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Making Magic -マジック開発秘話-
ホワイトボードに刻まれた数
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Making Magic
ホワイトボードに刻まれた数
Mark Rosewater / Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru
2012年8月13日
今週は第1回ワールド・マジック・カップがジェンコンで開催される。世界中かの国々からその国を代表するチームが集まり、最強のチームという栄誉を求めて戦うのだ。国別代表チームによる大会というのはマジックの歴史上珍しいものではなく、1995年の第2回マジック世界選手権にまでその歴史を遡ることができる。チーム戦の起こりは非常に興味深いものだった(2009年にこのコラム(リンク先は英語)でも軽く説明している通りだ)ので、今回はそれについて掘り下げていこうと思う。
私はマジックの歴史家を自任しているが、それは私が諸君全てと交流してきたことと、また長い間に渡ってここにいることの両方に由来する。私は話をするのが好きで、マジックの歴史が好きだ。だから、今回のコラムは好きなもの同士を組み合わせたものと言うことになる。さて、それではさっそく始めようか。
《平地》 アート:Charles Urbach |
遠い遠い昔
物語は1995年、第2回世界選手権が開催された年――ではなく、その前年、ウィスコンシン州ミルウォーキーで開催されたジェンコンに遡る。第1回マジック世界選手権が開催されたところだ(このジェンコンならびに第1回世界選手権に関する記事(リンク先は英語)を書いたのも私だ)。イベントは滞りなく行われたが、ウィザーズ創設者の一人にして当時CEOであったピーター・アドキッソン/Peter Adkisonは、ジェンコンで行われたゲームの大会、というだけでは勿体ないと感じていた。彼の目標は、マジック世界選手権をより大きなものにするということだった。この目標は翌年の世界選手権で達成されることになる。
一方、私はジェンコンで様々なことをしていた。記事を書くだけでなく、イベントの企画をしている人たちともコミュニケーションを取っていた。カードについて先取り情報を持っていた私は認定イベントに出ることはできなかったので、自然とジャッジの側に向くことになった。加えて、私はコミュニケーションの素養を持っていたので、イベントでのビデオ・カバレージの手伝いもするようになったのだ。
私が最初に派遣された大イベントは、マジック史上最初のプレリリース、アイスエイジのプレリリースであった。開催場所はカナダのトロントただ1カ所だった。興味深いことに、このイベントの優勝者は後に殿堂入りを果たし、開発部のデベロッパーになったデイブ・ハンフリー/Dave Humpherysだった(このイベントについてはTシャツコラムの第1部で、15番目として触れている)。私はこのイベントの記事をデュエリスト誌に書いたし、またプレイヤー視点の記事だったので実際にイベントでプレイもした。2日目に残ることができたが、ウィザーズの人間が結果を残すのは良くないという判断から辞退したのだった。
その次に派遣されたのは1995年のアメリカ選手権で、これはペンシルヴァニア州フィラデルフィアで開催された。フィラデルフィアが熱波に襲われた夏だったことを覚えている。そのイベントでは、マーク・ジャスティス/Mark Justiceが(後の開発部員)ヘンリー・スターン/Henry Sternを決勝で破り、第2代のアメリカ国内王者になったのだ。
後の開発部員ヘンリー・スターンの1995年世界選手権での勇姿 |
私はこのイベントで毎日ジャッジを務めていたが、最終日、決勝のビデオ・カバレージの手伝いをすることにした。マジックのイベントを動画に残す試みは初めてのことで、課題は山積だった。私はビデオ作成の技術を持っていたので(ボストン大学時代の専攻は放送とかだ)、自分でも予想していなかったほど多くのことを手伝うことになった。このイベントのビデオが公開されたかどうかはわからないが、もし公開されていればまだ若い私がステージ上でディレクターに説明しているのがわかるだろう。
1995年の国別選手権は、スターンとジャスティスの間での劇的な決勝戦を迎えた。敗者復活で勝ち残ってきたジャスティス(このイベントはダブル・エリミネーションだったのだ)は、スターンに勝つためには2マッチ連取が必要となる。一見するとこのイベントは非常にスムーズに進行していたように見えたが、舞台裏は順風満帆とは言えなかった。混沌の真骨頂と言うべきは、ヘッド・ジャッジを取り囲んでプレイヤーが3時間にわたる団交を繰り広げたことだろう。
自己完結した形の世界選手権は、マジックを次のレベルに押し上げるというピーターの夢だった。大イベントまで1ヶ月を切り、ピーターはイベント運営の新たな責任者を必要としていた。時は眼前に迫っていた。
世界の危機
この時、私はデュエリスト誌の記者だったので、デュエリスト誌の編集長のキャスリン・ハイネス/Kathryn Hainesと隔週程度で話していた。担当者が着任したという話を聞いていた国別選手権の後、キャスリンに聞いてみた。「世界選手権の運営は誰がやるの?」 このとき、私はジェイソン・カール/Jason Carlという名前を初めて耳にすることになる。
