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Magic Story -未踏世界の物語-
眠りにつく時
眠りにつく時
Kelly Digges / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2016年8月3日
ストーリー協力:モニク・ジョーンズ
ケイヤは角に背を向け、脚を組んで座り、扉を見つめていた。無論、このような場所では扉を見張っていると思われるのは宜しくない。そのため彼女は視線を紅茶に向け、一服毎に扉を確認していた。
上質な紅茶だった。濃くて冷たく、蜂蜜がたっぷりと入っている。このような場所で頼める類のものではなかった。ここは「スズメバチの巣」と呼ばれており、後ろ暗い性質の人物と会うには適した類の場所だった。ここで会う予定の人物は地位のある貴族であり、つまり自分と会うことには後ろ暗さがあるということだろう。向こうは決してそう口には出さないだろうが。
アート:Chris Rallis |
彼女のならず者仲間がやって来て、マンドリンの下手な旋律に耳を傾けた。そして誰も他人の様子を長く気にしてはいなかった。酒場、食堂、浴場、大広間――幾多の世界で、こういった場所はどれも同じようなものだった。
彼女は酒場の主人へと硬貨を投げて自分が頼んだのではないその飲み物を下げさせ、そして自分を放っておくようにともう一枚を投げた。依頼人候補は数分遅れているだけだったが、ケイヤは一時間以上に渡って待ち続けており、紅茶をゆっくりと飲みながらこの場所の空気を感じ取っていた。更に一枚の硬貨をマンドリン奏者へと投げて演奏を止めさせようかと考えていたその時、接触予定の人物が入ってきた。その男は菖蒲の襟留めを付けていた。ケイヤが探すように言われていた目印、だがそれを見るまでもなく彼女は気付いた――粗末な衣服の下、その男の動きは無駄がなく訓練されていた。ケイヤは密かに目を丸くした。
ケイヤからは自分の上着を見るようにと伝えてあった、都市内では目立つ様式のそれを。この地は温暖で、ケイヤは常に上着のボタンを外してその下の緩いブラウスを見せていた。だが襟留めの男は彼女と目を合わせ、まっすぐに向かってきた。なんて慎重な!
アート:Josu Hernaiz |
その兵士はケイヤの卓までやって来た。彼女は動かず、ただ片手で彼へと座るように示した。だがそうはせず、その男は卓に乗り出して言った、「狩人か?」
「その通りです。あなたは雇い主ではないようですが」
「閣下は今からお会いになられる」 男はそう言って、階段を示した。「上だ」
でしょうね。閣下などと呼ばれる者はこのような場所には決して姿を現さない。裏口から来たのだろう。
ケイヤは流れるような動きで立ち上がり、微笑んだ。
「案内して頂けますか」
その男は眉をひそめ、彼女を案内するように階段へ向かって歩きだした。ケイヤは階段を昇りながら上着のボタンを留め、短い廊下を通過した。その廊下の突き当たりで、男は他と然程変わらない扉を二度叩き、そして開けるとケイヤに入るよう示した。
部屋は狭苦しく、寝台があるべき場所に小さな机が置かれていた。机の向こうには彼女が会う予定だった者がいた。エミリオ・レヴァリー、まあまあの影響力を持つ貴族一家の三男。その背後には身なりの良い召使が二人、注意を払いつつ立っていた。恐らくはこの奇妙な机をここまで運んだのも彼らなのだろう。
レヴァリーは油ぎった髪で、上質な衣服をまとっていた。気取った無鉄砲な若者のような様子で座っていたが、顔の皺と顎回りの皮膚の緩みから彼は三十、いや四十歳程だろうと推測できた。彼は貴族らしい人当たりよく寛大な笑みを浮かべたが、暗く鋭い目はその神経質さを体現していた。
「座ってくれたまえ」 彼はそう言って、指輪でけばけばしく飾られた手で机近くの椅子を示した。その一つは彼個人を示す印章指輪、他は高価そうな宝石だった。
