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Magic Story -未踏世界の物語-
聖トラフトと空駆る悪夢
聖トラフトと空駆る悪夢
James Wyatt / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2016年7月13日
前回の物語:復讐作戦
最後にサリアとオドリック、グレーテを見かけた時、彼女らはアヴァシン教会の中枢である月皇評議会に潜む邪悪から逃れ、ガヴォニー近野地域の人里離れた教会に集合していた。サリアは友人らへと聖トラフト騎士団を紹介した、悪魔と戦ったことで知られる古の聖者の名を冠した――そして文字通り彼から霊感を与えられた聖戦士の一団を。サリアは自ら聖トラフトの器となり、その聖なる力を武器として反逆の兵士、聖戦士、そして聖職者のごたまぜの軍を率いて、心臓部の腐敗した教会に代わって任務を全うしている。
だが今、世界は変わってしまった。アヴァシンが死んだなら、アヴァシン教会の残骸は果たして任務を全うできるのだろうか? そして世界が滅亡の瀬戸際にぶら下がる中、どのような力が彼女らを支えられるというのだろうか?
「報告はごく僅かでした」 グレーテが言った。「その半分は矛盾しています」
サリアは溜息とともに頷いた。「哨戒が戻ってこないことはあります。そして、報告を行える状態でないことも」 昨日、行軍に戻ってきたハルミグを思い、何かが彼女の胃袋の中で悶えた......彼は変わってしまっていた。サリアは彼を、もしくは彼が成り果てたものを殺さざるを得なかった――人間よりも遥かにのたうつものを。彼が哨戒任務で何に遭遇したのか、そして彼の命令下にあった兵士らに何が起こったのかは、推測することしかできなかった。
「ハンウィアーが壊滅したというのは真ですか?」 グレーテは尋ねた。
「真実は、遥かに悪いものです」 眉を上げたグレーテを見ないふりをしながら、サリアは乗騎の輝く毛皮に指を滑らせた。グレーテは追及しなかった。
それぞれの思案にふけりながら、彼女らはしばし沈黙のまま馬を走らせていた。前回、軍がスレイベンへ進軍した時をサリアは思い出した。あの時はセカーニ姉弟によって創造されたグールとスカーブの大軍に蹂躙されていた。今、彼女は突き進む大軍の一員だった――その僅かな兵らを軍と呼べるのであれば。彼らはある意味ゾンビのように見すぼらしく汚れ、ここ数週間の耐え間ない戦いによって消耗していた。世界は狂気に飲み込まれつつあるように思われた。だが自分達が息をしている限りは、ほんの僅かな希望にしがみついていられる間は、戦うつもりだった。
もしくは、自分達のほとんどは戦うつもりだった。オドリックは残留していた。月皇評議会に歯向かってサリアを虜囚から救い出した後、彼の心は折れてしまった。サリアは悲しんだが、彼を鼓舞するために自身の信念を消耗している余裕はなかった。
「セッタと審問官が任務を続けているそうです」 しばしの後、グレーテが口を開いた。
サリアは鼻を鳴らした。「見つけてごらんなさい」 月光評議会に背き、オドリックとグレーテと共にスレイベンを脱した後、セッタという名の熱狂的な審問官が捜索隊を率いていた。「悪を粛清せよ!」という鬨の声とともに、彼女は移動式のギロチンを引いた行列の先頭で移動していた。処刑用具を引く牛の足は遅く、そのため彼女は聖トラフト騎士団の位置を把握していなかった。一方で騎士団は、審問を怖れる必要はほぼ無いほどに戦力を拡大していた。
グレーテはかぶりを振った。「彼らは今や贖われし者を名乗っています。あの変質は、身体から罪が清められた証なのだと」
サリアはむかつきに唇をかみしめた。「美徳を見出そうとしていると......あれに?」
グレーテは頷き、前方の道をまっすぐに見据えた。
「どこまで堕ちてしまったというの」 サリアは言った、半ば自身に向けて。
「だとしたら、何なのでしょう?」グレーテが尋ねた。「つまり、それが美徳でないなら、原因は?」
「見つけられる答えがあるとしたら、それはスレイベンにあるのでしょう」
彼女は訝しんだ、そこで何を見つけられるのか――あの都市で、大聖堂で。心臓は早鐘を打ち、長年の家でもあったスレイベンを思うごとに胃袋が更に激しく悶えた。もしも、あの地も人々と村が一つの存在へと融合した、あのハンウィアーのようになっていたとしたら? 救えるものが何も残っていないとしたら? もしも、アヴァシンが本当に......
《のたうつ居住区、ハンウィアー》 アート:Vincent Proce |
小道の前方で、馬の隣に独り立っている者がいた。サリアが頷きかけると、グレーテは馬に拍車をあてて駆け出した。サリアは乗騎の頭部に身を傾け、そのグリフは翼を広げて優雅に宙へと舞い上がり、グレーテの駆る馬を追い抜き、地面の塵を乱すことすらせずにレム・カロラスの隣に着地した。
レムもまたかつては教会の忠実なしもべ、審問官の刃だった。だが天使の狂気が彼を変えた。彼は常に厳格に、生真面目な能率をもって義務を全うしていた。だが彼は早くにその称号を捨て、その名高い刃をイニストラードの真の脅威へと向けた。今や誰もが彼を「天使殺し」と呼ぶが、彼自身はその称号を名乗ってはいなかった。そしてその件について話したことはなかったが、彼の信仰は、最初に殺した天使とともに死んだのだろうとサリアは半ば確信していた。
彼らの横でグレーテが馬の手綱を引くと、レムは鞍の脇から二本の紐を切り、長い金属の軸が重い音を立てて土の地面に落ちた。その先端はぎざぎざに欠けていながらも、見紛うはずはなかった。アヴァシンの槍。
「本当だったの」 サリアが呟いた。
「あなたが......?」 思わず、グレーテは尋ねた。
レムはあざ笑った。「私を買いかぶりすぎているな。誤解しないで欲しい、可能ならば私がやっていた。だが何者かに先を越されたようだ」
サリアの心が鉛のように重くなった。彼女はグリフの背から滑り下り、その槍の隣にひざまずいた、まるで胸中の重さに引きずり下ろされたかのように。グリフが鼻をすりつけると、その顔は濡れていた――涙? グリフも自分のようにアヴァシンを悼んでいるのだろうか?
