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Magic Story -未踏世界の物語-
ドミナリアへの帰還 第12話
2018年5月30日
「つまりまた何もかもいい感じに進んでるってわけね」 リリアナは顔をしかめて言った。遠くで雷鳴が轟いた。彼女はヤーグルへと次の呪文を放ち、ウェザーライト号が横に傾くと手すりを掴んだ。
紫色の稲妻はヤーグルのぬめる皮膚を走ったが、効果はなかった。シャナとアルヴァードは船首を掴む太い指へと切りかかったが、ヤーグルの掌握を解くことはできなかった。この巨大生物は耳障りな音を喉で響かせたかと思うと、何かを甲板へと吐き捨てた。酸の鼻をつく悪臭が大気を満たし、その蒸気にリリアナは息を詰まらせた。「いい感じじゃない、最悪だわ」
ラフは船の逆側の手すりにしがみつき、青い光とともに対抗呪文を放った。酸の雲がそれと混じり合い、液体と化して甲板を流れ下った。ラフは息をのんだ。「まずいです! ジョイラ船長!」
リリアナは歯を食いしばり、沼から呼び起こした不死者の軍勢を維持していた。これには全力を必要とし、だがそれらの維持とヤーグルへの攻撃を同時にこなす力はなかった。死者のほとんどは黒豹人で、人間よりも掴みどころがなく支配は困難だった。気が付くと彼女は命令を与えるというよりも甘言でなだめていた。現在の状況で、これは苛立たしい以外の何でもなかった。
ヤヤが甲板を横向きに滑り、膝をついて狙いをつけると炎の奔流を放った。それは残った酸の雲を焼き払ったが、ヤーグルは再び船を横に傾け、あやうくシャナとアルヴァードは船首から投げ出されかけた。リリアナは手すりに叩きつけられ、這うようにしがみついた。ヤヤは罵り声とともにヤーグルへと次の炎を放った。
ジョイラが艦橋下の昇降口ハッチから飛び出し、甲板の中央をめがけて何かを放り投げた。それはあの機械梟で、鉤爪に金属の果実のような何かを掴んでいた。ヤーグルが咆哮を上げ、ウェザーライト号は再び横に揺れ、甲板は鋭い角度にまで傾いた。
その衝撃に投げ出されかけ、リリアナは声を上げた。シャナとアルヴァードは転がり落ち、だが別の手すりに掴まるラフが青色の光を投げかけるとそれは輝く綱となった。アルヴァードは片手でそれを、もう片手でシャナの腕を掴んだ。彼女は手すりに足を押し付けて自分達の身体を支えた。
ジョイラが甲板上を転がり落ち、だが手すりに当たった所でリリアナが荒々しくその上着を掴んだ。ジョイラはリリアナの手首を掴んだ。二人は息もつけない一瞬そこにぶら下がり、そして船が逆側に傾いた。振り戻されると、リリアナは身体を甲板と手すりの間に押し込み、ジョイラが落ちないようその腕を掴み続けた。
「ありがとう」 ジョイラは息を切らして言った。
「礼には及ばないわ」 リリアナは答えた。黒豹人がヤーグルを攻撃しているのを、その足に切りつけ、引き裂いているのを彼女は感じたが、役には立っていないようだった。ウェザーライト号の甲板はひどく傾いてシャナとアルヴァードは動けず、ラフも二人が落下しないよう呪文を維持するのが精一杯だった。ヤヤが放つ炎は酸を押し留めていたが、ヤーグルの分厚い皮膚を貫通するには至っていなかった。リリアナはジョイラを放せず、ジョイラもリリアナを放せなかった。艦橋ではティアナが舵輪を操作し、ヤーグルの掌握から脱出しようと奮闘する姿が見えた。エンジンは高くうなり、まるで破裂しそうな振動が甲板に伝わってきた。リリアナは顔をしかめて言った。「何か策はないの?」
「実のところ、あります」 掴まり続ける疲労に声をかすれさせ、ジョイラは言った。「梟が、要塞に使う予定のマナ蓄積燃焼器をひとつ持っています」
「それは何より」 リリアナはかろうじて声を出した。腕の感覚がなくなりかけていた。「すぐにやれるかしら、実はね――」
「みんな、身構えて!」 ジョイラが叫んだ。
リリアナは不死者らへと散開するよう命令し、直後に青い光が走ってヤーグルの怒れる悲鳴が耳をつんざいた。ウェザーライト号は子供の玩具のように震え、リリアナの歯が鳴った。目が眩み、何も見えず彼女は激しく瞬きをした。そして視界が晴れた。
《アーボーグの暴食、ヤーグル》 アート:Jehan Choo |
それでもヤーグルは船首を掴み、今やその巨大な口が広げられていた。ジョイラは苦々しく罵り、言った。「燃焼器を全部使うべきだったわ」
憤慨し、リリアナは唸った。「こんな馬鹿馬鹿しい死に方は嫌よ!」
ギデオンは落下して転がり、そして立ち上がった。ピットは戦いの悪夢と言ってよかった。人々の悲鳴、切り裂く刃、振るわれる棍棒と鎖。頭上でチャンドラが警告を叫んだ。ギデオンが脇に飛びのいた瞬間、陰謀団の冷酷漢が落ちてきた。チャンドラはそいつをピットに落としたのだろう、だがその位置から彼女の姿は見えなかった。彼は突進するとその冷酷漢の頭を蹴りつけ、剣を奪った。
すぐさま、捨てばちの闘士の群れが押し寄せた。ある者は冷酷漢の身体を漁ると残った武器や鎧を手に入れた。ある者はギデオンへと襲いかかった。
不滅の盾で油断なくその相手を退けながら、ギデオンは乱暴に切りつけてきた剣を防ぐと壊れた鎚の一撃を避けた。彼は叫んだ。「何故陰謀団の娯楽のために戦うんだ! 止めろ!」
《ギデオンの叱責》 アート:Izzy |
その時、襲いかかってくる全員の目が狂乱していることにギデオンは気付いた。彼らは自分達が何処にいるのかもわからないのだ――それぞれの悪夢に捕われているのだ。一人が狂戦士のように飛びかかってきて、ギデオンはその胸を剣で突き刺した。剣を引き抜いて後ずさると、倒れた男へと他の闘士らが殺到して武器と鎧を奪った。
ギデオンは壁から離れ、ピットの中心を目指した。脱出することはできず、またチャンドラの近くに留まろうとして両方とも死んでしまっては意味がないと考えた。別の一団が襲いかかり、他に選択肢はなく彼は剣を振るいながら進み、正気を保つ者はいないかと周囲を見渡した。
ピットの中心へ向かいながら彼は見た。小さな集団が背中合わせに立ち、狂気の魔術に狂った囚人達から互いを守りながら戦っていた。ギデオンは安堵し、彼らへと向かった。
彼らを率いるのは長身で筋肉質の女戦士で、黒い髪に灰色がかった皮膚、摩耗した革鎧をまとっていた。泣き叫びながらその一団へ襲いかかる信者らを切り裂き、ギデオンは尋ねた。「私も加わっていいか?」
「礼儀正しい奴だ」 その女性は首をかしげ、自分の右に加わるよう指示した。ギデオンがそこへ入ると女性は尋ねた。「見ない顔だな。新参者か?」
