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MAGIC STORY
ストリクスヘイヴンの秘密

第6話 2、3、5、7
2026年3月31日
友ふたりが戦う。現実が揺らめく。戦いは何の喜びももたらさない。
火球が飛んできた。命中する寸前にかろうじて斧を掲げる。年経た筋肉が強張り、彼は吠え声をあげた。全身の力を振り絞り、迫る炎を叩く。腰を軸にして振り下ろす――必ず最後まで振り抜く。火球は骨の壁に激突した。
彼はかすかに残る炎の先を、チャンドラを見た。この火球を対処している隙に次を放つこともできただろうに。容易なことだっただろうに。敵を圧倒するというのは最も単純な戦術のひとつ。そして彼女はそれを実行して余りある力を備えていた。
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| アート:Aleksi Briclot |
だがそうはしなかった。
「どうして諦めないのよ!」叫び声が届いた。「どうしてわからないの!」
「私も同じことを尋ねたい」アジャニは一跳びで互いの距離を詰めた。チャンドラは炎のカーテンを張って接敵を防いだ。アジャニの爪が太古の土に食い込んだ。「うんざりしたのか?」
彼女は歯をむき出しにしてアジャニを見上げた。「私の考えを説明するのにうんざり? ええ、そうかもね」
炎をまとう拳の一撃。年月を経てその技は見違えるほどに上達していた。それを改めて実感せずにはいられなかった。炎の荒々しさは昔と変わらない。だが拳はまっすぐに伸び、指の関節もきちんと揃っている。行き当たりばったりに拳を振り回すのではなく、力を集中させた一撃。
そのすべてに気づいたのは、拳が命中する直前だった。
炎が毛皮を焦がし、その下の皮膚が苦痛の悲鳴をあげる。思いっきり息を吸い込むと、その匂いに胃がむかついた。まずい。戦場でふらつけば命取りになる――チャンドラも今やそれをわかっている。自分がその状況にあるのだから。
「私はただ、誰かがこれ以上傷つく前に、あいつの計画を止めたいってだけ。なのに……」
その語尾はアジャニの咆哮にかき消された。魔法で傷を癒しながら、たて続けに迫る攻撃を無我夢中でかわす。戦いの真っ只中で自身の傷を癒すのは初めてのことではなかったが、それでも注意力の幾らかが分散されてしまった。そして最後の一撃が来た瞬間、彼は掌でチャンドラの拳を受け止めた。
「なのに、私はここにいる」触れそうなほどに額を近づける。「いずれ後悔するようなことを君自身がしないように。そのために」
燃え上がる瞳。今度はチャンドラが彼に向かって咆哮した。その身体が炎のもやに飲み込まれる寸前、アジャニは彼女を部屋の壁めがけて投げ飛ばした。
タイタンの骨の鋭い突起に、チャンドラは背中を強打した。それを見てもアジャニは嬉しくなどはなかった。苦痛の悲鳴を聞いても。師は決して、生徒をこのように傷つけてはならない。
しばしの間、彼はアルカイックとチャンドラとの間を行き来した。どうしても、口を開くことができなかった。
そんな自分が嫌に思えた。
だがその時、ふらつきながらもチャンドラが立ち上がった。その全身には隅々にまで決意がみなぎっていた。
このような状況にもかかわらず、アジャニは誇らしかった。
「ここは左へ行くべきだろう。空気がイチイに生える苔のような匂いだ。そろそろ近い」
タイタンの墓の地下、曲がりくねった洞窟を彼らは全速力で駆けていた。フェル教授も! それだけの力が残っているなどとタムは思わなかった。正直なところ、教授にはいて欲しくなかった。とはいえそれを他の誰かに明かすつもりもなかったが。
「本当にそう?」タムは声をあげた。「このトンネルの構造は、他の場所のような標準的な規則に従っていないわ。すべてがフラクタルの形状をしているのよ。木に雷が落ちた跡のように。次の分岐は右に行くべきだと私は思う」
ルーウェンが振り返ってきた。彼の困惑をタムは感じ取った。確かに、これまで自分が道案内をしたことがあっただろうか? 一度もない。
振り返った時、彼は何を見たのだろうか?
