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戦略記事

ReConstructed -デッキ再構築-

マジックと私

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マジックと私

Gavin Verhey / Tr. Tetsuya Yabuki / TSV testing

2015年6月2日


 ちょうど25年前の1990年3月29日午後7時47分。ワシントン州シアトルの郊外で、ある男の子がこの世に生を受けた。彼の母親は何ヶ月もかけて考えていた名前を、出生証明書に書いてもらった。「ガヴィン/Gavin」。それは、赤ん坊の父親が所属しているロックンロール・バンドの、かつてのメンバーの名前だった。

「ガヴィン・ヴァーヘイ/Gavin Verhey」母親は言う。「いい響きだわ」

 これが、私の物語のはじまりだ。

第一章――元気な男の子

 私の父は電気技師で、頭の回転が速く賢く、おまけにとてつもない敏腕ビジネスマンだった。休日には、「クローゼット・ロッカーズ/Kloset Rockers」という名前のロックンロール・カバー・バンドで演奏をしていた。

 彼は私にこう言ったことがある。「おまえなら、クローゼット/Closetの綴りを『K』にしているところがカッコいいんだって分かってくれるよな」父の見事なユーモア・センスを理解するには、当時の私にはまだちょっと早かったかもしれない。

 私の母は軍人で、看護師で、教師だった。強く、たくましく、どんなことでも笑顔で教えられる教師の才能もあった。生徒がどれだけ間違えようとも、その問題に立ち向かっている限り最後まで付き合ってくれる、そんな教師だった。

 両親には多くの好みの違いがあった。父は肉が大好きで、母はベジタリアンだ。母は『スター・トレック』が好きで、父は『スター・ウォーズ』を好んだ。

 だがそんな彼らでも、このおもちゃを口にしている子供の前では好みの違いなんてどうでもよかった。

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 とはいえ、私はひとりっ子だったわけではない。私には相棒がふたりいたのだ。ひとりは、姉のレズリー/Leslieだ。

 レズリーと私の仲が良かったのはもちろんだが、それでも数年が経つと、弟のタナー/Tannerと一緒にいることの方が多くなっていたと思う。

 パブリック・スクールに短期間通わせたのちに、母は私たち兄弟をホームスクーリングで教育することに決めた。そしてこの経験こそが、私たち兄弟を本当の「相棒」にしたのだった。

 そんなわけで、私たちのあるべき場所は家だった。最高に幸せな家族の一員だった。私たちはよく学び、夕方にはよく遊び、日々を過ごした。

 だがこの時はまだ、私の人生にはある重大な要素が欠けていた。私にとっては大切な家族の一員とも思える、あるものが。私たちを強く結びつけ、病めるときも健やかなるときも私たちそれぞれの道を拓き、そして私たち家族のきずなを永遠のものにしたあるものが。

 何が欠けていたのかって? マジックさ。

 みんなも知っているように、私は成長するにつれて様々なスポーツを楽しんだのだ。

 私はバスケットボールの大ファンだった......少なくともシアトル・スーパーソニックスがなくなるまでは。

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 そしてゴルフ。これはタナーと私で挑戦したものの......お気に入りにはならなかった。

 それから、うちの家族はみんな野球の大ファンだった。私も子供のころの夢は、ずっとプロ野球選手だったものだ。父はシアトル・マリナーズのシーズン・チケットを分けてくれたし、私自身も地元の少年野球チームでプレイしていた。

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 しかし、ある出来事がすべてを変えた。それをきっかけに、私のメジャー・リーグでプレイするという夢は、別の道を進むことになる。


 8、9歳くらいだったころのある夏の日、私はコンピューター・キャンプに参加した。母は、ホームスクーリングで学んでいた私たちに、チャンスがあれば外に出て他の子供たちと交流させることが必要だと考えていた。それから、母は自分では教えられない分野を、子供達に学ばせることも大切だとも考えたのだ。コンピューター・キャンプで、私にDOSのプログラミングについて大いに学んだ......そして何より、様々なジャンルのコンピューター・ゲームで遊ぶことができた。

