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Magic Story -未踏世界の物語-
実験体
読み物
Uncharted Realms
実験体
Kelly Digges / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2013年2月20日
その実験室への入り口は、湿っぽく苔に覆われた壁にはめこまれた目立たない扉だった。リアーナは引き返してようやくそれを発見した。彼女が扉をノックすると、それは軋む音を立てて開いた。
「すみません?」 彼女は言った。
彼女は所在地を再度確認し、黴くさい空気を深呼吸すると、中へと足を踏み入れた。
目が慣れるにつれ、彼女はその部屋が完全な暗闇ではないとわかった。天井から下げられた緑色の生体発光球が辺りを薄暗く照らしていた。彼女の足音が冷たい石の床に響いた。
研究室の奥深くから、とりとめのない鼻歌が聞こえてきていた。
「すみません?」 彼女は再び声をかけた。「リアーナと申します。オズボルト師に弟子入りをしたくお伺いしました。こちらにいらっしゃいますか?」
鼻歌が止まった。
「リアーナ」 別の部屋から軋むような声がした。「素敵な名前じゃないか」
彼女はたじろいだが答えた。「ありがとうございます」
「それに比べて、オズボルトとは」 その声は言った。「ちょいと変わっている。不快と言ってもいいくらいだ。そう思わないかい?」
痩せて寝癖頭の一見して標準的な人間男性が、穴だらけのぼろ布で手を拭いながら部屋に入ってきた。
「フローリンと呼んでくれたまえ」 彼は立派な両眉の下から微笑むと、威嚇的な雰囲気は全て消え去った。「私の喜ばしきファーストネームだ」
フローリンは目をしばたたき、辺りを見回した。「おお幽霊よ神よ、申し訳ないことをした。ここはひどいものだ」 彼は壁の苔むした一画に触れた。すると天井から下げられた球が白熱し、陽光ほどもある明るさにまで達した。
「お会いできて嬉しく思います、師フローリン」 彼女は言った。
「師、ね」 彼は鼻を鳴らして嘲笑った。「そう言い張るのかね」
彼は歳を経た男性で、その薄くなりかけの髪と無精髭の生えた頬から、恐らくは彼女の父親ほどの年齢に達していると思われた。シミックの熟達の生術士ならば、自然に加齢することは風変わりと言えるかもしれない。それが決して曲がった腰や悪い脚といったようなものではない、突飛な何かに表れているようには見えずとも。
「お弟子さんを多くとられてはいないようですが」 リアーナが言った。
「滅多にね」 彼は言った。「私に多くの需要があるとは言えないし、言論者達は私を重くは考えていないからね」 彼は鼻であしらうように言った。「おおかた、君が私の所に来たのは罰か何かなんだろう」
「そんな事はありません」 彼女は言った。「私は言論者様へ、どんな研究分野よりも互換哲学に興味があると言いました。そして、ムラト師がこちらを紹介して下さいました」
「哲学」 彼は目を輝かせて言った。「それなら全く別の問題だ。君のことを聞かせてくれ」
「生命を操る私達の力は驚異的なものです」 彼女は言った。「そして私達は生物学好きの変わり者であり続けるのではなく、この力で創造を行う責任があります。私達は作り出すことができます、ここにある貴方の照明システムのように、人々の生活を改良できるものを。私達は他のどんなものとも違う医学療法を提供することができます。そしてこの都市での生活を改良できます、皆のために」
「ああ」 彼は言った。「危険な考えだよ。動物を何体か混ぜて何が出て来るのかを見る方がずっと簡単だし、ずっと安全だ。それには設備や公表や研究に対する承認が要ることになる」
彼はにやりと笑った。
「だがね、もし君がそんな事のためにここにいるんじゃないなら――もし君が経歴よりも哲学を重要視するなら――それならもしかしたら、君はこの世界で本当に違うものを作り出せるかもしれない」
「それならば」 彼女は言った。「私はまさに、いるべき場所にいるのだと思います」
その鼠の左前足は肘にあたる部位の下で途切れていたが、その動きの速さは全く遅くなってはいないようだった。ついに、手袋をはめたリアーナの手が鼠に覆いかぶさると、彼女はキーキー言う悲鳴を無視してそれを囲いから持ち上げた。
「被験体23、準備できました」 リアーナは言った。被験体23はその頬ひげを小刻みに動かし、彼女へと鳴いた。
「続けろ」 フローリンが言った。
