MAGIC STORY

モダンマスターズ2015

EPISODE 01

龍の手下

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龍の手下

Alexander Smith / Tr. Yoshiya Shindo

2015年5月6日


 遥か昔、神河という次元で、キキジキという名のゴブリンが窮地に陥っていた......

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 この物語の原文は、2004年に「神河ブロックの伝説の挿話」のひとつとして発表されたものです。


「おぬしは面倒を起こしてくれるのお、そこの生き物よ。」  メロクは大理石の床に広がる黒翡翠の渦模様をたどりながら、風通しのいい部屋の中を歩き回っていた。彼は自らの社を、長く繊細な指で撫でた。空民(そらたみ)の大使である彼は、様々な審問の指揮を取っていた――要するに、何らかの決定を求めるということだ――が、その中のいくつかは、なんと言うか......いらいらするばかりだった。彼はこの小さな、地に棲む生き物に対し、盗みとかけちな犯罪以上のものを予想していたわけではなかったが、しかしよりによって、この彼の部屋においてとは! 横柄な態度というのは個人的な侮蔑よりもたちが悪い。それは空にいる人々すべてを馬鹿にし、優雅に青白い月に噛み付き、侮辱し、踏みにじり ――


曇り鏡のメロク》 アート:Scott M. Fischer

 メロクはため息をつき、虜囚に目をやった。彼は部屋の真ん中の天井から白い大理石の鍾乳石のように下がっている長い尖塔の一番下にぶら下げられている。銀の帯が尖塔と虜囚を結んでいた――彼を縛り上げているのはそれだけだ。その十呎下の床には、完璧に丸い孔が開いている。そのさらに下あるのは、ほんの少しの雲と、さらにはるか二千(しゃく)下に広がる波打つ海だけだった。彼は腕をしばし動かすと、おもむろにゆっくりと輪を書き始めた。その悪忌(あっき)は、メロクの横に立ったとしてもおそらくは空民の腰までしかないだろうが、彼は悪忌の中では大きいほうで、その分細い帯では長くは支えてはくれないだろう。彼は突然、中庭の通り道にあった熟れた枇杷を全部食べてしまったことを後悔し始めた。それはあまりにも甘く、美味しそうだったのだ。その時、彼は自分を呼ぶ声を聞いた......汗の滴が、盛り上がった額の間から目の間を通って鼻の頭にたどり着き、永遠とも思える長い時間そこに溜まった後、床の孔を抜けて、空に浮かぶ宮殿の下を吹く激しい風しかない空間へと滴り落ちていった。悪忌はごくりとつばを飲み込んだ。

 メロクは立ち止まり、眉を持ち上げた。「わかるだろうが、おぬしの口を開く方法はいくらでもある。」 彼は腰紐から細い短剣を抜くと、悪忌の頭の上の帯を見た。「しかし、おぬしが道理を覚える機会をもう一度だけくれてやろうと思うのだ、キキジキよ。」 悪忌は緊張した。「おぬしが誰かは知っておる。」 とメロクは微笑みながら言った。「我が鏡は非常に多くの事を映してくれる......ただ、おぬしら気味悪い一味が岩の間を転がりまわって頭をぶつけるのを見ていると、たとえ遠くのこととは言え痛みが走るのじゃ。」 メロクは頭を振り、また歩き回り始めた。

「キキジキよ。お前は若き雄悪忌として、もう少し身のふりを何とかできると思うのだ。おぬしは家の四人目の子供として生まれ、溶岩の地での岩投げの練習中に岩ではなく妹を投げたことや、お前よりもう少し愚かな兄に『鬼からかい』の遊び方を教えたことで、一家を追い出された。おぬしは一族の怒りから、その走り手としての技をもって逃げおおせることに成功した......、しかし、我が鏡をもってしても、おぬしが我の真珠をどこに隠したのかがわからぬし、そもそもおぬしが、運ぶものの何も見えぬに、如何にしてこの雲の宮殿まで至ったのかを説明できんのだ!」 メロクは深呼吸をして目線を上げたが、やがて凍りつくような微笑が唇に浮かんだ。「さあ、言うがよい。我はぜひとも知りたい。何ゆえ悪忌が飛ぶことができたのかを?」


