MAGIC STORY

ストリクスヘイヴンの秘密

EPISODE 11

サイドストーリー 選別の季節

Emma Mieko Candon
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2026年4月9日

 

実りし畑 拙(つたな)き鎌に 切り藁散りて

影が照らすは 娘が願う 庶幾(こいねが)う道

肩に穂担ぎ 娘の眼(まなこ)は家路を見つめ

されど私は渇望し 模糊たる道を蹌踉(そうろう)進む

――エムブローズ・ルー著『選別の季節』より抜粋


 茶器が片付けられた低い食台にサフランの葉が影を落とし、カルダモンと胡椒の香りがアダンブラル庭園に漂っていた。茶会はとても良い催しだった、とキリアンは決闘の準備をしながら考えていた。悲しいことだ。

 交渉がもつれた瞬間は見逃した。多分茶の選定から大使たちの杯に茶を順に注ぐまでの間に何かがあったのだろう。それはともあれ、ピンザリ諸島の海運関税については合意を見たが、式典は苦い後味を残して幕を下ろし、またアミティの公開討論所において険悪な雰囲気を解消する手段はただ一つしかない。

 代表団は退席し、決闘者たちの為に道を開けた。キリアンは黒大理石の階段を上って屋外舞台へと向かうが、やる気は半ばと言ったところだった。これは愚かな事であり、この茶番を真剣に受け止めるのは難しいことに思える。

 肩で揺れていた鳥型の墨獣がたしなめるようにちらつく仕草を見せる。キリアンは顔をしかめる。いや、ドーコーの言う通りだ――これは茶番ではない。儀式なのだ。

 この討論所ではすべてが儀式であり、そしてここでは儀式がすべてなのだ。それは車輪であり、道路であり、アルケヴィオス人の平和を何百年もの間維持し続けてきた方法だった。正確には、七百年。仮にキリアンがこの方法に疑念を抱いていたとしても、それ以上にうまくいっていると思わされていた。

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アート:Billy Christian

 さらに、キリアンはこの庭園の小さな広場で代表団が睨み合っている事を意識せずにはいられなかった。あるいは、キリアンが代役を申し出た討論所の付添人が浮かべる不安げな表情を。そして、向かい側の階段を上がってきた決闘相手のレオニン族が纏う、厳粛なまでの真剣さを。

 キリアンは訝しむ。ピンザリ代表団にレオニンは居なかった。だがそれを問う資格が自分にあるだろうか? 自分は補佐役だった。本当の問いは、何故決闘に挑むのかという事だ。自分には自分なりの理由がある。では、相手にはどのような理由があるのだろうか?

 討論所の伝統に従い、二人は頭上に印を描きながら互いをじっくりと観察した。紋章にはそれぞれが所属する派閥(キリアンはドラドゥール、対戦相手はピンザリ)と、条件(“満足”――それがどれほどの意味を持つのかはともかくとして)が記されていた。

 キリアンは対するレオニンの若さ、白と鮮緑色を纏うシルクメドウの装束、そして堂々とした態度に注目した。対戦相手は琥珀色の瞳でこちらを鋭く観察し、キリアンははっとした。その視線にはどこか覚えがあった。

 思考の時間は過ぎ去った。決闘者たちは整然華麗に印を描き終えた。互いに礼を交わす。鐘の音が鳴り響いた。

 「昇りし陽よ、深き傷を空に」

 レオニンが先制攻撃を仕掛け、彼の言葉は金で縁取りされ蛾の翅を纏った白い光の鞭を表現し、キリアンに向かって振り下ろされた――それはまさにキリアンの狙い通りだった。

 「呼ぶ声あらば応えよう。叫声(きょうせい)あらば断ち切ろう」

 キリアンの墨が鞭を掴み取り、舞台に叩きつけた。鞭はガラスのように粉々に砕けた。

 レオニンは険しい顔になり、次は巧妙な一撃を仕掛けてきたが、キリアンは全て阻止した。彼は既に勝利を確信していた。対戦相手は苛立った様子で、何度も腕を振り回して防御はがら空きだった。

 しかしキリアンが最後の返答を放とうとした時、何かを渇望するレオニンの琥珀色の瞳に覚えがあると気づいた。あの視線を知っていた。何でもいいから――どんなことでもいいから――ただ、一度だけでも上手くいってほしいという、絶望的な思い。

 キリアンは口を閉じ、この後に来る衝撃に身構えた。


 その次にキリアンが抱いた愚かな思考は、仰向けに倒れて呼吸ができないのは何故だろうという疑問だった。胸がひどく痛む。ドーコーが頭上で慌てふためいており、横では対戦相手のレオニンが気まずそうな表情を浮かべていた。

