MAGIC STORY

基本セット2019

EPISODE 11

屈さぬ者 その3

Cassandra Khaw
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2018年9月7日

 

 前回の物語:屈さぬ者 その2


 ビビアンはヴェルノ男爵に向けて幾つもの嘘を並べ立てたが、アーク弓に生物を加える方法については嘘をつかなかった。この神器はまさしく死の瞬間を切り取るもので、とはいえそこで単純に止めるのではなく、アーク弓の骨格に働く魔法的機能によって、ぼろぼろの死にゆく生物の最期の姿を絶頂期のそれへと変化させる。無論、かつてはビビアン以外にもその儀式を行える者はいた。同胞のシャーマンもまたその知識を保持していた。

 だが今や、ビビアンがスカラ最後の生き残りだった。

 そして男爵は彼女の言葉を信頼しようとはしなかった。男爵は書記の小集団を呼び集めてビビアンの言葉を記録させたが、その行動は誰にとっても特に驚くべきものではなかった。彼らは腕に巻物を抱え、利き手に羽ペンを構えた。侍者の少年らがインク瓶を手に代わる代わる彼らについた。「後世のためだよ」 男爵はビビアンへとそう告げた。かすかに透明な琥珀の杯の中にブランデーを揺らしながら、その表情は疑念に曇っていた。

 ビビアンが驚いたのは、彼らが舞踏場へと持ち込んだ装備だった。何重もの配線を金属の柱が支える金線細工のアーティファクトに、彼女には読めない呪文が浮き彫りにされていた。だがビビアンの当惑は続かなかった。男爵の召使らはすぐさまその装置を死にかけたモンストロサウルスへと寄せた。更なる尼僧らが部屋に呼ばれると、彼女らは対句の合唱を響かせて揺らめく障壁を織り上げた。

「中へ」と男爵。

 ビビアンは応じた。

 この機会は二度とないと思われた。これを逃したなら、ビビアンが意図するようには、死して長い世界の最後の儀式のように彼女が堅く閉ざしている真実のようにはいかないだろう。逃すわけにはいかない。ビビアンは魔法の障壁の表面へと軽く指を滑らせた。ほぼ透明でありながら、鋼の壁のように感じた。

 ビビアンはモンストロサウルスの隣に膝をついた。今や弱り果てて彼女の接触にもわずかに身動きをするだけ、死の無気力な吐息を吐くだけだった。その息は胆汁と錆と腐肉の匂いに混じり、ごくごく僅かなライラックとサフランの気配があった。それはビビアンへと涙目で瞬きをし、涙管からは白く濁った液体が染み出た。

「麻酔をお願いします」 ビビアンは冷静に言った。

 尼僧と書記らは互いに顔を見合わせた。

「もしくは酒精を。あなたがたが惜しみなく与えてくれるものを」 ビビアンは続けた。「そうすることはあなたがたの信条ではないことはわかっているけど、アーク弓はとてつもなく正確なの。苦痛の最高潮の状態をアーク弓に取り入れたなら、召喚した時もそのまま同じ。苦痛で半ば狂っている時に戦うのは困難、それはお判りでしょう」

 男爵はブランデーの杯を置くと自らの手で注ぎ、そして尼僧らに苛立った身振りをした。「彼女の言う通りに」

 尼僧らは応じた。彼女らの魔術が這うとモンストロサウルスは息を吐いて昏倒し、まるで自らへと沈むように新たな無感覚へと退いていった。両目が震えて閉じられ、呼吸の間隔は次第に長くなっていった。

 
崇高な阻止》 アート:Lake Hurwitz

「さあ」 ビビアンはそう言い、スカラの燃えがらへの祈りを呟いた。声はとても小さく、ルノーの不死者らもその賛美の詠唱を聞き取ることはできないと彼女は確信していた。ビビアンはモンストロサウルスの幅広の鼻を最後に一度撫で、そして立ち上がった。アーク弓に体重をかけると、タイル敷の床の割れ目に先端がはまり込んだ。

