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MAGIC STORY
イクサラン
争奪戦 その2
争奪戦 その2
R&D Narrative Team / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2017年10月18日
ヴラスカ
川幅は狭まり遡行は困難になっていた。手すりから覗き込むと、川底はもう身長ほどの深さしかなかった。
川の前方両脇に、二本の巨大な岩が門柱のように立っていた。自分達の船は通れるだろうが、危ういように見えた。
手の血豆が痛んだ。
彼女は左のオールを止め、船を川岸に向けた。
ジェイスは数時間前に不可視呪文の維持を止めていた。夜となり、発光性の昆虫やその他、ヴラスカの知らない奇妙な光が密林を照らし出していた。両脇の岸は急すぎてボートを上げることはできなかった。巨体の恐竜が間違いなく森の中を徘徊しているとしても、今の空気はとても愛おしかった。
《沼》 アート:Christine Choi |
「ボートで寝た方がいいね」 ヴラスカは言った。彼女はオールを手放し、血豆の一つをつついて痛みに小さくうめいた。
魔学コンパスはプレインズウォーカー二人の間の板に置かれていた。ジェイスはそれを取り上げ、針が指す方角を見た。「どのくらい遠くまで来たかがわかれば、もっと役に立つんだろうけどね」 ヴラスカはそう言って腕を交互に伸ばした。彼女は指を組み、安堵の溜息をついた。
ジェイスは返答しなかった。
彼が顔を上げると、両目の魔力が顔の輪郭を照らし出した。巨体の荷馬が二人の頭上に現れ、夜空を背景にして優美な青色に輝きながら、梢へと駆け上がっていった。
その幻の馬はマルコムに向けた目印になるだろう。
皆がすぐに来てくれれば良いんだけど。
大気は濃く、風はなかった。成長するものの匂いがした。樹液、腐敗、何かが死んでは食らい、死んでは食らうあらゆるものの上へ成長していく。こんな風のない夜、海で動けなくなった時に乗組員らが歌っていたのをヴラスカは思い出した。共に過ごしたそんな時間を彼女は何よりも愛していた。自分とあの連中、それ以外は敵。
「古の底から、大きな城が伸びてくる......」 彼女は歌った。
とても意外なものを見るかのように、ジェイスが視線を向けた。ヴラスカは微笑んでその旋律を歌い終えた。
「忘れられた光が窓に、苔の迷路を何かがさまよい――」
ヴラスカは歌を切った。ジェイスは耳を澄ましていた。
「続きを聞きたい?」 疲れた笑みで尋ねると、ジェイスも笑みを返した。
彼女は身体を起こして声を落とした。どんな恐竜が聞いているかわからない。
「......そしていつか、腐朽の王国が興るでしょう......」
ジェイスは称賛の小さな声を上げた。「いい歌です」
「ゴルガリは褒められる事があんまりなくてね」 ヴラスカは目を閉じ、座り直した。
ジェイスの声は眠気にぼやけていた。「短パンの奴が歌を教えてくれたんですよ」
「イチジクの歌かい?」
「下品な歌です。すごく下品な。あいつは下品なちびゴブリンですから」
その後ジェイスは黙り、次の瞬間には眠りに落ちていた。ひょっとして自らに命令してそうしているのではとヴラスカは訝しんだ。
頭上では小型の飛行生物が鳴き声を上げ、密林の奥で夜鳥が歌っていた。
彼女は黄金色の片目を開け、ジェイスを見つめた。多元宇宙で二番目に危険なテレパス。
私が歌うくらい簡単に、こいつは私の心を壊してしまえるのか。
それでも......そんな事はしないのだろう。決して。以前はそんな力を用いたと知っていても......そのジェイスは今のジェイスではない。
その瞬間、ヴラスカは理解した。記憶があろうとなかろうと、この男は信頼できると――そしてこの男もまた信頼を返してくれると。彼女は満たされるために他の誰かを必要としたことはなく、自分が何者なのかを疑ったこともなかった。この男にその気がないなら、別に構わない――読み終えていない歴史書が家にあるのだ。けれどもしその気があるなら、自分が動揺している時に茶を淹れてくれるだろうか。聞いて欲しい時に耳を傾けてくれるだろうか。自分の勝利を喜んでくれるだろうか。そのどれも悪い見通しではなかった。この全てが終わったら、デートに誘おうか。長いことそんな機会もなかった。けれど今のところ、何もかもが満足だった。良い友人が隣にいて、単純でまっすぐな競争をしている――それこそ、必要としていたものだった。