ルーウェンの反応よりも先に、サナールが大きく鼻をすすった。「ねえ、何か焦げる臭いしない?」
隣のスキがうめいた。「割れ仮面の長が危ない」
その警告だけを残して、彼女は右の道を駆け下りていった。
タムは後に続いた。
頭がふらつく。一歩進むたびに吐き気がこみ上げる。どうして自分はまだ立っているのだろう? 答えは簡単――立っていなければいけないから。
チャンドラ・ナラーは、多元宇宙の英雄は、立ち続けなければいけない。自力で立ち上がることのできない誰かのために。自分を憐れんでいるような余裕はない。そんな時間はない。一秒過ぎるごとに、宇宙そのものが崩れていくのだから。
掌に次の火球を握りしめる。よろめきながら一歩踏み出し、そして瞬きをしたかと思うと、彼女はどこか別の場所にいた。違う――別の場所にいたのはアジャニだった。ありえない姿形のネットワーク、創造の蜘蛛の巣。
もう一度瞬きをして、すると現実に戻った。ジェイスがこの頭にしたことのせい、それともこの洞窟に広がる魔法の波紋のせい? わからない。アルカイックは苦痛に吠えながら、呪文を手当たり次第に放っていた。そして、渦を巻く魔法のもつれ。それが何なのかは今なおわからない。だがその周囲の現実は不安定になっていた。
チャンドラは息を吸い、立ち続けようとした。何もかもが逆さまになってしまったようだった。怪我のせいだろう。「誰かを守ることを、後悔なんてしない」だがその言葉は不明瞭で、彼女はそれが嫌だった。強くならなければいけないのに、必要なだけの強さに辿り着けない。それが嫌だった。チャンドラはアジャニへと火球を放った。そしてその勢いで逆方向へと急いで離れる。あのアルカイックをいい角度で捉えねばならないのだ。
だが賢いアジャニはじっとしてなどいなかった。岩に飛び乗り、そこから骨化した一本の木へと移る。そして飛び降りながら、彼はアルカイックへと放たれた炎の噴流を間一髪で受け止めた。
アジャニはうめき声を漏らしたが、それはチャンドラに何の喜びももたらさなかった。割って入らなければ、そんなふうに傷つけずに済んだのに……
毛皮を燃やしながら、彼は斧を振るった――残酷に、力強く、可能な限りの速さで。
チャンドラは傷だらけで疲れ果て、避けることはできなかった。金属が肩に食い込む。悲鳴をこらえる。これ以上弱っている余裕はない。彼女は傷口に手を当て、一瞬の激痛をこらえて焼灼した。
だがその行動は間違いだった。次なる攻撃が迫っていた。残忍で効果的な攻撃が。斧の刃の先端でアジャニは彼女を引っかけ、そして引いた。
チャンドラはふらついた。倒れ込みながら、炎を地面に撃つことしかできなかった。その勢いに助けられて立ってはいられたものの、胃のむかつきや世界が回るような眩暈は全く鎮まらなかった。
集中しなさい。これはあなただけの問題じゃないのよ。
「私が行動するのは、あいつのせいで誰かが傷つかないようにするためよ……私みたいに」
彼女は炎の槍をアジャニの腿へと突き立てた。肉が焼ける音、そしてまたも苦痛の悲鳴。
「ならば、友達を傷つけるのはやめろ!」
斧が振り下ろされた。
命中する直前、チャンドラは、確かにその通りだと悟った。
先程と同じ交差路に立ち、タムはその緊張感を感じ取った。喉元にナイフを突きつけられたような。遠くのどこかから戦闘の音が聞こえてきていた。炎の轟音、アジャニが吠える声。数歩進むごとに、周囲の世界そのものが震えた。現実は波打つタペストリーのようで、それが目の前で引き裂かれては再び織られているのだ。
「言っただろう、左に行くべきだったと!」ルーウェンが叫んだ。今回、彼は反論する隙を与えなかった。サナール、アビゲール、キーロル、そしてスキが彼を追いかけた。
そしてタムも。
進むにつれ、焦げた臭いはますますひどくなっていった。吐き気をこらえるために口を手で覆う。心の奥底のどこか冷めた部分で、タムは疑問を抱いていた。こんな場所で戦いを始めるなんて、倫理観はどうなっているの? チャンドラやスキ、あるいは他の紅蓮術師がこの場所の何かに火をつけたなら、それは高確率で失われてしまう。二足歩行の者には知られていない生物種が、今この瞬間にもどれだけ焼き尽くされているのだろう? この世界は今、どれだけの可能性を失っているのだろう?
