MAGIC STORY

ストリクスヘイヴンの秘密

EPISODE 08

サイドストーリー 生ける炎

Aysha U. Farah
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2026年4月3日

 

 ユーフォニー渓谷での日の出は絵の具箱をひっくり返したかのようだ。青と紫が渦を巻いて地平線へと向かい、空気中の魔力と共にかすかに煌めく。息を呑む光景。まばゆい情景だ。

 もちろん、極上祭の参加者でその光景を眺められるほど早起きするものはいない。三週間ものあいだ呪文を唱え続け、歩き回り、酒をあおりまくるため、正午より前に意識がある者はほとんどいないのだ。表向きには月末に行われる展示会の準備にかかっていることにはなるが、あと数日で本番、という状況になるより早くそんなことを考え始める者は稀だろう。少なくともそうだと聞いてはいる。

 私もまだ眠っていただろう――あまりにも強烈かつ迫真の夜驚症、そのせいで目を閉じるたびに冷たい金属音が聞こえてくるようなことさえなければ。太陽の元へと出なければならなかった。昨日と同じように。一昨日もそうだった。

 渓谷から吹きすさぶ風が私の髪を持ち上げようとするが、編み込んだ髪は重すぎて十分には浮き上がらない。そうだ。この次元は健在だ。金属の怪物なんていない。まじないの言葉を繰り返す。私を当てにしているものはここには居ない。

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アート:Lie Setiawan

 尾根のさらに向こう側で何か、炎のような影が動いている。ここにいるのは私だけじゃなかった。一瞬、まだ夢を見ているのかと体が硬直する。

 ナサーリ学部長が、細長く突き出た岩の上に危なっかしく立っていた。ここに何をしに? 卒業制作を手伝いに来たのだろうか? その疑問の答えを私は知っているはずだ。上級生として、すでに二、三回は極上祭を経験しているはずなのだから。だけど、選別した者たちを取り込んでそれ以外を殺戮する、別次元の虐殺的勢力によって故郷の次元が侵略されるという事態は、課外活動に本当にとんでもない影響を与えてしまう。

 かつての指導教官の姿を目にして、吐き気を催すほどの恐怖に満たされるようなことがなければいいのに。ストリクスヘイヴンでの日々がファイレクシアの侵略によって分断されなければよかったのに。でも母はよく言っていた。「こうだったらいいのに、って考えて何になるの? 銀行に預けられるかしら?」

 天にまします神々よ、こんなに震え上がるほどに心を壊されなければよかったのに。

 まるで私の不安を感じ取ったかのように、ナサーリ先生は振り返った。反射的に体が動き、私は尾根を駆け戻ろうと身をひるがえしたが――

 『ルーサ、大切な生徒君。君はいつも私に何と言っていたかな? いつまでも一人前になれないということが不安かね?』

 足が滑り、尾根の端が崩れ落ちて頁岩のかけらが落ちていく。ナサーリ先生が何か呼びかけていたかもしれないが、風の音がそれをかき消していた。なんて完璧な終わり方なんだろう、と思案する時間は十分にあった――ファイレクシアの侵略を生き延びたのに、今一度の相手との会話を渋ったがために崖から落ちるなんて――そして滑落していく体がふいに止まった。

 一筋の魔法の糸が手首に巻き付き、私を引き上げてくれた。ほんの一瞬で済んで助かった。それ以上引っ張られたら肩が脱臼していただろうから。現に肩の調子は良くない。

 岩屑を口から吐き出して転がる。この渓谷の断崖がすぐ左手に大きく口を開けていることに気づき、慌てて後ずさりした。胃袋が揺れる。安全な場所としてこの身が引き上げられた岩棚は、幅が六フィートほどしかない。心臓が跳ねる中、冷たい岩に背を預ける。

 片手で目を覆いつつ、落ちてきた場所を見上げようとした。ナサーリ学部長はこちらに気づいていただろうか。見えるのは明るくなってきた空だけだった。

 すぐ横では、頭に剃り込みを入れた痩せぎすのエルフがまだ崖っぷちを眺めていた。彼はまだ幼く、極上祭の他の参加者たちに比べると場違いに思える。プリズマリの生徒は、上級生になるまでは招待されないことが多い。

