MAGIC STORY

ローウィンの昏明

EPISODE 10

サイドストーリー 生い出し花や、呪われの

Akemi Dawn Bowman
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2026年1月7日

 

 没したばかりの叔父の家、その湾曲した敷居にセリスは立った。腐敗した苔とカビの生えた革製の書物の匂いにひるむ。家の中は、子供の頃に過ごした時の記憶とは全く違っていた。

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アート:Adam Paquette

 ささくれ立った窓枠には黒蔓が伸びて渦を巻き、天井の隅には光るキノコが無秩序に生えている。水晶の置物はそこかしこに散らばり、露をまとう蜘蛛糸で幾重にも覆われていた。奥の壁に置かれた飾り棚はかつてシャドウムーア全土で最も希少な植物の標本で溢れていたが、今置かれているのは空の瓶だけだった。叔父であるゲシンの収集品はかつて同業者たちの羨望の的だったが、今ではボガートですらこれを荒らしようはないとセリスは思った。

 家の中に数歩足を踏み入れ、丸屋根の書斎へと視線を移す。使い古した木製の机の上には、忘れ去られた手紙が乱雑に重ねられている。机の真上には鐘型のランタンが吊るされ、穴の開いたガラスの中でかすかな魔法の囁きが今も揺らめいていた。

 叔父の生涯最期の数か月間、黄昏の聖遺はほとんど使われていなかった。それでも叔父が最も大切にした所持品が壊れている様には胸が痛んだ。朽ちゆく家は、叔父の遺品も思い出も一緒に消し去りつつあった。

 外套のポケットの中で、叔父の最後の手紙が重く感じた。そこに書かれているのは花探しの冒険譚でも、オーロラの向こう側の物語でもない。疲弊した手で走り書きされた数行には、残された唯一の肉親であるセリスに最後の持ち物を譲ると書かれていた。彼女は埃に覆われた暖炉に指を滑らせ、溜息をついた。この部屋には美がある――ただ、それを見つけるには少し時間を要するだろう。

 セリスは本棚の古い日誌をめくった。見慣れた筆跡があり、鋭い痛みのように悲嘆が突き刺す。叔父のしわがれ声が今も脳内に聞こえるような気がした。何かを面白がる時に長い耳を小さく動かす様子が思い浮かんだ。叔父はよく語ってくれた――ローウィンでは恐れるものなどほとんどない、何故ならローウィンの生き物は大体がエルフを怖れているからだと。そして気取らない笑い声をあげたのだった。

 ローウィンの生き物は大体がエルフを怖れる、シャドウムーアではまったく逆だった。

 荒々しい魔法など存在せず、すべてが穏やかで陽光に満ちているローウィン。叔父が語るそんな物語のような世界を、セリスはしばしば夢みながら眠りについたものだった。

 叔父から遠ざけられた後もその記憶を大切にしていたのは、まさにそれらの話のおかげだった。叔父がそうしたのには理由があった――セリスはオーロラの影響に誰よりも敏感だったのだ。子供の頃、ローウィンとシャドウムーアの境界に近づきすぎると何時間も思考が混乱することがあった。そしてその混乱から蝕界に迷い込んでしまったらどうなるか、それを叔父は恐れていたのだった。

 心の底では、叔父はただ自分を守ろうとしただけなのだと理解していた。それでもセリスは失われた年月を激しく嘆いた。

 次の日誌を手に取った時、彼女は表紙の裏に挟まった一通の手紙を見つけた。

レインへ

申し訳ない。他にどう言えばいいのかわからないが、君の要望に応えることはできない。代わりに軟膏をもう一か月分送る。使い続ければ症状が改善するかもしれない。そうであることを願う。私にできるのはこれが精一杯だと理解して欲しい。

敬具 ゲシン

 セリスはすぐに、厚手の葉に包まれた小さな包みが近くの棚に置かれていると気づいた。「レイン・ブレコン」と宛名が書かれた札がついており、紐をほどくと小さな軟膏の瓶がひとつ転がり出た。

 彼女は唇の端を噛んだ。眉間の皮膚が引きつる。叔父が手紙を送らないなどありえない。少なくともわざとではない。そして、叔父が副業で治療師をしていたということも知らなかった。