 もはや誰も無関心を装おうとしてはいなかった。誰もが目を向けていた。あらゆる貴族、廷臣、食器洗いの召使ですら持ち場から身を乗り出していた。彼らは番犬のように熱心に見つめていた。ビビアンは親指と人差し指で輪を作り、愛情を込めてアーク弓を鳴らした。彼女は策略を一つだけ残していた、試す価値のある最後の一つを。ビビアンが観衆へとお辞儀をすると、笑い声が向けられた。

 時が来た。

 ビビアンはアーク弓で床を三度叩き、その三度目に音が響き渡った。エネルギーが舞踏場にうねって渦巻き、壁を揺らし、シャンデリアの紐を鳴らし、見つめる全ての顔に透き通る光の光沢が反射した。そして何かが爆発したように、その力が吼えて起点へと再び殺到し、ビビアンの足元の床が輝いた。それはまるで現実が剥がれ落ちたような眩しさで、ただ白色だけがあり、影という概念を持つ余裕すらなかった。

 ビビアンはアーク弓でもう一度床を突いた。

 その神器が開いた。それは金属の樹皮と枝のように広がり、所々で花が開いた。神秘的に輝く合金が幾何学的形状を成した。アーク弓はその髄まで開き、あまりに眩しく鋭い光を発してビビアンの目を滲ませた。だが彼女はその全てを瞬きもせずに見つめていた。モンスロトサウルスはようやくその威厳を取り戻したのだ。

 彼女はモンストロサウルスの精神の澱を感じた。死にかけた神経の震えと、力尽きて果たすことのできない怒りを。注意深く、ビビアンはアーク弓の力をその壊れた骨格に通し、最後に残る意識の火花を宥め、するとその繋がりを通して約束が響き渡った。モンストロサウルスは抵抗しなかった。それは奔流となり、歓喜の悲鳴を上げながらその繋がりに乗ってアーク弓へと入った。その瞬間を突破するとビビアンは震え、自らの体格の小ささにまごついた。モンストロサウルスの存在は次第に縮小し、彼女の思考の隅に落ち着いた。恐竜の身体はそこに残ったまま、ようやくの安静を得て、今やアーク弓を覆うものと同じ奇妙な合金に包まれていた。

「実に劇的で良いものだった。真に目覚ましい見世物だった」 男爵の声がした。「これで終わりかね?」

 ビビアンは驚き、瞬きをした。光が指先から浸みて舌へ向かっていった。それは白墨と骨の、そして経験したこともないような怒りの味がした。世界を丸呑みしてしまえるほどの怒り。これは初めてのことだった。

「ええ」

「宜しい」 男爵は手を振るった。「では、結果を見せてもらおうか」

「わかったわ」 その言葉をビビアンは遅く感じた。歯の隙間に糖蜜が詰まったようだった。アーク弓を爪弾き、その響きを親指で感じると、モンストロサウルスはその表面すぐ下にいた。静かに宥めておくのが精一杯だった。接触を通してその熱意が流れ込み、彼女の骨へと溢れ出た。何が起こっているのだろう? 通常、アーク弓の内なる真髄はもっとずっと静かで、半ば眠っているような状態だった。その神器の闇の中、安全に守られて静かに黙っているのが心地良いかのように。だがこのモンストロサウルスはそうでなかった。

 ビビアンは男爵へと突進したい衝動を噛みしめ、自らを落ち着かせてアーク弓を持ち上げた。男爵は咳払いをするだけだった。

「いや。その栄誉は他の者に与えよう」

 彼は一人の衛兵へと合図をした。雄牛を小柄にしたようなその男の首はあまりに太く、喉元と顎の区別ができないほどだった。その男は顔をしかめつつ物々しくビビアンへと向かい、魔法の障壁に力場が発生して彼を迎え入れた。男爵が尼僧らへと指示すると彼女らの声が再び響き、ビビアンと共にその衛兵を障壁の内に閉じ込めた。