「ここに来たばかりだ」 ギデオンは剣を振るい、右の男へ伸びてきた槍を跳ね返した。「君達は全員捕まっていたのか?」
その女性は剣を素早く連続で突き出し、別の敵を退けた。「違う。仲間は殺された。全員牢で会った」
《猛り狂い》 アート:Svetlin Velinov |
狂気の魔術に冒されていない者がまだ要塞に囚われているならば、解放してやるべきだろう。ウェザーライト号が到着さえすれば。「私は、ギデオン」
その女性は黒いローブをまとう信者の胸を切り裂き、答えた。「ラーダだ」
スライムフットはウェザーライト号の昇降口から這い出た。甲板がひどく傾いたこの状況では、その移動方法は普段よりむしろ容易だった。辺りは薄暗く、空は暗い嵐雲と火山の煙にぼやけ、船首を掴む恐ろしい生物の輪郭が浮かび上がっていた。スライムフットは手すりを目指し、その僅か二十フィート程下には木々の梢があった。スライムフットは全ての脚を使って掴まり、身をのり出した。
眼下の沼の草と池の只中に、不死者の黒豹人がヤーグルの足へと切りつける様子が見えた。だがそこにいる霊は彼らだけではなかった。リッチや様々な霊が戦いの様子に引かれ、眼下の木々へと集まってきていた。スライムフットが会った他のもののように、それらはあらゆる形と大きさで、小さな丸い塊から長身のひょろ長い生物までいた。スライムフットは呼びかけた。『ぼくたちを助けて!』
それら全てが見上げ、尋ねた。『たすけてほしいの、だれ?』
『スライムフット。いぐざりとの友達』 スライムフットは「いぐざりと」が嘘を言っておらず騙してもいないことを願った。足の下でウェザーライト号が震え、脱出しようともがく船のエンジンが爆発するのも時間の問題と悟った。『ぼくたち、陰謀団まで行ってあの悪魔を倒すんだよ!』
『あのあくまをころすのは』 霊の声がこだました。『てつだえない』 別の霊が言い、スライムフットの心が沈んだ。『けど、てつだえるの、しってる』
船が再び震え、ジョイラはリリアナの手首と手すりを掴んだ。ヤーグルの両手を船首から吹き飛ばすには、船首を犠牲にする必要がありそうだった。そしてそこにはシャナとアルヴァードが動けずにいる。ウェザーライトは抵抗に軋み、他に選択肢は無いと彼女は悟った。息を吸い、船首から離れるよう叫ぼうとしたところで、リリアナが疑問を口にした。「あれは何をしているの?」
「あれって何、船を食べようとしている?」 困惑し、ジョイラは尋ねた。
リリアナは頭を向けた。「いえ、あのサリッドよ」
ジョイラは顔をそちらへ向けた。「あのサリッド?」 それは艦橋近くの船尾におり、手すりから大きく身をのり出していた。誰かと、何かと話している? ジョイラは当惑した。
そしてリリアナが言った。「何かが来るわ……死者じゃない。けど生きてもいない……」
一陣の風が甲板に吹き、ヤーグルの重い悪臭を緑の植物、湿った土、花の匂いで奪い去った。ジョイラはそれが何なのかを即座に把握した。「ムルタニじゃない、ここにいる筈がないもの!」 風はヤヴィマヤの匂いを運び、だが何か違和感があった。かすかな腐敗と酸っぱさが。
「ヤヴィマヤの欠片」 かろうじて聞こえる声でリリアナが言った。「ムルタニみたいなエレメンタルかも、けれど――」
ヤーグルの背後に一つの影が立ち上がった。もっと大型で緑色の光を宿し、腐った蔓と木の残骸に包まれ、屍の破片と泥がその身に織り込まれていた。太い角がその頭部を飾り、怒りに満ちた口を大きく開いていた。ジョイラは狼狽とともに顔をしかめた。ムルタニの怒れる無意識の顕現のように見え、だがそれが放つのは曖昧な苛立ちどころではなかった。
「――けれどもっと怒ってる」 リリアナはそう言い終えた。片腕を手すりに回したまま、彼女は手を挙げた。「でも気がそらされてる隙に、黒豹人の兵を送り込めば――」
「待って!」 ジョイラが叫んだ。そのエレメンタルは両腕でヤーグルを抱え込んだ。ヤーグルはどうやら何かに攻撃されていると悟り、首をひねってその巨大な顎を開くとエレメンタルの上半身に噛みつこうとした。
ウェザーライト号はヤーグルに掴まれたまま横に揺れ、ジョイラは再び手すりに叩きつけられた。ヤヤが背中で甲板を滑ってきて叫んだ。「あれは腐敗のエレメンタル、ムルドローサだよ!」
《墓場波、ムルドローサ》 アート:Jason Rainville |
ムルドローサは腐った木と屍から成る肢の一本でヤーグルの顎に力をかけ、それを無理矢理開いた。酸の息を詰まらせながら、ヤーグルはウェザーライト号を手放した。
ぐらつきながらもウェザーライト号が解放されるや否や、ジョイラは叫んだ。「ティアナ、ここから離れて!」 甲板が勢いよく持ち上がり、エンジンがうなった。船は上昇し、離れた。
リリアナは手すりから甲板へ滑り降り、ジョイラは前へよろめいてその戦いを見ようとした。ヤーグルはムルドローサを掴もうとするも、その鉤爪は植生と土と腐敗の寄せ集めを無害に滑った。ムルドローサはヤーグルの顎を更に開き、その自重で怪物を泥中へと押し込んだ。あのサリッドがジョイラの隣まで歩いてきた。驚きに眉を上げ、ジョイラはそれを見つめた。「あなたが呼んだの?」
それは腕を振ってみせた。
《密航者、スライムフット》 アート:Alex Konstad |
息を切らし、ラフが手すりから身体を引き上げた。「ヤーグルについてはすみません、あれが船を食べようとするなんて」
「謝ることはないわ」 ジョイラは返答した。ヤーグルが何をしようとするのか、自分は確かに見ていたのだから。
船首から、シャナとアルヴァードがよろめきつつ向かってきた。ジョイラが尋ねた。「二人とも、大丈夫?」
アルヴァードの鎧と右腕と脇腹は酸に溶かされ、だがその下の赤みがかった皮膚は急速に癒えていた。シャナは盾と三つ編み髪をいくらか失ったものの無傷のようだった。彼女の視線にアルヴァードは了承に頷いた。「多少やられましたが、何とかなります」
ヤヤとリリアナはようやく立ち上がり、ジョイラは二人へと振り返った。「リリアナさん、まだ黒豹人の軍勢は維持できていますか?」
「勿論よ」 リリアナは顎を上げ、よろめき、そしてまっすぐに立った。「悪魔を倒しに行くわよ。いい?」
ジョイラは頷いた。これを終わらせる時が来た。「要塞へ」
チャンドラは殴り合う信者数人を何とかピットへ放り、ギデオンへの攻撃を攪乱しようとした。そして混乱の中、その行動は誰にも気づかれることはなかった。そうでなくとも信者らは互いをピットへ叩き込み、喜びの声を上げて落ちていった。何もかもが想像を絶する酷さだった。必死に彼女は思いを巡らせた。ウェザーライトはどうしたの? 何でこんなに時間かかってるの?
