MAGIC STORY

ストリクスヘイヴンの秘密

EPISODE 09

サイドストーリー 未来形の実地研究

Seanan McGuire
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2026年4月4日

 

 熱を帯びた輝く閃光と紙をめくるような音を伴い、ひとりのロクソドンが出現した。中庭にいた生徒たちの何人かはその魔法と現象を警戒し、何事かと彼を見た。この新たな人物が自分たちを脅かすわけでもなければ午後の授業を遅延させる恐ろしい魔法を行使しているわけでもないと分かると、彼らは歩みを再開してそれぞれの目的地へとゆっくり向かっていった。次元を超えた侵略から生き延びた下級生の心にこれほどの焦りを抱かせるものはそうそうない。

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アート:Darren Tan

 そのロクソドンは背筋を伸ばし、ゴーグルをかけ直す。それから深呼吸をして、目を閉じて、両耳を顔の横ではためかせた。幸せな気分――故郷の次元の匂いには、多元宇宙のどこにも真似できない何かがある。アヴィシュカーとかラヴニカの化粧品技術者あたりが遅かれ早かれこの香りを瓶詰品にしようと試みるかもしれないが、今のところ故郷の匂いを嗅ぐ唯一の方法はここに来ることだった。本当の意味で故郷に戻れるわけではない。歴史は幾度となくそれを証明し、時間が絶え間なく変化を進行させるということを、勇者にも愚者にも等しく思い知らせてきた。同じ場所に長く留まると、周囲のあらゆるもののゆっくりとした展開には気づかなくなる。それは静止となる。その場を離れれば、たとえほんの少しの間であっても、見慣れたものは再び新しくて不慣れなものになる。

 この大学のように。彼は周囲を見回し、明白な修復箇所、変化した場所、復興による変容とあの侵略が残した傷跡を深く受け止めていった。しかし変化の進行をただぼんやりと享受するためにここに来たのではない。この訪問には目的があり、学舎の輪郭を形成する中央アーチへと足早に歩を進める。荷車か、華々しく登場した新しい空飛ぶ乗り物とやらを利用したほうが早かったかもしれないが、周りの大学の様子を、まだ見逃している何かを感じ取りたかった。そのため徒歩を選んだ。

 彼は三歩進んだところで飛び出た煉瓦につまずき、息が止まるほどの衝撃で地面に叩きつけられた。小声で笑いをこぼしてから、立ち上がる。そしてロアホールドの学舎まで伸びている道を再びゆっくりと歩き始めた。

 どんなに物事が変化しても、変わらないものもあるのだ。


 学部長オーガスタ・トゥルスの秘書は、茶縞模様の翼と長い羽毛の房を頭頂部に持つ若いオーリンだった。クイントリウスが執務室に入り、丁重に頭を下げながら彼女の机に近づくと、その羽根が驚き立ちあがった。彼女は作業中の書類を脇に置いた。

 「魔道学者のカンドさん?」彼女は困惑の声を上げた。他の何事よりも、クイントリウス・カンドがこの執務室にいるということがあまりにも理解不能で信じられない、といった様子だった。「その――私が聞いた話では、カンドさんは――」

 彼女はそこで言葉を止めた。その発言を適切に締めくくる言葉が見つからなかったのは明白だった。クイントは面白がって、耳を平たくして微笑んだ。

 「私の死亡あるいは蒸発に関する報告はかなり誇張されています。なので予定外でしたが長期休暇を取っていまして。追悼のためではなく」と彼は言った。「学部長と話をしに来たのもその一環です。先生はいらっしゃいますか?」

 「おります」と秘書は答えた。「ええと、学部長の訃報について誇張はない、のですよね?」

 「そうです」クイントは悲しんで言った。「先生を救えなかったことを心からお詫びします。先生は素晴らしい学者でした――もちろん今もそうです。面会できますか?」

 「確認してみます」秘書はそういうと跳ね上がった。彼女はオーガスタ学部長の部屋の扉に向かう途中で立ち止まり、振り向いた。「帰ってきて頂けたのは喜ばしいことですよ、魔道学者さん」

 クイントが返事をする間もなく、彼女は行ってしまった。執務室の壁を見つめながら、彼はため息をついた。「自分でもそう思えればよかったのですが」とこぼす。

 執務室は返事をしなかった。


 オーガスタ・トゥルスは生前、ロアホールドの秩序の学部長として、同学部の学生たちが混沌の甘い誘惑に溺れることが無いよう規則を守らせつつ、それを歴史に内包されている危険に対するための指針や保護柵ともしていた。死後も、彼女はそのやり方を変える理由を見いだしてはいなかった。大学の規約は死者が教鞭を取ることを禁じていないこともあり、彼女は今、その本分を踏み越えすぎた歴史家に何が起こったかを示す貴重な教訓を提示することもできる。