襟留めの男は扉を閉め、机の隣で護衛の位置についた。
ケイヤは扉を背にして腰かけた。好みの位置取りではなかった。彼女は椅子に背をもたれた。
「レヴァリー様でいらっしゃいますね」 彼女は適切な敬意を込めて言った。
「いかにも。どのようにお呼びしようか、失礼だが――」
「ケイヤで結構です」
実際のところ、ケイヤ自身も高貴な血筋の出だったが、彼女も家族も堅苦しく振る舞ったことはなかった。故郷の次元を離れて以来、家柄を言及する理由は全く見いだせなかった。ただ自分がそう知っていれば良いだけだった。
「それでは」 彼よりも先に、ケイヤは口を開いた。「私はどういったお役に立てるのでしょう?」
彼女の仕事を誤解する雇い主候補もいた――彼らは窃盗や諜報活動、もしくはありふれた暗殺のためにケイヤを雇おうとした。彼らを見限ることに後ろめたさは無く、そうするか否かを決める会話の最中に彼らの認識を正すこともしなかった。
レヴァリーは居心地悪そうに身動きをした。
「少し前の事だ。愛する母の死に際し、私はこの街にある母の土地を相続した。兄である公爵が快くもここで母に老後を穏やかに過ごさせていたものだ。その邸宅は今や私のものだ。私は喪に相応しい期間を待った上で、その家を改築すべく職人を送り、居住の準備をしようとした」
レヴァリー家の地所はあのパリアノにあった。公爵の弟として、エミリオはそこに自由に滞在できた。だがこの邸宅は僻地にあり、何十人もの兵士や大家族を二つ住まわせられるほど広大で、甘やかされて育った貴族とその従者にとってはこちらの方が遥かに快適の筈だった。
「その改築計画は想定よりも長くかかっているとお聞きしました」
彼女はあらゆる場所で耳をそば立てていた。街ではその改築の遅れについて様々な噂が渦巻いていた。レヴァリー様は資金が尽きたのだ。内装がいつまでも決まらないらしい。奥様が内装をいつまでも決められないらしい。あの家は取り憑かれているとか。呪われているとか。あの家は呪われていると占い師もどきの詐欺師が吹き込んだが、本当のところは......等々。彼がケイヤを雇おうとしたという事実から、その噂のうちどれが真実なのかが大体推測できた。
「かなりな」 レヴァリーは続けた。「当初は些細なものだった。道具が無くなり、修理した箇所が元に戻る。作業員の怠惰と田舎者の迷信と思ったが、事態は悪化するばかりだった。今や私も確信している、あの家は取り憑かれていると。作業員は幽霊を怖れて日中ですら行こうとしない。そして人々は噂をしつつある」
死の帳の向こうから、彼に遺恨を抱く死霊がやって来て、そして彼はその名声を懸念している。
ケイヤは尋ねた。「そして......その幽霊というのは」
レヴァリーは身悶えた。
「......お母様の死の直後から現れ始めたのですか?」
彼は背筋を伸ばした。
「霊の正体など君の知る所ではない。重要なのは私の家に幽霊がいて、それを追い払いたいという事だけだ。君にはそれが可能だと聞いているが」
器の小さいお貴族様の本性。自分の母は決してそのような話し方を許さなかった、相手が家族でもそうでなくとも。
「確かに可能ですが、レヴァリー様、私は単なる害虫駆除屋ではありません。そして幽霊は害虫の類でもありません。貴方の幽霊がどのような類のものかを推測する為に、私は事情を知る必要があります」
彼は顔を紅潮させたまま、頷いた。
「推測の材料はある。母は......ずっと屋敷から離れたがらなかった」
《人殺しの隠遁生活》 アート:Cliff Childs |
「成程。その理由にお心当たりは?」
「母はこの家に何十年も執着していた」 レヴァリーは吐き捨てるように言い放った。「いつでも私に譲ることはできるし、母はそうする気でいると私も思っていた。だが違った。あの家は母のものであり、譲渡する気は無いらしかった。だから私は待った、辛抱強くな。今や母は亡くなり、私は弔い、そして私の番だ。あの家が欲しいのだ」
