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マナ・アクション

Mark Rosewater

2011年5月23日

原文はこちら


 マナ特集へようこそ! 今回はこのゲームを回している潤滑油について語ろう。私のコラムでは、遠い昔に書いたコラム(正確を期するなら2006年6月5日だ)の中で語ったコメントから話を広げていくことにする。その記事とは「得たぐらい良く」(リンク先は英語)で、その中で私は「なぜマジックはこんなに良いゲームなのか?」という問いに答えている。

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 10個の答えが羅列されているが、そのうち最初の3つは今回のコラムのテーマにも合っているものだ。リチャード・ガーフィールドがマジックを作った時、彼は私が「黄金の3本柱」と呼んでいる、1つのすばらしい作品に注ぎ込んだ3つの天才的なアイデアを作り上げた。その3つとは、「トレーディング・カード・ゲーム」という概念、それに「カラー・ホイール」、そして「マナ」だ。

 私の「マジック・デザイン講座:内部を見よう」(リンク先は英語)の記事で、私はかなりの時間を費やしてトレーディング・カード・ゲームがどうして成り立つのかについて語った。記事の中で私は、トレーディング・カード・ゲームの持つ長所と、何がそれだけ素晴らしくしているのかについて強調している。また、「パイの価値」(リンク先は英語)の記事の中では、なぜカラー・パイがマジックの最重要点なのか、そして何がそれだけ価値をもたらしているのかについて語った。三本柱の中で独立した記事になっていないのはあと1つだけである。そして、そうとも。今週はマナ特集だ! マジックのマナというシステムがマジックにもたらしたものと、それが非常に重要な理由について今こそ語るべきときではなかろうか。

マナ・ザ・ピープル

 「得たぐらい良く」の記事の中で言った通り、マナのシステムは三本柱の中ではロドニー・デンジャーフィールド/Rodney Dangerfield のような、尊敬を集めない役回りだ(年若い諸君のために言っておくと、ロドニー・デンジャーフィールドは「私はまったく尊敬してもらえない!」という決め台詞で知られるコメディアンだ。ボールズ・ボールズやバック・トゥ・スクールといった映画で彼のことを知っている人もいるだろうが、知らない人のほうが多いだろう)。今日の記事では、なぜマナが尊敬されるべきなのかについて語ろうと思う。先に進む前に、マナのシステムがマジックにもたらしたものを列記しておこう。

#1:マジックをトレーディング・カード・ゲームたらしめた

 ほとんどのゲームでは、他よりも強い部品というものが存在する。クイーンはポーンよりも強く、エースは(通常)2よりも強く、将軍は軍曹よりも強い(斥候やスパイは将軍にはできないことをできるけれども)。デザイナーが、プレイヤーの得る部品の組み合わせをコントロールしているゲームにおいては、それでいい。プレイヤーは、ゲームの一部であって使いこなさなければならない弱い部品を使うことになる。

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 しかし、トレーディング・カード・ゲームにおいては、デザイナーは何が使われるかを完全に管理することはできない。プレイヤーは望むままにどの部品でも使えるのだ。ゲームを成り立たせるために、トレーディング・カード・ゲームでは何らかの方法で可能な限り多くのカードを作る方法が必要になる。それへの回答の一つが、機能である(そして、そのためにカラー・ホイールが必要になる。その話は上記のコラムでやったからいいとして)。異なるカードは異なることをすることができる。しかし、トレーディング・カード・ゲームを成り立たせるためには、ただ機能だけで作れるよりもずっと多くのカードが必要になるのだ。

 ここで、マナというシステムが浮上してくる。呪文にコストを与えたことで、ゲームの別々の局面で重要になる別々のカードを作ることが出来るのだ。なぜ弱い呪文を使うのか? そのほうが軽いから、つまりゲームの序盤においても使うことが出来るからである。マナ・システムのおかげで、デザイナーは各効果のさまざまな版を作ることが出来る。別々の局面で働くよう、効果の大きさやコストを調節することが出来るのだ。これによって、各カードは今やそれぞれに違う理由でデッキに入りうるようになった。こういったカードの多様性は、トレーディング・カード・ゲームそのものが成立するようにするための鍵となる要素なのである。

#2:ゲームの流れを管理している

 何かの価値を知るための最善の方法の一つは、それが存在しない世界を想像することだ。この思考実験として、どんなカードでもプレイしたいときにプレイできると想像してみよう。ゲームプレイはどうなるだろうか? 第1ターンに、諸君は手札のほとんどのカード、特に対戦相手を攻撃できるパーマネントや先手を取れるような呪文をプレイするだろう。プレイしないのは受動的な呪文で、それも必要になるときまで使わないだけに違いない。

