MAGIC STORY

基本セット2019

EPISODE 08

ボーラス年代記:書かれざる現在

Kate Elliott
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2018年8月15日

 

 前回の物語:もう一つの視点


 ウギンの骨を包むように広がった岩の中。ネイヴァは片割れの傍らに膝をつき、その喉へとナイフを当てていた。ベイシャは巫師の自失状態に入り込んでおり、目は閉じられ、むき出しの皮膚が触れている時にのみネイヴァにも見える幻視の深淵に落ちていた。魔法の力は片割れの内に生きながら、自分のことは拒否した。嫉妬と怒りが腹の内を齧り、尖った破片へと砕けてしまいそうだった。

 何故自分はいつも片割れを守るよう言われているのだろう? ベイシャは重荷であり、氏族にとっての危険以上の何でもないのでは? 片割れが死ねばその状況はましになるだろう。そうすれば自分はもう格下として扱われることはなくなる。自分は唯一なのだから。そして年月が過ぎれば、皆ベイシャの存在など完全に忘れてしまうだろう。偉大なる狩人ネイヴァに片割れがいたことなど忘れてしまうだろう。

 片割れの滑らかな首筋に、細く赤い線が浮かび上がった。

 だが過酷な思考にもがきながら呼吸をすると、苦しむ心の内に静寂がゆっくりと広がっていった。精霊龍の真髄がのしかかり、ネイヴァの心に毒塗りの淵を切り裂く冷酷な声との繋がりを断ち切った。ネイヴァの凝視が手に握られたナイフに落とされた。どうして自分は片割れの喉に刃を押し付けているのだろう?

「何をしている!」

 力強い手が彼女の指からナイフを奪い取り、投げ捨てた。それは壁に堅い音を立てて当たり、土に落ちた。

 混乱に瞬きをし、振り返ると祖母が目を開けて様子に気付いていた。ヤソヴァはネイヴァの顎を掴むと目を合わせるよう強いた。

「お前の名は?」 ネイヴァの両目の様子を調べながら、祖母は問い詰めた。

「ネイヴァ」 憤然と答え、彼女は後ずさった。「私のこと忘れたんですか?」

「忘れてなどない。今お前が片割れの喉に突き立てていたナイフで、娘の死体からお前達二人を取り出したのは私なのだから。何故言った通りに聖域へ向かわなかった?」

「道に誰かがいて……メヴラさん、違う、あれは……龍……そんなこと……」 彼女は目をこすった。過ぎ去ったばかりの一連の出来事は既にぼやけて現実味を失い、まるで何年も前に聞いてはっきりと思い出せない物語のようだった。

「あいつに目をつけられたか」 祖母は自分達を包む繭を見つめた。「この岩があの龍の手から守ってくれている」

「どういう事かわかりません」

「ウギンを殺した龍が戻ってきたのだ」

 濁った深淵から思考がさらい出され、表面へとその名を投げ上げた。「ニコル・ボーラス」

「そうだ。あの龍は他者の思考や感情を操る。片割れを殺せと言われたのか?」

 頭痛がした。目をきつく閉じると、青白くかすかな姿が浮かんだ。まるで一連の記憶を形にしようとするように。「覚えていません……え、いえ、待って下さい。おばあ様、おばあ様を連れてくるように言われたんです。あの龍はおばあ様を要求しています」

「私を手にしたいのだろう」

「ここから出たら駄目です、殺されます!」

「そうだろうな」

「でしたら、あの龍が飽きてどこかへ行くまでここにいれば大丈夫です」

「アタルカ達のように容易くあの龍の気を逸らせると思うのか? それは違う。私が手に入らなければ、あの龍はどうするつもりだ?」

「タルキールを破壊すると言ってました。そんな事ができるんでしょうか?」

「あれは全ての龍をその始祖に歯向かわせることでウギンを殺害した。計り知れないほど古いプレインズウォーカーだ。つまりは、できると考えて間違いない。そうしようと決めたなら、あれはタルキールを破壊できるだろう」

「私はなんてことを」 羞恥の涙がネイヴァの頬を伝った。「おばあ様を差し出そうなんてつもりは全然なかったんです」

「お前は何も悪くない。私はずっと教えようとしてきたが、お前はあまり真剣に聞いてこなかったな。誰もがいつ死んでもおかしくはない。そして誰もがいずれ死ぬ。重要なのは私達と過去との繋がりを絶やさず、祖先とその教えを忘れずにいることだ。理解すべきはそれだ」

「外へ出て、おばあ様はいなかったって言ってきます!」

「ならばあれはお前を殺し、その怒りをタルキールに向けるだろう。生き延びるためには、あの龍を出し抜かねばならない」 祖母はベイシャの閉じた目と静かな表情を見つめた。「そのためにウギンは私達を呼んだのかもしれない」

「ウギンは死んだんです」

「ああ、ウギンは死んだ。通常の方法で私達に語りかけることはできない。囁く者の心にすらも」

「でしたら、ウギンはボーラスが来たことをどうやって知ったんです?」

 祖母は片眉を上げた。「私達の祖先の巫師へ術を教えたのはウギンだ」

 
失われた業の巫師》 アート:Tyler Jacobson

「ウギンは心で話す技をボーラスから学んだに違いないんです」 ネイヴァは憤りと共に呟いた。「精霊龍を信用できるんですか? ウギンもずっと私達を騙していたとしたらどうするんですか?」

「ウギンは各氏族へ異なる秘密を伝えていた」

「幽霊火みたいにですか?」

「そうだ。氏族全体でその秘密を分けあったなら、どの氏族も他から力で傑出することはない。ボーラスは私を連れて行く代わりにお前に何を約束した?」

 彼女はひるんだ。ボーラスの言葉を明かすのはあまりに恥ずかしく、心によぎった内容はあまりに残酷なものだった。「私……自分があんなに弱いなんて知りませんでした」

「お前は弱くなどない。あれの力は凄まじい。お前達が成人に達したなら全て話すつもりだったが、どうやら今がその時のようだ。聞きなさい。昔、お前達が生まれる前、私はボーラスがウギンを追い詰める手助けをした。あれは私に、タルキールの龍の終焉を約束したのだ。恥ずべきことだが、私は自ら魔法すら用いて力を貸した。生まれたばかりの龍の心を操ってウギンに歯向かわせた。重要なのはお前が真実を知ることだ。私は最も望むもの、あらゆる龍の死を約束された。そしてそれに飛びついた。その約束が嘘だったと知ったのは、全てが終わった後だった。私は弱いか?」

「そんなことはありません!」

「ならば、お前も弱くなどない」

 ベイシャは恍惚の中にまどろみ、何も知らず落ち着いていた。もつれた嫉妬のうねりがネイヴァの腹によじれた。この恐ろしい状況をベイシャが知らないというのは喜ばしいことだが、何故この片割れはいつも手に負えない感情と人生の悩みから無縁でいられるのだろう?

