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MAGIC STORY
ローウィンの昏明

第7話 魔法はすぐ解ける
2025年12月16日
流れ落ちる夜闇を貫いて、鐘の音のような吠え声が響き渡った。暁の合唱がひとつの音へと押し込まれたかのような、甘美で奇妙な響き。朝のあらゆる細事が凝縮された音。長く澄み渡り、そして逃れることはできない。キーロル、ルーウェン、そしてサナールはその場に立ち尽くした。イシルーの身体が自分たちと仲間をまだ隔てている。キスキンとエルフたちも至る所で戦いを中断した。ある者は凍りついたように動きを止めた。またある者は武器を落として膝をつき、昼光の咆哮へと顔を向けた。
オーコも落ちてきた。空中で姿を変え、手のひらほどの妖精からエルフあるいは人間ほどの男性となって着地する。顔には緑色の筋が走り、むき出しの胸にぼろぼろの上着をまとっていた。希望と悲嘆が入り混じった表情で、彼はその声へと向き直った。
「今なのか? 今、私たちのところへ来るというのか?」
イシルーの向こうでライズも顔を上げた。彼は動かないマラレンの傍らに膝をついていた。マラレンの呼吸は刻一刻と浅く、弱弱しくなっていた。アジャニは今もタムの隣に屈み込んでいた。癒しの力に白く輝くその両手は、まるで骨に蛍が詰まっているかのようだった。アシュリングは更に眩しく輝きながら、奪った槍を手に地平線を見つめていた。鐘の音に洗い流され、その炎は青と赤に揺らめいていた。
そしてイシルーが、夜の偉大な獣が頭をもたげた。
地平線上に黄金色の輝きが現れた。その光は昇る太陽のように次第に明るさを増し、やがてエイルドゥが姿を見せた。警戒を解いた獣のように、その足取りはゆったりと長い。六本の大きな脚を軽やかに動かし、頭上に抱く太陽がイシルーの夜を深淵まで照らす。光が降り注いだ場所では、闇溜まりが追いやられてローウィンの眩しい太陽が取って代わった。長く棘のある尾はイシルーのそれほどの重みはなかったが、それでもその跡に日光を引きずっていた。エイルドゥが通過すると、昼夜の均衡は再び陽光が降り注ぐ時間へと傾いた。
オーコはその光から軽やかに後ずさり、今なお平原に点在する影の中に避難場所を求めた。それらは黒く枯れた薔薇から落ちた花弁のようだった。
小さな影がひとつ、エイルドゥの傍らを飛んでいた。それは茶色の翼を大きく広げ、昼のエレメンタルの頭上を旋回していた。その姿はローウィンとシャドウムーアの住民にとっては馴染みなかったが、キーロルは笑顔を弾けさせて背筋を伸ばした。そして空を飛ぶ乗り物を呼び止めようとするかのように、腕を頭上で振り回した。
「アビゲール! アビゲール、こっちだよ!」
「聞こえないよ、わかってるくせに」サナールが言った。
「そうだけど!」キーロルの声には喜びが溢れていた。「でもアビゲールも生きてたよ! そのうちボクが手を振ってるのが見えるはずだよ!」
ゆっくりと接近してくるエイルドゥの明るさを考えると、そう断言できるかどうかは怪しかった。アビゲールの目は琥珀色、薄明薄暮性のオーリンである証拠だ。彼女は眩しく澄んだ昼の光ではなく、朝夕のそれに適応している。それでもアビゲールはそのまま近づいてきた。重々しく必然であるかのように、エイルドゥもまた。
エイルドゥの光が3人まで届いた。サナールに腕を掴まれてキーロルは驚いたが、手にしたアケノヒカリの薬瓶を意味ありげに見つめた。そしてサナールの視線を追い、きらりと目を光らせた。
「行かないと」
「ああ、オレたちも行かないと」
「どこへ行くというのだ?」ルーウェンが尋ねた。
「女王様を救いにだよ」
ルーウェンはすっかり困惑した様子だった。「女王様に『お目通りする』と言わなかったか?」