 このブレコンという男性は、おそらく叔父の死を知らないだろう。そのまま長いこと薬を待っているのだろうか、そう考えるとセリスは恐ろしくなった。

 セリスは机の引き出しをあさり、未使用の羊皮紙片と羽根ペンを探し出した。そして叔父の日誌を脇に置き、手紙を書きはじめた。

拝啓 ブレコン様

お届けが遅れまして、大変申し訳ございませんでした。お待たせしてご迷惑をおかけ致しました。この軟膏がまだお役に立ちますでしょうか。また、叔父のゲシンが死去しましたことをお知らせします。別の治療師の手配にこの情報を役立てて頂ければ幸いです。

お詫びとともに セリス・オーブリー

 彼女は手紙に乾燥粉をまぶして編み紐で包みに結びつけ、窓から身を乗り出した。手のひらの中で羊皮紙が羽ばたき、生命を得たように動き出す。紙の翼は先端が青く輝き、魔法のきらめきをまとった。セリスが夜空へ手を掲げると、手紙は宛先をめざして飛び立った。カエ・フルーの街がある左ではなく、右へ。オーロラの方角へ。

 セリスははっと驚いた。ローウィンに住む相手に手紙を送るのは初めてだった。彼女は口の端を少し上げて笑った。まるで叔父が最後の贈り物を残してくれたかのようだった。

 絡みつくような森の中に広がる、荒廃した庭を彼女は見下ろした。そして自分が知る唯一の方法で、叔父のゲシンに恩返しをしようと決めた――この家に生気を取り戻すのだ。


 セリスは耳に紙が当たる音で目を覚ました。ぼんやりと起き上がり、目をこすりながら犯人を探す。

 寝台の柱に、一通の手紙が置かれていた。

 彼女は身を乗り出し、はためく羊皮紙を拾い上げると注意深く開いた。

待っていたのが解毒薬でなくて本当に良かった。もしそうだったら、今頃私は間違いなく死んでいただろう。

 セリスはその手紙に唖然とした。こんな返信を送ってくる? 地元のキスキンやボガートからであれば、こんな無礼もまあわかる。けれど話に聞くローウィンの民は親切で協力的で、そして……そして……

 彼女はひとつ鋭くうなり、机へ向かうと羽ペンに手を伸ばした。

ブレコン様へ

軟膏をお送りしたのは、ブレコン様が叔父の長年の知り合いであり、訃報をお知らせした方が宜しいと考えたからに他なりません。私はどうやら状況判断を誤ったようですので、この件は解決済みとさせていただきます。

敬具 セリス・オーブリー

 彼女は憤慨とともに手紙を折り畳み、窓から送り返した。怒りながら天井のキノコを剥がし続けて数時間後、ようやく返事が届いた。

何と都合のいいことか。ゲシンは私からのただ一度の願いを聞いてくれるどころか、死ぬとは。貴女の叔父上は卑怯者だ。

 セリスは愕然とした。ゲシン叔父さんを卑怯者呼ばわりするなんて。この見知らぬ男はただ間違っているだけではなく、ひどく無礼だった。セリスはこの返信をやり取りの最後にする気はなかった。

ブレコン様へ

叔父は、困っている相手を故意に見捨てるようなことは決してしませんでした。もし頼まれたことを果たさなかったとしても、叔父にはきっと正当な理由があったはずです。率直に申しますが、ブレコン様は叔父が気にかけるに相応しくないと私は考えます。

敬具 セリス・オーブリー

 自分の考えをはっきり文章にできたと満足し、彼女は手のひらから手紙がはためくのを見守った。さらに1時間ほどが経ち、レインからの返信が窓を通り抜けるか否かという所でセリスはそれを掴み取った。

私は彼が気にかけるに相応しくはないかもしれない。だが独りで死ぬに相応しいわけではないのは確かだ。

 セリスは驚きを顔に出さないよう必死にこらえた。こんな出来事を叔父が遺してくれるとは。まるで感傷的な舞台劇ではないか。

 この男は普通の軟膏を必要としているだけ。決して死にかけているわけではない。

 形を留めている書物の整理に没頭していた時、セリスはふと思い出した――オーロラの向こう側にいるエルフについて、叔父から聞いたことがあった。彼らは美と完璧さに執着し、外見が社会的地位を決定づけるほどなのだと。自分にとって体面は些細な問題だが、レインにとっては生死に関わるのだ。