 「ありがとう」私は震えながらも立ち上がった。髪の毛は汗でべとべとだ。「今のは素早い呪文捌きだったわね、えーと――」

 少年は私がいたことを忘れていたかのようにこちらを見る。「グラッシィク。グラスでいいよ」

 「ありがとう、グラス」両腕が痛むが、少なくとも鯨の地溝の岩の染みにはならずに済んでいる。

 少年は肩をすくめるだけで、こちらを見ようとしない。彼の注意は、想像していた通り、この地溝の底に集まったクジラの大群に集中している。冷たい青と深い赤に輝く巨大な精霊魔法の獣たちは、終わりなき巡礼の旅路さながらに山脈の狭い溝を進んでいく。その体躯にしては意外なほどの優美さを誇る生物たちではあるが、水晶のような藍色の光を脈打たせているザトウクジラだけは別で、グラスは自身の真下に浮かぶそれに細くも安定した魔法の流れを送り込んでいる。

 「えっと……何をしてるの?」

 かゆかったのだろうか、グラスは片耳を肩にこすりつけた。「霊感操作だよ」

 「本当にそのやり方でいいの?」

 エレメンタルは構造物としてはかなり安定しているが、それでも奔放な魔法であることに変わりはない。内部の均衡を乱すような厄介な要素も多く、爆発の危険もある。

 グラスは、今度はこちらを見ようともしなかった。「そうであって欲しいね。これが僕の卒業制作だから」

 はいはい、機嫌悪くさせちゃったかな。まあ、命を救われた身としては、文句は言えないけれど。それにしても、魔法で作られた巨大なクジラは確かに極上祭の提出物としては受けがよさそうだけど、どうやって展示するつもりなんだろうか。

 もしかすると、ナサーリ先生はこういう子を支援するためにここに来たのかもしれない。嫉妬と疲労の狭間で胸が痛む。

 『ルーサ君、耳元でささやくこの声が分かるかね?』

 歯を食いしばる。「どうすればここから上に戻れるの?」

 グラスはあいまいに左の方向を指さした。張り出した岩のせいで崖は常に影で覆われているが、グラスの魔法の光によって、尾根の頂上へと続く狭い岩棚が辛うじて確認できた。私の足ぐらいの幅だろうか。

 冗談でしょ?

 もう一度、落ちてきた場所へと顔を向けたが、誰もいない様子にひどく馬鹿げた状況だと感じた。

 『ルーサ君、誰も助けてはくれない。自力でやるんだ』


 この祭りの中心施設がある敷地に戻るころには、背中は痛むし肘は擦りむいているしで散々だったが、キャンプが目を覚ますには十分な時間が経過していた。並んでいる赤と青の大型天幕の列は午前の太陽の下できらめき、調理場では魔法の炎が空腹と二日酔いを抱えた百人の生徒たちを待ち構えている。ほとんどの天幕にはプリズマリの紋章が刻まれてはいるが、行事に参加する部外者は毎月増えていく。ストリクスヘイヴンの他の生徒たちや、旅する芸術家、あるいは単に展示会が好きな人たち。各自に宿泊場所が定められてはいるものの、日が経つにつれてそれぞれが友達となり交流を深めていくので、次第に気にされなくなっていくことが多い。

 それらすべての奥では巨大な石の女神、ミューズ像がそびえ立ち、山の斜面を見下ろしている。これは自然とこの形になった岩石だと皆は言うが、そんなことはあり得ないだろう。とはいえ、もし私がこんなものを制作したなら世界中にそのことを広めるだろうが、これを作ったと主張する者は誰も出てこない。

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アート:Andreas Zafiratos

 自分の天幕に近づくと、空気が震えて突然の音楽に包まれた。フルートの高音の響きとチェロの重低音に、小さな打楽器の音色が時々挟まる。天幕の垂れ蓋をめくると音楽は不意に止まった。その周囲に使い魔のように楽器を漂わせながら、人間の風魔道師、カーリがあたりを見回している。プリズマリでは彼女は個人音楽隊として知られているが、極上祭でたった一晩彼女が演奏しただけで騒音の苦情がここに来るようになり、次の日の朝は私も防音壁を作る手伝いをする羽目になった。