だが煙が通路に充満し始め、タムは自身に言い聞かせた。心配しても無駄だ。
何度も何度も、彼はチャンドラを突き飛ばした。手で、斧で。水たまりに投げこんだ時は、浮かんでくるまでの一瞬が救いにも思えた。壁へと投げつけた時は、跳ね返って骨が折れる音が聞こえた。永遠に残る傷をつけないよう、アジャニはひどく気を遣った。
だがチャンドラは、何度その努力を跳ねのけられようとも立ち上がってきた。
彼女からの攻撃は、まるで城門に打ち付ける破城槌のようだった。時間が経つにつれ、その攻撃は正確さを失っていった。怒りのせいだろうか? それとも怪我の? あるいは他の何かだろうか? わからなかった。わからないことが嫌だった。そしてチャンドラがこれほど朦朧としているのは、自分が彼女を傷つけているからかもしれない――わずかでもその可能性があることが嫌だった。
次々と繰り出される攻撃を、アジャニはひとつまたひとつとすべて受け流した。やがて彼はチャンドラによって骨の板に押し付けられた。そして防御のために斧を掲げたが、チャンドラはその柄を両手で掴んだ。
「チャンドラ、なぜこんなことをする?」
「なぜ、かって……プレインズウォーカーだって、ことは……」
言葉は途切れ途切れで、アジャニはほとんど聞き取れなかった。
「……誰かを、助けるって、こと。正しい、ことを、するってこと。それが……どれほど、大変でも」
斧の柄が温かくなり、そして熱くなった。握りしめているだけで火傷をするだろう。アジャニは彼女が何をしようとしているのかを察した。武器がなければ身を守れはしないと考えたのだろう。それは間違いだ。
だがそれは、自分がチャンドラに伝えたかった教訓だろうか?
アジャニは限界まで握りしめ、そして斧がふたりの間に音を立てて落ちた。もう武器はない。チャンドラはアジャニを地面に押し倒した。肘を膝で押さえつけ、拳を振り上げる。
彼女は疲れ果てていた。誰が見てもそれは明白だった。息をするたびに胸が激しく上下し、もはや拳をまっすぐに突き出すことも困難だった。
そうして戦闘がようやく速度を落とした時、アジャニはジャズィの姿を見た。自分たちが戦っている間、ジャズィはずっとアルカイックの肩の上にいたのだ。その傷を癒し、語りかけながら、助けようとしていたのだ。どれほど危険であろうとも。
もっと良いやり方があったはずだ。
アジャニはチャンドラの手を自身の手で包んだ。組み伏せられてはいたが、それで止められるわけはない。自分の方がずっと大柄なのだ。
「チャンドラ。プレインズウォーカーであるということは、もう十分すぎる苦しみを受けてきたということだ」
言葉にならない、弱々しい叫び声。チャンドラはそれでも殴りかかろうとしてきたが、アジャニは手を放さなかった。
「お願いだ。別の解決策を探そう」
そしてそこで、タイタンの墓の奥底で、黄金のたてがみのアジャニはその思いに至った――もう十分すぎる苦しみを受けてきた。斃れた兄。人間を超えた存在にも、人間以下の存在にも成り果ててしまったひとりの友。戦いに次ぐ戦い、また戦い。これだけのことがあって、自分は何を最も誇りにしているというのだろう? 何を得たというのだろう?
これを。
私たちは、もう十分すぎる苦しみを受けてきた。
チャンドラ・ナラーは再び、荒く息を吐き出した。そしてアジャニの手を外し、自身の両手を見つめた。
そして彼は悟った。戦いは勝利に終わった――そこに意味があるのかどうかはわからなくとも。
地衣類とキノコが繁茂する苔むした洞窟。かすかなカビの匂い。足が沈み込む柔らかな地面。
砂漠を貫く一本の道は蜃気楼に揺らめいている。飛砂は皮膚を容赦なく切り裂く。熱が身体から水分を奪い去る。
墓所のように暗く寒い水中洞窟。塩の味。魚が胸元に入り込む。狭苦しくて息苦しい。
一歩、二歩、三歩。足を進める度に全く新しい環境が開けた。洞窟を駆けて目的の部屋へ向かう彼女たちは、もはや何が現実であるのかをほとんど把握できていなかった。あれほどまでに不動の、確固としていたものも――タイタンの残骸も――今やひとつの仮定に過ぎなかった。現実そのものが仮定と化してしまったなら、どうすればいいのだろう?