「両方できるよ」キーロルはそう言い、アビゲールとエイルドゥに背を向けると最初に来た道を引き返していった。
3人が駆けていると、オーコが影の中から現れた。「手に入れたのか?」
「やりました」キーロルが薬瓶を掲げて言った。
目にもとまらぬ速さでオーコはそれをひったくった。その動きはほとんど見えないほどで、気づいた時にはその貴重な毒薬の入ったガラス瓶をしっかりと握りしめていた。彼はまるで嘲笑うかのように3人に頭を下げ、急に小さくなった身体を翼で支えながら再び飛び立った。妖精としての姿よりも、アケノヒカリの薬瓶の方が大きく見えるほどだった。オーコは宙で回転すると勢いよく飛び去り、イシルーがまとう影の中へとたちまち姿を消した。
残された3人はしばし見つめていた。
「今のは誰だ?」ルーウェンが尋ねた。
キーロルが答えた。「長い話になるんだよ。行こう」
希望が手を離れた、あるいはひったくられた今、3人はそれほど焦ることなく歩みを進めた。
革靴の足で着地すると同時に、オーコは人間の大きさに戻った。アジャニは緊張こそしたものの、不意にオーコが目の前に落ちてきてもひるまなかった。オーコはタムを短く一瞥すると、手にした薬瓶をレオニンのプレインズウォーカーへと突きつけた。
「妹を」彼は横柄な、冷たい声で言った。「妹を助けろ」
だがアジャニは答えた。「私はこの子を救うので精一杯です。ここまで難しいはずはないのですが、治癒の自然法則がこの子の傷を捉えられないようなのです。ただの矢です。一本の矢から受ける傷と痛みをはるかに超える治癒を施したのですが、それでも出血が止まりません。妹さんの方はご自身でお願いできますか」
「ローウィンとシャドウムーアの魔法は物語によって力を得ている。今私たちがいる物語は、死と傷と痛ましい犠牲の物語だ。その娘を生かしたいのであれば、女王を救わねばならない」
「その女王は、もう救えないかもしれない」ライズが言った。
オーコは瞬時に両目を見開いて振り返った。そして互いを隔てる溝を飛び越え、マラレンの隣に膝をつく。「駄目だ。信じるものか、妹の物語がこのように終わるなどとは。こうして見つけたのだから、妹は離さない。逃げて行かせはしない。見捨てはしない……そう、シャドウムーアの生き物は昼間の自分自身を覚えていない。だが私は覚えている。そして向こうの私は、息子を見捨てた。彼には息子がひとりいたが、見捨てた。愛した者をことごとく捨てた。私も妹も、逃げた時に創造主である母を捨てた。夜であろうと昼であろうと、私は妹を見捨てるつもりはない。妹だけは失いはしない」
彼はマラレンに近寄り、動かないその頭の下に片手を優しく差し込んだ。そして抱き寄せながら、アケノヒカリの薬瓶の蓋を親指で弾く。ライズはそれを止めようとはせず、恭しく距離をとった。オーコは睨みつけるような視線を投げかけた。
「何と残酷な世界だろうか、私のような者に英雄を演じさせるとは」オーコはマラレンの唇へと薬瓶を運び、細心の注意を払って傾けた。ほんの数滴だけが口の中に落ちた。
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| アート:Quintin Gleim |
マラレンはもはや嚥下すらできないほど弱っていた。だがアケノヒカリは舌を伝って喉へと流れ、彼女は咳き込んだ。その音は小さく弱弱しく、かろうじて聞こえる程に過ぎなかった。それでもこれまでのマラレンの静けさを考えたなら、世界で最も大きな音だった。
「いい子だ」オーコは薬瓶を少し傾け、アケノヒカリをもう数滴落とした。
この時マラレンは自力で飲み込み、かすかに開いた両目からは金色に輝く欲求が漏れ出ていた。片手を上げ、薬瓶を口へ押し込もうとするかのように動かす。だがオーコはそれを静かに引いた。マラレンに抵抗する力はなかった。