彼女は身を引きずるように進み、槍へと手を伸ばした。
レムは叫びかけた。「それは――」
サリアの手が金属の柄に触れると、そこから聖なる光の閃きが炸裂した。苦痛が腕全体に走り、彼女は素早く手を引いた。
「――やめた方がいい」 レムは無感情に言い終えた。「この老ジェッダに吊るすまでにも延々とかかった。触るな」
サリアは彼の言葉を無視し、連れの霊へと尋ねた。『できますか?』
聖トラフトの力が背骨を震わせ、彼女の手が柔らかな白い光を帯び始めた。身体が軽くなるように感じた。アヴァシンと共にあろうとも、共には無くとも、世界はまだ失われてはいなかった。
彼女は再び槍へと手を伸ばし、この時は手で軸を固く握りしめた。そして立ち上がり、槍を頭上へと掲げると、その先端は曇った空の下の太陽のように輝いた。レムは唖然として口を開き、サリアは彼へと笑みを向けたくなるのをこらえた。
「グレーテ、私の鞍から旗を外して頂けますか?」 サリアは尋ねた。
グレーテは落ち着かない様子で乗騎を降り、グリフへと近寄った。だが触れるほどに近づくと彼女から恐怖が溶け去るのをサリアは感じた。グリフというのは静穏を与えてくれる存在だった。
《夜明けのグリフ》 アート:Christine Choi |
サリアは騎乗している間、頭上に聖トラフトの旗を掲げていた。それを取り付けていた長槍をグレーテが器用に外すと、サリアはその位置にアヴァシンの槍を固定した。
「この旗印の下に進みましょう」
レムはまだ面食らっていた。「どうやって――?」
「私ともっと頻繁に馬に乗ると良いかもしれませんよ、レム。あなたを驚かせられると思いますから」
「そしてあなたに希望を与えるものも」グレーテが付け加えた。
「ああ、見られそうだ」 レムは言った。だが今も鈍い陽光の中に輝く槍を見て、彼の両目に何かがきらめいた。たとえ希望ではなかったとしても。
サリアは再び鞍にまたがり、追い付いてくる軍へと向け、宙へ舞い上がらせた。全員が確実にアヴァシンの槍を目撃できるよう、彼女は寄せ集めの軍全体の上を飛んでいった。幾つかの歓声が上がった――指導者の姿を認めた兵士らの叫び――だが自分達が見ているものとそれが意味するものを悟り、彼らの歓声は絶望の悲鳴へと変わった。
サリアは彼らの中央へとグリフを導いた。連れた霊を再び呼び、槍を両手で頭上に高く掲げた。それは彼女が振るうには重すぎたが、力強い象徴だった。
「アヴァシン様はもうおられません!」 彼女は叫んだ。絶望の呻き、不信の叫びが周囲で上がった。「教会は贖罪も叶わぬ程に腐敗しました。そして名も知れぬ恐怖が這い、私達の地にうねっています」
彼女は少し間を置いた。心が痛んだ。そこかしこに見る悲嘆は彼女自身の映し身だった。ここにいる誰もが家族を、親しい友を、帰る家を失っていた。そして彼ら自身も希望を失う瀬戸際にいた。槍の重さに肩の筋肉が燃えた。
「ですが私達はまだここにいます!」 彼女は叫んだ。「この恐怖と戦う私達が、教会の邪悪と狂気に立ち向かう私達が、絶望に逆らい信念を決して手放さない私達が――ここにいます! この暗黒の中、道を照らす大天使がいないならば、自分達で光を灯しましょう。恐怖をせき止める防護が無いならば、私達の剣がその役割を担いましょう。アヴァシン様を信じられないならば、狂気に至る前にアヴァシン様が掲げていらした理想の中に信念を見出しましょう!」
彼女はそう語りながら聖戦士達を見た。ある者は膝をつき、ある者は戦闘から感情を失った顔にとめどなく涙を流し、ある者は視線を天へ向け、ある者は顔を地面に押し付けていた。各々が各々の方法で、各々の時間をかけて悲嘆とやり合っている、サリアはそう思った。彼女は皆の上を、自身の悲嘆の上を飛んだ――その責務は高く掲げ続ける槍よりも遥かに重かった。
数か月前にオドリックへ向けた言葉を思い出し、皆の心を悲嘆から引き上げられるよう、彼女は知る全てを告げた。「何もかもが起こる前、柔らかな月光が夜の恐怖を押し留めていました。私達を繋ぐ絆が、私達を断とうする恐怖を押しのけていました。私達はただの人間以上のものを熱望していました――天使によって示された完全を、聖なる存在を」
「だからこそ、私達が再びそうなりましょう。皆さん、私達はまだここにいるのです! そしてこれこそ、私達が戦う理由です。アヴァシンの記憶のために、世界から消えてしまった光と善のために、戦いましょう! イニストラードとその全ての人々のために、進みましょう!」
涙のままに彼らは歓声を上げた。地面から立ち上がり、曇り空へと顔を上げ、剣と槍を高く掲げた。サリアはグリフの頭に触れるとそれは彼らの頭上高くに舞い上がり、自身の小さな軍の頭上を旋回した。そして彼女はその先頭、グレーテの隣に着地し、進軍を開始した。スレイベンへ向かって、世界を掌握した悪夢に対する一つの捨てばちの、栄光ある最後の抵抗のために。
スレイベンの尖塔と胸壁はカーク川の河口に、尖った崖から海へと崩れ落ちそうなほどに高くそびえ立っていた。ガヴォニー州の大半はなだらかな起伏の荒野から成り、晴れた空の日にはあの輝かしい都市が数マイル遠方からも見ることができた。だが最後に晴天を見たのはいつだったか、サリアは思い出せなかった。そのため霧と雨の中からそれが視界に入った頃には、彼らは都市まで一時間の距離にあった。