キーロルが海水を吐き出した。
現実の波が落ち着くと、ルーウェンは立ち止まってキーロルの背中を叩いてやった。「ここで何が起こっているのだ?」
サナールが言った。「アルカイックの周りで現実が変化してるんだ。絶対そうだよ。何わけわかんないこと言ってんだって感じだけど」
“わけがわからないなんて言葉ですら足りないわ……” アビゲールは羽角をぴんと立て、その表情が集中に歪んだ。補聴器もまた、追いつくのがやっとだった。
「今見えているものについて議論したところで、何の得もない」フェル教授が言った。「ここは団結すべきだ。そうすれば、それぞれが独りでいるよりも役に立つ」
前方で、スキが部屋へと真っ先に飛び込んだ。「チャンドラさん! やっと着きました、私たちにできることはありますか?」
何が起こっているのか、タムにはぼんやりとしか見えなかった。チャンドラ・ナラーはふらつきながら立っていた。アビゲールと同じように、彼女も頭を抱えていた。血の流れがその口元と首筋を汚し、身にまとうローブと同じような赤色に染めていた。負傷兵へとそうするように、黄金のたてがみのアジャニが肩を貸していた。その身体の至る所に焦げ跡があった。そんな状態でもなお、彼はチャンドラの脇腹に手をあてていた。癒そうとしているのだ。傷はひどく、アジャニの集中はほとんどがそこに向けられていた。
ふたりは戦っていたのだろうか?
タムの心が沈んだ。ふたりが仲直りできることを願っていたのに。誰でも、終わりが来る前に、やり直す機会を与えられてしかるべき。ふと自分の生涯を振り返る。何が一番楽しかったかというと……
サナールの奔放な悪ふざけと仰々しい音楽。深夜にアビゲールと交わした詩についての議論。キーロルが新たな冒険へと導く。ついに花開こうとしているルーウェン。
いや、早とちりだったかもしれない。あのふたりは最終的には仲直りできたのかもしれない。いい方向に向かうのかもしれない。
この状況から無事に脱出できたなら。
そこで何が起こっていたのかを見る余裕すらなかった。魔法の渦から放たれた波が、またも世界を震わせた。骨の壁はきらめく油に、生の肉に、菌類の列に変化した。白金色を帯びた青の光が脈打つたびに、アルカイックが吠えた。ジャズィが両腕を広げてその前に立っていた。アルカイックを宥めようとしているのだろうか? そうに違いない。
すべてが瞬く間に起こった。
チャンドラがスキたちを見上げた。その血まみれの口が開き、何かを声に出す。だがそれを言い終るよりも早く、またも現実の波が彼女とアジャニをのみ込んだ。ふたりは歩みの途中で固まった。時間そのものが止まったのか、あるいは極端に遅くなったのか。あのエネルギーの渦にはどれほどの力があるのだろうか?
スキは叫びをあげて駆け寄ろうとしたが、キーロルがそのフードを掴んで引き戻した。何が起こっているのかとルーウェンが尋ねてきたが、タムもまともな答えは持っていなかった。フェル教授の言う通りにするべき、としか返答できなかった。
フェル教授は両目を輝かせ、呪文を唱えはじめた。だが巨大なアルカイックが沢山の手を振るった。魔法が脈打ち、琥珀色の光が教授を包み込むと瞬く間に閉じ込めた。
タムの視線がジャズィのそれと交差した。周囲で友人たちが悲鳴をあげていた。
「邪魔です、安全な場所にいなさい!」ジャズィが叫んだ。「私はこのアルカイックを落ち着かせます!」
生徒たちは視線を交わした。恐怖。不安。全員が同じ感情を抱いていた。タムは思い返した――これまでに何度も手を繋いだ。形に面を追加すれば、構造的安定性が増す。力を合わせた自分たちは本当に、本当に強かった。
キーロルは脈打つ光の裂け目へと進み、ルーウェンが続いた。サナールとアビゲールはフェル教授ともうふたりのプレインズウォーカーへ。ジャズィはあの魔法の渦へ、マナのもつれではないものへ近づいていった。魔力の触手が神託者を取り巻いてうねった。
どこで必要とされているかを全員がわかっていた。
タムもまた。
移ろう風景を横切っていく、ゆっくりと着実に。常なるものに集中すれば、上手くやれる。これからも決して変わらないものに。数学的理想に。2、3、5、7、11、13……息を吸う。息を吐く。
起こるべきことは必ず起こる。これもそのひとつ。避けられないこと。動かし難いこと。すべてがそれを中心として回る不動点。繰り返しそう自分に言い聞かせる。そうすればそれは真となり、勇気を出して行動できるだろう。