ギデオンが信者らを振り解いてピットの中を移動すると同時に、彼女は詠唱を続ける冷酷漢らを避けつつピットの端に沿って駆けた。観客席の端からベルゼンロックの恐ろしい気配が感じられ、その視線は皮膚を燃やすかのようだった。もし自分とギデオンが気付かれたなら、引き裂かれてしまうだろう。チャンドラは信者に圧倒される前に可能な限りの人数を燃やすので精一杯だった。誰かが彼女の腕を掴んで端へ押しやり、だがチャンドラは身をよじって逃れると相手の尻を蹴飛ばした。その男はよろめいて背中からピットへ落ちていった。周囲の信者全員が喝采を上げ、チャンドラは急ぎ彼らから離れた。
彼女は見通しのきく別の場所を発見した。観客席上方へ向かう階段近くのほぼ無人の区域で、肋骨のように湾曲した柱がベルゼンロックの視線を遮っていた。ピット中央の近く、互いを守りながら戦う一団の中にギデオンの姿があった。胸を締め付けるような恐怖がわずかに緩んだ。
そして低い鐘のような音が響き渡り、その音量にチャンドラはよろめいて耳を塞いだ。彼女だけではなかった。誰もが固まり、見つめ、不意の静寂が訪れた。聞こえてくるのは、狂気の魔術に熱狂して気付いた様子のない闘士らが立てる音だけだった。ベルゼンロックが立ち上がり、その声が轟いた。「要塞を防御せよ!」 そして悪魔は背を向け、玉座を押しのけるように過ぎると観客席後方の影の中へ姿を消した。
チャンドラは安堵の溜息をついた。やっと来てくれた! 冷酷漢と司祭らが扉へ急ぐと、辺りで詠唱していた群集も散った。視界が晴れ、チャンドラはギデオンをピットから脱出させる手段がないかと探した。すると観客席の隅、ここへやって来た入口の付近に何かがあった。それは畳まれた木製の階段に歯車と鎖がついた器具で、ピットへ張り出した段のすぐ下に取り付けられていた。彼女はギデオンの視線に気づき、応えるようにその器具を力強く指差した。彼は顔を上げてそれを認識し、チャンドラは観客席を駆けた。
その器具まで辿り着くと、階段を下ろすための鎖付きの操作棒があった。だが観客席には未だ多くの信者がおり、見つかることなく操作するのは困難に思えた。そして武装した冷酷漢の大集団とローブの司祭が数人、主な扉の前に今も集まっていた。彼らは司祭のウィスパーを待っているらしかった。その女司祭はピットを一望する台座へと下がっていた。
チャンドラが辛抱強く待っていると、ウィスパーは両腕を広げて語りはじめた。その目の前に黒い霧が形成され、ピットへと降りていった。それが今も戦う狂気の戦士まで届くと彼らは息を詰まらせて倒れ、チャンドラは驚愕と共に把握した。ウィスパーはピットの虜囚全員を始末するつもりなのだ。
全くの反射からチャンドラは炎を放った。ヤヤからの教授を受けていたことで、その反射は精密だった。ウィスパーはその熱を感じ取ったらしく、命中する直前に身をよじって避けた。炎は背後の冷酷漢を襲い、その男は炎の中に消えた。ウィスパーは怒りに叫び、チャンドラを指差した。冷酷漢らが突撃し、死の呪文が黒い球となって彼女へと放たれた。
チャンドラは身構えることも、息をのむこともしなかった。自分へ向かってくる司祭と冷酷漢へ向け、彼女は異なる方向へ十もの火球を放った。そして自身は地面に転がって死の呪文の軌跡から逃れ、続けてウィスパーへと炎を連射した。
着火した信者らは逃げ、衝突し合い、ピットへ落ちた。ウィスパーは段から飛び降りると冷酷漢らの背後へと下がった。チャンドラは信者を焼き払った。彼らのほとんどは焼死し、生き残ったものは出口へと逃げた。チャンドラは立ち上がり、観客席全体へ炎を放ちたいという欲求をこらえた。この場を生き伸びるためには力を温存しておくべき、そうわかっていた。だが複数の火球を空中に保持したまま感情的な会話をする、ヤヤとのやり取りは役に立っていた。
《極上の炎技》 アート:Chase Stone |
チャンドラは階段の機構へ駆け、鎖の鍵を焼き払い、操作棒を引いた。階段が広げられ、苦しそうな音とともにピットへと下ろされた。近くにいた冷酷漢らは焼け焦げ、あるいは着火もしくは逃走しており、観客席上方の影の中にも人影は見えなかった。ピットでは屍に取り囲まれ、虜囚の群れが今も戦い続けていた。彼女の場所からはギデオンも共に戦う闘士らも見えず、そのためピットの端へ進み出ると階段を見下ろした。彼らが登ってきており、ギデオンはすぐそこにいた。
チャンドラは安心して下がり、だが振り返ったその時、ウィスパーが現れて黒い雲を放った。チャンドラにできたのは、精密に狙いをつけた、だが強烈な炎でそれを吹き飛ばすことだけだった。その炎に死の呪文を打ち消す効果はなく、だがギデオンが飛び出して防護呪文を展開した。黄金の光がチャンドラの目を眩ませ、ウィスパーの呪文を跳ね返した。そして不意に一本の刃がウィスパーの右目に刺さった。女司祭はよろめいて後ずさり、倒れた。
「へ?」 チャンドラはギデオンを見つめ、そしてその背後の灰色の肌をした人物を見た。その女性は片手でピットの端に掴まり、もう片手でナイフを投げたのだった。「凄い! ありがとう!」
その女性は身体を引き上げた。「司祭一人に三人がかりとは、宜しくはないな」
「初めて一緒に戦ったんだ、良くやった方だろう」 ギデオンが言った。「チャンドラ、こちらはラーダ」
「こんにちは」 チャンドラは挨拶をし、そしてギデオンへと言った。「なんでウェザーライト号が遅れたのかはわからないけど、来てくれたみたい。移動しないと!」
「ウェザーライト号?」 ラーダは驚きとともにチャンドラへ向き直った。「ずっと昔に壊れたんじゃないのか?」
「ジョイラが引き上げたのよ」 ギデオンが息を吸うよりも早く、チャンドラが返答した。「テフェリーとカーンも来てるけど、知り合いだったりしない? 私達と一緒に戦わない?」
他の闘士らがピットから登ってきた。「ラーダ、脱出を率いてもらえるか?」 一人が尋ねた。
アート:Anna Steinbauer |
ラーダは迷い、そしてギデオンとチャンドラへ向き直った。「脱出路はあるのか?」
ギデオンが返答した。「その前に行かねばならない所がある。仲間が要塞を攻撃しているから、その混乱に乗じて脱出できるだろう」
ラーダは黒い眉をつり上げた。「陰謀団に破壊を振り撒いてやるのか?」
「たぶん」 チャンドラは言った。それを確かに願った。「そういう計画」
「ならば一緒に行こう」 ラーダは闘士らを振り返った。「先に行ってくれ、外で合流しよう」
彼らはラーダへと敬礼をし、扉へ向かった。
「準備はいい?」 リリアナはジョイラへと尋ねた。ウェザーライト号は最後の丘を越えたところだった。黒い塔のように火山が前方にそびえ、灰だらけの空と立ち込める雲に君臨していた。