 なんて日だ。キキジキは朽葉色の鼻糞を左側の鼻の穴から引っ張り出すと、崖の裂け目に茂った素馨(ジャアスミン)の草むらに弾き飛ばした。しかし、その茂みが根を引き抜き、葉を震わせて彼に植物なりの怒りを向けながら走り去っていった時、彼は顔をしかめた。ここじゃ何かがおかしい。彼はそれがなんであるかがわかっていたが、それをなんと呼ぶのかは忘れていた。それはまともな理由もなく奇妙な物事が起こる場所で、とにかく魔術師なりいやらしい神なりがいつも関わってる場所だ。マーなんとかとか言ったはずだ。キキジキは頭を掻き、彼の足元の砂だらけの道を見つめた。運の無い――また行き止まりだ。彼の午前の大部分は、前日に彼が遠くの尾根から見た、吹き飛ばされた洞窟を探し回ることに費やされた。彼が見つけたその洞窟の中には、夕方の太陽を受けて輝く水たまりが見えたのだ。ああ、こいつは頭がおかしくなるぜ! 彼は実際に、魚や盲いの白洞窟蛙の臭いをかぎつけていた......守護神の膨れた胆汁嚢にかけて、彼には水の滴る音すら聞こえていた。だが、どこに? 見回したところは、どこもかしこもからからに乾いた、太陽に風化された岩ばかりだった。

 食べ物。

 彼が最後に食べたのは、洞窟から逃げ出す時にパクパクが投げつけた、一月も前の蚯蚓麺麭(みみずパン)の欠片だけだった。狙いは素晴らしかった。彼が盗み出した泥鶏(どろにわとり)でそいつを止めてなきゃ、頭をかち割られてたとこだ。彼はその痩せこけた身体の中から卵でも出てこないかと願っていたが、麺麭がぶつかったそれは洞窟蛞蝓(なめくじ)ほどにぐずぐずになってしまった。その晩、彼は雷の落ちた樹の幹で休みながらそいつを調べていたが、それはほとんど骨ばかりだった。そこで彼は古くなった蚯蚓麺麭を食べることとなったが、おかげで良い歯を一本失ってしまった。そして、彼はいまや餓死寸前だ。キキジキは川の音が聞こえたはずの方向へ岩の間を抜けていった。腹は鳴り、頭の中は様々な考えで一杯だった......いや、実際はこっちも空っぽだ。胃袋が何かを求めている。

 やがて彼は、やや平らになっている場所に出た。彼は地面を眺め、目線はあちらこちらに飛びまわって、虫でも蜥蜴でも骨でも、とにかく何かを探していた......そして、数歩先の岩の陰に何か緑色の物を見つけた。彼は大急ぎで駆けつけ、雑草をつついて敵意がないことを確認して手を伸ばした――その時、水の音が聞こえたのだ! 彼はすぐに、片方の尖った耳を地面に押し付けた。あった! そいつはここの、岩の下だ。いや、思ったとおりだ――こいつは地下の川だ! 彼はすぐに爪で地面を掘り始めた。彼の手は穴を掘るためにできていたし、岩の周りの土は乾いて砕けやすかった。ほとんど時間もかけずに彼はそれなりの穴を掘り空けた。それは彼が這いこむには十分の大きさだった。すぐに魚やら蝸牛(かたつむり)やら蛞蝓やらのご馳走にありつけるぞ! キキジキは仕事を中断して立ち上がり、勝利の声を上げ、垢だらけの手を空に突き上げて振り回した......その時、彼の下の地面が崩れ落ち、彼はでんぐり返しを打ちながら、頭から暗い急流へと転げ込んだ。