ジャズィがアルカイックへと身振りをした。フェル教授がそうしたように、神託者も呪文を唱えはじめていた。タムは一目見ただけでそれが古の魔法だとわかった。どれだけ時間をかけても決して理解することはできないもの。そしてそのような時間はない。とある類の魔法は、先人たちが基礎を築いてくれたからこそ習得が可能となる。だがここで見ている複雑な形状を習得するには、生涯をかけて学んだとしても届かないだろう。タムはその壮大さに圧倒された。精緻さに圧倒された。すべての角度が極めて正確で、すべての形状が次へと折りたたまれていく。
美しかった。
2、3、5、7、11、13。変わらないもの。
ジャズィの背後に立つと、目の前にうねる魔法の渦をまっすぐに見通すことができた。そうしようと思えば、眩しい光の中にここではない世界が垣間見えるのだろう。
2つの生涯。サナールが教えてくれた3つの冗談。誰も励ましてくれなかった時、キーロルだけがそうしてくれた5回。アビゲールから教わった11の詩。そしてルーウェンと一緒にタイタンの墓を探索した13の夜。タムは息を吸い、そして止めた。友は皆、プレインズウォーカーたちを助けようと奮闘している。自分はやらねばならないことをやる。
彼女はジャズィを、激しくうねる魔法の渦へと突き落とした。
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| アート:Craig Elliott |
簡単すぎた。もっと難しいと思っていた。もっと難しければよかったのに。これほど辛いことは、もっと難しくてしかるべき。こんなふうに神託者様を襲うことは、もっと困難でなければおかしい。もっと苦戦しなければおかしい。
だが苦戦はしなかった。ジャズィは呪文を織り上げることだけに集中しており、タムのことを微塵も疑ってはいなかった。落ちた瞬間に短い悲鳴が聞こえたが、それがすべてだった。続く言葉は脈打つ魔法の波に飲み込まれた。
全員の視線が自分に向けられていた。見るまでもなくそれを感じた。辺りに広がる静寂を耳にした。
「タム?」キーロルの声には、純粋な懐疑だけがあった。
「何をしたのだ! 神託者様は私たちを助けようとしていたのに!」ルーウェンが叫んだ。
ああ。辛い。ここに立っているのが辛い。ただ闇の中に消えてしまいたい。そうするつもり。消えてしまおう。けれど皆に伝えるべきことがある。
タムは唇を噛んだ。皆の目を見ようとしたが、できなかった。「私の存在はこのために」
サナールは過呼吸に陥り、両手を震わせていた。アビゲールの鉤爪は手話を止めた。勇敢なキーロルでさえ、その場に立ち尽くしていた。
長引けば長引くほど、皆を傷つけるだけ。タムは息を呑んだ。「でも、知っておいて欲しいの。皆がいてくれたから、私は幸せだった」
魔法の渦へと踏み出す。「皆と過ごした日々は、私の生涯で一番幸せな時間だった」
2、3、5、7、11、13。
飛び込むことは最初から決めていた。結末はこうなる定めだったのだ。
魔法の渦が音を立てて閉じた。ルーウェンはそれをじっと見つめた。もしほんの一瞬前に動けたなら、衝撃から立ち直ることができていたなら、ジャズィとタムを追いかけて飛び込むことができたかもしれない。だが、できなかった。
胃のどこかに大きな穴が開いたような気分だった。タム……何故あのようなことを?
状況について考える間にも事態は悪化していった。自分たちはどうするべきだ? 果たして何ができるというのだろう? だがここにはまだ友人たちがいる。頼りにできる者たちがいる。ルーウェンはひとつ深呼吸をした。自分たちは厄介な物事に直面している。だがそれはどのような物事だろう? それに対して何をすればいい?
キーロルはフェル教授を閉じ込めた琥珀を振り回していた。その両目からは涙が流れ、言葉にならない叫びがその衝撃のすべてを語っていた。だが琥珀にはひび割れのひとつすら現れなかった――教授は完全に囚われていた。
アルカイックもまた囚われていた。今なお痛みに苦しみ、咆哮をあげていた。魔法の渦は閉じたものの傷はそうではなく、状況が好転する気配は全くなかった。今なお波のように魔法がうねっていた。
アルカイックがまたも放った破壊の呪文を、ルーウェンはかろうじて避けた。そのエネルギーは彼の背後の木に命中し、それを半透明の粘体の塊に変えてしまった。もし自分に命中していたら……そう考えて全身に恐怖が広がる。臓器も骨も、何もかもがひとつの塊になってしまうのだ。
何てことだ。どうすればこの状況から抜け出せる?