 お昼休みの1時間、私たちは毎日コンピューターで遊んだ。リアルタイムストラテジー・ゲームの大会を開いたり、ゲームの中でカー・レースを楽しんだり、様々なメカを破壊したりした。コンピューター・ゲームに触れたのは、これが初めてだった。

 そして、最も思い出深い瞬間がやって来た。それはある日、私が曲がる角を間違えていつもと違った道を通ったときだった。コンピューター・ラボに向かっていた私は、たまたま休憩所のそばを通り過ぎることになった。中ではスタッフ――大学生たち――がテーブルを囲み、私たちがやっているコンピューター・ゲームとは違うもので遊んでいた。テーブルの上で、「カードを使った」遊びを!

 横を通り過ぎながら、たしか私は《ジャッカルの仔》とかそういった言葉を耳にしたんだと思う。私は鼻先がテーブルの上に出るようつま先立ちになり、テーブルの上を覗き見た。

 カードの裏面には、「マジック:ザ・ギャザリング」と書かれていた。

 ゲームの様子はほとんど見ていなかった......それでも、それは私の想像力をかき立てた。

 これこそが、マジックの最も驚くべきことのひとつじゃないだろうか? このゲームが実際にどんなものなのかほとんど知らない状態で出会ったら、いったいどれだけの人がもっと知りたいと感じるだろうね? 一度味わってしまえば、もう更なる探求心を抑えることができなくなってしまうのだ。

 その夜、私は家のコンピューターに向かい、AOL(訳注:アメリカの大手インターネットサービス)に接続して当時存在したあらゆる検索エンジンを駆使した――たぶんAsk Jeevesとかを使ったんだと思う。そして、マジックというゲームについて可能な限りのことを調べた。簡単に見つかるものはほとんどなかった。それでも私は、様々なカード・タイプを網羅したウェブサイトにたどり着いた。

 私はそれらを暗記し、このゲームについて何も知らない弟に「クイズ」を出していた――まるでこのゲームについて語り合う仲間にそうするように。私は来る日も来る日もマジックというゲームに思いを巡らせ、「アーティファクト」とか「クリーチャー」とかいった神秘的なカード・タイプの空想にふけった。だが当時の私には問題がひとつあった。母がこのゲームで遊ぶことを許してくれるとは思えなかったのだ。この子にはまだ早い、と母に思われるのが怖かった。そして実際に、マジックは13歳以上が対象のゲームだった。

 だから私は我慢した。マジックはゆっくりと、だが確実に、私の脳裏から離れていったのだった。

 数年後のあるときまでは。

 2001年1月25日。この日は正確に記憶している。私の人生が完全に変わった日だ。

 私たちは(かつてあった)ウィザーズ・オブ・ザ・コーストの直営店にいた。母がカウンターの向こうにいる美しい女性と話を始める。やがて、母はマジックが悪いものではないと納得した。

「ガヴィン、これで遊びたいのね?」

 私はすぐに頷くことができなかった。

 こうして、すべてが始まったのだった。

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 私は入門用のCD-ROMを見て遊び方を学び、それを弟にも教えた。入門用のデッキしかなかったにも関わらず、私たちは何時間も遊び続けた。家中の至るところでカードを操った。基本的な戦略やルールについて語り合った。

 私たちが持つカードは1枚たりとも無駄にできなかった。私たちの中ではすべてのカードが世界に1枚しか存在しないものであり、ひとたびトレードが行われれば「メタゲーム」が一変した。《ほくちの加工場》と《用水路》のトレードが是か非か、私の頭の中で天秤が揺れ動き続け、3日も費やしたことを思い出すよ。私の初めてのレア・カードは《荊景学院の師匠》だった。それは今でも、トップローダーに入れてクローゼットで保管している。