リアーナは綿棒を目の前にある粘体の瓶に浸し、それを鼠の失われた足の断面に注意深く塗った。彼女が鼠を保持している間、その粘体に覆われた足にフローリンが包帯を巻いた。そして彼女は新たな個体ケージへと鼠を入れた。
それは辛い仕事ではなかったが、少々神経にくるものだった。これほど沢山の、傷を負ったネズミを何処で調達したのか、彼女は師フローリンへと尋ねることはしなかった。だが1-2週間に一度立ち寄るイゼット研究者と何か関係があるのではと疑っていた。
「今のがこの個体群の最後になります」 彼女はそう言って手袋を脱ぎ始めた。
「素晴らしい!」 フローリンが言った。「我々はこれで発展をもたらせるだろう」
リアーナは頷いて手袋を外した。「これ」は革新的な四肢代替療法だった。彼女は新たな肢を移植する、いくつかの成功した手法を耳にしたことはあったが、これは違うものだった。擬態質の粘体を読みとりに用いて、究極的には失われた肢型を再構成するという手法だった。それは細胞質体を生体へと移植する、禁じられた使用法にあまりに近づきすぎていると彼女は悩んだが、粘体そのものが寄生や転移を行うことはない、師フローリンはそう彼女に保証した。そして彼らは実験を始めた。
そのように、彼らはひたすら鼠に粘体を付加していった。数体は合併症のために死んだ。うちの一体からは翼が生え、その個体群は更なる試験対象とされたが、それは他のどれよりも汚染を被っていた。
師フローリンは自身の手袋を外し、水盤で手を洗うと、別の部屋へ来るようリアーナを促した。彼女はその意味を知っていた。
弟子入りしてから数日で、リアーナは実験の一仕事を終えた直後に哲学的討論を行うという彼の魅力的な習慣を知った。
「無論」 彼は答えた。「哲学というものの問題は、すぐに抽象的になりすぎるということだ。常に君の手を最初に汚す、誰かが君の考えを行動に移す必要があることを君へと思い出させるために」
「何故我々はできる事をやるのだろうかね?」 彼は彼女へと躊躇なく尋ねた。
彼女は返答の前に深呼吸した。彼女は早くに、考えなしに回答すればこの会談は非生産的な方向に進んでしまう、もしくはもっと悪いことに、宿題にされると学んでいた。故意に無知な回答をするか、もしくは、その質問の意味を明確にするために驚いてみせるか。
「水深の布告は極めて明白に定義しています――」
「ふん?」 フローリンは軽蔑するように言った。「私はもう知っているよ、首席言論者様のこの質問に対する答えをね。君の答えが聞きたいんだ」
つまり、個人的な哲学。そちらの方がずっと面白い。
「私が思いますに、ギルドとしてのシミックは、欲望を抜きに自然の生命を理解し保護しています」 彼女は言った。「師も私も、何よりも、自然の生命には知的生命も含まれるという事実を認識しています」
「全くもってその通り」 彼は言った。「だがどうだ、本当に、それは知的生命を倫理的に保護することを意味しているのか? 鮫や鰐にそれ自身の計画はない。人々に対して同じことは言えない」
リアーナは渋い顔をした。「真理です。では......私達にできる最良のことは、彼らの重荷を解いてやること、彼らによりよい生を生きる機会を与えてあげることだと思うのです。動物にするように人々を弄ることできません」
「我々は、『他の』人々を弄ることはできない」 フローリンが言った。
彼は深呼吸をした、長い話を開始する、彼のいつものサインだった。
「あるイゼットの薬術師と知り合いだった。とても賢い女性だった。彼女は何十もの輝かしいアイデアを持っていた、そのどれを選んでも、構築に生涯を費やすであろうものを。自然と、彼女は一つだけを選ぶことはできなくなった、その代わりに......ああ、彼女は『神経系加速装置』と呼んでいたな、それを作り上げた。いかにも彼女らしかった」
「彼女は製作に年月を費やし、ついにそれを動かそうという時、自分に使用すると主張した。それは良心の呵責によるものじゃなかった。イゼットはいつでも、彼らの装置を不運なゴブリンで試すんだ。自分自身を加速したらどうなるか、彼女はそのことに一番興味があったから。そして彼女は始めるのを待ち切れなかった」
「何時間かして、彼女は死んでしまった。明らかに脳が焼き切れていた。だがその間に、彼女は多くの記録をとっていた。その加速された思考でおびただしい量の記録を。イゼットは革新的な魔力システム、実践的理論の論文、そして彼らが今も作りだそうと試みている装置の設計図を発見した。たった半日だけで、彼女は生涯に値する学術的仕事をやってのけた」
「君への質問はこれだ。『彼女は正しい事をしたのだろうか?』」
人生全てを一度に放り投げてしまうという考えに、リアーナは縮み上がった。だがその利益は......