だが前方の道は怪物で満ちており、スレイベンへの進軍は容易ではなさそうだった。格子状の肉と瘤だらけの触手の塊、歪んだ姿と不恰好な身体――かつては農場の家畜、野生の獣、もしくはもっと馴染みある怪物だったもの。幾つかは自然界の生物だった面影を全くとどめていなかった。そして多くの、あまりに多くのものはかつて人間だった。様々な何らかの段階の、その怪物的な形状の中に顔らしきものがあった。
それに比べれば、あのゲラルフ・セカーニがスレイベンへと送り込んだ忌まわしいスカーブは――人間と動物の部位をそのよじれた想像力のままに組み合わせた混合物は――正気かつ正常だったように思えた。少なくとも、一つの明確な知性がそれらを作り上げていた――嫌悪すべき美的感覚と一切の道徳感覚の欠如、だがそれでも一つの精神が。これらは完全に異質な意識が想像したもの、何か狂気の神が落ち着かない永遠の眠りの中、夢に見たものとしか思えなかった。
それらもまたスレイベンへ集合しようとしており、骨のない脚やのたうつ触手でよろめきながら、あるいは手であったもので身を引きずり進んでいた。あるものは膜状の翼でぎこちなく宙を羽ばたき、あるものは単純に風に乗っていた、まるで重力とは気軽に無視できる一つの自然法則だというように。
当初、その怪物はサリアと聖戦士を止めるよりも、スレイベンへ向かうことに専念しているようだった。サリアは兵士達へと力を温存し、攻撃された時のみ戦えと命令した。身をよじる怪物を生きたまま放っておくのは心底嫌なものだったが、ひとたび都市に突入したなら皆の全力が必要になると彼女は確信していた。
だが大型の馬ほどの大きさのよろめく物体に近づきすぎた時、それは彼女へと向かってきた。かつて馬だったもの、そう思った――違う、馬と乗り手が今や一つに融合してひどく醜い肉塊と化していた。六本の脚のようなものがそれを支え、赤紫色の肉の紐が絡み合って脇腹を覆い、かつて乗り手だったものと乗騎を一つに融合させていた。汚れたたてがみの下、ぎざぎざの歯が様々な顎のような構造から伸びており、三角の帽子の下、かつて乗り手の顔だったらしいものには橙色の輝きが一つあった。一本の矛槍がもつれた触手に飲み込まれかけていた。
《同体騎手》 アート:Daarken |
サリアは乗騎を向けて対峙しようとした。それはまるで狂気の馬上槍試合に向かうかのようだった。だがそれよりも早く、その怪物は三本の後脚で立ち上がると蹄を彼女の肩に叩きつけ、鞍から叩き落とした。彼女のグリフが羽根を舞い散らせながら宙へ飛び上がり、馬だったものが一瞬動揺した隙にサリアは立ち上がり、攻撃の構えをとった。
それが近づくと、彼女の刃がひらめいて馬の首だったものに二本の長い切り傷を与えた。茶色の何かがその傷からしたたり落ちた――血ではなく、それはひっくり返した岩の下で悶える地虫のようにのたうち悶えていた。そしてその生物は傷に気付いた様子もなかった。
その脚ではない何かの先端の蹄が迫った。サリアはそれを脇へ弾き飛ばし、蹄のすぐ上の肉を切り裂くとこの時は黄色い膿が漏れ出した。だが彼女が横に避けると、一本の触手が――乗り手の腕だったものだろうか――逆側から叩きつけた。片側の頬が痛み......そして痛まなくなった。皮膚は感覚を失い、その肉塊が打ちつけた場所は冷たくなっていった。
彼女は二歩よろめいて後ずさり、その麻痺が首から肩へ広がると剣をもう片方の手に移した。その怪物は彼女を追い、再び攻撃すべく立ち上がった。だがその時彼女のグリフが急降下し、嘴をその生物の肉塊の核に突き刺した。身体に大きく開いた幾つかの口から、響き渡る吼え声が上がった。
嫌悪が走るのを感じながら、彼女は刃をそれに深く沈めた――今も鐙の上に置かれている足のすぐ上へと――そしてその悲鳴は大きくなった。数人の聖戦士が加勢し、その怪物が足元に横たわり悶えるまで、サリアのそれよりも重い剣と斧を振るい続けた。
そして、一年前にはエルゴードの新入り訓練生だったデニアスが、地面に膝をついて頭を抱えていた。まるで何か、内から爆発するものを押し留めようとしているように。彼の口は開かれて音のない悲鳴を発し、そして大きく見開かれた目は何も見つめていなかった。彼の友人メイサンがその隣に片膝をつき、肩に腕を回して何かの言葉をつぶやき、宥めようとしていた。サリアは背を向けた。
メイサンが悲鳴を上げた。
サリアは急ぎ振り返り、メイサンが慌てて後ずさるのを見た。彼の顔はグリフのように青ざめていた。デニアスは動かず、だが赤紫色の飾り帯のような長い触手が、片手の指の間から伸びていた。耳から伸びていた。
彼の顔は青ざめ、そして吐こうとしているように見えた。悲しくかぶりを振り、サリアは彼へと数歩近づいた。何が起こっているのかは知っていた。
彼は胃袋を空にするかのように身体を折り、だがそうではなく更なる触手が口から飛び出した。鎧の下と脇腹で何か大きなものが悶えていた。
彼はもはや失われた。
彼女の刃が直ちに彼の生命を奪った――あの馬と乗り手が倒れたよりも遥かに速く、そしてこの堕落が彼から生命をねじり取るよりも確かに速く。サリアはその死を、他の誰にも背負えない重荷として受け取った。これは彼の友人の心を楽にするという気高い役割なのだ、そう言いたくもあった。
グリフが彼女を宥めてくれた。鞍に戻る頃には、彼女の鼓動は落ち着き、震えながらどうにか深呼吸をした。アヴァシンの槍に目を向けることはできなかった。
今やスレイベンはそれら全てを引き寄せていた。
サリアの心は澄み、両眼は高地都市の尖塔に定められていた。だが彼女は今も後ろ髪を引かれるのを感じた。隣と背後で進軍する兵達は、彼女の鞍から天へ向けられたアヴァシンの槍へとその目を定めていた。だが彼らも同じように感じている、そう知っていた。つるはしや三つ又を持った町人も彼らの群集に加わった、これは世界の運命に立ち向かう最後の機会だと知っているかのように。