 「ルーサ! どこ行ってたの!」彼女は私の服とひじの状態を見て目を丸くした。「どうしたの? 崖からでも落ちた?」

 少し傾いている床を転がるように歩き、魔法の水盆前で腰を下ろして髪をほどき始める。「ええ」

 「ちょっと、ほんとに?」

 「まあ、そう」指の間にヘアピンを二本挟んだまま、言葉を止める。「少し違うかな。実際崖からは落ちたんだけど、転落寸前で助けてもらったってだけで」

 「なんで――っと」

 カーリは浮かんでいたチェロのネックに肩をぶつけた。彼女が腕を振ると、その楽器はおとなしくケースの中に戻っていった。「なんでそんなことになったの?」

 私は何があったかを話した。学部長の姿を見たせいで動揺しすぎて、自分の足につまずいて転んだという部分は省いたけど。話し終えるころには、彼女は折り畳み式寝台の端に座り込んで口をあんぐりと開けていた。

 「ルーサ! 今年の極上祭であんたが事故ったら、絶対に許さないからね!」まるで彼女の感情に呼応するかのように、フルートがケースの中で小さく不規則に音を鳴らした。「もっと気をつけなきゃ!」

 その声は私の母を思わせた。カーリが二メートルを超える女オークに似ているというわけではないが。彼女は私の胸骨にやっと届くかどうかぐらいの背丈だ。

 「グラッシィクがそこにいてあなたを捕まえてくれてよかったわ!」

 「彼を知ってるの?」私は彼の名前を言わずに、精霊魔法の糸で私の命を救ってくれた痩せぎすの肘と膝を持つ人物について説明しただけだった。

 「みんな知ってるわよ! 天才児なんだから! プリズマリに来てまだ一年も経ってないのに、並みの教授より魔法が上手いのよ!」

 「私は聞いたことないのだけど?」

 カーリは悲しそうに首を横に振った。「そりゃ、あなたが部屋から出てきてさえいたら……」

 笑ってしまった。「わお、カーリ。今朝はずいぶん率直じゃない」

 カーリは華奢な顎を上げた。「音楽は真実を語るわ」重々しい口調で言うものだから、それが冗談かどうかわからなかった。

 魔法の軟膏と新しい包帯で、そこかしこにある擦り傷の手当てをする。私は癒しの技の使い手というわけではないから。それから、天幕の奥にある自分用の間に合わせの机に着席する。カーリの音楽の響きが押し寄せる波のように私を包み込んでいた。彼女はただ話をするためだけに私と会話しているわけではない。私には友達があまりいない。同期のほとんどは既にストリクスヘイヴンを去っていた。

 まあ、「ほとんど去っていた」というのは――あの侵略のせいで、機械正典とやらに不適格とされて処分されたり、ファイレクシア化した部分が機能不全に陥って腐食したりして大勢が死んだからだ。とはいえその姿で生きていたいと思う者はいないだろう、と教授たちは言っていた。

 その後、大学は構内の再建と人員の補充が必要になったし、どこか他の場所へ魔法を学びに行ったり、魔法の研究自体が向いていないと判断して戻ってこない生徒もいた。戻ってきた上級生のうちほとんどは、最終学年を終えて卒業し、それぞれの人生を歩み始めた。

 期末試験や卒業の手続きは指導員に手伝ってもらって行うので、ナサーリ先生がああなってからは、自分で新しい指導員を探すはずだったのに、結局……できなかった。翌年私が戻ってきたとき、誰も何も言ってこなかった。どうしてこんな扱いを受けなきゃならないの? 私はルーサ・スコールハート。私が破滅の淵から救ったこの大学に、私の居場所がないとでも言うの?