 私は、手当たり次第にマジックに関わるものを求めた。

 こんな風に遊び続けられるゲームは本当になかった。私たちは様々なゲームに次々と手を出してきたけれど、マジックは何週間経っても私たちを捕らえて離さなかった。私とタナーは夕食前のわずかな時間や両親が話し込んでいる間、寝る前のちょっとした時間など、そういうときにも遊べるものを手に入れた。そして、マジックは周りに広めたくなるゲームだった。私たちは、友だちはもちろん、両親さえも巻き込んで遊びたくなったのだ。

 結局のところ、それから3年にわたり私の誕生日会がマジックをテーマにしたものになるかどうかは、私が友だちをマジックに引き込めるかどうかにかかっていたわけだね。

 そして私には、きっと一生忘れないであろう瞬間がある。「マジック狂い」の日々が何週間も続いたある日、父が私と弟の部屋のドアから顔を覗かせた。「そのゲーム、まだ遊んでたのかい?!?」と、父は信じられないというように私たちに尋ねた。

 私と弟は頷いた。

「わお。一体何がそんなに面白いんだい? 別のゲームもやった方がいいんじゃないか?」

 父はドアを出て行った。その刹那、ある考えが私の頭に浮かんだ。私は大きな声で返した。「いつかこのゲームで、たくさんお金を稼いでみせるよ」

 父の笑い声が遠くから聞こえた。「ああ、そう。頑張れよ」

 私が少年時代に学んだことを聞かれたら、この瞬間を挙げるだろう――頑張って欲しくないことには、「頑張れよ」と言ってはいけないのだ。

 こうして、歯車は動き出したのだった。

第二章――旅のはじまり

「大人になったら、マジックのデザイナーになりたい」

 私が11歳のとき、両親に言った言葉だ。この言葉は私の中にしっかりと根付き、私を決心させた。私なりに頭を悩ませたが、他のあらゆる仕事が物足りなく感じたのだった。

 私たち兄弟のマジックへの熱意を見て、両親はよく私たちの住むワシントン州エドモンドのカード・ショップへ連れて行ってくれた。そこで何度か遊ぶうちに、私はマジックにデザイナーがいることを知った。マジックのカードを作るひと。それはすでに私がやっていたことだったのだ! 私はよく、オリジナルのマジックのカードを空想していた。そんな私ならきっと、マジックのデザイナーになれるはずだ!

 それから、この地元のお店で「プレリリース」と呼ばれるものが開かれることを私は耳にした。どうやら新しいカードで遊べる場になるらしい。だが私にとってそれより大事だったのは、その「プレリリース」に本物のウィザーズ社員がやって来るということだった! 私が声をかければ、彼らはたちまち私を雇うに違いない。

 私は両親を説得し、『オデッセイ』プレリリースに連れて行ってもらった。そしてメイン・イベントを敗退すると、スペルスリンガーを楽しんでいる人のところへ話をしに行った。ランディ・ビューラー/Randy Buehler――当時の開発部ディレクターのところへ。

「マジックをデザインする仕事に就くにはどうすればいいですか」私は尋ねた。

 ランディは私を真っ直ぐ見つめ、誰に対してもそうするように真剣に向き合ってくれた。「いいかい、必要なことはふたつある」と、彼は切り出した。「ひとつは、大学を卒業することだ」

 私の小さな心は深く沈んだ。そんなの、一体「どれだけ先の」ことなんだ? ここから何年も何年もかかるじゃないか! 私は大きなショックを受けた。

 だがランディはさらに続ける。「ふたつ目は、私たちがマジックを作る助けをしてもらいたくなるくらいマジックに詳しい人になることだ。そう、プロ・プレイヤーのようにね」

 小さな希望の光が、私の腹の底で再び瞬いた。大学については何もわからない......でも、マジックのプロ・プレイヤーになるのはどれだけ厳しいことなんだろう?