ケイヤはゆっくりと頷いた。
「レヴァリー様、同情致します。この仕事、お受けしましょう」
「ありがたいことだ」 彼は辛辣に言った。
ケイヤはそれを無視した。この閣下は自分の要請を値踏みされることに不慣れなのかもしれない。事実、彼女は既にこの男に嫌悪を抱いていた。だがこの不快な貴族から金を受け取って、機会を与えられたというのに務めを果たそうとしない魂を世界からもう一つ駆除するというのは喜ばしい仕事なのかもしれない。
「お屋敷の図面をご用意して頂けますか?」
召使の一人が木製の筒を手にして踏み出したが、レヴァリーは片手を挙げて制した。
「用意してある。元の図面と新しいものと。だが私は疑問に思わずにはいられない......何故これが必要なのだ。これを欲するのは幽霊狩りではなくむしろ泥棒ではないのかと」
ケイヤは笑った。
「私を泥棒とお呼びになるのですか?」
「いや、その――つまり、他に何に使うというのだ?」
彼女は身を乗り出した。
「私を信用なさらないのであれば、ご自宅に私を入れないことです。別の雇い主はいくらでも見つかるのですから。そしてお選び下さい、私のこの稀な能力を備えたどなたかを探すか、もしくは愛しいお母様の霊とずっとご一緒に生活なさるか」
「その必要はない」 レヴァリーの声は硬かった。「さっきの言葉に深い意味は無い」
「それでしたら」 ケイヤはそう言って木製の筒を召使の手から受け取り、片腕で抱えこんだ。「その霊は家のどこか特定の場所を好みますか? お母様の私室、もしくは亡くなられた部屋など」
「母は家の至る所で目撃されている」 レヴァリーはそこで言葉を切って熟考し、やがて再び口を開いた。「だが聞いた所によれば......東棟の二階。母の私室ではない。死んだ場所かもしれん」
「ご自身でその幽霊を見たことはおありですか?」
「ない。信頼できる報告を受け取って以来、私はあの家に足を踏み入れてはいない。明確な理由から」
「明確な?」
「私は侵入者、であろう? 老いぼれた意地悪婆が財産に固執しているとしたら、誰よりも私を排除したいのは確かだ」
「かもしれません。他に私が知っておくべき事はありますか?」
「私が考える限りでは無いな。今夜行ってくれるのかね?」
「明日の夜に」 ケイヤは図面の筒を軽く叩いた。「適切な準備には時間が要りますので」
「宜しい。事が終わったなら直ちに私に知らせるように、時間は気にしなくて良い。母が安らかに、そして真に眠りについたとわかれば、私は遥かに深く眠れるだろうからな」
「仰せの通りに。それでは、残る問題は支払です。半額を前払いで、書簡でお伝えした通りに」
「ああ、そうだな」 あからさまな嫌悪とともにレヴァリーは言った。
彼は机の下から鞄を取り出し、ケイヤは中を見ずにそれを受け取った。この男に自分を騙すような図太さは無い。
「私が間違っていた。この値段を思うに、君は泥棒ではない。払わせ屋だ」
「それを言うなら祓い屋です、閣下」 満面の笑みとともにケイヤは言った。「霊をはらう、のですから。正しくは」
彼女は金と図面を手にして立ち上がり、その貴族へと大仰に頭を下げ、そして立ち去った。
翌日の夕方、ケイヤは目を覚ました。沈む夕日の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。昨晩彼女は宿屋の小さな部屋で過ごしていた。冷えた茶を飲みつつ邸宅の図面を調べ、そして昼の間に眠った。日中に幽霊を狩るというのは無意味でしかなかった。あるものは出現せず、もしくは出現できない。そうでない幽霊も、日中の時間には実際に戦える程の実体を持たない。
ケイヤは蝋燭を灯し、あくびをし、椀の水で顔を洗った。そして古いバラッドを口ずさみつつ図面を広げ、眠っている間にもつれた髪を解きながら、最後にもう一度それを確認した。