 その考えに彼女は落ち着いた。もしかしたら、突き放しすぎたかもしれない。

 セリスは軟膏用の花について記された資料を探し、叔父が記した緻密な説明書きと極めて写実的な絵の頁をめくった。描かれた花の中には聞いたこともないものもあったが、周囲の森で簡単に見つけられるものもあった。そしてザルジアンスキアと呼ばれる花の絵に行きついた時、セリスは本を横向きにして欄外に書かれた叔父のメモを読んだ。

治癒の軟膏に最適。シャドウムーアでのみ生育可能。

 セリスは柔らかな毛に覆われた花弁の絵を指でなぞった。窓のすぐ外に何千と咲いている。だが聖遺がなければレインが手を届かせることはできないだろう――そもそも聖遺を持っていたなら、叔父の助けを求めようとはしなかっただろう。

 セリスに選択の余地はなかった。レインは虚勢を張っているのだ。そして自分は手助けをするのが性分だった。

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アート:Pauline Voss

 彼女は森へ入り、月明かりに照らされた林間で一握りのザルジアンスキアを摘み取り、深緑色の葉で丁寧に包んだ。そして札に短いメモ書きを刻んだ。

湯がいたものに油と蜜蝋を混ぜると軟膏ができます。来月またお送りします。

 寝台に潜り込もうとしたその時、ひらひらと舞う手紙が窓辺に落ちてきた。長くはない、だがほんの二文の手紙はあまりにも重く、セリスは胸に押し付けられるように感じた。

オーブリーさん、ありがとう。心から感謝している。


親愛なるセリス殿へ

教えて頂いた軟膏のより良い混合方法だが、大変参考になった。三度目の試作品は格段に質の良いものになるだろう。前回送ってくれた絵だが、貴女の予想通りスナップリリーはローウィン原産であると報告させて頂こう。かつて森の近くの草原に一面のスナップリリーが咲き誇っていた。だが数年前にオーロラが移動した際に村の半分が持って行かれ、花もまた蝕界へと失われてしまったのだ。代わりと言っては何だが、水車小屋の近くで今まさに咲いているアザミを見つけたので標本として同封する。叔父上の収集品の修復に役立つならば幸いだ。

幸福を祈って レイン


親愛なるレインさんへ

送っていただいた標本、本当にありがとうございます。叔父の飾り棚もだいぶ昔の姿に戻りつつあります。叔父はきっと、そのスナップリリーの草原がオーロラへと消える前に見ていたのでしょうね。ふふ。ところで、ひとつ疑問に思っていることがあります。叔父は境界が移動する前にローウィンにいて、レインさんもそこにおられたのであればつまり、お二方は昔からの知り合いだったということですよね。もし差し支えなければ、出会いのお話を聞かせていただけると嬉しいです。

謹んで セリス

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アート:Jason A. Engle

親愛なるセリス殿へ

貴女の叔父上と出会ったのは、オーロラが動いたまさにその日のことだった。私は森で狩りの最中だったのだが、その時境界が動き始めたのだ。急いで離れようとしたが、そのせいで油断してしまい一体のボガートに襲われた。どうにか撃退した時には、蝕界の奥深くに取り残されてしまっていた。ゲシンがいなければ戻ることは叶わなかっただろう。彼は私をローウィンへ連れ帰り、傷の手当てをしてくれた。数か月を経て私たちは友となった。私が他の友をすべて失ったのもその頃だった。私がゲシンに宛てた最後の手紙は友好的なものではなかった。それは後悔している。事実、貴女の叔父上がいなければ、私は今ここにはいないのだから。