「なるほど、あれがお前に何を約束したかは理解した。片割れのことが憎らしくなったのだな」

「ベイシャは大切なんです!」

「ああ。誰かへの愛と憎しみは時に共存する。だがお前達は常に繋がっている、何が起ころうとも」

 ネイヴァは頬の涙を拭った。愛と憎しみ、それらが起こす感情は嫌なものだった。「おばあ様はベイシャの手を握ってましたが、幻視は見ました? あの水面と浮かぶ泡は?」

「いや、見なかった。双子だからこそ、ベイシャが見ているものを窓から覗けるのだろう」

「ウギンが死んでいるなら、ベイシャは何を見ているんですか? それともウギンはただ眠っているだけなんですか?」

「ウギンが死んでいるというのはこの骨が語っている。とはいえその真髄はこの晶形の岩の内にある。ウギンはタルキールの魂、だからこそ死んでいるとしても巫師はタルキールに根付くウギンの一部と交感できるに違いない。私達が祖先と交感するまさにそのように」

「どうしてそれが私達に関わってくるんですか? どうしてボーラスは望む通りにしてどこかへ行ってしまわないんですか?」

「ボーラスはこの岩を破壊できないのだろう。可能だとしても、この岩が破壊されたらウギンの真髄は消え去ってしまう。そうなればたとえタルキールの大地は残ろうとも、そこにはもはや魂がない。それは我らが民と全タルキールの死を意味する。龍にとってもだ。龍は憎いものだが、私は民を愛している。皆が死に絶えて欲しくはない、それが龍を救うことを意味するのだとしても」

 
精霊龍のるつぼ》 アート:Jung Park

 ネイヴァは片割れの顔を見つめた。ベイシャの表情は穏やかだが、眼球の素早い動きはその心の一部は活動していることを示していた。

「あの泡は記憶なんです」

「もう一度ベイシャの手をとりなさい。ウギンが何を伝えたいのかを見つけてきなさい」

 ネイヴァはベイシャが憎らしかった。本人と、その魔術と、目的に対する精力的かつ不可解なほどの確信が。長年、自分はただの狩人であるため皆に軽んじられているのではと感じてきた。狩人は沢山いる一方、巫師は稀なために大切にされるのだと。片割れに嫉妬していないよう装ってきた。不愉快な嫉妬心が表に引きずり出されることはある意味心が安らいだ、それが大嫌いなものだったとしても。この岩の繭に守られていれば、ボーラスが向けた鉤爪に心を引き裂かれることはない。どれほどベイシャに悩まされたとしても、片割れが隣にいない世界など想像すらできなかった。

 彼女は片割れの顔へと微笑みかけた。生まれてからずっと見つめてきた、自らの鏡映し。祖母へと決心を頷くと、彼女はベイシャの手をとった。ウギンの眠る心がきらびやかな崖となって彼女を閉ざし、周囲の世界が流れ去った。


 目の前に広がるのは銀の水面、それは鏡のように滑らかで、あらゆる方向に視界の果てまで伸びていた。その果てのない海のそこかしこから尖塔のような岩が立ち、そのどれも瞑想に相応しい休息場所となっていた。

 大気を揺らす風はなく、だが微風にとらわれた泡のように、何にも触れることなく微かに輝く透明な球体が浮いていた。

 泡の一つが漂いながら近づいてきた。水上に眠る少女の夢の影へと。その脆い表面が彼女の微かな姿の端に触れると、泡は弾けた。水の小さな球から少女の心の影へと記憶が流れ込んだ。


 一体の龍が静かな水面の上空に浮遊し、鏡のように自らを見返すその水面を見つめていた。映し出された姿はあらゆる詳細まで極めて完璧で、見つめているのは水面の方であり、宙に浮く龍の方がその反射なのかもしれなかった。それほどに完璧だった。

 瞑想に最適なこの領域にあって、身を休めて神秘と永遠に長く思いを巡らせながらも、ウギンは荒れ狂う思考を宥めることができずにいた。自分を見つけたならニコルは心から喜び、次元を渡る魅惑の旅とその素晴らしい詳細を知りたがると確信していた。だが判断を誤った。もしくは、誤ったのは自分自身についてだったのかもしれない。

 生誕の山を離れるべきではなかったのかもしれないが、目的あってドミナリアを離れたのでもなかった。灯は無意識に自分を連れ去った。釣り針にかかった魚が水面へ引き上げられるように、唯一知る故郷から見知らぬ岸へと投げ出された。タルキールに降り立つに至ってようやく何が起こったのかを理解し、そしてタルキールに感じた安息と帰属意識に、とても長いこと心をとらわれていた。

 
地平の探求》 アート:Min Yum

 自分は誤ったのだろうか? それともただ物事が上手くいかなかっただけだったのか? もし留まっていたとしても、出来事は同じように進んだのだろう。ニコルはその内の最悪に屈し、今や自身の力と怒りをドミナリア全土へ向けようとしている。

 龍同士の戦いにドミナリアが苛まれることへの悲嘆と、ニコルがそこに捕われていることの安堵が共にあった。次元渡りの能力を持たないニコルは、その恐怖の法と正義を他次元へと誇示することは決してない。それは少なくとも、安堵できるものだった。

 第二の太陽が昇るような眩しい閃光が、静かな水面も黄金の水飛沫を零した。憤怒の咆哮が一つ、平穏な静寂を破った。

 天から石が投げ落とされたように、一つの巨体が落下してきた。その身が水面に激突する直前、ニコル・ボーラスは翼を広げて舞い上がった。その姿は太陽のように眩しく輝き、怒りをまとっていた。

 風の咆哮と焼け付く炎の息とともに、彼は片割れへと残忍に飛びかかった。ウギンは不意の攻撃に当惑して見つめ、当初それは行き過ぎた喜びと祝福かもしれないと考えた。ニコルの炎が頭部を襲い、刺すような熱に両目を焼かれてようやく彼は動いた。右の翼が水面に触れ、自らの鏡像に傷を負わせた。ウギンは体勢を立て直すと水平に飛び、小島の列へ急いだ。ニコルは追った。その憤怒は弱々しく悲嘆にくれるウギンにはない力と速度をもたらしていた。

 ウギンの後肢を炎が焼いた。毒の雲のような腐食性の魔術に下半身の感覚が失われた。彼は小島の間を避けて進んだ。彼はしばしばその場所を探検し、澄み渡る空と静かな月の下で岩に身を休めていた。その隙間を縫って進む道筋を彼は心得ており、憤怒の咆哮とともにぎこちなく行き来するニコルを突き放した。

 だがニコルはウギンの意図を直ちに把握した。彼は戦法を変え、上昇して岩に邪魔されない位置からウギンを視認した。

 ウギンの叫びは強風のように水面へと波を起こした。「ニコル! 攻撃してくるとはどういうつもりだ?」

「お前は次元の知識を独り占めしていた。我を欺いた。発見したという宝の幻で我を嘲り、性根の悪いことに我を見捨てたではないか」

「君の所へと戻ってきただろう――」

「お前は我が為に戻ってきたのではない。ただ我を嘲るために。自分だけの宝を手に入れたと我に知らしめて苦しませぬ限り、お前は満足できぬからだ」

「そうではない。私は知らなかったのだ――」

「知らぬはずがあるか!」

 ニコルは鉤爪を伸ばし、水面へと一気に降下した。ウギンは避けながら、水から濃霧を起こして動きを隠蔽した。ニコルの鉤爪は水面をかき、大波が持ち上がって緩やかに静まった。ウギンはその間に何をすべきか考えた。