 
鮮血の秘儀》 アート:Bastien L. Deharme

「では、どうすべきかこの者に教えてくれたまえ」

 ビビアンは眉をひそめる衛兵へとアーク弓を手渡した。巨大な体格でありながら、その男はすぐにビビアンが予想していなかった器用さを見せた。その指は腸詰のような太さにもかかわらず素早かった。掲げられるとアーク弓は歌い、衛兵は巧妙に腕を下げて照準を合わせた。ビビアンの矢がつがえられた。太い指が一分ほど痙攣し、男の身体が前方へと弾けて散った。

 落ち着いた表情で、ビビアンは男爵へと振り返った。「言ったでしょう」

「どういうことだ」 男爵は非難の囁きを発した。「あの熊を呼び出すことには成功した。何か手順があるのだろう。君が明かしていないものが。今のは故意か? そうに違いない」

「アーク弓は私のもの。他の者の手には従わない」

「嘘吐きめ」

 ビビアンは挑戦するようにその神器を差し出した。「試してみてもいいのよ」

 男爵は拳を握りしめた。ビビアンは陰気な喜びとともにはっきりと思った。この男の顔を見るのは飽き飽きだった。この先に何があろうとも、どうなろうとも、男爵が明らかに憤慨する様の記憶は喜ばしいものとなるだろう。彼女は微笑んだ。「警告していたわよ」

「黙れ」

 ビビアンは衛兵の残骸を一瞥した。アーク弓はこの男を滅茶苦茶にした。ふと、何かの動きがビビアンの目にとまった。彼女は屈みこんだ。

 それは蜘蛛だった。衛兵のポケットから出て、障壁の端へと注意深く向かう様子をビビアンは黙って見つめた。その存在は魔法が無視するほど、吸血鬼が見逃すほど小さかった。

 ビビアンは閃いた。

「問題は」 彼女は言った。「あなたがたのような人々はしばしば小さなものを軽視するということ。世界の仕組みが何の努力も無しに動いていると信じていること。あなたがたの意志だけによって世界が動かされていると信じていること。小さな存在などないと思い込んでいること。見えてすらいないこと」

「何の無駄話だ?」 男爵はそう言い放ち、自分達を隔てる光の壁へと急いだ。

「教えて頂けるかしら」 ビビアンは思考で周囲を追い、先程の蜘蛛が彼女の意志を向けられて震え、膨れ上がるのを感じた。「もし自分が一匹の蜘蛛みたいに小さくて取るに足らないものだったら、なんて想像したことはあるかを」

 男爵へと返答する余裕を与えることなく、彼女の力が辺りに脈打ち、光の内に緑色の渦巻きが広がった。男爵ははっとするように顔を上げ、両目を見開いた。

「何をした?」

 ビビアンの魔法を貪り、その蜘蛛は小型犬ほどに、ジャガーほどに、そして熊ほどにまで巨大化した。もっと大きく、彼女はその蜘蛛へと獰猛に意識を伝えると指で宙に一つの印を乱暴に描いた。その動きは素早くも攻撃的だった。自らの成長に驚き、その蜘蛛は転回して王へと向かった。尼僧と貴族らはその光景に悲鳴を上げ、不意に全員の注目が彼らの統治者へと向けられた。混乱の中、魔法の障壁が緩んだ。

 
大蜘蛛》 アート:Randy Gallegos

 彼女が待っていたのはそれだった。障壁が消えたその瞬間に、ビビアンは次の矢をつがえて放った。矢は燃え上がって宙を駆け、燃え尽き、そして魔法が刻まれた骨と鮮やかな羽根に、そして、ただ一つの欲求を死にもの狂いで叶えようとする、もはや傷によろめいてはいない完全で傷一つない存在になった。