真心を込めて レイン


親愛なるレインさんへ

ボガートに襲われたなんて、お気の毒です。レインさんが軟膏を必要とした理由を詮索したくはなかったのですが、もしオーロラの中で起こった出来事が理由だとしたら、命からがら逃げることができたのは本当に幸運だったと思います。叔父がよく話してくれたことがあります、蝕界に閉じ込められた生き物が石灰のようになる現象があると。完全なシャドウムーアでも完全なローウィンでもない、二重の性質に抵抗して起こるのだそうです。その結果として抜け殻と化した多くの植物を叔父は記載していました。レインさんがその恐ろしい運命を回避できたこと、私も嬉しく思います。気休めになるかどうかわかりませんが、叔父はレインさんからの最後の手紙を恨みはしなかったと思います。叔父はいつも赦しというものを信じていました。私たちが文通相手になったこと、そして私がここにいてレインさんの必要に応えることができていると知ったなら、きっと叔父は喜ぶと思います。

友情とともに セリス


 レインの羽ペンが羊皮紙の上に浮遊した。幾つもの言葉が脳内で跳ね返り、書き留めてくれと切望している。欲しいものはただひとつ、そしてそれを入手してくれるかもしれない者はただひとり。

 机の横の鏡に視線を移すと、懸命に消し去ろうとしていた自分の映し身があった。

 艶のある黒髪は肩のすぐ下まで波打って流れ、冠のような雪花石膏の角は先端が金色になって湾曲している。自身の黒い瞳の深淵を、そして顔に残る銀色の爪痕を見つめる。刺すような羞恥。石灰化した三本の線が額から顎にかけて伸びており、オーロラで起こった出来事の記憶を揺らめかせていた。その周囲の肌は白化して病的なまだら模様の灰色に染まり、触るとざらざらとした感触があった。

 このような姿でリス・アラナに戻ればどうなるかはわかっている。エルフたちはすぐさま自分を避け、目腐りと呼び、エルフ社会の最下層に押し込めるだろう。

 彼らに顔を合わせることはできなかった。故郷に戻ることもできなかった。廃墟となったキスキンの村に留まり、自分は死んだと知己に信じ込ませる方がましだった。

 指を襟の下に滑り込ませ、シャツの生地をめくる。首筋には、脈打つ血管のような黒い石の線が伸びていた。胸まで危険なほど近づいている。心臓に達するのもそう遠くない。

 レインの尖った耳が嫌悪に小さく動いた。羽ペンを握りしめたまま、鏡から顔を背ける。

 彼は何も書かれていない羊皮紙を再び見つめ、勇気を振り起こそうとした。ゲシンが拒否した唯一のものをセリスに願うことができるだろうか。アケノテブクロはこの病を治す唯一の薬だが、シャドウムーアでは神聖なものだった。

 かつてレインはそれを懇願した。命をかけて懇願した。だがゲシンは一顧だにしなかった。友の命よりも花の美を守ることに没頭していたのだ。ゲシンが去って事態は更に悪化した。レインにはもう、怒りをぶつける相手がいなかった。

 セリスに頼んでみてもいいかもしれない。もしかしたら、彼女ならば向こうのエルフの掟を破ることにも前向きかもしれない。だが断られたなら、怒りを彼女にぶつけてしまうかもしれない――またひとり、友を失うかもしれない。それは耐えられない。

 軟膏はもはや効いておらず、彼もまたそれを受け入れていた。運命を受け入れる時が来たのだ。まもなくこの傷跡は心臓まで石灰化させ、自分は死ぬだろう。

 だが少なくとも、最後の日々を独りで過ごさなくてもいいのだ。

 レインは額にかかる髪の毛を払い、書きはじめた。

親愛なるセリス殿へ

ご厚意に深く感謝する。実のところ、必要なものは満ち足りた。とはいえ貴女からの手紙を読むのは大変楽しみなので、好きなだけ送って頂きたい。礼として、ローウィンの野花をできる限り沢山贈ると約束しよう。

貴女の友 レイン


親愛なるレインさんへ

その約束を後悔することになるかもしれませんよ? というのも最近、目標ができたんです。叔父の飾り棚をシャドウムーアの花探しさんたちの羨望の的にするっていう。レインさんは私とローウィンとの唯一の繋がりなので、これからはもっと頻繁にお手紙を書くことになると思います。覚悟しておいて下さいね。シャドウムーアのエルフにとって、収集というのはとても重要なことなんですから。

愛をこめて セリス


親愛なるセリス殿へ

そう言ってくれることを期待していたのだ。

我が君へ レイン


 黒蔓は家の中から一掃され、痕跡すら残っていなかった。戸棚には植物の標本が詰め込まれ、日誌は年ごとに並べられ、開いた窓からは花盛りの庭の香りが漂っていた。夜に咲く花の芳醇な香りだ。

