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コラム

企画記事

『イコリア:巨獣の棲処』物語ダイジェスト:第2回 怪物の代言者、ビビアン

原著:Django Wexler
作:若月 繭子

ジリーナへの任務

 ジリーナは父の執務室へ向かっていた。ルーカの逃亡について公式の声明は何もなく、噂は奔放に広がっていた。そして誰も彼女と目を合わせようとしなかった。将軍の娘として人々の視線には慣れていたが、これはまったく別のものだった。ジリーナが部屋に入ると、将軍は壁に取り付けられた地図を見つめていた。

「ルーカ君については宜しくないことになった。ともあれ君が無傷で済んで本当に良かった」

 父は人質作戦が彼女の発案だと知らないのだ。知っていてもそうは見せていないか。ジリーナは安心を顔に出さないよう努めた。

 将軍はルーカを連れ戻したいと告げた。立場上、彼はドラニスの防衛や戦術を熟知している。そのような者が怪物と手を組んだとしたら? 怪物の動向もまた気がかりだった。猫や恐竜やナイトメアといった伝統的分類を無視するような混種の怪物が、近ごろ目撃されている。人間と怪物の繋がりがそういった新たな現象に関係しているとしたら?

銅纏いの呼集

 だがルーカを取り戻すために正規軍を用いたなら、逃亡の噂を封じ込めることは叶わない。追跡のために、狩人の一団と契約したと将軍は明かした。彼らは粗野だが有能、そしていざとなれば切り捨てることもできる。そして将軍はジリーナへと、ルーカ捜索への動向を命じた。

「君は誰よりもルーカ君を知っている。そしてこの問題の内情を十分に理解しているため、必要以上に情報が拡散することもない。だが……引き受けたくないというなら――能力を最大限に発揮できないというなら――今ここで言ってくれるかね」

 ジリーナに選択の余地はなかった。自分が行かないなら、将軍は他の誰かを送り込むだけだ。けれどルーカを確保できたなら、彼をどこかに隠すこともできるかもしれない。慎重に動かなければ。ジリーナは頷き、敬礼した。

ルーカとビビアン

「私はビビアン・リード。旅人よ。ここから……ずっと遠い所から来たの。この国のことを知るために」

 既に日は沈んでいた。ルーカは自分を救ってくれた見知らぬ人物と焚火を挟んで座り、全てを理解しようと努めた。長時間の行軍には慣れていたが、それでも疲労困憊だった。

「俺はルーカ。助けてくれて感謝している。けど、そうしてくれた理由を教えてくれないか」

敵軍妨害

 ビビアンは長身で印象的な女性だった。濃い色の肌に、片側を短くした奇妙な髪型。鎧も見慣れない様式で、怪物を警告する水晶はなかった。手に持つ弓は精巧な作りだが、その素材はわからなかった。ともあれ遠い所から来たというのは信じられた。ラバブリンクやスカイセイルの者にはとても見えなかった。

「一昨日、すごい力が解放されるのを感じたの。私にとっては馴染み深い力。自然のエネルギー。その源が何かを知りたくて、魔力をたどって農場から街へ向かっていたところで、驚いたことにあなたの方から近づいてきてくれたってわけ」

 ルーカは困惑した。自分に魔法の才能はない。とはいえ何かが起こったのは確かで、ビビアンはそれを説明してほしいと願った。ルーカは躊躇したが、話をすることはせめてもの礼に思えた。彼はジリーナに話した内容を繰り返した。農場、戦闘、あの怪物との奇妙な繋がりの瞬間。街からの逃亡。一方でルーカにも彼女に聞きたいことがあった。なぜ助けてくれたのか?