周囲のあらゆる所でよろめき、震え、のたうつものはただ引き寄せられるだけだった。あるものは今もなおほぼ人間の姿を保っていた。彼らは町人、沿岸の教団の外衣をまとう村人、だが蟹の爪のようなものや吸い付く触手や蛙に似た口を生やしていた。あるものは明らかにかつては人間や動物、だがもはや違うものだった。あるものは表現すら不可能なほどに変容してしまっていた。だがスレイベンはその全てを引き寄せていた。
違う、全てではなかった。武装した軍馬を駆る騎士の軍勢が荒野を駆け、都市ではなくサリアと彼女の軍へと向かってきていた。その背後には兵士の中隊が続いていた。
「グレーテ、レム」 サリアは呆然とした二人を我に返らせた。彼女が指をさすとレムは厳粛に頷き、グレーテは眉をひそめた。
「更なる敵でしょうか?」
「贖われし者かもしれん」
「そう呼ばないで下さい」 サリアが言い放った。「ですがセッタの仲間とは思えません」
「でしたら、何者でしょう?」
「私が確認します」 サリアが乗騎を突くまでもなく、それは地面を離れていた。まるで彼女の考えを知っていたかのように。
近づく騎士団へと空から向かうと、楔陣形の先端近くにいた人影もまた宙へ浮かび上がった――人の姿だけで、それを空に運ぶ乗騎はなかった。
グリフを飛ばして近づくと、たてがみのように広がる赤毛が見えた――そして全くもって戦闘には不適切に思える、黒の長いスカートが。その人物の皮膚は青ざめてほぼ白に近く、そして穴をあけて軽量化した不条理なほどに巨大な剣を持っていた。その隙間から灰色の空が見えていた。
人間ではなかった。吸血鬼。
その吸血鬼は両手を掲げた。会見を申し出る合図、だがその剣は持ったままだった――そして正直サリアは想像できなかった、その剣を仕舞うような鞘はどのようなものなのか。サリアは同じ合図を返し、自身の細い剣は脇腹の鞘におさめた。そして二人は会話できるほどに近づくまで、ゆっくりと宙を移動した。
それはある意味滑稽な、だが極めて真面目な光景だった。サリアはわずかに羽ばたき続けるグリフにまたがって宙に留まり、自らの術で宙に浮かぶ吸血鬼と対峙し、話をしようとしている。
「人間さん、私達には共通の目的がありますわね」 その吸血鬼が呼びかけた。「我が名はオリヴィア・ヴォルダーレン。ルーレンブラムの主にしてヴォルダーレン一族の始祖です」
《戦争に向かう者、オリヴィア》 アート:Eric Deschamps |
サリアは一瞬、衝撃に言葉を失った。石を投げれば当たる程の近くに浮かぶのは、イニストラードで最も強大な吸血鬼の一体だった。風変りな隠遁者と噂され、贅沢な宴を開催することで知られながら、そこに一瞬顔を出す以上のことは滅多にない。今や彼女は全身に華麗な武装をまとい、戦闘に向かう優雅な貴族そのものだった。
深く息を吸い、サリアは声を出した。「お会いできて光栄に思います、ヴォルダーレン様。聖トラフトの後継者、サリアと申します」
「本当? 彼には以前会ったことがありますわよ。あなたは彼を認めさせ、アヴァシンの槍とともにグリフに座していらっしゃるのですね」
それは遠回しに、自分はサリアの理解を越えた古の存在なのだという穏やかな警告でもあった。だがそこには、ほとんど尊敬にも聞こえるようなものも混じっていた。
「吸血鬼殿、どうなさるつもりですか? 私の兵が名高いヴォルダーンの饗宴に供されるのを黙って見ているつもりはありませんが」
「緊張しなくて良いのですよ、お嬢さん」 彼女は笑った、その音楽的な響きは状況を更に不条理にするだけだった。「言いましたように、私達には共通の目的があります。ここに集まった私達皆に、世界を救うという同じ目的が。あなたがたの大切な天使は明らかにその役割を果たす地位にありませんからね」
サリアはその過酷な返答を噛みしめた。もしこの吸血鬼らが加勢に来たとしても、追い払うことはできなかった。そう、もしスレイベンへの進軍で生き残った者がいたとしても、戦いで腹を空かせた吸血鬼達が彼らに牙をむくことは疑いない。だがこうして話している間にも怪物達が高地都市へと身を引きずりながら近づいているという厳然たる現実の前に、それは純粋に理論上の問題だった、
サリアは口を開いた。「わかりました。共に世界を救いましょう。あなたはあなたの軍を、私は私の軍を、私の兵に、吸血鬼の隣で戦えとは言えません。ですが同じ敵と戦いましょう」
会話を交わしながらオリヴィアは移動し、今や手を伸ばせるほどに近くにいた。グリフの鞍上、サリアが手を伸ばすべきはこの吸血鬼か、アヴァシンの槍か。
「この戦いが終わるまで、吸血鬼の牙も剣も、人間の血を流すことは一切ありません。それで宜しくて、聖トラフトの後継者さん?」
そうしていることを完全には信じられぬまま、サリアは手を伸ばして吸血鬼の手をとった。
「人間も、あなたがたに決して剣を向けることはありません。同意しました」
オリヴィアは宙で会釈をし、下を向いて握りしめられた手を見た。彼女は鼻から深く息を吸い込んで――匂いを嗅いでいる?――そしてサリアと目を合わせた。その笑みから牙がよく見えていた。
「美味しそうですこと」 その最後の警告一つとともに、オリヴィアは背を向けて眼下の吸血鬼軍へと戻っていった。
サリアは身震いし、兵士達の所へと戻った。彼らにどう伝えるべきかを思案しながら。