 セリスは自分の日誌に数行のメモを書き、穏やかに鼻歌をうたっていた。その時ツリーフォークの遠吠えが遠くで聞こえ、はっと驚く。肘が机にぶつかり、乾燥粉の瓶が倒れて転がり落ちた。

 ガラスが砕け、床に散らばった。

 セリスは破片を片付けようと屈み、そこで緩んだ床板の隙間へと粉が落ちていくことに気づいた。眉をひそめ、指を隙間に差し込んで床板をはがす。隠された隙間に、蔓を編んだ布で包まれた袋が隠されていた。

 彼女は結び目を緩め、はっと驚いた。中には一通の手紙が入っていた――そしてアケノテブクロの花柄が一本。

 どうして叔父はこんなものを? セリスの頭に不安がよぎった。どんなに熱心な花探しであろうと、こんなにも貴重な花を抜くなど夢にも思わないだろう。

 彼女は震える手で手紙を広げた。筆跡は明らかに叔父のものだった。

親愛なるレインへ

君が欲しがっているものは持っている。だが君は

理解して欲しい、誰にも知られてはならないことの重要さを

ここには規則がというものがあり、私がこれを君に送れば

どうか私を憎まないで欲しい。すまない。

 これもまた、レインに宛てたものの送られなかった手紙。

 不意にセリスは立ち上がり、引き出しの中を漁り、やがて二通の手紙を手に取った。そして光にかざして一字一句を見比べた。

 レインが送って欲しいと叔父に頼んだのはこれだ。そう気づき、戸惑いとともにアケノテブクロを見つめる。そして叔父は、何もかもを危険にさらしても、これをレインに送ろうとしていたのだ。

 ただ……何も送らなかった。花も、断りの返事も。

 決心がつかなかったのだろうか? アケノテブクロは神聖な植物だ。その完全さを損なってもいいのかと迷っていたのだろうか?

 もしそうだとしたら……レインがアケノテブクロでしか治せない病気にかかっていたとしたら……それはつまり……

 セリスの手から二通の手紙が滑り落ちた。

 彼女は羊皮紙を掴み、今までで最も速い走り書きをした。

レインさん、死にかけているのですか?

 そのメモは青い塵をまといながら窓の外へ飛び出した。セリスは椅子に座り、怯えながら待った。動いたなら、肋骨の奥から湧き上がる上げる恐怖に圧倒されてしまいそうだった。

 一時間も経たないうちに、目の前の机に返事が置かれた。

その通りだ。

 喉の奥に何かがこみ上げてきて息が詰まる。袋を見つめていると、涙が滲んで視界が曇った。叔父はアケノヒカリを摘み取った、それがいかに悪いことかはわかる。今なおそれを隠し通すのがいかに悪いことかもわかる。それは自分たちエルフが信条とするあらゆるものに反する行いだった。

 叔父が何を盗んだのかが世間に知れ渡れば、残した遺産も評判も台無しになってしまうだろう。

 だがレインは……

 かつての叔父と同じ二律背反に直面し、皮膚がかっと熱くなる。どんな選択をしようと、自分の良心の一部を裏切ることになるのだ。

 羞恥が心臓を締め付けるようだった。息ができなくなるほどに。

 本当のことを教えて欲しかったです。彼女はそう書き、折り畳まれた羊皮紙が木々の先へと消えていくのを見守った。


 胸は絶えずぎしぎしと鳴っていた。まるで肺に砂が詰まったようで、息を吸うたびに軋んだ。セリスからの手紙に返信しようと力を振り絞ったが、枕から頭をわずかに上げることしかできなかった。