 矢は壁に刺さり、そして半透明のモンストロサウルスがその身を放ち、咆哮し、続けてビビアン自身の力が放たれて新生した恐竜の骨格を包んだ。それは頭部を振るい、瞬きをしたが、生き返った驚きにもモンストロサウルスはその望みを忘れることはなかった。その恐竜は報復を渇望しながら死んだ。望みを満たさない限り黙って死ぬことはないだろう。

 恐竜がヴェルノ男爵へと吼えるとビビアンは脇によけた。廷臣らは悲鳴を上げて逃げたが、不運な数人は鉤爪の足に踏み潰され、二つ折りにできる程平らに押し潰された。恐竜の前に立ちはだかった忠実かつ稀な数人の衛兵は恐竜の振るった首に払われ、壁に叩きつけられた。

 モンストロサウルスの揺らめく姿は天井を押し上げ、それを果物の皮のように裂いた。砕けた瓦礫と塵が降り注いだ。建物そのものが軋んだ。大仰なそれは今や支えを失い、重力に引かれて石造りが裂けた。それでもモンストロサウルスは思いとどまることなく、荒々しい両目を見開いていた。

 その不利な状況にも関わらず、ヴェルノ男爵は逃げようとしていなかった。舞踏場は既に瓦礫と化し、歩兵に見捨てられながらも彼はそこに立っていた。牙をむき出しにして剣を抜き、モンストロサウルスの巨大さに並ぶとその骨格は人形のようだった。その身が影へとぼやけ、稲妻のように突進し、落下し続ける瓦礫の中で、速度を上げる彗星の尾のようなその軌道が上昇した。男爵が剣を振るうと、ビビアンは銀の閃きを垣間見た。だがその能力がどれほどであろうとも、訓練で得た力があろうとも、自然の法則というものがあるのだ。

 
怒り狂う長剣歯》 アート:Izzy

 最終的には、常に純粋な力の勝負となる。

 男爵の剣は恐竜の右の眼窩を無害に通過し、直ちに腐食して合金の塊と化した。その突きが引き抜かれる前にモンストロサウルスは首をもたげ、男爵を引っかけて宙へと放り投げた。離れていても、その吸血鬼の表情に驚きが走る様がビビアンにははっきりと見えた。そして男爵よりも早く、誰もが予期するよりも早く、ガラガラヘビの動きでモンストロサウルスの顎が迫ると、吸血鬼の上半身に噛みついた。

 ビビアンはよろめいて止まり、見つめた。

 モンストロサウルスは彼女へと憂鬱な視線を向けた。その感情は馬鹿げたほどに沈みこんでおり、その不安は人間のようで、彼女は笑いかけたほどだった。男爵は捕食者を見つめ、その顔に動物的な恐怖が浮かび上がった。そして、少なからぬ落ち着きと少なからぬ仰々しさとともにモンストロサウルスは噛み砕き、かつてヴェルノ男爵であった二片は言葉なく落下して床を汚した。


 ビビアンが召喚するものはそのほとんどがはかないもので、一分以上存在し続けるものは稀で、大抵は気のない戯れを終えると混沌と共に消えてしまう。だがそのモンストロサウルスは消えなかった。ヴェルノ男爵を片付けた後、その恐竜は今や何者にも縛られず、だがそのままではいなかった。それは一度宙に鼻をかぐと利口にも扉を抜け、逃げ惑う廷臣らを無視して宮廷内へと向かった。ビビアンもその背後は気にせずに追いかけた。

 彼女らは王立動物園へとやって来た。モンストロサウルスの接近に刺激されてか、もしくは大気に満ちる破壊の臭いに単純に興奮してか、その動物たちは皆激昂していた。ビビアンはすぐにやるべき事を決めた。モンストロサウルスが先の角を曲がると、ビビアンはヌーの一家に魔法をかけ、巨大化したそれらが檻を叩き壊せるように檻に火を放った。通過しながら彼女はそれを続けた。槌頭竜とコアトルと巨体の熊、繰り返し走る稲妻のように力がそれらの間を跳ねた。

