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マジック・プロツアー殿堂 渡辺雄也の軌跡 前編

マジック・プロツアー殿堂 渡辺雄也の軌跡 前編

by Masami Kaneko(WotC コミュニティ担当)

 マジックの"プロ・プレイヤー"といえば?

 この質問に、いくつかの名前が思い浮かぶだろう。そして、多くの人が「渡辺雄也」という名前を思い浮かべたのではないだろうか?

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 2016年、ついに渡辺雄也はマジック・プロツアー殿堂にノミネートされた。彼が初めてプロツアーに参加してから10年が経った、ということだ。そして、彼はこの期間の全てのプロツアーに参加し続け、そして結果を残し続けた。

 90.3%。これが、今回の殿堂投票で渡辺雄也が獲得した得票率であり、渡辺雄也というプレイヤーを、世界が認めているということの証明だ。

 世界の最前線で戦い続ける。それを10年間継続する。言葉にしてしまえば簡単なことだが、実際にこれがどれだけ大変かは、想像に難くない。そしてそれを実行したのが渡辺雄也なのだ。

 ここでは、渡辺雄也の歴史をたどり、その強さに迫り、そしてこれからの話を聞いていこう。

渡辺雄也の「これまで」

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――まずは、この度はマジック・プロツアー殿堂入り、おめでとうございます。

渡辺「ありがとうございます。殿堂入りは目標だったので、嬉しいですね。」

――さて、それでは早速ですが、『マジック』をはじめたタイミングと、きっかけを教えてください。

渡辺「えっと、生まれた時に『マジック』のカードを握りしめてきました。

――えっ。......いや、一瞬信じそうになりましたよ?(笑)

渡辺「まぁ、そんなわけはなくて(笑)、小学校6年生の時だったかな?元々他のカードゲームをやっていたんですが、友達に誘われてはじめました。最初に開封したパックは『インベイジョン』でしたね。はじめのうちは、全然ルールがわかってませんでしたが。」

――昔マジックをはじめた方だと、ルールを覚えるのに苦労したというお話は「あるある」ですね(笑)

渡辺「そうですね、それに比較すれば今はかなり整備されてます。今でも覚えているルール間違いだと、『プロフェシー』に特定の条件でマナ・コストが軽くなる「化身」シリーズって居たの覚えていますか?」

――《悲哀の化身》や《憤怒の化身》なんかのシリーズですよね。元は8マナですが、条件を満たすと2マナで唱えられるクリーチャー。

渡辺「そうそう、例えば《憤怒の化身》なら、対戦相手が土地を7つ以上コントロールしてるとマナ・コストが軽くなるんですが......。」

――カードに明記されてるし、ちょっと条件が特殊とはいえ、あんまりルール間違いは起こらないような気が......?

渡辺「このカードに関して間違ってたというか、問題は、この能力がルールだと思ってたことなんです。

――!? つまり、このクリーチャーを戦場に出したら、他のクリーチャーも全てコストが軽くなったと!?

渡辺「いえ、それならまだカードの効果なので良かったですね。ルールだったんですよ。」

――......つまり、どういうことですか?

渡辺「つまりですね、この効果は常時存在する、マジックの基本ルールだと思っていたんです。どんなクリーチャーでも、対戦相手が土地を7枚出したり、手札がなくなったりしたら6マナ軽くなる。これが基本ルールでした。だからむしろ、『なんでわざわざ、当たり前のルールをカードに書いてるんだろう?』と疑問に思ってました(笑)」

――なんという豪気な勘違い(笑) 正しいルールを覚えたのはいつ頃ですか?

渡辺「中学生になって、カードショップに行き始めたくらいですね。やっぱり、先にやってる人に習うのが一番良いですね(笑)」

カードショップとの出会い

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――中学生になってカードショップに通い始めたとのことですが、お店に行くきっかけは何でした?

渡辺「友人が近くのお店を探してきてくれたんですよね。横須賀の『アライアンス』というお店で、樽(元気)さんやシミチン(清水直樹)も通ってたお店でした。」

――お店に行った時の印象はどうでしたか?