 小さき甲羅の足つき魚、光を求めて水を掻く。後を見やれ、小さき魚。飢えるはお前だけならず。


鏡割りのキキジキ》 アート:Steven Belledin

 キキジキは目を開き、自分の状況を調べ始めた。彼のいた場所は、非常に暗い、かなり乾いた場所――ああ、洞窟だ――だった。そこは居心地がよく、彼の甲羅の縁の下では、大きな魚が暴れていた。こいつの頭をかち割って食事にすれば、そいつもまたいいことだ。しかし、おそらくここから出る唯一の方向は今来た方向だろう。そいつは良くはない。彼は恐ろしく冷たい地底の川が、腕を伸ばしたほど先にある壁の裂け目から流れ出てきて、洞窟の先の割れ目へと消えていくのを見つけた。凍るようなしぶきが彼に飛んできていた。そう、彼をここにつれてきたのはこの川だ。この濡れっぷりと魚から考えるに、少なくともそういうことだろう。しかし、彼はここ五瞬ほどの間に起こったことははっきりと覚えていなかった。穴を掘っていた――それは覚えている。そこから先は、断片的に落っこちたこととか、ぶつけたこととか、寒くて暗くて濡れていたこととか......それに、声とか。

 彼はくしゃみをして、身震いした。誰か、さもなくば何かが彼に話しかけていたのだ! 彼は洞窟の中を見回した。彼の大きな目は、天井の苔が放つ光でも見えるように調整されたが、影の中に潜んでいるものはいないようだった。彼は手の中に捕まっているまぶたの無い目を見下ろしていた。魚――その声は彼を魚と読んでいた。まあ、それが誰であれ、悪忌を魚と間違うとは、そいつはすこぶるの馬鹿に違いない。ほとんどの悪忌は泳いで助かることが不可能だ。確かに、カピチャピは溶岩流の中でうまいことやったことがあるが、彼女は実際に泳いだって風には見えなかったし、そうだとしても、その格好は不細工極まりなかった。キキジキはその思い出に含み笑いをして、魚に頭から食らいついた。水の中を戻るわけには行かなかったし、彼がここで死ぬとしても、飢えて死ぬのは御免だからな!


 キキジキの胃が音を立てた。彼は何時間も行ったり来たりしながら、自分が捕らえられている場所をもう五回も調べつくしていた。唯一の発見は、可能な出口に関しての考えが間違っていたことだ。洞窟の、黒く流れる川から遠い、影のより暗い方の側には、床が出し抜けに彼の慎重の四倍ほどの幅の裂け目となって洞窟の反対側の壁まで続いている場所があった。彼が今座っているのはそこである。彼は縁から足をぶらぶらさせながら、子供の頃、あるいは若者の時、そして今ですら面白がって遊んでいる「僕小石、落っこちて死んじゃう音を聞いてよ」 遊びにもすぐ飽きてしまった。いずれにせよ、小石も尽きていたし。あと投げられる物と言えば、甲羅で捕まえた魚のとげだらけの固い尻尾だけで、彼が闇に包まれる前に最後のおやつとして取っておいたものだ。彼は待つのにも飽き、彼は尻尾を持ち上げて口を開いた――その時、思いもかけぬ突風が裂け目から吹き出し、尻尾を彼の手からむしりとっていった。

 キキジキは尻尾が風に吹き上げられ、向きを変えて裂け目に落ちていこうとするのを見てうろたえた叫び声を上げた。彼の本能はそれを追っていくことを求めていた。それがどんなに骨ばかりでとげだらけだろうと、それが彼の持ち物すべてだったのだ――しかし、彼は思いとどまった。たかが魚の尻尾を追っかけて大きく口を広げた裂け目に飛び込んでいくなんて! その時、強力な力が全力で彼を捕らえ、古くからの身内がそれとわかるほどに彼を締め上げた――それは胃袋だった。胃袋じゃ従わなくちゃいけない。キキジキはにやっと笑って空間に飛び出した。彼にとって、その尻尾は食べることができる最後のものなのだ。そして、起こるべきことが彼に起こった。彼は闇に向かってまっ逆さまに落ちていったのだ。

 利口な魚はすぐ巣を見つける。馬鹿な魚は死ぬばかり。

 キキジキの身体は硬直した。何かが完璧に間違っている。こいつはマーなんとかの仕業よりもっと怪しい。まず何より、飛び出した後でこんなに早く着地するとは思っていなかった。そもそも、これじゃまるで何も無い空気に着地したみたいだ――空気は部族の長老の甲羅ほども固く、まるでその長老に座られたみたいに身体が痛んだ(彼の様々な悪戯に対して何度も耐える羽目になったお仕置きだ)。さらに妙なのは、彼は実際に目下の裂け目に向かって落ち続けているということだ。おまけに、彼が捕まえようとしていた魚の骨は、今や手の届かないところに行ってしまった。