その図面に驚くべき所は何もなかった。高地トロスカン式邸宅の典型であり、アンヴァー時代の装飾が後から幾らか加えられていた。パリアノのやや流行遅れの小貴族が持つ、この時代の邸宅としては全くもって定番と言えるものだった。改築はかなりの挑戦と思われた――レヴァリーは元の設計と建築家が進めようとした計画の両方の図面を提供していたが、作業員が逃げ出すまでにどれほどが進んでいたのかは知り得なかった。
彼女は上着をまとい、二本の円錐形ダガーにしっかり油が差されていることを確認し、上腕の鞘にしっかりと収めた。そして蝋燭。彼女はそれを吹き消すと蝋を小皿に移し、二本の小さな塊に形成すると上着のポケットに押し込んだ。
そして姿見で自身を確認した。休息十分、準備万端の幽霊狩りの姿があった。あるいは気取りすぎだろうか。
アート:Chris Rallis |
小さな扉を出て階段を降りると、滞在している宿屋の共用部屋があった――スズメバチの巣よりは良質な。その主人、片目の恰幅のよい女性が手招きをした。
「手紙だよ」 彼女は言って、印のない封筒を手渡した。「確かに渡したからね」
ケイヤは眉をひそめた。ここの自分に接触する方法を知る者の名簿は長くはない。彼女は封筒を開き、その中の一枚の紙を広げた。それは正確には手紙ではなかった。事実、そこには全く何も書かれてはおらず、ただ印章だけがあった。黒薔薇。
心臓が高鳴った。時が来たのだ――とても大きな仕事の時が、昨年以来準備してきた仕事の。次の大きな支払の出所が何かはわかっていた、そして......きっと上手くやれるだろう。
彼女は銅貨を投げて女主人に感謝を告げ、弾む足取りで扉を出た。
黄昏が完全な闇になる頃、ケイヤは邸宅に到着した。レヴァリーの付き人の一人が門と邸宅の扉を彼女の為に開け、そして全速力で逃げ去った。マホガニー製の両開きの扉が大きな軋み音を立てて動いた。彼女は重苦しい決心とともに背後でそれを閉じ、ポケットから蝋の塊を取り出して耳に詰めた。これが必要だという直感があった。
《ムーアランドの憑依地》 アート:James Paick |
手を振ると、三つの鬼火が指から弾け出た。それら真の鬼火ではなくただの光だったが、まるでそれ自身の意思を持つように彼女の周囲を舞い、玄関に冷たい光と深い影を躍らせた。
ケイヤは玄関を過ぎ、客間に入った。押し殺した足音が静けさの中にこだました。高い天井からはシャンデリアが吊るされており、彼女はその真下を避けて通ることを選んだ。湾曲した階段の一つは現代風の様式で、新しいものだった。もう一つの階段は傷だらけで修理されていなかった。その場所全体が埃っぽく、古い時代の匂いがした。彼女は散乱した職人道具、割れた皿、そして切り裂かれた絵画をまたいだ。そう、愛しのお母様はああいった幽霊の一体に成り果ててしまわれた。
「ねえ!」 彼女は声を上げた。「幽霊さん!」
その声は無人の廊下に響き渡り、毛足の長い絨毯に宥められ、そして消えて静寂が戻った。
いいじゃないの。
注意深く、鬼火を背後に上下させながら、彼女は曲がった階段を軋ませながら一歩また一歩と昇った。階段最上段のバルコニーで立ち止まると、右手には館の西棟が続いていた。寝室、召使の居住区、そして貴族生活のための数々の快適な設備。左手には東棟があり、その構造は西の鏡写しながら客室、居室、図書室がごたまぜに寄り集まっていた。
彼女は歩数を確認しつつ、確固たる歩調で左へと向かった。どのような幻が東棟を守っていようとも、相手を見つける最高の手段はその縄張りを直接脅かすことだった。
バルコニーの先は長い廊下で、片側には居室が並び、終点には巨大な両開き扉があった。向かい側の壁の先は、図面によれば長く窮屈な召使用通路が走っている。ここに改築はなく、絨毯の敷かれた床は綺麗なものだった、怯えた執事が落として砕けた茶器以外は。ケイヤはそれを迂回した。
「そこにいるんでしょう!」
この時は冷たい風が廊下を吹き抜け、同時に甲高い泣き声があった。一度にあらゆる方向から聞こえてきたように思えた。
