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マジック:ザ・ギャザリングのはじまり

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マジック:ザ・ギャザリングのはじまり

Richard Garfield / Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru

2013年3月12日


 マジックは2013年、20歳を迎えます! ピーター・アドキッソン/Peter Adkisonのマジックのはじまりに関する話は既に掲載した通りですが、次はリチャード・ガーフィールド/Richard Garfieldからのお話を伺いましょう! これは1994年、マジック・ポケット・プレイヤーズ・ガイドに掲載されていた内容です。



マジック:ザ・ギャザリングのはじまり

デザイナーからのメモ

 10年の開発期間で、マジックはめざましい進化を遂げました。マジックを創造した男リチャード・ガーフィールドが収集型トレーディング・カードゲームのデザイン上の難問について考え、そしてマジックのプレイテスト史のよしなしごとを語ります。

マジックの起源

 ゲームは進化する。新しいゲームは以前のゲームのもっともよい部分を取り上げ、そしてオリジナルな性質を付け加える。マジック:ザ・ギャザリングのはじまりもまた、この例に漏れない。

 マジックに直接影響を与えたゲームは1ダースほどもあるが、最も強く影響を与えた親と言えるゲームを挙げるなら、かつてはEon Productsから発売され、後にMayfair Gamesから再発売された、いくら尊敬してもしたりない『Cosmic Encounter』ということになるだろう。そのゲームでは、プレイヤーは宇宙のある範囲を征服しようと戦う宇宙人の種族となる。プレイヤーは1人で征服を進めることもできるし、他の宇宙人と同盟を組むこともできる。プレイヤーが選べる宇宙人の種族はおよそ50種類いて、それぞれが独特の能力を持っている。例えば、アメーバ/Amoebaは無制限のトークン移動ができるウーズ/Ooze能力を持つし、鼻すすり/Snivelerは不利な状況で自動的に追いつける愚痴/Whine能力を持つ。Cosmic Encounterの一番すごいところは、その無限のバリエーションである。私は何百回もプレイしたが、そのたびに違う宇宙人の組み合わせで発生する相互作用には驚かされていた。Cosmic Encounterはいつでも新しいので、いつでも楽しめるのだ。

 Cosmic Encounterは、私自身のデザイン上のアイデアに興味深い要素を加えてくれた。私は以前から、ラウンド間に組み合わせの変わるカードの束を用いたゲーム、という発想を持っていた。ゲームの間に、プレイヤーはデッキにカードを加えたり取り除いたりできるので、新しくゲームを始めるときにはまったく違うカードの組み合わせとなっているのだ。私は小学生のころに遊んでいたおはじきで、それぞれが自分のおはじきをいくつも持ち、それを交換したりそれで対戦したりしていたことを覚えていた。また、プレイヤーが前年の成績に基づいて能力が定められている実在の野球選手をドラフトし、チームを編成し、試合するというStrat-o-Matic社の野球ゲームにも興味があった。そのゲーム性に触発されて、私はこの本題のことをもう我慢できなくなっていた。

 こういう発想が、のちのマジックに繋がった。Cosmic Encounterその他のゲームから得た経験を元に、私は1982年に「Five Magics」というゲームを作った。Five MagicsはCosmic Encounterのモジュール方式をカードゲームに簡略化しようとしたものだった。Cosmic Encounterの本質は、魔法を描いたカードゲームにこそふさわしいように思えたのだ。粗野で、完全に結果が予想できるわけではなく、ただし全くわけがわからないわけでもない。完全ではなくある程度理解できる魔力の組み合わせのようなものだ。それから数年間で、Five Magicsは私の仲間たちの間で全く新しい魔法を描いたカードゲームの発想の元になった。

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 それから10年後、相変わらずゲームをデザインしていた私は、マイク・デービス/Mike Davisとともに『RoboRally』というボードゲームを作っていた。マイクは私たちの代理人として働いていて、彼が接触した会社の中に、Wizards of the Coastという出来たばかりのゲーム会社があったのだ。状況はうまく進んだように思えたので、マイクと私はWizards of the Coastのピーター・アドキッソンとジェームズ・ヘイズ/James Haysとピザをつまみながら話し合うため、オレゴン州ポートランドに向かったのだった。

 ピーターもジェームズもRoboRallyに非常に興味を示したが、彼らは今ボードゲームを世に出すつもりはないと言った。もちろん私は初耳だったが、この旅を無意味なものにしたくはなかった。一体何に興味があるのかと聞いたところ、ピーターは、イベントなどの場で最低限の道具で手軽にプレイできるゲームが作りたいと答えた。できるだろうか?