「いけない」オーコはあくまで少しずつ、アケノヒカリを彼女の口へと注いでいった。マラレンは嚥下を続けた。両目の金色は薄れ、薄紫と青色が渦巻く。「弱っているのだから、ゆっくり飲まなければいけないよ」
マラレンは飲み、顔をしかめ、だが今回は薬瓶に触れようとはしなかった。両目が再び閉じられた。腕の切り傷にはまだ花弁が滲んでいたが、その勢いは弱まって代わりに樹液が滲み出てきた。濃厚な黄金色で、血のような赤い筋が入っている。オーコはそれを見て安心したように頷き、ライズへと視線を向けた。
「この子は私たちの創造主にして母ではない。ウーナの生まれ変わりでもない。私が置いてきた妹でもない。朝の歌のマラレンなのだ。これまでもこれからも、そして朝の歌のマラレンであるということが意味するすべてもまた。どれほど変化しようとも、この子は完全な妖精には二度と戻れない……私と同じように。唯一残念なのは、この子が私と同じ選択をしなかったことだ。逃げるのが叶わなかったことだ」
「僕を僕でないものに変えるつもりなのか?」ライズが尋ねた。先程、自分たちを攻撃してきたエルフの狩人がどうなったのかを彼は見ていた。
オーコは首を横に振った。「私の妹に背いた者よ、お前は既にお前のあるべき姿ではない。お前は生きている。ずっと昔に死ぬはずだったが、生きている。今更私がそれを変えるつもりはない。お前は暴君を滅ぼそうという意志で行動した。少なくとも、その点は私も評価しよう」
騒々しい足音が聞こえてきた。キーロルとルーウェン、そしてサナールが夜のエレメンタルの脇腹を迂回して現れ、そして急いで立ち止まった。3人は息を切らしながら目の前の光景を見つめた。マラレンは再び片手を上げ、オーコの手を掴むと薬瓶を自分の唇に近づけた。今回彼はそれを許し、マラレンの表情を見て小さく笑った。
「欲張りだな」半ば叱責しながらも、彼は飲みやすいようにと薬瓶を傾けた。アケノヒカリは半分以上がなくなっていたが、マラレンはまだ飲み続けていた。
事態はオーコが上手く収めてくれると判断し、キーロルとサナールはアジャニの隣に膝をついた。このレオニンは今なおタムを治療しようと奮闘していた。一方でルーウェンはオーコを見つめたままでいた。
オーコは片方の眉を上げて尋ねた。「何か?」
「知らない奴だな」
「知らないのも当然だ。お前は一介のエルフなのだから」
「だが知っている気がする」
オーコはにやりと笑った。「誰もが私を知っているはずだ。私はこの次元が生み出した最も重要な者なのだからな」
「そう言うならそうなんだろうな。その女性は大丈夫なのか?」
「『その女性』とは私の妹だ。朝の歌のマラレンにして、ローウィンとシャドウムーアの妖精たちの女王だ。エルフの姿は外見だけに過ぎない。そして、大丈夫だろう。私の手首を折ろうとしている様子から判断するに」
オーコは不機嫌そうな視線をマラレンに向けた。彼女は兄を横目で見ながらも飲み続けた。アケノヒカリはほぼ空になり、マラレンの腕の傷からは今や血だけが流れていた。それは柘榴石や紅玉のように赤く、花弁の痕跡はすっかり消え失せていた。
「もういいだろう」彼はそう言って薬瓶を離した。底にはアケノヒカリがわずかに数滴残っている。マラレンは不満そうに高い声を発したが、兄を引き留めはしなかった。オーコは立ち上がって背筋を伸ばし、アジャニへと向き直った。
「その娘の魔力がお前に抵抗している。その娘は夜に傷を負い、朝日が近づく音が私には聞こえる。曙光の精髄は役に立つだろうか?」
「かもしれません」アジャニは疲弊した声で言った。
オーコはアジャニに近づいた。「マラレンはもう心配ない。そして夜からの賜物を無駄にするのは好ましくない。これを渡すのは実用的だからというだけだ。親切と勘違いしないでもらおう」