 熱狂に巻き込まれて他の獣の肉を食らうものもいたが、ほとんどの動物は違った。地響きを轟かせるモンストロサウルスのように、それらは復讐心に没頭したように思われた。暴れたらどうなるかを動物達に叩き込んだと思っていた調教師らは、自分達も生きるか死ぬかの戦いに放り込まれたと気付いた。悲鳴が宙にうねった。

 そして今もなお、いかにしてかモンストロサウルスはその姿を保っていた。怒りのためか、ビビアンの力か。それは問題ではないと彼女は判断した。代わりに、彼女はその肉体が崩壊するまでの時間を測った。モンストロサウルスの存在が揺らめいて消えるごとに、彼女は新たな矢を宙へ放った。通路は広がって歩廊となった。そこでモンストロサウルスは立ち止まり、横へと首を傾げた。高層のかつらを被った男性らと真珠層の化粧をまとう女性らがいた。不自然に長い胴部、不恰好な光景だった。

 誰が見ても大人とは思えない、痩せた少女がよろよろと前方へと歩み出た。その手からは一本の紐が伸びていた。ビビアンがそれを目で追うと、小さな猛竜の首輪へと繋がっていた。その翠緑の鱗は赤で染色され、首には滑稽なほどに大きな襟がつけられ、視界を妨げられていることは明白だった。ビビアンはその猛竜を見て眉をひそめた。惨めに見えた。

 その時、モンストロサウルスが消えはじめた。輝く点へと縮み、その恐竜の輪郭は直ちに不明瞭なもやへと消えた。ビビアンは拳を握りしめた。目の前の集団は黙ったまま、巨体の恐竜が消えた様に驚いていた。彼女の背後から、王立動物園の騒動が今も響いていた。動物らの低いどよめきの中、恐怖の悲鳴が時折上がった。

「思うに」 ビビアンは口を開いた。「ここで誰かが劇的な演説をするのが定番よね」

 その猛竜は前方へ跳ね、活発かつ鳥に似た動きで頭を左右にもたげた。それはビビアンへと問いかけるような声を震わせた。

「もしくは少なくとも、何が起こっているのかを知らせるか」

 騒音は次第に大きくなっていった。

「ここでどんな儀礼が必要とされるかはわからないけれど」 自然と、笑みがそれに続いた。「幾らかの情報提供が必要そうだってことはわかってるわ」

 彼女は手を下ろした。

「これはどういうことだ?」 手入れされた髭の男性が言った。威厳を放ち、中年にも関わらず体格は頑強だった。その男性は長い指をサーベルの柄に沿えて睨み付けた。「お前は何者だ? 宮廷で何が起こっている?」

「ある者が、国の死を私に『慈悲』と表現した。その時はその意味も、あいつが何処から来たのかも全然わからなかった。けれど今は、今は完璧に理解したわ」 ビビアンは物憂げに指で八つ数え、魔法が掌に集まり、力がきらめいた。「何にせよ、これも一つの慈悲。あなたがたがルノーに見る最後のもの。明日の今頃には野性は居場所を取り戻し、あなたがたは忘れ去られる記憶でしかなくなるのよ」

 ビビアンは拳を握りしめた。すると猛竜は困惑した息を出し、その身体が不意に痙攣して悶えた。王立動物園の獣とは異なり、それはそのまま巨大化はしなかった。そうではなく、その猛竜は発作を起こしたようにうねり、ビビアンの手とその緑の蛇のような力の動きに呼応して成長していった。まず脚が、尾が、そして頭が、そして最後に胴体が続いた。飼い主はその間ずっと見つめている以外に何もできず、言葉なき当惑に顎を落としていた。

 
ギガントサウルス》 アート:Jonathan Kuo

 数秒のうちにその猛竜は女主人を上回る大きさとなり、屈むと彼女を一つの輝く紫色の瞳で認めた。返答しようとして彼女は沈黙のまま口を開閉し、甲高く震えた声がやがて漏れ出た。「な……何……何……」