グリフを信頼し、サリアはしばし目を閉じたまま騎乗していた。正しく進み、そして危険を警告してくれると。彼女は自身の内へと退き、身体を共有する霊と交信し、そして思い出していた。
その霊、聖トラフトと初めて出会ったのは、大聖堂にてオドリックと対峙した後だった。行くあてもなく荒野へ出て、街路を外れ、そして草の茂った道をふらふらと進んでいた。何かが彼女をその曲がりくねった道へと引き寄せていた。やがてステンシア州のガイアー岬へと続く丘の近くに、彼女は一つの古い教会を発見した。
その内に掲げられていた絵が彼女の目にとまった。今や知るトラフト、もしくは彼の霊が、四本指の左手で剣を持つ赤毛の女性の背後に立っていた。聖者の手は彼女の肩に置かれていた。
《聖トラフトの祈祷》 アート:Igor Kieryluk |
その女性こそ聖トラフトの初代後継者であり、かつてその聖者をおびき寄せて殺すため、悪魔信者に誘拐され拷問された少女だった。その信者らは彼女の指を切り落としてトラフトへと送りつけ、単身で来させるという邪悪な策略を弄した。死後、聖者はその娘を大切に見守り続け、やがて彼女はまぎれもなく偉大な戦士かつ悪魔殺しとなった。そして天使達がトラフトを愛したように、彼女らはその娘へも微笑みかけ、共に戦った。
寂れた教会でサリアが絵を見つめていると、描かれた聖者の霊の姿が動いているように思えた。穏やかな顔が彼女へと向けられ、目が合い、そして手が伸ばされた。躊躇することなく、彼女はそれを取った。そして肉と骨のように実体をもって感じた――だが冷たかった、とても冷たかった。恐怖感に襲われて彼女は両膝をつき、その何もない両目から顔をそむけ、だが彼はサリアの手を掴んだまま、まるで絵から出現したかのように踏み出して近づいた。そして彼女の前に地面にひざまずき、もう片方の手で彼女の顎を掴んで上げた。
「私を受け入れてくれるか?」 彼は囁きかけてきた。
頷くと、彼は微笑み、同時にサリアの怖れは消え去った。サリアが深呼吸をすると聖者は彼女の鼻と口を肺を満たし、冷たい炎に内から焼かれて彼女は頭をのけぞらせた。トラフトは彼女の血管に流れ、身体の隅々までもが燃え立った。
以来数か月が過ぎたが、その冷たい炎は彼女の内で消えることはなかった。ほぼ絶えることなく、それは頭蓋の裏に結びついたまま、耐えず背骨と頭の間に震えを走らせていた。その霊が彼女に、自身の存在を思い出させているかのように――しばしば警告を、もしくは怒りを。時折、アヴァシンの槍を握った時のように、トラフトの炎は再び彼女の内に流れ、そしてもはや彼女が動いているのではなく、霊が彼女を動かしていた。
彼が自分をここまで連れてきた、サリアはそれをよく知っていた。ジェレンや月皇評議会と対峙した時も、トラフトは共に立っていた。彼の助けでサリアはこの聖戦士達、またの名を異端聖戦士を、教会の内外を取り囲む邪悪と戦うべく集めた。スレイベンを離れてもトラフトは彼女を見捨てなかった。かれの存在には少なくとも、どこか安心感があった。だがそれでいてサリアは、彼ほどの存在ですらも幾らかの躊躇を抱くのを感じていた。
彼の力で足りるのだろうか? それは約束されていなかった。だが彼女の希望はそれが全てだった。
グリフが震え、彼女は目を開けて乗騎の動揺の源を探した。スレイベンの城壁は今や間近に迫りつつあった。吸血鬼は高地都市へと進みながら次第に近づき、今や彼女らの左横についていた。もはや、よろめく怪物を避けることは不可能だった。その全てが都市へと集結しており、行軍の前列に戦いが広がっていた。
彼女の兵達はその重みを感じとっていた。世界の終末が近づいている、そして自分達はその黙示録的な最後の戦いに突入しようとしているのだという確信が増し、そこから自暴自棄が生まれつつあった。
《悪鬼を縛る者》 アート:David Gaillet |
彼女はグリフを舞い上がらせて前線を旋回し、眼下の自暴自棄と絶望へ向けて励ましの言葉を叫んだ。だがそこにあるのは絶望以上のものだった。そのおぞましさ――かつては普通の肉体だった、あるものはかつて人間だった、よじれた怪物と戦う――それだけが彼らを絶望の窮地へ追いやっているのではなかった。何か別のものがあった、彼女が心への圧迫感の一種と感じた何かが。心に奇妙な思考を、奇妙な衝動を、奇妙な認識を構成することを強制する何かが。視界の隅に、人間の姿をした怪物と怪物の姿をした兵がいた。空は青と藤色の触手が雲をかき回しているように見えた。足元で地面が割れ、グリフは裏返り、アヴァシンの槍が自ら曲がって彼女の胸を指し――
『気をつけろ』
それは心の中で鐘のように響いた。死して長い聖者の霊が、力ある言葉を発した。彼女の思考が晴れ、認識は元に戻った。澄み渡った。
だが眼下の兵士達にトラフトの保護はなく、彼らは恐怖の中で辺りを凝視し、狂気が根付きつつあった。
『彼らにはまだ早い』 トラフトが彼女の心で囁いた。
「それは問題ではありません。今、やらなければいけないのです」
『あれは彼らに害を成すだろう』
「この狂気に殺されるか、互いに殺し合うかです。今がその時です」
『ならば、そうしよう』
炎が再び彼女に流れ、サリアはアヴァシンの槍を掴むと前線上に再び旋回した。
「トラフトの聖戦士達よ!」 彼女は叫んだ。「世界を掴む狂気は私達を圧倒しています。皆さんが何を感じているかはわかっています。自分の思考に問い、目と耳を疑っていると。私の言葉を聞きなさい!」