「しませんよ」アジャニは薬瓶を受け取り、その中身をタムの傷口へと注いだ。再びそこに手を当てると、輝きが先程よりも増した。
サナールとキーロルは目を大きく見開いてそれを見つめた。
「オレ、何もできないなんて」
「タムを爆発させるよりずっといいよ」
遠くでエイルドゥが再び鳴き、最初の陽光が一同の顔を撫でた。
イシルーは頭をもたげ、冬の風のように柔らかな声を立てた。そして重々しく立ち上がり、全員を見下ろした。ライズはひるんだ。
「もし昼と夜のエレメンタルが戦えば、僕らは潰されるぞ」
アシュリングはずっと押し黙っていたが、肩の力を少し緩めると近づきつつある朝に顔を向けた。「戦いは終わり、朝が来る。朝の歌が再びうたわれる」
エイルドゥが鳴き、イシルーが応える。エレメンタルたちの呼び声は、曙光と薄暮が、夜明けと黄昏がぼやけて震える調和を作り上げた。
そしてエイルドゥはさらに近づいてきた。
イシルーは尾を振りながら立ち上がった。アビゲールが降下してキーロルとサナールの隣に着地し、短い挨拶を送った。夜のエレメンタルはそのまま動かずにいた。エイルドゥが前脚を広げて頭を地面まで低く下げ、頭頂部の太陽が全員の目を眩ませてもなお動かなかった。
イシルーはお辞儀を返し、そして相手に飛びついた。エレメンタルたちは格闘を始め、二足歩行の小さな者たちから次第に離れていった。その様子は戦いのようでもあり遊んでいるようでもあり、慎重に互いを気遣っているのがわかった。マラレンはよろめきながら立ち上がり、息を呑んだ。
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| アート:Justin Gerard |
彼女は呟いた。「平衡がここに」
オーコは彼女の肩に腕を回して支えた。「平衡は今までも、ずっとここにあったのだ。私たちの創造主のように小さな者は、ただ小さすぎて見えなかっただけで」
そしてエレメンタルたちは互いから離れ、まるで捕食動物が威勢を示すかのように、世界中へと自分たちを見せつけるように円を描いて闊歩した。エイルドゥがふと立ち止まり、タムへと屈み込んでその頭部を寄せ、夏の午後のような強風を吹きかけた。陽光に焼かれた草と咲き誇る野花の、暖かな香りに満ちた風だった。アケノヒカリの雫が傷口に流れ込んで紫と金色の光を閃かせ、アジャニの手の輝きを覆い隠した。するとタムは咳き込みながら身体を起こした。だがサナールが飛びついて彼女の首にしっかりと腕を回すと、その勢いに再び倒れ込んだ。地面に叩きつけられて彼女は驚きに髪をうねらせたが、やがて目を閉じてサナールを抱きしめ返した。
エイルドゥとイシルーは旋回を続けた。時に片方が手前に出ると見せかけ、もう片方も嘲るように後退する。キーロルは背筋を伸ばし、アビゲールを見つめた。
「何があったの?」
アビゲールは聞こえていると示すように顔の羽を平たくし、手話で答えた。“川に落ちて水に引きずり込まれて、上がれなくなってしまったのよ。とても怖かったけれど、泡の魔法で呼吸をすることはできた。力を抜いて流れに身を任せていたところで、マーフォークさんたちに出会って。あの昼のエレメンタル……エイルドゥは眠っていて、マーフォークさんたちはそれを守っていたの。エイルドゥの傍にいる限り、どんなに夜が深まってもマーフォークさんたちは変化しないでそのままだった。そしてそれが大切なことだったみたい。この次元の皆は昼と夜とで記憶が途切れてしまうから、物語も砕け散ってしまうのよ”
「うん。それで何があったの?」
彼女はキーロルを見て、頭頂部の羽を逆立てて苛立ちを示した。“それを伝えようとしているのよ。聞いているの?”