この男の記憶を奪った奴を石にしてやりたくてたまらなかった。
辺りの草木と頭上の星空の輝きは、密林の影の中で二人の冷たく小さなボートを温かなものにしてくれていた。ヴラスカが目を閉じると、不可視呪文の涼しい微風が今一度自身を包むのを感じた。
ジェイス
見張り番の後、ジェイスは深く眠った。他の乗組員らに囲まれてハンモックで眠った数か月の後では、この静寂と開けた空は喜ばしい変化だった。
翌朝、ヴラスカとジェイスはボートを放棄した。二人は岸へ漕ぎ、川辺にその船を放置した。
森の地面からは岩の塊が奇妙な角度に飛び出しており、日中の密林の騒々しさと混沌に、道らしきものの痕跡は失われた。ヴラスカは剣を間に合わせの山刀として道を切り開いた。
やがて、二人は広く見晴らしのいい小道に出た。ヴラスカは安堵とともに剣を下ろした。
「やっとだね。オールの血豆の上に剣の血豆ができちまうよ」 彼女はうめいた。
ジェイスは眉をひそめた。「ここを歩かない方がいいと思います」
彼はその道が上方の梢まで開けている様子を示した。「この道は恐竜が作ったんだと思います」
ヴラスカは溜息をついた。「つまりこの道は全部、恐竜が通って擦り減ってできたってこと?」
「いえ、恐竜の木こりが切ったんですよ」 ジェイスは完璧に、皮肉の欠片もない無表情でそう説明した。ヴラスカは吹き出した。
ジェイスは重々しくかぶりを振った。「恐竜の林業者がどんな凄い仕事をするか、侮ったら駄目です」
ヴラスカの笑い声は大気の奇妙な匂いに遮られた。
不意に、濃い黒煙の雲が周囲の木立に溢れた。
その煙は鼻を刺し、かすかに没薬が匂う真黒な霧で木々を包み、梢から入る僅かな光をぼやけさせて昼を突然の夜へと変えた。
ジェイスは驚いて叫び、心でできる事をしようと感覚を伸ばした。
ヴラスカは小道の中央に立っており、かすかに見える敵と取っ組み合っていた。霧は濃く、視界を圧倒していた――彼は敵の心を察知し、暗闇を発生させている呪文を感じ、それを摘み取った。
黒煙が散り、そこに一人の征服者が立っていた。その吸血鬼は敵意にうなり、顎は乾いた血に汚れ、金と黒の鎧が輝いていた。薔薇の紋章がその胸鎧に浮彫りにされており、兜の先端は鋭く曲がってゴルゴンの頭上に伸びていた。鎧には乾いた塩の塊が貼りついており、この吸血鬼はもう一隻の難破船の生存者に違いないとジェイスは結論づけた。
ジェイスは片手を挙げ、敵をまごつかせるほどの大規模な嵐の幻影を作り出した。
頭上の梢から激しい雨が降り注ぎ、小道の鮮やかな緑に影がさし、雷鳴が頭上に響いた。
ヴラスカは動じないようで、だが吸血鬼は驚いて動きを止めた。その女性はわずかに跳び上がり、だがヴラスカの剣が命中する瞬間に肩の鎧でそれを受けた。吸血鬼は剣を収めたまま近寄り、猛烈な蹴りと殴打で攻撃した。ヴラスカは反応して剣を振るおうとしたが、それは顎への鋭い突きで遮られた。彼女はその吸血鬼を石と化すべく魔力を集中しだした。
ジェイスは再び手を伸ばしつつ、吸血鬼の精神へ届こうとした。だがその乱闘の混沌はすさまじかった――そして彼はあまりに未熟だった――片方の手甲が額に命中した。彼は地面に倒れ、集中が途切れた。
幻影の暴風雨は消え、木漏れ日が視界に再びちらついた。
ジェイスがふらつく頭で見つめる中、吸血鬼は地面に屈み、手探りで何かを捜し、そして彼の足元にあった魔学コンパスをひったくると、深い密林へと駆けこんでいった。
ヴラスカは悪態をつきながらよろめき立ち上がると、片手で目を覆いながら苦痛に息を鳴らした。彼女は自身の魔力を散らし、不満にうめいた。
そして一本の木を蹴った。
ジェイスは目を閉じ、集中した。
「追跡できます」
彼は目を開けて顔を上げ、乗組員への目印とした巨大な馬の幻影をまたも宙に放った。
ヴラスカはまだ息巻いていた。「あの忌々しい吸血鬼、私が別の船長を石にしたって学んだに違いない。乗組員を生かしておくべきじゃなかった」