 数日中に、私はトレーディング・カードゲームの最初のコンセプトを作り上げた。元になったのは私が1985年に作った、「Safecracker」というカードゲームだった。最高の出来のものだとは言えなかったが、そこで思い浮かんだのがFive Magicだった。

最初のデザイン

 私はペンシルバニア大学の大学院に戻り、暇を見付けてはそのカードゲームにつぎ込んだ。簡単なことではなかった。プロジェクトを始めてから3ヶ月は間違った方向に向かっていた。トレーディング・カードゲームをデザインするにあたって再考の必要がある、カードゲームのデザインの要素はあまりに多かった。まず、悪いカードを入れることはできない。人々はそれを使ってくれないだろう。実際、あまりに万能なカードを入れないようにしなければならない。プレイヤーはその最高のカードだけを使うに違いない。プレイヤーが使わないようなカードを作る理由は? そして、カードパワーを均一にすることが「金持ち少年病」と戦う唯一の方法だ。このことがゲームのコンセプトを最初から脅かしていた。誰かが全力でデッキを10個作り、そして無敵になるのを防ぐためにはどうしたらいいだろうか?

 これはデザイン上の大問題だった。私はゲームのバランスを崩すようなパワーを獲得しないようにするための理論をいくつも持っていたが、どれも完璧ではなく、そしてどれにも真実のかけらが含まれていた。「店内の買い占め」への最大の防止策は、アンティだった。アンティを賭けてプレイしていれば、もし相手のデッキが10個のデッキを蒸留したようなデッキでそれに勝てたなら、より価値の高いカードを手に入れられることになる。また、もしこのゲームに充分な技量の余地があれば、強力なカードを買い集めるだけのプレイヤーは、プレイが巧く、トレードして強いデッキを組んでいるプレイヤーにとってエサになることは間違いない。そして、ポーカーでチップを大量に買ったプレイヤーが勝利者になるわけではないというのは当然のことだ。最終的に、「金持ち少年病」はそれほど心配することではなくなった。マジックは楽しいゲームで、どうやってデッキを手に入れるかは問題ではなくなったのだ。プレイテストの結果、強すぎるデッキは自滅するということがわかった。ハンディキャップをつけなければ、その強力なデッキとアンティを賭けて対戦してもらえなくなるのだ。また、それに勝てるようなデッキを作るという方向性も生まれた。

 マジックが最初にできあがったとき、愛称としてAlphaと呼ばれた。120枚のカードが入っていて、2人のプレイヤーで無作為に分け合うのだ。2人のプレイヤーはアンティを賭け、そして対戦する、ということを飽きるまで繰り返す。飽きるにはかなりの時間がかかることもしばしばだった。当時でさえ、マジックはとても中毒性の高いゲームだったのだ。ある日、夜の10時に、バリー・ライク/Barry "Bit" Reichと私はペンシルバニア大学の天文学ラウンジにある、空調の効いた窓のない部屋で対戦を始めた。少なくとも午前3時まではプレイを続けていて、部屋を出たときにはもう日が昇っていたのだった。

 このとき、各個人がデッキを所有し、調整するというコンセプトを活かすゲームの構造をイメージしていた。このゲームは手軽で、ハッタリや戦略が存在している一方で、計算が多すぎて訳がわからなくなるということはないように思えた。発生する様々な組み合わせは楽しめるもので、しばしば驚きを生むものだった。同時に、多様なカードの組み合わせによってゲームのバランスが崩れることもない。誰かが勝ち始めたとしても、地滑りになったりはしないのだ。

AlphaからGammaまで

 カードの組み合わせを除いては、マジックはAlphaからそう変化しなかった。Alphaでは、壁は攻撃できたし、特定色の土地が1枚もなくなったらその色の呪文は全て破壊されていたが、それ以外の点ではプレイテストの初期から現在(訳注:リバイズド当時)までルールはそれほど変わっていない。