 彼女が自身の死に方を後悔していないということが事態を悪化させることはなかった。彼女は大学の為に立ち上がり、生徒の為に倒れたのだ。それもまた秩序ある行いであり、学部長に定められた職務の範囲内のことなのだから。

 クイントが学部長室に入った時、彼女は机の奥に座っていた。そしてもし今の彼女が石像のような見た目でさえなければ、生前との違いに気づくことはなかっただろう。彼女は一枚の証書をじっと見つめ、ペンを素早く走らせているが、ペンに触れているようには見えなかった。彼の背後で扉が勢いよく閉まり、掛け金が小さな音を立てた。彼女が顔を上げた。

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アート:Bryan Sola

 「ああ、魔道学者のカンドさん。あなたが来たとケトゥに聞かされた時は、彼女は何か勘違いをしていると判断したのですが。何しろあなたは授業を無断欠席した回数が実に驚くべき数に上っていますので。基礎学科の履修速度は生徒自身で決めるものということは理解していますが、単なる怠慢ではなく学業の放棄と判断される境界線は存在するのですよ」

 「離郷していたものでして」クイントは非を認めた。オーガスタ学部長の前ではいつも、歴史家になりたいと願う新入生のような気持ちにさせられてしまう。わざとそうしているのかどうかすら判断できないが。

 わざとであって欲しい。彼女は将来の侵略者に対する優秀な兵器となるだろう。正直に言えば、ファイレクシアですら彼女の鉄壁の批判に衝突して実力不足を悟り、恐ろしいほど棘だらけの尻尾をまいて礼儀正しく帰郷するところまで具体的に想像できる。

 「離郷していたために、授業に出席できない旨の通知を送れなかったのですか?」

 「いいえ、トゥルス学部長。申し訳ないとは思ったのですが、より火急の用事があったために気が回りませんでした」

 「学術的な理由でしょうか?」

 「その主題について学ぶべきことが多いという点で言えば、そうです。しかし純粋な学問というわけではありません。現在私が調査している問題は、実に喫緊の課題だと思われます」

 「では説明してください、魔道学者さん」トゥルス学部長は厳しい目で彼を見つめた。「どうぞ」

 クイントは深呼吸をして、説明を始めた。その動作は習慣と練習によるものだったが、同時に、誰かと分かち合うことでこれまで背負っていた重荷を軽くしたいという思いに突き動かされてもいた。「それは私が初めてアルケヴィオスからプレインズウォークしたときに始まりました……」


 生前と同様に、トゥルス学部長は聞き上手だった。彼女は、彼が初めてこの次元の外を探検したときの話、とても奇妙で想像を絶する古代の遺跡への訪問と、そこで思いがけず発見した不思議な貨幣のモチーフについての説明を黙って聞いていた。その貨幣の文様は久遠の闇によって完全に隔たれている様々な次元の遺跡やアーティファクトに、幾千年ものあいだ用いられ続けていること。共通点の無い文化が同様の象徴を使用し、同様の表象が何度も何度も繰り返し選ばれていること。それらのモチーフは往々にして単独で存在していたものの、調査を続ける中でそれらが連なっており、ある次元から別の次元へと導くわずかな繋がりが見えてきたことについてもただ聞いていた。

 「イニストラードで一度行き詰ったのですが、サヒーリ・ライという方が――かつてプレインズウォーカーだった方ですが――領界路を通って現れまして、彼女が居住しているイクサラン次元で新たな発見があると協力を求められました。私は喜んで応えました。そしてイクサランに到着したとき、求めている見えざる帝国の痕跡を再び掴んだと確信しました」

 「それで、その痕跡があなたをここでの学問から連れ出したと?」尋ねるその声は鋭かった。

 「申し訳ありませんが、そうです。私が発見した答えが、災いをもたらすかもしれないと危惧しています。このコインの帝国、何と呼ぶかはともかくとして、それは多数の次元に、長い年月に渡って存在しており、その正確な期間は判明していません――私の計算が正しければ、数千年かもしれません。もちろん私に方程式の扱いを教えてくれたのは先生なので、計算は正しいはずです。そしてこの帝国は……消え去りました。その様子からして、一晩のうちにです。別のファイレクシアなのか、あるいはもっと恐ろしい何かに遭遇したのかはわかりませんが、それがイクサランにあったことは確かです。この次元にもいて、何か残しているものがあるのかもしれません」