「気味悪すぎ!」 ケイヤは口に出して言った。「窓をガタガタ言わせたいの? 皿を投げつけたいの?」
ほとんどの霊は生者を憎んでいる。そしてそのほとんどは挑発されれば怒り狂う。
廊下を渡り切ろうとした時、まるでカーテンが勢いよく開かれたように霊が現れた。老女のような姿で、半透明に輝き、死と怒りに歪んでいた。振りまわす腕の先端は鋭い鉤爪で、その肩掛けが尾のように長くかき消えていた。上品な老女であった顔には針のように鋭い歯が並ぶ大口が開いていた。彼女は廊下の先の両開き扉の傍ではなく、壁に並ぶ扉の一つの外に浮いていた。ケイヤはその位置を記憶した。
《貴族階級の嘲笑》 アート:John Avon |
「見つけた!」 ケイヤが叫んだ。
その幽霊は彼女へと悲鳴を上げた。突き刺すような悲鳴はまるで物理的な力のように彼女を叩きつけた。扉が音を立て、どこかでガラスが割れた。ケイヤはひるんだ――だが耳栓のおかげで、それだけで済んだ。
彼女は円錐形のダガーを抜き、その刃を物質から死の領域へと押しやった。それらは紫がかった白色に輝き、手の中で冷たさを増した。
「さあて、お楽しみは終わり。出て行って頂戴、そして戻って来ないで」
幽霊は再び悲鳴を上げ、突進した。
ああそう。言葉による説得が上手くいった試しはなかったが、彼らには黙って去る機会を与えるべきだとケイヤは思っていた。
廊下は狭く、幽霊が振り回す鉤爪を避ける余裕はなかった。ケイヤは図面を思い出し、指を走らせ、歩数を数えた。左は図書室。良くない。騒霊が自由に使える物が多すぎる。ならば右。召使用通路。きつくて狭い。
《吠えたけるバンシー》 アート:Andrew Robinson |
ケイヤは「お母様」の攻撃が届くまで待ち、そして右へと跳んだ。
これは......楽しいものではなかった。
彼女はダガーを掴む手から始めた。朧な光と死のような冷たさが腕に広がり、ほぼ肩にまで達し、そして手とダガーと全てが、死の領域へと入り込み、壁を通り抜けた。肩が通る頃には、彼女の手は召使用通路の中にあった。そしてその手を物質に戻し、生者の領域への錨とした。
朧な光は彼女の頭部と身体を鮮やかに冷たく貪った。彼女は痕跡を残しながら腕と脚を引き寄せ、生者の世界へと身体を戻すと、今や物質化した肩が狭苦しい通路の壁に叩きつけられた。その動き全てが、恐らく、鼓動一つほどの間に行われた。そのように死の領域へと踏み出す時、彼女の心臓は実際には動いていない。そのため長く留まる気はなかった。
彼女は振り返ると急いでまた壁を通り抜け、広間へと入った。霊は混乱し、一瞬前にケイヤが立っていた場所に肩掛けをなびかせて飛んでいた。
彼女はダガーの一本を輝かせ、その肩掛けを壁に突き刺した。
幽霊はよろめいて止まり、叫び、そして振り返って死者の白い瞳で彼女を見た。
「こんにちは」 ケイヤは挨拶した。
幽霊は鉤爪で攻撃し、だがケイヤはそれをもう一本のダガーで防ぐと、それを幽霊の節くれ立った掌に突き刺した。死んだ目が見開かれた。
これは楽しい所――死ぬのことのない、実体のない霊が、戦える者がいることに混乱しつつ実感するのを見つめるのは。
「お母様」は吼え、呻き、身をよじって肩掛けを引き裂くとケイヤのダガーから抜け出した。肩掛けと手がきらめく煙の跡を残した――幽霊の血のようなもの。そしてその幽霊は離れ、身を翻して廊下の天井を抜けた。
ケイヤは幽霊にできる事の多くが可能だが、それは無理だった。彼女は踵を返して幽霊が最初に現れた扉へと駆けた。
「お母様」が前方の床から現れ、ケイヤは左に身を投げた。壁の向こう、図面では寝室の類と思われた中へ。そこは改装が予定されていたが、徹底的なものではなく――
その寝室に床はなかった。突き出た梁に囲まれた穴が開いているだけだった。その端を越える直前、作りかけの螺旋階段をケイヤは垣間見た。これは図面にはなかった。
秘密! どうして貴族っていつも秘密を持っていようとするの?