キーロルの助けにはなれない。自分には腕力が足りない。部屋の壁は刻一刻と変化し、アルカイックからの更なる呪文が跳ね返る。地面の揺れは次第に大きくなり、至る所に裂け目が現れた。彼はサナールとアビゲールに近づこうとしたが、その瞬間足元が割れた。
避けられなかった。冷たい恐怖と熱い恥辱が彼の内で混じり合う。ここまで来て、地面の穴に負けるなんて?
だが誰かがルーウェンの襟首を掴んだ。今日二度目、そして今回そうしてくれたのはスキだった。
「どうするつもりですか?」
舌が上顎に張り付いた。自分はどうするつもりなのだろう? 「アルカイックを止めねばならない、何とかして鎮めなければ。ジャズィ様はそうしようとしていたが……」
「皆さんのお友達らしき人が滅茶苦茶にしてしまいましたが?」
「何か、もっともな理由があったはずだよ」サナールが呟いた。とはいえ彼の声も他の者たちと同様、とても確信に満ちているようには聞こえなかった。
「もっともな理由? もっとも? ぜひ聞かせて――」
だがスキがその質問を言い終える前に、大気が濃い煙と化した。息もできないほどだった。彼女は喘ぎ、目を見開いた。手で喉を押さえ、膝の力を失い……そしてようやく息を大きく吸った。すぐさまサナールが駆け寄ったが、できることはなかった。狂乱した神のような存在の周囲で、現実は不安定になっていた。不確実性と変化という恐ろしい繭の中に全員が閉じ込められていた。
ルーウェンの視線がアビゲールと交差した。普段は落ち着き払っている彼女が、震えていた。“ルーウェン……もし空気があまりに変化してしまったら……”
その手話を最後まで続ける必要はなかった。正確に言えば、続く言葉に耐えられるかどうかもわからなかった。既にあまりにも多くの物事が起こっていた。そこかしこで現実そのものが悪夢のように消え去っていた。生きて脱出するという希望もまた。
ローウィンのエルフは長生きではない。自分は友人たちよりも早く死ぬ。だが今、死に直面して、自分たちに襲い来る恐怖は……公平ではない。早死にするのは自分だけであるべきだ。皆のことが大好きだから。皆も死ぬなどということは許せない。何か解決策はあるはずだ。考えろ……
アルカイックが咆哮をあげた。苦悶とともに振り回すその手の中に、ルーウェンは魔法の光が閃くのを見た。灰色の身体に細く繊細な鎖が巻き付いており、必死にアルカイックを抑えようとしていた。だがその拘束は不完全だった。
ジャズィ様の呪文。
衝撃波が放たれ、ルーウェンは慌てて逃げた。だがそのまま駆け、目と化した石や歯の木々を飛び越え、巨大なアルカイックへと近づいていく。
「皆! あの呪文を完成させるぞ!」神託者様はどのように手を動かしていただろうか? 私は近くで見ていた。指の関節をこう曲げ、手首の角度は……「私のやり方を真似してくれ!」
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| アート:Néstor Ossandón Leal |
「無理だよ、ボクたちはそんな強くないよ!」キーロルの声に込められた痛みに、ルーウェンの心は締め付けられた。「ジャズィ様は神託者だけど、ボクたちはただの……」
「君は誰だ、どういうつもりだ、私の親友だろうが!」ルーウェンは叫んだ。喉はかすれていたが、そんなことはどうでもよかった。ここで失敗すれば、失うものは多すぎる。「さあ、私のためにやってくれ、キキ!」
琥珀に包まれたフェル教授を頭上に掲げたまま、キーロルは見つめ返した。ありえない瞬間がふたりの間を過ぎる。砂の雨と黄金色をした溶岩の飛沫がキーロルの表情をわずかに隠し、だがその態度の変化を隠すことはできなかった。
キーロルは教授を投げ捨てた。「わかったよ! やろう! みんな、ルーウェンの言う通りにして!」
ルーウェンは友へと笑みを向けた。今、もっと時間があればいいのに。彼はアルカイックの腕に飛び乗り、その脇腹を駆け上がっていった。その間もずっと両手を動かし続けながら。
「私と君と、互いをよく知らないというのはわかっている。君は私のことが嫌いかもしれないし、私のことが怖いかもしれない」ルーウェンはアルカイックに向けて言った。その声は思ったよりも落ち着いてはいなかった。それでも、ジャズィはずっとアルカイックへと語りかけていた。試す価値はある。「だが力の限り、君のことを助けたい。それと正直に言えば私も君のことが怖い。おあいこだ」