 これはトレーディング・カード・ゲームなので、諸君はこのシステムに合わせてカードを選ぶことになる。おそらく間違いなく、諸君はこのシステムの2つの制限、すなわちターンとカードを乗り越えるようなカードを選ぶことになるだろう。例えば、速攻持ちのクリーチャー。そのクリーチャーを唱えたターンに攻撃できるという能力は、クリーチャーを戦力にするのが1ターン早くなることを意味する。同様に、カードを引くことは非常に良い、というよりも非常識に良い。それによってさらなる呪文を唱えることが出来るようになるからだ。

 この結果、ゲームは先手プレイヤーの第1ターンで終わることになるだろう。もしかしたら対戦相手も充分な数の受動的カードを用いて防ぎきるかも知れないが、いずれにせよこのシステムを濫用すればゲームは非常に速く終わることになる。

 それでは、マナのシステムが防いでいるものが何なのかを見ることにしよう。毎ターン、特にゲームの序盤では1枚か2枚のカードしか唱えられないことによって、マジックはより面白いものになる。マナのシステムによって、プレイヤーがより大きくより強力な呪文を唱えるための土台はゆっくりと伸びるようになっている。マナのシステムは、毎ターンやることはあるが多すぎない、という状況を作り出す放出弁になっているのだ。

 ほとんどのプレイヤーは、ゲームのペースについて考慮していない。それは、そこにあるのがあまりにも当たり前だからだ。マジックであることの前提として、マジックはマジックなのだ。しかし、諸君がその裏側を覗いてみるなら、ゲームが崩壊するようなあらゆる選択が存在したことに気づくだろう。マナのシステムによって、ゲーム・プレイは我々全員が知り、そして愛しているペースにとどめられているのだ。

#3:ゲームを時とともにドラマティックにする

 多くの面で、これは前の項と重なっているが、このゲームにとって重要なことなので独立した項を設けることにする。この項目の最初に、子供の頃ドラマ教室を受講していたときに学んだことを話そう。私はクレーブランド・プレイハウス・ユース・シアターに所属しており、当時、講義は複数のクラスに分かれていた。それぞれ複数のクラスを受講し、時間ごとに異なるクラスに移動するわけだ。私のお気に入りのクラスは、ステージ・コンバットと呼ばれるクラスだった。

 私に会ったことのない諸君のために言うなら、私は戦士ではない。私は今までに人を殴ったこともないのだ。武器を取って戦ったこともないし、誰かの頭を地面に叩きつけたこともない。どれも実際にはしたことがないが、ステージ・コンバットの講義においてはこれら全てをやったのだ。ステージ・コンバットとは、ステージでどのように戦うかを学ぶ講義だった。実際には戦わない。実際にやることはダンスのようなもので、注意深く段取りが決められていた。私の対戦相手が剣で頭を守るのは、私が頭に切りつけると判っているからだ。巧く行ったステージ・コンバットは、まるで真剣勝負のように見えるものだ。

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 ステージ・コンバットを取り上げたのは、それが良い闘いに必要なものについて教えてくれたからだ。ステージ・コンバットはリアルに見せるようにすればいいというものではなく、可能な限り娯楽的にするための方法を理解することが主眼であると思い出して欲しい。一言で言うと、何が良い闘いを作るのかを学んだ。まさかこの知識が後の人生で役に立つとは思わなかったが。

 一言で言うと、私が学んだのはこんなことだった。闘いは最初は小さく始まり、次第に大きくなっていく。実際、ほとんどの戦闘はステージの目的においていくつかの段階に分けられる。各段階は一つずつ進められる必要がある。例えば、ほとんどのステージ・ファイトは殴り合いと呼ばれる段階から始まる。つまり、お互いを素手で殴り合うのだ。軽い殴り合いは次第に力を増し、大振りで殴り合うようになる。そしてどちらかが闘いに武器を持ち込むのだ。持ち込まれるのは専門の武器(剣闘は劇場で大人気だ)である場合もあるし、その辺にあるものを武器にすることもある。

 一方が武器を持ち込むと、相手も武器を持ち出すことになる。戦士たちがより良い武器を見つけるたびに武器がよりよいものに変わっていくのはよくあることだ。そして、闘いはその戦っている場所という意味でもエスカレートしていく。最初は平地で闘い始めるが、最後までそこにいることはめったにない。戦士たちの中からより高い場所を求める者が出てきて、例えばテーブルの上、階段室、その他舞台にある場所を使う者だ。最後には、一人がそれまで見たこともないようなすさまじい動きを見せ、闘いを制するのだ(闘いが短期に終われば悪役が勝つもので、長引けば正義の味方が勝つものだ)。

 上の全てを通して、もう一つ重要なことがある。闘いを制するものは動き続けるということだ。一人が良い動きを見せて闘いの主導権を握り、他の戦士が新しい離れ技とともに流れを奪い返す。しばしば起こることに、一人(大抵は正義の味方の方)が武器を失い、間に合わせの武器で何とかしなければならなくなる。良いステージ・ファイトでは、一進一退を繰り広げるので最後に勝つのがどちらなのかはなかなか判らないものなのだ。