 AlphaからBetaに移行するのは、野生動物を解き放ったようなものだった。Alphaという楽しめるゲームはデュエルの境界を一気に広げ、プレイヤーの生活を脅かし始めた。プレイヤーはゲーム間に自由にカードを交換し、弱いプレイヤーを見付けてはデュエルを挑み、より強いプレイヤーには果敢に挑んだり臆病に逃げたりしていた。常に強いプレイをするとか、運良く勝ってるとか、ハッタリがうまいとか、いろいろな名声が築かれていった。プレイヤーはカードの組み合わせを知らなかったので、デュエルの間ずっと気を抜くことはできないと学んだ。最も用心深いプレイヤーでさえ、時折驚く羽目になっていた。地図のない世界で知られざる物語を常時見付け続けるという性質は、このゲームに無限の広さと可能性を感じさせていた。

 Gammaでは、新しいカードが追加され、多くのクリーチャーのコストが上昇した。プレイテスターの数を倍に増やし、Strat-o-Matic社の野球ゲームを経験したプレイヤー群を加えた。私たちは特にマジックをリーグ戦にできるかどうかというところに注目していた。Gammaは全カードにイラストのついた初めての版でもある。スカッフ・エライアス/Skaff Eliasがアート・ディレクターを務め、彼らは古いグラフィック誌やコミック誌、ゲーム誌をあさってカードのイラストを探すのに何日も費やした。このプレイテスト用デッキは低俗な白黒のイラストで魅力的に仕上がっていた。ほとんどのカードは真面目なイラストが使われていたが、ユーモラスなイラストのものもたくさんあった。《Heal》はスカッフの足がイラストになっていた。《Power Sink》は(「カルビンとホップス」の)カルビンがトイレにいる絵だった。なんで《Power Sink》がトイレなんだろうね? 《Berserk》はサタデー・ナイト・フィーバーで踊っているジョン・トラボルタだった。《Righteousness》はカーク船長、《Blessing》は「ライブ・ロング・アンド・プロスパー」のサインをするスポック。《Holy Strength》のチャールズ・アトラスの絵は古いコミック誌からのもので、《Weakness》は40キロそこそこの貧弱君が顔に砂を蹴りかけられたところ。《Instill Energy》はリチャード・シモンズ。人気のない《Glasses of Urza》はカタログで見付けたX線メガネだった。《Firebreathing》の火を吹く赤ちゃんはルーシィ・カントロヴィッツ/Ruthy Kantorovitzが描いたものだ。私はゴブリン役を務める栄誉を得た。これらの絵や増えたプレイヤーが、このゲームに雰囲気を与えてくれた。デュエルは2人のプレイヤーがするものだが、より多くのプレイヤーがプレイするにつれ、このゲームはより良いものになっていく。ある意味では、個別のデュエルはより大きな1つのゲームの一部だとも言えるのだ。

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バランスを取る

 プレイテストするごとに、特定のカードが取り除かれていった。AlphaやBetaではコモンだったがGammaではレアになり、現在は存在しなくなっているカードの種類として、対戦相手のカードを自分のものにするというものがあった。《Control Magic》は最初、対戦相手のクリーチャーを永遠に盗むものだった。《Steal Artifact》はアーティファクトを本当に奪うものだった。《Copper Tablet》はその本来の目的を残していないが、元は出ているクリーチャーを交換するものだったのだ(「うん、僕のマーフォークと君のドラゴンを交換しよう。ああ、いや、ゴブリンの方がいいかな。醜いし」)。Planeshiftという呪文があって、これは土地を盗むものだった。Ecoshiftは全ての土地を集めて切り直し、配り直すものだった。4色、5色を使っているプレイヤーにはとても良いカードだった。Pixiesは本当のダメージを与えるものだった。プレイヤーに攻撃が当たれば、無作為に選んだカード1枚を対戦相手と交換するのだ。これらのカードはマジックにある要素を加えていて、それは、対戦相手に奪われる前に自分のクリーチャーを破壊するとか、自分のデッキを守るために自殺するとかそういうことを必要とすることもあった。しかし、ゲーム環境に加えられているこのひどさは引き起こすトラブルと引き替えにするようなものではないということは明らかだったので、プレイヤーがアンティを賭けてプレイすることを選ばない限りはそういう危険性を持つカードは存在すべきではないのだ。