 「それで、私に伝えたい要点は何ですか?」

 クイントは首を横に振り、長い鼻が波打ち震えた。「まだ言えません。自分の考えが正しいと証明できるまでは。紛争の曠野に向かうため、先生の実習旅行に同行させて頂きたいのです」

 トゥルス学部長は困惑したように眉を上げた。「私に相談する必要はありません。プラーグ学部長に――」

 「私の指導教官ではありませんので」

 「それで私に? あなたの身分は今、教務科に疑問視されています――それに会計科にも問題視されています。学生便覧には、保護呪文を使用する対象は在校生のみ、とあります。課外授業を承認するたびに二年生を片手で足りないほどに失うようなことを防ぐためです。先日、魔法植物環境学入門での調査課外授業にて何が起こったかは聞いていますか?」

 クイントは首を横に振った。「いえ、しかし――」

 「そうでないにしても、私の対となるあの学部長は、あなたの存在をありがたく思うことでしょう。彼は興味深いと思えば規則には固執しません。落第しそうな者を紛争の曠野へと連れて行き、飢えた死者の腹を満たす。まさに彼が興味をそそられ実行しそうな事です」

 「プラーグ学部長と共にあの曠野へ赴きたくはないのです」とクイントは答えた。「好ましく思うところはありますが、あの方は私の指導教官ではありませんし、物事を正しく行うことの重要性についても理解を示さないでしょう。それに保護呪文の対象となるのが在校生だけであることも知っていますが、それが適用されるのは生徒だけです。教師には保護呪文が施されます」

 「まさか、卒業もしていないのに教員として採用しろと提案するわけではありませんよね?」

 「まさか。臨時の教員補佐として雇っていただきたいのです。それであれば在校生かどうかに関わらず、保護呪文の対象に入ります。私も安全に同行できるわけです」クイントは表情を巧妙に変化させ、気が進まない様子を見せる。「かのトレイリアのアカデミーならきっと喜んで入学させてくれるでしょうし、あの曠野から締め出すようなこともないと思うのですが」

 トゥルス学部長はクイントを睨みつけた。「私を脅すのですか?」

 「単に学術的な意見を述べたにすぎません」

 彼女は顔をしかめた。「いざ勉学を再開するという時が来たなら、この行動が復学を難しくすると理解はしているでしょうに」

 「理解しています」

 「それほどまでに重要だと言うのですか?」

 彼は少し考える。「多元宇宙全体への潜在的な危険性と比較すれば……おそらく。そうだ、と言えます」

 トゥルス学部長は眼前の決意に満ちた男を見つめ、逡巡した。いつから彼はこれほどまでに自信に満ち溢れたのだろうか? その熱意と快活さ、分野を問わない学びの姿勢は常に好ましく、引き付けるものがあった。だがこの少年の内に潜んでいたこのような姿を見たことはなかった。クイントのことは、ロアホールドがしばしば輩出する学者のひとりに過ぎないとばかり思っていた――献身的で、知的で、世界に変革を起こすような興味は持たない。

 しかしごく稀に、全てが噛み合った時、ロアホールドは自分たちの学問をより良い方向へと変える人材を生み出すことがある。クイントリウス・カンドを見ていると、混沌とあの侵略という背景があるにも関わらず、今回がまさにそのような人材を生む時なのではないかと感じた。


 拠点は紛争の曠野の最果てに設営された。そこは終わらない戦いを繰り広げる死者たちの果てしない陽炎に覆われ、廃墟となって荒れ果てた風景が広がっている。ここでは、血の時代は決して終わってなどいなかった――今なお小競り合いを続けている戦士たちにとって、それは決して終わることがないのだ。ここではあまりにも長い年月の間に多くのものが命を落としており、もはやそれらは戦い以外の何をも成しえなかった。

 運悪くそれらの注意を引いてしまったなら、それらと同じ存在へと引きずり込まれるだろう。ここでは志ある学者たちがたびたび命を落としており、遠征のたびに必ずというわけではないものの頻繁であるため、保護の結界は必須だと考えられていた。クイントは教員補佐として結界線の設置を手伝い、銅の竿によって固定された結界は魔法を薄くきらめかせ、それら死者を一時的に遠ざけている。