 鼻息を立てながら小さな木箱を開くと、机は赤い光に包まれた。木箱の蓋には木々や蔓が絡みつき、二本の枝が下へと伸びて留め具になっている。宝石箱にと母がくれたもので、去年、魔法的干渉を防げるように何日もかけて自分で調整したものだ。

 中には、私の拳よりは少し小さく赤とオレンジに輝く球体が収められている。それは太陽の表面のように沸き立ちうねりながらも、熱は発していない。私が手をかざすとそれは指へと巻き付き、私の動作だけではなく意思にも反応する。

 私はこれを「生ける炎」と呼び、これまで作成してきた中でも最高の作品だと思っている。もしかすると、スコールハート家がこれまでに作成した中でも最高かもしれない、荒々しい魔法を高次の意思によって完璧に制御した作品だ。

 これを完成させてもう六か月になる。まだ誰にも見せていない。一年生になったばかりの頃、旧・暴風区画の上空にて真紅と黄金の渦が舞い上がるのを見たとき、まだ「完成化」とかいう言葉さえ知らなかった頃に思いついたものだ。

 『完成化の呼び声はどうかね、ルーサ君? 心を開いて耳を傾けてみては』

 生ける炎を見つめていると、一瞬、血と金属の悪臭が充満するあの大図書棟の暗闇へと引き込まれた。

 「ルーサ!」

 現実へと引き戻された。カーリが隣に立って片手を私の腕に添えていた。生ける炎は大型天幕の半分ほどまで膨張していた。

 「ごめん」どもりながら、生ける炎を縮める。「ぼおっとしてた」

 その日の残りは、しばらくぶりに実験作業に費やすことにした。すでに生ける炎は完成しているので、何かを実験する必要には迫られているわけではない。とはいえ、一人で考え事をするのに耐えられず、作業に没頭した。日が暮れ始めるころにはすっかり苛々しておかしくなりそうで、細かい作業に指が痙攣しそうだった。だから、出かけていたカーリが戻って来て一緒に極上祭ギャラリーに行かないかと誘ってきたとき、二つ返事で同意した。

 彼女はきょとんとした。私が同意すると思っていなかったのは間違いない、なにしろ今まで一度も同行したことがないからだ。カーリはすぐに落ち着きを取り戻し、ぱちぱちと両手を二度叩いた。彼女の指輪が夕闇にきらめいた。

 「最高! すごく嬉しい。あなたお酒も飲みたいんじゃない?」彼女は首を傾げた。「ほんと、出会ったときから飲みたそうにしてた」

 その点については反論できなかった。


 極上祭ギャラリーはこの壮麗なる頂の端に位置する、山脈を貫く大通りの近くに駐屯する馬車や隊商の一帯だ。そこは画家、職人、その他の魔術的技能者が集まって物々交換や売買を行う場所で、カーリは毎日そこで何時間か演奏を披露している。彼女の路上演奏会には何度か行ったことがあるけれど、毎回同じ曲を何度も演奏してばかりだ。彼女はよく「チップを稼ぐなら、観客が喜ぶ曲を演奏しなきゃね」と言ってくる。

 私たちが到着する頃にはほとんどの芸術家たちは店じまいをしていて、徐々に暗くなってくる空の下、人々は露店酒場へと流れ込んでいた。ここでの夕日は日の出に匹敵するほど壮観で、魅惑的な青とオレンジの光がこの壮麗なる頂の上空で星雲のように筋となって垂れ下がっている。

 誰かが地面の広い範囲に魔法をかけて、白く輝く石に変える。それは即興の舞踏場のように穏やかな光を放つ。一瞬、流れる音楽が私の心を捉え、その拍動が心臓の鼓動と同調する。そして、プリズマリに加わったばかりの頃のことを、音楽会や上演会や驚嘆させる方法について、そして魔法理論について半ば酔っぱらいながら語り合ったあの日々のことを思い出す。そんなに昔のことではないのに、具体的にどんな感じだったかはほとんど覚えていない。

 カーリはきっと私の心の中で何かが揺れ動いているのを感じ取っているのだろう。彼女は私を、焚き火台の周りを囲む円形の椅子へと押しやってきた。「ほら。飲み物を取って来るから、しばらく一人で待ってて」

 私が座ると、彼女はふらふらと立ち去る。銀青色のスカートが夕風に揺れていた。ほんの数歳年下なだけなのに、彼女を見ていると自分がとても年老いたように感じる。

 生ける炎と一日中にらめっこしていた後なら、視線を焚き火へと移すのは自然な事のように思える。これは完全に自然の火で、魔法などは一切使われていないが、その踊るように揺らめく様子は、ある人物の職服を思い出させる。胸にまた激しい痛みが走った。