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 この頃には、このゲームについて何らかの判断をすると、ほぼ必ず反対が生じ、時には激烈に反対されることがある、ということがわかってきた。どのカードを入れるべきだ、入れるべきでない、という意見の不一致は、プレイヤーそれぞれがプレイテスト用のカードセットを作るという結果になった。それぞれに4000枚近いカードをデザインし、構築し、シャッフルし、分配した。それらのゲームにはそれぞれ良いところがあり、プレイテスターはそれぞれの新しい環境の流れや秘密を見付けることを楽しんでいた。これらの努力の結果が、カードプールはほとんど入れ替わっていたが、マジックの構造を使った将来のDeckmasterのゲームの基礎を作ったことになる。

より良いデッキを作るために

 Deckmasterのゲームのプレイテストは困難なものだ。これよりもプレイテストが難しいのは、複雑な多人数用コンピューター・ゲームだけかもしれない。どうやら健全と言えるマジックの基本的な枠組みを開発した後、私たちはどのカードをセットに入れるか、そしてその割合をどうするかを決めなければならなくなった。コモンのカードはレアのカードよりも単純でなければならないが、弱い必要はない。レアのカードだけが強ければ、プレイヤーは資金をつぎ込むか幸運かのどちらかでなければまともなデッキを作れなくなってしまう。大量に入れたら強すぎる、あるいはバランスを壊すという理由でレアになるカードもあったが、ほとんどの場合、レアのカードは複雑だったり特化していたりで大量に入れたいと思わないようなカードであった。しかし、このデザイン上のガイドラインが使えたのはここまでだった。ゲーム全体の雰囲気は、一見して無害なカードがひとかたまり取り除かれたり、あるいはレアリティが変わっただけでも変わりうる。実際に何を入れるか、何を抜くかという段では、まるで300種類の食材を使って1万人のための料理を作るシェフにでもなったような気分だった。

 私がこのゲームで見せたかったことの1つは、プレイヤーが多色のデッキを使うことだった。単色にすれば様々な問題を回避できるのは明らかだ。従って、《Karma》やElemental Blast、Circle of Protectionのように1色を丸々使えないようにするいろいろな呪文が投入された。元の計画は、単純な戦略にはそれぞれ妨害するカードが存在し、そしてもっともよく使われている作戦を倒せる新しいカードを追加していくことで戦略的環境を変動させ続けるというものだった。例えば、多くの大型クリーチャーに頼るというプレイをすると、そのプレイヤーは《Meekstone》に弱くなり、大量のマナを出して《Fireball》を撃つようなデッキには《Manabarbs》が突き刺さる。不幸にして、この戦略と対抗戦略というデザインは、プレイヤーをより尖ったデッキを作り、そのデッキを倒せるカードを使っているプレイヤーとの対戦を回避するように仕向けてしまった。プレイヤーが様々なプレイヤーとプレイし、対戦相手を自由に選べるのであれば、尖ったデッキはとても強いのだ。

 従って、より不器用な形で多様性を生み出す方法が開発された。単一色を使っていてば、プレイヤーがデッキに求める全ての機能を果たしにくいようにしたのだ。例えばGammaは、青単色が強すぎるということに苦しんだ。青は図抜けて強力なコモンの呪文が2つ(《Ancestral Recall》と《Time Walk》)あり、簡単に最強だったので、それらはどちらもレアになった。さらに、青には強烈な打ち消し呪文が存在した。強烈なクリーチャーもあったが、その中で最強だった2つはアンコモンになった。

 青の魔法は今でも打ち消し呪文に富んでいるが、クリーチャーは非常に弱く、直接ダメージを与える能力には欠けている。赤の魔法には、特に空中ではあまり防御が存在しないが、驚くべき直接火力や破壊能力がある。緑の魔法はクリーチャーとマナに富むが、それ以上ではない。黒はクリーチャー除去魔法の王でいくばくの柔軟性があるが、クリーチャー以外の脅威に対処する術は持たない。白の魔法は防御の魔法であり、コモンのバンドを持つ唯一の色であるが、ダメージを与える能力は低い。