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アート:Josu Solano

 結界の中では、不安げな二年生たちが与えられる課題を待ちながらうろついていた。「なぜ二年生と呼ぶのでしょうか?」クイントはオーガスタ学部長の方を向いて尋ねた。学部長室という隔離された場所から離れると、その石のような姿は彼女をより死者らしく見せていた。

 「入学して二年目だからですよ、魔道学者さん。それとも大学の組織的原則すら忘れてしまったのですか?」

 「覚えていますよ。私が言いたかったのは……大学を決定する前に、研究したいものが何かを決める機会を与えるのは理にかなっていると思います。ですが、なぜ選択した大学に入学した時点で二年生として始まるんでしょうか? もう一度一年目とすべきではないでしょうか?」

 「魔道学者さん、あなたがクアンドリクスに入学しなかったのには理由があると思いますよ」トゥルス学部長は面白そうに言った。「さて。考古学者を目指す生徒さんたちに、課程の目標を改めてお伝えしなければなりませんので。去年は誰も失いませんでしたし、その記録を今後も維持したいと考えています」

 彼女は地面からほんの少し浮いた足で、生徒たちを呼び集めるために立ち去っていった。クイントは彼女が去るのを見送りながらも、かすかな憂鬱が腹の底に渦巻いていた。紛争の曠野における研究にはあまり興味が持てない。より難解な考古学的目標を追求するほうが好みなのだ。紛争の曠野は多くの者にとって魅力的な場所で、広く知られ学習されていた。ここでは学ぶべきことが常にある。ここはアルケヴィオスで唯一、血の時代に関する一次資料が今も入手可能な場所であり、学者たちは何世紀にもわたってこの曠野が示す豊富な情報源を研究し続けるのだろう。自分はただ、血を見るのを避けたいだけなのだ。

 とはいえ今、必要な情報を見つけられるのはここだけかもしれない。コインの帝国は依然として脅威なのだ。自分はそれを骨身に染みて知っている。イクサランのあの水槽の中に姿を見る前から、それらが残した奇妙な紋章はいずれ真の危険となる何かを示しているのだろうと確信していた。今、かの光景を目の当たりにした後では、疑念は残っていない。イクサランで見た壁の彫刻に描かれたうねるような文様は、それらがかつてそこにいたことを物語っていた。そして、今もまだどこかにいるなら、戻ってくるかもしれない。

 浅学の、もしかしたら落ちこぼれかもしれない者の戯言に耳を傾けてもらうには、もっと証拠が必要なのだ。だからここに来る必要があった。血の時代の死者たち、つまりコインの帝国と直接遭遇した可能性が最も高い者たちとの交流を図るためだ。オーガスタ学部長が生徒たちの中を進む様子を見守ってから、彼は背を向け、わざと保護結界を乗り越えた。

 いよいよ始める時だ。


 ――わたしは生前は将軍であり、強大な軍勢を率い、終わりのない戦争という石臼の中でその肉体をすりつぶされながらも部下に戦いを命じていた。敵の牙に腹を切り裂かれ塵の中に倒れ伏すころには、もはや何のために戦っていたのかさえ覚えていなかった。衝撃で剣が手から離れ、私にとっての最後の安息の地となるこの場所を決して知ることのない妻と子供たちを最後に思う――

 クイントはその倒れた戦士の記憶から突然引きはがされ、象牙に金属がぶつかる衝撃の感覚が消え去るまで頭を振り続けた。紛争の曠野の死者たちは自らの死を繰り返し何度も追体験していた。死を繰り返しているということも知らずに、驚きと無念を繰り返していた。彼らは戦いが終わったという事実を、どちらが勝とうとその過程で自分たちも死んでしまったという事実を忘れてしまった。その意味では、勝者など存在しなかったのだ。

 深呼吸をしながら空を見上げ、太陽の位置を確かめる。紛争の曠野に一週間ほど滞在することで、自分がどれくらい意識を失っていたか推測するのがだんだんうまくなってきていた。いま体験した戦いは曠野の奥深くでのもので、今回の課外授業に参加している生徒たちが調査を行うような危険の少ない地点からはずっと離れている。この影の迷宮の奥深くまで調査に来るものはほとんどいない。ここで戦う亡霊たちは、曠野の端のそれよりも強いからだ。彼らはすべてを飲み込み、まるで生きているかのように獰猛で、危険極まりなかった。