 「よう。あんたがルーサだろ?」

 焚き火から目を上げて、声の主にどうにか焦点を合わせようと目を細める。片方の腕に蛇のような模様の青緑色の刺青を入れた大柄な人間の男が、長椅子の奥から露骨にこちらを見つめている。

 聞こえなかったふりをして、遠くの何かに気づいたかのようにその男の背後の方に視線をそらす。顔に熱気を感じた。

 「ルーサ!」また呼びかけてきた。

 その男に寄り掛かられているもう一人の男が、気乗りしない様子でその体を軽く押しのけた。「うっとおしいよ、ルクス」押したほうは長髪でがっしりとした体格のオークで、爪は銀色だった。そして私はそのオークを知っていることに気づいた。前学期、一緒に次元史の授業を受けた。ならば隣にいる人間が、何度か口にしていた彼氏に違いない。

 「こんばんは、ジャスティス」と声をかけると、彼もこちらのことを覚えていたようだ。

 「ルーサ、やあどうも」彼は長椅子の背もたれに片腕を伸ばし、すっかりくつろいでいるようだ。「卒業したものだと思ってたよ」

 「してないの」

 その人間、ルクスは、明るくもややまどろんだ目をしていた。だいぶ酔っているようだ。「ジャスティス、その子を知ってるのか? ストリクスヘイヴンの勇者の一人だぜ!」

 私ももっと酔っ払っていればよかった。

 ジャスティスは目を細めた。「誰?」

 ストレスから身に着けている飾り輪をゆすり鳴らしていることに気づき、動きを止める。「侵略の時も寝てたの?」授業中の彼の印象と言えば、よく寝ていることだけだった。

 ジャスティスはにっと笑った。「それよりなお悪くてね。収穫期で実家に帰らなきゃならなくなって。弟が知り合ったばかりの女の子と駆け落ちしたせいで、農場の人手が足りなくなってたんだ」

 「いいじゃない」

 ジャスティスはルクスの手から飲み物を取り、一口飲んでから返した。彼氏をコースター扱いだ。「君は大豆の収穫作業をやったことはある? 次は僕が金属の怪物の相手をしとくよ」

 思わず笑いだす。笑いごとにはしたくなかったけど、カーリが言っていたように、ひとはそれぞれ好きな曲を演奏するものだ。そして私はあの侵略以来ずっと同じ曲を演奏していた。仲間内で会話するのがこんなにも簡単だったころのことを思い出す。おしゃべりを楽しみにしていたころを思い出す。

 ルクスは呆れたといった表情をした。「ルーサにそんな口をきくなよ! ファイレクシアの連中を大学から追い出す召致の読み上げを果たした五生徒の一人だぞ。しかもそのうちの一人はプレインズウォーカーだ! そりゃあ、まあ、ずっと死んだと思ってたけど――」

 私は立ち上がった。「ちょっと新鮮な空気を吸ってくる」

 ルクスが背後から「ここは外だぜ!」と声を上げるのが聞こえる。振り返らない。顔から肩の先まで熱を帯びている。

 「ルーサ――」

 危うくカーリにぶつかりそうになり、間一髪立ち止る。彼女は地面に倒れそうになったが、どうにか持っていた飲み物をこぼすだけで済んだ。

 「ごめん、私――」

 「大丈夫かね? カーリ君」

 その声に、既に高鳴っていた心臓がさらに激しく鼓動した。ナサーリ先生が突然自分たちの前に現れる。その炎はギャラリーの焚き火と同じぐらい眩しかった。

 「大丈夫です、ナサーリ学部長。何も問題ありません!」慌てた様子でカーリはそう言ったが、彼女のドレスの胸元はお酒で濡れていた。ナサーリ先生は鼻を鳴らして眉を寄せ、真っ赤な一本の指を彼女に向けた。絹生地の染みはゆっくりと消えていった。

 鼓動が喉にまで響く。あの燃えるような瞳がこちらに視線を向けるのをずっと待っている。しかしその時は来ない。ナサーリ先生はその場に立ったまま、いちども私を見ようとしない。カーリに微笑みかけ、踵を返して優雅に立ち去っていく。