目のない顔がルーウェンの方を向いた。その顔の皺の中に、彼は色彩の川を見たような気がした。輝く、表現のしようのない色彩。彼のすべてがその場所に釘付けになった。彼のすべてが怯えた。
それでも、ルーウェンは両手を掲げた。精一杯の高さまで。「君がどれほど辛いのかはわからないが、とても辛いのだろう。想像もできないほどに。だが私たちが解決策を見つけてみせる。少なくとも、そうしたいと思っている。ただ辺りがこのように変化してばかりでは不可能だ。君の協力が必要なのだ」
この巨大なアルカイックは聞いてくれているのだろうか? 少なくとも、ジャズィの言葉は届いているようだった。どうすれば上手くいくかなどと気にしている場合ではない――ただやってみる、そして上手くいくと信じるだけだ。
「君は誰かを傷つけた。それがどのような気分かはわかる。かつて、私も同じことをした。それでも、償うことはできる。一緒にやるなら、もっとより良くできる。私のために、やってみてくれるだろうか?」
心のどこかで、それは馬鹿げていると感じていた。私は一体何を言っているのだ? 学舎の安全を啓発する寸劇の登場人物のようだ。それでもルーウェンは本気だった。とはいえ本気というだけでは十分ではない。
呪文を機能させなければいけない。けれど、どのようにすれば……
“ルーウェン、効いていないみたいなの!” アビゲールの叫びがテレパシーで伝わってきた。
足元の地面が震えた。今回は泥だ。深い泥、視界の端でキーロルがその中に沈んでいくのが見えた。頭上では、タイタンの墓が自重で軋み音を立てていた。すべてが崩壊するまで、あとどれほどの余裕があるのだろうか?
ルーウェンは息を呑んだ。やらねばならない。失敗は許されない。
「お願いだ! どうか、私たちに協力してくれ!」
辺りで繰り広げられる混沌を見つめ、彼はついに一片の希望を見出した――だがそれは、アルカイックからもたらされたわけではなかった。
当初、それはさながら、光る地衣類でできた巨大な毛布のように見えた。だが光の点が移動をはじめた時、彼は自分が何を見ているのかを悟った。ルマレットの群れ。彼らはルーウェンの動きを真似していた。翼の動きは正確とは言えなかったが、明らかに彼の動きを模倣していた。一体のルマレットでは、腕と肘の鋭い直角を作ることはできない。けれど五体なら? 五体ならそれができる。見渡す限りのそこかしこで、ルマレットはルーウェンと友人たちに合わせ、その形を作り上げようとしていた。
大気が低く響きはじめた。ルーウェンは呪文に包まれるのを感じた。まるで自分が雄しべに、魔法が巨大な花弁になったかのように。両手の間に力が溜まっていく。沢山のルマレットたちが調和して動く、そこから生まれた力。繋がり、振るうことのできる力。
めまぐるしく移り変わる風景をぼんやりと見つめながら、ルーウェンは自分自身という花を咲かせた。
黄金色の光が部屋を駆けた。魔力の渦から発せられる脈動がそれを乱そうとしたが、光は断固として前進を続けた。ルーウェンが見守る中、その光は細い鎖へと固まり、アルカイックに巻き付いていった。違う。巻き付くのではなく、包み込む。結束という力で包み込む。短い、けれど美しい瞬間。アルケヴィオスの無数の声と、無数の視点と、無数の生と、無数の愛の結束。
一瞬、ルーウェンは永遠の希望を目にした――そしてそれは終わった。彼はアルカイックの掌の上に、仰向けに倒れていた。この一時間で初めて、壁は壁のまま、天井は天井のまま変化しなかった。目のない巨大な顔が彼を見下ろしていた。そこに落ち着きを見出すことはできなかったが、理解のようなものを彼は見た。
「皆さん、大丈夫ですか?」アジャニが言った。
ルーウェンは身体を起こそうとした。背後へと振り返ると、アジャニとチャンドラが再び歩き出していた。スキは師へと両手を差し伸べていた。チャンドラは、支えてもらえてとても嬉しそうにしていた。
「キールホーラーズにぶつけられたみたいな感じ。何があったの?」
「私が答えよう」聞き間違えようのない声。フェル教授だった。ひび割れて溶けかけた琥珀に覆われ、明らかに動揺してはいたが、それでもデリアン・フェル教授その人だった。「アルカイックの悲嘆が事態を複雑にした……だが若きルーウェンがそれを宥める手段を見つけたのだ」
ルーウェンの心臓が跳ねた。周囲に集まった友人たちを見渡す――少なくとも、残る友人たちを。やるべきことは山ほどある。それは心が沈む事実、だが独りで乗り越える必要はない。それが嬉しかった。
どこかで
