MAGIC STORY

ブルームバロウ

EPISODE 01

第1話 災厄、渓間に来たる

Valerie Valdes
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2024年7月1日

 

ヘルガ

 波打つ水面にきらめく朝の陽光をヘルガは見つめた。その模様や意味合いは、暗い水深と同じほどに不可解だった。頭上にはガマや背の高い草が揺れ、鮮やかな色のトンボがブヨの群れを追いかけていた。暖かな泥や伸びつつある植物の香りが空気に漂い、不安な心を慰めてくれていた。彼女は葉で綴じられた日記帳を膝の上に乗せ、それを片手で支えていた。もう片方の手で握り締めた鉛筆は、まるで自らの意志を持っているかのように動いていた。

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アート:Andrea Piparo

 この岸辺にやって来たのは、清らかさと静けさを求めてのことだった――それと、自分自身に取りついて離れない悩みからの束の間の逃避を求めて。この角度からは、水に映る自分の姿を見ることはできない。退屈で見慣れた、小柄なカエルフォーク。緑色の肌、琥珀色の目、いつも不安そうな笑顔。今も、これからも、特別なことは何もない。

 特別役に立たないことが重要になりでもしない限りは。

 池の中で何かが動いた。それとも池の上、熱気のもやの中で何かが揺れたのか。ヘルガは目を細めて身を乗り出した。また幻視を見るのだろうか――

 長い耳をもつ影が背後からかかり、手が肩に触れた。短い悲鳴とともにヘルガは宙に高く飛び上がり、ガマの穂に頭をぶつけた後、長い両脚をもつれさせて不格好に墜落した。

 「落ち着きなさいな、ヘルガちゃん」ラビットフォークのネリスが言った。その鼻がひくついているのは可笑しいからか、苛立っているからか。「そんな大げさに驚くことなんてないのよ」

 「ごめんなさい」ヘルガは落とした日記帳を拾いながら言った。「ただ、びっくりしたから」

 「あなたが何か役に立つことをしてるなら、私だってこんなことはしないわよ」ネリスは言い返した。「なのに幻視なんて探して。村の用事は終わったの?」

 ヘルガはびくりとした。「終わった、とはちょっと言えなくて……。マンサクの煎じ薬を作る火の番をするために、蒸留室にいたのだけど……」

 「だけど?」

 「火は、見てなくて。ユーアンは薬がダメになったって言って、火だけじゃなくて自分の怒りが消えるまで玄関をまたぐなって」彼の言葉はもっと派手だったが、ヘルガはそれを繰り返すつもりはなかった。

 「あなたはいつもそんな感じよね」ネリスは葉っぱのつばの帽子を後ろに傾け、赤い両目でヘルガを睨みつけた。「おじいちゃんおばあちゃんに甘やかされて育ったから。思い出は大切だけど、落描きで時間を潰して生きていくわけにはいかないのよ」

 失ったものを思い出し、ネリスの言葉以上にヘルガは傷ついた。だがラビットフォークの叱責はそれで終わりではなかった。

 「どこかを見るのをやめなさい。占いの水盤から顔を上げて」ネリスは前足を突き出してそう付け加えた。「今この瞬間を生きるのよ、未来を見ようとするんじゃなくて。そんなことをしても全然、誰の役にも立たないんだから」

 「あるかもしれない未来を見ることで、今もっといい選択をすることもできるのよ」ヘルガはそう言ったが、彼女の微笑みは揺らいでいた。

 「そうかもしれないけれど、作物を収穫しなきゃいけないって時に哲学にかまけている余裕はないの、私にはね。この先あなたの仕事がもっと増えて、スパイ活動の時間が減ればいいのだけど」ふわふわの尻尾を一振りすると、ネリスはヘルガと描きかけのスケッチを放って去っていった。

 ヘルガは溜息をついた。ネリスはただ、ポンドサイドの多くが思っていることを言っただけなのだ。この小さな村で暮らしながらも、ヘルガはまだ自分の居場所を、自分の使命を見つけていなかった。いつになれば見つけられるのだろう、最近はそう悲観し始めていた。

 周囲では、誰もが日々の仕事に取り組んでいた。ラビットフォークは両足を泥まみれにしながらクレソンの長い茎を切っては束ね、共同倉庫行きの手押し車に積み込んでいた。カワウソフォークは沖の浅瀬で網を引いて小魚を捕まえ、それらを木の樽に投げ込んでいた。カエルフォークの父親は大切なオタマジャクシたちが入った水桶を背負い、シャガアヤメの群生を通り抜けていった。誰もが忙しく、平穏だった。友と冗談を言い合い、水を跳ねかけて太陽の熱を冷まし、自分たちの仕事に精を出していた。