ジェイスは溜息をついた。「客観的に、ヴラスカさんは間違っていませんでしたよ」
ヴラスカは再び木を蹴った。
「あの女性を見つけてコンパスを取り戻す。それから気が済むまで木を蹴って下さい」 ジェイスは決意とともに言った。
ゴルゴンは深い溜息をつき、少し考え、頷いた。彼女は額にわずかな皺を寄せてジェイスを見た。
「本当にあいつを追えるのか?」
「断言できます」
ジェイスは目を閉じ、集中した。
そして吸血鬼の心へ耳を澄ました。
だが代わりに聞こえてきたのは、二人組の怒れる内心の独白だった。
『ティシャーナさんはずいぶん先へ行ってしまった。どうしてエレメンタルはあんなに速く動けるの? 次は左、蔓を避けて、あそこ、先に、鉄面連合の男が後ろにいるあれは――緑の肌の海賊?』 | 『鈍くて愚か、典型的な太陽帝国のだらしない輩。この先に緑の肌をした女がいる、あのコンパスを持っていると噂の。あの幻影を追って、蛇を召喚して戦わせて――』 |
ジェイスは驚きに両目をはっと見開き、そして流暢な動き一つで両腕を身体の前に交差した。
巨大な、空を飛ぶ蛇の幻影が両腕に激突し、ジェイスの精神防御の前に左右に割れた。
幻影の主は巨大なエレメンタルの背に、危なっかしく立っていた。
そしてジェイスはもう一つの心の声の主を見た。その女性は恐竜に騎乗し、同じ羽毛で飾られた鋼の鎧をまとっていた。その脇には半円形の刃が下げられ、急ぎこちらに駆けてくると長い編み髪が宙に舞った。
《鉤爪の切りつけ》 アート:Magali Villeneuve |
ジェイスの思考過程は仮定から結論にまで飛躍した。寒気が首筋を駆け下りる中、彼は近づいてくる人間へと片手を挙げてみせた。女性は恐竜の手綱を素早く引き、その獣は直ちに停止した。そしてその上に乗る女性は必死に辺りを見た。
「あの蛇は何処へ?」
マーフォークの鰭がはためいた。「幻影です!」
彼女は片手を挙げ、すると蔓が地面から弾けてジェイスの両脚に巻き付いた。
彼はどさりと地面に倒れ、自身にかけていた不可視魔法が消えた。
ヴラスカが踏み出して彼の前に立ち、あの騎士とマーフォークへ声を上げた。「待ちな!」
「何で私らを追ってるんだ?」 彼女はそう尋ねた。
ジェイスはそのマーフォークの心の表面を探ることを自らに許した。
「そのマーフォークはコンパスのことを知っています」
マーフォークの鰭が驚きと怒りに広がった。
ヴラスカは唇を歪めた。「お前たちは何者だい?」
ジェイスは立ち上がり、脚に絡んでいた蔓は退いた。彼はヴラスカの隣に立ち、相手を見つめた。
エレメンタルが攻撃しようと身構え、マーフォークはその脇に安心させるように手を置いた。「私はティシャーナ、川守りの長老にしてオラーズカを守る者です。海賊よ、我らが同胞の一人があなたがたについての実り多い噂を聞いていました」
ジェイスは無言で自身を呪った。孤高街の酒場にいたあのマーフォークがずっと盗み聞きしていたのだ。
マーフォークの隣の騎士は肩を正した。「太陽帝国のファートリといいます。戦場詩人であり、侵入者を打ち負かすべくここにいます」
「戦場詩人」の言葉とともにファートリの目が引きつったことに、ジェイスは気付かずにはいられなかった。
ティシャーナはヴラスカを睨みつけた。「あの都もその内なるものも、何人たりとも所有することは叶いません。コンパスを渡すか、この場で死ぬかです」
「やる気かい」 ヴラスカは喉を鳴らし、魔法的な意思に両目が輝きだした。
ジェイスは片手を伸ばし、その凝視を防いだ。
「俺達、持ってないんです」 彼は口を滑らせるように言った。
ヴラスカは怒りの息を漏らし、両目から彼の手を静かに除けた。彼女はじれったく腕を組んだ。
マーフォークが彼の言葉を聞いたのは間違いなかったが、その表情は疑っていた。代わりに、彼女は耳を澄ますように首をかしげた。
好奇心から、ジェイスは再びそのマーフォークの心の表面に触れた。何らかの見えざる繋がりを通して、この女性は前方の密林を進む侵入者を感じ取っていた。木々や土への繋がりは繊細で、侵入者が残す一歩一歩が雨林に軌跡を残していた。それを直に経験し、ジェイスは高揚した――このような力がありえるなど思いもよらなかった。