 こうして、なりたい職業とともにマジックのプロ・プレイヤーというものが私の中に根付いた。私はマジックのデザイナーとして雇ってもらえるその日まで、競技プレイヤーとしてマジックをプレイすることにしたのだった。

 私は参加可能な大会を調べ始め、あらゆる大会を貪るように調べ上げた。大会はフライデー・ナイト・マジックだけじゃなかったんだ! 私たちには、あらゆる競技的な舞台が用意されていた!

 そして、まさに私にぴったりな大会が見つかった。ジュニア・スーパー・シリーズ/Junior Super Series(略してJSS)、それは16歳以下のプレイヤーが大学の奨学金をかけて競い合う大会だった。この大会の出場方法は、プロツアーと極めてよく似ていた――予選イベントで決勝まで進出すれば、奨学金を獲得できると同時に、その年のジュニア・スーパー・シリーズ本戦に出場できるのだ。

 この大会のおかげで、私は両親に応援してもらえたのだった。

第三章――ふたつの大会

 ホームスクーリングで学んでいた私たち兄弟は、他にないユニークな家庭環境にいた――我が家は、他の家庭と比べて圧倒的に旅行へ行く回数が多かったのだ。とりわけユニークなことに、私たちは一年の半分をワシントン州で過ごし、もう半分をアリゾナ州のフェニックスで過ごしていた。両親ともに寒いのが大の苦手で野球を愛していたものだから、毎年冬には暖を求めて南下し、野球の春季キャンプを見に行っていたのだ。

 マジックは、私たち兄弟がどこにいても友だちの輪を作ってくれた。私たちにとって家族とともに南下するのは、半年にわたり友だちと離れ離れになる、という意味ではなかった。私たちがどこへ行こうと、ゲーム店にはいつだって友だちがいる。彼らはいつも私たちを暖かく迎えてくれた。

 それは、あるフェニックス滞在のときだった。ヴァーヘイは初めて予選を突破したのだ。

 だがそれは、私ではなかった。

 アリゾナ州ツーソンの大会で弟が優勝し、私たちは突然、数ヶ月後のジュニア・スーパー・シリーズ本戦のためにサンディエゴへ行くことになったのだ! ウィザーズに就職するためには「私が」勝たなければいけなかったのだが、私は弟を心から祝福した。

 ジュニア・スーパー・シリーズ本戦の日が近づくと、私たちは車に乗り込み現地へ向かった。母が弟と私を乗せてサンディエゴへ車を走らせ、途中でテーマパークに寄った。夢のような旅だった。

 だが、ディズニーランドの心地よい余韻は、アメリカ国内選手権とJSS本戦が行われる会場へ入ったその瞬間に消え去った。

 その瞬間は、私の心に焼き付いている。今でもそのときのことを思い出すたびに、大きな波に襲われる感覚になるよ。

 私たちは、ただ圧倒された。

 私の愛するゲームのプレイヤーが、こんなにたくさん1か所に集まるなんて。私たち家族全員が、マジックというゲームはカード・ショップひとつに留まるようなものではないのだ、と理解した瞬間だった。それは比べるものがないほどに大きかった。この日、私たちの世界は一気に広がった。カバレージでしか名前を聞いたことのないようなプロ・プレイヤーたちが、すぐそばにいた。

 信じられない光景だった。

 私たちはマジック漬けの週末を過ごした。JSS本戦の様子はタナーがたっぷりと伝えてくれたので、私は色々と見て回った。

 弟は良い成績を残せず、私もラストチャンス予選を勝ち抜けなかった。それでも私にとっては、最高の週末だった。

 そして翌年、私はJSS予選で優勝を果たした。このとき私はもうすぐ14歳になるところだった。夢を掴むためには、一気にスピードを上げる必要があった。

第四章――書いて、唱えて、組み上げる

 その年のモチベーションは猛烈なものだった......そして私はアクセルを踏み始めた。JSS予選優勝に続き、国別選手権の地区予選大会トップ8入賞、そしてJSS本戦で16位以内入賞。数千ドルの奨学金を獲得した。ついに、私は自分の理想に近づいてきたのだ。