 どんな雑用でも、ヘルガはそれを最後まで集中してこなすのに苦労した。蒸留室での出来事は似たような問題が山ほどある中のひとつにすぎない。焦げたニンジンのマフィン、植えかけのエンドウの芽、縫い合わされる時をいつまでも待っているキルトの切れ端……その仕事に十分な興味が持てるなら、周囲のことをすっかり忘れて何時間でも夢中になれるのかもしれない。けれど悲しいことに、そんな熱意を抱かせてくれる仕事はほとんど存在しなかった。

 魔法の織り方を学んだ時ですら、ひどい結果に終わっていた。噴水港でもう幾つかの季節を過ごせたなら、グラルブ王のもとで訓練を終えられたかもしれない――駄目、くよくよ考え続けるのは。自分は無能、その大いなる恥ずかしさをずっと抱えて生きていくのだから。

 けれど少なくとも、自分には芸術がある。ネリスと話している間、ヘルガは日記帳を閉じていた。自分が描いたものをあのラビットフォークに見られたくなかったのだ。時にそれは単なる渦巻きや波で、模様と呼ぶことすらできないものだった。時には見て観察したものを描いた。色鮮やかな服を着て空を飛ぶバードフォーク、摘みたてのブルーベリーを裸足で圧搾するマウスフォーク。時に幻視が彼女の手を支配し、謎だけが残る。あるいは皆が言うように、活発すぎる想像力の産物が残る。

 ヘルガは日記帳を開き、描き進めていた頁を何気なくめくった。その絵を見た瞬間、彼女の肌は引きつり、口の中はべたついて不快なほどに乾いた。

 噴水港にあるグラルブ王の図書館、そこに収められている書物のひとつには、災厄の獣たちが豪華で色とりどりに描かれている――それらは季節とともに訪れる、かつ混沌とした自然の変化を告げる恐ろしい存在。ヘルガ自身は災厄の獣を見たことはなかったが、突然の干ばつでブラックベリーが枯れたり、春の雨が激しい雹に変わったりするのは災厄の獣の仕業だと知っていた。

 彼女が描いたそれは太陽の鷹に最もよく似ていたが、王の書物に比べると表現は粗雑だった。頭頂部の冠毛は魚の背びれのように後方に傾いていた。曲がったくちばしは鳴き声をあげているかのように開かれ、その両脇にはひげのような奇妙な突起が生えており、分厚い舌はヘルガが見たことのないような形で先端が二股に分かれていた。翼は2枚ではなく4枚あり、風切羽はバットフォークのような指と膜になっていた。鉤爪だけは典型的なもののようだったが、自分がそれに翻弄されるところを想像するだけで、目が覚めている間も悪夢を見るのではと思えた。鉛筆で描いた線は力強さと凶暴さを伝えており、その生き物の背後の陰影は明るくまばゆい空ではなく雷鳴の響く嵐を連想させた。

 暖かな日にもかかわらず、ヘルガは身震いをした。これは幻視に違いない。こんな恐ろしいものを描こうなんて絶対に思っていなかった。村のカエルフォークの占い師、アイヴァーに見せなければ。けれど……これまでに幻視のことを話しても、単なる夢や空想として一蹴されてしまっていた。魔法の訓練を終えていないからだろうか。祖父母の死後に、見て欲しくて泣いた時でさえもそうだった。

 でも今回は違うかもしれない。きっと。もし自分が本当に災厄の獣を見ていたのなら、村は大変な危険にさらされるかもしれないのだ。

 ヘルガは日記帳を背負い袋にしまい、アイヴァーの家へと向かった。すると隣家のアニックが玄関を掃除しながら教えてくれた――アイヴァーは直してもらっていた服を取りに、この先の畑にいるマウスフォークの所へ向かったのだと。ヘルガは村の中心を貫く一本の大きな道を歩いていった。南のヘイメドウから来るわずかな旅行者はそれを通って北のデューリムやミントヴェール、その他の場所へ向かう。道沿いでは風化した木造の家の屋根をマウスフォークが睡蓮の花びらで覆い、ラビットフォークは鮮やかな緑の葉をつけた大きなハツカダイコンを掘り、長老たちはベルガモットの房の木陰でヨモギ茶をすすっていた。そこは夏が来たなら花が咲くが、今はまだ葉っぱだけだった。ヘルガは立ち止まって彼らに飲み物を貰おうかとも考えたが、思いとどまる前に用事を済ませた方がいいと判断した。

