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MAGIC STORY
エターナルマスターズ
先立つ全てに
先立つ全てに
Leah Potyondy / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2016年6月1日
死者の世話人、チョー=アーカンは家族とともにラッシュッドの森深く、チョー=アリム族の小さな村で暮らしている。穏やかで平和な村の生活、そしてメルカディア人の長い腕も遥か遠くのものに思われた......
その朝も普段通りに始まった、一人の死者とともに。
チョー=アーカンは死者に慣れていた。彼女の母、そう、育ての母ではなく産みの母のほうは死者の世話人であり、身寄りのないチョー=アリム人の死者を引き取り、その魂が安らぎを得られるよう世話をしていた。彼女の父もまた世話人だった、自身がその一員に加わる以前は。そしてアーカンもまた、長く連なるその一族の一人として成長した。そのため太陽が昇って一日が始まると、彼女は身支度をして母親であるチョー=フィハドと共に、村のとある女性の死体を整える。普段通りでないものは何もなかった。
その女性、チョー=ハンニという名の偵察兵は病を患っていた。まだ生命が脈動していた頃から、何かが彼女の内を食い荒らしていた。そして彼女を受け入れた時、その身体が放つ悪臭は、アーカンが思うに、普通ではなかった。フィハドはチョー=ハンニの青白い顔を撫で、死者を送り出す前に身体に詰める良い香りの薬草を外で摘んでくるようにアーカンへと言った。例え火葬されていても、こんな悪臭を放つ身体のままに川を下りたいとは彼女も思わないでしょう、と。
フィハドが見ていない間に、アーカンは目を丸くした、死者が何を求め、何を求めないかについてフィハドは多くの考えを持っていた。村の多くの大人がそうだった。まるで、死者が我侭を言える立場であるかのように。アーカンは死者の世話をしたが、彼女は考えていなかった――母が明らかに考えていたように――死者がそんなことを気にかけるとは。
「今の時期の庭のことも少しは考えない?」 彼女は収集用の袋を掴んで尋ねた。「ここで薬草を成長させる方がずっと簡単だと思うの。空いてる場所が結構あるから、植えらえる植物を少し持ち帰れると思うんだけど」
フィハドはかぶりを振り、寛大な笑みを浮かべた。「私の娘は頑固ね。そういう薬草は森の中で育ったものが最高だと知っているでしょう。庭で育った薬草は野生を知らない。森と川を知らない」
アーカンは作り笑いをすると袋を肩に引っかけた。十六歳になって、彼女は議論するよりも良いことがあると学んでいた。
だが彼女はそうしたかった。ああ、そうしたかった。村の外へと続く土の道を駆けながら、アーカンはその考えを脳内でもてあそんだ。家で育つであろうものをそこまで遠くへ採りに行くというのはばかげていた。彼女は植物をよく知っていた。彼女の兄、チョー=ランも。他の偵察兵と共に遠出をしていない時は常に、兄が庭で手伝ってくれるだろう。フィハドの手を何ら煩わせることもなく......
彼女は川までやって来ると、岩や木の根を過ぎてゆっくりと流れるその音に耳を澄ましながら辿った。チョー=ハンニがどこへ流れ行こうとも、その場所は魂に満ちているのだろうとフィハドは考えていた。彼女も、勿論そう考えていた。アーカンは川から北へ逸れ、込み入った森の中で香りのよい薬草が育つ空き地へと向かった。彼女は何とかそれを庭に植えることを考えた。その薬草が家の裏庭で育っているのを見たら、フィハドはどうするだろう。根ごと引き抜くだろうか?