「いつでも」 ジョイラが返答すると、リリアナは不死者の軍勢へ告げた。可愛い子たち、陰謀団を倒しなさい、復讐の時よ。
ウェザーライト号が丘を越えると、雷鳴が轟いて稲妻が空を裂いた。リリアナは要塞を見た。何重ものカーテンのように城壁と濠に守られ、門は全て罠と闇の魔術で守られている。報復への渇望に心臓が跳ねた。もうすぐよ、そう自身に言い聞かせた。彼女は不死者を駆り立てたが、彼ら自身の復讐心はあまりに強く、激励する必要すらなかった。彼らは下草や木々の間をうねり、最初の城壁へと殺到した。
「あそこに、テフェリーさんとカーンさんが!」 シャナが右舷から声を上げた。
アルヴァードが手すりへ向かうと梯子を投げ下ろした。ラフが尋ねた。「減速しなくていいんですか?」 その言葉と同時に、テフェリーとカーンが揺らめき一つとともに甲板に現れた。「ですよね、時間の魔道士だってこと忘れてました」
ウェザーライト号が外部城壁まで来ると、時折の雨が甲板を濡らした。矢とクロスボウの連打が船体に浴びせられた。死魔術の黒い球が手すりを越えてきたが、シャナが身体と剣でそれらを防ぐと黄金の光とともに蒸発した。ジョイラは両手を動かし、対抗呪文を唱えて甲板から矢を跳ね返した。ラフが何かを呟き、リリアナは肩越しに振り返った。もう二隻のウェザーライト号が丘を越え、陰謀団からの斉射を引きつけた。「悪くないわね」 注意のほとんどを不死者の兵団へ向けながら、リリアナは評した。
テフェリーはリリアナの隣へ歩み出た。ローブは風にはためかせ、船首から身をのり出した。「最初の門を貰うが、いいかな?」
「どうぞ」 ジョイラは歯を見せて笑った。梟が頭上を通過し、また別のマナ燃焼器を運んでいった。
テフェリーが片手を伸ばし、すると土手道を塞ぐ門は腐食して赤くなり、錆と崩れて消えた。黒豹人らが水のように殺到し、武装した冷酷漢らを引き裂いた。
次の城壁でジョイラの梟が一つめのマナ燃焼器を落とすと、門が爆発した。石と金属の破片は宙で停止し、そしてうねる嵐となって近くの冷酷漢と信者らへ襲いかかった。ジョイラが次のマナ燃焼器を掲げると、梟がそれを受け取りに戻ってきた。
「いい感じに進んでるわね!」 ここまでの破壊に大いに興奮し、リリアナ声を上げた。ベルゼンロックはまもなくおぞましい死に様に悶える。早くそれを見たくてたまらなかった。
船首から、シャナが叫んだ。「火山から何か来ます! あれを!」
「そういう意味で言ったんじゃなくて」 リリアナは苛立ちに罵り声を上げた。振り返ると、火口から噴き出す白い煙から、黒い影が立ち上がった。翼のある飛行生物、一見してドラゴンによく似ていると彼女は思った。だが頭部は両刃の斧のようで、それが宙でよじれると鉤爪の四肢と尾が見えた。その上に武装した人影が騎乗していた。それは火山の上昇気流をとらえ、嵐雲へと舞い上がった。
ラフが言った。「ええと、僕もリリアナさんがそういう意味で言ったのではないと信じたいです。嫌な予感がします」 彼は声を上げた。「あれは多分、アゴロスです!」
ギデオンは先頭に立って観客席から出ると近くのアーチをくぐった。薄暗い回廊は今や無人で彼は駆け、チャンドラとラーダは楽に歩調を保った。遠くで咆哮が爆発音に遮られた。外の戦いは上々に進んでいるらしかった。「その宝の在処はわかるのか?」 ラーダが尋ね、そして肩越しに振り返った。松明のゆらめく光に影が踊っていた。「陰謀団はひっきりなしに中を作り変えてるぞ」
「この下にあるはずだ」 ギデオンは次のアーチのすぐ先に入口を見た。近くの松明の揺らめく光が照らし出したのはファイレクシアが建設した通路で、湾曲した喉が闇へと続いていた。「そう聞いた」 トレイリア西部にいた陰謀団の工作員の断片的な思考からラフが情報を抜き出したが、自分達はただそれを正しく解釈できていることを願った。
《天才の記念像》 アート:James Paick |
回廊は屈曲したまま続き、やがて肋骨のような何本もの柱に支えられた広く薄暗い部屋に出た。壁には幾つもの両扉が並んでおり、その全てが太い鎖で封じられていた。闇の呪文の毒気がそれぞれの前に、灰色のヴェールのように浮いていた。ギデオンは足を止め、気分が沈んだ。自分の計画がどうしようもない障害に遭遇した時の、いつもの感覚だった。
「どの扉だ?」 ラーダが尋ね、辺りを見て眉をつり上げた。
「いい質問だ」 ギデオンはそう返答した。「私達が得た情報は、その武器は要塞のこの区域の宝物庫にあるというもの、だがそこまでだ」
ラーダは疑う表情を見せた。「この扉を突破するのは一苦労だぞ。探している間に外の攻撃がしくじったら――」
炎の咆哮にギデオンはたじろいだ。彼とラーダが振り返ると、チャンドラが最初の扉を吹き飛ばしていた。白熱した炎が浴びせられ、鎖と防御呪文の印と、扉そのものを焼き払った。
彼女はそれを止め、手袋を直した。炎が消え、扉があった場所には穴が開いていた。チャンドラは次の扉へ向き直った。
「こういう手もある」 ギデオンは安心とともに言った。
ウェザーライト号へと降下するアゴロスとその乗騎を見つめ、リリアナは顔をしかめた。雨がその黒い翼をぎらつかせていた。
「それでラフ、アゴロスとは何者だい?」 テフェリーが気楽な口調で尋ねた。監視塔から矢が降り注いだが、彼がぼんやりと身振りをするだけでそれらは宙で停止した。
「わかりません、けど質問した陰謀団の工作員がひどく怖がっていました!」 ラフは呪文書を手にとり、半狂乱でそれをめくった。
カーンが踏み出し、その金属の頭部を動かして雨と火山灰の中のアゴロスの動きをたどった。彼は言った。「強大なリッチです。とはえ純粋な闇の魔術で作られた霊と同じく、決して人ではありません」
アゴロスが彼らへ飛びかかろうとすると、リリアナは武装した戦士の頭部が両刃の鎌の形状をしているのを見て、それが人間ではない確証を得た。嫌な予感を覚えた。
「リリアナさん、あれを止められますか?」 ジョイラが叫んだ。その梟は次のマナ燃焼器を持って飛び立ったばかりだった。黒豹人らが壊れた門へ殺到し、要塞の扉への道はほぼ開けていた。
リリアナは苦々しく思った。何か強い不死者に攻撃されて初めて、みな屍術師をありがたがるのだ。「やってみるけど、他にも攻撃手段を誰か考えて。ベルゼンロックは私がここにいるのをわかってる。私がアゴロスを支配できるなら、差し向けてくるはずがないもの」 彼女は手すりを掴んで体勢を保ち、意識をその黒い影へ伸ばした。
だが何も感じなかった。アゴロスは飢えた虚無で、次第に近づくそれに彼女が手がかりとできるものは何もなく、話しかけることすらできなかった。何か他にできるはずだった。反射的に鎖のヴェールに触れたが、オナッケが囁き、これを使う力はまだ戻っていないと知った。自分自身とウェザーライト号の全員を危険にさらさない限りは。彼女は小声で罵った。無力なのは嫌だった。「ジョイラ、止めるのは無理よ!」