「好奇心ね。あなたから感じたエネルギーは普通じゃなかった。自分で調べてみたくなったのよ。道連れにしてくれない? 自慢じゃないけど私は役に立つわよ。これからどうするつもり?」

「ジリーナは隠れていろと言っていた。だが……仲間を殺した怪物を見つけなきゃいけない。魔力をたどってきたと言ったよな。怪物の居場所はわかるのか?」

「わかるわ。だんだん弱くなっているから、難しいかもしれないけど」

「じゃあ取引成立だ。あれを追うのを手伝ってくれるなら、一緒にいてくれるのは歓迎だ」

 ビビアンは炎を見つめ、考えた。ルーカは息を止めた。怪物を追跡する訓練は受けているが、空を飛ぶものを追うのは極めて困難だ。魔法の猟犬が隣にいてくれるなら、大いに助けになってくれるだろう。

「いいわ、しばらくはその条件で」

 彼女は何もかもを話したわけではない、それは明らかだった。とはいえ今は十分だった。ルーカは丸太に寄りかかり、夜明けとともに起こしてくれるよう頼むと、目を閉じた。

 その通りに、ルーカは夜明け直後に起こされた。ビビアンは森の中で採取した果実や茸を調理し、ルーカはそれをありがたく頂いた。彼女が森での旅に慣れていることは明白だった。

 ビビアンの装備は整っているようだが、ルーカは違った。着ているのは汗まみれで汚れた制服、そして急いで逃げ出したため何の装備も持っていなかった。武器である剣とベルトに差したナイフだけで荒野を進むのは心もとなかった。

 ビビアンによれば、翼の猫はドラニスから離れて荒野へ向かっているらしい。幸いにしてそちらの方角には駐屯地が一つある。まずはそこで装備と糧食を確保することが目的となった。

 ともに過ごすにつれ、ルーカはこの同行者に当惑するばかりだった。

 彼女は明らかに荒野の専門家、熟練の野伏だった。ルーカはビビアンの前を進むことを早々に諦めた。つまずくような足場も深い下生えも、滑るような優雅さで彼女は歩いた。

怪物の代言者、ビビアン

 だが同時に、誰もが当然知っているような物事について、驚くほど初歩的な質問を投げかけてくるのだった。どこから説明するべきかわからず、ルーカは出来の悪い生徒を相手にするような気分になった。

「怪物はその……怪物だ。通常、巨大で悪意があって、いつでも人間の居住地を破壊する。だからドラニスのような聖域に誰もが集まっている」

「全ての怪物が敵なの?」

「全てじゃない、と思う。例えば大型の恐竜には完全に草食のものもいるが、それでも危険だ。通り道に家があれば踏み潰されるのは変わりない」

「水晶は? あれって怪物と関係あるの?」

 ルーカはビビアンの仕草に従って見上げた。近くの丘の頂上に水晶が並んでいた。

「怪物が近づいたら水晶は輝く、という意味なら。けど、時々だ」

 そう、あの翼の猫は警告の水晶を全く反応させなかった。

「君の故郷には怪物も水晶もなかったのか? だとしたら本当に遠い所なんだな」

 怪物のいない国など聞いたこともなかった。もしかしたら海の向こう、小さな島だろうか。

 幸いルーカの逃亡の知らせはまだ遠方にまでは届いておらず、彼は目的の駐屯地に着くと新しい制服を徴発し、荒野向けの装備と糧食を手に入れた。ビビアンは外で待っていたが、ルーカが清潔な衣服で現れるとすぐに合流した。怪物はまだ少し遠い、彼女はそう告げた。飛んで逃げられることだけは避けたかった。

猫との再会

 日没近く、尾根沿いの森を抜けたところで、ルーカの肩につけた水晶に緑の火花が散った。

 ずらりと並ぶ赤い瞳が闇を照らした。ナイトメアに典型的な形状。ルーカは剣を抜き、次の瞬間にそれは木々の間から頭を出した。荷車ほどの大きさ、丸い身体から多関節の肢があらゆる方向に伸びていた。八つの目、不揃いな牙の並んだ顎、太い尻尾が一本丸まって、灰色の繊維状の何かを引いていた。その怪物は木から木へと跳躍し、ルーカへと向かってきた。