彼らのうち数人は間に合わなかった。サリアは聖戦士達が地面に悶え、頭を抱え、もしくは胎児のように身体を丸くする様を見た。何てこと、長く待ちすぎた。だが救うことのできる者はまだいる。
「私の内には聖トラフトが生きています」 その言葉とともに、聖者の霊が青白い光の雲となって彼女を包むように輝いた。「かつて彼は天使に愛されし者でした。そして祝福されしその存在は彼を守っていました、アヴァシン教会がかつて私達を守ったように。ですがアヴァシン様が亡き今、天使は狂気に堕ち、残されたのは死者だけです」
トラフトが呼び、そして彼らは応えた。地面から湧き上がり、荒れた空から降下し、高地都市から舞い降り、白く輝く何百もの姿が現れた。アヴァシンの死とともに神聖の防護は失われ、死者の霊はもはや縛られることなく霊廟や祝福の墓所から出でて、生者の力となるべく集まった。霊の馬にまたがる者、透明な槍や剣を携えた者、年老いた歴戦の兵、幼い子供までもいた。
《ドラグスコルの騎兵》 アート:Igor Kieryluk |
「刮目なさい! 私達に先立った、誠実なる霊を!」サリアは叫んだ。それともトラフトが彼女の声で叫んだのだろうか。「彼らを迎えなさい。彼らの犠牲を称えなさい、だからこそ私達は今日戦えるのです。彼らに自らを開き、狂気から心を守らせるのです!」
そして彼女は兵士達を見つめた――絶望し、汚れた、聖トラフト騎士団の祝福されし聖戦士達が――炎を得た。数人は彼女の言葉の意味を直ちに把握し、押し寄せる両腕を広げると霊を抱擁し、それは彼らに吸い込まれ体を満たした。サリアは神聖の絶頂が彼らを掴むのを見た。そして直ちに他の聖戦士達もそうなった。霊は寄せ集めの軍に十分足りる数で、そして余った霊は生者の隣でもう一つの軍となった。
内で炎が咆哮すると、彼らは押し寄せるように再び戦いへ突入し、目の前の怪物を切り裂き、突き刺しながら進む中、前線からは痛ましい悲鳴が上がった。
『霊を受け入れられなかった者もいる』 トラフトはそう言い、今も頭を抱える者やうずくまる者達へとサリアの目を向けさせた。
彼らを救うことはできた。霊に命令し、意志に反して憑依させ、狂気を取り除き、心を晴らすことはできた。彼女の胃袋が憐れみと悲哀に悶えた。
「いいえ。それを強いることはできません。皆が彼らを助けるでしょう、それができる者達です」
彼女はグリフを再び地上に向け、グレーテとレム・カロラスの間に降りた。グレーテの目が白い炎に燃えるのを彼女は見たが、レムは固く厳めしい表情をしていた。
「レム、あなたの霊はいないのですか?」
その白髪交じりの兵はかぶりを振った。「吸血鬼避けのために、首に蛭を這わせるようなものだ」
彼女は反論しようとした。もし彼が戦いの最中に自意識を失ったならば何が起こるかを懸念し――彼に、そして彼の周囲の兵に。だがこの時も、彼女はその選択を強いることはできなかった。そして、ここにいる兵で、この狂気の何もかもを全くの強固な意思で防げる者がいるとしたら、それは審問官の刃にして天使殺しのレム・カロラスだった。
彼らの進軍は一つの終わりなき戦いと化した。一歩ごとが何か新たな怪物との戦いとなった。よじれた怪物は――まだほとんどが人間の形を留めたものであっても――まるでソンバーワルドの猪と戦うようで、苦闘の末に地面に倒れてその忌まわしいよじれを止めるまで何十もの傷をものともせずに唸り、暴れた。だが聖霊らはサリアの兵を同じほど獰猛に変えていた。深い傷を負った兵がその内なる霊によって癒され、力を回復して立ち上がる様子をサリアは見た。
スレイベンの入口である外部城壁を越えたことに、彼女はほとんど気付かなかった。終末は近い――それはかつて狼男だったものを突き刺す直前に、ふとよぎった考えに過ぎなかった。そして振り向き、手探りするように向かってきた奇妙に繋がる触手を切り裂いた。
彼らは今や吸血鬼と肩を並べて戦い、都市の街路を突き進んでいた。吸血鬼は恐るべき仲間として、歪み腐敗した人間を殺すことに熱狂的な喜びを見せていた、その人間が純粋で完全だった頃に彼らがそうしていた時と同じような。自分の刃に倒れた怪物、それに残された人間の顔を見る度に、サリアの肩に重みが加わった。だが吸血鬼にとってそれらはただ、更なる獲物でしかなかった。彼女は数体の吸血鬼が進軍を続ける前に血を吸う様子を見た。吐き気の波を押さえつけ、彼女は無理矢理目をそむけた。
大規模な広場がスレイベン大聖堂の前に開けていた。幸せな時代には大群衆が集い、聖日に月皇の演説へと耳を傾けていた。今も、大群衆はここに集まっていた――うめき、よじれる異質なものが、残った高地都市の兵団や聖堂護衛と戦っていた。サリアはグリフを上空へと向け、その戦いの様相を把握しようとした。
必死の市民がシャベルや鎌を振るい、よじれた狂信者の群れを押し留めようとしていた。勇壮な聖戦士達が楔状の陣形で顔のない怪物の群れを破ろうとしたが、四方八方から飲み込まれるだけだった。二体の白毛に率いられた狼男の小さな群れが、完全に堕落した群れ仲間へと切り込んでいた。巨体のスカーブが哀れな学者の屍の隣にそびえ立ち、最後の力の欠片をもって創造主を守っていた。死――これほどの死。
《罪からの解放者》 アート:Craig J Spearing |
背後の兵まで戻ろうと旋回した時、月皇審問会の白鷺の仮面を身に着けた重装備の兵団の姿があった。そのフードと外套の下から奇怪な変形を突き出し、彼らは恐怖した町人の一団を囲んでいた。市民の数人が膝をつき、自分達を守る筈の教会からの慈悲を乞うのをサリアは目にした。そして彼女はセッタを認識した、贖われし者とも呼ばれる彼らの長を。剣を手に、怒りを胸に、彼女はその不敬の聖戦士へと急降下した。