 小さな魚よ、目を開け。お前を殺める者を見よ。
 この私を見よ。


月輪の鏡》 アート:Christopher Rush

 キキジキは息をのんだ。彼は何もないところに立っているわけではなかった。彼は別な洞窟の真ん中に立っていた。最初のものよりとにかく大きかったし、もっと丸かった。ここからでは天井は全然見えなかったし、壁も何か変だ。それはきらきら光る青い板でできているようで、それぞれ大きさは彼ほどもあり、隣同士ぴったりと繋がっていた。おそらく五十はあるだろう。そしてそれぞれの板には......ちょっと待て。彼は一人ではなかった。それぞれの板の前には、恐ろしげな発育不良の生き物が立っていた。彼はぐるりと見回した。なんと、後ろの壁にもいやがる! 彼らはぞっとする尖った鼻の両側の血走った目で彼を見つめていた。うわ、なんて醜い! キキジキは膝をついて両手を上げ、何も武器を持っていないことを示したが、その不気味な生き物は彼を馬鹿にするように、一斉に地面に膝をついて手を上げたのだ! 彼らは間違いなく彼を食うだろう。彼らは邪悪で、下劣で、それに......悪忌? キキジキは頭をかいた。五十匹の悪忌も頭をかいた。彼は片足で輪を書いて飛んだ。五十匹も彼の動きを真似た。鏡だ! 彼は鏡の部屋にいるのだ!

 神河には、水の面を凍らせて壁にはめ込む方法を見つけ、それを「鏡」 と呼んでいる人々が入るという話は聞いていた。しかし、実際に本物を見たのは初めてだった。彼はそのうちの一つに駆け寄って調べようとしたが、その時、彼は地上に光るものを見つけた。魚の尻尾だ! 彼のツキも間違いなくいい方に向いてきたようだ。彼は素早く尻尾を拾い上げると、口を大きく開け――

 聞こえるか、小さき魚よ?

 キキジキは尻尾を落とし、舌を噛んだ。声だ。何で声のことを忘れてたんだ? 部屋の鏡の板がすべて横に動き始め、壁に隙間が開いた。そして、壁の後の闇の中には、巨大な、青い、爬虫類の頭があった。キキジキの足は震え始め、彼は腰を抜かした。甲羅の下の端が固い地面を叩いた。頭は彼の下に近づき、板がその後で動き、曲がってその後に続いていた。彼の目からは涙が溢れていた。守護神の溶岩焦げの尻尾よ! ありゃ鏡じゃない。あれは......あれは......鱗だ。

 我はここだ。

 それは偉大なるだった。その声はキキジキの甲羅の内側に響いていた。おお、そいつはなんて大きくて、でかくて、馬鹿でかいんだ。また、それは非常に年老いてもいた。そして、キキジキが年寄りについて何か知っていることがあるとすれば、やつらは底意地が悪いってことだろう。

 我は時よりも古いのだ、怯えた魚よ。お前のような者の命など、この時にわずかばかりの変化に過ぎぬ。我は海深くの牡蠣の殻の輪が育ち、そしてその殻が砂へと帰っていくのを見てきた。我が鱗は地上のどの金剛石よりも光り輝き、我が怒りはどの山の炎よりも熱く物を焼く。そして、我は怒っておるのだ、足つき魚よ、非常に怒っておるのだ。我が大事な物が盗まれたのだ。

 キキジキの一生が走馬灯のように目の前を巡った。兄や姉が彼を岩で殴っているところ。父が彼を追っ払い、それからにやにや笑ってさらに大きな岩で殴っているところ。母が彼を隣に呼び、それから彼を特段に大きくて尖った岩で殴っているところ。彼はいい思い出を、少なくとも食べ物の出てくるやつを必死になって探した。しかし、それはあまりにも早く終わってしまった。終りだ。最期だ。彼はの前で縮み上がり、泣きながら口の中の魚の尻尾を噛み砕いていた。骨が口の中にささり、彼は静かに文句をつけ始めた。巨大な蜥蜴の息が彼を津波のように洗い流していくだろう。その臭いは死んだ魚のようだ。キキジキは目を回し、気を失って地面に倒れた。