 だがかつてのペットはその困惑を共有しなかった。それは立ち上がると透き通った声で数度鳴き、飼い主への好奇心を明らかに失った。そして、何の前触れもなく前方へ身をよじらせて吸血鬼の頭部に噛みつき、野菜のように砕いた。

 その若い吸血鬼が首を失ったことで、群集の中で何かが折れた。狂乱が貴族らの間に波となって弾け、増大し、広がり、やがて只の病的興奮となり、殺戮に直面して誰もが文明的な振る舞いを忘れた。少なくとも自らの才覚を制御できる者らはビビアンに迫り、非難した。だが彼女はただ曖昧な無関心と共に彼らを見つめるだけだった。

 何かが近づいていた。

 ビビアンは脇によけ、その直後、獣の大脱走が扉から弾け出た。彼女の敵対者らには顔を上げる余裕だけがあった。獣の群れが大音響と共に歩廊を突進してくると気付く余裕が。王立動物園からの脱出した動物らはこれまでの拷問者らをずたずたに潰し、ビビアンは気付くと笑みを浮かべていた。


 王宮は震え、猟犬に噛みつかれ振り回された死体のように裂けた。その始まりも終わりも唐突で、だがその間建築は直立を保とうと奮闘していた。とはいえ重力は貪欲だった。まもなく王宮は崩壊し、塵が宙に舞い上がった。

 
攻角のケラトプス》 アート:Filip Burburan

 だがビビアン・リードにはまだルノーでやり残したことがあった。

 更なる混沌をもたらさなければ。


 その喫茶所は、複数の意味で、ルノーの文化的地区を飾る他のそれと大差なかった。ここでは美術館と淫らな昼間興行が同じ街路に並んでいた。芸術の形は様々で、あるものは他よりも芳しくはなく、だがルノーがそれを判断しようとすることは滅多にない。この寛大な価値観の結果、軽飲食店は活発な事業の場となっている。そこには常に顧客がいた。ある時は、その日の議論と吟味の場所を貪欲に求める学者や鑑定家。ある時はただ喉の渇きを癒したい、もしくは単純に座る場所を求める飾り立てた個人客。その性質を問わず彼らの財布は必然的に重く、そしてこの喫茶所の店主として好ましいことに、しばしば非常に気前が良く、血の瓶という形で心付けを手渡すのだった。

 その男は鏡に映る自身を見つめた。長身で痩せ、体格へと全く貢献しない細すぎる肩。だが魅力的でないわけではない。少なくとも、異性の依頼人の視線から彼はそう推測していた。店主はかつらの角度を正した。乱れた外面では宜しくない。

 その夕は蒸し暑く、微風らしきものすらなく、大気は屍を包む湿った布のようにルノーに覆いかぶさっていた。だが気にする者は多くなかった。この街の名士、特に薄暮の軍団に名を連ねる者らは、人間が活力を失うような熱に浴す気候を好むらしかった。

 彼は最新の顧客の席へとゆっくりと向かった。両者ともめかし込んだ役人であり、その時間のほとんどを領土外への探検の準備に費やしているにも関わらず、華奢で印象的な程に身だしなみは良かった。その理由から店主は彼らを気に入っていた。ほとんどの探検家はやがて健康と、それを保とうという興味を失う。

「朝食でございます」 その店主が言った。

 彼らは一瞥と熱意のない笑みで応えた。店主は食事を並べた。

 足元でルノーが震えた。

 地震だろうか? 可能性はある。このような振動に襲われるのは頻繁なことではないが、未知の現象ではない。店主の心配は比較的些細なものだった。香辛料の棚と、質素な貯蔵庫の中でも高い所に置かれたワインの瓶。小さな仕事。単純な雑用。問題はないだろう。