「ごめん」
アビゲールは指をさした。その先で、二体のエレメンタルが旋回を続けながらもじゃれ合っている。“エイルドゥは眠っていたわ。マーフォークさんたちが私をそこへ連れて行くと、私の服にイシルーの匂いがついているのを嗅ぎ取ったのね。目を覚まして、私が出発しようとしたらついて来たのよ。エイルドゥは均衡の乱れを正そうとしているってマーフォークさんたちは気づいて、私がはぐれた場所まで川を遡るのについて来たの。そこでエイルドゥは水から出て、今度は私がエイルドゥを追いかけてこの戦場まで来たというわけ。そちらは何が起こっていたの?”
「終わらない昼をもたらすために、エルフがイシルーを毒で殺そうとしたんだよ。ボクはその毒を手に入れる手伝いをさせられたんだけど、新しく友達になったルールーがそれを取り返すのを手伝ってくれたんだ」
“そうだったの”
一方タムはサナールへの抱擁を解き、立ち上がろうとしていた。だが彼女が倒れたならすぐにでも受け止められるようにと、サナールはその小柄な身体ですぐ傍にいた。アジャニもまた、疲弊しきった様子で立ち上がった。彼はよろめきながらアシュリングに近づき、アシュリングは今なお燃えながら礼儀正しく頷いた。
彼女は尋ねた。「戦いは終わりってことでいいのかしら?」
「そのようです」アジャニは辺りを見回した。エルフたちは撤退していた。ある者はローウィンの姿で、そうでない者はシャドウムーアの姿で。昼と夜のキスキンは疑念の視線で睨み合いを続け、境界線の付近を行き来していたが襲いかかろうとはしなかった。ほとんどの視線はエレメンタルたちに向けられていた。二体は戯れ、地面に溝を刻みながらも負傷者や死者を決して痛めはしなかった。その動きには目的があった。表現できない方法で周囲を尊重しているかのようだった。それは美しかった、ありえなかった。
美しい、ありえない舞踏。踊りながら、エイルドゥはイシルーの顔に鼻を擦り付けた。イシルーは大きなあくびで応えると前足で地面を掻き、それから踵を返すと来た道を戻り始めた。キスキンの村とその先の森、あの洞窟へと続く巨岩の門へ。オーコは微笑みながら、去りゆく夜のエレメンタルを見ていた。地面にこぼれた闇が飾り帯のように広がり、薄明りを残していった。
夜の帯が解けると、変化していたキスキンたちは元の姿に戻った。死体は地面に横たわったまま姿を変え、同胞たちが涙ながらにそれらを回収していった。棘の角を抱くシャドウムーアの姿に変わっていたエルフたちも元に戻り、困惑した様子で周囲の光景を見つめた。
戦場の隅に立つ一頭のヘラジカはそのままの姿で、不安そうに耳を動かしながらかつての仲間たちの様子を見つめていた。エルフのひとりが弓を拾い上げ、ヘラジカに狙いを定めた。ヘラジカは踵を返し、戦場を後にして走り去った。
マラレンは一歩離れて兄へと向き直った。その瞳にはまだ曙光が滲んでいる。彼女は小さな声で言った。「おかえりなさい。戻ってきてくれるとは思わなかったわ」
「謝りはしないぞ」オーコは警告するように言った。
「謝ってくれなんて頼んでいないわよ。ただ、帰ってきてくれて嬉しいだけ」傷を負い、あるいは困惑した一行へと彼女は向き直った。「私は血の中に朝を抱いて生まれました。ですが今はそこに、黄昏と暁も混じり合っているのがわかります。はっきりと。夜のエレメンタルは、馴染みない皆さんの夢に傷つけられて目覚めました。皆さんに悪意がなかったのは言わずともわかります。エルフは……彼らが均衡と戦うのは、それが彼らの本性だからです。あらゆるものは、ある程度において対立するのです。本性に従ったからといって、罰することはできません」
「僕を罰することはできるよ」ライズの小さな声。マラレンは振り返り、彼と向き合った――ライズの幻触は、夜が昼に代わるとともに消え去っていた。折れた角を隠そうともせず、世界を救うために彼が払った代償を思い起こさせていた。あれは英雄的行為が今よりもずっと容易に理解され、季節のように単純で、夜明けのように避けられないものだった時代のこと。