 一見すると無害に見えるカードを組み合わせて、本当に恐ろしいものになることもある。プレイテストの重要な効果は、「堕落させる」デッキと呼ばれるものに寄与するカードを掘り出すことにあった。「堕落させる」デッキとは、尖った強力なデッキで、倒すのが難しく、プレイする側やされる側がつまらなく思うことの多いようなデッキのことだ。疑いなく、最も印象的だったのはトム・フォンテーヌ/Tom Fontaineの「インスタントよりも速い死のデッキ」で、2?3ターン目に大型クリーチャーを最大8体並べることができることで名高いものだった。最初のマジックのトーナメントでは、デイブ・ペティ/Dave "Hurricane" Petteyは「土地破壊デッキ」で勝利を掴んだ(デイブは他に、スペクターや《Mind Twist》、《Disrupting Scepter》の入った、あまりに恐ろしくて誰も対戦したいと思わないようなデッキをデザインしている)。スカッフ/Skaffの「偉大な白き死」デッキは立ちはだかるあらゆるものを克服できた。チャーリー・カティノ/Charlie Catinoの「ウィニーの狂気」デッキは対戦相手を小型クリーチャーで圧倒することに特化していた。このデッキはそれまでのデッキのように上位に残ったものではないかも知れないが、アンティを賭けて勝負している限り、チャーリーはまず負けなかった。もし4ゲーム中で1ゲームしか勝てなかったとしても、《》1枚とマーフォーク2枚を失う代わりに充分なカードを勝ち取ることができたのだ。

 最終的に、私はこれらの堕落させるデッキも楽しみの一部だと判断した。人々はそういったデッキを組み、飽きるまで、あるいはいつもの対戦相手が対戦を嫌がるようになるまで、そのデッキを使い、それからデッキを使わなくなったり、デッキの中の一部の要素を何か新しい者と入れ替えたりする。これは、マジック流の王座交代のあり方だった。ほとんどのプレイヤーはテーブルトークのプレイヤーが自分の最も成功したキャラクターを扱うのと同じように自分の堕落させるデッキを扱うのだ。つまり、一線からは退かせ、新しい対戦相手とあたるときに時折引っ張り出すのである。

 最強の追求が落ち着くと、別のタイプのデッキが開発された。それが、奇妙なテーマのデッキである。それらのデッキはそのテーマの制限内で可能な限り強烈になるように作られるのが普通だった。ビット/Bitが「蛇デッキ」に飽きてきたとき(彼は大量の蛇を並べ、蛇を召喚するたびに「ススススススス」と言うのだ)、彼は「アーティファクト・デッキ」を開発した。このデッキには土地が入っておらず、アーティファクトだけだったのだ。《Nevinyrral's Disk》を使う誰かと「アーティファクト・デッキ」が対戦するのを見るのは楽しかった。しかし、奇妙なデッキの王と言えば、間違いなく、チャーリー・カティノだった。あるリーグで、彼は「無限回転デッキ」とでも呼ぶべきデッキを組み上げた。作戦はこうだ。対戦相手が攻撃できない状況を作り、《Swords to Plowshares》でクリーチャーを取り除く。その後、《Timetwister》をプレイし、戦場、墓地、手札、ライブラリーのカードをまとめて新しいライブラリーにする。《Swords to Plowshares》で除去されたクリーチャーは戻らないので、対戦相手のクリーチャーは全体で1体減ることになる。この手順を充分繰り返したあと、対戦相手のライフは《Swords to Plowshares》のおかげで充分に増えて60点とかになっているが、デッキにはもうクリーチャーが残っていない状態になる。ここでチャーリーのエルフが1点ずつ1点ずつ削っていくのだ。59点、58点、57点......となっていき、やがてこの寂しいゲームに幕が下りることになる。涙なしにはこのデッキのことを考えることすらできない。さらにキツかったのは、このリーグではそのデッキで10戦しなければならないということだった。彼のゲームは1時間半もかかるのがざらだったので、彼相手に投了する人も毎回いたのだった。