 矢が閃き、ナイトメアの身体に突き刺さった。緑色の光が弾け、猿に似た生物の姿をとった。それはナイトメアにしがみつくと、手足の鉤爪でそれを引きちぎった。その隙にルーカは接近し、一本の脚を関節から断ち切った。怪物は身動きし、息の音を立てながら木々をらせん状に登り、梢の中に姿を消した。少しして、猿が悲鳴とともに落下してきた。胸には大穴があいていた。それが墜落すると、緑の光球が弾けて消えた。

 同時にナイトメアが降下し、ビビアンが矢を射るよりも速く尾を叩きつけた。彼女は避けたが、尾から伸びる灰色の糸がその腕に絡まった。怪物が尻尾を振ると、ビビアンは完全に巻き込まれた。糸は粘着質で、容易に解けるものではなかった。

 続けてナイトメアはルーカの方を向き、顎を大きく開け、木々を素早く飛び移りながら向かってきた。ルーカは感覚を研ぎ澄ませて待ち、タイミングを完璧に計り、ほとんどナイトメア自身の勢いで剣をその肉へと突き刺した。だが脚の一本が腹を直撃し、彼は地面に投げ出された。すぐさまナイトメアの大顎が迫り、ルーカは自らの死を受け入れようとした。銅纏いに相応しく、冷静に。

『……どうして……』

 だが心の中で、何かが解かれた。彼自身のものではない一連の感覚。翼。風が毛皮を叩いた。

 葉と小枝を散らして梢が弾けた。あの怪物、ルーカの部隊を全滅させた猫が、木々を突き破って現れた。それは両前足と爪をナイトメアに叩きつけ、鉤爪が黒い皮膚に長い傷を残した。多脚の怪物はよじれて身もだえ、尾は長い痕跡を引きずったが、翼の猫はその首に噛みつき、大きく鋭い牙が肉塊を引きちぎった。ナイトメアは悶え、やがて動かなくなった。

 お前は。ルーカは笑いたくもあり泣きたくもあった。猫は大きな目で彼を穏やかに見つめた。攻撃してくるような様子はなかった。

「どうした? なぜ殺さない?」

 彼は両腕を広げて無防備な様子を見せた。言葉の返答はなく、だが彼は何かのうねりを感じた。感情、イメージ、繋がり。小さな自分の姿が見えた。

「あなたとその猫は繋がったのよ」

 ビビアンが転がってきた。彼女はナイフを手に、粘着質の糸を辛抱強く切っていった。

「聞いて。これこそ私が感じたエネルギー。あなたとこの生物との絆。あなたたちはそれぞれを感じ合っているのよ」

 彼は顔をしかめた。この怪物は農場の人々を、仲間を殺したのだ。けれど、さらなる映像が心に流れ込んだ。力を感じた。異質で、想像を絶する力が、水晶を介して世界中に伝わっていった。猫の目を通して、奇妙な橙色に輝く水晶が広がる平原が見えた。近づくと、声が心を掴み、有無を言わせぬ強さで語りかけた。

 人間を殺せ。都市を壊せ。文明とやらを壊せ。壊せ、壊せ、壊せ。

 その衝動が彼の心を――猫の心を――網のように包んだ。縄張りから遥か遠く南へ、二本足とその奇妙な巣へ向かわせた。戦い、傷を負い、腹を空かし、骨と筋だらけの肉を食らった。やがて、その中の一人が手を差し伸べた。力が弾け、橙色の網を散り散りに吹き飛ばした。

「ルーカ。ルーカ、聞こえる?」

 ビビアンの声に、ルーカは目を開けた。彼は仰向けに横たわっていた。ビビアンは隣で糸をまだ取り除いていた。翼の猫は少し離れて座り、片方の前足をぼんやりと舐めていた。ルーカは身体を起こそうとしたが、頭がふらついた。

 橙色の水晶が、怪物をドラニスへ向かわせている。その場所は知っていた。ここからずっと北、水晶平原オゾリス。水晶そのものが怪物の行動に影響を及ぼすというのは初耳だったが、ともかく何者かがオゾリスを介して話し、ドラニスを破壊したがっている。そうビビアンに告げると、彼女はオゾリスへ行きたいと答えた。ルーカは率直な疑問を口にした。