「あなたを罰したくはないわ。友達だもの。いつも私を支えてくれたでしょう。あなたは……ただ私が願ったことをしてくれただけなのに」
「約束は守った。君に切りつけるのは辛かったけれど、約束は守ったよ」
「そうね」マラレンは突然の不安に駆られた。「ライズ、新しい約束をしましょう。古い約束は……もう感じられないの。あなたはもう私の魔法に縛られてはいないのだから」
「魔法なんてなくとも、友達でいられるよ。この先も僕を信頼してくれるなら」
「マラレンが言っている意味は違うのよ」アシュリングが踏み出て言った。「狩人ライズ、あなたはローウィンで生まれたエルフよ。あなたの季節は短く、花の盛りはもっと短い」
ライズは一瞬戸惑ったようだったが、マラレンに視線を戻した。「君の魔法に縛られなければ、僕は死んでしまうのか?」
「そうよ」マラレンは悲嘆を込めて言った。
だがマラレンが驚いたことに、ライズは向かってくるとそのまま両腕を彼女の肩へ回し、固く抱き寄せた。オーコはたじろいだ。マラレンは眉をひそめたが、慎重にライズへと抱擁を返した。
「ありがとう」そう言うとライズは彼女を解放し、一歩下がった。「ありがとう。本当にありがとう」
「もう一度妹に触れてみろ。四つ足で歩く気分を味合わせてやる」オーコが冷たい声で言った。
「やめて」
「その必要はないよ。けれど教えてくれてありがとう」
「やめて」マラレンは同じ言葉を今度はライズに向けた。
この一件を見守っていたタムが顔をしかめ、小声で尋ねた。「何が起こっているの?」
「女王様の魔法があのライズってエルフを維持してきたんだ、ずっと長いこと」サナールが言い、手を伸ばしてタムの手をとった。「もう、そうはならないんだ」
「どういう意味――」タムは言葉を切った。イシルーが立ち去るのを見届けたエイルドゥが、ライズたちの背後に座り込んでその巨大な頭を彼に近づけていた。
ライズはそれを見て蹄の足で爪先立ちになり、目を閉じると自分の額でエレメンタルのそれに触れた。
「ありがとう、エイルドゥ。温かさと光をありがとう。マラレン、友情と誓約をありがとう。そして皆、君たち全員、マラレンを救ってくれてありがとう」彼はエレメンタルに背を向けながら目を開けた。
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| アート:Kai Carpenter |
「さようなら」その言葉とともに、風がライズの姿をかき消していった。その身体が花弁と化して散っていく――アケノテブクロとツキノテブクロ、リンゴの花、それらは一枚ごとに色褪せて薄くなり、やがて彼の姿は完全に消え去った。エイルドゥだけがそこに座していた。
マラレンは鋭く嗚咽をもらし、オーコへと振り返った。殴られるのではと彼は後ずさったが、そうではなくマラレンは兄へと抱きついた。「ライズがいなくなったのは、その時が来たから。私に、もうライズは必要ではなくなったから」涙にその声は詰まっていた。「私は堂々と、自分自身として女王でいられる……だからここにいて、力を貸してくれる? そもそも、兄さんが統治するはずだったのだし」
狡猾な笑み。「皆もそれを喜ぶだろう、と? この地の小さく哀れな民は。だが私は自由を愛しすぎていて、束縛されるのは嫌なのだよ。それに私の存在意義を決めるのは私だ。ウーナではない」
マラレンは頷いた。「わかったわ。でも覚えていて。何があっても、エレンドラ谷には兄さんの帰る場所があるってことを」彼女はライズがいた方向を振り返った。「それに、ひとりでいるのは好きじゃないの」
ぎこちない抱擁の中ではあったが、オーコはマラレンの手をしっかりと握りしめた。