テキスト、テキスト、テキスト

 プレイヤーやデザイナーにとっての難題は、カードの組み合わせをどうするかだけではなかった。ルールやカードを編集するという終わりのない作業をやればやるほど、それがはっきりしていった。最も初期のプレイテスターが指摘(というほど優しいものではなかったが)した通り、マジックの元のコンセプトでは、全てのルールがカードに書かれているために世界で最もシンプルなゲームだ、ということになっていたが、その理念ははるか遠くに去っていた。

 外野から見れば、その実現を目指す私たちの取り組みは愉快なものだった。カードのテキストに関するルール議論はジム・リン/Jim Linとやりとりすることが多かった。彼は今で言うルール・グルのようなものだった。ルールの問題に関するやりとりの一例を挙げれば、こんなものがあった。

ジム:ん? このカードには問題があるんじゃないかな。この問題を解決するために、この7ページ分のルールを追加しようよ。

リチャード:それならその長いルールを使うより、そのカードを回収することにしよう。

ジム:ん? もう一つ問題が見つかったよ。

[繰り返し]

リチャード:ばかばかしい。このカードを誤読するのなんて無茶苦茶馬鹿で究極の脳足りんだけだろ。

ジム:そうだね、これについて考え込みすぎたかも。そういう連中とプレイしてるなら、別の友達を探す方がいいね。


 実際に心配したことの一例を挙げると、《Consecrate Land》で《Stone Rain》から土地を守れるかどうか、というのがある。《Consecrate Land》は土地を破壊から守ると書いてあり、《Stone Rain》には土地を破壊すると書いてある。この矛盾はどうすればいいのか? そこを考えると、今でも頭が痛くなる。これはなぜ紙幣で物が買えるのかということと一緒かも知れない。結局のところ、紙幣はただの紙なのだから。

 しかし、何で人々が混乱するかはまったくもってわからない。プレイテスターの1人であるミハイル・チケンケリ/Mikhail Chkhenkeliが私に近づいてきて行ったのだ。「俺はこのデッキが好きだよ。このゲームで一番強いカードが入ってるしね。それを使えば次のターンに勝ちになるんだ」私は彼が言っていることを理解できなかった。唱えた次のターンに必ず勝つなんてカードには思い至らなかったのだ。彼に一体何のことを言っているのかと尋ねたところ、彼は対戦相手のターンを飛ばすカードを見せてくれた。私はそのカードに書いてあるテキストを見て、ようやく彼の言わんとするところがわかった。そこには「Opponent loses next turn」(訳注:「対戦相手は次のターン負ける」とも読める)と書いてあったのだった。これは、誰が呼んでも同じ解釈になるカードのテキストを書くことの難しさを私に教えてくれた最初の出来事だった。

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マジックという経済

 プレイテストを始めた翌年に起こったことでもう一つ驚いたことがあった。マジックは、私の見たことのないほどの経済シミュレーションになっていたのだ。自由市場の経済と、その興味深い力学のあらゆる要素が存在していた。人々はそれぞれにカードに別々の価値を付けていた。価値が違うのは、単純に性能を見誤っているからというときもあったが、多くはプレイヤーによってカードの価値が異なっていたからである。例えば、強力な緑の呪文は、緑を中心としたデッキを組んでいるプレイヤーよりも黒赤のスペシャリストにとって価値が低いことになる。これによって、取引の可能性が生まれた。一部のプレイヤーが使っていない一方で他のプレイヤーには黄金のような価値を持つカードというのはよく存在した。もし素早く動けば、その両方のグループにも仲介者にも利益になるような取引ができただろう。

 しばしば、カードの価値は新しい使い方(や、その可能性)によって変動した。例えば、チャーリーが黒マナを生み出す呪文を全て集めていたとき、私たちはその種のカードがどんどん価値を上げるのではないかと恐れ、そして人々は彼があらゆる黒マナを集めるのではないかと恐れた。そして、デイブの「土地破壊デッキ」の登場前は、《Stone Rain》や《Ice Storm》は価値の高い呪文ではなかった。そのため、彼は簡単に土地破壊デッキを完成させられた。そして、そのデッキを使ってトーナメントで優勝してから、それらの呪文を売り払って新しいカードを求めたのだった。

