MAGIC STORY

ブルームバロウ

EPISODE 02

第2話 期待通りのパーティー

Valerie Valdes
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2024年7月2日

 

ヘルガ

 時に、夢はとても現実的に感じられた。眠りから覚醒へ、あるいは覚醒から眠りへ、扉をくぐって不意に別の場所へ辿り着くように。今回は横になった記憶がなく、自分がいる部屋がどこなのかもわからなかったため、彼女は普段以上にまごついた。寝台の上に優雅にアーチを描く木の梁、しっかりと編まれた壁、綺麗なパッチワークのカーテンから斜めに差し込む金色の陽光――彼女はきょとんとした。自分はまだ眠っているのだろうか?

 みていたのは夜のフクロウの夢だった。破壊、炎、煙、悲鳴――ただし家々は知らないもので、地形も森から野原へ、そして池へと移り変わり、まるで沢山の襲撃を首飾りのビーズのように繋げて見ているかのようだった。そのすべての場所に、ぼんやりとしたひとつの姿があった。赤い頭巾をかぶり、片目に傷のあるイタチフォーク。ヘルガの視線はそれに引きつけられた。何者だろう? これは夢ではなく幻視? だとしたら、どんな意味があるのだろう?

 そして記憶が浮かび上がってきた。川底をひたすらに歩いて向かった――どこへ? そこには陽光があり、マウスフォークの誰かが自分の上に身を乗り出していて、そして……この部屋。ひとつの扉から入って、別の扉から出て、その間には何もない。

 外から聞こえてくる話し声や笑い声に彼女は気付いた。急いで身体を起こすと頭がふらつき、両脚と背中が痛んだ。ヘルガはうめき声をあげ、それは他の部屋にも届くほどに大きかったに違いない。すぐにマウスフォークの男女が戸口から入ってきた。

 両者はほぼ同じ背丈で、片方の毛皮は赤褐色、もう片方は銀色だった。前者は首元に鮮やかな赤いヒイラギのボタンが付いたオレンジ色のドレスを着ていた。後者は緑のチュニックの上に粉のついたエプロンをまとい、それで両前足を拭っていた。

 「ここなら大丈夫ですよ」赤褐色のマウスフォークが近づいてきて言った。「私はメイブル、こちらは夫のクレムです」

 「幸運だったね、大変な目に遭ったようだけど」クレムが言った。

 「ヘルガ、です。ポンドサイドから来ました。私……」

 メイブルは片前足をあげて制した。「クレム、この子の話を聞く前にオリヴァーさんを連れてきてくれる? そうすれば、繰り返し話す必要がなくなるでしょう。それから、ロザリンにミントティーを淹れてもらって」

 「まかせてくれ」そしてクレムは去っていった。

 メイブルはベッドの端に座った。「私があなたを綺麗にして、服も洗いました。今着ているのはこの町のカエルフォーク、リードさんがくれたものです。治療師によると怪我は深いものではなく、疲労で倒れたのだろうと。だから休ませるためにここへ運び込みました」

 「ここはどこですか?」ヘルガは尋ねた。外では声が盛んにあがり、「オリヴァー」という名前が何度も呼ばれていた。

 「グッドヒルです」メイブルは答えた。「ポンドサイドから何時間か歩いたところにあります。カワウソフォークの皆さんが時々川を伝って来ますが、今は水位が低すぎますね」

 それは、ヘルガは気づいていなかった。夜のフクロウが追いかけてくるのではないかと怯えながら、泥や植物、そして時折露出した土の中を逃げ回っていたのだった。

 「こちらです、オリヴァーさん」クレムの声が聞こえ、すると直ちにシナモン色の小柄なラビットフォークが寝台の傍に立ち、両前足をもみ合わせた。

 「グッドヒルへようこそいらっしゃいました、歓迎しますよ」オリヴァーは少々熱心すぎる様子で言った。「メイブルさんであれば間違いなく貴女をいたわって下さいます。何か必要なものがありましたら、この申し分ない町の市長として、あらゆるおもてなしを致しますよ」

 「ありがとう、オリヴァーさん」メイブルが口を挟んだ。「ヘルガさんはまだ疲れているようですから、お話を聞いたならまた休んで頂くのが良さそうです」

 ヘルガは不安げな笑みを広げた。メイブルと知り合ってまだ数分しか経っていないというのに、このマウスフォークは管理能力を備えていると感じられた。

 「ええ、もちろんです。それに私はお祝いの場に戻らなければなりませんのでね」オリヴァーの両耳が少し後方を向いた。「それではヘルガさん。何が起こって私たちの所へ辿り着いたのか、教えて頂けますか?」