渡辺「正直、ルールもよくわかっていない状態だったので、世界が違いましたね。『僕らがやってるゲームと違う!』って。それはルールを覚えて最初もそうでしたが。『こういうゲームだったんだな、これ』と驚きばかりでした。」

――その後ショップにはよく行ったんですか?

渡辺「かなり行きましたね。中学校の友達は部活とかで離れていってしまったんですが、僕は凝り性だったのもあって、お店に通い続けました。家から近かったのもあり、週末は入り浸っていましたね。」

――イベントもそのお店で参加してたんですか?

渡辺「そうですね、イベントとかもやってました。初めて参加したイベントが『インベイジョン』ブロック構築の大会だったんですが、ものすごく緊張したのを覚えています。」

――今や世界の渡辺雄也さんですが、やはり最初は緊張したんですね。ちなみにどのようなデッキで参加されたんですか?

渡辺「そのときはいわゆるトリコロール、青白赤のコントロールでした。今でも大好きな《稲妻の天使》と《ゴブリンの塹壕》で勝つデッキでした。」

――ちなみに成績のほうは......?

渡辺「確か、4回戦でギリギリ勝ち越しかイーブンかくらいだった気がします。この時のトリコロールは初めて大会に出場した、思い出深いデッキです。

「草の根の星」へ

――渡辺さんといえば、そこから有志による大会、いわゆる「草の根大会」に参加し実力をつけ、プロになったとお話を聴きますが、最初はショップの大会だったんですね。

渡辺「そうですね。しばらくして、ショップの常連の方々に『他にも大会があるから、参加してみない?』と誘われて、いわゆる草の根大会に参加するようになりました。APOC WarsとかPlanes Walker's Cup(以下PWC)とかですね。」

――そういった大会に参加して印象に残ったことってありますか?

渡辺「初めてAPOC Warsに参加した時のこと、なんだかんだ結構覚えていますよ(笑)。2回戦で対戦したのが、強豪の有田隆一さんだったり、最終戦で当たったのがそれからずーっとお世話になる、PWC代表の中嶋智哉さんだったりとか。」

――なるほど。そういった方々は当時からご存知だったんですか?

渡辺「いや、正直最初は知らなかったですね。後から強豪なんだよ、って教えてもらったり、PWCにも行ってみたら『あれ?』とか。」

――運命の出会い、的な感じですね(笑) その後もショップに通いつつ大会に参加していた感じですか?

渡辺「いや、残念ながらその集まっていたショップがなくなっちゃったんですよね。なので、草の根大会に通いつつ、空いている日は仲間と集まってどこかでマジック、みたいな感じでした。」

――お店はなくなっても交流は続いていたんですね。草の根大会に多く参加して、印象に残ったエピソードとかありますか?

渡辺そうですね、中学生の時のPWCでジュニア大会に参加しようとしたら、生徒手帳に写真が無くて、顔がだいぶ老けていたこともあり本当に中学生か疑われたことですかね(笑)。 普段から全年齢のほうに出ていたので、改めてジュニアのほうに参加しようとした時、受付の人も『えっ?』となったみたいで(笑)。」

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――今だからこそ笑えるお話ですね(笑) そして、そこから渡辺さんは世界に羽ばたいていく、と。

草の根からプレミア・イベントへ

――渡辺さんが日本国内で名前を知らしめたのが、Finals2006準優勝。そして世界に名前を轟かせたのはグランプリ・京都2007、そしてその年のルーキー・オブ・ザ・イヤー獲得だと思いますが、草の根からこういったプレミア・イベントに参加するようになるにあたって、マジックとの関わり方は変わりましたか?

渡辺「いや、はまった当時からずっと、『できるマジックは全力』がスタンスなので、この時点では変化ありません。初めてグランプリに出たのが2004年のグランプリ・名古屋で、これが初日落ちではあったんですが、とても楽しかったので、行けるグランプリなどのプレミア・イベントにも出るようになりましたね。」

――プロツアーへの興味はあったんですが?