アーカンは採集場所へと向かいながらその考えにやきもきし、窮屈な堂々巡りの思考の中にはまっていった。そして巨大な角トロールが木々の間から姿を現し、彼女が向かう先へと飛び込んできた時もまだそうだった。
《有角トロール》 アート:Christopher Moeller |
彼女は驚いて後ずさり、根に足を引っかけて転げた――そして急斜面を滑り落ち、当惑して見上げた。その斜面は地面にできた一種の窪みだったが、彼女はそれがくれた隠れ場所へと身を縮め、トロールが自分に気付かないことを必死に願った。
そのトロールは巨大で、怒り狂っていた。アーカンの頭上、土の些細な覆いから土塊がぱらぱらと急斜面を転げ落ちた。彼女は枯葉の中に顔をうずめた。あっちへ行って、彼女はひたすらそう願った。あっちへ行って、行って、行って。
永遠の倍にも思える時間の後、トロールの足音は小さくなり、木々と下生えを踏みつけて離れていった。多分、私の薬草も全部踏みつけて。それは確かめねばならなかった。アーカンはうずくまったまま、衣服を汚した一番大きな土を払った。そして袋を肩にかけ直した時、何かが目にとまった。
以前にも彼女は薬草を採集するために何度も森へ来ていた。ここは薬草が育つ、村からは最も近い場所。そして彼女はここよりも深くの森へは滅多に踏み込まなかった。だがこの穴の中で怒れるトロールから身を隠して時間を過ごしたことはなく、そのため、どこか入口のように見えるその刻まれた石柱を見たことがなかったとしても、それは仕方のないことだと自身を納得させた。その柱は彼女の身長よりもわずかに高く、這いまわる蔓に分厚く覆われていた。そしてその向こうには......
自分が何をしているのかを実感するよりも早く、彼女は蔓を取り除いていた。しばしの奮闘の後、不完全に組み合わさった崩れかけの石が更に現れ、そこには何かの記述らしき模様が刻まれていた。そう、これは入口だった。壁にぴったりとはまった入口だった。
好奇心を抑えきれず、彼女は石を一つまた一つと取り除き、やがて身体をねじ込めるほどに入口が広がった。内部は乾燥してかび臭く、封を解かれたばかりの扉から入る大気の流れが僅かに中をかき回していた。アーカンは崩れかけの土壁を指でこすりながら、通路を進んだ。すぐに、扉からのわずかな光は完全に消えた。何か道を照らすものがあればと願ったが、引き返すには遅すぎた。彼女はどこかのめり込んでいた。
不意に、通路は小さな部屋へと通じていた。彼女は壁が消え、周囲に更に深い影の空間が広がるのを感じた。そしてそこに、部屋の中央に、暗闇の中で僅かに浮かび上がる一つの姿を彼女は把握した。台座のようなもの、そしてその上に何かが......
死体。
アーカンは慎重に近寄った。古い死体。信じられないほどに古く、乾いた布にくるまれていた。そしてその顔を覆っているものは? かろうじて知覚できる光を放っていた。アーカンは更に近寄り、用心深く両手を伸ばして......
詮索の指先から輝く塊が弾けた。彼女は飛びのき、心臓が胸郭内で躍り上がった。蛾。柔らかな光を放つ蛾が突風となって、彼女の両手の下の物体から弾けたのだった。
《黄金光の蛾》 アート:Howard Lyon |
軽やかで乾いた何十もの羽ばたき取り囲まれ、アーカンは今や外から照らし出されたその顔を再び見下ろした。
仮面。その死体は破片に砕けた仮面をつけていた。
違う......砕けてはいなかった。仮面の破片がそのミイラ化した顔に埋まっていた。彼女は思い描いた、まるで皮膚が陶片の上へと成長し、同化し、それを内に受け入れ......
不意に、彼女は可能な限りの速さで洞窟から飛び出さずにはいられなかった。蛾が彼女の周囲に旋風と化した。
アーカンは袋一杯の薬草を持って帰宅した娘の遅い帰宅に、育ての母チョー=シャディは長槍の手入れをしながら眉をひそめたかもしれなかったが、母フィハドは何も言わなかった。その代わりに彼女はただ微笑み、薬草の準備を手伝うように告げた。
「今日ね、トロールを見たの」 薬草を小袋に入れ替えながら、普段通りの声色を装ってアーカンは言った。フィハドは既にチョー=ハンニの黒化した内臓を取り除いており、アーカンの作る小袋がすぐにその代わりとなる筈だった。
母シャディは全く慌てず、ほとんど気付かれない身動きをしただけだった。母フィハドは溜息とともにアーカンから布袋を受け取った。「彼らは落ち着かないわね。もっと......」 そして眉をひそめた。「何か良くないものが来ようとしているわ。ラッシュウッドが怖れている」 鼻で匂いをかいで。「メルカディア市の匂い」