 翼を打ちつけ、ニコルは再び上昇した。霧がゆっくりと消える中、彼は旋回した。「ウギンよ! 臆病とはすなわち不実を認めることに他ならぬ。我は何にせよ復讐を行う」

 
破滅の龍、ニコル・ボーラス》 アート:Svetlin Velinov

 ウギンはこれまで大いなる好奇心と共に多元宇宙を巡り、行く先で観察を行い、テ・ジュー・キの教えとクロミウム・ルエルの前例を思い起こした。彼は発見、調査、識別、また防御の魔術を学んでいた。学ぶ時間を取らなかったのは、攻撃と威圧の魔法だった。彼は常に戦いよりも対話を、破壊よりも建造を好んでいた。ニコルの攻撃を真似ることで勝利はできなかった。鋭敏な判断、そして龍の策略を少々、それが今彼が生き延びる手段だった。

「いかにして灯を得たのだ?」 彼は尋ねた。その理由を知れば、ニコルがどのような存在となったかの理解に繋がるかもしれなかった。

「灯、それはお前が独り占めしていたものか?」

「君に灯を与えることは不可能だった。私も求めてなどいなかった。自然に起こったのだ」

「その言い分を信じることはできぬ。そして今やその灯とやらは我が物だ。お前と分け合いはせぬ。我を裏切った敵と次元を分け合いはせぬ」

「私は敵などではない――」

 無言の決意とともに、ニコルは再び降下した。

 ウギンは残された唯一の手段をとった。弱虫と、卑怯者という烙印をニコルから押されることになるとしても。彼は瞑想次元から出て暗黒の領域を通り、嵐が渦巻くゼンディカーへ落下した。大荒れの雲の中、彼は暴風に乗り、少なくともそこで一息ついて次の行動を考えられると安心した。ニコルが静まるまでどう逃げ、どう交渉し、悪意ではなく只の不案内であったとどう確信させられるだろうか。

 だがニコルはすぐ背後におり、黄金の光を閃かせて暗闇に弾けた。再びウギンは次元を渡り、また渡り、しばしの間身を隠すことのできる場所を探した。ざわめくケファライから成長著しいラヴニカ、そして幾つもの世界を、首筋にニコルの息を感じながらも逃げた。片割れは決して追跡を弱めようとしなかった。

 両目の火傷は悪化して視界は曇り、ニコルが振るった魔術によって身体の末端は麻痺したままだった。時が経てば癒える筈だった、龍にはその力がある。だが休むことも食べることもできず、彼は逃げるだけだった。ニコルが放つ抑えられない敵意の前方を駆けながら、傷は次第に体力を奪っていった。

 熱望が心をよぎった。タルキールへ戻り、魂が平穏を得るその地に身を隠したい。彼を喜んで受け入れ、癒そうと願う世界で。だがそうすればタルキールはニコルの怒りにさらされるだろう。タルキールが理由なく破壊されるよりは死んだほうがましだ。そしてボーラスはそのような卑劣かつ冷酷な行いを成してしまえる者だった。

 その思考が心によぎると、彼は心の目で瞑想次元の静かな水面を見た。液体の鏡面にはあらゆる詳細まで同一の自らが映し出されていた。そもそも、瞑想次元とは何なのだろう? それは彼が洞察し得ない一つの謎だった。

 テ・ジュー・キの賢き言葉が温かな微風のように過ぎ、その香りは彼の荒々しい鼓動を宥めていった。

『死は怖いですか?』 かつて彼はそう尋ねた。そしてあの女性は返答していた。

『私の精髄は異なる姿となって存在を続けるでしょう。全てのものに終わりがありますが、時にそれは死とは異なります』

 ウギンはどうすべきかを知った。ニコルは決して追跡を止めはしない、片割れが死んだと思わない限りは。

 彼は瞑想次元へと舞い戻った。そこで彼は静かな水面の上に浮遊して待った。それとも鏡像が浮遊し、自らを見下ろしていたのか。彼は消耗しながらも新たな意欲に高揚し、ニコルが成り果ててしまったものを拒絶できると確信していた。

 
Pools of Becoming》  アート:Jason Chan

 光を弾けさせ、ニコルが輝く空の高くに現れた。そしてあらゆる牙と爪をむき出しに降下した。片割れの存在に確固として織り込まれた悪意を、ウギンは閃くように理解した。かつてはごく小さな種だったのかもしれない。遠い昔、それを伸ばし花咲かせるままに放っていたのは自分なのかもしれない。共に生まれた片割れは、共に飛んだ片割れは、ニコルは、完全にボーラスに食い尽くされた。ニコルがその名を自らに与えたのは、他者に背く以外に自らを測る術を知らなかった故に。何をしようとも、この結果は変わらなかったのかもしれない。だがウギンは後悔していた。

 溜息一つとともに、ウギンは自らの死を受け入れた。彼は力を抜いた。

 ボーラスは勝利の雄叫びとともに魔法を放ち、それは渦巻く雲となって憎らしい敵を取り巻いた。その鉤爪は熱く脈動する仇の心臓を深く切り裂き、牙は競争相手の無防備な喉を裂いた。

 巨大な水飛沫を上げ、ウギンは静かな水面へ落ちた。その衝撃は雷鳴のように反響した。巨大な波が上がり、岩の諸島をなぎ倒し、古代からの岩を粉々にした。荒れ狂う水は瞑想次元の彼方の境を遥かに超え、次元そのものを繋ぐ暗黒の闇の深淵へと溢れ出した。海は割れ、太陽にさらされた白骨のように海底を露わにした。

 大破壊の凄まじい力に押し流され、ボーラスは太陽のように閃くと消え、生誕の次元へ連れ去られ、マダラの諸島へと落下した。

 かつて静寂と平穏に満たされていた領域は、今や無となった。そこは破壊し尽くされた不毛の岩の荒野と化した。静寂の全ては久遠の闇へ、決して埋まることのない裂け目に流れ去った。

 残されたものはなく、従って動くものはなかった。

 一瞬が。一年が。一世代が経過した。

 千年が経過した。

 あるいは、時など無かったのかもしれない。

 何処からともなく、目に見えず触れることもできない暗黒の網から、薄い水面が湧き出した。不気味な静寂とともにそれは容赦なく上昇し、その領域を再び澄んだ水で満たした。水面が上昇を止めると、世界は黙っていった。そして静かな鏡面の中に龍の映し身が待っていた。

 彼が息を吸うと、水がその姿へ引かれていった。縮れ、曲がり、筋と皺と鱗と棘へと固まり、やがて角が、鉤爪がきらめき、両目に魔力が宿った。その姿は肉と骨なのか、それとも精神と魔力のものなのだろうか? それに意味はあるのだろうか?