 「災厄の獣と仰っていましたよね?」メイブルはそう促した。オリヴァーの耳がさらに後方へとひきつり、まるで寒がっているかのように毛皮が波打った。

 ヘルガは頷いたが、喉は瓦礫で詰まった小川のように締め付けられていた。ゆっくりと、かすれた囁き声で彼女は語った――マーハの襲撃、ポンドサイドの破壊、カンバスから絵の具を拭き取るテレピン油のように昼を消し去った、あの恐ろしい暗闇の物語を。

 それから、おそらく愚かにも、彼女は幻視だったかもしれない夢と、あの奇妙な鷹を含めた自身の描いた絵について言及した。メイブルとクレムは感情の読み取れない視線を交わした――ヘルガの祖父母がしていたような、長年の結婚生活で培われた沈黙の言葉。

 オリヴァーは呆れたような笑い声を発した。「実にすごい物語ですね。本当に、勘違いではないのですか? 想像力が少々活発すぎるようですね、とはいえ芸術家気質をお持ちなのであれば当然のことです。かくいう私の曽祖父は彫刻が得意でして、かつてはこう断言していました。自分が見たのは……」

 「オリヴァーさん」メイブルは鋭く制した。

 ヘルガは激しく泣きだした。泣かずにはいられなかった。命からがら逃げる恐怖、友や仲間への心配、またしても幻視が否定されたことへの無力感――感情が夏の嵐の中のため池のように溢れ出した。落ち着いて説明しなければいけないとはわかっていた。そうしなければ、ポンドサイドに助けを呼ぶことなどできない。けれど言葉は出てこなかった。

 オリヴァーが彼女の腕を軽く叩いた。「何が起こったのかはともかく、大変な一日を過ごされたのでしょう? 貴女もパーティーに参加するのが良いかと思ったのですよ。今日はメイブルさんの誕生日で、盛大なお祝いを準備していますので――とはいえ、ここでゆっくり休まれる方がいいかもしれませんね」

 それ以上は何も言わずにオリヴァーは退出し、クレムもそれに続いた。メイブルは寝台に戻り、静かに座った。枝を編んだ壁の向こうで、オリヴァーが外に出た様子が聞こえた。町民たちが彼の名を呼び、気の毒なカエルフォークについて尋ねていた。

 「気持ちよく休んでおいでですよ」オリヴァーは安心させるように言った。「いつものように、メイブルさんがしっかりやってくれています。すぐに戻ってきてくれるでしょう」

 「それで、災厄の獣のことは?」誰かが尋ねた。

 「何も心配はいりませんよ。春の大鹿はちょうどいい時期にやって来たでしょう? そして太陽の鷹が来るのはまだしばらく後です。腐れ蛇や旱魃猫といった予測不能なものは、渓間に住む私たちのような小さなものの生活に干渉することはありません。ケル尾根の戦いやそれよりも昔、ヒイラギ葉の騎士団の時代ではないのですからね。さあ、暗い話は終わりにしましょう。苺のケーキが待っていますよ!」

 不調和な歓声があがり、竪琴と木製のフルートと太鼓を伴奏にして歌が続いた。胸の痛みを覚えながら、ヘルガはその陽気な音楽に聞き入った。

 災厄の獣に対する町長の考えは完全に間違いというわけでもない。遠い昔に比べたなら、それらは珍しい存在だ――かつて織り手たちは、猛烈な嵐や吹雪、山火事、疫病といったもので土地を荒廃させる捕食者たちからすべてのアニマルフォークを守るために魔法を使うことを学んだ。ヒイラギの勇者、渓間のリリーは、岩山炎の剣の燃ゆる力を振るって災厄の獣たちを彼方へと追い払った。

 だがそして、まさにその魔法に狂わされた織り手たちがいた。そのため残る者たちは大規模な魔法織りをやめ、誰にでも扱うことのできる小さなものへと切り替えたのだった。ブルームバロウの他の地域が今なお災厄の獣たちの気まぐれに悩まされていたとしても、高い丘に囲まれた安息地である渓間は平和そのものだった。