 今やクイントは、ここに来たばかりの頃よりも危険性を身に染みて理解していた。亡霊たちに昏迷させられて繰り返し悪夢へ飛ばされるたびに、時間を浪費する羽目になっていた。拠点には毎晩戻るものの、亡霊たちの残酷な死に様がこだまし、眠ることができない。初めて幻覚遁走状態に陥った時、オーガスタ学部長はこう言っていた。

 「あなたが用心しなければ、大学はあなたを曠野で失うことになりかねません」今までに聞いたことがないほどに厳粛かつ冷淡な声で彼女は告げてきた。「もし死者に対する精神的な障壁を維持する努力が見られないようであれば、残念ですが大学への帰還を命じざるを得ません。魔道学者カンド、あなたは今は生徒ではないのです。仮に私があなたの安否を気にかけていないとしてもですよ、もちろん気にかけていますが、紛争の曠野であなたを失ったことに関する書類仕事などしたくはないものです」

 その場で彼女に、死者の争乱に飲み込まれることが無いよう用心すると約束した。そしてすぐさま元の作業に戻った。クイントは霊への防壁を可能な限り高めたままにし、一時間ごとに張り直してはいたが、膨大な数の怒り狂う霊を前に自分が飲み込まれてしまうのではないかと不安になり始めていた。

 もう一度深呼吸し、保護の結界のきらめきを頼りに拠点の位置を記録する。書き留め終わったので、振り返って曠野の奥へと歩き始めた。かすかに見え隠れする戦士たちの姿を目標に進んでいく。奥地に踏み込むにつれ、亡霊たちの記憶は古く、鮮明になっていった。そして、誰も越えてはならないと命じられている境界線に近づいていく。それはある石に深く刻み込まれている古ぼけた線だった。プラーグ学部長でさえ、この不可視の防壁を越えることを生徒に禁じていることで知られている。防壁の奥の亡霊たちは今なお怒り狂っており、それらを鎮めるすべもない。

 クイントは慎重に、顧みることなく、境界線を踏み越えた。


 クイントは、亡霊たちの領域に足を踏み入れた途端に死者が群がってくるのではと、それなりの覚悟を持っていた。ここは紛争の曠野という地における亡霊側の領域なのだ。この土地を自分たちの物だとは思っていないかもしれないが、生ける側はとっくの昔に土地を明け渡している。用心深く、意識を張りつめ、肩をすくめて耳を後ろにそらしながら曠野を渡る。

 そして何も起こらなかった。

 背筋を伸ばして緊張を解く。拠点の周辺、調査が進んでいる地域を歩くより楽かもしれない。私はやれるんだ。やれる――

 次の一歩は、遥か昔に死んだ将軍の意識の中へとクイントを導いた。乱れた髪、壊れた鎧、そして死体のように冷たい目をした人間の男だ。身構える以外の何かをする暇もなく、クイントはその死んだ男の記憶の中、記録された歴史上ただ一人の生存者も残らなかったほどの凄惨な戦いの激突と混乱の中へと落とされていった。

 俺は戦うために生まれてきた。俺の人生において、他に重要な位置を占めるものはなかった。盾に剣を打ち鳴らし、指揮官の命に殉じて死ぬ名誉。指揮官の命に従い、なお生き残るというさらに大きな名誉。戦場のうねりの中を勝者として大胆に闊歩する。俺は無軌道なこの世界を飼いならす手となり、王者たちからも相応しい称賛を得るのだ。

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アート:Liiga Smilshkalne

 将軍の思考がまるで川のように流れ、クイントは恐怖と、辛うじて判別できるような断続的な光景の尽きない波に飲み込まれていった。それらが見せる中には、アルケヴィオスでは見たことが無いような巨大な姿もあった。遠くの影はうずくまるドラゴンから極めて巨大なロクソドンまで、何にでも当てはまりそうだった。しかしそういうものではないと思う。その姿形はどこかイクサランで訪れたあの遺跡、“居留地の末端”を思い出させた。

 根幹に近づいている。そして将軍の記憶は圧倒的な重圧となり、押しつぶされそうになる。初めて、オーガスタ学部長の“気をつけなければ自分を見失う”という言葉の意味を真に理解した。ああ、もちろん今までも学術的には理解していたけれども、これまで格闘してきた亡霊たちなら問題にならないぐらい、自分にはまだ余裕があった。実際に危険だと感じてはいなかった。