渡辺「じつは、この時点ではあくまで『趣味の延長』でした。なので、実はプロツアーの権利も予選で獲得したりしていますが、行っていません。あくまで出られる大会に出てたらプロツアー予選だった、という感じです。親に心配かけて海外に行くほどでもないかな、と。」

――当時はあくまで線引きしてたんですね。

渡辺「まあ、まだ高校生でしたからね。1回、修学旅行をサボって日本選手権予選に出ようとしたら怒られました(笑)。高校受験の前日にプロツアー予選に行ったときは許してくれたんですけどね......(笑)。」

――いや、それは修学旅行に行ってください(笑)

日本から世界へ

――さて、その後Finals2006の準優勝、グランプリ・京都2007の優勝を経て世界に羽ばたいていくわけですが......。

渡辺「出られる大会に出るっていうスタンスの延長線上ではあるんですが、グランプリや日本選手権に出場していて真剣にやるマジック、楽しいなと。そこから段々舞台が大きくなっていった感じですね。舞台は大きくなっていますが、この時点では自分が変わったという認識はありませんね。」

――グランプリ・京都2007優勝をきっかけに次の大きな舞台を目指したんですか?

渡辺「いや、実はその先ですね。京都は初めての3Byeでの参加、初めての個人でのグランプリ2日目、そして優勝でした。そして、プロツアー・横浜2007の出場権利を獲得しました。これに参加してはじめて次のステージを意識したんです。」

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――なるほど。プロツアー・横浜を経て、どう変わったんですか?

渡辺「最初は実は『せっかく国内でプロツアーがあるなら』、ということで参加したんですよね。で、出てみたらとても楽しくて。残念ながら初日落ちだったんですが、あるプレイヤーに『どうせなら、ルーキー・オブ・ザ・イヤー目指してみない?』と言われて、こんな楽しい大会なら次からのプロツアーも出てみたいな、と。」

――プロツアー・横浜が国内だったから出たとのことでしたが、もしこれが海外だったら......。

渡辺「正直、出なかった可能性も十分にありますね。今と違って当時はグランプリ優勝しても航空券とか出ませんでしたから。そういう意味でとてもタイミング良く優勝しましたし、このタイミングでなければ今の僕は居なかったかもしれません。」

――奇跡的なタイミングでしたね! で、次のプロツアーにも出よう、と。

渡辺「はい。ですが、実は、次のプロツアーの権利はなかったんです。そこで声をかけてくれたのが中村修平さんでした。次のプロツアーは双頭巨人戦でチーム戦だったので、中村修平さんのプロ・レベルが高く、私とチームを組んでプロツアーに参加することができました。」

――プロツアーに連れて行ってもらった、と。

渡辺「そうですね、そのプロツアー・サンディエゴで22位になり、次の権利も獲得。プロツアー・バレンシアにも参加することができました。これが洪水騒ぎでかなりハードな初日10回戦になりまして......。」

――確かに、プロツアーレベルの大会で10回戦は厳しいですね......。

渡辺「さらに使ったデッキがセプター・チャント(※1)で、非常に勝ち筋が細いデッキだったんですよね。《ザルファーの魔道士、テフェリー》で攻撃するのが勝ち手段で、プロテクション(青)の《ゴブリンの群衆追い》を出されると全然勝てなくなるっていう(笑) この時、長丁場でのデッキ選択の重要性に気づきました。」

※1 セプター・チャント

等時の王笏》と《オアリムの詠唱》で、対戦相手をロックして勝つデッキ。

――この時の成績はいかがだったんですか?

渡辺「21位で、次のプロツアーの権利を獲得することができました。世界選手権にも参加しルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得、プロ・プレイヤーとしてのキャリアがスタートした感じですね。実はこのシーズンでプロツアーに出場し始めてから、今までのプロツアー全てに出場しています。

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――凄い!ずっと最前線で活躍されているんですね。

プロ・プレイヤーとしての"渡辺雄也"

――さて、プロ・プレイヤーとして華々しいデビューを飾った渡辺さんですが、2008年はいかがでしたか?

渡辺「メインがプロとしての活動になったので、草の根大会への意識とかはだいぶ変わりましたね。プロツアーやグランプリへの練習として、真剣に出場していました。」

――この2008年、印象に残っているイベントはありますか?