ケイヤはダガーの一本を落とし――鞘にしまう余裕はなかった――そして身体を曲げ、自由な右手で梁の一つを掴んだ。ダガーは音を立てて下階の床に落ちた。
鬼火の光が追い付いてくると、彼女は状況を確認した。両足は凹凸のある床から恐らく6フィートほど上に揺れており、全体重を支える手が痛んだ。目の前1フィート半ほど上に、階の間に何かの狭い空間があった。彼女は自由な手でダガーを収めた。恐らく足首をひねることなく着地できるだろうが、そうでない可能性もある――そして無事だったとしても、下階に戻ることになる。
頭上では、霊が悲鳴を上げながら壁を通り、そして一瞬の混乱に止まった。肩掛けの尾がじれったい近さに揺れた。ケイヤは一度、二度、大きく身体を揺らした。常に計画を立てておくこと......
......けれど決してそれに頼らないこと。彼女は角材から手を離し、死の冷たい領域に触れ、そして透明な手を透明な肩掛けへと伸ばした。
彼女に掴まれて幽霊は驚愕して1、2フィート下によろめき、うめいて回転した。そしてその侮辱的行動に悲鳴を上げ、ふらつく軌跡で三階の寝室と思われる部屋へと向かった。ケイヤは長く掴まっている気はなかった――その幽霊は不快な類の場所まで引きずって行くかもしれない、例えばまっすぐ上方向に。彼女は幽霊の回転を見積り、跳躍の機会をうかがい、そして幽霊の尾を放した。
彼女は寝室もとい穴の横壁を抜け、身体を丸めてその先の部屋の床に転がった。幽霊狩りに軽業がどれほど必要かを人々は侮る傾向にある。
ケイヤは急ぎ立ち上がり、残ったダガーを抜いた。歩数は忘れていたが、正確に見ていたなら、ここは幽霊が現れた扉の部屋だった。
その部屋は喫茶室のようで、だが完全に破壊されていた。砕けた家具がそこかしこに横たわり、床には壊れたガラスと陶器の破片が散らばっていた。そして片隅に、瓦礫の小さな山......
ケイヤが全てを把握した時、「お母様」が金切り声とともに壁を通り抜けてきた。
東棟。母親の私室ではなく。狭い空間。そしてここにあるのは奇妙な瓦礫の塊、他は全く正常の部屋の片隅に、幽霊がとても気にかけているらしき部屋の......
ケイヤは戦闘体勢をとり、淡い光に輝くダガーを目の前に掲げた。霊は進路を変え、吼えた。ケイヤは霊に傷を与えられる者、それを鋭く察していた。
「待ちなさい!」 ケイヤはそう言って、部屋の隅へじりじりと向かった。
多くの霊は理に適う怒りや悲嘆によって歪みきっている、だがあるいは......
「お母様」はまたも叫び、ガラスと陶器の破片が床で鳴った。
部屋のあらゆる破片が自分を狙って飛んだ。ケイヤは倒れた重い食器棚の背後へと身を投げ出した。破片は棚に激突し、だがその幾つかが髪に刺さったのを感じた。「お母様」はすぐ背後に......
ケイヤは部屋の隅へと跳び、壊れた肖像画を垣間見た。更に幾つかの装身具と、長く深い引っかき跡のある床板......