アーカンは顎を引き締めた。メルカディア市についての約束事、古い合意があった。「悪いことは何もないよ、お母さん」 彼女は香気を放つ小袋をもう一つ手渡した。「メルカディア人は来ないよ。あの大きくて眩しい街に居座ってて、兵士を送ってくるなんて事はなかったし」
《Cliffside Market》 アート:Matt Stewart |
母シャディは鼻を鳴らした。「フィハド、私達の大きくなった娘の話を聞きましょうか。帝国の事情をどれほど知っているのか。あの大きくてぴかぴかの檻が動かないことをどこまで信じているか」
アーカンは顎が強張るのを感じた。「街の人は街にいたいと思ってるし、街は動かない。メルカディアはここには来ないし、他の何も来ない。もし何かあるなら、遠くへ薬草を集めにいく私を心配すればいいじゃない、薬草を採れる完璧な場所がすぐ裏にあるのに! ランが手伝ってくれるだろうし、そうすれば私がトロールに食べられそうになるなんて事もないじゃないの!」
フィハドは影のある笑みを浮かべた。それは娘の顔や声や動きに、彼女がアーカンの父を思い出していることを意味した。あるいは、だからこそ彼女は夫が川を下ってから六年経ち、シャディを選んだのかもしれない。荒々しく、言葉少なに素早く槍を振るうシャディ。それはアーカンの父親とは違った、ジャガーと羊が違うように。その笑みを見るといつも感じる、ちくりと痛む当惑がアーカンの中にあった。そして彼女は出し抜けに言ってから自身の言葉に気が付いた。
「私、死体も見つけたの」
フィハドは心配そうにチョー=ハンニから顔を上げた。「この村の人じゃなくて? もしかして病が広がっているの?」
アーカンは素早くかぶりを振った。「ううん、違う。そういうのじゃなくて。死んだ誰かがずっと長いこと洞窟に隠されていたの。仮面をかぶってた――」 そして彼女は強調するように両手を顔まで上げた。「直接顔についているみたいに」
フィハドの目が鋭くなった。「古の呪師かもしれないわ。多くは残っていない――ラッシュウッドが彼らを飲み込んでしまうから」
アーカンは片眉をひそめた。「呪師? 呪師は収穫を占って狩りを祝福して、人が死んだ時にはなむけの言葉を読む、そういうのじゃないの?」 彼らは皮膚に陶片を埋め込んだりはしない。
「私達の呪師ではないのかもね。でも私の母がかつて話してくれた事があるの。遠い昔、私達の祖先は仮面の人々を尊敬していたと。彼らの祖先だけでなく、生きている人々も。食卓を囲む両親と兄弟姉妹と子供も」 彼女はそう言って、縫合され骸布に包まれるのを待つチョー=ハンニを見下ろした。「生者も死者も共に」
「ふうん」 アーカンは母へと骨製の細い針を手渡した。痛みを感じるよりも早く指を貫通してしまいそうな。「生者も死者も、ね」 彼女は興味を持ったと思われたくはなかった。フィハドはいつもそれに誘われたように、とりとめのない話へと娘を引き込むのだった。古の神秘、古の魂を運ぶ川の物語へ。だがアーカンは興味を持ってしまった。そしてそれ自体が、フィハドが信じているどんな物事よりも、ずっとじれったいのは確かだった。
フィハドは差し出されたその針を娘から受け取り、糸を通し、チョー=ハンニの死体を直す仕事に取りかかった。「奇妙に聞こえるかもしれないけれど、その呪師達は仮面を全て違う破片で作っていたらしいの。まるでパズルやモザイクのように。破片一つ一つが彼らの異なる面を現すか、彼らに繋がるのだとか。彼らが何者で何ができたのか、まるで一枚の絵のように。そうやって一つになったものには大きな力が宿る、悲しいことに私達は忘れてしまったけれど」
「一枚の絵、ね」 アーカンはかぶりを振ってみせ、黙って仕事を続けた。だが心の奥深くで、彼女は少しの興奮を感じていた。
《島》 アート:Martina Pilcerova |
香杉の棺台に横たえられ、死の装いに包まれたチョー=ハンニの死体が川に託され、長い時間が経っていた。彼らの呪師が――普通に顔を出した、彼らがよく知る呪師が――死体に言葉をかける間、母フィハドは目を塞いでいた。世話人は目を塞ぐものだと彼女は言った、魂が身体から滑り出て川へ向かえるように、その時に全員が見ていてはいけないのだと。アーカンも、それを本当に信じてはいなかったが母の動作に従った。彼女は小さい頃からそうしてきた。川は穏やかで美しく、葬儀にふさわしい場所だった。だが魂が辿る魔法の道はそうではない。チョー=ハンニは去った。これでおしまい。