 真っ暗だ......。

 小さな甲羅の魚よ......小さな魚よ......。

 あの声だ! ほっといてくれりゃいいのに。死ぬにも威厳というものがある。いいさ、ずいぶんとお願いされたことだし、少なくとも最期の前にちょっと好きにさせてやってもいいだろう。

 我が巣を見つけるとは、賢き者よ。お前には使い道もあろう......。


 陽が照っていた。雲が舞っていた。鳥が......青い空では鳥が輪を書いて飛んでいた。キキジキは、海の上で小船に揺られていた。静かで、穏やかだ。洞窟も、鏡の鱗も、頭に響く声もない。彼は微笑んだ。彼は小船が波の高みに持ち上げられ、白い雲が近くなったのを感じていた。気楽だし、気分もいい。「雲さん、こんにち......。」  雲は撃ち落とされるように彼の下に抜けていった。先祖のカチカチの甲羅よ! 彼は小船に乗ってなんかいなかった! 彼は飛んでいたのだ! 彼が下を見ると、鏡のように青い鱗の中の顔が彼を見返した。彼はの背中に乗っているのだ! 思い出した――声は盗まれた物のために彼が必要だとか言っていた。それはものすごい価値のある真珠で、空に浮かぶ宮殿の中にあるという......。


空民の雲の双輪車》 アート:Franz Vohwinkel

 キキジキは再び上を見た。遠くにぼんやりと、信じられないほど素晴らしい宮殿が雲の上から伸びているかのような姿を現していた。尖塔は太陽にきらめいていた。門や中庭も見えたし、双輪車のような乗り物が風の流れに乗って、大宮殿とそれよりも小さい塔の乗っている雲との間を滑るように行ったり来たりしているのも見えた。それは空民の屋敷だった。空民は月の人々で、背が高く冷酷な種族で、空に浮かんだまま地上の人々にはほとんど見向きもしていなかった。少なくとも、悪忌は蚊帳の外だ。彼は罰する者ゾーズーの話を聞いたことがあった。彼は悪忌の中でも特に勇敢なものを率いて、空民の双輪車が飛んでいることで知られている場所の近くで石投げの練習をしていたのだ。そして、黒焦げになった死体は、それが強力な何とかの仕業だったことが見て取れた。強力な、マー......マー......

 魔法。

「魔法だ!」 とキキジキは吹きすさぶ風の中で叫んだ。それだ! 彼は大笑いで喜び、もう少しでの背中から滑り落ちるところだった。しかし、偉大なるものは空中で身体をくねらせ、乗り手の平衡をとりなおした。「でも、待てよ――空民に魔法が使えるなら、俺たちが来るのも知ってるんじゃないのか?」

 彼らが見るは素早く流れる雲のみ。それ以上は見ぬ、小さき魚よ。空民は賢く抜け目無いが、空は彼らのものではない。彼らより旧きものも数多ある。

 は急に向きを変え、黒い積乱雲の左に回りこんだ。

 その雲には、雷の神、雷神がいる。嵐の帳を抜ける空民の双輪車にとっては悩みの種。

「まあいいさ。」 とキキジキはつばを飲み込みながら言った。「でも、俺を宮殿に降ろした後、どうするんだ?」  しかし旧きは単に微笑んだだけだった。輝く尖塔や細身の曲がった扶壁に反射視した光に、その鱗が一瞬きらめいた。とうとうここまで来たのだ。


 キキジキは中庭の樹にたわわに実っている五つ目の枇杷を貪りながら、次の行動を考えていた。しかし空民やこの開け放たれた宮殿はどうだろうか? 彼は宮殿の内側を、それなりに過ごしやすい荒削りの岩とか洞窟苔とか、そのあたりになっていないかと半ば期待していた。しかし、ここすべての玻璃や大理石はあきらかに落ち着かないものだったし、巨大な部屋は隠れる役に立ちそうもない。彼は冷たい敷石の上に色塗られた雲を置いた通路を、かがんだままぺたぺた進んだ。が話してくれた大使の部屋はこの近くに違いなかった。その時、曲がり角の向こうからこちらに向かってくる声がした。キキジキは巨大な口に翼のついたような大きな翡翠の彫像の影に避難した。