 「私は――その――」レオニンには手を差し伸べることしかできなかった。

 「そちらの勝ちだ」キリアンはそう言いたかった。しかし絞り出すような喘ぎ程度にしか声は出てこなかった。

 キリアンは引き上げられて立ち、視界がぼやけた。先の対戦相手は、名前を尋ねる間もなく、庭園の奥に設置された長椅子にキリアンを座らせた。

 「クラウンだ」レオニンはぶっきらぼうに言った。

 「クラウンフラワーでしょ」とからかうような声が聞こえたかと思うと、冷たい手がキリアンの額に触れた。優しい飾り紐のような癒しの力が、手際よくその指先から痛む頭蓋骨へと流れ込んでいった。「お母さんはあなたが人を殺しかけたって知ってるのかしら?」

 「勝てるなんて思わなかったんだよ!」クラウンは抗議した。「すごく素早くて、それで――むきになってしまって」

 「それに僕も馬鹿だった」と、やや舌をもつれさせながらキリアンが言った。「誰だって失敗はする」

 その言葉は先ほどよりもはっきりと喉から出てきた。そうしてようやく、自分を治療してくれている人物に意識を向けることができた。青肌のオークの女性で、黒髪にはカソーラ風の編み込みが施されていた。彼女は頬をかるく撫でてきた。「クラウンフラワーをおだてすぎないようにね。すぐ調子に乗っちゃうんだから」

 「ヴァーディス」

 「院生に決闘で勝てる、っていい気になって恥をかかないようにしてあげただけよ」

 「ああ!」キリアンはよたよたとクラウンを指さした。「どこかで見かけたと思っていたんだ――シルバークイルに入学を決めたばかりだろう」

 クラウンは肩越しにちらりとだけ振り返った。「おとなしく寝てたほうがいい」

 「自分が脳震盪にしてやった相手を説教するとはね」ヴァーディスは舌打ちした。「そんなに誰かに見られたくないなら、あたしに任せときなよ」

 クラウンは腕を組んだ。「いや。どうしても知りたいことがある」再び、彼はあの琥珀色の視線をキリアンに向けた。「私が勝つはずはなかった。なぜ私に勝利を譲った?」

 「それが気になってたのかい?」そう尋ねたヴァーディスは興味が出てきたようだ。「それで? 聞かせてよ。討論所でも一番人気の補佐役が、なんで一度負けてみようと思ったの?」

 キリアンは肩をすくめようとしたが、その動きで再び頭痛がした。「何でもないんだ。ただ……決闘は気晴らしのために行われているものだろう? 決闘に賞金を出したりはできないし――ましてやその結果が契約内容に影響を及ぼすことは絶対にない」

 特にその行為については固く禁じられている。シャドリクス・シルバークイルが直々に禁止令を作成したほどだ。

 「だから、決闘の要点は感情を発散させる――反感をやわらげることだ。だけど僕がここで三か月間務める中で、勝とうが負けようが“満足”して去る者を見たことがない。負けたことで苦い思いをするか、あるいはもっと悪いことに、勝っても何もないがゆえにもっと苦い思いをするかのどちらかだ」

 キリアンの頭蓋骨から眩暈がするほどの熱がこみ上げ、見知らぬ相手にこんなことをぶちまけるものではないと警告を発する。しかしヴァーディスとクラウンが興味津々でこちらに視線を向ける。構わない! 大したことじゃない! 軽率な発言は脳震盪のせいにしよう。

 「決闘が全く機能していないということではないと思う。討論所はまだここにあるんだから、そうだろう? だけど……まるで僕たちの方に問題があるみたいだ。アルケヴィオスに。誰もあるがままを受け入れる方法を知らないような」

 ヴァーディスは甲高い笑い声をあげた。クラウンの「ハッ!」と吐き出した声がこだまする。キリアンは眉をひそめた。馬鹿にされているのだろうか?

 それを尋ねる機会はなかった。遠くでざわめきが起こり、クラウンとヴァーディスは不意に口を閉じた。大議会場、会館の中央に位置する大ギャラリーで何かが起こったのだ。太いアーチ道が一日中、書類や人々を討論所へと運び込むような場所で。

 騒ぎはどんどん大きくなってきた。キリアンは訝しみ――よろめき、支えようとしたヴァーディスの手を振り払って――立ち上がり、歩廊を歩き出した。三年が経過した今でも、予期せぬ物音が気にかかり、そちらへ駆けていく。確かめなければならない。もしも、もしもまた……

 ――息詰まるような胸の感覚。逃げ惑う仲間たちの必死な息遣い。最後に垣間見た、父の後ろ姿――

 ドーコーが肩に止まり、頬に顔をこすりつけてきた。軽くうなずいて感謝を表す。大丈夫。きっと大丈夫だ。

 それでもキリアンの視線が歩廊の奥に見える光から逸れることは一度もなかった。


 白と黒の大理石で建築された三階建ての大議会場には銀のアーチ道が四本設けられており、青い光に揺らめくポータルがアルケヴィオスの各所へと通じている。北側の入口に大勢の人々がひしめき合っており、そこから何者かがちょうど姿を現したところだった。