 ありがたいことに、それ以上悩む必要はなくなった。アイヴァーが日よけに大きな睡蓮の葉の帽子をかぶり、ゆっくりとこちらへ向かってきていた。絵を見せて、彼の言うことを聞いて、そして……どうする? 何かを理解するのだろう。祖父母の家、今は自分の家だが、掃除が必要なのは間違いない。すぐに昼食が来て、夕食が来る。食事と日々の終わりのない連続が、未来まで伸びている。

 ネリスの言っていた通りだ。そんなことを考えても誰の役にも立たない。何よりも、自分自身にとって何の役にも立たない。

 不意に金属音が打ち鳴らされ、畑に響き渡った。音が聞こえた方角へとヘルガが振り返ると、村の監視塔の上でマウスフォークが半狂乱になって警鐘を打ち鳴らしていた。けれどなぜ? ヘルガは振り向き、そのマウスフォークが空を見つめる視線を追った。

 上空高くに巨大な影がひとつ舞い、不気味な静寂の中を旋回していた。その生き物はとにかく大きく、翼を広げた幅はオーク樹の枝ほどもあった。腹、胸、翼は深い青色と紫色で、風切羽と尾羽には黒の縞模様になっていた。美しくも恐ろしいその姿には空色の魔法が満ちており、顔のくぼみにある目とくちばしを内から照らし、極めて鋭い爪を縁取っていた。それが飛んだ跡にはビロードのような夜が続いていた。布をハサミで切るように明るい青空を裂き、星がちりばめられた暗闇を露わにしていた。

 マーハ。夜のフクロウ。

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アート:Alessandra Pisano

 不意にそれは翼をはためかせて急降下し、畑をかすめて再び上昇し、その背後に夕闇をたなびかせた。ヘルガの周囲ではアニマルフォークたちが悲鳴をあげ、あるいは危険を知らせる叫びを発していた。ある者は地面に倒れ、身を寄せ合い、ある者はその場に凍りつき、災厄の獣の注意を引かないように願った。またある者は近くの家や巣穴、あるいは身を隠してくれそうな背の高い植物の陰へと逃げ込んだ。

 昼と夜、太陽と黄昏が交互に現れる中、ヘルガは池に向かって土の道を逃げた。あのフクロウは彼女の左側にいた。完成間近だったマウスフォークの家が破壊され、木の破片と切り裂かれた白い花が飛び散った。ヘルガは方向転換した瞬間に誰かと衝突し、だが相手はすぐに立ち直って彼女の横を駆けていった。空からの危険が明白になるにつれ、怯えていた少数の者たちも必死になって逃げ出した。

 再度の急降下、そしてまた別の建物が砕け散った。獣は完全に何の音もなく動き、後に起こる破壊と翼が起こす冷たい風がその通過を示すだけだった。ヘルガの心臓は激しく脈打ち、胸から跳び出しそうなほどだったが、彼女は自分も跳び出さないようにこらえた。そうしたなら空中へとさらわれてしまうだろう。

 かまどの火から飛んだ火花が瓦礫の雨に混じり、すぐに炎と煙が混沌と混乱を更に拡大させた。フクロウの攻撃でヘルガと他のアニマルフォークたちは一方向に、また一方向にと追い立てられ、やがて彼女は完全に方向を見失い、自分がどこにいるのかもわからなくなってしまった。気がつくと彼女は畑に戻っており、キャベツの迷路に迷い込んでいた。そして胸と脚の痛みをこらえて全力で駆けた。世界は深まる暗闇の中に日光の破片で作られたモザイクと化していた。まるで時間そのものが砕け散り、二度と元には戻れないかのようだった。

 ぬかるんだ土手の端を駆けていたその時、地面が崩れ落ちた。ヘルガは転がり、ポンドクリークに落ちた。細い小川で、その先の大きな池に流れ込んでいる。心臓が激しい鼓動を何十回と打つ中、彼女は柔らかな泥の中に横たわった。呼吸は荒く、呆然として目は回っていた。