マーフォークはジェイスを見た。「吸血鬼が近くにいます。あの女性があなたがたから装置を奪って逃げたのですか?」
恐竜に乗った騎士は琥珀色のもやを瞳に宿し、その恐竜が深い唸り声を上げた。ジェイスは周囲で他の恐竜が動く音を聞いた。
彼は身構えて立ち、拳を握りしめた。「あの吸血鬼がコンパスを奪っていきました」
背後の密林で何かが顎を鳴らした。その音にヴラスカとジェイスは飛び上がった。
騎士は微笑み、恐竜を転回させると勝利の笑みを浮かべた。「ご協力ありがとう」
マーフォークは素早くエレメンタルの上に乗り、女性二人は密林へと消えた。
二人が去るや否や、ヴラスカはジェイスへ顔を向けた。
「あの吸血鬼を追えるか?」
ジェイスは頷き、素早く吸血鬼の精神を聞いた。
彼は微笑んだ。
「それ以上のものを追えますよ」
ヴラスカは頷き、二人は深い森へ入った。ジェイスは駆けながら、乗組員らへ向けて今一度合図を送った――そして幻影の荷馬はその下の主と同じ道を駆けた。
ファートリ
駆けながらファートリは乗騎に片手を置き、互いの繋がりを通じて少しの魔力を送った。
恐竜は人間が目で見るものを匂いとして知覚する。長年の訓練で、ファートリは乗騎との最良の交信手段を心得ていた。
見つけなさい。血。腐朽。吸血鬼。
恐竜は大気の匂いをかぎ、狩りのために頭を低くし、速度を上げた。
木々の葉が鞭打つように後方に過ぎ去っていった。周囲の枝が巨木となり、頭上の梢が細くなる中、ファートリは目を慣らした。彼女らが通過すると小型生物が避け、頭上の梢では鳥と恐竜が捕食者を見て警告の金切り声を上げた。
「少しかかるかもしれません」 ファートリはそう言った。
それは九時間を要した。
《手付かずの領土》 アート:Dimitar |
《島》 アート:Raoul Vitale |
彼女らは急な丘を下り、枯れた谷を抜け、そして騎乗したまま浅い湖に入った。近づくたびに吸血鬼は更に前方へ遠ざかり、止まって息をつくたびに、二人は敵の粘り強さに驚嘆した。
「死人にしては速すぎると思いませんか」 ファートリは息を切らし、痙攣した大腿を撫でた。恐竜は湖の水を貪欲に飲んでいた。
ティシャーナは動じていないようだった。「天地の綴れ織りはそれが織られる速さでなく、その糸の究極的な繋がりだけを気にかけるものです」
ファートリが目を丸くするのはこの日これで六度目だった。
《森》 アート:Raoul Vitale |
《陽花弁の木立ち》 アート:Dimitar |
やがてマーフォークと騎士は湖を渡り終えた。
ファートリは恐竜の歓喜を感じた――獲物は手が届く所に迫っていた。そしてその通り、すぐに彼女はあの黄金をまとった人影を前方に見た。吸血鬼は木にもたれかかり、疲労に息をついていた。
「ティシャーナさん、私に任せて下さい!」 ファートリは声を上げた。マーフォークはエレメンタルの速度を緩めて彼女の後についた。
恐竜は近づきつつ、攻撃のために身を低くした。吸血鬼は振り返って接近するものを見たがそれに反応する余裕はなく、恐竜は顎を開いてその腰に噛みついた。
吸血鬼は驚きに悲鳴を上げ、ファートリの恐竜は巨樹の幹にそれを投げつけた。
ファートリは乗騎を降り、吸血鬼へと徒歩で近づいた。
敵は自分よりも長身で、怒れる血の筋が襟元を汚していた。その鎧から飛び出た紐は汗で重く濡れ、その表情は、いかに不都合でもお気に入りの服以外は着たくないと駄々をこねる子供のようだった。
「血が無くても汗はかくのね」 ファートリは言って、吸血鬼の胸に蹴りを直撃させた。吸血鬼は息を詰まらせるうめきとともに木へ倒れた。そして喘ぎ、鎧の襟元を引いた。
ファートリはにやりとした。「それとも、トレゾンに密林は無いのかしら? 不快じゃない?」
その両目が琥珀色に輝き、恐竜は低い咆哮を震わせた。
『捕まえなさい』 ファートリはそう指示した。恐竜は直ちに前進し、今一度吸血鬼をその顎で確保した。
その噛みつきは鎧を突き刺すには至らず、だが吸血鬼を地面から持ち上げる力があった。吸血鬼はもがいて抵抗し、恐竜の分厚い皮膚を叩き、引っかきながら剣を抜こうとした。
「振りなさい」 ファートリは声に出して言った。
恐竜は吸血鬼を上下に揺さぶり、征服者はそのたびにうめき声をあげた。