ジョイラは前へ進み出て、合わせたその両手が青い光のうねりをまとった。テフェリーがその横へ移動し、杖を差し出し、待った。シャナとカーンはラフとヤヤの隣へ踏み出した。
ジョイラ、テフェリー、ラフが攻撃と防御の呪文を続けざまに唱えたその時、青い光のもやを越えてアゴロスとその獣が甲板に飛び下りた。アゴロスは自らの呪文でその全てを跳ね返し、リリアナは飛びのいた。その暗さは死にゆく星の心臓のようだった。
シャナが進み出て魔術への抵抗力でアゴロスの呪文を跳ね返し、黄金の光がひらめいた。カーンはその背後に屈み、シャナの抵抗を用いて攻撃できるまで近づこうとしていた。その攪乱の中でリリアナも自身の呪文を唱え、アゴロスが防ぐ前に殺せることを願った。
《虚ろな者、アゴロス》 アート:Daarken |
紫の光がアゴロスに当たり、だがその表面を滑り、鎧の関節部分を照らし出した。何てこと、効かないの。リリアナが一瞬考えたその時、獣の尾が彼女の脇腹を叩いた。
リリアナは逆側の手すりまで飛ばされて倒れ、衝撃に動けなかった。顔を上げると他の皆も散り散りになっており、アゴロスは槍を掲げて彼女の体を突き通そうとしていた。
突如、ティアナが目の前に降り立った。天使の剣がひらめいて槍を弾き、アゴロスの武器は手すりを越えて落ちていった。ヤヤが横から炎を放ち、アゴロスを押し返した。カーンがその背中へ飛びかかって頭部を掴んだ。ティアナは唸る獣へ飛び、アルヴァードが続いた。
目眩の中、リリアナはかろうじて身体を起こした。船の操縦は誰が? 艦橋を見ると、緑色をしたサリッドが船の舵輪を握っていた。あら、何よりも今必要なのはあれだったのね。
ジョイラは差し迫った口調で言った。「これは攪乱です。ベルゼンロックは私達を要塞から遠ざけようとしている」
リリアナは罵った。「その通りよ」 それを最初に考えなかったのは迂闊だった。「私は黒豹人に攻撃を続けさせないといけない。でも要塞へ行かないと!」 ギデオンとチャンドラはまさに今ベルゼンロックと戦っているかもしれないのだ。自分もそこにいなければならない。黒き剣がベルゼンロックの生命力をその身体から奪うのを見届けねばならないのだ。
ジョイラは梯子を顎で示した。「行って下さい。アゴロスは私達が」
リリアナは手すりへ急ぎ向かい、だが梯子を下ろす機構はアゴロスとの戦いで甲板から外れていた。彼女は苛立ちに顔をしかめ、だが諦めるつもりはなかった。そして身をのり出し、意識を不死者らへ送った。
その多くは今も通路や水中や監視塔で陰謀団の冷酷漢と戦っていたため、彼女はウェザーライト号すぐ下の一団に集中した。そこでは霊たちが奇妙な行列を成して壊れた門へ向かおうとしていた。それらの霊は皆風変りな形状と大きさで、丸く膨れたものから柳のように細く薄いものまで様々だった。
リリアナは黒豹人らへ話しかけた。地面へ降りたいのだけど、可愛い子たち、何か案はある?
彼らは返答した。『仲間、いる』
数体の霊が脇によけて登り、駆け、浮かび、もしくは飛び跳ねてウェザーライト号の下に来ると、互いの上にしがみつき重なっていった。彼らは続き、霊の塔が高く伸びていった。
ウェザーライト号の船体までそれが届くと、リリアナは手すりを乗り越えてその上に着地した。三本指の手が伸びて彼女のそれを掴み、奇妙な顔の勢揃いが見上げた。そのどれも目や器官の数は異なっていた。「あら、皆面白いのね」 それらが彼女を地面へ下ろしはじめると、リリアナは息を吐いた。
ギデオンはチャンドラとラーダと共に、要塞の広間の暗い混沌の中を駆けた。不死者の黒豹人と奇妙な形状の霊が正面の門から押し寄せた。僅かな数の信者と司祭が今も戦っていたが、彼らの狂気魔術は死者に効いていなかった。黒豹人らは信者を取り囲んで圧倒し、広間を切り進みながらももっと脆い霊を守っていた。「勝てるわ!」 チャンドラが叫んだ。
「集中するんだ」 ギデオンが告げた。彼は鞘に収まったままの黒き剣を持っていた。それは四番目の宝物庫にて、記念品のように石の台座に置かれていた。闇の力が革を貫いて手を焼くのを彼は感じており、これをベルゼンロック以外には使いたくなかった。
《再鍛の黒き剣》 アート:Chris Rahn |
広間の外縁へ来ると、一人の司祭が開いた扉の前に立ち、呪文の黒いもやで黒豹人の戦士らを留めていた。その女性はギデオン達を見てうなり、何かを唱えるとそれは宙に広がって網のようになった。ギデオンは反射的に盾の呪文を展開し、だがチャンドラが炎の稲妻を放つとそれは黒豹人らを巧妙に避けて司祭の胸に命中した。そして後ずさった所で黒豹人らが圧倒し、呪文は宙で立ち消えた。
ギデオンが彼らを迂回するよりも早く、霊の波が扉を破って現れ、黒豹人とわずかに残る信者を散らせた。ギデオンは身構え、ラーダは盾を掲げてチャンドラを下がらせた。
霊たちは彼らを追い越していき、だが見覚えある膨れた一体がギデオンの目の前で止まり、急ぎ外を指差し、言った。「べるぜんろっく!」
よし。ギデオンそれに向けて言った。「ここから出たいんだ」
その霊は振り返り、興奮した身振りをした。他の霊が急ぎよけて道をあけた。ギデオンはすぐさまそこを駆け、要塞前面の開けた区域へ出た。
外は混沌そのものだった。空には暗い雲がうねり、敷石は雨に濡れて滑った。ウェザーライト号は最内部の城壁すぐ上に留まり、甲板では呪文の光と炎が爆発し、だが誰がもしくは何と戦っているのかは見えなかった。門は破壊されて開いており、その内側にある陰謀団の建物は燃え、信者の死体、黒豹人の残骸、霊の身体が地面のそこかしこに散っていた。そして彼はベルゼンロックの姿を見た。
その混沌の極まった先、霊と不死者の群れの中。剣を片手に、爬虫類の翼を広げて悪魔が闊歩していた。剣を振り下ろすと、その目の前に様々な死骸が飛び散った。
ギデオンは深く息をつき、黒き剣を抜いた。このような闇の武器を使いたくはなく、だが選択肢はなかった。叫びと鬨の声に彼は振り返った。冷酷漢の増援が要塞から溢れ出た。チャンドラが火球を放ってそれらを押し留め、ラーダは命令を叫び、霊たちに守備の編成に並ばせた。チャンドラはギデオンを振り返り、言った。「行って! あんたの背中は守るから!」
ギデオンは躊躇し、だがベルゼンロックさえ倒せば冷酷漢は敗走するとわかっていた。彼は踵を返し、悪魔へと向かった。
ベルゼンロックはギデオンの接近に気付き、角の頭を傾けて黒き剣を認識した。「その剣は我が物だ! 古龍を斃すため、私が鍛えたものだぞ!」 ベルゼンロックは冷笑し、薄い唇から鋭い歯が見えた。「我が剣で我が身を倒せるなどと思うか? 貴様の死は惨たらしいものとなろう」