「そうすねるな」 一人が言った。店主は立ち聞きすべく歩みを緩めた。軍人からの噂話というのは常に良いものだ。

「まるで喜んでいるような口ぶりだな。知っての通り、ヴェルノ男爵は今まさにあの装置を調べているのだよ」 連れが言った。

 一人目が憤慨するような声を出した。「ならば失敗することを願おう。もしあの妙なアーティファクトの解明に成功したなら、我々は商売あがったりだ」

「言葉に気をつけろ」 その友人が返した。「それは反逆にあたるぞ」

「反逆であるものか。真実だ。もしルノーがあのようなものの使い方を知れば、我々は路頭に迷うことになるだろう。私の言葉を覚えておけ。王族方は我々のような者に興味はない、記章があろうとなかろうと。自分達で動物を作り出せるのなら、それを探すために金を出したりなどするものか」

 その友人が言葉を返すよりも早く、長く続いていたが有害ではなかった足元の揺れは、不意に無視できない、ありえない何かへと増大した。店主は子供の頃を思い出した。年に一度、ありふれた日常を飾るかのように、彼の出身地である小さな居住地は意外な伝統に興じていた。

 猛竜の子供を街路に放つのだ。

 その奇妙な習慣はどこから来たのか、暴れまわるトカゲの羽根を青年に集めさせることに何の意味があるのか、その店主は全く理解できなかった。だがその街から来たあらゆる移民と同じく、あの丘陵地帯で生まれたあらゆる男女と同じく、彼は記憶していた。その年に一度の大暴れの時、足元の世界がいかに震えるかを。

 これはもっと激しかった。

 ずっと激しかった。

 その袋小路、向かいに立つ喫茶は折れた脚のように崩れ、そして街路に獣が殺到した。毛皮と鉤爪と咆哮が土砂降りのように襲いかかった。この状況でなかったなら、店主はその光景を楽しんだかもしれない。だが今はその時ではなかった。目の前のものを表す言葉すらなかった。キツネザルは欄干の間を渡り、鷹に狩られた。様々な体格の牛、大型猫、そしてもっと一般的な動物。そして磁器が割れる音に店主は我に返った。

 
生類解放》 アート:Simon Dominic

 彼は顔を向け、笑い声を上げた。半ば狂乱して、半ばその状況への疑問に。近隣の食器店に雄牛が入り込み、髪を固めた客らを街路へ追い出していた。そして動物たちの中のそこかしこに、汚れた衣服の人間らが、バーテンダーと肉屋と上半身裸の船乗りが、混沌の中を逃げ惑いながら危険も知らず大喜びに吼えていた。店主らとは異なり、彼らはこれを祝祭のようにとらえていた。記憶にある何よりも原始的な祝祭。

 その全ての中に、恐竜たちがいた。

 そう、子供の頃に見た猛竜、だが完全な成体で鮮やかな羽毛をまとっていた。ゆっくりと動くイージサウルスの群れが、雄牛のように低い声を上げていた。モンストロサウルス、暴君竜、夕闇に死を食らう腐肉あさりの前方を進む棘背びれと長剣歯。それらは全く街路へ興味を払っていなかった。ただ自らのために切り開き、砕き、建物を叩き潰した。草食恐竜らは更に一歩踏み込んでルノーを冒涜した。それらは立ち止まって街の壁面を飾る植物を咀嚼し、根ごとその花を齧った。

 ルノーの文化的地区は住居と事業の場としての外面を失っていた。氾濫した野生生物は目の前の全てを凄まじい勢いで破壊し、店主は混乱と錯乱に笑い声を上げた。そして一つ理解した。それらの生物はただ不意にそこかしこに現れたのではなく、それぞれが通常よりも三倍も巨大だった。あり得ない程に。何故このようなことが? 何一つ現実味がなかった。

 何かの音が彼の注意を惹いた。振り返ると、二頭のモンストロサウルスが恐竜の群れの中をよろめき歩いていた。ようやくルノーへともたらされた新たなつがい。だが彼の目にとまったのはそれではなかった。雌の頭部に座る一人の女性、その表情には残忍な満足があった。