 喉の奥が焼け付くようだ。まるで火の魔法の詠唱を失敗したときのような鋭い痛み。ナサーリ先生の炎のさざ波が視線の先で揺らめき、私の体はその場で凍り付いた。

 『あの声だよ、ルーサ君?』

 「ルーサ」カーリが私の腕に触れ、私は暴れて彼女を突き飛ばすことのないように意志力を総動員しなければならなかった。胃の底であの昔の怒りがくすぶっている。ずっとそこにあった憤りが。かつてナサーリ先生が、我慢し続けることはできても消えることはないと言っていた憤怒が。

 近くで何かが爆発した。

 一瞬、自分が魔法を暴発させたのだと思った。そして、衝撃波がナサーリ先生を、私を、カーリを襲ったときに、ファイレクシアの派遣兵がこの次元に大破壊をもたらすために戻ってきたのだと思った。けれど地面に叩きつけられた瞬間、最初に爆発だと思っていたものがそうではないと気づいた。これは水だ。

 「何これ?」カーリの声は詰まっていた。衝撃波に突き飛ばされた衝撃で息ができなかったのだろう。

 ギャラリーの上空に浮かぶその物体はあまりにも巨大で、一瞬、空の星々を覆い隠してしまうほどだった。距離感が喪失し、まるで虚空にいるかのようだ。そしてそれが動きだし、空中で回転し始めた時、自分が何を見ているのか理解した。夕暮れの光の中で黒く陰った巨大な紺碧のクジラが魔法の力で膨れ上がり、制御不能となってこの頂の上空で暴走しているのだ。

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アート:Serena Malyon

 「あれは――鯨の地溝から来たの?」カーリは大声を上げた。「でもあれは無害な、ただの構造物で、何もできない――」

 私は彼女を無視して、地面から起き上がって探し始める――

 「私にも見える」落ち着いてはいるが緊迫した声が肩越しに聞こえた。「あれが何なのかわかるのかね?」

 ナサーリ学部長が隣に立っている。一瞬、胃が食道から飛び出しそうになったが、エレメンタルのクジラはその体からまたも水の波を起こし、それは滝のように流れ落ちて馬車の列を飲み込んだ。ベル売りの店から鐘の音が一斉に鳴り響いたが、やがてすべての音は消えた。

 クジラが宙を舞い身を震わせるときにだけ、その身の中央奥深くに光るひとつの姿が浮かび上がる。クジラが急降下して近づいてきたときに、その光が痩せぎすの四肢と剃り込み頭だと認識できた。

 「あれはグラス――グラッシィクです。たしか一年生? 今日あのエレメンタルに何かしてたんです、私が会ったときに――」

 説明に詰まったが、ナサーリ先生は聞いていない。「制御を失ったのか」

 並んだ天幕に向かって新たな水が流れ込み、悲鳴がこだまする。このままでは広い岩棚全体が水に浸かってしまう。

 ナサーリ先生は片手を上げた。「離れていなさい」

 次にクジラが頭上を通りかかった時、ナサーリ先生は手のひらから火炎を放出した。それはクジラの巨体に命中して蒸発音を立てながら蒸気の雲を生み、巨大なひれを一枚切り落とした。

 地面に落ちて泥水となったそれは、沸騰するほどに熱かった。私は火傷しないよう、カーリと自分の周りにとっさに障壁を展開した。頭上では、クジラがオペラの一節を引き延ばしたような音を立てながら、その胸と頭の内側を震わせていた。切断されたひれの部分は徐々に再生し、球根にも似た突起へと変形した。あのエレメンタルを動かしていた力が何であれ、もはやグラスの制御下にはない。彼があの中でまだ生きているかも疑わしい。

 隣ではナサーリ先生が愚痴をこぼしていた。「私の炎では力不足のようだ。もっと威力が必要だな」今度はクジラの尾に炎の塊を放つ。それはまたも激しい蒸発音と共に消滅した。

 「やめて、やめてください!」もう一度障壁を作りながら叫ぶ。「みんな生きたまま蒸し焼きになっちゃいます!」

 ナサーリ先生はくるりと振り返った。纏う炎の職服が不服そうにはじける。頭上では、尾も不格好な塊に再生したクジラが再び急降下してくる。「ではスコールハート君、何か提案はあるかね?」