奇妙な見た目のコンパスがそのポケットから飛び出し、地面に落ちた。
ファートリは膝をつき、それを取り上げた。美しく精巧で、掌を通してエネルギーの響きを感じた。
そして指示した。『放しなさい』
吸血鬼は恐竜の唾液にまみれ、ぬめる落下音とともに地面に落ちた。ファートリは近辺にいる肉食の捕食者を感じ、魔力の爆発でそれを招待した――御馳走よ! 彼女は密林の中をラプトルが駆けてくるのを察した。ファートリが素早く鞍に登ると、乗騎は密林に入った。
太陽帝国最高の戦士は決して殺さない、だが飢えた獣に食事を与えず放っておくこともしない。
ファートリは顔に笑みを浮かべてティシャーナの隣に急いだ。「急ぎましょう、吸血鬼が追い付いてくる前に! コンパスを手に入れました!」
マーフォークは笑みを返した。その歯は小さなナイフのようで、綺麗に並んでいた。「お見事です!」
ティシャーナはコンパスを手にとり、手の中で回して調べた。まるで神聖な文書を注意深くそうするように。
彼女は目を狭めてそれを見つめ、そしてファートリへ悪賢い視線を向けた。
コンパスは脈打つ琥珀色の光をまっすぐ前方に放ちだした。
ティシャーナの顔を飾る鰭がはためき、彼女は目を閉じた。
ファートリは黙って待った。川守りは自分に見えないものを感じ取るとわかっていた。少しして、マーフォークの両目が大きな驚嘆に開かれた。
「旅の終着点が近づいています」
この時ファートリは興奮から目を丸くした。「本当ですか?」
「それを取り巻く地の一部、ですがまだ分かたれ、隠されています。動くことはなく、とはいえそこへ至る道は変化するような魔法がかかっていて......」 ティシャーナは再び目を閉じて指をさした。それはコンパスの針と平行だった。「この先を、半日ほどです」
ファートリは毅然と頷いた。「でしたら止まるわけにはいきません!」
ティシャーナは言葉を切った。
彼女の乗騎はごくわずかにファートリから遠ざかった。その両目はコンパスを見つめていた。
ファートリはわずかに身構えた。「ティシャーナさん、一緒に行くという取引をしましたよね」
「そうですね、取引をしました」
ファートリは何か言い返そうとしたが、不意の殴打音とともに巨大な帆布が顔を覆い、彼女を乗騎から叩き落とした。
身体をすっかり巨大な布地にくるまれ、ファートリは地面に落ちた。もがいて脱出しようとしたが、布地はきつくなるばかりだった。生地の先で彼女は恐竜が悲鳴を上げ、突然黙るのを聞いた。その静寂は十人ほどの歓声に破られた。
鉄面連合。
覚えのある女性の声が笑った。「そいつを放しな、アメリア」
布地はファートリを立たせ、回転して解けた。彼女は解放されたが眩暈につまずいた。
海賊の舵魔道士が両手を構えて立っていた。そして帆布が――この女性は帆をはるばる浜から引きずってきたのだろうか――ファートリの両手を拘束していた。
ファートリは愕然とした。目の前で彼女の鉤爪竜が攻撃のために身を低くし、口を開け......完全に石に包まれていた。
あの、緑の肌の海賊の女性が真新しい石像に手を滑らせていた。その女性は膝をついてファートリと視線を合わせ、笑みを浮かべた。
「コンパスを返してもらうよ」 女性の髪となっている触手と蔓が満足と喜びにうねった。彼女はファートリの足元に落ちたコンパスを拾い上げた。
「どうやって追い付いたの!?」 ファートリは吐き捨てた。
緑の肌の女性が舌打ちをしてかぶりを振った。「お前が追っていた吸血鬼はまっすぐコンパスに従ってたんだよ。この地域を横切るのは得策でないっていうのにね。空の目と地面のテレパスがあれば、近道を見つけるのは簡単さ」
その背後のセイレーンが得意そうに羽根を繕い、青色をまとった男がとても丁寧に、笑みとともに頭を下げた。
「他に質問はあるかい?」 その船長が尋ねた。
ファートリは怒りを集中させ、力の限りに一つの呪文へ繋げた。両目が琥珀色に輝き、背後の密林で鉤爪竜の群れが声を上げた。この密林においては、彼女はいつでも乗騎を確保できた。
恐竜らが現れて向かってくると、海賊たちは散り散りに逃げだした。ファートリは苦労して束縛を解くとティシャーナを探した。本当にあのマーフォークは! あの裏切り者はどこへ行ったの?