「......で、その地に棲む土偶僧(どぐそう)が我に向かって『神は我々から何もかももって行くのだ。全部だ! 住む土地すらも失ったら、我々はどこに住めばよいのだ!』とぞ言うので、我は彼に『厄介な問題であるのぉ』と告げたのだ。」

 キキジキは話し声や冷たい笑いに聞き耳を立てていたが、やがて二人の空民が近くの扉から浮かんだまま出てきて、彼の隠れ場所を過ぎて行った。彼らは背が高く細身で、丈の長い藍色の式服に奇妙な輪の文様や光る金糸をあしらったものをまとっていた。一人の式服の袖口には広い赤い帯がついていた。そして着物の式服の模様は、彼が動くのに合わせて渦を巻いたり動いたりしているようだった。彼が大使に違いない。キキジキは彼らが自分の後にある間に消えていくのを待ち、奇妙な彫像をこっそりと回り込んで扉を抜けた。


朧宮の特使》 アート:Rob Alexander

 彼が入ったのは、彼がこれまで行ったことのあるどんな場所よりも豪華に飾られた部屋だった。緑に輝く翡翠の柱は部屋を囲むように立ち、大理石の壁の白と灰色が混じりあったのと美しい明暗をなしている。部屋の両側のくぼんだ場所には、白い骨から作られた優雅な燭台が飾ってあった。その部屋の中には、蝋燭の数吋上でゆれている炎以外は何も無かった。反対側の壁にかかっている分厚い綴れ織りの金の錦絵の中心には、布から浮かんでいるように見える巨大な織り絵の月が、部屋のもう半分に青白い光を投げかけている。キキジキが見つめていると、その月にかかる影までが動いているようだ。これも魔法だ。彼の目線は絹をたどって下に行き、月の昇る地平線を表す銀の飾り房をさらに通り過ぎた。そこで綴れ織りの月の光にかすかに照らされているのは、鉄の台座に置かれた大きな真珠だった。こいつがの真珠だ。

 キキジキは手を握り締め、ちょっとの間躊躇した。こいつは罠じゃないのか? 空民がこの真珠に恐ろしい変身の魔法あたりをかけていて、掴もうものなら何かに変えられてしまうとか......悪忌よりさらにひどい何かに! 今回の事件全体が、家族が俺に何かの教えを与えようとして仕掛けた悪戯じゃないのか? いや、親戚一同のほとんどはを目の前にしたら内臓が勝手な動きをする羽目になるだろうし、ましてや悪戯に引き込むのに話しかけられるやつなんか一人もいないだろう。キキジキは、彼の叔父や叔母が新しい友だちからほうほうの体で逃げるのを想像してにやりとした。彼は枇杷にもう一口かじりつくと、種を絹の長椅子に放り投げた。それは床に転がり、装飾に果汁の染みの跡をわずかに残した。キキジキは手を拭うと、台座に大股で近づき、真珠を引っ掴んだ。近くで見ると、それは彼の頭ほども大きく、ずっとずっと重かった。彼はそこを離れようと後を向いた。しかし、彼はそこに凍りついた。

 見られていたのだ。彼の目の片隅に、近い方のくぼみの燭台の後に誰かが立っているのが映った。キキジキは手の中の真珠の重さを感じていた。は真珠がどんな状態でなければいけないかを指示していなかった。となれば、キキジキの知識にあるのは、大きな物を人めがけて投げつけるやり方だ。彼は両手でゆっくりと、真珠を頭の上で構えた――その時、くぼみの人影もまったく同じ動きをした。また鏡だ! 彼はもう少しで大声で笑い出すところだった。彼は真珠を腕の下に押し込み、くぼみまで歩くと燭台を脇にのけた。こいつは本物の鏡だ。完璧に磨かれた楕円形の反射する玻璃(ガラス)が、小さな蒼鋼玉(サファイヤ)紅鋼玉(ルビー)で飾られた黄金の枠に収められている。そしてその枠の中のキキジキの姿は、めちゃくちゃ格好よかった。骨ばった鼻は切り立ち、目は青く輝き、腕は長く......何も持っていない?