マラレンは兄へと顔を上げた。その表情には笑みと悲しみが同時に浮かんでいた。まるで昼と夜が混ざり合っているかのように。「ところで兄さん、息子を見捨てたってどういうこと? 一体どんな不始末をしたの?」
アジャニは生徒たちの背後に立った。この次元を訪れた目的を果たす時が来た。「そろそろ行きましょう。ついてきて下さい」彼は低い声で言った。
そして一行は立ち去った。
息を切らしながらも、ルーウェンは誰にも気づかれることなく木々の間をすり抜けていった。彼は白いライオン男と生徒4人の後を、安全な距離を保ちつつ追いかけた。高位完全者に歯向かい、そして自分を置いて帰るとはどういうつもりだ? 何もかもがどうでもいいとでも? 均衡は回復したが、その乱れによって生じた傷は依然として残っている。逃げなければならない。この奇妙なよそ者たちがどこから来たにせよ、逃げる先として文句はなかった。
タムは負傷からすっかり回復したようだった。彼女はアジャニの傍らを歩き、サナールはその反対側につき、キーロルとアビゲールがこの小集団の最後尾についていた。
アジャニが言った。「今のところ、この領界路は安定しています。これでシャンダラーまで行けば、アルケヴィオスへ繋がる別の領界路があります。タムさんと、皆さんの学友のアランドラさんはシャンダラーの出身ですね。道中で何か問題があれば、アランドラさんの父親が助けてくれるはずです。全員揃っていますか?」
「まだだ」ルーウェンは木々の間から姿を現して言った。全員が振り返って彼を見る。ルーウェンは一瞬、もっと見栄えの良い身なりで来ればよかったと後悔した。あの戦いで衣服は乱れ、泥で汚れている――だがそれは全員がそうだった。もしかしたら、完璧さや美というのは、時と場合による主観的なものなのかもしれない。「私を忘れているぞ」
「私は生徒さんたちを探すために派遣されたのです。君は違うでしょう」
「確かに。だがお前たちのひとりを助けてしまった。ここにいても殺されるだけだ」
キーロルが頷く。「だよね、あの完璧な女の人に殺されるよね」
「行き先は学校ですよ」アジャニが言った。「授業を受け、柔軟に耳を傾けることが求められる……」
「多次元間留学生受け入れ計画はまだ受付中よ」とタム。「登録できるかもしれないわ。この次元について知っていることを全部提供すれば、引き換えに奨学金が出るはず」
ルーウェンは期待を込めてアジャニを見た。
アジャニはため息をついた。「リリアナさんに領界路へそのまま蹴り落とされたとしても、それは私の問題ではありませんからね。さあ皆さん、行きましょう」
彼らは近くの木々の中に浮かぶ、奇妙な幾何学的模様をめざして歩いた。周囲の風景に織り込まれた螺旋模様とはおよそ調和していなかった。彼らは歩みを進めて通り、姿を消した。
遠くでエイルドゥが鳴き声をあげた。その音はローウィンの丘陵地帯と影の降りた森に、甘くも荒々しく響き渡った。
領界路を抜ける旅路は至って単純だった。虹色を帯びた奇妙な光の滝を通り抜け、彼らは海岸沿いのとある道に出た。波打つ青い海が目の前に果てしなく広がっている。空よりもわずかに暗いだけの鮮やかな青。タムは見上げ、大きく息をついた。
アジャニの手が彼女の肩に置かれた。「故郷に戻ってくるというのはいいものですね」
タムはアジャニを見上げ、弱弱しく微笑んだ。「そうですね」
ルーウェンはただ前を見つめていた。「これは……」
「新しい世界だよ」キーロルが言った。「ようこそ多元宇宙へ、ルールー」
ルーウェンはかぶりを振り、旅が再開されると引っ張られるがままに進んだ。
アルケヴィオスへと通じる領界路への道もまた単純で、一時間と少しの徒歩で辿り着いた。サナールは帰還後に食べるものを列挙し、皆それを面白がっていた。領界路が目の前に現れ、アビゲールは立ち止まって手話で伝えた。
一瞬おいて、彼女の言葉が全員の思考に響く。“私たち、怒られるかしら?”