 もう時間は残されていない。

 再び咳の発作に襲われ、腹筋が痙攣する。それが治まると彼は寝台の端からどうにか降り、書き物机の椅子に倒れ込んだ。鏡は無視した。血色の悪い頬を見たくはなかった。

 羽ペンをしっかり持とうと力を込め、レインは最後の手紙を書きはじめた。

親愛なるセリス殿へ

貴女の言う通りだ。伝えるべきだった。だが言いたくなかったのだ。貴女は私の傷跡の真実を知らない、だから今の私ではなく、かつての私を想像していたことだろう。私はそれが嬉しかった。これを書いている今、告白したいことがある。数週間前にふと気づいたのだが、私は貴女の容姿を全く知らない。尋ねたことすらない。だがもっと驚いたのは、私自身がそれを気にしていなかったことだ。貴女がどのような容姿であろうと、私が貴女へと抱く感情には何の影響もない。セリス殿、貴女は私の日常の中でも最高の存在だ。確かに、叔父上には感謝している。だが残された時間は、貴女と出会えたという宝を大切にしたい。どうか心配しないで頂きたい。死ぬことは恐れていない。ただ、死ぬことで貴女を失うのであれば、それは悲しいというだけだ。

敬具 レイン

 はためく羊皮紙が雲の彼方に消えていくのを彼は見送った。陽光が額を温め、彼は窓枠を両手で掴んで立ったままでいた。だがやがて耐え難いめまいが襲ってきた。そうしてようやく、彼はゆっくりと寝台に戻った。毛布にくるまることすらしなかった。

 瞼が重くなってくると、彼は指についたインクの染みを思い浮かべた。それは永遠に残るであろうセリスの思い出だった――そして暗闇に飲み込まれる前に、最後の微笑みを浮かべた。


 唇に何か冷たいものが押し当てられた。霊薬が舌の上を転がり、一滴また一滴と飲み込む。やがて全身の筋肉が落ち着いていった。この数年で最高に力強さを感じた。満足感があった、死の中でもなお。

 瞼がはっと開き、レインは寝台の上に浮かぶ見知らぬ姿に視線を集中させた。エルフがひとり……だが何かが違う。

 その女性の髪は純白で、腰まで届く長い三つ編みに結われていた。淡い桃色の肌は、渦巻いて頭頂部の角を飾る棘茨よりもわずかに明るい。衣の上にまとう薄紫色の外套は花弁を何枚も重ねたようで、ゆるやかに床まで伸びていた。

 彼女が片手に持つ鉢には香りを放つ液体がなみなみと入っており、もう片方の手には壊れたランタンが握られていた。その光は途切れ途切れで、まもなく消えると警告していた。

 レインは弱まりゆく光を見つめ、だがすぐに視線をその女性に戻した。暗い色をした瞳の奥には不安が、恐怖が、そして希望があった――そのすべてが自分に向けられていた。

 胃が締め付けられた。この女性が今、自分を見つめている様子は……

 「セリス殿?」驚きの中、彼はかすれた声で尋ねた。寝台の端から足を下ろし、長く忘れていた身軽さで身体を伸ばす。そして危うく転びそうになり、レインは彼女の肩を掴んで留まった。「ここで……何を?」

 セリスは小さくうつむき、そしてその両目が曇った。「死なせたくなくて――」手にした鉢が滑り落ち、床で大きな音を立てる。彼女は即座に後ずさりし、鋭い歯の間で息を鳴らしながらレインの手を振り払った。「触らないで!」嫌悪に満ちた表情。

 レインはすぐに身体を引いた。彼女が傷跡を見つめるのがわかり、顔をしかめる。その視線を受けるのは、まるでボガートが再び自分の肉を切り裂いているようだった。彼は片手を上げて顔の側面を隠した。

 だがセリスは困惑したように眉を緩めた。「そんな……つもりじゃ。どうしてそんなこと言ったの……本当にごめんなさい、レインさん。私はただ……」彼女はうつむいた。床の割れ目から、こぼれた液体が流れ出ている。「効果はありましたか? 足りましたか?」

 ようやくレインは理解した。手を下ろして答える。「私にアケノテブクロを飲ませてくれたのだな。オーロラを横切って来てくれたのか」

 「生きていて欲しかったんです」セリスは息を震わせた。その時ランタンが鋭くちらつき、彼女は歯をむき出しにした。「あなたなんて、死んだ方がいいのよ!」

 レインは消えゆくランタンの光を見つめた。「その聖遺は……壊れているな」

 彼女はその言葉を無視して侮蔑をぶつけた。「追放されるのが怖かったのね、当然だわ! 本当に醜いんだもの!