 その騒動の中央には、二名の調停者とそれぞれの代表団が対峙していた。シルクメドウの派遣団を率いる堂々としたレオニンと、カソーラの派遣団を率いる傷だらけのオーク。大使たちはどちらも和平交渉で用いられる緑、黒、そして銀で彩られた伝統的装束を身に纏い、堅苦しい友好の意を互いに表明していた。しかし互いの代表団は、それぞれの地域が誇る絹織や麻織を誇示し、互いへと露骨な敵意を剥き出しにしていた。

 キリアンはその対立の様子を見て立ち止まったが、そうしたのは彼だけではなかった。いつもは騒然とした雰囲気の大議会場は静まり返っており、多くの視線がその緊迫した状況に注がれていた。

 囁き声が聞こえる。「仲裁人が来るまで対面しないようにと指示されていたのでは?」

 「何も話を聞いていなかったのか?」

 とはいえ、その仲裁人はちょうど到着したばかりだった。その人物は騒動の中心に立っていたが、その視線は面会に来た大使たちではなくまっすぐ前に向けられていた――キリアンへと。

 黒髪に、暗色で纏めた職服、険のある態度。そこに立っていたのはシルバークイルの暗影の学部長、エムブローズ・ルーだった。キリアンの胃が反射的に締め付けられる。キリアンは姿勢を正して父に会釈をした。しかしエムブローズは眉をひそめながら、視線をキリアンの後方へと滑らせた。

 キリアンは流れに引き寄せられるようにその視線を追った。振り返ると、誰もいない廊下だけがあった。クラウンもヴァーディスも見当たらない。

 大議会場に視線を戻すと、すでに父は争う代表団を引き連れて立ち去っていた。キリアンは奇妙な感覚を抱いた――父に余裕が無いように見えたのだ。

 馬鹿馬鹿しい。父さんはいつも嵐が人の姿をしているかのような威厳を纏っていたじゃないか。それでも、キリアンは上着の折り目に手を添えた。詩文の小冊子を隠し持っている箇所に。


足を踏みしめ 靴底は減り

心の臓 兎の如く気紛れに跳ね

巣穴は見えず 追いつめられた鹿もなく

井戸もなく 葡萄酒もなく 寝床も疼きも何もなく


 その後の数日間、キリアンが読んだ紛争に関するあらゆる記述は、血と水を語っていた。

 トール・カソーラの東端、砂漠から黄金色のシルクメドウ草原へと移り変わる場所に、モーンホロウと呼ばれる丘がある。その麓にはオール・グリームと呼ばれる泉が湧き出ていた。そこはオアシスであり、居所であり、避難所だった。ファイレクシアの毒によって大地が広範囲に渡り蝕まれたにも関わらず、そこは依然として清らかな地だった。献身的な魔道術士たちの支援をもってしても、かの地が癒えるには百年はかかるだろう。そしてこれはまだ三年分の苦難でしかない。

 すなわち、かつて争いがあったのだ。その戦争が七百年以上前に終結していることはもはや問題ではないのかもしれない。丘の上で失われた命にまつわる伝説や、麓の泉が血に染まった詩歌として、その戦争は今日に至るまで途切れることなく語り継がれている。

 キリアンが討論所の記録保管所でシルクメドウの労働歌を探すのを手伝ってほしいとクラウンにしつこく頼んだ時、こう言われた。「それは起源の話、誕生の歌だな。詳しく言えば、我々の蚕は草原の様々な品種を交配させたものだが、オール・グリーム種は今でも判別できる――繭の波模様が特徴なんだ」それから顎を上げて、しかし目は合わせようとせず、小さな声で続ける。「私が好きな子守唄は故郷に帰る歌だな」

 アダンブラル庭園を見下ろせるバルコニーでヴァーディスを見つけた時は――カソーラに伝わる、とある叙事詩の翻訳について意見を聞きたかったのだが――こう言われた。「運命の話よ。希望の物語。わかるでしょ、そうやって私たちの一族が生まれたの。昔は北と南と東から来た三つの氏族があって、みんなが飢えに苦しんでた。モーンホロウが飢餓の旅の終着点で、どこも人数が少なくなって一つにまとまれるようになったってこと」彼女は自分の真剣な語り口を重く感じたのか、顔をしかめた。「クラウンは子守唄が好きだって? まあ、あたしは酒宴の歌が好きかな」

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アート:Richard Wright

 キリアンの指が翻訳者の注釈の上で止まった。そのページのインクの膨らみを指先に感じ、ドーコーが好奇心を掻き立ててきた。「君とクラウンはどうやって知り合ったんだ?」

 二人の仲は既に想像がついている。最初に出会ったとき、クラウンがすぐにヴァーディスに助けを求めたこと、そして軽妙なやりとりの調子からも明らかだった。そして、あの決闘の日以来このふたりが目を合わせていない理由もわかっている。自分も、父が嫌う相手と簡単に付き合えるわけではない。

 シルクメドウとトール・カソーラの代表団は、互いに憎み合っていた。キリアンは、ファイレクシア侵攻以来の三年間に両者がそれぞれ提出してきたすべての苦情を既に読み終えていた。その告発内容は、水資源の横流しから露骨な強盗事件――さらには報復行為にまで多岐にわたっていた。報告されている事件はそれぞれ個別の事案に過ぎない。少なくとも書類上では。両代表団のあからさまな敵意を考えると、どちらにも不正行為を認める意思があるとは思えない。