そして彼女は、ぎざぎざの刃がセッタの胸から弾け出るのを見た。贖われし者の長は両膝をついた。その背後から、笑いかけるオリヴィア・ヴォルダーレンの青白い顔が現れた。
「お見事です」 彼女は呟き、グリフを再び上空に向かわせ、レム・カロラスとグレーテを探した。
『何をそれほど悩んでいる?』 トラフトの声が心に囁きかけた。『お前の敵は殺された。自分で倒したかったのか?』
「私は聖者ではありませんから」 彼女は声に出して言った。
多くの顔が上空のサリアに向けられ、そして彼女は兵士達の目に恐怖を見た。ようやくレムを見つけたが、顔は青ざめて目を見開いていた。その剣が敷石に音を立てて落ち、彼は指をさした――サリアの背後を。
彼女はグリフを向け、その恐怖の源を見た。大聖堂の前に浮かぶのは、よじれた肉と悶える触手、そして......羽根の翼から成る、巨体の忌まわしきものだった。
《悪夢の声、ブリセラ》 アート:Clint Cearley |
その怪物的な天使の二つの頭部は不協和音の悲鳴を発し、それは彼女の耳を貫いて平衡感覚をよろめかせ、体勢を保つべく彼女は鞍の柄を握りしめた。下では、変質のない人々も耳を塞ぎ、もしくは新たな攻撃によろめき後ずさり、一方でよじれた怪物達が前方へ突撃した。その天使もどきは下半身の太い触手の一本を群集めがけて振るい、人間も怪物も共に弾き飛ばして地面に叩きつけた。
サリアは思った、もしこの悪夢に対峙する者がいるとしたら、それは自分だろうと。地上の誰よりも、このグリフの翼がそれを可能にしてくれていると言えた。彼女は鞍の上で身構え、剣の握りを正し、大聖堂の壊れた屋根の上、天使の目線まで浮上した。
その巨体にもかかわらず、二つの頭部はサリアの頭と然程変わらぬ大きさで、もつれた赤い髪も含めてどこかに天使の様相の名残があった。
「忌まわしきものよ!」 彼女は叫び、恐怖と戦慄をぐっと飲み込んだ。彼女はある種の正式な挑戦を申し出ようとしたが言葉が出て来ず、ただ攻撃すべく急降下した。
天使もどきの不可解なほどに長い腕の一本が伸び、彼女を叩こうとした。だがグリフは軽やかにその下をくぐり、サリアは飛びながらその腕を切り裂いた。二つの頭は口を開いて再び悲鳴を上げ――片方の口は首に繋がる空洞に過ぎなかった――だが少なくとも三本の腕が生えている左肩らしきものにサリアが剣を突き立てると、その音は途切れた。同時に、グリフの嘴が片側の頭部の瘤を噛み千切った。
反応するように、その天使は別の腕を持ち上げて数本の鉤爪の指を振るった。それはサリアの脇腹をかすめるとグリフの身体に直撃して彼女らを共に大聖堂の石段へと放り出した。落ちながらグリフは必死に体勢を取り戻そうとしたが、片翼が明らかに折れており、かろうじてその身をサリアと固い石段の間に滑り込ませた。
サリアの身体全体が痛み、脚はグリフの下で不自然な角度に圧迫され、僅かに身動きをするだけで激痛が脇腹まで走った。視界がよろめいた。彼女は石の上に倒れ、自身の死を見上げた。
それはどこか相応しいように思えた、天使によって、人生をかけて仕えてきた全ての体現によって死がもたらされるというのは。その天使の堕落した様は、全てが狂ったこの数か月全てそのもののように思えた。そして始めた仕事を終わらせるべく、融合した天使は彼女へと向かってきた。
だがサリアが片手を持ち上げて身を守るよりも早く、何か輝かしいものが彼女と天使もどきの間に割って入った。
「「こんにちは、姉さん」」 その天使もどきは計り知れない永遠を反響するような、ぞっとするような二重の声を発した。
「あなたはもう私の姉妹などではありません」 純粋な、澄んだ声が応えた。サリアは光の最中に姿を見た。一体の天使が、白鷺の頭部を模した鎌を手にしていた。
「シガルダ様」 サリアは呟いた。アヴァシンが狂気の頂点にあった時も、白鷺の群れの大天使は決して人間に敵対しなかった。今でも、彼女は立ち向かっていた――姉妹? つまり、その融合した天使もどきはブルーナとギセラ、もう二つの群れの大天使ということだろうか。サリアの腹部に冷たく重く、石のように絶望が居座った。
《優雅な鷺、シガルダ》 アート:Chris Rahn |
「「私達の召喚に応えなかったでしょう」」
「私にこの『偉大なる行い』の一部になれというのですか?」 シガルダが返答した。
シガルダは自分が回復する時間を稼いでくれている、サリアは気が付いた。残った全力を振り絞り、彼女はグリフの死骸を持ち上げた。頭がくらむほどの苦痛の波が彼女を襲った。
「「偉大なる行いがまもなく行われようとしています」」
その天使もどきは巨大な鉤爪の手を二本シガルダへと伸ばした。小型の手もまた四つあり、その胸に安置されていた。サリアは奇妙にも、母親へ手を伸ばす赤子を思い起こした。
「その行いは終わりです。あなた達は、かつて私達が倒すべき存在と成り果ててしまいました」
サリアは自身の内でトラフトも奮闘するのを感じた。痛みを和らげ、傷を塞ぎ、そして骨すらも繋いでいった。シガルダがもう少しだけ姉妹を押さえてくれさえすれば、再び戦えるだろう。彼女は周囲に自分の剣を探した。
それは無かった。彼女とグリフを地面に叩きつけた攻撃は剣を広場の半ばまで飛ばしていた。これほど切迫した時に限って、剣無しにどうやってこの怪物と戦えというのだろう?