 こうして述べてきたことは、基本的には理想的なマジックのゲームのあり方と通じる者がある。プレイヤーは小さいことから始め、次第に大きくしていく。使う武器は次第次第にエスカレートし、また洗練されたものになっていく。常に一進一退が続く。マナのシステムの美しいところは、これらがすべて自然に発生していると言うことである。マナは、マジックのゲームを素晴らしい闘いに最適化してくれているのだ。

 人々がしばしばマナのせいで良いゲームになっていないと考えるのはおかしなことだ。彼らは、ただマナの目を惹く一面にだけ注目していることに気づいていない。マナのシステムがいかにして諸君にマナを与えないようにしているかを見ることはたやすいことだが、これまで諸君のやってきた無数の素晴らしいゲームの下地すべてがマナによって支えられていることを見るのは遥かに難しいことなのだ。

#4:プレイヤーに選択を強いている

 経験の浅いデザイナーがよく陥る誤りに、プレイヤーに選択肢を与えすぎるというものがある(これについては語りたいことが山のようにあるが、それは近いうちに書くつもりの複雑さに関するコラムに譲るとしよう)。ゲームは2、3の簡単な選択肢から始まり、そしてゲームが進むにつれて少しずつ選択肢の数が増えていくのが鍵だ。また、この選択肢の数を増やすことを止めるべきところというのが存在し、これはあまりにも選択肢が多すぎるとゲームの楽しみの邪魔になるものだからだ。

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 さて、それではマナのシステムがどのようにこの問題を扱っているか見てみよう。

序盤:実際に唱えられるほど軽い呪文はそう多くないので、プレイできるのは呪文のほんの一握りだけである。

中盤:選択肢は多少増えるが、それらの呪文は比較的重いのでターンに使える呪文は1つ程度になる。

終盤:必要なもの全てを唱えることができ、複数の呪文を1ターンに唱えることもできるかもしれない。ただし、ゲームは終盤なので、手札にそれほど多くの呪文はのこっていないことが多いだろう。

 各場合において、マナのシステムはプレイヤーの選択を制約している。経験豊富なプレイヤーにとっては大したことではないように聞こえるだろうが、選択肢の分岐を把握できるサイズに抑えることは良いゲームをデザインする上で最も重要な点なのだ。

#5:デッキ内のカード種類を減らす

 もうひとつゲームデザインにおいてよくある勘違いに、多いことは良いことだ、というものがある。20個のルールがあるゲームは10個のルールしかないゲームより優れており、12個の部品からなるゲームは6個の部品からなるゲームよりも優れているというのだ。この誤解は、多く(の部品やルールその他)があればゲームプレイに深みが出るという考えから来ている。優れたプレイヤーは、多くの選択肢があれば利益を得ることができるという考えだ。

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 ここでの誤りは、ゲームを楽しめるものにすることは、優れたプレイヤーに勝利の可能性が遥かに大きくなる、ということとは違うということである。実際の所、ほとんどの場合はその逆である。ほとんどのプレイヤーは、勝つことができないと思ったゲームについて学びたいとは思わないものだ。ゲームの楽しみの一部には、プレイヤー、全てのプレイヤーが勝ち目があると思うことがある。勝てなくても良い、勝ち目があると感じさせるだけで良いのだ。

 つまり、マジックは複雑さを追い求めているわけではないことに気づいて欲しい。私は、このゲームをしているプレイヤーから「ボクには考える材料が足りない」という声を聞いたことはない。マジックには多くの行動がある。マナのシステムはデッキに含まれるカードの種類を半減させていて、そのおかげでゲームは遊びやすいものになっているのだ。

#6:ゲームの多様性を守っている

 何年も前、私は「無作為はともだち」というコラムを書いた。その中で、無作為性がゲームを楽しめるようにするために重要だという私の考えについて語った。多様性はこれと関係があるけれども、少しばかり異なる。多様性は、毎回ゲームをするたびに違うことが起こるということである。まったく同じ繰り返しているとプレイヤーたちに飽きが来るので、多様性が意味を持つ。そして、無作為性は多様性を生み出す助けとなるのだ。

 マナのシステムは、このゲームにおける無作為性と多様性の最大の源の一つである。その理由をこれから述べよう。

いつ呪文を使うことが出来るかをごちゃごちゃにしてくれる

 第1ゲームで、例えば第1ターン、第2ターン、第3ターンと続けて土地を置くことが出来たとしよう。第2ゲームでは第1ターンと第2ターンは置けたが3枚目の土地を置けたのは第5ターンになってからだった。この2つの展開の違いはただ土地1枚を引くのが2ターン遅れただけだが、その小さな差が大問題である。この2つのゲームは全く違う様相を示すことだろう。1つめの例では3マナ呪文を第3ターンに唱えることが出来て2マナ呪文を後のターンのために手札に残しておくことができるが、2つめの例では土地を引くまで2マナ呪文を使って凌がなければならないのである。