「君にどんな利害関係があるんだ? 好きでここにいるだけじゃないのか?」

 ビビアンは躊躇し、だが不意に弓を掴んで矢をつがえ、森へと狙いを定めた。

「そこにいるのは誰? 姿を見せなさい!」

「ルーカ?」

 驚いたことに、それはジリーナの声だった。

 森から幾つかの人影が現れた。一人は銅纏いの制服――ジリーナ。もう数人は棘だらけの物々しい様相に鋼の仮面、ほとんど人間とは思えなかった。巨大な鎚を肩に乗せた者、背丈よりも長い大剣を手にした者。狩人、実力は確かだが悪名高い傭兵たち。彼らは獲物の部位で着飾るのを好み、可能な限り威圧的な姿をとる。ジリーナは狩人の一団とここで何をしている?

「ルーカ、あなたを連れ戻しに来たの。武器を置いて一緒に来て」

「そういうこと。用事があるのはルーカとそのでかい猫だけだ。そっちのあんたは逃げていい」

 ジリーナと狩人の一人がそう言い、翼の猫は低いうなり声を上げた。

「逃げた時、父は怒っていたけれど、戻る頃には冷静になっていると思うの。私が一緒に行くわ」

 ルーカは息をのんだ。彼女のことは信じたい、だが……

 その時、空気を切る音とともに何かが勢いよく迫った。両端に鉄球のついた長い鎖がルーカの脚に絡みつき、彼は引き倒された。混乱が弾けた。ジリーナの叫び。ビビアンの矢が何かに命中し、続いて熊の深いうなり声。魔法。猫は深くうなり、跳ね、悲鳴が続いた。ルーカは転がって離れようとした。狩人たちが緑の熊と戦う中、ジリーナは離れてうずくまり、悲痛な面持ちで戦闘を見つめていた。ルーカが見つめると、二人の目が合った。

 不意に、翼の猫がすぐ目の前に現れた。その脇腹の毛皮にはビビアンがしがみついていた。顎が大きく開かれ、ルーカは再び死を覚悟した。だが猫は莫大な注意を払いながら、その長い剣歯をルーカの制服のベルトに引っ掛けた。そして子猫を扱うように彼を顎で持ち上げ、翼を広げて跳躍すると、飛び立った。

スカイセイル

 猫がルーカを連れ去って行った。

 ジリーナは禿山の頂上を往復しながら、その場面を思い出した。弓を持ったあの狩人が怪物に掴まり、そしてそれはルーカを引っかけて空中へ。意味がわからなかった。怪物は人間を荷物のように運んだりはしない。助けることも、命令を聞くこともない。

「座ってくれない? あんたを見張ってるのも疲れたんだよ」

 ジリーナは振り向いた。父が雇った猟団の長、女狩人のムジードは鎧を脱いで傷の手当をしていた。顔面の右半分を覆い隠す鉄の仮面を着用し、露出した左側には酷い火傷の跡があった。鎧は何百本もの怪物の骨で飾られ、動くたびに音を立てた。振るう大剣は彼女自身の背丈よりも長かった。

 狩人たちは豊富な装備を持ち、それらの使用法を正確に把握し、荒野での行動に長けていた。だがそれ以外は、銅纏いとは異なるにも程があった。彼らは公然と命令を拒否し、口論を繰り返した。狩人というのは、だいたいは高額の報酬に惹かれてやって来たよそ者か、軍隊生活に耐えられない気質の持ち主だった。とはいえ死んだ怪物は生きている怪物よりもずっと良いものなので、銅纏いは自分たちから適度に離れている限りは彼らを容認していた。

種の専門家

 ジリーナは振り向き、その狩人を見つめた。痛むはずだが彼女はくつろいでいる様子で、仲間たちも同様だった。彼らの背後には焚火があり、青色の煙を上げていた。夜営を設置した直後にムジードがそれを組み、煙に着色する粉末が投げ入れられた。今では深夜の空高くに達しており、最も低い雲と混ざり合っていた。