 輝く空の下、その龍は乾いた海底の上に浮いていた。

 その領域と壊れた不毛の風景へと、彼は視線を移した。この破壊の様相はボーラスが成した約束だった。自分を無視した存在には全て、ボーラスはこれを求めるのだ。誰かが立ち向かわねばならない。ボーラスを打倒できるほどに熟知する者が。そしてボーラスは多元宇宙唯一の脅威ではないのだ。

 
力の頂点》 アート:Svetlin Velinov

 多くの次元を守るとあらば、やるべき事は山ほどあった。

 不可視の炎を波打たせ、彼は発った。


 乾いた海底は何もなく、静止していた。

 岩そのものから、泡が一つまた一つと沸き上がった。一つまた一つ、それらは弾けた。液体の表面は無へと流れ、乾いた海底へ沈み、そしてゆっくりと――とてもゆっくりと――瞑想次元は失われた記憶で満たされだした。


 水面は動かず、静かに、それでいて期待するように、まるで知っているかのように待った。眠れる少女へと次の球が回転し、弾けた。


 瞑想次元にて。その神にして皇帝は瓦礫の中、岩の頂上に座していた。かつては端麗な寺院であったその柱と屋根は大変動の際に地面に投げ出されていた。ボーラスにとって、それらの破壊の証は勝利の証だった。彼は翼を大きく広げ、水面に影を投げかけた。ウギンが何処に落ちたかは正確には思い出せず、だが落ちたことは確かで、今やくすんだ水がその墓となっていた。

 この、最大の勝利の地こそ、自身の計画を練るに相応しい場所だった。瞑想に集中し思索に専念する場所として、彼は島の存在しない広大な水面の中心を選んだ。そしてそこに彼は二本の巨大な角を立てた。水面から伸びるそれらは、まるで巨大な龍が視界に見えない水面下で眠っているかのようだった。作り終えると、自らの角との一致に彼は満足した。

 それでも不満の小さな塊が彼の充足を逆撫でしていた。一片また一片と、勝利の仮面は剥がれてその下の怨恨の種を明らかにした。ドミナリアの全てが彼の支配に膝をついてはいない。自分を打倒できると思い込んでいる浅はかな敵が幾つもいる。それを除いても、実に多くの次元が彼の存在を待っている。この壮大さに浴するという栄誉をいかに与えてやろうか? 自分は最小ではなく、常に最初にして最高の存在だと示すには?

 そびえ立つ険しい山のように、幾つもの挑戦が目の前に立ちはだかっていた。次元間に渡る底のない裂け目のように、世界殺しの軍が持つ剣や槍のように。彼の野心、その飽くことを知らない大口は全てを呑みこむのだろう。


 水面は動かず、静かに、それでいて期待するように、まるで知っているかのように待った。眠れる少女へと次の球が回転し、弾けた。


 ガラスと石の壮大な都市にて、その生物は翼を広げて精霊龍を歓迎した。頭部は髭を生やした人間の男性、前肢は大猫のそれだった。

「ウギン殿、親愛なる友よ。新たな我が家へようこそ。この次元にはいかなる理由で来られたのかな?」

 
法をもたらす者、アゾール》 アート:Ryan Pancoast

「前回会った時、我らが共通の敵について話し合ったであろう。あらゆる世界が危機にある、我らの敵が野放しでいる限りは。だからこそ来たのだ。この多元宇宙からあやつの影を一掃する計画がある。だが、おぬしの力なくしては不可能だ」

「捕えて幽閉するには、そなたは特定の場所にあの者をおびき寄せねばならぬ」

「タルキールへ誘い込む」

「タルキールはそなたが魂の故郷とする次元ではなかったか? そのような計画はタルキールを危険にさらしかねないのではないか?」

「だからこそあやつは来るであろう、裏があるとは考えず。我がタルキールを危険にさらすことは決してないと信じておるために」


 水面は動かず、静かに、それでいて期待するように、まるで知っているかのように待った。眠れる少女へと次の球が回転し、弾けた。


 精霊龍は嵐の只中を上昇した。雷雲が周囲にうねり、風は荒れ狂って耳をつんざいた。彼は待っていた。閃光がニコル・ボーラスの到来を告げ、曲線の角の間には宝玉が飾られていた。まるで自らに欠けているものを、自らが持たぬものだけを見通す第三の目のように。

 荒れ狂う嵐の目の中、二体の古龍は対峙し、間合いをとった。両者は互角だった。かたや狡知で、かたや知啓で武装していた。率直にボーラスを殺すことは不可能だと精霊龍は知っていた。だからこそ彼はこの入念な計画を友と組んで考案したのだった。唯一の望みは敵を幽閉すること、そうすれば再びの次元渡りは決して叶わない。そのためには、あの魔法装置が起動されるまでボーラスをここタルキールに留めねばならなかった。

 咆哮一つとともに、彼はタルキールの魂の力を目覚めさせた。龍がウギンの呼び声に応え、次元のあらゆる場所で生まれ出た。この数の優位があっても、精霊龍は攻撃しなかった。これは全てボーラスを誘い、警戒を解かせるための陽動だった。

 最善を尽くして立てられた計画にすら、ひび割れは生じるもの。ボーラスはタルキールの龍たちを操ってその祖に背かせ、それらの攻撃に敵が傷ついたと見るや、彼はウギンを死の一撃で粉砕した。精霊龍は地に落ちた。その衝撃は岩に谷を刻み風景を一変させた。この破壊の反響は数年間、数世代、数千年に渡って多元宇宙を揺らすのだろう。

 勝ち誇り、ボーラスは光を弾けさせて消えた。


 水面は動かず、静かに、それでいて期待するように、まるで知っているかのように待った。眠れる少女へと次の球が回転し、弾けた。


 ガラスと石の壮大な都市にて、その生物は翼を広げて精霊龍を歓迎した。頭部は髭を生やした人間の男性、前肢は大猫のそれだった。同じ記憶が正確に繰り返された。

「ウギン殿、親愛なる友よ」


 狩人は獲物を捕らえたことを察した。暗い姿が眠れる少女の影を切り裂いた。五本指の手が鉤爪の形に曲げられて少女の影へと伸ばされ、幻視から引き出した。


 ネイヴァははっと上体を起こした。

「痛っ! 放してよ!」 片割れはネイヴァの手を振り解き、肩をさすった。「心臓を引っかかれたみたいだった!」

「今の見たの?」 ネイヴァは問い質すように言った。

 ベイシャは顔面をこすり、身震いをし、溜息を一つついた。「記憶の海を見たよ。ネイも?」

「うん。ベイシャを通して」

 祖母は今も足を組んで座し、強烈な視線で見つめていた。「話しなさい」

 二人は一斉に話し始めた。一人が息をつく間に一人が続け、少女二人は自分達が見たものを描写した。話し終えると、祖母は数呼吸の間黙って熟考し、聞いたばかりの内容について考え、そして決意したように頷いた。