今や夜となり、夏の大雨が屋根を叩いていた。雨音よりも大きく、ランの大きないびきが、二人を隔てる布の壁の向こう側から聞こえていた。チョー=ハンニの死体が灰へと燃やされて川に散らされてすぐ、アーカンの兄は哨戒から家に戻ってきていた。彼女の予想通り、兄はメルカディア兵や街が作った戦争機械の侵入の知らせは何も持ってこなかったが、熊に襲われたというありそうもない話をしてシャディに鼻で笑われ、彼は頭をかいた。そのいびきの音から、兄は深く眠っており早起きしてまた出て行くのだろうと思われた。彼は薬草園を手伝ってくれることに同意しており、母フィハドの見ていない所で意味深な目配せをしてくれた。きっと良い日になると思われた。
夜の雑音は彼女を眠りに誘うのではなく、彼女の感覚を詮索して開いた。彼女は考え続けていた。あの呪師の女性、死した呪師の鮮やかな仮面。あの崩れかけた土部屋の中、隠されて忘れ去られていた。
思い出すに、少なくともあの蛾は奇妙だった。光をくれて自分に見せた......
自分の行動に気が付くよりも早く、アーカンは身支度をして扉から忍び出た。雨音とランの大きないびきがその音を隠してくれると信じていた。皮膚は雨に叩きつけられ、黒髪は即座にずぶ濡れになって頭に張り付いた。
彼女は川へと向かった。
彼女は先日の足取りを遡り、屈曲する急流を辿った。川は広々と荒々しく流れ、雨に狂喜してその土手に飛沫を上げていた。そこから離れて森へ向かおうとした所で、何かが唐突に彼女の足取りを止めた。
母シャディだった。雨水に髪はもつれ、長槍を手にしていた。彼女は動かず立ち、足元に横たわる何かをじっと見つめていた。槍先から流れ落ちる水は赤く汚れていた。
「体内から死んでいる」 アーカンが近づくとシャディは呟き、槍先で下を示した。すくんだように、アーカンは泥の中に投げ出された角トロールの屍へと視線をたどった。シャディがその腹部を切り裂くと、悪臭を放つ黒化した内臓が溢れ出た。
「チョー=ハンニと同じ」 アーカンは息をのんだ。叩きつける雨の向こうから、病の匂いが湧き上がった。
胃袋が悶えた。
村の人々が更に病にかかった。長くはもたなかった。槍作り師のチョー=アンヌが。川辺で一日じゅう洗濯し、あらゆる噂話を知るチョー=ビアアルが。三頭の犬を飼い、だが夫はいないチョー=トゥンニが。アーカンがその短い人生で知ってきた人々が一人また一人と倒れていった。治療師らは古の技も新たな試みも、知る限りの全てを試みたが、それでも病は猛烈に広まった。一人また一人、チョー=ハンニと同じ道をたどった。チョー=アンヌ、チョー、ビアアル、チョー=トゥンニ、全員がアーカンと母の家に横たえられ、灰となって大いなる川へと向かった。
鴉羽の黒髪のラン、献身的な長兄、アーカンの敬愛する兄も、肺が縮れて体内で黒く死ぬのを感じた。彼は自分の家で息を引き取り、その死出の旅への準備には僅か移動させればよいだけだった。
死出の旅。不愉快なその言葉は舌の奥で苦く、発せられることはなかった。薬草園どころではなかった。母フィハドは今も汗ばんだままの息子の髪を撫で、言った。「川よ、彼を真にお導き下さい。そして安息の場へとお連れ下さい」
柔らかな茶色の蛾が一匹、家の中に閉じ込められ、天井にぶつかりながら出口を探していた。もがく蛾を見て、アーカンは無力さと怒りを感じ、言い放った。「川なんてどうでもいいよ! ランは死んだってだけでしょ」 そして、小声で続けた。「もう帰ってこない」
フィハドは何も言わず、そして母が息子の死体を整えながら泣くのを、アーカンは見て見ぬふりをした。彼女は顎を固く閉じ、歯を食いしばり、そして薬草の小袋を数えた。ここ数日、何度も行ってきたことだった。初めて、アーカンは母の信念を羨ましく思った。フィハドは死した息子を腕に抱きながらも、その行為の中のどこかに平穏を見つけるのだろう。だが彼女自身は、アーカンは心に平穏などないと確信していた。
蛾はもがき続け、その小さな身体が天井を幾度も叩いた。アーカンは叫びを上げたかった。窓があるじゃないの、すぐそこ、下へ飛びなさいよ、そうすれば自由になれるじゃないの。
下へ飛びなさいよ。
あの仮面が彼女の思考に飛び込んできた。死した呪師の仮面、地面の下、下、ずっと下、古の知識と埃っぽい羽根の囁きに微かに輝いて。あの呪師はこれを知っていたのだろう、アーカンはそう思った。あの呪師が本当に力を持っていたなら、母の言葉が本当なら、こうなることを知っていた。違う?