「気球が来るぞ。スカイセイルの旗とそう違わない。個人のものだろう」

 仲間の一人が空を見上げ、背負い袋を締めた。スカイセイル、空に浮かぶ聖域についてはジリーナも耳にしていた。交易商人が年に数度ドラニスに出入りし、遠方の商品を運んでくる。ドラニスやラバブリンクと並んで最も長く続いている聖域の一つだった。

「スカイセイルへ向かうのですか?」

「あんたの彼氏に追いつくためには、速い船が要るのさ」

 今やジリーナにも鮮やかな青色の気球が見えた。見た目は脆く、浮遊ガスの気球から小さな船体が吊り下げられていた。誰かが手を振り、ムジードが返した。気球から重しをつけた綱が落とされ、操縦士の男が声を上げた。

「セイルへ向かうよ! 乗りたいのか?」

「六人だ。金は払う!」

 ムジードはジリーナを見てそう言った。その意味を彼女は把握した。

 その船は小さかったが、かろうじて全員が収まった。操縦士が粘土製の瓶を気球に繋げ、音を立ててガスを入れると船は空へと戻った。回転ファンと帆は魔法で動いているらしく、ゆっくりと息を吹き返し、やがて空中を進みだした。

 数時間して、スカイセイルが見えてきた。それは空の彼方に暗い塊として現れ、幾つもの気球、吊り下げ式の通路、船のデッキがロープや梯子で一つに繋がれていた。

おとりの計略

 このような場所に住むというのはどんな気分か、ジリーナは想像もつかなかった。堅固なドラニス、花崗岩の壁と水晶の尖塔を不意に恋しく思った。長くもろい桟橋に船が近づくと、操縦士は綱を投げた。何人もの子供たちがそれを掴み、数枚の硬貨と引き換えに固定した。ムジードはそれが終わるよりも早く飛び降りた。

「ここで速い船を調達する。金は払ってもらうよ」

 ジリーナは眉をひそめた。父はいい顔をしないだろう。だがそうしなければ彼とてルーカを逃すことになるのだ。ジリーナは頷いた。

 ムジードは酒場で待つように仲間へ指示すると、ジリーナを連れて通路を進んでいった。二人は狭く曲がりくねった道を歩き、梯子を登り、渡された網を横切り、住民を無視して空船から空船へと渡っていった。そこは通りのない都市のようなものだった。

 とはいえ共用の場所も存在した。頑丈な気球から板張りの広大な床が吊り下げられ、市場になっていた。ドラニスの武器防具、ラバブリンクの石細工と機械装置、スカイセイル内で作られた無数のロープや装備、そして地上で収穫された商品、あらゆるものが売られていた。人もまた多種多様だった。スカイセイルの派手な商人、真面目な表情のドラニス商人、物騒な武器を持った覆面の狩人、そしてジリーナには素性のわからない沢山の人々。古本の露店では、滑らかな絹の衣服をまとった長い黒髪の女性が次から次へと本をめくり、店主を苛立たせていた。やがてその女性は自分の身長ほどの高さに本を積み上げ、驚いた店主に全額を支払うと、軽々と両腕で持ち上げて歩き去っていった。怪物の角、牙、骨、皮膚、あらゆる部位が売られている屋台にジリーナは眉をひそめた。そういった取引はドラニスでは違法だった。

「よくここには来られるのですか?」

 ムジードが屋台の間を巧みに通り抜けるのを見て、ジリーナは尋ねた。

「割とね。ドラニスは最高の賞金を払ってくれるけど、使うならスカイセイルが一番だ。そら、お目当ての船に着いたよ」

 二人は縄梯子を登っていった。

眷者たち

 当たり前だが、怪物に運ばれて旅をするなど初めての経験だった。不思議と心は落ち着いていたが、怒りはまだあった。この怪物は仲間を殺したのだ。だがあの奇妙な衝動の網は一体? そして何よりも、自分と地面とを遮るものは何もない。ルーカは感情を押しやった。