 足元で湯気を立てる熱湯のように私の顔は紅潮し、突然、意識はあの大図書棟に戻っていた。儀式の円の縁で花弁を掲げると、召致の力で身体が炎に包まれる。私たちをここにたどり着かせるために沢山の人が命を落とした。そして私たちはストリクスヘイヴンの、この次元全体の最後の希望となった。

 私たち五人は縁あって集い、かろうじて友達同士と言えるくらいの関係だった。同じ魔法学部出身ではない。それでも私たちは互いを助け合い、勝利まであと一歩と言うところまで来た。

 そして……先生が。

 先生は何処からともなく現れ、半完成状態の輝く金属質の肉体は、自由に舞い踊る炎と吐き気を催すほどにせめぎ合っていた。ナサーリ学部長は常に人を惹きつける存在だったが、ファイレクシア化した先生は恐ろしい存在だった。

 当然だけど、先生は私だけに語りかけた。私を知っているからだ。

 『ルーサ君、頭の中で聞こえる声に気づいているかね?』その声が喉を鳴らす。『君は一人前ではないと言う声は? 自分がなりたいと思うようなものには絶対になれないと言い張る声は?』

 先生が笑うとその口元は真っ赤に染まる。血なのか火なのか、もう分からない。

 『受け入れてはどうかね。たまには自分の直感を信じてみては? 君の直感は正しい』

 『君は自分に特別な才能があって、物事に少し変わった取り組み方ができる存在だと思っているのかね?』

 『それが重荷になっている。それに執着しているんだ。何も成し遂げられないのは完璧主義だからではない。単に、駄目だからだ』

 先生は私を傷つけるためにそう言う。当然だろう。先生はファイレクシア人、その行動は全て機械正典のために。私は五人の繋がりの最も弱い部分で、そこを壊そうとしてくる。

 私の集中力は途切れ、儀式の円から力が抜けていくのを感じた。私たちが生き延びられたのは、ひとえにロアホールドの物静かな少年、クイントのおかげなのだ。彼は私の失敗を補い、召致の呪文を支えてくれた。その後彼は姿を消したが、数か月後になってようやく実は死んでいなかったことが分かった。彼はプレインズウォーカーになっていたのだ。

 それからは何も問題はなかった。私は誰も殺してなかった、よね? 結果的に召致は成功した。けれどクイントが生き残っていたとしても、私たち五人の中で失敗の元凶だったのが私だという事実は変わらない。誰かが私の穴埋めをしなければならなかった。この三年間、その認識が私の心の芯で燃えていた。

 ナサーリ先生もそのことを知っている。だから先生は長い間私に話しかけてこなかったのだ。召致の力によって先生はエレメンタルの体を再構成することができ、修復される大学の周辺にいるだけで同様に回復した――肉体が欠けていたことが、結果として先生を救ったのだ。そして正気に戻ったのち、私が何をしでかしたのかを知ることとなった。

 けれど今、先生は振り返り、大図書棟で聞いたのと同じあの声で尋ねてきた。「ではスコールハート君、何か提案はあるかね?」と。そして私は案があることに気づいた。

 ナサーリ先生の言葉が、私にそれを気づかせた。「もっと威力が必要だな」先生の声が頭の中でこだまする事には慣れている。まるで実家にでもいるような感覚だ。

 ゆっくりと、片手を上げる。ナサーリ先生は一歩あとずさった。私が先生に向かって呪文を唱えようとしている、と思われているみたいだ。私は目を閉じ、水音や逃げ惑う人々の音、そしてあのエレメンタルの、悪夢のように混沌とした咆哮を遮断しようと試みる。まぶたの奥に見えるのは、眩しく踊る、生ける炎だけだった。

 「一体何を――」

 目を開ける前からすでにその重みを感じる。生ける炎は鞭のように私の片腕に巻き付いている。手首を撫で、顔を上げると、ナサーリ先生が私を見つめていた。その表情が何を表しているのか、私には分からなかった。生ける炎は、先生のその身の炎よりも眩しく輝いていた。