 クイントは魔法力と精神力を駆使して、流れから距離を取り自分の意識を広げようとした。しかし成果はなかった。戦争と流血の光景が次々と降り注ぎ、精神の輪郭は削り取られていった。呼吸を意識しつつ、さらに深く、奥へと潜っていく。やがて自身の精神が伸ばした鼻が、焼け付くような音を立てる遥かに巨大な何かに触れる。その巨大な存在の前では、死せる将軍の意識は羽音を立てて周囲を飛び回る虫に過ぎなかった。その久遠の闇をしっかりと掴み、将軍の意識を通り抜けてその先の空間へと身を投げ出した。これはプレインズウォークではなかった。まるで現実の狭い一角で石蹴り遊びをしているような感覚だった。それから目を開けると、死せる将軍の姿はなかった。

 亡霊たちが彼を取り囲み、終わりなき戦いに巻き込もうとしていたが、クイントの肉体はクイントのものであり、もはや流される危険はなかった。彼は狩猟用の角笛のような大きな鼻音を鳴らし、大きく一歩を踏み出した。

 その最初の一歩を踏み下ろそうとした瞬間、岩に足を引っかけて体勢を崩した彼は、倒れないように踏ん張ろうとするも前方へよろめいた。両腕を振り回しながら倒れ込み、近くの岩に顔面をぶつけないようにと体をひねり込む。顔は無事だったが、肩を地面に叩きつけることになり、彼は深い陥没穴を覆い隠していた薄い岩盤を突き破って暗闇の中へと転落していった。


 気がついた時、落下時の穴から差し込む陽光にはまだ塵が舞っていた。岩だらけの地面で体を起こし、上部からの眩しさに目を細める。人工的に作られた薄い部分を踏み抜いてしまったらしい。天井の残骸がそれを証明している。何世紀にもわたる埃に覆われているにも関わらず、磨き上げられた石にはモザイク模様が刻まれており、その半分以上がまだはっきりと残っている。そしてそれだけの長い期間、誰もこの空間で呼吸をしていない。

 空いた穴から流れ込む空気が、地下にガスが溜まっているのではないかという懸念をやわらげ、クイントは背筋を伸ばして周囲をぐるりと見回した。この陥没坑の壁は左右対称となるよう精巧に掘られており、壁に並べられた棚には博物館に展示されていてもおかしくないような宝物が山のように積み上げられていた。これらは血の時代にまで遡る遺物に違いない。陶器類の形状や、陶器製の小刀に見られる独特な石工技術には見覚えがあった。以前にも似たようなものを見たことがある。

 しかし、これほどの規模のものは見たことがなかった。これは亡霊たちが語る一次資料さえも凌駕する財宝であり、紛争の曠野のさらなる奥地調査を正当化するほどの価値がある。要するに……またしても、歴史的大発見に出くわしたのだ。

 今日は道具を何も持ってきていないし、本格的な考古学調査をするつもりでもなかった。もう一度あたりを見回し、一番手近な棚の隅から陶器製の小刀を選ぶ。転落した際に土や小石が飛び散って現場を荒らしてしまったし、道具一式も手元にないが、トゥルス学部長に自分が見つけたものを証明するための何かは必要だ。適切な一団が編成されることになれば現地調査が可能になり、ほかの全てについても考古学術的に記録研究されるだろう。

 今いる部屋から外部へと続く狭い通路があった。その先の床は上り坂になっているようだ。そちらに向かって歩き始めたが、ふと視界の隅で幾何学模様が光ったような気がして立ち止まった。しかし振り返ってみても何もなかったので、そのまま歩みを進めた。


 境界線を越えて戻り、厳重に守られた拠点へと足を踏み入れた途端、クイントは思わず安堵感に包まれた。曠野を横断して戻って来る最中、亡霊たちは驚くほど近寄ってこなかった。まるで持っていた小刀を避けるかのように。あるいは単にそう思い込んでいるだけで、亡霊のたまり場をうまく避けてきただけなのかもしれない。

 オーガスタ学部長は自身のテントの外で、学部生たちが日陰を行き来する様子を淡々と眺めていた。クイントの重い足音に振り返ると、彼女はその彫りの深い顔に一瞬驚きの表情を浮かべた。

 「魔道学者カンドさん。夕方までに戻られるとは思っていませんでしたよ」

 「学部長」彼は少し息を切らしながら答えた。そしてあの隠匿されていた場所から持ち出した小刀を差し出す。刃の部分を手のひらに乗せ、脅すつもりではないことを示しながら。「発見をしたんです」

 彼女は目を見開いた。「どこでそれを?」

 「先ほどお伝えした通り、発見をしたんですよ」クイントはやや自嘲気味に顔をしかめた。「降って湧いたような幸運というべきでしょうが。第二の境界線を越えて、深き影の領域に入りました。そこには大量のアーティファクトが保管されていまして、私が確認した中では、この曠野から持ち帰られたものの中でも最も古い年代の遺物です」