彼女への返答は遠くの轟き音として届いた。
それが何かを目にするまで待つ気はなかった。
《呑み込む水流》 アート:Yongjae Choi |
背後にティシャーナが両腕を伸ばしていた。密林を突き抜ける洪水が呼び起こされ、木々は水の衝撃にうめいて曲がった。
ファートリはかろうじて恐竜へと退散の命令を送った。そしてティシャーナが呼んだ洪水が逃げる敵へ向かうと、安堵の溜息をついた。
海賊らは悲鳴とともに散開した。緑の肌の女と青い服の男も逃げたのは間違いなかった。
「戦場詩人さん、一人でお行きなさい」 ティシャーナは芝居がかって言った。「私は私でクメーナを止めねばなりません」
ティシャーナが深い密林に姿を消すと、ファートリはまたも目を丸くした。
そういうこと! 約束を違える気ならば、こちらもだ! ファートリは色とりどりの悪態を口にした。
彼女は再び、新たな乗騎を召喚しようとした。あの緑の肌の女を匂いで追う必要があった。マーフォークの案内人は去ったとしても、もはやそれを必要としないくらいには目的地に近づいていた。
だが、とある声に彼女は驚いて息をのんだ。
「止まれ、そこのプレインズウォーカー!」
アングラスが木のように堂々と、短角獣のような巨体で立っていた。頭は角を持つ獣のそれで、身体はかろうじて抑え込まれた力に波打っていた。赤熱した鎖を肩から下げ、その男は疲労に息を切らしていた。
アングラス。
全ては、以前この海賊が攻撃してきたことで始まったのだ。全ては、この怪物が見せたものから始まったのだ。ファートリは顔をしかめ、海賊らが逃走した方角へ走った。
アングラスが追いかけてきた。
「待て! お前と話がしたいんだよ!」
「お前の声など聞きたくない!」 ファートリは後方へ叫んだ。
ファートリは右を見た。アングラスは背後に迫っていた。
彼女は速度を上げ、だが一本の鎖が打ちつけられて足首に巻き付き、ファートリを地面に引き倒した。
勇敢な表情で彼女は恐怖を隠し、片手を挙げ、力の限りに多くの恐竜と獣を召喚する呪文を唱えようとした。
「止まれってんだよ!」
その男は前進して膝をつき、冷えて黒い鎖を地面に置いた。
ファートリの心臓が高鳴っていた。かつてないほど怯えていた。この殺人鬼は何を楽しんでいる?
「お前は俺と同じなんだよ」
「何も同じではない!」 ファートリは反抗的に、声を張り上げた。
「違う、馬鹿。そうじゃねえ」 苛立ちで厳しい目をしつつアングラスは返答した。「お前を傷つける気はねえ、プレインズウォーカー仲間だ」 そして立ち上がり、彼女を見下ろした。
ファートリは詰問しようとしたが、アングラスは冷静かつ決然として言った。「この次元に俺達を閉じ込める何かが、あの都に隠されている。それを見つければ、助け合って違う世界へ逃げられるはずだ」
混乱の中に、疑問の小さなきらめきが弾けた。
アングラスは続けた。「......そのためにやる事は一つ。俺達の手からオラーズカを奪おうとする奴を皆殺しにする」
ファートリの希望は消え、不快な感情が胃袋を満たした。
わけがわからなすぎる。人殺しの怪物が私の友になりたがっているなんて。
ヴラスカ
魔学コンパスはヴラスカの手の中で反響を始めた。
駆けながら心臓が高鳴っていた。隣にはジェイスが、背後には乗組員らがいた。
マーフォークが起こした洪水は小気味のよい攪乱だったが、「喧嘩腰」号の仲間はそうやすやすと洗い流されはしなかった。
前方へ飛んだマルコムが、驚きとともに戻ってきた。「この先の丘にあります!」
「走り続けな!」 ヴラスカは乗組員らへ叫んだ。近づいていた、信じられないほどに近づいていた。
イクサランでもこの付近の木々は異なっていた。ヴラスカと乗組員らは山岳地帯を通過し、今や霧と植物の迷路を通っていた。時折、彼女らは美しい黄葉の木々を過ぎ、そして岩の中やその隣には、貴重な黄金の鉱脈が地衣類と苔の下できらめいていた。
大地そのものが、その秘密を見せたくて仕方ないようだった。
「喧嘩腰」号の乗組員らは開けた場所へ辿り着き、全員が足を止めた。緑の上、黄金の標のように、オラーズカの尖塔が空を貫いていた。
《オラーズカの尖塔》 アート:Yeong-Hao Han |