《悪魔王ベルゼンロック》 アート:Tyler Jacobson |
「好奇心から聞くが、お前は勘違いの信者にわめくその嘘を本当に信じているのか?」 ギデオンはそう言い、ゆっくりとベルゼンロックを旋回した。悪魔は横歩きでそれを追った。黒き剣の闇の力が骨を脆くしているかのように、ギデオンの手は痛んだ。ただ十分に近寄り、ベルゼンロックの肉体をこの剣で突き刺すだけでいい。だがこの悪魔は自分よりも長身で逞しく、攻撃範囲も広かった。
ベルゼンロックは怒り狂った。「嘘だと? 貴様の内臓を抜き、その悲鳴を――」
ギデオンはチャンドラが放つ炎の咆哮を聞いた。彼女らが要塞の扉で冷酷漢を押し留めているが、長くはもたないと知った。彼は突撃し、身を屈め、そして切りつけた。黒き剣はベルゼンロックの皮膚をかすめ、だが悪魔はギデオンを腕でなぎ払うと剣を振り下ろした。闇の魔術にぎらつく剣とギデオンの盾の呪文が衝突し、黄金にきらめいた。
ギデオンとベルゼンロックは互いに間合いを測った。突如、思い違いに満ちた誇大妄想者ではなく一体の狡猾な悪魔のように、ベルゼンロックが言った。「プレインズウォーカーの匂いだな。何者だ?」
ギデオンはためらわなかった。「ギデオン・ジュラだ。リリアナ・ヴェスと共に、お前を殺しに来た」
ベルゼンロックは再び牙をむき出しにして笑った。「貴様らか。ゲートウォッチ。貴様らをどうするかという話は聞いている。ここで殺してしまうのは残念と言えよう」 そしてベルゼンロックは突撃した。
リリアナは通路を駆け、壊された門を抜けて要塞前の広場へ入った。一人の冷酷漢が突撃してきたが、彼女が身振り一つで呪文を唱えると、その者は湿った敷石に叩きつけられた。
最初に見えたのはチャンドラだった。炎の爆発とけぶる死骸からすぐにわかった。彼女と別の戦士が要塞の扉を塞ぎ、霊の群れの助けを借りて冷酷漢らを押し留めていた。
広場の先、木と石の瓦礫と陰謀団の赤い旗の残骸に囲まれて、ギデオンがベルゼンロックと戦っていた。彼は黒き剣を振るっており、その闇がリリアナの感覚の端を刺激した。
彼女は足を踏み出した。自分がやるべきは悪魔を攪乱すること、そうすればギデオンは悪魔に攻撃を当てられる。そうすれば後は黒き剣がやってくれる。彼女は微笑み、囁いた。「ベルゼンロック」
悪魔の角の頭が彼女へと向けられた。リリアナはそこかしこに横たわる死者から力を引き出し、矢のようにベルゼンロックへ放った。
紫色の稲妻が悪魔の頭と胸に当たったが、その光は青白い皮膚の表面で無害に消えた。悪魔は笑い、ギデオンが繰り出した突きを跳ね返した。「弱いではないか、リリアナ。昔からそうであったな。悪魔と契約するのは意思弱き愚か者のみよ」
リリアナは歯を食いしばった。力のほとんどは黒豹人を動かし続けるために使っていた。それを止めれば――いや、危険すぎる。冷酷漢の数は今も多く、要塞にはアゴロスのような怪物がまだ沢山いる。そしてもし黒豹人らを死へと帰しても、一人でベルゼンロックを倒す力はなかった。リリアナは計画を変えず、悪魔を攪乱しようと挑発した。
彼女は大股で近づき、自分に攻撃の矛先を向けさせようとした。「他の契約悪魔は私の手で死んだわ。お前もそこに加わりなさい」 そして本心を語るべきではないとわかっていたが、言わずにはいられなかった。「よくもお兄様を」
ベルゼンロックは声をあげて笑い、続いて突きを防いだ。「ドミナリアの全ては我がものだ、お前の兄の屍も、お前の故郷も、お前自身も。それを我が意のままに用いるだけよ」
あまりに巨大な自惚れ、この悪魔は本当にそれを信じているのかもしれない。「お前は笑い者の嘘吐きよ。ドミナリアの全てが知っているわ」
ベルゼンロックはギデオンに切りかかったが、寸前で避けられた。「これが終わる前に頭を下げ、忠誠を奉ずるがよい。さすれば生かしておかぬこともない」 悪魔は低い声でうなった。
その荒れ狂う様子に、リリアナはベルゼンロックに本気の苛立ちを悟った。自分の言葉は痛い所を突いているのだ。「ご存知かしら、トレイリア西部でお前がどんなふうに笑われているかを? 『大きな角のお馬鹿さん、妄想だらけの悪魔とみんな』 こんなふうよ、可笑しくってたまらない歌だこと!」 ありったけの軽蔑を込め、リリアナはラフが創作した風刺版ベルゼンロック典礼をうたった。
ベルゼンロックは怒りに吼え、ギデオンはその隙に突撃した。だが悪魔の動きはもっと速かった。命中する寸前にベルゼンロックは反応し、ギデオンを敷石に叩きつけた。黒き剣がその手から離れ、リリアナは狼狽をうめいた。だがその剣は地面に落ちたのではなかった。それはベルゼンロックの皮膚を貫き、その腿に刺さったまま、闇のエネルギーに輝いていた。
勝利が明白となり、ベルゼンロックは歓喜に吠えると自らの剣を掲げ、倒れたギデオンへと振り下ろした。だがリリアナが飛び出してベルゼンロックの腕をくぐり、黒き剣の柄を握った。
闇のエネルギーが流れ込んで彼女は息を切らし、だが身体を使って悪魔の生命力を剣へと吸い取った。剣の力にとらわれてベルゼンロックは動きを止め、牙が並ぶ口が笑うように開かれた。
《意趣返し》 アート:Yongjae Choi |
リリアナは勝利の思いに悪魔を見上げた。剣がベルゼンロックの生命を吸い取り、皮膚に紫色の光が走った。黒き剣の内にある力は彼女の手に余り、身体を、心を圧倒しかけた。リリアナは歯を食いしばって耐え、ベルゼンロックの身体が剣の下で縮み震える中、闇のエネルギーの流れに乗った。契約悪魔を倒すのは愉快だったが、特にこのようにベルゼンロックを殺すことには喜びがあった。彼女はかろうじて声に出した。「お兄様に手出しをした報いよ」
剣に吸われてベルゼンロックの身体が萎れ、折れ曲がった。不意に剣が手を離れ、リリアナは後ずさった。ベルゼンロックの残骸は白い肉塊へと崩れた。その角だけが無傷のまま、敷石に音を立てて落ちた。
膝の力が抜け、リリアナは雨に濡れた敷石に座り込んだ。ベルゼンロックと同じほどに消耗し、彼女は黒き剣を押しやった。それは石の上に横たわり、得たばかりの力を発しながら暗き満足に輝いていた。リリアナは自らを見下ろしだが、契約文は変わらず皮膚に刻まれていた。彼女は困惑に眉をひそめた。これは消えると思っていた。だがそれも今となっては侘しい願いだったのかもしれない。契約相手が死んだとしても、契約そのものが存在しなかったことにはならないのだから。
その隣で、ギデオンが呆然としながら身体を起こした。「大丈夫か?」 疲労の中、彼は尋ねた。
リリアナは笑みを見せた。「私はとっても強いのよ」
ジョイラはティアナと共に、ウェザーライト号の艦橋に立っていた。その停泊場所からは曇り空の下の要塞と、廃墟と化した陰謀団の防衛網がよく見えた。