 それでも、夜のフクロウはポンドサイドを襲った。夢が本当に幻視だったなら、また襲ってくるかもしれない――あるいはもう襲っているかもしれない。両方かもしれない。

 「想像なんかじゃありません」喉が痛み、ヘルガはかすれた声で言った。「夜のフクロウも、私の夢も、私の絵も」

 ロザリンがミントティーを盆に乗せてやって来たため、メイブルは返事をせずに済んだ。その子は父親の毛皮の色と母親の鼻を受け継いでおり、蔓模様の刺繍が施されたベストとズボンをまとっていた。メイブルが香りのよいお茶を杯に注いでヘルガに差し出す間、彼女は真面目な表情で立っていた。

 「飲んで下さいな」メイブルは言った。「気分を落ち着かせてくれますよ」

 震える手でヘルガは従った。ロザリンは盆を寝台脇のテーブルに置き、母親に無言で促されると立ち去った。両者は黙ってその茶をすすっていたが、やがてヘルガが口を開いた。

 「逃げないで、村に残るべきだったんです。何か……できたかもしれないのに……」

 「何かできた、そうかもしれません」メイブルは杯の中を見つめた、まるでその茶渋が知恵を宿しているかのように。「夫や子供たちが病気になった時、私はそばを離れたくはありません。まるで、私がいるだけで病状の悪化を防げるみたいに。あるいは、盗賊の襲撃があったら、私の剣が勝敗を分けるに違いありません。ですが、私は世界の車輪が外れないようにする楔ではありません。そうでしょう?」

 「そう思います」逃げ出したことに罪悪感を抱く必要はない、メイブルはそう伝えたいのだというのはわかった。だが効果はなかった。「わからないって、辛い……」ヘルガはその陰鬱な考えを最後まで言い切ることができなかった。

 「きっと、すぐにわかりますよ」メイブルのその言葉は約束のように響いた。彼女はヘルガが飲み干した杯を盆に置いた。「私の誕生日パーティーが始まっているんです。自分だけで考え事をしていたくないのであれば、ぜひ参加して下さいな。食べ物も飲み物もたくさんありますし、心が和むかもしれません。つらい時でも、生きていることをお祝いするのはいいものですから」そしてメイブルは盆を取り上げ、扉を閉めて出て行った。

 音楽は続き、楽器や沢山の声、調子の良い足踏みが加わった。踊ることを考えただけで、飲んだばかりのミントティーを吐き戻してしまいそうだった。それでも、メイブルは間違っていない。自分自身の厄介な考えに浸りきってしまわない方がいいかもしれない。それに食欲はないが、何か食べなければ。

 幻視は本物だったのだろうか、それとも違うのだろうか? ヘルガを信じるとは言っていなかったが、メイブルは町長の判断に同意もしなかった。少なくとも、夜のフクロウがポンドサイドを襲ったことは認めてくれたように思えた。それ以上の大きな危険については半信半疑で、唯一の証拠は、祖父母以外の誰からも信頼されたことのないカエルフォークの言葉。大好きだったおじいちゃんとおばあちゃん、今はもういない。

 ああ、また無駄なことを。立ち上がって、行かなければならないのに。でも、今はまだ。まだできない。


メイブル

 メイブルは台所のテーブルに盆を置いた。その隣では苺のクッキーが熱を冷ましている最中だった。いつもそうであるように、砂糖と果物と香辛料の匂いが暖かく心地よく辺りを満たしていた。クレムはタオルを肩にかけ、メイブルを引き寄せて抱きしめ、頬を擦り付けた。ひげがくすぐったかった。

 そして夫は尋ねた。「あの子はどうだい?」

 「悩んでいるわ」メイブルは答えた。「気の毒に。もう疲れ果てて、逃げ出そうとしているのよ」

 「予想通りだね。僕がお菓子を持って行こうか?」

 「早めにお願い」メイブルは落ちた毛糸の束のように考えをまとめた。「オリヴァーさんは、あの子は注目されたがってるからそんな話をしているって考えてるのよ。そんなわけないでしょう」