第1回マジック世界選手権決勝戦の記録を取るマーク・ローズウォーター |
ジェイソン・カールはゲーム会社で働きたいと思ってウィザーズに入社したロールプレイヤーである(実際、ゲーム会社で働くのは楽しいことだ)。ピーターが彼をその仕事につけたのは、まだ入社して間もない頃のことだった。ジェイソンはイベントに長けていたわけではないが、マネジメントの経験があったのでピーターはこの仕事にふさわしいと考えたのだ。
ウィザーズにとって、この規模のイベントを運営するのは初めてのことだったということを覚えておいて欲しい。大会1つでトーナメントを運営する、というのではなく、マジックの世界選手権そのものだけで一つのイベントになっているのだ。場所はシアトルの空港近くのホテル、Red Lion Inn。この史上初のイベントのために、プレイヤーは19カ国からシアトルに集まったのだ。
この類のイベントの担当を1ヶ月以内でやってのけろと言われたら、それが誰であっても問題を起こさずにはいられないと思う。ましてこれは史上初の試みだったのでなおのことで、それまでの知見を生かすことなどできないのだ。さらに、ジェイソンはイベント運営の経験もなかったのだ(少なくともマジックのイベントの運営は)。実際の所、強調しておくが、ジェイソンは非常識な状況下で目を見張るような働きを見せてくれた。しかし――しかし、だ――このイベントには、やはり問題がいくつか残っていた。
私は組織化プレイの取材記事全てを書くようになっていたので、このイベントのためにシアトルに派遣されていた。私はジャッジでもあったので、私はこのイベントでジャッジも務めていた。最終日は、国別選手権でそうしたようにビデオ・カバレージの手伝いをしていたし、ステージ上の仕切りもしていた。
Red Lion Innのロビーを歩いていた時のことだ。それまで、ウィザーズが私を派遣していた先は何らかのイベントだった。このときは、どこを見てもマジックのイベントだったのだ。私たちは、新しい時代の始まりを体感せずには居られなかった。何か新しいことが始まろうとしている。何かすごいことが。その時、そのすごいことが何なのかはわからなかったが――。
1995年マジック世界選手権決勝、マーク・ヘルナンデス/Mark Hernandezとアレクサンダー・ブルンク/Alexander Blumke |
この先の話を続ける前に、強調しておきたいことがある。プレミア・レベルの組織化プレイの起こり、世界選手権、団体戦の話だ。過去17年間、ウィザーズは組織化プレイの最大勢力となるべくイベント環境を整備してきた。しかし、まだ「整備している」ところなのだ。これから見るとおり、いくつかの教訓が存在する。
一番最初の会議の時に、イベント中の問題について取り上げられたものがある。ジェイソンはジャッジとミーティングを行ない、イベントをどう運営していくべきか考えていた。まるで当たり前のことを言うように、ジェイソンはいくつかのことを単純化すると言ったのだ。単純化のための変更の1つには、たとえば対戦しなかった場合に3点得られるのを0点にしようとするというものがあった。
この見直しについてはよく覚えている。彼が言ったのは、たしかそんなことだった。
イベントに詳しくない諸君のために一言で言うと、対戦しなかった場合の処理が必要になるのは、イベントの参加人数が奇数の場合に対戦できないプレイヤーが1人発生するからである。このプレイヤーは「対戦しなかった」として扱われる。イベントにおいて絶対に勝たない仮想のプレイヤーが1人用意されているようなものだ。このプレイヤーと対戦したプレイヤーは、そのマッチに勝ったものとして扱われる。第1回戦では不戦勝は無作為に与えられるが、それ以降のラウンドでは可能な限り順位の低いプレイヤーが不戦勝となる。
イベントにおいて、プレイヤーの順位を表すのに点数が用いられる。勝利は3点、引き分け(どちらのプレイヤーも勝利しなかった)は1点、敗北は0点である。この点数付けによって、引き分けよりも勝利の方が価値が高くなるようになっている。不戦勝の点数を3点でなく0点にするということは、不戦勝ではなく不戦敗として扱われるようになると言うことである。実際に負けていないプレイヤーを負けにするというのだから、これは大きな変更である。
それにもまして、これにはより狡猾な問題が潜んでいた。不戦勝の最も簡単な与え方は、そのイベントに自動的に負けるプレイヤーを1人仕込んでいるかのようにして扱えば良かった。こうしても不戦勝役はかならず最下位なので、自動的に最下位のプレイヤーと対戦することになる(不戦勝を得ても決勝に進むようなことはまずあり得ない)。これが逆になったらどうなるか。不戦勝役の順位が上がり、最終的には決勝に残るようなプレイヤーが不戦勝を得てしまうことになる。
こうなると、不戦勝というものが、プレイヤーに無作為の敗北を与えるというだけでなく、イベントの上位陣に勝利をもたらす物になってしまうのだ。これはトップ8という結果に悪い影響ばかりをもたらすことになる。一言で言うと、対戦しなかったプレイヤーに0点を与える、というのはまったく意味を成さないということになる。ジェイソンは間違いだと思ったことをただすために尽力し、不戦勝プレイヤーに勝利を与えることにした。ジェイソンの名誉のために付け加えておくと、ジャッジが彼の考えの問題を指摘したら彼はすぐに理解し、その判断を改めた。このやりとりは、彼の自己紹介にもなったのだ。