 他の誰かにそう言われたのであれば、傷つき苛立ったかもしれない。だがセリスは泣きそうな顔で、真の性格とモーニングタイドに囚われ歪んだ姿との不調和に葛藤していた。それを見てレインが感じたのはただ不安だけだった。彼女の肌は、レイン自身が経験したことのないほどの速さで、まだら模様を帯びつつあった。

 自分が蝕界にとらわれたのはほんの僅かな時間だったが、セリスは完全に境界を越えていた。そして抵抗すればするほど、影響は急速に広がっていくようだった。

 もし彼女がローウィンに長く留まったなら……

 「セリス殿」彼は硬い声で言った。「すぐにシャドウムーアに戻るのだ」

 彼女は混乱から頭を抱え、自らの恐ろしい思考を振り払った。「そんなつもりじゃなかったんです、レインさん。醜くなんてありません。レインさんは――」そして首を引っかくと、息が詰まるような音とともにその言葉が途切れた。

 レインは咄嗟に飛び出し、倒れこむセリスを両腕で受け止めた。そして罵詈雑言を浴びせ続ける彼女を胸に抱き寄せる。「大丈夫だ」レインは彼女の額へと囁いた。「私が向こうまで届ける。だから心配するな」

 セリスを両腕に抱きかかえ、レインは精一杯の力を振り絞って家から飛び出した。誰もいない村を駆け抜け、未舗装の道を進み、森へと続く石畳の橋を渡った。

 オーロラはまるで画家の筆のように木々の間を動き、周囲のあらゆる色を取り込んで揺らめき、ついには影の中へとぼやけた。それはいかなる自然の法則にも屈しない、予測不能なエネルギーがもたらす力だった。

 セリスは相対するふたつの自身に苛まれ、その身体には石のような変色が急速に広がりつつあった。蝕界の中に踏み込みすぎたならどうなるかをレインは知っていたが、気にはしなかった。

 セリスを無事に家に帰らせたい、その想いだけがあった。

 「心配するな」彼女がまたも謝るのを聞きながら、レインは言った。「もうすぐだ」

 セリスの身体が次第に重くなっていった。下を向けば彼女の肌の変化を見てしまう。レインはそれを拒むように、近づきつつある境界線へと意識を集中させた。オーロラの中に足を踏み入れた瞬間、セリスの身体が強張った。レインはよろめきながら前に進み、固い地面に膝を打ち付けながらも彼女を放すことはなかった。

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アート:Ovidio Cartagena

 レインは恐怖に震えながら見下ろした。セリスの腰から下は、石と化していた。

 「そんな」彼は目頭に痛みを感じた。「貴女を失いたくはない。こんな形で失いたくはない」

 セリスは顔を上げた。自分の心を再び取り戻し、レインへと手を伸ばして顎の先端を包み込む。「こんなこと言っても意味はないかもしれませんが、その傷跡、綺麗だと思います。そちらの世界では隠さなければいけないなんて、残念です」

 レインは額を彼女の額に押し当て、血流を駆け巡る石灰化の波を感じた。もはや慣れ親しんだようなものだった。だが今回は、長年苦しんできた緩慢な毒とは違っていた。洪水のように襲いかかり、血管を駆け巡り、心臓へと突き刺さり、何年も前に始めたことを終わらせようと躍起になっていた。

 「行って下さい」今わの際のような息。

 レインはかぶりを振った。鼻先がかすめて触れ合う。「貴女をここで独りにするものか」

 セリスも応えるように瞬きをした。その目の輝きが曇る様子を彼は見つめた。

 彼女の隣で身体の石灰化が始まっても、レインはひるまなかった。ただセリスを強く抱きしめ、その顔の滑らかな曲線をすべて記憶しようとした。最期の吐息をオーロラが飲み込むと、羊皮紙のはためく音は彼の記憶の中で子守唄となった。

 レインとセリスが互いの腕の中で石に変わると、霧とホタルの光が周囲の風景をぼやけさせ、ふたりを静かな抱擁の中に包み込んだ。

 ふたつの世界の狭間で永遠の眠りを、共に。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)


※本稿のタイトルに用いた「生い出し花や、呪われの」は、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕第一場(『シェイクスピア全集6 悲劇1』中野好男 訳/筑摩書房)から引用したものです。

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