 クレムは壁にもたれかかったが、妻を離しはしなかった。「君はどう思う?」

 「あの子は幻視を見たのよ。それは本物で、誇張したり作り話をしたりしているわけじゃない」

 クレムは抱擁にそっと力を込め、そして解放した。「何を企んでいるんだい?」

 「誰かがポンドサイドへ行かないといけないわね。安全のために、数を集めて」

 「そして、自分もその数に加わりたいと?」

 少しだけずれた一枚のクッキーをメイブルはつついた。「あなたと子供たちを置いて行きたくはないわ」

 「旗はもう上げたし、少なくともあと何時間かは大丈夫だよ」クレムは冗談めかして言い、そしてずっと真剣な面持ちになって続けた。「ちびちゃんたちは前足に余ることもあるけれど、いざとなれば君がいなくとも僕たちは何とかなる。お義父さんお義母さんは旅行から帰ってくるだろうし、僕もここを離れることはない。近所の皆も力になってくれるだろう。それに言わせてもらうけどね、3体1で数には劣っているとしても、僕は子供たちを食べさせていけるさ」

 「謙遜しないで、あなたは十二分に有能なんだから」メイブルは抗議した。

 クレムはふざけるように彼女へとタオルを叩きつけた。「だとしても、大きな問題は皆で解決するのが一番だよ。そしてこれはとても大きな問題になる。きっとね」

 「なるでしょうね」メイブルも同意した。災厄の獣は、植物を食べる昆虫のようにただ厄介というだけではない。昼を夜に、暖気を極寒に、力強い作物を萎びた蔓に変えてしまう。ブルームバロウのすべてを焼き尽くし、灰だけを残すこともできるのだ。

 メイブルは指の関節でテーブルを叩き、離れた。「屋根裏へ行ってくるわ」

 「つまり、あれが必要だと思うんだね?」

 「災厄の獣に備えるために?」メイブルは肩をすくめた。「今でなければ、いつ?」


 屋根裏部屋には、頻繁には使わない雑多な物品が整然と置かれていた――祝日の飾り、冬用の上着、子供の目から隠しておく将来の誕生日プレゼント。その空間を照らす小さな窓から最も離れた隅には、恥ずかしいほどに埃だらけの布で覆われた何かが横たえられていた。

 「秘密というわけではないのよ」メイブルの母アイリスは、娘にそれを渡す際に言った。「私も母から貰ったの。あなたがもう使えなくなったらロザリンに渡しなさい。ロザリンが武器を取るのを好まないなら、フォギーかピップに。いいえ。秘密ではなく、これは責任」

 メイブルが布を取り去ると、一本の剣を乗せた木製の台が現れた。彼女が普段持つ、鉄根の金属樹液から作られたアザミ柄のレイピアとは全く異なるもの。この武器は一本の巨大な歯から作られてはいたが、小さな者たちでも扱える大きさだった。紋章が刻まれた刃は湾曲しており、腹側と背側の両方が研がれ、鋭い先端に向かって細くなっていた。柄は簡素で紐が巻かれており、柄頭は揺らめく炎の形に刻まれていた。

 この剣はかつて渓間のリリーが振るったもので、ブルームバロウを破壊しかけた野火の狼の牙から作られたと言われている。とはいえ母自身は疑問を呈していた。

 だが母はこうも言っていた。「物語には力があるのよ。真実や本物である必要はないし、物語とは正反対かもしれない。 例え剣がリリーのものでなくとも、リリーが本当にあなたの何代も前のおばあちゃんではなかったとしても、皆、その物語と剣を信じているでしょう。だから物語には力があるの。それを間違えないで」

 オリヴァーは、メイブルの誕生日を口実にその遺産を公開して欲しがっていた。ヒイラギ葉の騎士団の物語を聞くのと、その勇敢な行為の物的証拠を惚れ惚れと眺めるのは全くわけが違う。メイブルはそれを不快に感じていたが、今はどうだろう? 必要なことかもしれない。

 メイブルは武器を台から持ち上げた。普段使いのレイピアよりも重いが、よく安定している。魔力が流れ込んで腕を伝い、耳から尻尾まで全身を駆け巡った。暖かい――だが不快なものではなく、日陰の玄関から陽光の中に踏み出すような。刃の紋章が、かすかに赤みがかった光を一瞬だけ放った。まるで炭が、骨のように白い表面の下で熱を持ったかのように。

 こんなことは初めてだった。メイブルはそれを前兆だと受け止めた。母は言っていた――この剣に込められた魔法の炎は、必要な時に使い手が呼び起こし、罪なき者や弱き者を守るために使うのだと。

 「誰かが盗もうとしたら?」メイブルはかつてそう尋ねた。「自分のためだけに使おうとしたら?」

 アイリスは笑った。「剣はそういうものには優しくないわよ。あなたのおばあちゃんのおばあちゃんがね、剣を泥棒に盗まれて、息子を傷つけてやるって脅されたことがあるのよ。けれどその泥棒の残骸を見つけたの」