ベルゼンロックが死んでアゴロスも消えたが、それが倒されたのか逃げただけなのかはわからなかった。彼女はそれをしっかりと「後で考える」項目に加えた。
その日ずっと、要塞陥落の知らせを聞きつけた多くの霊や人間の抵抗勢力が周辺地域から絶えず訪れていた。ギデオン、シャナ、ラーダが兵団を率いて牢獄を探し、捕われたままの虜囚と負傷者を救出した。冷酷漢、信者、司祭は皆死ぬか沼地へ逃亡した。
《総将軍ラーダ》 アート:Anna Steinbauer |
少なくとも解放されたとはいえ、ラーダが陰謀団に捕われていたことにテフェリーは驚いた。ウェザーライト号は彼女をケルドへ連れ帰り、アーボーグを離れたいと願う他の元捕虜を下ろし、そしてスライムフットと子供達をヤヴィマヤへ返す。テフェリー、カーン、ヤヤはあのプレインズウォーカー達に協力してニコル・ボーラスを倒しに向かうことを決めており、この先は彼ら抜きで旅をすることになるはずだった。
もし自分もプレインズウォーカーだったら、ジョイラはそう思わずにはいられなかった。一緒に行きたかった。だが自分の生きる道はずっとこの地、ドミナリアと共にあった。そして終わらせるべき務めもあった。甲板とその先を見つめるティアナへ、ジョイラは言った。「ラーダや皆を返したら、セラ教会との約束も完了しますね」 彼女は意思を正した。「ティアナさんもセラの聖域に戻るんでしょう、パワーストーンを教会へ返すために」 もしティアナがパワーストーンを持って行くなら、ウェザーライト号は別の動力を調達しなければならないだろう。だが乗組員と別れたくはなかった。彼らはここにいるべき人材、そう思えた。
ティアナの視線は甲板に向けられており、そこではラフとシャナが共に立ってアルヴァードと話していた。ラフが何かを言ってシャナが笑い、彼の肩を叩き、そしてアルヴァードの表情は実に楽しそうだった。スライムフットは子供達を連れて甲板を歩いていた。ティアナは両眉を上げた。「それが約束だったのですか?」
ジョイラは唇を噛んで安堵を隠し、顔に疑問の表情を浮かべた。「そうじゃないんですか?」
ティアナは小さく肩をすくめた。「私は、陰謀団をドミナリアから一掃することだと思っていました。もちろん、ベルゼンロックの死は大きな一歩だと思います。ですがまだ力にすがりつこうとする司祭が世界中にいます」
ジョイラは首をかしげた。「もちろん、その通りです。とはいえそれは何年もかかるでしょうね」
ティアナは視線を合わせ、そして二人とも微笑んで彼女は答えた。「ええ、そう思います。ですよね?」
ジョイラが要塞前の広場にリリアナと共に立ったのは、その日も遅くのことだった。霊たちはほとんどの死骸を片付け、ヤヤは要塞の扉を融かして封じた。とはいえその場所をこれから占拠しようと考える何かを止められるとジョイラは思わなかった。空は変わらず曇り、だが雨は広場の敷石を洗い流していた。
要塞の壊れた扉の前で、ギデオンはチャンドラと共に立ち、ゲートウォッチに加わるテフェリーの誓いを受け入れた。カーンとヤヤもボーラスとの戦いへの同行に了承してくれたが、誓いについてはそうではなかった。カーンはすぐに新ファイレクシアとの戦いに向かうために、そしてヤヤは、彼女いわく「私は独り者がいいからさ」
《テフェリーの誓い》 アート:Wesley Burt |
リリアナは小さくかぶりを振り、言った。「ギデオンとあの誓い。テフェリーはどうやって笑いをこらえていたのかしらね」
ジョイラが微笑んでみせた。「リリアナさん自身は誓った時に笑わなかったんですか? 想像できないんですけど」
「内心では笑っていたわよ」 リリアナは視線をやった。「あなたがいなければ、成し遂げられなかった」
「こちらこそ」 ジョイラは頷いた。「すぐに皆とニコル・ボーラスとの戦いに?」
「ええ。それがギデオンとの取り決めだから」 リリアナは来たる予感に両手をこすり合わせた。「とはいえ今はむしろ楽しみ。ベルゼンロック殺しはいい前菜だったわ」
やがて出発の準備が完了し、ジョイラはテフェリーとカーンに別れを告げた。彼女はテフェリーを抱擁した。「慎重にねって言いたいけど、あなたの事はよく知ってるから」
「その言葉をそのまま返すよ」 彼は微笑みとともに言った。「できる限り早く戻ってくるさ。陰謀団に破壊を振りまくのをしばし楽しんでくれ」
彼女はカーンへ向き直り、鋭利な金属も構わずそれを抱擁した。「気をつけてね。それに忘れないで、ファイレクシアは過去のもの。あなたには大きな未来が広がっているのよ」
カーンはそれには答えず、だが言った。「ボーラスを倒したなら、私もすぐに戻ってくるつもりです」
他のプレインズウォーカー達には既に別れを告げていた。ジョイラは手を振り、ウェザーライト号の甲板への梯子を登った。
彼女は手すりを乗り越え、舵輪のティアナへと合図し、すると船は要塞とけぶる火山からゆるやかに離れていった。シャナとラフ、そして故郷へ帰るラーダ達が船首に立って遠くを見つめていた。アルヴァードが梯子を引き上げるとジョイラは彼の肩を叩き、皆の所へ向かった。
ウェザーライト号が雲の中へ消え、ドミナリアを離れる準備は終わった。リリアナはギデオン、チャンドラ、ヤヤ、テフェリー、カーンと共に立っていた。ようやくジェイスとアジャニが願った戦力を連れて行ける、だが二人が自分の存在を喜ぶかどうかは定かでなかった。
それは乗り越えればいいだけのこと。リリアナは何としてもボーラスの屍を見下ろしたかった。更に言えば踊らせて楽しみたかった、もし全てが終わった時に何かが残っていたなら。
黒き剣は鞘に納められて帆布にくるまれ、ギデオンが背負っていた。剣は今も闇のエネルギーを放っており、リリアナはそれを骨身に感じた。ギデオンは彼らを一瞥し、言った。「準備はいいか?」
「全員、とうの昔にね」 皮肉のような笑みとともに、テフェリーが言った。チャンドラはにやりとし、ヤヤは視線を動かした。カーンはただ頷いた。
黄金の光の嵐の中、ギデオンがまず旅立った。赤い炎を一瞬燃え上がらせてチャンドラとヤヤが続き、そしてテフェリーが青いつむじ風の中に去った。カーンは鋭い金属音を立てて目立たずに消えた。
そしてリリアナは荒廃した広場の敷石に立ったままでいた。煙混じりの微風が髪を揺らした。彼女は自身を見下ろし、困惑した。ギデオンに続いたつもりだった。
《沼》 アート:Titus Lunter |
彼女は再びこの次元から歩み去ろうとし、再び試み、だが何も起こらなかった。「何……どうして……」 恐怖が忍び寄るのを感じた。自覚しないうちに何かがあって灯を失ったのだろうか? 黒き剣のせい? 鎖のヴェールを使い過ぎたから?