2、3、5、7、11。物事の中には、常に自分自身であり続けるものが存在する。それらを創造した偉大な単一性以外によっては分割できないもの。数字、数学、そして科学。白黒のはっきりした世界に慰めを見出すことを、彼女は自ら学んだ。
だが真実は常にそれよりも複雑だ。単一の定数であっても、文化や時代によって様々な形で表現されることがある。その定数を使う方程式が存在しないもの、方程式が存在するはずだという認識だけを持つものもある。例えば、あらゆる物体は落下の際に決まった速度で動くということを知っていれば、その速度を支配する法則があるということはわかる。けれどその法則が何なのかということまではわからない。
閃光がひとつ。タムは息を整えようとした。ここでは時間の流れが違っている。現実もまた。彼女はある意味では存在していたが、別の意味では存在していなかった。両手を見下ろしたなら、気をつけていなければ、手が解けていく様子を見たかもしれない。あれこれと形を変えていく様子を。両手に5本の指。7本。11本。
だが自分の手を見下ろしたくはなかった。あらゆる宇宙でそれは血に染まっていた。今、彼女はそれを確信していた。タムという存在がある限り、そこに血は流れる。それが私の本質。創造された目的そのもの。
再びの閃光。存在しないその場所で、彼女はジャズィへと意識を向けた。柔らかな青い光が神託者の輪郭を照らしていた。無視できないカリスマと存在感がなければ、とても小さく、か弱く見える。子供ほどの体格しかないひとりの女性が、どうしてこれほどの力を内に秘めているのだろう? いかにして、ジャズィはジャズィであることができるのだろう?
タムは神託者の周りを歩いていった。ここにはまだ奇妙なことが多すぎる。この場所はストリクスヘイヴン、だがそうではない。何もかもが記憶とは違う場所にある。この執務室にはこれまで何度も来ているのに、いつも何かに違和感がある。違う置物、違う整理方法、違う書物。ここには別の誰かが住んでいる。別の誰かの物語がここに息づいている。
彼女を取り巻く空気がわずかに動いた――エネルギーの波紋。自分の名前を知っているのと同じほどに、それをよく知っている。
「君は、簡単ではないことを成し遂げてくれた」その男は言った。
「はい」彼女は答えた。「簡単ではありませんでした」
男の手が肩に置かれる。安心させようという想いが心から心へと伝わってくる。「難しい決断を下す者を誰も評価はしない。私たちの行いを記憶する者はいないだろう。最終的には、誰もそれを知ることはなくなるのだから。とはいえ、記憶されるためにこんなことをしているのではない」
タムはジャズィを見つめた。神託者は眠っており、呼吸に合わせて胸が上下している。その言葉を信じたかった。心から信じたかった。けれど、ジャズィは同じように自分を見てくれるだろうか? 友人たちは?
再び会うことができるのだろうか。会わない方がいい、それもわかっていた。
「君を誇らしく思うよ」男の手が肩から離れる。彼もまた、ジャズィの周りを歩いていく。動きに合わせて白いローブが揺れる。「もうすぐ終わる。そうすれば、君はもう孤独ではなくなる」
彼女は男へと顔を上げた。その顔の刺青は、周囲の世界の変化に合わせて輝いていた――明るく、暗く。明るく、暗く。その瞳に後悔の念はあるのだろうか?
「見つかったのですか?」彼女は尋ねた。男は約束してくれていたのだ、他にもいると。
男は頷いて微笑んだ。それは友好的な笑みのはずであり、彼女もそうだとわかっていた。それでも、その笑みは男の目までは届いていないような気がした。「紹介しよう。そうすれば少しは気が紛れるかもしれないからね」
彼女は男の手の動きを追った。そこで、移ろう光の中で、初めて彼らの姿を見た。他の者たちを。今はまだ輪郭の影だけ、けれどすぐに親しくなれるだろう。きっと。
友人たちのように、親切に接してくれるだろうか? 自分が何をしたかを知っても許してくれるだろうか? 彼らも自分と同じなのだろうか――裏切るために作られたのだろうか?
どうか私を理解してくれますように。私のしたことは正しかったと言ってくれますように。彼らを信じることができますように。
独りでこの重荷を背負うのは、もう疲れたから。
(Tr. Mayuko Wakatsuki)
Secrets of Strixhaven ストリクスヘイヴンの秘密
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