 ゆっくりと仰向けになると、空は完全な暗闇に包まれており、月はなく、見慣れない星々でいっぱいだった。朝の暖かな香りさえも、じっと動かない植物が放つ清々しい芳香に取って代わられていた。天体の動きを読むバットフォークのように、ヘルガは空を見上げた。今何をすべきかがわかるかもしれない……

 そして彼女は無理矢理座り、うずくまった。混乱と破壊の音は遠ざかり聞こえなくなっていたが、それでもまだ続いていた。このまま小川の底をたどって池へ向かい、深い水の中で他の皆と一緒に隠れ、夜のフクロウが暴れ終わるまで待つことができるだろうか。

 それとも反対の方向、一番近い村に向かうのがいいだろうか。災厄の獣が襲ってくると警告して、もしかしたら助けを呼んでくることもできるかもしれない。残された瓦礫からポンドサイドを掘り出して、再建して、そして皆を……いや、最悪の事態については、こんな悲劇の後にやらなければならない辛いことについては考えない。後からやってくる問題ではなく、目の前、次の一歩に集中しなければ。

 喉が緊張するのを感じた。自分がついに今をこうして生きていると聞いたなら、ネリスは何と言うだろう? きっと何も言わないのだろう。ただ鼻をぴくりと動かして、首を横に振るだけだろう。

 やりなさい――ヘルガは自らに言い聞かせた。いつもみたいに立ち止まって生き方がうまくいくのを待っていないで。動きなさい。

 悲痛な心を抱え、身体は傷つき、それでもヘルガは日記帳の入った鞄を掴んだ。そして遥か遠くの陽光を目指し、足を引きずりながら川底を歩いていった。


メイブル

 いたずらっ子のマウスフォークたちは相変わらずだった。

 メイブルは自宅の丸い扉の外に立ち、生地の入ったボウルをかき混ぜながら子供たちを見つめていた。大切で愛おしくて頑固で自立心の強い彼らは互いの肩の上に乗り、危なっかしくよろめいていた。一番年上で一番大きなロザリンが土台を務め、その上にフォギーが、更にその上にピップが乗っていた。足は滑り、尻尾は顔や首に巻きつき、ひどい目に遭うたびに甲高い苛立ちの鳴き声があがった。

 彼らは居間の窓の前に積み上がり、何時間もかけて念入りに描いた旗を掲げようとしていた。そこには「おたんじょうびおめでとう メイブル」と書かれていた。正確には「おたんじょうびおめでとう ママ メイブル」であり、「ママ」の文字が横線で消されていた。父親のクレムが優しく指摘して曰く、自分は村の全員のパパではないように、メイブルも全員のママではない。だからメイブルを名前以外で呼んでいいのは自分たちだけなんだよ――と。彼は妻を含めた全員にキスをしてそれを強調した。妻もまた、子供たちにそう呼ばれる特権と大体の満足から、それを面白がっていた。

 事実、彼女の誕生日は今のところ素晴らしいものだった。暑すぎない陽気で、晩春のグッドヒルでもひときわ心地よく、そよ風がメイブルの茶色の毛皮を波立たせた。頭上にはヒナギクとノコギリソウが白と黄色の美しい房を揺らし、蜂たちは蜜の杯から杯へと熱心に、ブンブンと飛び回っていた。そして――ああ、なんてこと。町長のオリヴァーがまっすぐにこちらへ向かってきていた。その長い両耳は絶えず動き、すれ違いざまに会話を盗み聞きしていた。そしてパーティーに向けて片付けをしている、あるいは午後のお茶を楽しむために草で編んだ家の外に出ている者たちと話をするために彼は立ち止まった。

 メイブルはクレムのふくよかな灰色の姿を探した。だが悲しいかな、愛する夫はその高名なクッキーを完成させるため、エルダーベリーのジャムを買いに出かけてまだ戻っていなかった。ため息をつきながら、彼女は笑顔という鎧を身にまとい、礼儀正しくも押しつけがましい世間話と親切な詮索に対する戦いに身を委ねた。

 「メイブルさん!」オリヴァーは前足を振りながら呼びかけた。地元のラビットフォークである彼は背が低く、シナモンブラウンの毛皮の上に鮮やかな黄色と緑のキルト生地でできたベストをまとっていた。「最高のお誕生日ですね、おめでとう! 肖像画のようにきれいですよ」

 彼女がまとうのは小麦粉まみれでジャムの染みがついたエプロンであり、どう見ても疲れた母親だった。「ありがとう、オリヴァーさん。本当にご親切に」メイブルはそう答えたが、心の中では相手と剣を交えていた。