「いいえ」アジャニが答えた。「大丈夫ですよ。行きましょう」
ひとつの世界を背後に残し、彼らは滝のように流れ落ちる光へと揃って歩みを進めた。
「本当に大変だったわね、お嬢さん」リリアナは執務室の席に座し、タムを睨みつけながら言った。「あなたはもっとましな方だと思っていたのだけど」
「あれは事故だったんです」タムにとっては、ローウィンで死にかけた経験よりもこの教授に叱られることの方が明らかに怖かった。「学校側の対策は何も必要ありません。二度とこんなことは起こりません、約束します」
「二度と起こらない、まさしくその通りです。もう一度あの黄金のたてがみに頼み事をするつもりはありませんからね。あなたがたがどこに迷い込もうと、次は放っておくだけです! 多元宇宙にはローウィンよりもずっと危険な場所がいくらでもあります。聞いた所によれば、そのローウィンでも十分に危険な時間を過ごしたとか? 持ち帰ったのが面白い話と奇妙なエルフひとりだけで済んだのは幸運だったと思いなさい。オーコ……あの屑と遭遇して、本人以外がまともな結果で終わることは滅多にないのだから」
「はい、ヴェス教授。もっと気をつけて行動します」
「必ずですよ。話は終わり。退出して結構です」
「わかりました。失礼します」タムはそう返答し、逃げるように出ていった。
リリアナは溜息をつき、頭痛がするかのように額をこすった――他者を気遣うというのは、本当に疲れる。今回の件では4人全員にきつく言い聞かせたが、中でもタムはひときわ怯えていたようだった。あの娘は賢い。とはいえ、教師の機嫌を取ることを少しばかり意識しすぎている。もっと精神的に強くなり、自分自身のために考えることを覚えねばならない。
誰かが執務室の扉を叩いた。力強くも丁寧なその音に、リリアナは驚いて顔を上げた。そのように叩く者はいない。生徒たちは不安そうに叩き、同僚はそもそも叩かずに扉を開けてくる。アジャニのような稀な訪問者はもっとはっきりと叩く。
用心深く立ち上がり、上着の裾を直しながら執務室を横切る。そして扉を軽く引いて開け、リリアナは驚きに凍りついた。戸口に、ひとりの女性が立っていた。
背は高く、肩幅も広く、上質に仕立てられた白のガウンとコルセットの生地がその体型をさらに引き立てている。黒髪は肩を取り囲んでゆるやかに波打ち、それは計算されたとしか思えないほど完璧だった。そして温かな、まるで姉妹に向けるような笑みを浮かべていた。
さらに悪いことに、その笑みはリリアナ自身の唇に浮かんでいた。
白をまとう自分の姿が執務室に踏み入るのを、リリアナは見つめていることしかできなかった。彼女は立ち止まり、リリアナの片手に触れ、柔らかな声で言った。「扉を閉めた方がいいかもしれないわよ。話をしなければいけないから」
墓所が封じられるような音とともに扉が閉まり、後には静寂だけがあった。
(Tr. Mayuko Wakatsuki)
※本稿のタイトルに用いた「魔法はすぐ解ける」は、シェイクスピア『テンペスト』第五幕第一場(『真訳 シェイクスピア傑作選』石井美樹子 訳/河出書房新社)から引用したものです。
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