 キキジキは真珠を見下ろした。いや、確かにそこに、腕に抱えられていて、気絶した兄弟と同じぐらいの重さをしている。彼は鏡をのぞいた。そこに映る彼の腕は、奇妙な形に曲がっていて、なんと真珠を持っていない! 彼は真珠を床に置き、また鏡を見た。鏡の相手と目が合った。顎を掻いた。鏡も顎を掻いた。彼が微笑むと向こうも微笑を返し、そして舌を突き出すと彼にあかんべえをしたのだ! ちょっとの間、キキジキは自分がそうしたと思っていた――彼の口が許可無くそんなことをしたのは別に初めてじゃない――が、目線を下に向けると、彼の舌は確かにあるべきところ、歯の後に収まっている。彼は鏡を見た。鏡の向こうは手をヒラヒラさせて彼を小馬鹿にしている。生意気なやつだ! そんなに頭が良いつもりか? キキジキは頭にきて、真珠を拾い上げた。彼はゆっくりと真珠を顔の前まで持ち上げ、鏡の顔ににやりと笑った。そこに映っていた表情は曇り、顔を手で覆っていた。彼は何かを叫んでいるようだったが、キキジキには何も聞こえなかった。「遊んでくれないのか?」 とキキジキは言い、真珠を鏡の顔にたたきつけた。

 その瞬間、物が砕けるすさまじい音が響き渡った。真珠は鏡に跳ね返され、キキジキは甲羅に叩き込まれて部屋の真ん中まで吹っ飛ばされた。彼はくるくる回りながら、真珠を大理石の床に落とさないように必死だった。壊すわけにはいかないし、何よりも、これ以上音を立てちゃいけない。彼は顔を上げて傷が無いか調べたが、部屋のくぼみの前で鏡の欠片を払い落としながら立っていたのは、鏡に映っていた彼の姿だったのだ! 「お前はだれだ?」 とキキジキは聞いた。

「俺はキキジキだ!」 とその姿は答えた。

「違う、俺がキキジキだ!」

 その時、部屋の外側の通路から声が聞こえてきた――空民だ。何の騒ぎがあったか見に来たんだ。間違いない。キキジキは彼の分身をまじまじと眺めた。「いいか。」 と彼は、声割れた鏡から最期の欠片が落ちる音に負けないよう、はっきりとした囁き声で言った。「お前の見た目は嫌いだけど、手を組まないと、俺たちは溶岩池に落ちた泥鶏ぐらい丸焼けになっちまうぞ。」 分身はうなずいた。「こっちだ。」 とキキジキは言い、真珠を小脇に抱え、小部屋に繋がるドアに向かった。すぐ後に分身が続いた。

 彼らはついていた。空民の大使は入り口のほうには戻らなかったのだ。二人のキキジキは必死に逃げ、広い中庭へ出てきた。キキジキは立ち止まり、分身に振り返った。「いいか、俺はを呼ばなくちゃいけないんだ。」

「俺もだ!」 と分身は言った。

 キキジキは素早く考えた。それは彼にとって初めてのことだし、まったく奇跡に近かった。後にそれは彼の自慢の種になった。やらなきゃいけないことがある。「ええと、いいか――二手に分かれよう。俺は左側の塔に行く。お前は中庭を抜けて右側の塔に行け。で、宮殿の裏手でと会おう。その方がいいはずだ!」

 分身は疑わしげに眉をひそめた。

 こんちくしょう。

 キキジキは違う作戦を取ることにした。「そんとき、途中で枇杷をいっぱい拾っていけ、いいか?」

 分身はにやりと笑った。顔も同じなら、胃袋だって同じだ。キキジキは分身が裏庭を走り去っていくのを見て身震いした。なんでこうもだまされやすいんだろう? これが彼にとってやらなきゃいけないことだ。彼は振り返ると、まっすぐ小さな塔に向かった。そこでと落ち合う約束だったのだ。彼の甲羅は陽が当たって暖かかったし、それに、真珠もそんなに重くは感じなくなっていた。


 は筋雲の間を素早く抜け、時々巨大な蛾の群れを避けるように向きを変えていた。蛾はが通り抜けた跡を、吹き飛ばされた紙のように舞った。巨大な顎にくわえられた真珠には、沈む太陽の赤さが映り輝いていた。背中には、キキジキが貴重な経験に思いを馳せたまま腰掛けていた。やがて彼はからだを起こすと、うなる風に負けない声で叫んだ。「俺の分身がどうなったと思う?」