 オリヴァーは彼女が抱えるボウルへと視線を移した。「そして、貴女と菓子作りの匠である旦那様は、今晩のパーティーにどんなご馳走を用意して下さるのですかな?」

 もっと長く話し続ければ、本当に望んでいることを相手が切り出す機会を潰してやれるかもしれない。それが何なのかは多分わかっていた。

 「これは苺のケーキになります」片目で子供たちを見ながら、メイブルは朗らかに言った。子供たちは旗を落としてしまっており、重なり合ったままそれを拾おうとしていた。「旬の苺は今が食べ頃です。苺ひとつで町の半分を養えますしね。クレムは苺のタルトやマフィン、クランブルに添えるエルダーベリージャム入りのクッキーを作っていますし、ニンジンのケーキにはもう砂糖衣を塗ってあります。ブリンはドングリのスコーンを持ってきてくれます。ニールはタンポポとカブの葉のサラダを約束してくれました。ヴァンはカモミールのソーダを、それに……」

 「それは楽しみですなあ!」オリヴァーは興奮した声をあげた。「とても素晴らしい、そして大勢が集まる素晴らしい機会になるでしょう」

 巧妙な受け流し。フォギーが片足をロザリンの耳に突っ込んだが、姉の方はひるんだだけで我慢した。そしてピップが尾の先端でフォギーの目をつつき、残念なことにこちらは大きな悲鳴があがった。好都合とばかりにメイブルは生地の撹拌を一旦止めた。このまま続けていたならケーキはみっしりとして固くなってしまうだろう。

 「ご存知の通り、メイブルさん」オリヴァーは身を乗り出し、彼なりの囁き声で言った――雲間を飛ぶバードフォークにも聞こえるような囁き声で。「楽士のシルヴァー氏がですね、ヒイラギ葉の騎士団の物語を聞かせて下さるのだそうです。この辺りでは特別に好まれていますからね。そして当然、今日は貴女の誕生日ですし、貴女のご先祖は……。ですからよい機会ではありませんか。貴女の屋根裏部屋に隠されている古い遺品を。いわば歴史的な公開ですよ」

 そんな気はさらさらない。メイブルは逃げ口上と突き返しを放った。「そんなことをしてシルヴァーさんの歌を邪魔するわけにはいきません。家宝を見せびらかして素晴らしい歌を中断させるなんて、どんなに興醒めか想像して下さいな」

 「歌が終わるまで、ごほん、待てばよいのでは?」オリヴァーは大胆に押した。その両耳が広げられ、わずかに後ろに傾いた。

 「でもそんなことをしたら、シルヴァーさんの折角の歌も無駄になってしまいますよ? 誰もがあの方の素晴らしい歌ではなく、私のことを褒めるでしょう。誕生日であろうとなかろうと、それはあまりにも失礼というものです」メイブルは悔やんでいるかのように首を横に振った。「いけません。それがあるべき屋根裏部屋に置いたまま、シルヴァーさんの才能を発揮して頂くのが一番です。もちろん、苺のケーキと一緒に」さあ、これでオリヴァーは諦めてくれただろうか?

 「おっしゃる通りです」オリヴァーはそう言い、片足を地面に一度打ち鳴らした。敗北を受け入れていないという合図。「とはいえ、シルヴァーさんご自身がその遺品を見てみたいと思われる可能性についてはどう思われますかな?」

 全く諦めてなどいない――それどころか、相手は攻撃を一新してきた。メイブルの母親アイリスは、あのアーティファクトの守護者であった間もずっと、新しい帽子やベルトのように近所へと見せびらかしたことはなかった。もし母がまだ町にいたなら、オリヴァーは大胆にもこんな要求などしてこなかっただろう。耳に火ぶくれを作らされて逃げ帰る羽目になるだろうから。あるいは父親のエリスはこの上なく雄弁に拒絶していただろう、自分は追い返されたのだとオリヴァーは巣穴に戻るまで気付かないほどに。

 残念ながら、メイブルの両親は北国で存分に休暇をとっている最中であり、つまりメイブルは自分で自分の身を守らねばならなかった。両親がいてくれたらと彼女は心から思った。オリヴァーを対処するためだけでなく、今日は自分の誕生日なのだ。誕生日を一緒に過ごさないのは、これまで生きてきた中で二度目だった。誕生日はこれからもある、そう両親は言っていた。それは本当だが、それでも寂しかった。