「待てって言ったの!」 ケイヤは声を上げ、片手を突き出した。「わかったのよ!」
この時、幽霊は動きを止めた。
目を幽霊から離さずにケイヤは瓦礫を除け、ぼろぼろの床板の間にダガーを突き刺し、こじ開けた。床板の一枚を引き上げ、そして次の一枚を。
そこに、その狭い空間にあったのは、老女のしなびた屍だった。その幽霊は泣き叫び、だがその声は怒りではなく悲嘆に聞こえた。ケイヤはその屍を、そして幽霊を見た。明らかによく似ていた。
《グール呼びの共犯者》 アート:Dave Kendall |
ケイヤは脇に避けたものを見た。男物の装身具、指輪とカフスボタン。ぼろぼろに引き裂かれた男物のシャツ。同じく裂かれた、気取った様子の貴人の肖像画。そしてその装身具の中には......
印章指輪。見覚えのある印章指輪。
「あいつ――」
レヴァリー宅の謙虚な玄関は隅々まで照らし出されており、そしてそこに幽霊はいなかった。ケイヤは爪先で床を叩きたくなる衝動を抑えて待っていた。彼女は手で髪をすき、陶器のかけらを見つけだし、もう残っていませんようにと思いながらポケットにねじ込んだ。何にせよ、頭皮が傷つくよりは髪が痛んだ方がまだましだった。
真夜中近くだったが、彼女は通された。そして遅い時間にもかかわらず、レヴァリー自身が玄関に現れた。彼は完全に身支度をし、更にコートを着込んでいた。
「終わったのか?」 尋ねるその両目には強欲がぎらついていた。
「レヴァリー様、今夜よりお母様は安らかな眠りにつかれるでしょう」
「連れて行ってくれ。あの家を見たい」
「私を信頼して下さったのではありませんか?」 憤りを隠さずにケイヤは言った。
「君は価値ある奉仕をしてくれた。支払をする前に君の仕事を確かめたい」
「わかりました。ですが支払金は持ってきて頂けますでしょうか。私はこちらに戻ってくるつもりはありませんので」
「いいだろう」 レヴァリーは冷淡に言った。
徒歩でも長い距離ではなかったが、レヴァリーは乗り物を使用することを決め、前方の座席に運転手と護衛が一人ずつ、そして中にケイヤと彼自身が乗り込んだ。レヴァリーは彼女の仕事について一連の質問をした。それは純粋な好奇心と、多くの貴族に共通の確信から発せられたものだろうとケイヤは思った。その気になれば全てを思い通りにできるという。
「何か......残るのかね? 殺した後には」
「幽霊それぞれで違います」 ケイヤは返答した。その質問を受けたのは初めてではなかった。「今回の場合は、そうですね、物質的な残滓が」
「ああ、それは是非見よう。それは......埋葬した方が良いものか?」
「それはそちらの信条の問題です。私はそういった件に詳しい除霊師ではありませんので」
ケイヤ自身の行為はある意味、生と死の自然法則をかき乱す冒涜のようにも思えた。だが異なる信条から見れば、自然法則を乱しているのは幽霊の方であり、ケイヤはそれを正しているのだと。彼女は同じ行いをしながらある土地では称賛を浴び、ある土地では追い払われた。ある世界における死者の究極の運命が何であろうと、生者の周囲をうろつき、迷惑をかける彼らはその運命を全うしていない。それがケイヤ個人の信念だった。
《悲惨な旅》 アート:James Paick |
レヴァリーは満足げに頷いた。彼女が思うにこの貴族が抱く信条とは、強制されない限りはもう一度葬儀に金を出したくないとでも言うべきものだった。
彼らは邸宅に到着した。護衛、運転手、そしてケイヤの報酬を乗り物に残し、レヴァリーはケイヤに続いて扉に向かった。彼は角灯を持っており、そのためケイヤは鬼火を出さずに済んだ。
玄関の様子は以前と変わりなかった。レヴァリーは瓦礫を眺めて文句を呟いた。