「精霊龍はタルキールを忘れてなどいない。ボーラスを騙せる可能性はある。とても絶望的な、ただ一つの可能性だ。私はそれに賭けよう」

 
精霊龍、ウギン》 アート:Raymond Swanland

「あの龍に身を差し出すってことですか?」ネイヴァが尋ねた。

「その通りだ」

「けどボーラスは以前にもおばあ様を操ったと」

「ああ。だから今回は身構えている。あの時のように容易くはいかない」

「もしあの龍がおばあ様を殺してしまったなら?」 祖母の手を握り、声をかすれさせながらベイシャが尋ねた。

「死ぬことは怖れない。この状況をもたらした一因は私にある。だからそれを終わらせる一因となるのは理に適っている」

 ネイヴァは片割れの手を祖母のそれから外した。「ベイはここにいて。精霊龍と交信できるのはベイしかいないんだから、ここなら安全だ」

「いや」 祖母が言った。「ネイヴァ、ボーラスはお前に鉤爪を立てた。それを責めはしないが、ベイシャがお前の外套を着て、お前に成りすまして外に出るのがいいだろう」

「それで何か変わるんですか? もしあいつがベイシャかおばあ様の心を見たら、私じゃないって気付かれます」

「そうかもしれない。だがあれは傲慢だ。そしてベイシャの姿を見ていない。だからお前のことを支配済みだと信じているならば、これ以上調べる必要はないと思うかもしれない。これは私達が掴むべき勝機だ」

 ベイシャが言った。「ネイ、私やれるよ。巫師が二番目に学ぶのは、魔法の跳ね返し方なんだから」

「あいつは物凄く強いんだ。二人とも殺されるかもしれない」

「あれの接触を跳ね返し、疑いの種を植えつけるだけの時間が稼げればいい。この子がお前の外套をまとっていれば疑念も緩むだろう」

「それにこの岩が少し守ってくれるよ、囁く者の頭飾りみたいに」 ベイシャが付け加えた。

「その通り」 祖母は頷いた。「では、私の言う通りにしなさい」

 ネイヴァは静かに息を吸い、失望と怒りと怖れと決意とともに吐き出した。二人は外套を交換した。

 祖母は二人をじっと見つめた。「お前達の髪形が同じなのは幸運だったな」

「待って」 ネイヴァは身に着けていた首飾りを外した。それは十六歳の時に倒した熊の歯を繋いだもので、それをベイシャの首にかけた。そしてネイヴァは片割れを抱きしめた。恐怖が槍先のように肋骨の下に刺さった。だが今や決定は成され、心は狩りへと定められた。彼女は槍を手渡した。祖母とベイシャが低い出口から這い出ると、岩の繭に完全に包まれた天幕ほどの空間に彼女は残された。土をこする足音が離れていった。

 何も知らずに待つのは耐えられなかった。そのため彼女は入口の脇に膝をつき、上手く外から見えずに覗ける位置についた。

 祖母とベイシャは龍の影の中に立っていた。炎の一吹きで、鉤爪の一払いで、魔法の一撃で容易く殺されてしまうだろう。それでも二人は畏縮も降伏もしなかった。

 その声に低く響く満足は誰の耳にも明らかだった。

「龍爪のヤソヴァよ。おぬしはよく我に仕えてくれた」

「そしてお前、ニコル・ボーラス。精霊龍が言ったまさにその通りの行動をしてくれるとは」 祖母は言葉の槍を躊躇なく放った。「お前は欺く方だと思っているのだろうが、欺かれたのはお前だ」

 龍は落ち着きなく動き、影が波打った。先程よりも鋭い声色でボーラスは言った。「いかなる意味だ?」

「ウギンが本当に死んだかを確かめに来たのだろう」

 危険極まりない警告を放つように、火花が地面に散った。「無論あやつは死んだ。我が殺したのだ」

「前回殺したと考えた時、ウギンはお前を欺いた。あえて言おう、今回もお前を欺いていると」

「何故そのような嘘を吐くか?」 龍は叫んだ。「我は見たのだ、あやつが落ちる様を! 地に落ちる様を! お前の孫が確かめた。小さきネイヴァよ、本当であるな? ウギンは死んだ!」

 
精霊龍の墓》 アート:Sam Burley

「ウギンが死んだってそこまで信じるなら、なんでタルキールに戻ってきたんだよ?」 ベイシャが最大級の軽蔑と共に言った。普段であればネイヴァをあらゆる意味で苛立たせる声。それが途方もなく強大なプレインズウォーカーに、祖母と孫とほんの僅かな魔術の一振りで消し去ってしまえるような存在に向けられている。ネイヴァは片割れの静かでありながら鋭い勇気に感服した。彼女自身のせっかちな大胆さとは実に異なるもの、だが大胆なのは果たしてどちらだろうか? ネイヴァではない。もう二人が龍に対峙している一方で、岩の繭の中、洞窟のような空間に隠れ潜んでいる方ではない。

 ベイシャはそのまま、神経を逆撫でする声色で続けた。「認めたくないんだろ。前回やられたから、今回こそウギンが本当に死んだかを確かめに来たって」

 龍は飛翔し、その影が波打って消えた。ネイヴァは腹這いになり、首を曲げると空と影が見えた。ボーラスの物理的な姿は視界から消え、だがその魔術は遥か頭上で稲妻の轟音として弾け、巨大な雷鳴が四度続いた。魔法で起こされた風が高所から吹きつけられ、祖母とベイシャに膝をつかせた。強風の下で岩の繭が震えた。風はあまりに強く、入口を覆っていた鱗にも似た楕円形の岩は横に動かされてネイヴァの視界を遮り、指ほどの幅から光と外気が通るだけになった。

 吹き始めと同じく不意に、その強い風は止まった。巨体の龍が戻ってくると、暗闇が地面に広がった。その姿は見えなかったが、自らの存在のあらゆる繊維までもがその途方もなく恐ろしい存在を感じた。喉元に鉤爪を当てられたようだった。息を吸おうとしたが、悪意に満ちて食い尽くすような恐怖が喉を詰まらせた。二人とも失ってしまうかもしれない。もし今駆け出せば、あいつに攻撃できれば、二人が安全な岩の中に駆けこむだけの隙を作れるかもしれない。自分は大胆な、怖れ知らずの狩人。それが私の氏族内での正しい居場所。

 彼女は身を屈め、石の扉を開けて敵へ自らをさらそうとした。

 だがそうはせず、落ち着いて呼吸をするよう強いた。

 この岩の守りがあったとしても、ネイヴァは弱く信頼できないと祖母は怖れているのかもしれない。もしくは自らの弱さが囁きかける、愛する祖母が自分を重く見てくれないという恐怖こそ、自分のみが倒すことのできる敵。自分を育ててくれた女性を、ティムールの人々をアタルカの怒りから守った女性を信頼しなければならない。

 両手を拳に握りしめ、彼女は思考に集中した。いかに困難であろうとも、受け入れねばならなかった。今日の狩りにおける自分の役割は、槍を投げることではなく隠れ続けていることなのだ。

 巨体の龍が怒りに息を吐くと、焼け付く熱の波が狭い裂け目からうねってその小さな部屋まで入り込んだ。「我を玩ぶでない。瞬き一つでおぬしらなど殺してしまえるのだ。その後で我は歓喜の内にタルキールを破壊し尽くす、極小の虫ですらその荒廃した地表を這うことがないように」