 オリヴァーが次なる主張の連続攻撃を放とうとしたその時、マウスフォークの子供たちの小さな塔が不安定にぐらつきだした。メイブルは抱えていたボウルをオリヴァーへと押しつけ、跳躍した。片方の前足で彼女はピップを肩に乗せ、もう片方でフォギーを胸に抱き寄せた。ロザリンは尻尾を背中に丸めてメイブルの尻の上に倒れ込んだ。旗は今やくしゃくしゃの布地となって地面に落ち、目に見える文字は「おた おめ ブル」と皆に向けて誇らしく宣言していた。

 「また落とした!」フォギーはメイブルの腕の中で身をよじり、弟を睨みつけた。

 「兄ちゃんのせい!」ピップはそう答え、メイブルの左耳と顔半分にしがみついた。

 「やってない!」

 「やった!」

 ロザリンは溜息をついただけで、立ち上がるとズボンの尻から土埃を払った。

 「おやおや、この騒ぎは一体何かな?」腕一杯に食糧を抱え、両目を楽しそうに輝かせてクレムが尋ねた。彼はメイブルの頬にキスをしたかったのだろうが、今そこには不機嫌な子供がしがみついていた。

 「ママが助けてくれたんだよ!」高く調子のよい声でピップが言った。「フォギーのせいで旗を落としちゃって――」

 「やってない!」

 「――それから僕のことも落としそうになって――」

 「絶対にやってない!」

 「――けどママがすぐに来てくれて、僕たち両方とも助かったんだ。ママは英雄だよ!」

 メイブルとクレムが交わした視線は、両者とも笑いをこらえていると伝えていた。

 「ママはいつだって僕の英雄だよ」クレムは心をこめて言った。「さあ、英雄見習いさんたち。誰かクッキーを焼くのを手伝ってくれるかな?」

 クッキーという言葉に子供たちははっとしたが、それでもためらった。「旗を飾らないと」フォギーが悲しそうに言った。

 「僕とロザリンがやるよ。その間に前足を洗っておいで」クレムはそう提案した。「まずはこれを中に運ばないとね、おや。ごきげんよう、オリヴァーさん。そんな所にいらしたとは。残念ですがお喋りをしている時間はないのですよ。パーティーが始まる前にやるべきことが沢山ありますので。メイブル?」

 ロザリンはクレムの腕の下からエルダーベリージャムの瓶を取り出し、フォギーとピップはどちらが砂糖を、そしてどちらがプリムローズの花弁を運ぶかで言い争った。クレムは子供たちには重すぎるドングリ粉の袋を担当した。オリヴァーは半ば混乱しながらその光景を見つめていたが、メイブルにボウルを回収されると我に返った。

 「引き留めているわけにはいきませんね」メイブルが言った。「まだ見回りに行かれるのでしょう? オリヴァーさんと同じくらいに、このグッドヒルが元気でいられるように」

 「もちろんですとも」オリヴァーはそう言い、両耳は普段通りに外へと向けられた。家宝についての話をはぐらかされたと気付いたかもしれない、だとしても彼は何も言わなかった。言い合いは終了したのだ、今のところは。

 だがメイブルが扉を閉めようとした時、急ぐ足音と苦しそうな息切れの音が近づいてきた。ジェネファー、同じ町に住むイタチフォークが大急ぎでオリヴァーの所に駆けてくると、やって来た方向へと振り返った。

 「オリヴァーさん、来てください。ロエンナが見張り台にいるんですが……」ジェネファーは息継ぎをして続けた。「ポンドクリークに知らない誰かがいて、それも様子がおかしいって言ってました」

 メイブルは玄関広間の卓の上にボウルを置き、壁にかけられたレイピアの鞘を掴んだ。

 「クレム!」彼女は声をあげて呼びかけた。「小川で困り事があったみたい。すぐに戻るわ」

 「気をつけて!」クレムが答えた。「僕はちびちゃんたちを見ているからね」

 オリヴァーとジェネファーが先に駆け出していたが、メイブルはすぐに追いついた。道沿いに並ぶ白い花弁の屋根と草を編んだ壁の家々や、ラビットフォークの家族が好むもっと大きな巣穴、粘土で固められて鮮やかに塗装され、背の高い風車のついた住居を彼女たちは過ぎていった。色鮮やかなガラスの容器が石畳の通りに並べられ、明日にでも来るであろう次の春の嵐から雨水を集めようと待っていた。綺麗に手入れされた庭園に咲いているのはジギタリスやハナニラ、ニワナズナ――もちろん、渓間のユリも。そしてそれらすべての上に伸びる棒の先端に、バットフォークの木製の家々が建っていた。住民たちは夕暮れまで眠っているため、窓の中は暗かった。