 この領土の歴史的な分断の中で、クラウンとヴァーディスは一体どこで出会ったのだろう? キリアンが判断する限り、ヴァーディスはストリクスヘイヴンに入学できるだけの聡明さと秘術の才能を持ち合わせているが、ここ六年の間は大学にはいなかったはずだと確信している。もしいたなら、彼女の存在には気づいていたはずだ。こんなにも個性的な人物を見逃すはずはない。実際、彼女がおとなしくしているのは――そう、家族の前でだけだった。

 その家族には彼女の祖母も含まれている。カソーラの調停者を務めている彼女の祖母は、まさに今、このバルコニーの二階下の庭で、発展変化する境界警備の需要に関する公開討論会に出席していた。ヴァーディスは平静を装い、素知らぬ顔をしていた。

 彼女は下を意識することなく、しかしキリアンの質問に口ごもり、大理石の手すりに寄り掛かりながら肩を回した。キリアンは眉を吊り上げたが、そのまま答えを待つ。ヴァーディスは大げさにため息をついた。「子供の頃、一緒に勉強を教わってね」

 「どこで?」

 「あっちこっちでね。あいつの親族の所でしばらく小さい子の面倒を見たり。数年前にあいつが私の氏族の所に来ることになってたんだけど」

 「だけど?」

 どうなったと思う?」ヴァーディスはこの眼下の討論会へとわざとらしく肩をすくめた。そこでは光術師が言葉を織り上げ、しなる腕と残忍な歯を持つ奇妙な機械のぎらつく輪郭を作り出していた。キリアンの息が胸の中で固まった。ヴァーディスはキリアンの石のような表情を伝わった証拠と受け止め、またも肩をすくめた。「時として、望む世界はここには無いものなのよね」


 新たな問題に気を取られていたのはキリアンだけではなかった。

 付添人の談話室では、シルクメドウとカソーラの代表団がこの二週間で四つの儀式を怒号と激情とともに中断し、討論所の常駐係員が必死の努力で場を収めようとルー学部長を呼び出したという噂が流れていた。

 キリアンの立ち聞きに気づいていない二人の生徒はこんな会話をしていた。

 「ルー学部長って詩人じゃなかったっけ?」

 「詩人だよ、人を怒鳴りつけるのが滅茶苦茶得意な――行ってみようぜ、きっと面白いぞ」

 討論所の係員や記録保管所の管理人たちの間では、儀式そのものが話題の中心だった。命名奉納は半世紀ほど行われていない、長時間かかるだけでなく面倒であるがゆえに不人気な儀式だ――しかし、適切に実行すれば必ず突破口が開けるという実績もある。

 誰かに聞かれようとも構わないと言った様子で、二人の保管係が口論をしていた。

 「ああ、そうね、時間がかかって退屈なことを強制すれば、相手は極めて友好的な態度を見せるでしょうね」

 「その通り。とにかくそれを終わらせたいから、ほとんど何でも承諾してしまうってわけだ」

 エムブローズ・ルーは噂話に興じるような人物ではなかった。命名奉納が開始される前夜、大夕餐室の席でキリアンがその件について触れてきた際は、ただこう述べた。「それがお前の勤労学習とどう関係する? 気にすることではない。決闘で負けたと聞いたがな」

 キリアンは焼き野菜の皿を睨めつけた。「はい」

 「そうか」エムブローズも同じように眼前の野菜料理を厳しい目で見つめた。「いずれにしても勉学の妨げにならぬようにな」

 キリアンは、より正確に「勝たなかった」と、それがほとんど意図的なものであったとはっきり告げるべきか逡巡した。しかしその後に続くであろう会話が、自分にとって有益と言うよりはもっと面倒なものになると感じた。それよりも、父さんは僕をこう、宥めようとしているのだろうか? それがなんだか気に入らない。

 キリアンはフォークを芋に突き刺したが、食べようとはしない。「気を取られているわけではありません。ただ――心配なんです」

 キリアンの目には、誰もが恐れていることを、誰もが認めようとしてないように映っていた。七百年の歴史を持つアミティの公開討論所が、初の調停失敗という危機に直面しているという事態。

 「そろそろ決闘の要請が提出されてもおかしくないでしょう? それが必ずしも有効とは限らないことも理解はしていますが――」キリアンはそこで言葉を切った。まるでたった数日前に決闘の無益さを愚痴っていたのは自分だったというのに。

 しかしエムブローズは、またしても「お前が気にすることではない」と言うだけだった。

 キリアンは、自分が討論所の関係者と同じ病を抱えていることに気が付いた。だがもう遅い。自分も同様に、自身の問題を手放す方法がわからなかった。自分の問題は自分自身の課題に過ぎないが、シルクメドウとトール・カソーラ間の問題は必然的に全員に関わる難題となってしまうのが、自分と代表団の違いだった。

 どちらの代表団も怒りを手放す勇気を持たないかのようだった。

 その考えにため息を飲み込む。主菜が片付けられる前に、この空気を変えよう。「父さんの新しい本を買いましたよ」

 エムブローズは少しの間、言葉が理解できないかのような態度を取った。「ほう」

 キリアンは、懐にその詩集を入れていることをまったく悟らせないように振る舞った。父の作品について本人と話したことが今までに一度もなかったと、今更ながら気づく。情けないことだが、実のところ、読むのが怖かった。なぜ話題に出してしまったのだろう。しかし『選別の季節』は父にとって三年ぶりの本だ。なんだか……意味ありげでは?