 今の体勢は明らかに居心地が悪く、慎重に彼は自分の気分を猫へと送り込もうとした。背中の痛み、現在の姿勢の苦しさ。翼の猫が注意を向けるのを感じ、ルーカは前足を伸ばしてくれと願った。すると驚いたことに、猫は彼が求めたように動いた。顎が開かれると、ルーカは分厚い毛皮を掴んだ。風が叩きつけ、下を見ないように細心の注意を払った。幸いにも厚い毛皮は掴みやすく、ルーカは怪物の前脚をよじ登り、首の上まで移動してようやく息をついた。そこにはビビアンも座っていた。どこかの時点で移動してきたのだろう。

「ああ、良かった。どこに降りるのかわからなくて」

 彼は這って進み、厚い毛皮の上にあおむけに横たわった。驚くほど快適だった。そして猫がオゾリスの方角へ向かっているというのは大まかにわかった。

「途中で休めればいいのだけど」

「そうだな」

 不意の疲労感にルーカは襲われ、目を閉じた。空を飛ぶ怪物の背中で眠りにつけるとは思わなかったが、目を開けると太陽は高く、翼の猫は降下しつつあった。ビビアンはまだそこにいて、片手で目を覆っていた。ルーカが顔を上げると、向かう先には赤く巨大な水晶が突き出していた。オゾリスではない。ビビアンに問われ、彼は落ち着いて疑問を猫へと投げかけた。そして戻ってきた一連のイメージと感情は彼を困惑させた。

「……誰かに会う? 誰かが呼んでいる? そういう感じだ。水晶がエネルギーを介していて、それが一番強い所へ向かっている」

サヴァイの水晶

 翼の猫は水晶へ向かって降下し、徐々に速度を落として着地した。ルーカは素早く滑り降り、固い地面を踏みしめて安堵した。ビビアンは背中にしばし残り、耳の後ろを掻いてやった。猫は長い満足の声を漏らした。

 辺りには水晶以外に目に入るものはほとんどなく、乾燥した平原に色あせた木々が散らばっているだけだった。ルーカは猫へと声をあげた。

「さて、ここへ何しに来たんだ? 昼寝か?」

「ここに来てって私が頼んだの!」

 不意に知らない声が届いた。女の子の声が、遠くから。ルーカがきょろきょろとその姿を探す様子に、笑い声が響いた。

「こっち! 上だよ!」

 ルーカは首をもたげ、ようやく姿を認めた。その子は巨大水晶の先端に座っていた。かろうじて見えたのは色白の顔と、桃色の毛皮の塊だった。

「誰だ?」

「その子にまだ名前つけてないの?」

「怪物に名前をつける習慣はない」

「ふーん。私はブリーンっていうの。そちらの人もこんにちは、いい弓ね」

 ビビアンは猫の背中から滑り降りた。

「ありがとう! 私はビビアン・リード、彼はルーカ。降りてきてもらえる?」

「そのつもりだけど、そっちはドラニスの制服でしょ? 信頼できるの?」

「大丈夫だ。俺は追放者だから」

「あら! それじゃ大丈夫ね。私もだから」

 その子は腕を広げ、水晶から飛び降りた。ルーカは一瞬凍り付き、だが水晶の根元に巨大な桃色の何かが現れた。それは狸のような生物で、翼の猫よりは小型だが、それでも馬ほどもあった。長く柔らかな桃色の毛皮に覆われ、丸くずんぐりとしていた。突き出た腹にブリーンは跳ね返り、両腕を広げて上手に着地した。

「この子が私の怪物。名前はロランド。ロルね」

 ブリーンはそう言って怪物の首を掻いた。それは明らかに喜んでいた。ルーカは身構えたが、桃色の毛玉はどう見ても無害だった。彼女は想像よりもずっと若く、十代に見えた。衣服は全て質素な革製で、桃色の毛皮が肩を飾り、ロランドの色に合っていた。髪も桃色に染められ、荒々しく立てられていた。