 好奇心旺盛な者たちは自分の用事を、あるいは荷車を押すのを、食料品の袋を運ぶのを中断した。ある者は窓から顔を出し、またある者は居心地の良い家々の前に出て、何が起こっているのかとオリヴァーに尋ねた。メイブルは彼らを無視し、自分の足の限りに速く着くことだけに集中した。

 水辺の二軒の家、その間に群衆が集まりつつあった。彼らは力なく倒れている年若いカエルフォークを取り囲んでいた。哀れなカエルフォークは泥で覆われ、明らかに疲れ果てており、淡緑色の皮膚は灰色にくすみ、両目は閉じられていた。

 「どいて」メイブルが指示すると、群衆は忠実に数歩下がった。

 「そうです、どいて下さい」オリヴァーは繰り返し、息を切らしながら彼女の隣に立った。

 メイブルがカエルフォークの頭に優しく前足を触れると、その下瞼が開いた。黒い瞳孔の下に細い琥珀色の白目がわずかに見えた。

 「助けて……お願い……」かすれた声をカエルフォークは発した。

 「助けるって、何をしてあげればいいのですか?」メイブルは尋ねた。「何があったのですか?」

 「襲ってきた……災厄の獣……」瞼が再び閉じられ、カエルフォークはぐったりとした。意識を失ったのだ。

 「災厄の獣って言った?」メイブルの背後で誰かが甲高い声を発した。

 カブ畑を吹き抜ける強風のように、ざわめきが群衆の間に広がった。すぐに噂はグッドヒル全体に広がり、語られるにつれてさらに大きくなっていくだろう。

 「そこのあなたとあなた」メイブルは指をさしながら言った。「デレンを連れてきて、それとこの子を運ぶ担架を持ってくるのを手伝って」治療師はきっと昼寝の最中であり、中断されるのは嫌がるだろう。だが起こさなくてはならない。

 「どこへ運ぶのですか?」オリヴァーが尋ねた。

 「ひとまず私の所に。私が見守ります」メイブルはそう答えた。「目が覚めたなら、この気の毒な子に何があったのかを聞いてみます」

 このカエルフォークはどこから来たのだろう? 命からがら、どんな悲惨な運命から逃げ延びたのだろう? メイブルは曲がりくねった小川をたどって遠くを眺め、その方向にあるのは何という村だったかと頭の中で地図を描いた。そして地平線と薄い雲が点在する午後の空に目を向け、災厄の獣が次にグッドヒルへと荒々しく破壊的な力を向けるような兆候はないかと確認した。

 やがてデレンがやって来た。オリヴァーが悲痛な面持ちで見つめる中、メイブルはそのカエルフォークを担架に乗せるのを手伝い、そして家へと先導していった。彼女は片手でレイピアを握り締めながら、クレムと子供たちにどう言えばいいだろうかと考えた。

 ともかくも、私の誕生日パーティーは先送りにしなければならないでしょうね――メイブルは苦々しく思った。


ラル

 サンダー・ジャンクションからラヴニカに戻ってからというもの、ラルの心にはひとつの考えが不意に浮かんでばかりだった。ギルド会議の間にも、入浴中にも、そして注意力が散漫になるたびに。晴れた空に嵐が吹き荒れるように。

 ベレレンの奴は生きている。そして俺はあいつを殺しに行く。

 あの忌々しい魔道士が殺せるものだと仮定して。二年間近く、あいつは死んだと信じていた――ファイレクシアの侵略で。だがその後、あの悪夢じみたアショクに変装して、奇妙な動物らしきものを盗んでいった。いいだろう。

 「あいつを殺しに行く」頭の下で手を組み、寝室の天井を見つめながらラルは呟いた。

 「どなたを、ですか?」眠気から、トミクの声は重かった。

 「ベレレン」

 トミクは枕から頭を上げてラルに目を向けた。眼鏡を外し、茶色の髪が乱れたその様相は可愛らしかった。「見つけ出したいのだと思っていましたが」

 「そうだとも。そうすれば殺せるからな」

 トミクは勢いよく頭を枕に戻した。「殺すつもりはないのでしょう。ご友人なのですから」

 果たしてそうか? 何の説明もなく戦って逃げた奴を友と呼べるのか?