 しかしこれ以上静寂を長引かせる危険を冒すほど意味ありげではない。

 「今取り組んでいる論文について話した方がいいですか」慌てて伝える。

 「そうだな」

 それでも世間話に固執し、無駄と思いつつも平穏につながる言葉を紡いでしまう。これも一種の儀式のようなものか。誰もが明日はそうであれと願うような。しかし食事中に口から出ることの無かった言葉の重みは消えなかった。キリアンは怖くなってきた――この重みが永遠に消えないのだとしたら。


かつて娘は花嫁衣装に身を包み

我が腕の中口づけを求め

今や狭霧は骨身に染みて

私を由無き花婿とする


 命名奉納に割り当てられた広間は細長で、視線を導く構造をしている。代表団はそれぞれ両端に着席していた。中央には仲裁人が佇み、その前には丸まった人ひとりが収まるほどに大きな銀の盆が置かれ、中は水で満たされていた。

 床からせり上がって階段状に配置されている長椅子は満席だった。傍観者たちは思わず身を乗り出していた。浅慮な者たちは見世物を期待し、そうでない者たちも先行きを案じていた。

 キリアンは東側の長椅子の中央、エムブローズの立ち位置の真後ろに身を置いた。中央を選んだのは、どちらかの側に付いていると判断されたくなかったから。父の背後に座るのは、正面から顔を見続けないようにしたほうが良い作法だと感じたから。

 両代表団の最初の代表者二名が、広間の両端から歩み寄ってきた。記録保管所の儀式記録に記されている通り、若い順だった。クラウンは部族伝統の絹の衣類を身に纏っていた。ヴァーディスは部族の伝統に則って髪を結い、亜麻布の衣類で着飾っていた。

 二人は向かい合って立った。キリアンが知る限り、この二人が顔を合わせるのは自分が出会ったあの日以来のことだ。二人の落ち着きぶりには感心させられる。上手くいくかもしれない。

 エムブローズは水に向かって、そして双方に向かって語り掛けた。「汝らは如何なる名で知られている?」そう言いながら、順番を示すように右手を、それから左手を上げた。

 「クラウンフラワー・マージェン、シルクメドウで生まれ、モーンホロウの収穫に根ざす者――」

 そして調和のとれた声で、交互に宣言が続けられる。

 「ヴァーディス・ファ=ウーラ、トール・カソーラで生まれ、モーンホロウの饗宴に根ざす者――」

 その紹介披露は出身、親族、そして共同体といった内容について延々と語る難儀なものだったが、クラウンとヴァーディスはどちらも練習を積んだ様子で集中して語っていた。それぞれが言葉を発するたびに、エムブローズの両手はまるで水たまりから水を汲み上げるかのように持ちあがり傾いた。互いの口から、影が輪郭を光らせながら飛び出して水盆へと吸い込まれていく。その水面は暗くなり、しかし内側から輝きを放っていた。

 エムブローズが言う。「では、汝らは互いを如何なる名で呼ぶ?」

 エムブローズの合図に従い、クラウンとヴァーディスはそれぞれ両手を水盆に浸し、それから手を掲げた。水を染み込ませた互いの手のひらはきらめいていた。

 クラウンは言う。「優しい風、弱きを聖所へと導く者、ヴァーディスと」

 ヴァーディスは言う。「俊敏なる思考、その影に倒れるすべてを保護する者、クラウンフラワーと」

 二人は水を口に運び、飲む。キリアンは安堵のため息がひとつだけこぼれるのを聞いた。代表団らは安心した様子を見せなかった。調停者たちの目は暗く、口元は重苦しかった。

 とにもかくにも、儀式は続いた。代表団の各員はそれぞれ前へと進み出て、互いに自己紹介を行い、相手に肩書と恩義を授けた。しかし時間が経つにつれ、自己紹介はたどたどしくなり、エムブローズが代表団から引き出す光と影もますます濁って不明瞭になっていった。

 ある二名による互いの名前の呼び方は、キリアンには聞き覚えのないものだった。しかし討論所の保管係の一人が気まずそうにしたところを見ると、他に何か付け加える必要があったのではないだろうか? 次の二名による進行はさらに険悪なもので、これは誰の目にも明らかだった。広間の空気が重苦しいものになった。エムブローズはその重圧に耐えかねたか、両肩を張り詰めた。