手で目を覆うと、涙のヴェールがそこにあった。
ランが川を下って九日後、シャディが知らせを持ってきた。ランの死に発起したチョー=アリムの偵察兵らが、彼の灰を目の周りに塗るとラッシュウッドの未開地へ散っていった。シャディもその中にいた。彼らは夜明け前に知らせを持って戻ってきた。メルカディア人兵士の小集団が、あの輝く街の頭飾りをひけらかしながら近づいている。その兵士達は移動する光のようだった。彼らは僅かしか武器を持たず、だがその足跡では木々が震えて呻いていた。根は地面によじれ、樹上の猿は高所の住処から落下して枯葉の床に腐り果てた。
《陰鬱な僻地》 アート:Sam Burley |
彼らはラッシュウッドへと病を持ち込んでいた。
「禿鷹ども」 シャディは屈強な腕から泥をぬぐいながら呟いた。「私らを皆殺しにするつもりだ、チョー=アリムの一人にすら指を触れずに。そして私らの骨の中に残ったものを拾ってく」
ラッシュウッドは怖れている。
メルカディア人はここに来ない。
これまでの人生で、アーカンは今ほど罪悪感にかられたことはなかった。その感情は彼女の骨身に、重く暗く居座った。彼女はフィハドの怖れを不合理な迷信の塊と決めつけ、世界が変わりつつあることを理解せずに生きてきた。そうではなかった。フィハドは正しく、そしてランはアーカンの過ちをその生命で払った。
兄は自分のせいで死んだ。母を信じなかったから。死体を整えることしか知らず、守ることを知らなかったから。だから死んだ。だから。だから。
その夜、月が梢の上高くに昇ると、アーカンは自身の家と死した隣人達の列を離れた。茶色の蛾は彼女の周囲を飛び、翼が月光をとらえた。それらは彼女が行くのを見守った。
彼女は足音を殺して湿った冷気の中を駆け、川に沿って進み、古の墳墓とその呪師の仮面を目指した。身体が空っぽに思えた。心は羽ばたく蛾で満たされているように思えた。月光の中の蛾。仮面の下の蛾。まるで口を開いたなら、それらが喉から湧き出すのではないかと感じた。
アーカンはその呪師をじっと見下ろした。死して長く、謎めいた。彼女は見つめ、そして口を開いた。身体を満たしていた蛾が溢れ出た。仮面を満たしていた蛾がはっと散った。
彼女は叫び、叫び続けた。
当初、それに言葉にならないものだった。人生を支えてきた信条が、砕け散った。野生の森に生きてきた兄が、家の床で死んだ。起き上がらない父親、母は毎夜泣き、幼い子供達はそれを聞かないように耳を塞ぐ。急流の底を厚く覆う灰。メルカディア。
メルカディア。
メルカディア。
彼女は消耗し、土壁にもたれかかった。「どうして?」 彼女は乾いた唇の間から囁いた。どうしてこんな事が起こったの? どうして私達は死のうとしているの? どうして仮面のあなたはここで、その秘密と一緒に私の世界が崩れ落ちるのを見ているの?