 ビビアンは冷ややかに思った。ルノーが再建を選んだとしても、成功までには数十年かかるだろう。彼女は両手をついてモンストロサウルスの頭部で姿勢を保ち、通過する瞬間にバルコニーへと飛び降りた。ビビアンは苦も無く宙返りをして息をつき、滑らかな動きで着地すると立ち上がった。彼女は緩い上着から埃を払った。活動に適した革の服が必要だろう、ほんの少し枝に引っかかっただけで裂けないような。ルノーの趣味は、最も地味なものでも、あまりに非実用的すぎた。

 一体のブロントドンがビビアンの前を過ぎていった。あの海路を共にした個体だろうか? それはわからなかった。海を渡るあの旅はまるで前の人生のようだった。きっとあのブロントドンだという希望を彼女は抱いた。王立動物園の肉食獣ほどに危険とは言えないが、それでもそれは恐るべき存在だった。特にその種が長い遺恨を記憶している時は。それはルノーの野性の中に繁殖相手を見つけるかもしれない。どうなろうとも、街の吸血鬼らが外の世界を苛むまでには長くかかるだろう。今や彼らの密林には恐竜たちが、それも手懐けようとした以上の数がいるのだから。

 ビビアンは手すりにもたれかかり、ルノーへと放った無秩序を眺めた。王立動物園の動物たち、もしくはその名残は、街の壁を飾る庭園に気付き始めていた。おそらく正当な理由以上に、この状況に彼女は微笑んだ。とはいえイクサランでの滞在は間違いなく良い経験になった。

 ほとんど意識せず、彼女の手はアーク弓へとさまよった。自分からこの神器を奪うことがいかに単純か、もしくは持ち去られて外部の集団に使用される危険を考えたことはなかった。それは解決すべき問題だった。二度目は許されない。だがおそらく、回答はアーク弓の住人とともにあるのだろう。

 あのモンストロサウルスはそれ自身が並外れて有用だと示した、ビビアンの他のどの獲物よりも。当たり前だった、それは彼女が備える何よりも巨大で獰猛なのだ。もしも、より大きな獲物を追い求めていけば、一つの答えが見つかるかもしれない。

 彼女は目を閉じた。次元を隔てる膜はここでは薄く、頭髪よりも細くすら感じた。その膜の先に、ビビアンは次なる世界を見ることすらできるように思えた。ドラゴン。その言葉が脳内に跳ね、巨大な存在の映像へと落ち着いた。古く、ぞっとするほどに異質で、肺には炎が満ちて嘲る笑い声を上げる。だが多元宇宙のドラゴンはニコル・ボーラスだけではない。他にもいる。もっと小型で、陰険でなく、だがそれでもドラゴンが。もしそれらの力に繋がることができれば、その機能を知れば、ニコル・ボーラスを倒す秘密を学べるかもしれない。

 だがまずは、そのための目標が必要だった。

 かすかに、ビビアンはシヴのドラゴンについての会話を思い出した。ギトゥの長老たちは低い声でのみその名を囁く、彼らがそれを聞きつけて居住地に迷い込んでこないように。

 だがシヴのドラゴンが自分に惹かれたとしたら、それは最高ではないだろうか。

 遠くで、ルノーはその惨状へと罵声を浴びせていた。

 夕闇をすり抜けて彼女の所まで届くものはなかった。怒れる武装兵の叫びと象らしき獣の咆哮だけが聞こえていた。ビビアンは額に皺を寄せ、そして愛想よく含み笑いをした。

 
Sulfur Falls》 | アート:Cliff Childs

 彼女は肩を回し、息を吸った。そして片手を挙げて大気を掴み、宇宙の構造を皮膚で感じ取った。それを握りしめると多元宇宙は蜂蜜のように粘つき、その握力に屈すると彼女を腕から呑みこんだ。ビビアンは最後にイクサランを一瞥し、次の瞬間には別の次元に現れた。過酷で暑いシヴの大気を肌に感じた。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV YONEMURA "Pao" Kaoru)


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