 最後にようやく、調停者たちが名乗りを上げ始めた。二人の口から発せられる影と光はあまりにも刺々しく、まるで唇を切り裂くかのようだった。

 しかし二人の言葉が水面に届くことはなかった。エムブローズが両手をぴしゃりと閉じ、同時に召喚した漆黒の幕が光を飲み込んだ。広間は暗闇に包まれた。その場の全員に見えるのは、漆黒の暗闇の中でいまだ輝く二人の調停者だけ。その場の全員が聞いたのは、エムブローズの柔らかくも鋭い声だけだった。

 「ここまでだ」

 キリアンの胸が締め付けられた。その声色が骨の髄にまで染み込んでいくのがわかった。

 「私はここまで、互いをどう見ているのかと尋ねてきたが」暗がりからエムブローズの声が響く。「代わりに問おう。自分たちをどう見ている? 勇敢な者か? 高潔な者か?」

 調停者たちは何かを言おうとしたが、それらの言葉は闇の中へと掻き消えた。

 「私が見ているのは赤子だ。弱者をなぶる者だ。哀れな、自分勝手な子供らが、触れることすら許すまじと玩具を巡って争っている。これを双方に伝えるのが私の役割であり、それ以上語るべきことはない。互いに望むもの全てを手に入れることなど出来はしない。双方が等しく尊き存在なのだ。我々が皆そうであるように、汝らもこの傷つきし世界で生きていかねばならず、互いに寄り添って生きねばならない」

 賢明な言葉、そして際やかな毒。

 突然、光が戻った。広間は恐ろしいほどに静まり返っていた。キリアンは全く落ち着かなかった。

 エムブローズだけが動き続けていた。彼は調停者それぞれに手を差し伸べた。

 調停者たちは再び名乗りを始め、エムブローズはこれまで通り二人の口元から光に縁どられた影を引き出した。刺々しかった輪郭は滑らかなものになっていた。しかしキリアンは、エムブローズが水盆に注ぎ込んだ印形が何か明確すぎて、完璧すぎて――偽りのように思えた。

 キリアンは、調停者たちが互いを呼び合う肩書を実際の所聞き流していた。無理やり視線を逸らし、クラウンを、それからヴァーディスを見た。二人とも、自分と同じように固まり、うつろな表情だった。それから父へ視線を向けると……

 父エムブローズは堂々とした態度で、威厳ある沈黙を保っていた。しかし、瓦礫と化したストリクスヘイヴン大学で見た、憔悴しきってよろめきながら立ち上がった父の姿を思い出さずにはいられない。父は、殺さざるを得なかった同僚たちの死体に囲まれていた。

 あの時と同様に安堵すべきなのだ。そう思えなくとも。


 儀式は終了したが、その空気は重いままだった。代表団らは広間のそれぞれの端に集まり、おとなしくしていた。それらの集団は、何らかの展望を得られることを願いながら、次第に散っていった。キリアンは一人、広間の床へと降りた。父に何か言わなければならない、けれど何と声をかければいいのだろう。

 もちろんエムブローズも、降りてくる息子に気づいていた。キリアンが近づくと、父親は空になった銀盆に向かい大きく息を吐いた。「気にすることではないと言っただろう」そう言いながら、眉間のしわを深める。「私ももはや気にすることはない。これ以上はな。後は調停者らが民の信頼に値することを証明すればいい」

 一年前だったとしても、それは叱責のように聞こえただろう。だが父は、厳密には怒ってなどいなかった。憤慨してすらいなかった。少し気に障る程度かもしれない。本当に、問題が解決されたと思っているのだろうか?

 キリアンはそう尋ねようと口を開いたが、不意に恥じ入って言葉を詰まらせる。代わりに軽く頷き、「出発前に話をする機会があればよいのですが」と伝えて立ち去った。

 結局、自分は今回どうするつもりだったのだろう? 傲慢にも、知り合いですらない自分が手を差し伸べ、優しい言葉をかけるだけで長年の傷を癒せるとでも思っていたのだろうか?

 そうではない。しかしこのまま放っておくこともできない。

 広間から廊下へと出たとき、覚えのある二つの背中が遠ざかっていくのが見えた。そうだ、自分だけではない。


雪の中 花泪夫藍(ハナサフラン)が咲くように

霜雪は道を切り開く

手を器とし 鉄(くろがね)光る雫を呷(あお)り

此処に私は不易(ふえき)となりて 事新しきを守り続ける


 日は沈んだばかりだった。残光が、館の敷地内に植えられた銀の繁枝と黄色い葉叢の長い影を落としていた。キリアンは二人から距離を取りつつも注意深く追跡し、視界から消えると急ぎ後を追った。

 ドーコーは肩のあたりに不安げに浮かび、主人を引き返させるべきか行かせるべきか判断しかねているようだった。確かにあのふたりは人目を避けている、けれどそれは正当な目的のためだ。おそらく。そうであって欲しい。