 「どうしてそんなことをしたのか、知りたいのですよね」トミクはラルの心を読んだかのように言った。「ですが殺してしまったら、決してわかりませんよ」

 「理性的な物言いはやめてくれ」黙らせるために、ラルは力強いキスで夫の口を塞いだ。

 それは機能しなかった。「計画はあるのですか?」

 ラルは指でトミクの眉をなぞった。「あいつを追って次元を渡ったが、イクサランのどこかの浜辺で行き詰った。でも、あいつを追跡できるかもしれない人は知っている」

 トミクは暗い部屋を見渡しながら考えた。「あの方ですね。力になって頂けるでしょうか?」

 ラルは聡明な夫を持ったことが心から嬉しかった。何もかも説明しなくてもいい。「駄目な理由はないだろうな。前にも手伝ってくれたんだから」

 「いつ出発するのですか?」

 「明日だ」

 「明日。でしたら……」トミクの両手が伸ばされ、その言葉は小さく消えた。

 ああ、本当に聡明な奴。そしてそれだけじゃないのが肝心だ。


 「お力にはなれません」

 手入れの行き届いた庭園にて、その女性は橋の上に立っていた。白い髪が金色の鎧を撫で、顔はつばの広い帽子に隠れていた。そよ風が近くの木の枝を揺らし、陽光が降り注ぐ大気に花弁が吹雪のように舞った。

 「それは、実際にできないって意味か? それともしたくないって意味か?」

 「次元を渡る力はもう私にはないのです。私の灯は消えました」

 ラルは失望感に歯を食いしばった。「もう久遠の闇を感じられないのか?」

 「そうです」彼女の手が鞭のように素早く動き、宙に舞う一枚の花弁を掴んだ。「ようやく安寧を得ることができました」

 「畜生。何か方法はあるはずだ」

 「プレインズウォーカーは霊気の痕跡を残します。それを追跡することが可能です。皆さんのほとんどは直感的に行っています」

 「で、君は?」

 彼女は花弁を手放した。それはゆっくりと回転しながら、石庭の方へと漂っていった。「私はその軌跡を、その先の灯に至るまで感じていたのです」

 「感じるって、どうやって?」

 彼女はため息をついた。「舌を持たない相手に味覚を説明するようなものです。最後にその方を見た場所に戻り、貴方の魂を開いてみて下さい」

 「なるほどな。感謝する」皮肉を向けるべき相手ではないとわかっていたが、あまりに苦々しい気分にそれをこらえることはできなかった。彼は放浪者を皇宮の庭園に残し、火花の雨とともに次元渡りで去った。


 サンダー・ジャンクションでベレレンを最後に目撃した場所は、ラルが去った時と同じほどに空虚だった。いや、もっと空虚だった。宝物庫自体が消え、ターネーションの廃墟だけが残っていた。手がかりも何もない。放浪者は何と言っていた? 魂を開け? 馬鹿馬鹿しい――だが他に選択肢はなかった。

 「わかったよ。魂か」ラルはそう呟いた。「やってやる」

 彼は目を閉じ、耳を澄ました。静寂。空気の匂いをかいだ。埃と金属。雷でこの残骸をさらに破壊することを夢想し、本能的にラルは魔法で天候に触れようとした。いい嵐が奮起させてくれるかもしれない。

 待て――力が何かをかすめた。緑の痕跡。汚れのような、まるで紙から一部が消された言葉のような。ベレレンは何らかの手段で霊気の痕跡を消し去ったのだろうか? あのずる賢い……

 ラルは全身全霊でその痕跡に集中した。緑の感覚が一輪の花のように咲いた。目を閉じ、彼はそれを久遠の闇へと追いかけた。

 そしてラルはどこかの野原で、タンポポに囲まれていた。これまでに見たどのタンポポよりも背が高かった。草も、遠くの木々も。ここは何の次元だ? ベレレンはどこにいる?

 うんざりした気分でラルは顔に手を触れ、そして愕然とした。顔が、これは何だ? この長いのはヒゲか? 毛皮が生えてる? これは……尻尾か?

 「殺してやるーーー!」両目に稲妻を宿し、空へと前足を振り上げてラルは叫んだ。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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