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 そして気づいた。マジックには、単なるゲームで終わらない魅力がたくさんあることに。私も、その一部になりたかった。マジックを取り巻く文化や空気が大好きだった。私の人生で最も頭を使った楽しい思い出はすべて、これまで出会った人たちと遊んだマジックにある。プロ・プレイヤーになるなら、みんなでマジックを楽しまない理由はないだろう?

 だから、私は行動した。

 私はフォーラムでの活動をますます盛り上げ、やがてネット上最大のマジック・フォーラムの管理人にまで至った。私は定期的に記事を書き始めた。「Monday Night Magic」の第9回目からポッドキャストにも参加し、300回近く出演し続けた。その結果、私はマジック・コミュニティにおいてご意見番のような存在になった。マイク・フローレス/Mike Floresとブライアン・デヴィッド=マーシャル/Brian David-Marshallによる「Top8Magic」という素晴らしい番組も聴いて、彼らと意見を交わした。やがてフローレスとブライアン・デヴィッド=マーシャルは、デッキやその他の話し合いに私を参加させるようになった――このとき、私は初めて「内側」にいることを感じたのだった。

 それから、これが最も大事なことだった思うが、私はチームを作った。

 ああ、当時はまだFacebookが本格的に登場していない、ということをぜひ心に留めておいてほしい。最近は、一度に多くのマジック・プレイヤーが同じ環境でコミュニケーションを取ることが簡単になっている。10年前は、それが少し難しいことだったのだ。

 それでも私はフォーラムの運営で培ったノウハウを活かし、「チーム・アンノウン・スターズ/Team Unknown Stars」(略してTUS)のウェブサイトとフォーラムを開設し、多くのプレイヤーを招待した。しかし今考えてみると、「アンノウン・スターズ」とはなんともキザったらしい酷い名前だね......それはさておき、このチームにはのちに活躍する才能溢れるプレイヤーが揃っていた。私は、きっと君たちも知っているプレイヤーたちと研鑽を重ねた。アリ・ラックス/ Ari Lax、マテイ・ザトルカイ/Matej Zatlkaj、カイル・ボージェム/Kyle Boggemes、マット・ナス/Matt Nass、クリスティアン・カルカノ/Christian Calcano、クリス・マスキオリ/Chris Mascioli......パッと思いつくだけでもこれだけいるのだ。このチームは、私がプレイヤーたちの世界的なネットワークを作る大きな助けになった。(編訳注:掲載当初、この段落が欠落しておりました。お詫びして修正いたします)

 そのネットワークを通じて、私は世界中のマジック・プレイヤーとの交流を始めた。するといつの間にか、JSS予選優勝が楽になってきた。JSS本戦でも毎回優れた成績を残すことができ、奨学金の獲得に繋がった。

 そして、チームの多大なる協力と膨大なプレイテストのおかげで、私はプロツアー予選で優勝することができた。その後もうひとつ。さらに、またひとつ勝利を重ねた。

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 プロツアーでの活躍はまだだけれど、私は確実に理想に近づいていったのだ!

 そして、気づけば絶好の機会がやって来ていた。

 ある日、私はシャワーを浴びながら次に挑戦すべきことを考えていた。「できることなら、StarCityGamesで記事を書いてみたい」と、私は心の中でつぶやいた。「あのプレイヤーたちに混じって記事を書きたい」

 私はシャワー室を出て、メールを確認した。なんと、「本当に何の前触れもなく」StarCityGamesから記事執筆の依頼が届いていたのだ! これには私も少し驚いたが――ふたつ返事で依頼を受けることにした。

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 すべてのピースが集まった。今こそ、動き出すときだ。


第五章――結実のとき

 少し話を戻そう。ランディが私に必要なこととして、大学卒業を挙げたのを覚えているだろうか?