 空民の大使に捕まっておる。

「なあ。」 とキキジキは顔をしかめた。「残してきたのはちょっと悪かった気がするんだよ。何ていうか、家族じゃないんだろうけど、彼は......俺なんだぜ!」

 気に病むな、勇敢な小さき魚よ。あの手の映り身はお前よりなおはかなき者。長くは捕まっておるまい。喜ぶがいい、角ある魚よ、偉大なる鏡割りよ。お前はよくやった。

 キキジキは「はかなき」 が何を意味するのかよくわからなかったが、どうやら何かの魔法が彼の分身を助けてくれるらしいから、まあいいだろう。彼は助かったことにため息をつき、遥か下の地面に目を降ろした。あそこの尾根は昨日上ったところだし、その向こうの山は彼が出てきたところ......家族のいるところだ。キキジキは甲羅をポンと叩いた。もっと分身がたくさんいればいい! 彼は何十人もの自分が洞窟を走り回って、喜びにからだを震わせているのを想像した。父親が口を驚きにあんぐりと開けたまま、キキジキの大群の下敷きになっているのが見えるようだ! 彼は風に向かって叫んだ。「あの鏡を取ってこようぜ!

 一枚の鏡ごとき、お前に見せたもの以上の何を与えよう? 魔法はお前のものだ、賢き魚よ。

「何だって?」 とキキジキは叫んで、額の尖った骨の間を掻いた。「つまり、俺が欲しい時にもっと分身が作れるってのか? 鏡は要らないって?」  は何も言わなかったが、大きな青い鱗が奇妙に震えているのがわかった。この震えは、そう......笑ってるんだ! が笑っている! 彼らはものすごい速度で雲の周りに宙返りをすると、空気を引き裂くように目下の丘に突っ込んでいった。


潮の星、京河》 アート:Ittoku

 は彼を、自分が知っている見捨てられた果樹園に連れて行ってくれると約束した。そこには有り余るほど実を抱えた果物の樹と、太った蛞蝓がたくさんいるらしい。キキジキは思った。そこには水溜りぐらいあるだろう――彼の新しい技を試すにはいい場所だ。キキジキはにやっと笑った。結局、今日はいい日になったもんだ。


 空高く、雲の上の宮殿では、メロクが歩みを止めた。虜囚を凍るような目でねめつけると、彼は微笑んだ。「我はこんなことは望まんのだ。我は野蛮なることは好まぬし。しかし、選択をさせぬはおぬしであるぞ。もう止めにして、悪忌が空を飛ぶ奇跡を目の当たりにする証人となろうではないか。」 銀の帯に支えられた悪忌はじたばたと叫び声を上げ、そのため彼のからだが振り回されるものだから、余計彼は大声で叫んでいた。「好きでやっているわけではないのだ、キキジキよ。わかってくれい。」 とメロクは言い、目に納得の光を宿し、短剣を引き抜くと空に浮かんで、無力な虜囚の方向へ進み出た。その時、彼は空中で止まった。

 何かが変だ。悪忌はもう身をよじってはいなかった。実際、彼は空中で凍りついたようになっていた。メロクは眉を持ち上げたが、その瞬間の出来事に息を飲んだ。悪忌は何千もの輝く欠片に砕け散り、夕立のように降り注ぐと、床に落ちる前にどこかへと消えてしまったのだ。残されたものは、意味も無く天井から下がっている帯だけだった。メロクはこめかみを長い、細身の指で押した。こいつはなんて厄介な尋問だったんだろうか。


 地底の川の中の隠れた洞窟には、巨大な青いが闇の中で真珠を抱えてとぐろを巻いている。真珠はかすかに光を放つ。それが雲の宮殿からここまでの旅で太陽に暖められてきたかのように。

 お休み、坊やよ、強くなるのだよ。おまえももうすぐ孵り、滝と霧と星のあるいるべき場所へと旅立つのだ。深みの牡蠣も食べるがいい。甘い雲の滴も、地面を歩く魚も。ただ......赤い甲羅のあるものだけはそっとしておくれよ。

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