「ならば自慢するのを止めてそうしたらどうだ」 祖母が普段通りの不愛想な口調で返答した。「好きに私達を殺し、望むままタルキールを燃やし尽くして荒廃させるがいい。そうした所でウギンの計画は何ら変わらないからな。お前が振るう力よりも、常に上には上がいるものだ」

「我こそが最強の力よ!」 その声が轟き、岩を鳴らした。「龍爪のヤソヴァよ、まもなく思い知るであろう。おぬしの愛する孫がその心臓にナイフを突き立てるのだ。やれ、ネイヴァよ。命令だ! 祖母を殺せ、さすればおぬしのあらゆる願いを叶えよう、この世界を統べておぬしだけの狩り場としてやろう。おぬしこそが常なる最初かつ最強の存在となるであろう」

 その言葉はネイヴァの心へと密かに、悪意の願いとして突き刺さった。常なる最初かつ最強の存在。祖母は後継者として自分を訓練するべきだったのだ、ベイシャや他の巫師に時間を浪費するのではなく。その道はウギンと同じく死んだ。死ぬのが当然であり、これを限りに殺してしまおう。

 岩を横に動かして這い出るだけでよかった。ベイシャは決して肉体的に強くはなく、その手からナイフを奪い取るのは容易いだろう。そのナイフを祖母の喉に押し当て、脈動の音とその弱さを感じて。

 巨龍は期待に息を呑んだ。愛が憎悪へと、忠誠が裏切りへと転じ、貪り食う熱のように広がる様を眺めるのはその喜びだった。

 彼女の指がざらつく岩の盾に触れ、動かそうとした。

 ベイシャの声が冷たい風のように叩きつけられた。「狩りとか本当はしたくないかな。そういう申し出も全然魅力的じゃないかもね。だって聞いた話では、お前は過去にとらわれてるじゃないか。ウギンへの対抗意識にずっと堂々巡りしてるだけで――」

 
覚醒の龍、ニコル・ボーラス》 アート:Svetlin Velinov

「捕われてなどおらぬ!」

「そうなろうとしているが」 祖母はそっけなく口を挟んだ。

 ネイヴァは手を引っ込め、飛び出したいという猛烈な欲求を歯を食いしばってこらえた。計画が上手くいくためには、ここに隠れ続けていなければいけなかった。何があろうとも。

「お前はこの岩が魔法の力を一点に集めるまさにその場所に立っている」 祖母は続けた。「不滅の太陽はここを指している、タルキールのまさにこの地点を。それはお前を別の次元に引きずり込み、永遠に閉じ込める。どうして私達がずっとお喋りを続けていると思ったか? それが起動したなら、お前は二度と次元を渡れなくなるのだ」

 もしボーラスがタルキールから引き離されてしまったら、最初にして最高の狩人にしてもらえなくなる。二人を止められるのは自分だけ、そしてそれはずっと求めていた当然のものを手に入れる唯一の手段。再び、彼女は手を当て、岩の滑らかな表面に指を広げ、それを押し動かそうとした。静けさの冷たい波動が腕を降りていった。その安定した脈動は彼女の魂の深みへと眩しい光を差した。

 自分を突き動かすのはただの子供じみた、取るに足らない、身勝手な欲求だった。自分はそんな人物ではない筈だった。そんな人物ではない。震えながら、憤りと嫉妬の不快な味を呑みこみながら、彼女は拳を握りしめて喉に当てた。

 外では、まるで見えざる動きに反応するかのように、祖母が聞こえるほどに息を吸った。まるで期待と不安の中にあるように。「ああ、聞こえるか! ネイヴァ、魔法装置の響きが!」

「聞こえます!」 ベイシャのその声色は、ネイヴァがこれまでに聞いた中でも最も欺きに満ちていた。だが龍は自分達二人を引き離せやしなかったと知るよしもないのだ。「ウギンが言った通りです! 空を見て下さい、あの光が見えますか! 太陽がもう一つ!」

 憤怒の咆哮が岩の繭を鳴らした。巨大な影が離れようとしたその時、振動に緩んで鱗のような岩が傾き、ぐらつき、倒れて開口部を露わにした。巨岩が崖の縁から、祖母とベイシャが立つ地点へと轟音をあげて落下した。岩と氷の雪崩は壊れることのない晶形の岩に激突して破片となり、飛び散って開口部からネイヴァの頬をかすめて血が滲んだ。彼女は片割れの外套で頭部を覆って身を守った。塵が舞い上がって辺りを覆い、やがて目眩のする暗い旋風が世界を満たし何も見えなくなった。あの龍は捕われ、自分が最も愛した者と、タルキールの全てと……自分もまた消し去られる。

 外の光が過酷な黄金色の閃きとともに色を変え、彼女の目を眩ませた。外気が開口部からうねり、塵に満ちた突風が出ていった。

 どういうわけか、ネイヴァは死んではいなかった。心臓はまだ脈打っていた。

 ゆっくりと、険悪な静寂の中、塵が落ち着いた。唇は苛立つほどに汚れ、不快な粒で覆われていた。静寂は恐ろしいほどに重かった、あらゆる希望の終焉のように。病的な後悔があった。龍はあんなに容易く自分を操ってのけた。自分の弱さについては、祖母は正しかったのだ。

 それでもまだ彼女の心臓は脈打っていた。ボーラスの魔術に抵抗し、岩の内に留まったのだ。タルキールは荒廃も崩壊もしていなかった。

 用心深く、彼女は屈んで外を覗き見た。

 傾いた岩の繭では熱に雪が融け、小さな滴となって地面に滴っていた。熱い目をこすると、世界の影と光がゆっくりと視界に戻ってきた。不安定な落石の山に手をついて外に這い出て、そして当たれば命はない岩屑に半ば覆われた空地に出た。崖は堅固にそびえ、無傷の岩の繭を見下ろしていた。空は眩しい青色にぎらつき、頭上に太陽が燃えていた。ごく普通の夏の日のように、何物にも無関心で。

 龍の姿は消えていた。だがネイヴァは独りだった。

 祖母はタルキールを守った、だが自らとベイシャの命を賭して。

 呆然と彼女はよろめいて後ずさり、岩の繭に背中をぶつけた。両脚が力を失い、自らを止めることもできず、膝から崩れ落ちた。滑稽に岩の内に隠れ潜んで、自分は何を成したのだろう? 何故行動しなかったのだろう、龍へと飛びかからなかったのだろう?