「この惨状を片付けて改築を再開するのに一か月はかかるな。作業員を戻って来させられるかどうか」
彼はケイヤへと向き直った。
「君はええと、仕事を証言できるか? 作業員に、戻っても大丈夫だと言えるか?」
「それは交渉次第ですね」 ケイヤは言った。それはただレヴァリーに再び文句を呟かせるだけだった。
二人は階段を昇り、レヴァリーは神経質な若い狩人が森で最初の夜を過ごすように、落ち着きなく角灯を揺らした。彼は階段の最上部で立ち止まった。
ケイヤが言った。「東棟を調査されたいのですよね。頂いた情報はとても有用でした。そこでお母様を見つけることができました」
「ああ。ああ、勿論だ。それと......本当に安全か?」
「御自宅のように安全です、閣下」
彼は頷き、角灯を揺らしながら慎重に東棟へと忍び入った。彼は微風一つに、床板の軋み一つごとに飛び上がった。ケイヤは彼の隣を進んだ。
「ここです」 ケイヤは言って、閉じた扉を示した。老女の死体を発見した部屋。
「ここが?」
「ここでした」
レヴァリーの呼吸が速くなった。
「先に入れ」 彼は言った。
ケイヤは安心させるように微笑み、扉を開き、踏み入った。レヴァリーは扉の向こうから覗き見て、ゆっくりと入った。彼が角灯を高く掲げると、部屋の壊れた家具の影が狂ったように伸びた。
とても静かに、ケイヤは彼の背後で扉を閉めた。
「それで」 乾いた喉から彼は声を出し、周囲を見た。「ここに何が――」
彼はケイヤが床板をはがした角を凝視し、そして彼女へと振り返った。
「これは何だ? 何をしてくれた?」
「貴方が何をしたのかは知っています」 ケイヤの声は小さく、整然として、穏やかだった。
レヴァリーの顔は赤く、その血管が膨れていた。
「私を強請ろうとしたのなら――」
「親殺しから求めるものはありません」 ケイヤは言って、彼の肩の向こうへと頷いた。「貴方が憂うべき存在は、私ではないでしょう」
「お母様」が現れた。悲嘆に満ち、死を越えて、強情な息子の背後へと。レヴァリーは振り返り、ケイヤは耳を塞いだ。
《ホロウヘンジの霊魂》 アート:Lars Grant-West |
「馬鹿な。嫌だ、悪かった、母さん――」
幽霊は叫び、レヴァリーは膝をつき、頭を抱えた。角灯が床に音を立てた。ケイヤがそれを拾い上げて吹き消すと、部屋を照らし出すのは死者の冷たい光だけとなった。
レヴァリーは膝をついたまま彼女へと向き直り、目を見開いた。
「助けてくれ、金なら払う――倍払う!」
「あなたのお母様でしょう。くたばりなさい」
母の霊はケイヤも認める劇的な嗅覚で息子を認め、ゆっくりと近づいていった。レヴァリーは肘で後ずさったが、閉じた扉にぶつかった。
「嘘つきめ!」 彼は叫んだ「お前には金を払った、こ、こ、これを片付けるために! 止めろ! 仕事をしろ!」
「事情により、不履行とさせて頂きます」 ケイヤはそう言った。正確には彼女は嘘をついてはいなかったが、実際に仕事を果たしてもいなかった。「部下の方々には伝えておきます、支払の半額はいらないと」
彼はうなり声を上げてケイヤへと突進したが、彼女の脚は霊となり、彼はそのまま通り抜けて彼女の背後に奇妙な悲鳴とともにのたくった。
「頼む――」
そして泣き叫ぶ母の霊が、その針のような歯と鋭い鉤爪で迫った。ケイヤは白紫色の光を閃かせると閉じた扉を通り、母と子のその悲しくも気の毒なやり取りから離れた。そして上着を直し、背を向け、立ち去った。
背後で、エミリオ・レヴァリーの叫びが上がった。そしてケイヤが階段を降り、崩壊した玄関を通り、館の分厚い木製扉をくぐり、その先の夜に消えてもまだ叫び続けていた。
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