 「残骸?」

 「灰よ。灰だけが残っていたんですって」


 よそ者や災厄の獣への懸念に曇らされ、パーティーはぎこちなく始まったかもしれない。だが今では活気に満ちて賑わっていた。メイブルの家の近くには、ご馳走が山と盛られたテーブルがいくつも置かれていた。タルトやマフィンは感謝の言葉とともに皆の口に消えていき、苺のクランブルはただの粉と化し、エルダーベリーのジャム入りクッキーの幾つかはナプキンに包まれ、将来のご褒美としてポケットに仕舞われていた。ヴァンはカモミールの炭酸飲料だけでなく、クローブとシナモンの香りが魅惑的なブラックベリーパンチも作っていた。クレムは 2 杯飲み、敬意を表して新たなケーキを作る意欲が湧いたと宣言した。

 シルヴァーを中心とする楽士たちが、近所の家近くに設置された演壇に立ち、あるいは座って陽気な曲を次々と奏でていた。様々な模様のリスフォークとラビットフォークが踊り、イタチフォークがマウスフォークと踊り、ロザリンも尻尾を身体にしっかりと巻きつけ、両目を喜びに輝かせていた。両目を縁取る赤く美しい輪で知られるリザードフォークのゲヴは、炎のついた棍棒二本を振り回してめくるめく優雅さと技巧を見せつけ、その炎が夕暮れに軌跡を残した。

 ピップとフォギーは近所の子供たちと一緒に、メイブルの三倍ほども大きく無愛想な老アナグマフォークのハグスによじ登っていた。ハグスは遊び場として使われることを機嫌よく受け入れ、時に身体を傾け、大きな背中を反らせ、甲高い声をあげる子供たちがもっと高く登れるように腕を伸ばしていた。

 家々の間の空き地に誰かが弓矢の的を立て、競技が行なわれていた。審査員を務めるのは黒褐色の毛皮に幅広の麦わら帽子をかぶったラビットフォーク、フィニアス。彼は春と秋の弓矢試合で何度も優勝しすぎたため、その後は出場を断られていた。それでも彼は頼まれて幾つかの巧みな技を披露し、観客を喜ばせていた。メイブルが見つめる中、フィニアスは一度に三本の矢を放った。それは遠くに置かれた三枚葉のシロツメクサへと飛び、三つの中心をそれぞれ正確に射抜いた。

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アート:Victor Adame Minguez

 太陽が屋根の下まで沈むと、バットフォークの司祭たちが祝祭に加わり、混雑した通りへとホタルが穏やかな光を投げかけた。ポルフィリオが纏うのは銀の裾で飾られた襟の高い黒色のローブで、月の満ち欠けの意匠が描かれていた。一方でゾラリーネは薄緑の透き通るようなドレスをはためかせ、そのひだにはオオミズアオの羽の目玉模様のように円が瞬いていた。ポルフィリオがクレムの両親と話している間、ゾラリーネは心ここにあらずといった様子で地平線を見つめていた。まるで何かがその上に昇るのを待っているかのように。それは月だろうか、だがそうだとしたら彼女は間違った方角を見つめていた。

 「ケーキはいかがかな?」クレムが尋ね、客たちを見つめていたメイブルは驚いた。だが彼女は微笑むと夫から差し出されたそれを受け取った。厚い砂糖衣の上に大きな苺が一切れ飾られており、まさに好み通りだった。

 メイブルは一口分を切りながら言った。「これ以上食べたら、お腹がはちきれちゃうわ」

 「じゃあ僕が手伝おう」クレムはそう言い、彼女の匙に乗ったかけらを奪い取った。

 「ちょっと、私の!」

 「さっさと食べないからだよ?」彼は爪で皿から砂糖衣をこそげ取り、それを舐めた。ひげが悪戯っぽくひくついた。

 メイブルは考え込みながら咀嚼し、そして飲み込んだ。「今は何もかもがとっても平和だけど、壊れてしまいそうな感じ。まるで今にも嵐が起こりそうな」

 「ヘルガちゃんが来たから?」クレムは尋ねた。メイブルが頷くと、クレムは彼女に身体を寄せた。「嵐が来ても、僕たちなら乗り越えられる。僕の母さんが言っていたよ、『夕方の雨を待ってたら、朝日を見逃しちゃうわよ』ってね。今日はいい日だし、君は友達に囲まれている。信頼筋からもケーキは悪くはないって言われたし」