 だが彼女はその無益な思考を振り払った。死の危険は織り込み済みだった。別の行動をしていたなら上手くはいかなかった。それでも彼女は息ができず、片割れが隣にいない世界をどう歩いていくかを思った。心は真二つに裂け、それでも、立ち上がって皆を見つけねばならなかった。だが今は。今はまだ力が出なかった。

 微かにこすれる音が沈黙を破った。確かに土の上をこすれる足音、だがそこに彼女以外の姿はなく、ただ巨石の山があるだけだった。誰かが咳をした。

 アドレナリンに焚きつけられ、彼女はすぐさまナイフを手に立ち上がった。巨大な岩が凄まじい摩擦音と共に動いた。それは横に落ちて砕け、跡には幾つかの岩の小さな隙間に、祖母とベイシャが生きてそこに立っている姿があった。伸ばされた腕から緑色の強烈な輝きが消え、同時にベイシャは前のめりに倒れた。

 肺は塵にむせ、希望に心を詰まらせ、ネイヴァは二人へと向こう見ずに駆けた。両手両足を駆使し、不安定な岩に滑りながらも彼女は無傷の地面へ辿り着いた。そして片割れの背に手を回して起こした。温かかった。息をしていた。

「魔法を使ってその岩を押さえてたのか!」 彼女は叫んだ。何を言うべきか考えることすら困難だった。塵だらけで血に濡れた頬を涙が伝った。

 
ティムールの呪印》 アート:Chris Rallis

「あいつ、いなくなったの?」 片割れを信頼するようにもたれかかりながら、ベイシャが囁いた。

「去った」 祖母が言った。「私達の言葉がはったりだという可能性には賭けなかったのだ」

「殺されたかと思った!」 ベイシャが死ぬ、ネイヴァは最悪の結果を思い、震えだした。だが死ななかった。片割れは生きていた。自分達は生き延びたのだ。

「危険な賭けだった」 祖母は頷いた。「だがもし私の言葉が真実ならば、降下して鉤爪を振り下ろす余裕すらないとあれは判っていた。そして発った時に起こした岩雪崩で私達を殺せると思っていたのだろう」

「何せおばあ様の言葉、あいつが信じるくらい真に迫ってたから」 ベイシャが言った。「不滅の太陽を使ってボーラスを閉じ込めるっていう計画があったんだね。ただ、実行する前にウギンは死んじゃったけど」

「精霊龍は本当に死んだのか?」 ネイヴァは岩の繭、その無傷の表面を見つめた。思えば、自分達が共有した記憶は何と完全で鮮やかだっただろうか。死者から生者へとあれほど鮮やかに記憶を伝えるなど、どうすればできるのだろう?

 祖母が言った。「全てのものに終わりがある。だが時にそれは死とは異なるものだ」

 何かが砕ける音に三人は顔を上げた。緩んだ岩が低い崖から落ち、ネイヴァが隠れていた小部屋の入口まで落ちた。周囲で砕ける音が更に続き、高い崖に反響した。

「ここを出なければ」 祖母が言った。

 三人は用心深く瓦礫の一帯から出て、小道まで来ると立ち止まって息をついた。

 急ぐ足音が頭上から響いてきた。ネイヴァは片割れから槍を奪い取って屈み、槍を構え、だが仲間達が視界に入ってきて力を抜いた。テイ・ジンがその先頭を駆けており、手には幽霊火の刃がその恐るべき輝きを放っていた。

「その刃を収めろ!」 祖母が叫んだ。「あらゆる龍が私達を狙ってくるぞ」

 年長者の命令に従い、その若者は魔法を自らの内に戻し、刃は夏の太陽に当てられた霧のように消えた。そして彼はネイヴァの外套と首飾りをまとうベイシャを見た。彼は礼儀正しく頷き、そしてネイヴァへと急ぎ近づいた。

「ネイヴァさん、御無事でしたか?」 熱い視線で尋ねられ、ネイヴァの頬が熱くなった。「一人で龍に対峙したのでしょう!」

「一人じゃない、だっていつも片割れがいるから。けど何で私だってわかったんだ? 外套を交換してたのに」

「ええ、それはわかります。狩人としての理由があってそうしたのだろうと思いました」 その笑みは目尻に皺を作った。オジュタイやその血族が幽霊火の戦士として彼を殺さなければ、いつか達する年長者の姿を垣間見せるようだった。「確かに最初にお会いした時は、お二人は全く同じだと思いました。ですが数日間共に過ごした今では、あなたと片割れさんを取り違えることはありませんよ」

「ネイ、なんでそんな赤くなってるのかなー? 暑いのかなー?」 にやにやと笑いながらベイシャが問い質した。彼女はテイ・ジンに、従兄弟を相手にするような目配せをした。彼もまた顔を赤らめ、だがネイヴァの傍から離れはしなかった。

 祖母は感情を表さずに一人一人を見つめ、そして忠実な狩人四人へと向き直った。マタク、オイヤン、ラカン、ソーヤは広大な一帯と岩の繭の入口を埋めた落石を見つめていた。それは力と刃ではなく言葉と策略で壮大な戦いに勝利した唯一の目に見える証拠だった。

「あれは幻だったのですか?」 マタクが尋ねた。「あれほど巨大で途方もない龍は初めて見ました」

 祖母は答えた。「全くもって途方もなかった。二度とあれに会うことがないようウギンの罠が機能するのを願おう」

「出発する前に、龍王たちを倒してくれって説得できればよかったのに」 ネイヴァが呟いた。

「過去を仮定した所で、ただ惨めになるだけだ」 祖母は言った。「あのような生物は自分以外の他者のために行動などしない。そうでなくても私自身が思い知っているように、身勝手な夢を現実にしようとしたなら、予想だにしなかった成り行きが最悪の形で自らへと降りかかる。過去の行いがあって今の私達がいる。それはありがたく受け入れよう。フェクはどうした?」

 最後にやって来た不規則な一連の足音がその応えだった。片手に細い彫刻刀を、もう片手に一本の角を持ち、そのオークは最後尾に現れた。剣は背中の鞘に仕舞われていた。

「彫刻刀や角で龍を攻撃するつもりだったのか?」 祖母は冷笑するように眉を上げて尋ねた。

「あれほどの龍は我らの貧弱な魔術で倒せるものではないとすぐにわかりました。そのため武器にはない奇策が効くかもしれないと」

 祖母は小さく笑った。

「そしてあの龍は去り、ヤソヴァ様は生きておられる」 フェクはそう付け加えた。

「岩棚の下まで行き、さまよう龍から隠れたら一通り話そう。アタルカとオジュタイはこの奇妙な出来事を調べに血族を送り込むかもしれない」 祖母は小道を登りはじめた。「二人とも、ついて来なさい!」

 二人は並び、祖母を追って駆けた。

 ネイヴァはあまりの喜びに筋道だって考えることはできそうになく、だが活力が溢れて黙ってなどいられなかった。そのため彼女は心によぎった適当な質問を口にした。「あの龍の肝臓と心臓はどうするんですか? 帰りに回収するんですか?」

「そうしよう」 祖母は頷いた。

 その内臓を何に使うのか尋ねようとした時、ベイシャが息もつかずに割って入った。

「次元渡りって学べるんでしょうか? それとも龍だけが使える魔法なんでしょうか?」

「龍だけではない。お前達が生まれる前に一人の次元渡りに出会ったことがある。あの男は私やお前達とほぼ変わらない人間のようだった。そして実に無礼で少々退屈だった、卑屈に許しを請う様はな」 不愉快そうな咳一つとともに祖母は言った。