カードを引くことの価値を大きく変える

 ゲームの後半で、大量のマナがあって、手札が枯れているとしよう。ここで重くて強力なカードを引いてくる場合と、土地を引いてくる場合。この差は大きい。これは緊張をもたらし、非常な興奮をもたらしてくれる。

できる行動の数を制限してくれる

 手札に呪文が3枚あって、戦場に起動できるものが3つあったとする。マナは資源なので、その全てを使うことは出来ない。つまり、どれを使うかを選ばなければならないのだ。膠着した盤面でも、プレイヤーの出来ることに選択の幅があれば多様性が存在できるのだ。

 ここでの鍵は、マナのシステムの欠点としてよくあげつらわれることは実は長所だということである。制限が創造の母だという話はしばしばしてきたが、大抵はこれをデザインの文脈で使っていた。しかし、ゲームのプレイにおいてもこれは通用するのだ。ゲームをする上での最大の楽しみの一つは、やりたいことを全てできることではなく、やるべきことを完遂するための手段を探すことにある。プレイヤーはマナ神を呪うのが好きだが、今までにプレイしてきたエキサイティングなゲームというものは、全てが思いのままに行ったことではなく、敗北の顎から辛くも逃れて勝利をつかみ取ったところにこそそのおもしろみがあったということを考えて貰いたい。

#7:ゲームに技術を加える

 マナのシステムに対する最大の不平の一つは、ゲーム内の技術を減らすということがある。しかし、私は、そうではないと主張したい。マナのシステムは確かに無作為性や多様性を増やしているし、それによって良いプレイヤーにも敗北がありうるようになっている(ちなみに私はこれをマナのシステムにおけるもう一つの特筆すべき長所だと考えている。劣ったプレイヤーが決して勝てないゲームは、最高のプレイヤーたち以外の人々にとっては面白くないゲームである)。プレイヤーの資源に偶発的な差が生じることと引き替えに、マナのシステムは良いプレイヤーが把握すべき全く別の内容をもたらしている。

 良いマジック・プレイヤーであることの非常に重要な一面に、マナのシステムがどう働くかを理解し、特にデッキ構築において自分の利益にする方法を理解することがある。加えて、良いプレイヤーはマナのシステムが自分に微笑んでくれなかった場合の対処法を知らなければならない。一言で言うと、マナのシステムの存在は良いプレイヤーが技量の劣るプレイヤーに対して優位に立つことのできる、別の場所だと言えるのだ。

ラ・マンチャのマナ

 今日の話を締める前に、もう一言だけ付け加えさせて貰おう。土地事故のことだ。私は、土地事故を前提にマナのシステムを判断するのは、ガス欠を前提に車を評価するようなものだと思っている。土地事故はすばらしいシステムの生み出した面白くないことだ。ここまで示してきたとおり、マナのシステムの一部は良いことをすると信じている。一部はそうではないにせよ、それは必要悪というものだろう。何度も何度も言ってきたことだが、私を信じない人は存在する。そして、おそらくこの記事の反応にもいるだろう。だが、彼らも言う通り、百聞は一見にしかず、だ。

 さて、それでは今日の話はこれまで。マジックにおいてマナのシステムがなぜ重要なのかという話を楽しんでいただけたのならありがたい。諸君の考えを聞きたいので、メールなりフォーラムなり、あるいはツイッター(@maro254)なりで声を聞かせて貰いたい。(英語で。)

 それではまた次回、私が統率を引き受ける時に。

 その日まで、あなたの想像を絶するドラマがあなたとともにありますように。

オマケ:

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 今回は、諸君が気づいていないような私がしていることについて語りたいがためにオマケを用意した。ある日、私はiPhone用の新しいアプリを手に入れた(Half Toneという)。写真を昔ながらの漫画本のように見せるものだ。楽しみのために、私はその絵をツイッターに投稿した。そして良い反響を得たので、また別のものを、別のものをと投稿した。気づいてみると、私は「奈落からの物語」という日刊コミックを始めていたのだった。

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 1ヶ月以上の間、私はそのコミックを投稿し続けている。私のツイッターから見ることもできるし、投稿するために取ったtumblrのアカウントから見ることもできる。

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 このコミックを作るのは非常に楽しいので、ここで挙げたいくつかを見て面白ければ他のバックナンバーも見て貰いたいし、これからの平日に更新する分も見て貰いたいと思う。いつもの通り、コミックへの反応(気に入ったとか気に入らなかったとか、面白かったとかつまらなかったとか)も期待しているよ。

 それでは、コミックで会おう。

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