 話し声が聞こえて、罪悪感から足取りを緩める。少し先のあたりで立ち止まっているようだ。息を止めて、耳をそばだてる。

 「拘束力が必要になる」

 「あたしたちにどうこう出来る?」

 「ヴァーディス――」

 「わかってる。ごめんなさい」

 彼女の謝罪の真摯さにキリアンは驚かされた。同様にクラウンも驚いていたのは間違いない。続く彼の言葉はあまりにも静かで、キリアンは足音を聞かれないよう立ち止まらなければならなかった。

 「こちらこそ済まない」

 「あら」

 「待て」

 「試合開始?」からかうような声。

 キリアンは、二人からは影になる場所を見つけてそこから様子を伺った。クラウンとヴァーディスは、キリアンが初めてクラウンと出会った舞台に上がっていた。今回は、クラウンとヴァーディスが向かい合って立っている。決闘を行うつもりなのだ。二人とも、既にその頭上に決闘者の印を描き始めていた。クラウンの印には黒地に白の筋が染み込み、ヴァーディスの印には白地に黒の筋が走っている。

 拘束力、か?

 キリアンは影から飛び出し、舞台の近くまで進み出た。「条件は何だ?」

 クラウンとヴァーディスは動きを止めた。クラウンは苦悩する様子を見せ、ヴァーディスは身構えるように顎を引き締めた。

 キリアンは両手を上げ、ドーコーはその肩から飛び上がって二人の印を観察した。

 「君たちを止めに来たわけじゃない」これは父の様子を伺う時によく使う手段だった。「僕がここで証人になろう。そしてその役割を勤め上げ、君たちが名代となる民へと何が起こったか伝えるためには、これから何が行われるのかを理解しなければならない」

 クラウンとヴァーディスは警戒しながらも視線を交わした。

 「初めて会った時にも言ってたじゃないか」ヴァーディスが言う。「決闘はもう機能してない。誰もあるがままを受け入れる方法を知らないって」

 「それに君も見ただろう」クラウンが続ける。「私の母を。ヴァーディスの祖母を。あの人たちには――矜持がある」

 「あの人たちは怖がってるのよ」

 「彼らでは……前に進めない」

 「だから」ヴァーディスが肩をすくめた。「あたしたちでやるしかないってわけ」

 二人が話している間、ドーコーが姿を揺らめかせて決闘者たちの印の詳細を伝えてきた。二人は予想通りの協定を結んでおり、それぞれの決闘者は互いの代表団に結び付けられていた。ところが、その条件は通例通りの“満足”ではなかった。代わりに、ドーコーは“権利”、“水”、そして“全て”を表す紋章を読み取った。

 キリアンは青ざめた。なぜ討論所での決闘が気晴らしのためだけと厳格に限定されているのかを――なぜシャドリクス・シルバークイルが結果を決定するための手段としての決闘を禁じているのかを、突然、恐ろしいほどはっきりと悟った。

 もし、自分の民を救うためにたった一人を殺すだけで済むなら……その誘惑に耐えきれない者もいるだろう。世界を崩壊させるには、恐ろしい代償を支払う覚悟を持つごく少数の人々で事足りる、ということになる。

 その恐れが伝わったのだろう。舞台上の決闘者たちに緊張が走る。

 「自分たちが何をするかは理解している」とクラウンは言う。

 「あたしたちはそれに合意してる」とヴァーディスも続く。

 キリアンは慌てて両手を掲げ、だがほんの一時間ほど前に父が同じ仕草をしていたことを思い出して、手を降ろした。「わかっている。それにさっき言った通り、止めるつもりはない。証人としてここにいるだけだ」

 しかし、どちらかがもう一方を殺すところを傍観しているつもりもなかった。鋭く刺す言葉で説得するつもりもなかった。

 慎重に申し出る。「僕の印を描かせてもらっていいだろうか? これを正式なものとするためだ」

 クラウンとヴァーディスは再び視線を交わした。この一週間でキリアンと知り合ってからの経緯が――あるいは単にキリアンが申し出たから、という事実が――ヴァーディスの同意の頷きを誘い、クラウンもそれを受けて頷いた。

 キリアンはゆっくりと深呼吸した。「僕はここに証人となる……影の庇護の中、優しき風に乗りて」

 そう言いながら、キリアンは手際よく、しかし穏やかな手つきで、中空に自身の印を織り上げる。決闘者たちが既に描いた印から生まれた光と影を巧みに操り、それは黒と金の光によって橋渡しされ、中央で繋がれた。自分がこの印に重ねた紋章は、否定でも修飾でもなく、拡張だ。“連れ立ち”、“共有し”、“交歓す”と書き加えた。

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アート:Jodie Muir

 舞台の片側で、クラウンの表情が和らいだ。もう片側で、ヴァーディスの表情は温かくなった。二人の視線が再び交錯し、それぞれの目には緊張しつつも希望を望む光が宿った。

 「位置について」キリアンが告げる。

 キリアンが最後に華麗な身振りで手首を回すと、三つの印に力が灯った。紋章が弾けるように変化した――大きく優雅な白と金の蛾の群れをかき分けて飛び交う、素早い影の小鳥の群れへと。クラウンとヴァーディスは深く息を吸い込み、いよいよ攻撃の準備を終えて両手を掲げた。