渡辺「日本選手権の決勝戦ですね。2008年の日本選手権は、実はすごく自信があって。青白《目覚ましヒバリ》デッキを使っていたんですが、周りのみんながドロー強化として《祖先の幻視》を使う中、僕だけが《思案》を使ってたんですよね。でも、このデッキで一番重要なのは序盤の動きで、それを安定させてくれる《思案》のほうが重要だという認識でした。この選択は今でも正解だったと思っています。実際、準決勝までは負け無しでした。」

――で、印象に残っているのがその準決勝、と。

渡辺「はい、準決勝で当たった大礒(正嗣)さんはめちゃくちゃ強くて。正直、負けたけどテンションとマジックのモチベーションは上がりましたよ。『世界は広いんだな』、って。」

――強い人との対戦はとても楽しいですよね。


2008年の、日本代表チーム 左から渡辺、大礒、高桑

世界の頂点に立った2009年

――その翌年の2009年は、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(以下PoY)を獲得して世界の頂点に立った年ですが......。

渡辺「じつは、この年の最初のプロツアー・京都で0-4してまして......。次のドラフトも記念参加になっちゃって、どれだけレアをたくさん取れるかで友人と勝負したりしました(笑)。せっかくだから色の合うレアは全部入れようってことで、《暴力的な根本原理》と《タイタンの根本原理》が両方デッキに入って、どっちも唱えて勝ったりしましたよ(笑)。」

――最初のプロツアーは散々な結果だったんですね。でもPoYということは、次のプロツアーはがっつり勝てた感じですか?

渡辺「いや、その次のプロツアー・ホノルル2009も初日落ちでどん底でした。」

――ええっ!? そこからPoYを取ったんですか?

渡辺「いや、なんだかグランプリのほうで覚醒して好成績を取りまくりました(笑) グランプリ・神戸2009の準優勝から、その後のバンコク、新潟、プラハ、メルボルン、北九州と出るたび出るたびトップ8入って、結果プレイヤー・オブ・ザ・イヤーになることができました。」

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――おめでとうございます!

2010年~2011年 スタンスの変化

――プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを獲得して、名実ともに世界最高のプレイヤーになったわけですが、その後もマジックには全力投球でしたか?

渡辺「2009年はがむしゃらに世界を回ってPoYを取ったんですが、正直全体的な練習時間は移動とかで忙しくてあんまり取れてなかったんですよね。2009年はなんとかなったんですが、2010年はそれでガス欠しちゃって。だから2010年は自分のパフォーマンスにちょっと満足できなかった時期です。実際、プロ・レベルが最高の8(現在でいうプラチナ待遇)からひとつ落ちて7になっちゃいましたしね。」

――渡辺さんにもそういう時期があるんですね。

渡辺「だから、2011年は少しスタイルを変えました。海外のグランプリは控えめにして、練習時間と質を意識して。そうしたら成績も満足いく成績になりました。グランプリで3大会連続決勝戦に進出、2連覇したりとか。結果としてプロ・レベルも最高に戻れました」

――PoYになってからも、スタイルを変化させて行ったんですね。

マジック・プレイヤー選手権 再びプレイヤー・オブ・ザ・イヤーへ

――さて、2012年、渡辺さんはマジック・プレイヤー選手権に優勝して再びプレイヤー・オブ・ザ・イヤーに輝くわけですが。

渡辺「今だから言えるんですけど、当時実はこの制度に文句がありました(笑)。このイベントの名目がPoYを決める大会だったんですけど、僕はその時点で獲得プロポイントが世界1位。このままこの大会がなくてもPoYだったんですよ。でも、このイベントが後から発表されて......っていう。」

――なるほど、それは確かに「え?1位なのにPoYじゃないの?」という感じですよね。

渡辺「まあ、優勝できたから結果オーライではあるんですけどね(笑)」

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――2011年にスタイルを変えた手応えは感じていました?

渡辺「はい、この年はかなり手応えを感じてましたね。アベレージも高くて、自分としてもこの年のパフォーマンスには満足しています。これ以降はずっとプロ・レベルの最高レベルを維持していますし、このスタイルが現在の自分には合っているんだな、と。」

――現在のスタイルを確立できた、ということですね。

渡辺「はい、そうですね。ここで作られたベースのスタイルは、今も変わっていません。」

 後編に続く!

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