 「美味しいに決まってるでしょ」メイブルはからかうように言った。「あなたがつまみ食いを止められないんだから」

 ヘルガが戸口に現れ、特に誰に向けたわけでもなく緊張した笑顔を見せた。彼女は両手をどうするべきか分からないかのように両肘を掴んでいたが、誰かが近づいてきてニンジンのケーキを一切れ差し出した。だが彼女は食べ方を忘れてしまったかのように皿を握ったままでいた。

 「さあ、行くよ」クレムはメイブルを小突いた。

 クレムの視線を追うと、楽士たちの演壇へとオリヴァーが向かっていた。シルヴァーはそれに気づいて歌を終わらせにかかり、観衆全員が拍手と足踏みで称えた。オリヴァーが両腕を上げると、拍手は沈黙とまではいかなくとも、礼儀正しいつぶやきにまで静まった。

 「ご近所の皆々様、いえ、同胞の皆々様」オリヴァーはそう切り出した。「今晩、我らがメイブルさんの誕生日を共に祝えることは光栄であり、喜びでもあります」彼はそこで言葉を切り、拍手喝采を待った。

 誰かの誕生日パーティーが行われるたびに、オリヴァーはほとんど同じ演説を披露する。主賓であるメイブルは、諦めて苺をかじりながら耳を傾けることにした。ああ、なんて意味のない。とはいえ演説の才はなくとも、彼は善意でそうしているのだ。

 オリヴァーは続けた。「メイブルさんは私たちの共同体の模範です。若かりし頃には渓間の最も高い丘まで旅するマウスフォークの一団に加わり、過去の多くの勇敢な者たちに続いて英雄の崖を登りました」

 「若かりし頃?」クレムは囁いた。「今はおばあさんだってことかな?」

 メイブルは微笑みひとつで夫を黙らせた。

 「盗賊がグッドヒルを襲撃した時には防衛隊に加わり、町を守るとともに残虐な悪党たちを追い払いました」

 あれは残念な小競り合いだった。彼女はスカンクフォークが放った悪臭の呪文に当たってしまい、とても長い時間をかけて毛皮を必死に洗わなければならなかった。

 「何よりも重要なのは」オリヴァーは鼻をひくつかせながら言った。「メイブルさんは献身的な妻であり母親であり、その造園やお菓子を焼く腕前は私たち全員の羨望の的だということです。まさしく、メイブルさんは誰もが憧れる勇気と誠実さの体現なのです」

 「そんなにお世辞を厚塗りしなくていいのに」メイブルは呟いた。

 「オリヴァーはケーキ自体よりも砂糖衣が好きだからね」クレムが答えた。「ケーキといえば、それで食べ終わるつもりかい?」

 メイブルが渡すと、クレムはそれを平らげはじめた。夫は妻へと一口勧め、メイブルはそれを受け取った。彼の言う通り――分け合った方が美味しいのだ。愛は何よりも美味な香辛料だ。

 その瞬間を選んで、オリヴァーはメイブルへと片腕を差し出した。「さあ、本日の主賓から少しお言葉を頂きましょう! こちらへどうぞ、メイブルさん。恥ずかしがることはありませんよ」歓声が上がり、少しのくすくす笑いが聞こえた。メイブルは到底内気とは言えないということを思い出したに違いない。

 メイブルは深呼吸をしながらオリヴァーの隣へと上がった。群衆は目の前に広がり、熱心に聞き入る者もいれば抑えた声で会話に興じる者もいた。皆に何を言えばいいのだろう――違う、何を言わなければならないのだろう? 彼女の思考はクレムとの会話へと、そして丁寧に包み直した剣へと戻った。

 「皆さん、お越しいただきありがとうございます。私と同じように、沢山の素晴らしい友達に囲まれて素敵な時間を過ごせましたでしょうか」

 「おいしい食べ物にも囲まれてたよ!」誰かが叫び、それに続いて笑いと同意が巻き起こった。

 ピップはロザリンの肩の上に座り、姉の両耳に掴まっていた。一方のフォギーは母親に見てもらおうと跳ねて前足を振った。メイブルは微笑んで振り返した。ロザリン自身は、いつものように真剣かつ厳粛な表情でただ見つめていた。