彼女は目を閉じた。
「チョー=アリムは覚えていません」 脳内で声がした。「かつては、知っていました。いかにして数多であるかを知っていました」
「でも......どうやって?」 彼女は呟いた。自分は眠っていると、無人の部屋へ喋っているとわかっていた。それは気にならなかった。自分はもう、とても多くを間違ってきたのだから。
「仮面には力があります」 声が再び聞こえた。「それをあなたの世界の破片とともに作るのです。あなたはあなたの民の鏡写しとなり......」 躊躇。「ですが、あなたは自身を失います。自身を他の全ての絵とし、ですがそれはあなたを隠してしまうものです」
アーカンのきつく閉じられた目蓋から、涙が滲み出た。
「ふ、ふん。私を隠す。構わないわよ」 彼女は震える声を絞り出した。彼女は母フィハドの打ちひしぐような正しさの重みを、母シャディの血に濡れた槍を、あの大都市が手を伸ばして遥か彼方のランを殺したのを感じた。その死の全てが、灰とともに大気に満ちた。
「隠されるのは別にいい」 彼女は言った。「それが皆を救うなら、かまわない。私は家族を助けられなかった。お兄ちゃんを助けられなかった。だからそんなの、私にとっては失うものでも何でもない」
再び聞こえたその声には悲しみがあった。「家族が子供を失うというのは常に、あまりに大きな喪失です」
アーカンは自身が微笑むのを感じた。「じゃあ、もうどんな家族も悲しむことがないように」
決断は成された。蛾が彼女の周囲で羽ばたき、羽と光の嵐が起こった。あの帝国が波となって襲いかかり、皆を打ち負かす前に仮面を作る時間はないだろう、それはわかっていた......だが、その必要はないかもしれなかった。
彼女は目蓋をわずかに開き、目の前の死体を見た。
痛み。
アーカンは顔面に血を感じた、それは皮膚が開かれた所から流れ出していた。何百もの柔らかな翼が放つ光の下、彼女は死した呪師の顔から仮面を引き上げた。呪師は大した抵抗をしなかった。躊躇する機会を与えられず、アーカンはその埃まみれの陶片を自身の顔に押し付け始めた。
ランのために。お母さんたちのために。チョー=アリムのために。
その苦痛は彼女を、まるで熟した果物のように割った。血のように赤い花が皮膚のひび割れに咲いた。
そこには力もまた、あった。そのうねりが歯の奥で築かれ、手首の内側まで遡り、背中の薄い筋肉に大きな跡を震わせた。よろめきながら村を目指している間、一瞬、自分の足は地についていなかったと彼女は誓って言えた。心拍一つとともに彼女は浮かび上がり、次の一歩に足をひっかけて膝をつくことをかろうじて避けた。大きな力が四肢に溢れ、そして吸い出されてもがく彼女だけを残し、一歩また一歩と足を進めた。瞬きをすると、ラッシュウッドの木々はメルカディア軍の隊列となり、太陽が彼らの兜にきらめいていた。そして彼らに対峙し、招集されたチョー=アリムの戦士達の先頭で、母シャディが身構えていた。
もう一つ瞬きをすると、そこは再び森となり、軍隊は消え去った。
メルカディア人が来る、彼女は激しく震える力のもやの向こうで考えた。メルカディア人が来る、そして母シャディが彼らを押し戻そうとするだろう。
皆の所へ行かないと。村へ辿り着いてシャディに会わないと。戦士に。皆、武器が必要だろう、私が持っていく武器を――
胃袋が病的によろめくのを感じ、彼女は間に合わないだろうと悟った。侵略者を追い返し、チョー=アリムの力を示す素晴らしい武器を持って行けると考えた。だが彼女の身体と心は死した呪師の仮面の下で引きつり、壊れようとしていた。その力は借り物であり、アーカンの内に根を張ることは叶わない。
皮膚が濡れるのを感じた。
川。彼女は川の中にいた。
水没する直前、柔らかく輝く水面を見た気がした。魂に満ちた川、そう思った。母フィハドは私に目を覆って欲しがっていた。
彼女は輝く水面の下を過ぎ、冷たい水が皮膚と仮面の破片の間を埋めるのを感じた。安堵。苦痛からの安堵。長く埋もれていた力の、震える名残からの安堵。彼女は目を開けた。
死者が彼女に視線を返した。
彼らはそこかしこにいた。彼女と同じチョー=アリムの人々、そしてチョー=アリムより古い人々が、流れの中に渦を巻いていた。アーカンは恐怖を感じるだろうと身構えた。もしくは、理解を越えた何かを。