「説明してくれ。君が俺の……怪物をここに呼んだというのはどういう意味だ?」

「えっとね。怪物は水晶を通して話ができる、それはいい? それでロルが、見たこともない怪物が北へ向かって飛んでて、人を乗せてオゾリスに向かってるって言ったのね。それでええと、まず私がその人と話した方がいいなって、私もオゾリスへ行こうとしたんだけど、歯だらけの変なのがいっぱいいて邪魔してるから――」

「頼む、もっとゆっくり」

「あなたの怪物は喋るの?」

 ロルの尻尾を撫でながら、ビビアンが尋ねた。

「喋りはしないけど、だいたいは理解できるよ。どうもね、オゾリスで何か変なことが起こってるっぽいの。何か悪いことが。ロルも今までにない何かを感じてる」

「けど、邪魔をされた?」

「前に、私とトゲトゲと一緒に行ったのね。けど……真っ黒で、目が沢山のが」

「ナイトメアか」

死住まいの呼び声

 ルーカは桃色の毛玉に視線を向けた。

「俺たちはオゾリスへ向かうところだった。何が起こっているのかを把握するために」

「ルーカの言う通り。オゾリスに行きたいのよ。私に怪物はいないけど、力にはなれるわ」

「ふむ。ふーーーーーーむ」

 二人の言葉に、ブリーンは目を閉じて考え込んだ。しばしの後、大きな笑顔を弾けさせた。

「わかった! じゃあ仲間が集められるかどうか呼びかけてみるね。けど言っておくよ、トゲトゲは偏屈だからね。このルーカって人みたいに」

「仲良くなれるかもね」

「どうかな」

 少し休憩をとった後、ルーカとビビアンは再び翼の猫に乗って出発した。ブリーンは水晶を介して仲間やその怪物と話ができるらしく、まずは彼らと落ち合うことになっていた。

 ルーカは思考を巡らせていた。どうやらこれは雌らしい。名前はあるのだろうか? 他に翼の猫が沢山いるとは思えない、混同することはないだろう。それでも……いや。この怪物は仲間を殺した。現時点で有用だからといって、愛着を向けることはない。だが、オゾリスがこの猫にドラニス攻撃を強いたというなら……

 堂々巡りから抜け出せればと、ルーカはビビアンを振り返った。だが彼女はぼんやりとしているようだった。地面を見下ろすと、ロランドがブリーンを乗せて、意外なほど軽快に駆けていた。

 前方で二本の川が合流しており、そこが待ち合わせ場所だった。何も思わずとも翼の猫は降下を始めた。遠目にも既に何かが待っているのが見えた。巨大な狼、もしくはアナグマ。太い脚に茶色の毛皮、背中から顔面にかけて黒い棘が並んでいた。トゲトゲとはあれか。

 近づくと、怪物の隣には女性が腰かけていた。ブリーンのように革と手織りの服を着ており、黒髪を棘のように固めていた。ブリーンは岩のふもとでロルから飛び降り、翼の猫は草を舞い上がらせて降下した。ルーカも滑り降りると、戦意を持たないように棘のアナグマを見つめた。棘頭の女性が立ち上がった。