 「それで、その場を荒らしてきたのですか?」

 「私は文字通り降ってしまったんです、穴からそこへと落ちてしまいまして。これは私が発見したものの規模を判断してもらうために持ってきたものです。他には何も触れていません。学術的な助言が必要でした」

 彼女はゆっくりと頷いた。「正しい判断でしたよ、魔道学者さん。良い働きです。その保管所は何世紀もの間手付かずだったということになります。今は何か食べて睡眠を取ることです、亡霊の仲間入りをせずに済むように。明日の夜明けを待って現場入りとしましょう。マイカさんを連れて行くように」

 クイントは瞬きをした。「マイカさんをですか?」その地操術士とはほとんど会話すらしたことがない。

 「そうです。彼と大地とのつながりが、より危険な霊を阻むでしょう。他の脅威からはあなたが彼を守るのです。手助けなしでたどり着けるような奥地ではありませんし、紛争の曠野の奥へと調査を進めるにもほとんどの学生は経験が浅すぎます。マイカさんに調査結果の記録を手伝ってもらい、それから必要な保存と撤去の計画を立てるとしましょう」

 クイントは、自分が感じている切迫感を理解してもらうのは難しいと感じた。ため息をつき、頷いて同意した。

 「わかりました、学部長」


 次の日の朝、クイントは保護結界を踏み越え、その横では頑健そうな人間の学部生が軽快に歩みを進めていた。マイカはあまり饒舌なほうではなかった。若い地操術士である彼は鉱物の世界に精通しており、ときおり肉体や骨の存在を忘れてしまうほどだったので、ロアホールドにとってはうってつけの人物だった。魔法の霊的な側面においては特に秀でていなかったが、その地操術は他に並ぶ者はないほどだ。

 クイントは正直なところ、マイカが自分のことを覚えているかどうか確信を持てなかった。マイカという呼び名が本当にその地操術士の本名なのかどうかもはっきりとしなかった。とはいえそれはさほど重要なことではなかった。彼はあちらこちらへとうろうろしながら紛争の曠野を進み、奇妙に思えるほど軽々と亡霊たちを避けていた。クイントは彼に大まかな道順を教えただけなのだが、彼にはそれで十分だったようで、きちんと正しい方向へと進んでいた。クイントは、マイカが通って空いた亡霊の列の隙間を逃すまいとその後を足早に追った。

 例の地面の穴にたどり着くと、マイカは初めて立ち止まった。彼はひざまずき、割れた石に触れ、それからクイントを鋭く睨みつけた。

 「わざとではありません」とクイントは弁明する。「つまずいたんです。そこに穴が開いているでしょう」そして手を振り、自然にできたように見える洞窟の入り口を指さした。そこから地下道を経て陥没穴へと繋がっているのだ。

 マイカは頷き、姿勢を正すと、再びクイントを放って入り口に向かって小走りで進んでいった。

 ふたりは一緒に地中深くへと下り、地下に眠る宝物保管庫へと足を踏み入れた。クイントはその瞬間、耳を伏せて固まった。

 誰かがここにいた形跡がある。棚の上にあった物が動かされ、土埃に跡が残っている。小さなアーティファクトがいくつか無くなっているのはほぼ間違いない。

 学生たちの仕業ではないことも分かっている。トゥルス学部長は全員を拠点に呼び戻し、危険な場所にあるが放置することはできない現場を迅速に回収・撤去する方法を詳しく説明する講義を丸一日行っている。そして、亡霊が自分たちのアーティファクトを動かす理由などない。

 マイカは部屋の中央に向かい、再び屈んで石に語り掛けていた。クイントはゆっくりと向きを変えた。視界の端に幾何学的なきらめきを捉えると、向きを変えるのをやめ、その角度のまま光の方へとゆっくり歩み寄った。領界路の中には、適切な角度から見ないと捉えられないものもある。

 どうやら、この領界路もそうらしい。光を辿っていくと、別の狭い通路が見えた。その奥へと進むと、最初のものより小さく、手が加えられていない天然の洞窟に繋がった。壁は自然のままで天井は低く、その部屋の中央ではひとりの女性が陶器の破片を革布で丁寧に包もうとしていた。彼女はサンダー・ジャンクションに少し立ち寄ったときに見たような服をまとっていた。