「私のせいで、そうしたいと望まない者を失いたくありません」 リアーナは言った。「ですが、はい。その人は正しいことをしたのだと思います」
「そうだ」 フローリンは頷いた。「私もそう思う。だがね、私は想像したものだった、彼女が思い描いていたほど完全な成功ではなかったのではと。そこで、彼女の歴史からの本当の教訓だ。周りの世界を改良したいと思うなら、自分を改良することから始めるべきだ。そして君自身を改良できた時、以前の君が驚き、不安さえ感じるやり方に変えるかもしれない」
彼は椅子から身をのり出し、そしてその瞬間彼女は師の瞳に何か異質な、そして恐るべきものを見た。
「君にその心構えはあるかい?」
「そ......そう思います」 リアーナは答えた。
「よろしい!」 彼はそう言い、数瞬の後、再び無害で風変わりな老人に戻った。「思うに、今日はこれで上がりにしよう。午後はご友人のジョヴァン君と過ごしてもいいんじゃないかね」
「え......どうして、私があの人に会うと思われたんですか?」
師フローリンは瞳をぐるりと動かした。
「生術力だよ」 彼は指を振りながら言った。「それとね、先日君が彼について話していた感じから、かな」
リアーナは顔を赤らめた。「そんなにわかりやすかったですか?」
師はただ再び瞳を動かしただけで、彼女を研究室から追い払った。
翌日、被験体23に移された粘体は成長を始めた。一週間のうちに、その鼠は四本の脚で跳ね回るようになった――毛皮に覆われた三本と、ゼラチン質の一本で。リアーナがそれを見せた時、師フローリンは彼女がかつて見たこともなかったほどに大きく、明るい笑みを見せた。
「これをもって」 彼は言った、「ついに始める準備が整ったと言えるだろう」
とはいえ、彼の謎めいたアナウンスは幾分早計だった。師フローリンが「実験体」と呼ぶ秘密のプロジェクトを実行するに至るまでには、数日の試行錯誤を要した。更に彼はリアーナへと、実験室を適切に準備するためにもう数日が必要と告げた。
彼女は陰気な雨が降る朝、実験室に戻った。彼女の外套は湿気と寒気をほとんど防いでいなかった。
中は、彼女がその実験室に初めてやって来た日のようだった。暗くじめじめとして、誰も見当たらなかった。彼女は濡れた外套を扉にかけた。
「師フローリン?」 彼女は呼んだ。
標本室には明りがついていた。実験室の様子はリアーナが訪れた日と同じように見えたが、それは何かが決定的に間違っていることを示している、彼女はその予感を振り落とせなかった。彼女は明りへと向かった。
標本室は彼女が去った時そのままであるようだった。ケージの列、機材の乗った机、そして有機体代替混合物が光を放つ、粘体の大桶がいくつか。
そして大桶の一つに入っている粘体が......動いていた。
床は滑りやすく、そのため彼女は慎重な足取りで大桶に向かった。それが再び動いたならすぐに離れられるように構えて、彼女は縁から覗きこんだ。
粘体には形と色があった。あるはずのない不純物が。赤みを帯びた曇り、暗い軸......肢。人間の肢。
そしてその粘体はよろめき持ち上がった、吐き気を催すほどに素早く。黒ずんだ姿が大桶から立ち上がり、彼女は灰汁で滑る床を素早く後ずさった。
「師フローリン!」 彼女は大声を上げた。「いらっしゃるのですか?」
そして粘体が目を開け、彼女は理解した。フローリンはここにいた、もしくは今もいるのだと。
粘体は彼の姿をとっていた、ちょうど鼠の失われた肢の形をとるように。
それは彼の頭をゼラチン質で再構成していた。髪はなかった。そして二本の半透明の腕が、濃縮された粘体の塊の上へと身体を持ち上げた。「それ」の表面の皮膚を通して骨と、分解された内臓組織網が彼女には見えた。だがその顔は......その顔は紛れもなく彼のものだった、そしてその瞳はいつものように輝いていた。
「ごきげんよう、リアーナ」 フローリン・オズボルトであった「それ」は言った。今も軋むような声で。
彼女は後ずさり、乾いた床に辿り着くと、扉の側へと急ぎ引き返した。
「何をなさったんです?」
「私が常にやってきた事だよ」 粘体は言った。「私は自分を改良してきた」
「改良? どのように改良されたのですか?」
彼は笑った。馴染みある声も、粘体の山の口から恐ろしい音となって放たれた。
「私は今、よりよく考えることができる」 彼は言った。「私の消化器官はもうない。私は床を動くだけで栄養を摂取することができる。考えてみるがいい! 飢えも、アドレナリンも、欲情も、怖れもない」
その物体はゆっくりと前進した。瞳は彼女を見据え、粘体の触手が身体の下にのたくっていた。
「実験の欠陥はもうわかっている。私は失われた臓器を置換しようとした。今や私にはわかる、真の問題は、我々が生来持つ、脳も含めた臓器の脆さと愚かさだ。特に、脳だ」
「ひどい」 彼女は言った。「師、あなたを助け出さなければ。議会と話しましょう。あの方達ならば、師を癒してくれます」
「癒しなど要らん!」 彼は叫んだ。「言ったはずだよ、君。世界を改良するには、自分を改良することだと。そして自分自身を改良した時、その変化に驚くかもしれない......」
「不安さえ感じるかもしれない」 彼女は言った。そして身震いした。
「君は人生を改良したがっている」 彼は言った。「私は君の献身を疑ったことはないよ。君も来るんだ、この大桶へと入ろう。君自身を作り変え、そして私達でこの壊れた世界を作りなおそう」
彼はにじり寄り、リアーナへと手を伸ばした。
彼女は踵を返すと暗い実験室をよろめき逃げて、濡れたままの外套を放って扉から出ると、道を下っていった。雨の中を構わずに。
彼女には振り向く勇気など無かった。
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