その先端は地平線を見下ろしていた。あまりに巨大なその大半は木々の終わりない障壁の下に隠されていた。丘そのものが、もつれた密林に覆われて埋もれた都なのかとヴラスカは訝しんだ。
彼女は魔学コンパスをしまい込んだ。それは今や、彼女らを取り巻く凄まじい魔力を映すように脈打ち輝いていた。
「ここにあるのは不滅の太陽だけじゃありません。俺達をここに閉じ込める何かの魔法もあるんです」 彼女は背後から声を聞いた。
ヴラスカは振り返った。ジェイスがやって来て、残りの乗組員らは最後の行程を前に足を休めていた。
彼女は頷いた。「不滅の太陽が実際に何なのかはまだわかっていないんだ。多すぎる噂から幾つもの理論が囁かれてる」
「文字通り、俺達がここから離れる鍵かもしれません」
「かもな。血を吸わずとも永遠の命を得られるとか、太陽帝国に無敵の力を与えるとか言われている。どんな奴にも制御できないくらい危ない、想像を絶する力の泉だとも」
「俺は、ここにあるべきじゃない何かだって思います」 ジェイスが答えた。「この世界に持ち込まれた何か」
ジェイスは顎に片手をあてて考えた。「まあ、ただの岩の塊かもしれないんですが。そして何もしない。ニコラス卿は岩の収集家だったりします?」
「それはあいつに言わない方がいいぞ」 ヴラスカは肩をすくめた。「変な趣味をした奴がどう叩いてくるかは知りたくないからな」
ジェイスも肩をすくめ、その時アメリアが近くで彼を呼んだ。彼は乗組員らへ向かい、雑談を始めた。
フードのない彼はとても違って見えた。あの島で彼を救出する以前に、それを被らない姿を見たことはなかった。
あの髪は見た目の通りに柔らかいのだろうか。
「ヴラスカさん、来ますか?」
「落ち着いてからな。皆を集めてくれ」
ジェイスは残りの皆を呼び、ヴラスカはもっと命令的なものへと素早く感情を立て直した。
「喧嘩腰」号の乗組員らへヴラスカが向かおうとした時、足元の地面が傾いた。
乗組員らは驚きに叫んだ。マルコムは飛び立ち、短パンはアメリアの肩に登った。数人の乗組員は必死に周囲を見て何か掴まるものを探し、だがその不規則な動きから逃れるすべはなかった。辺りは次第に大きく震えはじめ、その足元の岩に長い亀裂が現れた。
「あれを!」 アメリアが遠くの尖塔を指さした。
それらは空の更なる高みへと上昇を始めていた。地震が突き上げるたびに、都そのものが密林から姿を現していった。蔓が切れ、木々は地面から荒々しく引き抜かれ、太陽翼の群れが空へ逃げるとともに、都の姿が次第に露わとなった。
アート:Titus Lunter |
マルコムがヴラスカの隣に着地した。その両目には狼狽があった。
ヴラスカは彼の肩を掴んだ。「私らが近づいたからか?」
「誰かが先に都へ着いたに違いありません」
彼はヴラスカの手の魔学コンパスを示した。確かに、全ての針が見たこともない程熱狂的に輝いていた。
地面の揺れよりも大きく、何か巨大な獣のうめき声が響いた。
その始原の音はヴラスカの心臓に恐怖を走らせ、彼女は凍りついた。同じような音が同じほどの大きさでもう一度......更にもう一度......彼女の戦慄は深まるばかりだった。
何かが目覚めたのだ。
辺りに水が浸み、ヴラスカはその源を見た。近くに地割れができており、川から分かれた水が、都の足元にできたばかりの巨大な谷へと注がれていた。
ヴラスカの足元で地面が震え、黄金の都オラーズカは更に高く伸び上がった。
今やそれは何世紀もの植生から解き放たれ、明確に目にすることができた。途方もなかった。
都そのものが花弁のように開いた。その名に違わず、都の構造そのものが完璧かつ手の触れられていない黄金で、ターコイズや琥珀、翡翠で飾られていた。荒れ狂う川と滝の上に傾斜路や通路が伸び、頭上高くには入念に刻まれた見慣れない紋章や模様があった。
遠くに目覚めたそれを直接目にして征服したい、ヴラスカは興奮と対になった大胆な欲望に満たされた。彼女はついて来るように仲間を呼び、だが歩きだそうとした時、またも地震に襲われて地面に倒れた。
「ヴラスカさん!」