 これまでの様々な出来事を行いながらも、私はそちらの歯車も動かしていたのだ。

 私は16歳のときに入学した。いくつかの理由から良いタイミングだと判断したのだが――そのひとつは間違いなく、早くウィザーズで働けるように、というものだったはずだ。

 数え切れないほどの週が過ぎた。数多の記事を書き上げた。多くの大会を勝ち抜いた。様々な授業を受けた。何度も飛行機に乗った。ふと気づけば、こうなっていた。

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 ついにゲームは終わりを迎えた。私はプロツアーに参加し、大手サイトに記事を寄稿し、世界中の人々と交流し、そして今、大学を卒業した。StarCityGamesはこんなときにも、私に大会の解説をさせようと私を迎えに来たのだった!

 それから、私にはもうひとつやってのけたことがある。

 私は友だちと常々、スタンダードとレガシーの間に位置するローテーションのないフォーマットについて話し合っていた。スタンダード落ちしていながら、レガシーでは見受けられないカードが使えるフォーマットだ。

 さて、私がやってのけたこととは? これまで私は、自分の運命の舵を自分で取ってきた。今回も同じだ。私はそのフォーマットを作ったのだ。

 私はそれを「オーバーエクステンデッド/Overextended」と呼んだ。モダンが世に出るより前に、基本的にモダンと同じ形のフォーマットを生み出したのだ。ただし使えるセットは『第8版』と『ミラディン』以降ではなく、『インベイジョン』以降で区切っていた。そして期を同じくして、ウィザーズは突然モダンを発表した。スタンダードとレガシーの間に位置するローテーションのないフォーマットは、一気に注目の的になったのだった。

 私は「オーバーエクステンデッド」のイベントをいくつも開催し、このフォーマットがかなりの盛り上がりを見せることを示した。次のプロツアーのフォーマットが、エクステンデッドからモダンに変更された。私の活動がついに開発部レベルの成功に貢献したのだな、と私は感じた。

 『イニストラード』が登場して数週間後、私はマジック開発部から連絡を受けた。私は「ヴェイパー・オプス・テスト」訳注1と呼ばれる類の試験を受け、ほどなくして開発部で働くことになったのだった。

 出勤初日、私の心を満たしていたのは「やったぞ!」のひと言だった。

エピローグ

 私は夢を追いかけた。燃え上がるように道を拓き、成し遂げた。

 今、私はマジック開発部でゲーム・デザイナーをしている。私のプレインズウォーカーの灯は点っていると、確信を持って言えるよ。私の母に父、弟、姉、そして私がこれまで出会ってきた人たちの誰が欠けても、今の私にはたどり着けなかっただろう。マジック・コミュニティは最高だ! 君たちが歩んできた道も、私と同じ様に恵まれたものであることを願うよ。

 今回の、私の人生を振り返る旅が君たちの励みになれば幸いだ。どうか、君たちのプレインズウォーカーの灯が点りますように。

 それではまた来週。その日まで、君たちの「原点」の物語がより豊かなものになりますように!

Gavin / @GavinVerhey / GavinInsight

(今週のデッキ募集はありません。なお次週6月23日掲載分は、『マジック・オリジン』プレビュー特別編として、英語記事と同日に掲載いたします。編集)


 
訳注1 ヴェイパー・オプス・テスト/vapor ops test

 ウィザーズ開発部に課されるテストのひとつ。70枚分のカード・リストを渡され、それらすべてに「印刷されるべき」や「強すぎる(弱すぎる)」などコメントをつけ、その理由を記入していく。リストの中には実際に印刷されるカードだけでなく、デベロップを経て印刷が見送られたものや、開発部では絶対に印刷しないであろうものなど、様々なものが混じっている。以下の記事も参照(英語)。(戻る

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