「「私達を傷つけることはできません」」
シガルダは鎌を掲げた、それは月光の気まぐれな光線をとらえて輝くように見えた。
「これは私の義務です」 その言葉とともに、シガルダは姉妹の腕から胸へと鎌を大きく振るった。それは死をもたらす弧だった。
だがその巨大な、奇妙に枝分かれした腕の一本がシガルダを宙で掴んだ。サリアが恐怖に唖然とする中、天使もどきは抵抗するシガルダを胸に赤々と輝く口へと巨大な手で運び、そして四つの小さな腕がシガルダを抱きしめた。長い肉の触手が伸ばされてシガルダの腕に巻き付き、拘束した。
「そんな、駄目、駄目です」 サリアは言った。最後に残る正気の天使が怪物に吸収される様を見ながら、空しく立っているわけにはいかなかった。武器になるものを探し、彼女は周囲を探った。
「「再びひとつになりましょう」」
トラフトがサリアの視線を動かした、アヴァシンの槍へと。
「あれは重すぎます」
『私達二人ならば』 聖者の霊は応えた。
「わかりました」 彼女は倒れた乗騎へと進み、屈んで槍を手にとった。今一度トラフトの力が流れて震えが一つ背骨を下り、彼女を槍の魔術から守った。そして見えざる天使の祝福によって、輝く半透明の翼が背中に広がると、一瞬の絶頂に彼女は震えた。
『私はかつて、天使に愛されし者だった』 思い出させるように、トラフトが言った。
折れた槍は広場に散らばる松明や小さな火に、まるで輝いているようだった。サリアは両手でそれを掴み、空へと掲げた。
グリフと同じほどに軽々と、天使の翼は彼女を宙へと運んだ。そう、トラフトは正しかった――彼の力が加わって、その槍はいつも手にする細い剣と同じほどに軽かった。彼女は上空へ舞い上がり、天使もどきがシガルダを掴む場所を目指した。大天使は今や、筋ばった肉の層の下にわずかに見えるだけだった。
サリアが手中にしたアヴァシンの槍を目にすると、ブルーナ-ギセラはまたもつんざく悲鳴を発した。巨大な鉤爪の一つが振るわれ、だがサリアは槍の軸でそれを防ぎ、そして尖った、壊れた刃を病的な青い肉へと振り下ろした。その咽び泣きは悲嘆から肉体的な痛みへと音を変え、サリアは先程剣で貫いた同じ肩を槍で更に突いた。
もう一本の鉤爪が彼女へと弧を描いて迫り、サリアは槍を返してその掌だったと思しきものの肉へと深く突き刺した。続けて彼女は刃をひねり、力をこめてその傷口を引き裂き、ありえない肢を形成する肉と骨の網に切り込んだ。
融合した姉妹が力を失うとともに、シガルダは力を取り戻すように思え、拘束する触手の中で抵抗していた。サリアは天使もどきの胸を切り裂き、シガルダの束縛を緩め、そして肋骨と腱のもつれから赤く輝く内臓までをその刃で貫いた。その不敬の天使を突きながら、彼女は自身の腹部を殴られたようにも感じていた。
苦痛に反応するように、天使もどきは反撃すべく傷の少ない鉤爪を叩きつけ、再びサリアを地面へ叩きつけたかに思われた。だがこの時彼女は天使の翼で素早い弧を描いて背後に回り、羽根の翼を貫いてアヴァシンの槍を突き立て、そしてそれを深くうずめ、背骨と、そのよじれたものの内部を満たしている内臓を貫いた。再び、苦悶が彼女自身の胸から弾けた。
だがその天使のおぞましい咽び泣きは収まった。
それはよじれ、悶えた。巨大な鉤爪が背中に向けて振るわれ、翼は空を叩いた。天使の脚であったもつれた触手の塊は無益に宙を掴んだ。
血と膿を弾けさせ、まるで忌まわしい誕生のようにシガルダが姉妹の胸から弾け出て、眼下の広場へと墜落した。
天使もどきが死の激痛に身をよじる中、サリアは慣らされていない馬に乗るように、槍に掴まり続けた。
「ねえさん」 かすれた声が発せられた。
そしてそれはシガルダを追うように、下の広場の固い石へと墜落し、蜘蛛の死骸のように身を丸めて動かなくなった。サリアはその背から地面に転がり落ち、暗い空を見上げた。
シガルダの手がサリアを立たせ、そして苦痛は退いて視界は澄み渡った。その祝福の天使は、最後の大天使は、彼女に微笑みかけた。
勝利――その言葉が心によぎり、サリアは天使の微笑みを返した。
だがシガルダの表情は再び深刻なものとなり、サリアの浮遊する意識を察したかのようにかぶりを振った。
サリアは振り返り、状況を確認した。戦いは今も熱く、だが見た限りでは形勢は変わっており、人間と吸血鬼と狼男という信じがたい同盟軍は、わめく狂気の群れを押し留めていた。
そして彼女の視線は空へと向いた。
それはありえないほどに巨大だった。融合した天使、ブルーナ-ギセラにどこか似ていた。その丸屋根型の身体は奇妙な触手の塊に支えられ、赤い光がその核で輝いていた。
だがその姿に自然界の生命らしき痕跡は一切なく、天使の美と威厳とはかけ離れていた。その存在は物事の自然の秩序を無視し、物理法則を破り、神聖なる生命のあり方を冒涜していた。その存在は狂気への招待そのものであり、聖者の守りにもかかわらず、ナイフの鋭い刃のようにサリアの心へと入り込んだ。
それが近づく中、堕落した怪物の大群が押し寄せ、広場へと殺到して形勢を再び転じた――全滅へと。
《異端聖戦士、サリア》 アート:Magali Villeneuve |
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