?」
耳障りな呼吸音が聞こえた。パーヴィオスは明りのない中を見渡した。そこには、エモンベリーの樹に寄りかかっているタナシスがいた。彼の上着は血で濡れており、その胸にはパーヴィオスが彼に贈った小剣が突き刺さっていた。タナシスの膝の上には彼がパーヴィオスへと与えた外套が横たえられていた。それは裂けて血に汚れ、ウサギの毛皮の縁取りは千切れていた。
パーヴィオスは叫びを上げて友へと走った。「おい――何があったんだ?」 彼は友を助け起こそうとしたが、立ち止まった。自分に何ができる? 剣を引き抜くべきか? タナシスを動かせるのか? アクロスへと助けを求めに走る時間はあるのか? 彼の心はめちゃくちゃの思考で埋めつくされた。彼はタナシスの頭部に手を触れ、顔にかかった髪を払った。タナシスの目がわずかに開いた。彼の手に、友の肌は青白く冷たかった。
「パーヴィオス」 タナシスは彼の名を口にしようとした、だが声はついて来なかった。精一杯奮闘し、彼は浅く息をして声を絞り出した。「殺された、のかと......」 その声はかすれて消えた。
「違うよ」 パーヴィオスは言った。目に涙が溢れた。何が起こったのかは恐ろしいほどに明らかだった。「僕は生きてる、大丈夫だ」 彼は裂かれて血まみれの外套を手に取り、タナシスを包んで温めてやろうとした。ウサギの毛皮の破片がぶら下がり、その毛が抜け落ちて、タナシスの口元からしたたる血に浸った。タナシスは外套と背負い袋を発見し、そして血を自分のものだと思い違いをしたに違いない。彼の母の死を恐ろしいほどに思い起こさせる状況だったのだ。絶望の中、タナシスはその剣を心臓に突き立てて自らの命を絶とうとしたのだろうか?
タナシスの弱々しい息が終わった。二人を夜が覆っていた。パーヴィオスは暗闇の中、涙の向こうに友の顔をかろうじて見ることができた。彼は自分の額でタナシスのそれに触れた。「行かないでくれ」 彼はそっと言った。
パーヴィオスは頻繁に神へと祈るわけではなかった。神々のことは知っていたが、祈る時も祈る目的も滅多になかった。だが今、彼は死者の神エレボスへと呼びかけた。「偉大なるエレボス様」 彼は嘆願した。「タナシスを愛しています。連れて行かな......」 パーヴィオスは声を呑みこんだ。彼は祈りに慣れてはいなかったが、神々に要求をするのは賢明でないとわかっていた。「お願いです、エレボス様......彼がいなければ僕は生きていけません」
《死者の神、エレボス》 アート:Peter Mohrbacher |
その剣を。
それは声ではなかったが、彼は確かに聞いた。
我が国にて、おぬしはその者と再会できるやもしれぬ。その剣を用いるがよい、彼の者の命が身体を離れる前に。さすれば共に来ることを許そう。
エレボス神は彼に応えてくれたのだ。「エレボス様」 パーヴィオスは言った。「怖い、です」
おぬしの旅を安らかなものにしてやろう。痛みはない。
パーヴィオスは剣の柄を握り、それを友の胸からそっと引き抜いた。タナシスの体温に、金属の刀身は温かかった。彼は立ち、刃を返すと自身の心臓に向けた。彼はそれを自分の力で肋骨の間に押し込むことができるとは思えず、そのため彼はタナシスの方を向いて前方へと倒れた。剣の柄が地面を打ち、刃がパーヴィオスの心臓へと滑り込んだ。衝撃を感じたが、痛みはなかった。事実、すぐに彼は幸福を感じた。刃が身体を貫くと、彼は大声で笑った。だがその感情は素早く過ぎ去り、瞳を閉じると、彼はタナシスの膝へと自身の頭を横たえた。
二人の下、その血は共にエモンベリーの樹の根へと沁み込んでいた。
もしかしたらそれはほんの一瞬の動揺だったのかもしれない。彼女は織り糸に鋏を入れた時、切り幅を髪の毛ほどの細さで見誤った。鋏の刃は糸の縺れと、彼女の親指の端までもとらえた。アドラステイアは歯の間から素早く息をついた。その傷を吸うと、単調で重い銅の味を感じた。涙もろい馬鹿な老人よ、彼女は自らを叱責した。そして自身とその愚かな心へと、生者の労苦に心動かされるべきではないということへの教訓とした。
彼女は綴れ織りの上に屈みこみ、目を細めて、わずかな血の一滴で染みができているのを見た。
アドラステイアは歪んだ鋏と織り糸のもつれを箱に入れ、蓋を閉じた。
BornoftheGods 神々の軍勢
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