広場の塵が持ち上がり、つむじ風にうねった。その大嵐の中心に黒い姿が浮かび上がった。「そんな」 鉄の鎖のように重く嫌な認識に、彼女は息を吐いた。「やめて」
ニコル・ボーラスが闇から実体を現した。鱗のドラゴンの巨体が威圧するように立ち、その純粋な存在の重さが彼女の世界から全ての光と空気を奪った。
「リリアナよ、おぬしは契約文をもっと詳細に読み込むべきであったな。どうやら気付いていなかったと見える。悪魔らが死したなら、おぬしの契約はその紹介者へ、我へと渡る」
ボーラスの顔に満足の笑みが浮かぶと、リリアナは動けず立ったまま、怒りと恐怖に喉を詰まらせた。道理でベルゼンロックを倒しても、皮膚の契約文は消えなかったのだ。契約は今も自分を縛り、だが今、その相手は多元宇宙全てのあらゆる悪魔よりも遥かに悪しき存在なのだ。
衝撃に心が折れそうになった。自由になれたと思っていたのに。私はずっとこいつの手の上で踊っていたの、私を手下にさせるために。達成、悪魔の死、戦い、裏切り、利用、その全てがここに、ニコル・ボーラスへの隷属に繋がっていた。そして愚かなことに、一度たりとてその可能性を考えたことはなかった。
彼女は歯を食いしばった。だったら、従わなかったら?
その思考を読み取ったかのように、ボーラスが言った。「ならぬ。おぬしが我が命令に何らかの形で従わぬなら、契約はおぬしを殺すであろう。一瞬で数百の齢を得て、干からびた抜け殻と化して風に散るであろうな」
しばし、リリアナはそれを考えた。ボーラスに仕えるよりは、死んだ方がましかもしれない。それを彼女は骨身にしみて知っていた。だが彼女の一部は諦めることを拒んだ。ここから逃れる術は、この運命から逃れる術はきっとある。それに死んだとしても自由にはなれない。その思いに、冷たい結論が彼女の内に広がっていった。
抵抗を止めた彼女を、ボーラスは自己満足とともに見つめた。「来るがよい。我らにはすべき事がある」 稲妻が空を裂き、周囲の世界を歪ませ、ボーラスはプレインズウォークした。
心がひどく重かった。長いこと抜け道を求めてきた運命は新たな形を成し、彼女は虜囚のようにそれに束縛されたのだ。リリアナはボーラスの軌跡を追った。
《ボーラスの手中》 アート:Zack Stella |
リリアナ以外の全員は新たな次元へ降り立った。辺りは暗闇に包まれ、彼らが到着した際の様々な光がそれを照らし出した。ギデオンは待ったが、狼狽が次第に増していった。「リリアナはどうした?」
チャンドラは小さな火球を掲げて影を追い払い、到着した小路を更に明るくした。「違う所へ行っちゃった?」
ヤヤが振り返り、目を狭めて暗い空を見つめた。「プレインズウォーカーの痕跡は見えないね。あの子がここに来たとは思えない」
テフェリーは眉をひそめ、カーンと共に懸念の視線を交わした。「見逃した罠があったのだろうか。私達が離れると同時に、要塞に隠れていた何かに攻撃されたか」
カーンが頷いた。「アゴロスは今もどうなったのかわかりません。ベルゼンロックが殺された時に消えたと思いましたが、そうではないのかもしれません」
彼らの予想が正しいことをギデオンは怖れた。「私が戻って――」
「その必要はないよ」 ジェイス・ベレレンが影の扉から進み出た。「言っただろ、彼女は信用できないって。一緒に来る気なんて最初からなかったんだ」
「ジェイス、それは違う」ギデオンは憤慨にかぶりを振った。「リリアナはそうはしない。彼女は変わった」
「そうよ、ジェイス」 心配に額に皺を寄せ、チャンドラが続けた。「ボーラスを殺したがってたし、殺す力になりたがってた。それにボーラスの屍か何か残骸を踊らせたいなんてことまで言ってたのよ」
「そんな純朴に受け取らないでくれ」 皆を見るジェイスの視線は厳しかった。「リリアナは君達を利用したんだ、誰もを利用するように。彼女が言ったことはみんな、嘘だ」
テフェリーはジェイスを懐疑的に見つめた。「彼女に裏切る機会はいくらでもあった、それでも何度も命を賭してくれたよ」
ヤヤは腕を組んだ。「あの子はヤーグルがウェザーライト号を襲った時にジョイラを守った。私がこの目で見たよ。それはそれとして坊や、私を純朴とか言わないでもらいたいね」
「それも全て、悪魔を倒すために皆が必要だったからだ」 ジェイスは確信を変えず、かぶりを振った。「皆は目的に向かうけれど、リリアナにとっては用済みになった。いいか、身をもって学んでもらわないといけなかったのは申し訳ないけど、これが真実なんだ。もう行かないといけない。ここではもう沢山のことが起こってしまっている。ボーラスに対抗できる機会を得られるなら、やるべきことは山ほどあるんだ」
ジェイスは背を向けると影の中へ去った。皆はギデオンを見た。テフェリーが言った。「誰か戻るべきだろう。もし彼女がそこから動けないなら――」
ギデオンは鋭く頷いた。「私が行こう。ここで待っていてくれ」
何を予想していたかも定かでないまま、ギデオンは要塞の壊れた扉の前、敷石の上に戻った。
靄がかった灰色の空の下、彼が見たのは無人の広場だった。ほんの数分前に去った時と同じく、壊れた門の石材と金属の瓦礫が今もそこかしこに散らばっていた。煙が大気に漂い、動くものはなかった。はぐれた霊すらもいなかった。リリアナの痕跡はなかった。
ギデオンは目を狭めて旋回し、霊気の痕跡を探した。少しの後、彼はリリアナのそれが伸びているのを見つけた。彼女はドミナリアを離れ、だが自分も他の皆も追ってはいなかった。
それは不測の鋭さで彼の心を打った。リリアナは変わったと信じていた、確信していた。今でも、この目で証拠を見ても、信じるのは困難だった。一緒に来ると言っていた。何故嘘を? ベルゼンロックを殺したならすぐに去ることもできたはずだった。何故要塞から囚人を解放する間も待っていた? 理にかなっていなかった。
だがそれがリリアナだった。あるいは最後の最後に、心を変えたのかもしれない。もしかしたら、最終的に、古い彼女自身が首をもたげたのかもしれない。
ギデオンは迷い、必死に何かの、リリアナが自分を裏切ってなどいないという痕跡を、希望を探した。だがジェイスが待っており、ボーラスを攻撃する計画は既に動き出していることもわかっていた。皆のもとへ戻らねばならなかった。
はっきりと声に出して、彼は告げた。「どこにいるかはともかく、リリアナ。君は自分の行いをわかっていると私は信じている。そして、また会えることを願う。これは本心だ」
そして彼は踵を返し、ドミナリアから離れた。
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
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