 
火の血脈、サルカン》 アート:Grzegorz Rutkowski

 だが咳一つでは済まなかった。峡谷の縁へ向かって登りながら祖母は息を切らし、これまで助力を必要としたことすらなかったにも関わらず、重苦しく槍にもたれかかった。かつては不老にも思えたが、困難な旅と強大なボーラスとの対峙は祖母を消耗させていた。今年、またはこの先五年のうちに死ぬことはないかもしれない。だが寿命は祖母に鉤爪を立てていた。その認識は石のように重くネイヴァの心に沈んだ。とはいえ龍爪のヤソヴァは自身の死など恐れない、ただ人々の忘却だけを怖れる。それはネイヴァも今や理解していた。

「二人とも理解する時が来た。自分達の責任と、お前達若者の肩にどれだけのものがかかっているかを」 祖母は続けた。「ティムール氏族は死んではならない。ウギンの眠りにつかざるを得ないとしても、いずれ再び目覚める時まで隠蔽される。それを導く記憶が残っていれば、目覚めさせることができる」

「あの彫刻で十分じゃないんですか?」 ネイヴァが尋ねた。

「何にとって十分だ? 私もお前達も、ひとたび年をとれば、若い頃から変わらずにいられるものなど何もない。変化こそ全てを統べるものだ」

 彼らは隠れ場所へ辿り着いた。マタクとオイヤンは外へ戻って見張りに立ち、ラカンとソーヤは炉火の上に水の壺を置いた。祖母は弱々しく石の上に腰を下ろし、孫娘らに自分について騒ぐがままにさせていた。二人の世話をし、幼児から大人へ至る直前まで育ててきたこれまでの間、一度もそのようなことはなかった。二人は祖母の外套を脱がせ、髪を整え、顔から泥と汗を拭い、手を温めて肺を丈夫にする暖かな薬湯とともに落ち着かせた。

 テイ・ジンがネイヴァを一瞥し、そっと尋ねた。「私にできる事はありますでしょうか?」

 祖母はその若者へと手招きをし、隣に座るよう指示した。フェクは二人と炎を挟んで座り、岩の椅子の上に小奇麗な彫刻道具の一揃えを置いた。そしてあの洞窟に隠す細工物に加えるべく、持っていた角を刻み始めた。

「テイ・ジン、もし私達と共にいたいというのであれば、歓迎しよう」

「私は師のもとへ戻らなければなりません。その後、後に続く者へと知識を伝えていくことが使命となるでしょう。そうすればジェスカイ道は死に絶えることはありません」 彼はネイヴァを見て溜息をつき、僅かにかぶりを振ってみせた。「何を願おうとも、それが私の義務なのです」

「ああ、その通りだ」 祖母ははっきりと言い、ネイヴァは両手を握りしめたが何も言わなかった。どの氏族にとっても過酷なこの世界では、義務は何よりも優先される。「ウギンは物語を伝えるために、そしてボーラスを永遠にタルキールから遠ざけておけることを願ってお前をここに遣わした。だがウギンがお前を送り出したのはそれだけのためではない。精霊龍はあの老賢者、テ・ジュー・キの教えを理解していた。それはただウギンやボーラスに関わっているというだけではない。ティムール、ジェスカイ、そしてタルキールの全氏族にとって重要だ。私はその全てを覚えている、お前達若者が知ることのない世界を。龍王たちはこれまでの知識を何もかも抹消したがっている。だからこそ祖先の心を守るために、私達はあらゆる手を尽くさねばならない」

 祖母が片腕を伸ばすと、フェクはその掌に角を置いた。角を回し、祖母は彫られ始めたばかりの美しい彫刻を見せた。二人の少女が急な山腹に立っていた。

「いつの日か、きっと書かれざる現在の遥か先に、この物語を見つけてくれる者が生まれる。そして彼らなりの世界の理解へと変えるのだろう」

 祖母は角をフェクへと返した。彼は心地良い集中と熟達の技術で作業に戻った。

 ベイシャはネイヴァをそっと突いて囁いた。「言わせてもらうけど、おばあ様がテイ・ジンさんに氏族へ加わるように誘ったのは理由があるよ」

「私はアヤゴルに戻ってアタルカのために狩らねばならない。何よりも、囁く者は全員殺したと信じさせたままにしておかねばならない。囁く者の心の存在に気付かれることはあってはならない。それぞれが生き延びるために必要なことをする。しばらくは、お前達二人はここにいなさい」

「ですが岩の繭の入口は閉まってます」 ネイヴァが反論した。

「気をつければ入口は開けられる。ベイシャ、お前はウギンが記憶の海を通して交信を続けたいかどうか確かめねばならない。お前が見たものをフェクが記録してくれる。その彫刻は全て、私達の隠された記憶と共にここに収められる。ネイヴァがお前のために狩りをし、お前の安全を守る」

 
高地の獲物》 アート:John Severin Brassell

「安全になることなんてあるんですか?」 ネイヴァが尋ねた。

「最後に見た龍が飛び去ったなら安全というだけだ。ボーラスにとっては、タルキールへ戻ってくるのは危険すぎると判断することを願おう」

「おばあ様はあの龍を欺きましたが」 ネイヴァが付け加えた。「もしボーラスの話が本当で、ウギンの方が嘘だったらどうするんですか? ボーラスの復讐から自分の真髄を守るために私達を利用したとしたら?」

「それを私達が知る術はない」 祖母はその視線をテイ・ジンへと向けた。彼は双子がさまよった瞑想次元の水面のように、動かず静かに座していた。「お前が師のもとへ戻らねばならないことはわかっている。だがどうか、せめて数か月ここに留まってくれないか。ウギンの物語をもう一度聞きたい。それをフェクが記録すれば、守り伝える手段が増えることになる。氏族の民は身を守るべく協力しなければならない。それが唯一の道だ。そしてこれもウギンが伝えようとしたことだ」

 テイ・ジンは祖母の厳しい視線を受け止め、ネイヴァは息をのんだ。だが彼は破顔し、はにかんだ笑みを彼女へと一瞬見せ、頷いた。「わかりました。しばしの間留まらせて頂きます」

 高揚が炎のように燃え上がってネイヴァの内にうねった。歯を見せて笑うつもりはなかったが、頬が大きく緩むのを抑えきれなかった。

 ベイシャが鼻を鳴らし、片割れのむこうずねを蹴った。

「いたっ!」 だがネイヴァは声をあげて笑った。

 テイ・ジンは再び顔を赤らめ、口に手を当てて硬い咳払いを一つし、大仰なまでの真面目さで言った。「私の傷もまだ癒えきっておりません。完全に回復するまでオジュタイの龍から逃げおおせるのは難しいでしょう」

「そうよねー、だからよねー」 わざとらしく視線を動かし、ベイシャは言った。

 ネイヴァは彼女をつねり、するとベイシャは肘鉄を返した。

 祖母はその稀な、寛いだ笑みを浮かべた。「二人とも、これはお前達の務めだ。この先に生まれてくる子供達は龍王の統治以外の道を知らない。その子らはずっとそのようだったと考えるだろう、人はただ龍に頭を垂れるのみ、偉大な龍は打倒などできないと。だがウギンの物語は、あの精霊龍が意図していなかったもう一つの教訓を伝えてくれた。最強の龍ですら、死するのだと」

「本当にそう思うんですか?」 ネイヴァが尋ねた。

「真にそう思う。この書かれざる現在においては、何が起きても不思議ではないと」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)


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