 禁輸措置が行われた。強力なプレイヤーの派閥がスカッフや、スカッフと取引している人との取引を停止したのだ。私はこんな会話を耳にしたことがある。

プレイヤー1→プレイヤー2:カードAを出すからカードBを出してよ。

スカッフ(横槍):そんな取引はあり得ないよ。カードAを出してくれるなら、カードBの他にC、D、Eも出すよ。

プレイヤー1とプレイヤー2:君とは取引してないよ、スカッフ。


 言うまでもなく、スカッフは初期の対戦や取引で少しばかり成功を収めすぎていたのだ。

 もう一つ経済的な意味で面白かった出来事は、誰かが使うつもりのないカードを取り上げたときに起こっていた。取り上げたプレイヤーは、そのカードが面倒くさかったから(《Chaos Orb》など)、あるいは自分のデッキにとってあまりにも致命的だから、いずれにせよそのカードをカードプールから除こうとするのだ。

 私のお気に入りの利益が生じたのは、イーサン・ルイス/Ethan Lewisとビットが出会ったときだった。イーサンはちょうどカードを手に入れたところで、ビットはイーサンと取引がしたいと思っていた。ビットはイーサンが《Jayemdae Tome》を持っていることに気付くと、それを欲しいと言い出した。私はそのやりとりを見ていたが、あまりに安い申し出だと思ったので、同じカードをテーブルの上に出した。

 ビットは私を見て、「そりゃないだろ! 《Jayemdae Tome》が欲しいなら、俺より高値を出せよ」と言った。

「いや、これは代価じゃなくて、《Jayemdae Tome》の取引を考えてもらうためのイーサンへの贈り物さ」

 私が言うと、ビットは信じられないという目で見て、そして私を連れてその場を離れてから囁いてきた。「なあおい、これから10分間この部屋を離れてくれるだけでこのカードの束をやるぜ」私は彼の賄賂を受け取り、彼は《Jayemdae Tome》を手に入れることに成功したのだった。彼は私よりもずっと多くのカード資産を持っていた。思い返してみると、ビットと張り合うのは危険な賭けだったかもしれない。結局の所、彼は可哀想なチャーリーのデッキを1つ組み上げ、チャーリーの別のデッキから無駄を省いてからカードを追加してやったのだ。

 私と他の人たちの間でカードの価値が食い違っていたままなのは、《Lord of the Pit》かもしれない。私はプレイテストのリリースのたびに手に入れていたが、使うのはもちろん難しかった。スカッフはこのカードの価値は対戦相手に押しつけるときにしかないと言っていたが、私は同意しなかった。彼曰く、これを使うぐらいなら何も書いていないカードの方が自分でダメージを受けることがないだけマシだと。私は、使いようによっては利益を得られると反論した。

 それで助かった一例を挙げてみろとスカッフが言ったので、私は少し考え、そして最も鮮やかな勝利を思い出した。対戦相手は、こちらが攻撃手段を出すのを待っていた。彼の手には《Clone》があったので、もし私が状況を変えようと何かを唱えたら、それをコピーすることができる状況だったのだ。もちろん、次に私が唱えた呪文は《Lord of the Pit》。《Clone》しなければ一方的に殴られて死んでしまうので、相手は《Clone》を唱えた。それから、彼が攻撃してくるたびに私は両方の《Lord of the Pit》を守ったり《Fog》を唱えたりして攻撃を無効化していた。やがて、彼は《Lord of the Pit》を餌付けするだけのクリーチャーを出し続けることができなくなり、無残な死を迎えたのだった。

 この話を聞いてスカッフは大笑いした。「つまり、《Lord of the Pit》で勝った話をしろと言ったのに、出てきたのは《Lord of the Pit》を《Clone》して負けた奴の話じゃないか!」