彼女は頭を向け、愕然とした。自分達が立っていた空地の端は二つに割れ、今にも落ちそうなほど不安定な岩にジェイスが掴まっていた。
側の川から水が殺到すると、他の海賊らは脇に避けた。水はかさを増し、すぐに岩棚を押し流すほどの奔流が迫った。
ヴラスカは川の水へ分け入って可能な限り歩き、そしてジェイスへ向かって流れを泳いだ。彼女は川の水を吐き捨て、手を伸ばしてジェイスの手へと届かせようとした。
二人の指がかすめた瞬間、地面が今一度横に大きく揺れ、ジェイスは掌握を失った。
「ジェイス!」
両目を恐怖に見開き、必死に両手を伸ばしながら落下するジェイスを、ヴラスカは見つめた。
そして怒りと悲嘆に叫んだ。滝の底は見えなかった。
アート:Wesley Burt |
ヴラスカは身体を伸ばし、落下するジェイスの姿を見ようとして、だが彼女が掴まる岩も動いた。
落ちながら、細かい水飛沫が腕を刺した。彼女の両手は必死に掴むものを探した。
悲鳴を上げる余裕はなかった――ただ体勢を変え、足から水面に飛び込むようにするしかなかった。
ヴラスカは底の池に飲み込まれた。
そして水をかき、水面に出ようともがいた。
荒れ狂う水に身体を掴まれ、叩きつける滝の勢いに水面下へ押しやられたが、そう簡単に死ぬわけにはいかなかった。目指したものがここまで近づいているのだ。
指が水面を破ったのを感じ、必死に空気を求めて彼女は蹴った。そしてようやく顔を出し、空気を吸って水を吐き出した。靴の中に衝撃の痛みを感じ、蹴ると両脚に打ち身ができているのを感じた。石と黄金の巨大な壁が水の両脇に飛び出しており、目覚めた都オラーズカが頭上高くにそびえていた。
突然、鋭く突き刺すような熱い痛みが額に走った――彼女は悲鳴を上げ、同時に一つの映像が心にひらめいて消えた。
《島》 アート:Richard Wright |
映像は消え、ヴラスカは驚きと苦痛に息をのんだ。
狼狽がまたも血管に溢れ、挙動を整えようと首をもたげつつ必死に水を蹴って岸へ向かった。自分は今もイクサランにいる、だが心の映像はラヴニカのそれだった。
今のは何!?
彼女は怖れ、混乱し、真新しい川が露出したばかりの岩に当たる場所へと必死に泳いだ。
ジェイスの姿があった。彼は川岸近くの岩にしがみつき、頭の傷から血が溢れ出て両目は魔力に輝いていた。その表情は混乱と苦痛で赤らみ、両目はどこか遠くを見ていた。
あいつも見たの――?
「ジェイス!」 彼女は声を上げ、近くまで泳ぎ、濁った水から重い衣服ごと身体を持ち上げ、滝がもたらす素早い流れから離れた。「ジェイス、その頭――うああ!」
《ギルドパクトの印章》 アート:Franz Vohwinkel |
ヴラスカは愕然とした。
彼女は青い外套とフードをまとい、アゾールの公会広場中央の高段に横たわっていた。イゼット団の創設者、ニヴ=ミゼットが見下ろしており、ラヴニカ全ギルドの迷路走者の顔が判別できた。これは一つの記憶だった。意義、帰属意識、責任に彩られた記憶。ジェイスが生けるギルドパクトとなった日の記憶。
不意にその映像は散って消え、ヴラスカは再び川を泳いでいた。
戦慄とともに実感した。あいつは全てを思い出している。
すぐ隣を流れる洪水のように、ジェイスの記憶は一斉に戻っていた。彼はすぐに、ヴラスカについても全てを思い出すのだろう。すぐに自分達の遺恨を、彼女のギルドを、彼自身の仕事を思い出すのだろう。そしてこの数か月に起こった全ては無と帰すのだろう。ギルドパクトという地位を、そして彼女は暗殺者なのだと思い出し、自分達の友情は間違いなく、消え去ってしまうのだろう。
岸のジェイスへ向かって必死に泳ぎながら、ヴラスカは川の水に息を詰まらせた。彼は血を流して倒れながら、両目を輝かせて記憶の苦悶に我を失っていた。
終わった。その精神魔道士へ向かって浅瀬を泳ぎながら、ヴラスカは重い心で嘆いた。突き刺すような頭痛が知覚を溺れさせようとした。ジェイスの過去が彼の掌握から滑り落ち、彼女の心に叩きつけられていた。ヴラスカはただ目を閉じ、身を固くした。
Ixalan イクサラン
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