『あ、皆、ここにいたんだ』 思ったのはそうだった。フィハドにも見えていたのだろうか。川に注がれた灰は、儀式は......それは全くもって、空しいものなどではなかったのだ。
一つの塊が喉に形を成した。『いなくなったって。皆、いなくなっちゃったって思ってた』
『ごめんなさい』
魂の一つが手を伸ばし、アーカンの壊れた皮膚に触れた。水とは違う冷たさが彼女に染みた。陶片が顔から一つ外れ、川床へ流れていった。
《祖先の仮面》 アート:Magali Villeneuve |
『駄目、あれは要るの......』 彼女はそう思った。更なる魂が彼女をかすめ、皮膚を接いでは仮面を取っていった。『やめて、それは......』
チョー=アリムの希望は陶片となって落ちていった。彼女はぼんやりと思った、水の中でも泣くことはできるのだろうかと。
最後の破片が落ちた。
周囲で水が低く唸り始めた。
一番近くの魂が手を伸ばし、彼女の顔を突いた。ラン、彼女にはそれがわかった。これはラン。それはまるで遠い昔に会った誰かを思い出すようで、もしくはとても遠くから見るようで。彼の指は新しい傷をなぞり、アーカンは身体が光で満たされるのを感じた。先程まで感じていた抑えきれない突発と予測不能の力の満ち引きではなく、彼女は一定の脈動を、川を往く全ての魂との繋がりを感じた。彼らは繋がり、互いに手をとり合って、最後の長い道を行く旅人。
ただ一つの、完璧な絵。
不意に、アーカンは身体が上へとねじられるのを感じた。水面から弾け出ると、周囲の魂が蛾の群れのように散った。誰かが彼女の腕を掴んで名前を叫んでいた。顔、どこかよく知った顔。母シャディが心配に目を見開いて、彼女を土手に引き上げた。
「知ってる......」 アーカンは言った。彼女の思考はぼんやりとしていた。「お母さんの片方」
シャディは声をあげて笑った。「私の娘ったら、川に落ちて私の顔を忘れたの」 彼女は目に浮かんだ涙を手の甲で拭った。そして目を見開き、初めてアーカンの顔をじっと見た。
「アーカン、何があったの? 誰がこれを?」
アーカンは手で皮膚に触れた。傷跡が円と渦巻を成して、盛り上がった模様が指先を迎えた。彼女は注意深く身体を起こし、シャディの手を離し、川を覗きこんだ。それはもはや輝いては見えず、だが傷跡は。水面に反射して、それらはまるで仮面のように見えた。
彼女はゆっくりと微笑むと立ち上がった。数匹の蛾が水面をかすめ、羽ばたいて彼女の頭を取り囲むように踊った。
「シャディ? あの子は見つかったの?」
フィハドが現れ、川の屈曲を迂回して駆けてきた。彼女はアーカンの顔を見ると立ち止まり、目には涙が浮かんだ。「よかった、アーカン!」 彼女はそう言って娘の顔を指先で撫でた。母のその微笑みはあの悲しい微笑み、アーカンの父と今やランを想う時のそれだった。「あなたまで失ってしまうのかと」
アーカンは腕を持ち上げ、フィハドを温かく抱きしめた。「私は、チョー=アーカン」 彼女はフィハドの耳へと囁いた。「私はチョー=ラン、チョー=ハンニ、チョー=アンヌ、チョー=ビアアル。私はシア=アム=エルー、木立の下に埋蔵された者。私は貴女、チョー=フィハド。そしてチョー=シャディ、私は私の家族。家族の、家族」
フィハドは腕を放し、娘の顔を凝視した。その両目は熱烈な誇りと計り知れない悲しみで満ちていた。
アーカンは頷いて顔を上げた。力が四肢にうねった。彼女は血に川の流れを、身体の隅々に森が広がるのを感じた。チョー=アリムと、チョー=アリムを生んだ人々の声が合唱となって心臓で歌った。一つの軍隊など私の前には無力、彼女はわかった。メルカディアは私を見て、多くの声だと知るだろう。これまでの、これからの、私達を表す一つのモザイク画だと。
「私達の軍を見せて」 彼女はシャディへと、母親であった女性へと言った。
メルカディア軍は一つの、弱体化した村を想定していた。病人で満ち、略奪を待つだけの村。ラッシュウッドを故郷としてきた全てのチョー=アリム人に会うことは想定していなかった。戦いを想定していなかった。
驚かなかったはずがあるだろうか?
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