 たとえ数日でも家族のもとを離れるなんて――先程は冗談を言ったが、もうそれほど若いわけでもない。きっと、他の誰かがポンドサイドを助けてくれるだろう。メイブルは顔また顔の森の中で夫を探し、ヘルガから数歩離れた玄関の近くに見つけた。クレムは敬礼するように匙を額に当て、中に入った。

 ヘルガは彼に気付いていないようで、メイブルの話も聞いていなかった。その代わりに、震える手でまだ食べていないケーキ皿を掴んだまま空を見つめていた。まるで今にもそれが落ちてくるのではと思っているかのように。メイブルは思った、自分が同じ立場にいたなら――それとも、もっとひどいことに、子供たちとクレムが同じ立場にいたなら? 大勢に囲まれながらも孤独を感じ、周りの誰もが踊ったり笑ったりしている時に恐怖と不安に苛まれる。ほとんど耐えられないに違いない。

 揺らいでいたメイブルの決意が固まった。何をすべきかはわかっており、それができるからそうする。とても単純なこと。

 「オリヴァーさん、心からの言葉をありがとうございました」メイブルは言った。「私はここにいる誰よりも勇敢だとか、誠実だとか、そんなことは思っていません。勇敢だというのは、必ずしも山を登ったり盗賊と戦ったりすることではありません。私たち全員が、困難な時に互いに助け合う覚悟ができています。それこそが、私が想像できる最も勇敢なことかもしれません」

 聴衆からは同意の声が上がったが、彼女の話はまだ終わっていなかった。

 「私たちの中に、勇敢な方は他にもいます」メイブルは身振りでヘルガを示した。多くの目と耳を向けられ、ヘルガは驚いて固まった。「ヘルガさんは村のために助けを求め、そして夜のフクロウの攻撃について警告するために、はるばるポンドサイドからやって来たのです」

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アート:Sidharth Chaturvedi

 群衆は不安を抱き、ざわめき声も大きくなった。オリヴァーは耳を後ろに傾けたが、メイブルに反論はしなかった。ヘルガは初めて太陽の下へと顔を出した新芽のように縮こまっていた。

 「私はその状況を見たわけではありません」ざわめきに負けないよう、メイブルは声を張り上げた。「ですがヘルガさんの話は聞きました。それを信じなかったために、私たち自身が危険な目に遭うかもしれません。いえ、私たちだけではないでしょう。それは全くもって、勇敢なことではないと思います。また、現実的でもありません。私たちのほとんどは現実的ですよね?」

 渋々の同意が上がり、頷きが起こり、耳が動き、ひげが整えられた。クレムが布の包みを持って家から出てくると、メイブルをめざして歩いていった。

 「現実的にするべきことは、ポンドサイドに行って様子を確認し、そこの方々の力になることです。グッドヒルは今のところ安全かもしれませんが、もし災厄の獣がさまよっているなら、もう長くは安全ではないかもしれません。マーハは渓間全体だけでなく、ブルームバロウの最果てまで暗闇を広げるかもしれません」

 クレムはメイブルの隣に上がり、包みを渡した。彼女はうやうやしくそれを開け、屋根裏部屋から持ち出した剣を露わにした。それを高く掲げると、刃の模様に沿って柄から先端までかすかな炎の輝きが波打った。群衆は息を呑んだ。その遺物を是非とも見たいというオリヴァーの熱も、もはや然程ではなくなったようだった。

 「私はポンドサイドの状況を調べるつもりです」メイブルは剣を下ろした。「必要とあらば、私たちの平和を保つために、そこで見つけた痕跡をどこまでも追います。一緒に来てくれる方はいますか?」

 友や近隣の住民たちは、ある者は首を横に振り、視線を落とし、あるいは不安そうに辺りを見回した。メイブルは訝しんだ――結局、自分だけで旅をすることになるのだろうか?

 「僕が行こう!」射手のフィニアスが弓を振り上げた。彼の姉妹たちは反対の声をあげ、そして全員で静かに口論を始めた。

 ハグスは背筋を伸ばして他の誰よりも高く立ち、白い縞模様の頭をメイブルへと向けた。彼の隣では、ゲヴがため息をついて瞬膜でまばたきをした。

 「こいつが行くなら、俺も」ゲヴが言った。「俺抜きでこいつが揉め事に巻き込まれるのは我慢ならないからね」

 上がった声はこれで4つ。他に志願者はいるだろうか?