「やあ、おちびさん。そっちはドラニスの兵士? こんな遠くまで」

 その女性はブリーンに声をかけ、だがルーカを見て眉をひそめた。

「俺はルーカ。この怪物と……繋がってしまって、裏切り者とみなされた。それが間違いだと証明したいんだ」

「ふん、そんな奴らからは離れた方がいいよ。眷者こそが未来だよ、兵士さん」

「俺はただ、家に帰りたいだけだ」

 ルーカは苛立ったが、声色を冷静に保った。彼女はしばしルーカを見つめ、頷いた。

「その気持ちを責めはしないよ。私はアブダ。トゲトゲとは呼んでくれるなよ、それはおちびさんだけだ」

「私はおちびさんじゃない! すぐに追い抜いてやるんだから!」

 そしてルーカがビビアンを紹介しようとした瞬間、雷鳴と眩しい閃光が弾け、そこに別の人物が立っていた。ルーカは身構えたが、ブリーンとアブダは気にしていなかった。

「こんにちは、バロウ!」

「ったく、普通に来られないの?」

 現れたのは若い男性で、灰色の鎧の上に白い毛皮をまとっていた。髪も白く、額にはめた金属の輪からは鋼の角が二本伸びて、その先端は稲妻を帯びていた。男は仰々しく頭を下げた。

「遅れて申し訳ない。私はバロウ。相棒はゼフという」

「相棒?」

 ルーカは川向こうに座る巨体に気付いた。明らかに猫の仲間だが、ルーカの怪物の倍はあった。上質な白いたてがみ、身体は白地に黒の虎縞。バロウの頭飾りと一致するらせん状の角が二本、同じく稲妻がその間を横切っていた。

「リギを紹介してなかったね。挨拶して」

 アブダの言葉に、アナグマらしき怪物が巨大な吠え声をあげた。

 そして呼び出した理由をブリーンが説明し、バロウは頷いた。彼とゼフもまたオゾリスから異様なものを感じ取っていると言い、一方アブダは冷ややかなままだった。彼女にとって、怪物がドラニスを攻撃するのは別に悪いことではないのだ。

「あの、ちょっといい?」

 会釈をし、不意にビビアンが進み出た。

「私はその……他所から来た人間なのだけど。こことは、イコリアとは違う世界から」

「違う……世界?」

「じゃあ、どこから来たの? 月から?」

 突然の告白に、ルーカとブリーンは呆気にとられた。少女の問いにビビアンはくすりと笑った。

「いいえ。私はプレインズウォーカー、世界の間を渡り歩けるのよ」

 アブダは信じられないというように鼻を鳴らし、バロウは無知を詫びるようにかぶりを振った。ルーカがゆっくりと口を開いた。

「別の世界が存在する可能性は、研究者が常に示唆している。ドラニスには……異邦人の伝説もある。皆、ただの物語だと思っていたが」

「実はね、私より先に同類が来ていたかもしれないの。よくは知らないのだけれど……干渉したがりな男で。オゾリスの変化はそいつの仕業かもしれないのよ。もしそうなら、そいつが起こした被害を元通りにしたい」

「なにゆえか? そやつは君の敵なのか?」

 バロウに問われ、ビビアンの穏やかな表情にわずかな感情がよぎった。

「私個人の問題。けど信じてほしい。あなたたちと世界のためにきっとなるはずだから。オゾリスに行くのに力を貸してくれたなら、自然の状態に戻す手伝いができると思う」

 長い沈黙があった。やがてアブダが息を吐いた。

「わかったよ。ただ考えてるだけよりはましだ」

「怪物がドラニスに近づかないでいれば、両方にとってもその方がいいじゃん? ルーカの怪物がロルに言ってたよ。人間を傷つけたくはなかったけど、何かにそうさせられた、って」

 ブリーンが嬉しそうに言い、バロウも続いた。

「ゼフは何としてもオゾリスへ行くべきであると。私の意見も同じだ」

「ちっ。あんたら二人がそこまで心を決めてるなら、リギと私も入らないといけないじゃないか。おちびさんに怪我させるわけにはいかないからね」

「決まりね。ありがとう。約束するわ、信頼に応えるって」

 ビビアンの笑みに、ブリーンが尋ねた。

「じゃあ、全部終わったら月へ連れてってくれる?」

(第3回へ続く)

※本連載はカードの情報および「Ikoria: Lair of Behemoths - Sundered Bond」(amazon電子書籍版)の一部の抜粋や私訳をもとに、著者とウィザーズ・オブ・ザ・コースト日本チームとの間で確認して作成した記事であり、一部固有名詞等の翻訳が正式なものと異なる可能性がございます。ご了承ください。


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