 「何をしてるんですか?」と彼は尋ねた。

 彼女はほとんど顔も上げずに答えた。「領界路で壊れ物を運ぶときは、ちゃんと梱包しなきゃあだめだからね。あんたたちは考古学者だと思ってたけど。そんなことも知らないのかい」

 「知っていますよ、ですがあなたは――なぜそれを持ち出すのですか? あなたのものではないでしょう!」

 「君のものでもないだろ」彼女は黒い前髪の隙間からちらりとクイントを見上げ、鋭い笑みを浮かべた。「えらそうな口を利かないでね。あんたたちだって気が向いたら墓荒らしをするじゃないか。ニューカペナにはアルケヴィオスの古いアーティファクトを欲しがる奴がいるのさ。それに持ち主がいないなら、それを正当に評価される場所に持ち込むのは盗みじゃない。リンゴ農家は樹から盗んでるとでも?」

 「それは……それらの遺物の持ち主はいます。アルケヴィオスのものです。歴史の一部なんです」彼は言葉に詰まった。「歴史に属するものだと思います。持ち去ってはいけません」

 彼女は肩をすくめた。「そう言われてもやめる気はないよ」

 クイントは彼女を睨みつけ、足を踏み鳴らして埃を巻き上げながら、指で空中に印を刻んだ。反響音が洞窟内に響き渡り、壁は灰白色の埃の雲をまき散らした。それはゆっくりと集まり、いくつもの亡霊の形を取っていった。それらは紛争の曠野を彷徨う亡霊よりも薄かった。安らぐことの無い亡霊たちではなく、召喚によるものだ。それらは両手を伸ばして彼女へとにじり寄っていった。

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アート:Flavio Greco Paglia

 彼女は腰帯から鞭を抜き、一番近くのものたちへと熱く青い光を一閃させた。数体は後ずさりしたが、亡霊は次々と現れた。

 「あまり歓迎されてないのかな」彼女はちらりとクイントを振り返りながら言い放った。

 「あなたは賓客ではありません」と彼は答えた。

 彼女はクイントを睨みつけつつ、半分ほど荷物が詰まった背負い袋をひっつかんで跳ねるように立ち上がった。「サンダー・ジャンクションに来てごらん。とっても温かく迎えてあげるからさ」と彼女は言う。「ステラ・リーを尋ねな。君に相応しい歓迎ってやつをしてやるよ」

 クイントは再び足を踏み鳴らした。周囲の壁からさらに多くの影が現れる。ステラ・リーは素早く行動し、領界路へと飛び込んで姿を消した。残されたのは、亡霊の残響だけだった。

 一瞬、後を追おうかと思った。しかし彼女が手をつけなかった残りを見て、ため息をついた。

 いや、こちらの方が重要だ。


 小洞窟で回収したアーティファクトを両腕いっぱいに抱え、クイントは戻ってきた。そして両目を閉じたまま洞窟の床に両手を押し付けているマイカを見つけた。

 「何かがここを歩いていました」彼は言う。「ずっとずっと昔にです。ここにいるはずのない何かが」

 マイカは手を一度持ち上げ、床に向けて叩きつけた。その手はまるで焼きたてのパンに埋もれるように床石を貫いた。床石は波打ち、彼が手を押し込むと剥がれ落ち、不規則な形をした灰色の頁岩層が現れる。その表面には化石の足跡が一直線に並んでいた。

 クイントは息を呑んだ。長く鋭いその爪痕は、“居留地の末端”で保存されていたあの生物の手の形と一致していた。それが何かはともかく、その同族がここを歩いていたのだ。コインの帝国は間違いなくアルケヴィオスに到来していた。頭上の壁には、片手に槍を持ち鎧を纏った生物が、想像の彼方から現れたような触手の怪物と戦う様子がモザイク画で描かれていた。以前にも、大図書棟で同じようなものを見たことがある。久遠の闇の向こう側、悪夢が棲む地で待ち受ける恐怖の物語を。

 「この遺跡について記録しなければ」と口に出す。自分の声が震えていないことが誇らしい。「オーガスタ学部長が待っています」

 マイカはクイントを驚きの目で見て、「化石を見つけましたが」とだけ言った。

 「そうですね、それも記録しなければなりません。記録を残すことで歴史を現在に繋ぎ、それを未来にまで連ねていきましょう」クイントは骨の髄まで疲れ切った様子で周囲を見回した。「やるべきことがあるのです」

 マイカは頷いて立ち上がり、そして作業は始まった。


(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

 

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