 メイブルが驚いたことに、ゾラリーネが翼をマントのようにまとって群衆の中を通り抜けてきた。「星の並びがわたくしを不安にさせているのです」高く夢見るような声で彼女は言った。「ポンドサイドはわたくしが必要とされる地へと導いてくれる標の星、そう信じておりますの」

 ヘルガが小道を跳ね、演壇の近くでよろめきながら立ち止まった。「私も、行きます」彼女は息を切らしながら言った。「呪文を少し知っています。噴水港で、グラルブ王の弟子として魔法織りを学びました。私の村なんです。助けたいんです。私、そうしなきゃいけないんです」

 「ええ、一緒に行きましょう」メイブルは頷き、そして群衆へと呼びかけた。「皆さん、集まって頂いてありがとうございました。私たちは夜明けとともにポンドサイドへ出発します。準備をしなければなりません」彼女は牙の剣を再び布で包んだ。今この瞬間が終わり、未来が本格的に始まるのだという合図。

 誰かがゆっくりと拍手を始め、すぐにそれは歓声と足踏みの洪水に変わった。近隣の者たちはメイブルを抱きしめ、家へ歩いて帰る彼女へと幸運を祈った。ロザリン、フォギー、ピップも母に合流し、クレムは玄関で妻を待った。そしてこれから起こることへの準備をするために、家族は一緒に中に入った。


 ヘルガはメイブルのもてなしに感謝していたが、今夜は町の旅行者用の宿で過ごすから大丈夫だと言った。メイブルはフォギーとピップの世話をし、クレムもそれを手伝った。風呂に入り、寝間着を着せてもらう間、兄弟は絶え間なくお喋りをしていた。ロザリンは台所のちょっとした散らかりを片付けた。思考や感情が渦巻いている時、この長女は何もせずにいたくはないのだろう――メイブルはそう推測し、またその気持ちは理解していた。クレムが背負い袋に荷物を詰める間、メイブルは下の子たちを寝台に連れて行き、ロザリンには寝支度を終わらせるように告げた。

 「ママ、行かないで」ピップはひげを震わせながら泣いた。

 「ママは英雄になりに行くんだよ、ピップ」寝台で跳ねながらフォギーは言った。「ママは冒険をして、剣で戦って、魔法を使って、そして帰ってきたら全部お話してくれるんだから!」

 「お話なんていらない。もうあるから。それにパパのお話の方がいいもん。いろんな声で喋ってくれるから」

 「私がいない間、いい子にして、パパとロザリンのお手伝いをしてね」メイブルは辛抱強く言った。

 「はい、ママ」彼らは声を揃えて答えた。

 ロザリンはお気に入りのキルトの寝間着でやって来た。「私が面倒を見るわ」彼女は静かに言った。「そして、パパがきちんとお菓子を焼けるようにしてあげる」

 メイブルは子供たち全員を抱きよせ、思いっきり力を込めた。「あなたたち、勇敢な小さな私のかわいい子たち。冬が来ても、その次の春が来ても、ずっと大好きよ」

 「大好き」子供たちも母の言葉に応えた。メイブルは彼らを寝台に押し込み、顔に鼻をすり寄せ、寝室からホタルをそっと追い払うと扉を閉めた。

 クレムは台所のテーブルに寄りかかっていた。そのエプロンは鍋やフライパンの近くの鉤にかけてあった。メイブルが近づくと彼は両腕を広げ、夫婦は静かに抱き合った。クレムからは砂糖やドングリ粉、香辛料、そしてこの世のあらゆる良いものの匂いがした。隣の部屋で眠ろうとしている子供たちと離れるのは寂しく、同じほどにクレムと離れることも既に寂しく感じた。

 「君は正しいことをしているんだ」クレムはメイブルの背中を撫でながら言った。「グッドヒルの誰かがヘルガちゃんの力になるとしたら、君はきっと一番有能な存在だ。私たちの愛する市長の言葉を借りるなら、模範だ」

 メイブルはうめき声をあげ、そして笑った。「この旅のおかげで、来年の演説は倍の長さになるでしょうね」

 「蜂の巣の蜜蝋を取っておいて、耳栓を作るよ」

 しばし両者は無言で抱き合っていたが、やがて柔らかな感情に駆られて寝台へと向かった。明日とその先に何が起こるのかはわからない。けれどメイブルとクレムは寄り添い合い、温かく、大切で安心できる夜を過ごした――今のところは。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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