 先生は何も言わずに手を差し伸べてきた。一瞬、ぎざぎざで黒ずんだ金属の爪を思い出して身構えた。しかし過去は終わった。それは死んだのだ。

 ナサーリ学部長の手を取ると、周りの世界が火に包まれた。

 何年経とうとも、皆がその後の出来事を語り継ぐだろう。それは未来の極上祭の中心となり、世代を超えて受け継がれる伝統となるだろう。その炎の夜のことを。

 凶暴なエレメンタルは空を覆い隠すほどに大きく成長し、その苦悶の歌が壮麗の頂一帯に響き渡る。直下のギャラリーは水浸しになり、破壊された馬車群や天幕がユーフォニー渓谷の切り立った崖へと吸い込まれていく。人々はミューズ像の下に集まり、互いに引き上げあってこの洪水から逃れようとする。

 一点から始まったその炎は、しかし次第に広がりながら熱を帯びて燃え上がり、その純粋な力はどんな魔法使いでも歯を軋ませるものとなった。始めは炎がふたつの人影を取り囲んでいるように見えたが、やがて渦を巻き、深い藍色の芯に赤とオレンジの炎が編み込まれていった。あの炎は蛇のようだったと言う者や、空中を泳ぐ魚のようだったと言う者もいる。他には、巨大なエレメンタルを彗星のように叩きつけて、ただ一回の大爆風と共に蒸発させたと主張する者もいた。

 驚くべきことだが、少々の火傷や擦り傷を除いて、その夜に大怪我をした者はいなかった。そもそも、不遜にもあの不良エレメンタルを制作した愚かな生徒でさえ、肋骨を数本折った程度で済んでいた。奇跡だ。

 もちろん、これらはすべて後で教えてもらって知ることだ。今の私に認識できるのは熱と荒々しい炎魔法の気持ちよさ、そして耳元で呼びかけるナサーリ先生の声だけ。この何年かで初めて、そういったものを辛いと感じはしなかった。

 「痛った」とこぼしながら、まとわりつく泥の中で体を回し、片足を泥から抜き、もう片足も。肩に何か重くて暖かいものがひっついていて、ずきずき痛む両目をどうにか開くと、どうなっているのか分かった。生ける炎は火の魔法から私の体を防御してくれてはいたが、私の服は守れなかったらしく、ぼろぼろに焼け落ちていた。ナサーリ先生は薄くて移ろう素材でできた服で私を覆ってくれていた。こんな感触のものは初めてだった。

 ナサーリ先生は私のすぐ隣で膝をついて、上半身を露わにしたまま下を向いていた。数秒が経ち、怪我をしているのかと思ったが、すぐに目が合った。

 「ルーサ君」

 しばらく、私も先生も無言だった。ナサーリ先生の表情はいつも読み取るのが難しい。先生のその表情や顔色が常に変化して、炎のようにきらめく顔を持つジンという種族だから、というだけではない。けれどほんの一瞬、私の中に巣食い、私を空虚にしてきた孤独の核と同じものが見えたような気がした。あの罪悪感が。

 「ルーサ君、その……すまない」先生は咳ばらいをした。「すまなかった……君の勢いについていけなかった。あの呪文は――」

 「生ける炎って言います」

 先生はうなずいた。「生ける炎か。優美で精巧な作品だ。素晴らしい。まさかとは思うが……」口ごもる。「まだ指導員を探しているわけではあるまいね? まあ、理屈の上で言えば、私はもう何年も君を指導できていないのは事実だが、しかし……」

 先生は肩をすくめた。まるで自身を小さく見せようとしているかのように。「私が……あの時に大図書棟で君に言ったようなことは、決してありえないことだ。あの時の私は君を傷つけるために色々と言った。しかしどれも事実ではなかった――まあ、当時それが事実だったかどうかは関係ない。今は決して事実ではない」

 プリズマリでの最初の学期、私は落第寸前だった。何も成し遂げられず、批判を恐れ、ナサーリ先生に見捨てられると思い込んでいた。ところが、先生は私の才能を見抜き、私を立ち上がらせてくれた。

 そして今度は、私が手を差し出して先生を立ち上がらせた。



(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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