ドミニアとロールプレイングの役割

 カードの様々な評価をもたらすカードの組み合わせを作るだけでは充分ではなかった。それらのカードが相互作用することに意味を与える舞台を作らなければならない。マジックのための舞台を作ることは、デザイン上の中心問題になった。実際、私たちのデザイン上の問題はデュエルが存在する魔法の世界における物理法則を作ることと、それにそぐうカードを作ることに端を発していたのであり、ゲームがその物理法則を定義づけるようにするということによるものではなかった。私はカード相互の繋がりを心配していた。全体として1つの設定の一部であると思えるようにしたかった一方で、デザイナーの創造性を制限したり、自分一人で全カードを作らなければならないようにしたりはしたくなかった。誰もが協力して単一のファンタジー世界を作るのは、どうしても一貫性を失う、難しいことに思えた。私は、全体として非常に大きく、その中にある世界同士が奇妙な相互作用をすることがあり得るという多元宇宙の考え方を気に入っていた。そうすれば、ファンタジーの異次元性を再現することができ、一貫性とプレイ環境を保ったままにマジックにそういう感覚を与えることができる。多元宇宙の考え方に合わないカードやコンセプトというのはまず存在しないし、広がり続ける多様なカードプールを支えるのも難しくない。別の世界からのクリエイティブ的要素だと考えれば、全く異なるフレイバーを持つ拡張セットを同じゲームの中で使えることになる。そこで、私は魔法使いが自分の魔法に使うリソースを探すために旅するいくつもの次元を含む、ドミニアという考え方を作ったのだった。

 柔軟性を含むので、このゲーム環境はロールプレイングの世界のようになった。この設定がマジックをロールプレイング・ゲームにするというわけではないし、それとはまったく異なるのだが、私の知るあらゆるカードゲームやボードゲームの中ではマジックが一番ロールプレイングに近いと言える。ロールプレイングには他の形では再現できない性質があまりにも多いので、私は複数の要素を含むと自称するゲームに強い印象を受けることはない。実際、トーナメントやリーグといった制限された環境においては、マジックとロールプレイングの間にはほとんど共通点が存在しない。そういう場合には、マジックは各プレイヤーが有限のルールに基づいて勝利を奪い合うという、古典的なゲームである。しかし、制限がなかったなら? 思いついたデッキを組んで友人と対戦する、という場合には、ロールプレイングの興味深い一面を含んでいると言える。

 各プレイヤーのデッキは、キャラクターに喩えられる。デッキは各自の特徴を持つ。場合によっては、名前が付けられている場合さえある。私の使っていたデッキなどは、クリーチャーそれぞれに名前が付いていた。簡単に書き込めることは、白黒コピーのカードの数少ない利点だった。デッキ名は「白雪姫と七人のこびと」。白雪姫という名前のワームと、ドック、グランピー、スニージー、ドーピー、ハッピー、バッシュフル、スリーピーという7体のマンモスが入っていた。後にマンモスを2枚追加したときには、チージーとハングリーと名付けた。さらに王子という名の《Veteran Bodyguard》も入っていたのだった。

 ロールプレイングと同じように、無制限のゲームにおける目標はプレイヤーによって決められる部分が大きい。デュエルの目標は大抵勝利することだが、その目的の意味は大きく異なりうる。ほとんどのプレイヤーは、トレーディングやデッキの作成のほうがデュエルそのものよりも重要だと言うことに気付くだろう。

 もう1つ、ロールプレイングに通じるマジックの特徴を挙げるなら、プレイヤーが最初から世界の全てを知っているわけではなく、探索するのだということであろう。私はマジックというものを、向かい合ってプレイするだけのものではなく、デッキを手にした全ての人々の間で行われる1つの大きなゲームだと捉えている。言うなれば、デザイナーがゲームマスターを務める何千何万という人によるゲームなのだ。ゲームマスターは環境がどうなるかを定義し、プレイヤーはその環境を探索していく。これが、なぜカードが発売されたときにリストが公開されなかったかの理由である。カードと、その能力を見付けることはこのゲームの本質的な部分なのだ。

 そして、ロールプレイングゲームと同じように、プレイヤーはゲームマスターとして素晴らしい冒険に寄与することになる。マジック・ファンのみんな、そしてプレイテストを務めてくれたみんなに感謝している。彼らなしでは、このマジックという商品が存在したとしても、ずっと劣ったものになっていたことだろう。誰もが、このゲームそのものでなくても、このゲームの物語には何らかの足跡を残している。今日のすべてのプレイヤーは、私がテスト版から受けた楽しみの10分の1ほどの楽しみしか味わっていないかも知れないが、それでも充分にマジックを楽しんでくれているはずだ。

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