 ドラゴンの演壇、シャドリクスが討論所で謁見を行う場でもある巨大な円形の石壇の両端に、二人の人物が朝日を受けて立っていた。今日の利用者は、ドラゴンに比べればずっと小柄だった。黒い鬣のレオニンと赤い肌のオークのどちらも、所属する代表団の特色たる装束を身に纏っていた。シルクメドウとカソーラの調停者たちが、決闘者たちが印を描く様子を傍らで見守っている。

 キリアンは、思っているほど注意を払っていなかった。討論所の館へと続く階段に腰掛け、猛烈な勢いで書き物をしていたところ、影が差した。顔を上げると、目の前には人間の姿をしたあの古き良き嵐がいた。

 「説明しろ」とエムブローズは言った。

 「おっと」キリアンは父親の向こうに見える舞台へと目をやり、証人役を引き受けたクラウンに対して決闘者たちが一礼するところを見た。クラウンはちょうど中央に自身の印を描き終えたところだった。「よし、もうすぐ始まりますよ」

 クラウンの合図で、証人の印は砂漠と草原の花々が舞い散るように弾け飛んだ。決闘者たちはその光を浴び、渦を巻くようにぶつかり合う――それは優雅さや技術だけでなく、速さと強さを競い合う激闘だった。勝利よりも、単に戦い合うという事実そのものを祝うかのような激戦だった――互いに、解決の名の下に交わされた条件に基づいて会うことには同意済みだった。

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アート:Cristi Balanescu

 「彼らが何をしているかは分かっている」あいにくだが私にも目はある、とでも言いたげな口調でエムブローズは答えた。「今聞きたいのは、正式な前例と手続きが欠如している理由についてだ。アミティの公開討論所、先例と手順が脈打つ心臓部にて」

 キリアンはためらいながらも立ち上がり、懸命に記していた書類を差し出した。「いえ、その通りです。父さんか――保管係の誰かを呼ぶべきだった、かもしれません。ですが最初の決闘が一旦形になってからは、クラウンとヴァーディスに進行を任せて、僕が形式的な手続きを済ませるほうがよいと思ったんです。これを。命名奉納の選択的補遺として立案しているところです」

 しかしキリアンが階段を上り切るより早く、エムブローズは書類を手に取ってそのまま階段に腰を下ろした。父親の眉間にしわが寄ったものの、嵐のような威圧感はいくらか和らいだ。

 彼が手にした草案には、いま目の前で行われている儀式は、伝統的な決闘を基にした変形的決闘であると記されていた――気晴らしの競技という枠を超え、競技的交流のようなものへと発展させているのだ。

 「なぜこれを独立した儀式として提案しない?」とエムブローズは問う。

 「一つは、これが命名奉納の過程で起こる相互作用に深く根差しているからです――それに、全く新しい儀式を承認させるよりは、既存の儀式に追記するほうがずっと通りやすいですから」

 「いっぱしの役人になってきたな」

 「根気強さは鍛えられていますから」

 エムブローズが会話を止め、キリアンはしまった、と思いながら身構えた。だが父が鼻で笑うと彼は歪んだ笑みを浮かべた。

 「僕が自信が無いのは」キリアンは少し慎重に言葉を続ける。「僕のこの案の由来を父さんが認めてくれるかどうかです。『手を器とし、鉄光る雫を呷り、此処に私は不易となりて、事新しきを守り続ける』。何かが上手くいっていないなら、新しいものを作り始めるべきだって示唆してくれました」

 エムブローズは再び黙り込み、その視線を提案書から円形競技場へと向けた。一方の決闘者が足払いを放ち相手を転倒させた――そしてすぐに駆け寄って対戦相手を助け起こした。二人は興奮して互いに肩を叩き合っていたが、順番待ちをしていた調停者たちが舞台に上がれるようにヴァーディスがさっさと二人を退場させていた。

 「私が、自信が無いのは」エムブローズが言う。「私がお前をどれだけ評価しているかを、正しく伝えられているかどうかということだ」そして再びの沈黙。「私は……」また黙る。「お前に……」

 キリアンは沈黙の意味を深読みしないことにした。父エムブローズは口達者で思慮深い男だが、真の感情を言葉にするのは苦手なのかもしれない。でも、誰だってそうだろう? 目の前で行われている儀式の本質は、まさにそこにあるのだ。

 本当にそうだ。

 キリアンは立ち上がり、父へと手を差し出した。「例えばこう――その様子を、皆に見せるというのは」

 エムブローズはその申し出を受け入れる前に、じっくりと考えた――この交渉で優位性を保つ必要があるからではなく、その方が息子の手を握る時に、同じくじっくりと力を込めることができるからだった。「そうだな」と父親は言った。「自分の姿を見てみるとしよう」


(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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