世界中から
舞台は再び1994年世界選手権に戻る。私の記憶している限りにおいて、その年に国別選手権のようなものがあったのはベルギー、フランス、それにアメリカの3カ国だけだった(この3カ国から同年世界選手権のトップ4が送り込まれているのは興味深い)。翌年は、国別選手権の開催国数は19に増加した。オーストラリア、オーストリア、ベルギー、ブラジル、カナダ、チェコ共和国、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、イタリア、オランダ、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカだ。
1995年世界選手権の出場方法は2つしかなかった。
- 当年の国別選手権の上位4位に入賞し、国別代表チームの一員となること。
- 前年の世界選手権優勝者であること(ザック・ドラン/Zak Dolanさんですか)。
まだレーティング・システムはできあがっておらず、プレイヤーを招待するいい方法は存在しなかったのだ。ザック・ドランという例外を除いて、国別代表の一員になるしか選択肢はなかったのである。そして、参加資格を得たのは73人、うち71人がイベントに参加することになった。
参加手段がチームしかなかったこともあって、国別代表には熱い視線が寄せられていた。私はこれに早くに気付き、そしてこのイベントには非常に興味深い視点があることに気付いた。そう、このイベントは世界王者を決めるものだが、同時に世界最強のチームを決めることもできるのではないかと。
私はこの発想に興奮して、ジェイソンに連絡を取った。この大会を1つではなく2つとして扱うことはできないかと。「マジック・世界最強チーム」を決めるというのはどうだろう、と。
時間の無い中で、我々は無理矢理にイベントを詰め込んでいった。イベントを運営するのにかかる時間より、実際にある時間の方が短いという有様だった。そこで1人の男が登場する。彼はウィザーズの社員ではない。そもそも誰だかもわからない。その男はジャッジで、不戦勝について声を挙げた男だった。彼は言うのだ、「もう1試合したらどうですか」と。
ジェイソンは忙しかったので、1人にしてほしいと言った。問題は、私がいくら思いついても、それを伝えられるのは手遅れになったあとだということだった。私はキャスリンと話し、キャスリンは私の考えに同意してくれたが、状況があまりに混沌としていたため、この状況で新しいことを導入するのは辞めておいた方がいいと言われた。
そのとき、閃いた。それなら、記録を取ればいい。そうすれば忙しくなるのは私だけだ。情報を記録するんだ。その発想に基づき、私はもう一度ジェイソンに連絡を取った。
私:30秒だけ時間をくれ。
ジェイソン:30秒だな。
私:どのチームが成績上位かみんな知りたがってる。史実に残すため、記録を集めたい。
ジェイソン:俺は何かすることがあるか?
私:いいや。
ジェイソン:これで静かにしてもらえるか?
私:ああ。
ジェイソン:よし。
そこで私はホワイトボードを持ち出し、「チーム順位」と書き込んだ。各ラウンドごとに、私はチームの順位に従ってリストを更新していった。やがて、面白いことが起こった。アメリカ代表は早くに抜け出し、上位に鎮座していた(平均がトップ8入賞で、これは世界選手権史上でも最高の成績だ)が、2位争いは6つの国によって熾烈に行われていた。プレイヤーは自分のチームがどうなのかを見るためにホワイトボードに姿を見せていた。より低い順位のチームにとっても、すぐ上がどこだ、すぐ下がどこだというのは興味がある内容のようだった。最終的には、アメリカ代表が勝利し、フィンランド代表が2位につけることになった。
デュエリスト・コンパニオン(DCI会員に送られていたニュースレター)における私のカバレージでは、私がチームから集めたブレイクダウンも掲載している。アメリカ代表の成績についての分析まで行なっていた(1995年世界選手権に関する記事(リンク先は英語))。
その翌年の世界選手権では、プロツアーも始まり、世界最強チームという考え方も広く受け入れられるようになっていた。アメリカ代表はチェコ共和国代表と決勝戦を行ない、2年連続の王位を死守した(その翌年、カナダ代表が王位を奪還)。
ジェイソンがやった世界選手権は、今日の標準には及ばないが、前人未踏のことをやってのけたのは間違いない。スイス代表チームのアレクサンダー・ブルンクがフランス代表チームのマーク・ヘルナンデスを打ち倒し、第2代世界王者に輝いたのだ。
《世界のるつぼ》 アート:Ron Spencer |
そして世界のどこかで
これが、マジックの歴史の一部だ。今日のコラムを楽しんでもらえたなら幸いである。こういった話を聞きたいかどうか、メール、フォーラム、ツイッター、Tumblr、Google+などでお聞かせ願いたい。
それではまた次回、ゲーム・デザイン必携ツールの話でお会いしよう。
その日まで、面白いことを書けるホワイトボードがあなたとともにありますように。
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