MAGIC STORY

ローウィンの昏明

EPISODE 04

第4話 その花を取ってこい

Seanan McGuire
seananmcguire_photo.jpg

2025年12月11日

 

 「山歩き用の靴も履いてないのにさ」森の奥深くへ向かうようルーウェンに促され、キーロルは不満をこぼした。

 「山歩き用の靴とは何だ?」背中を突かれ、キーロルは自分を捕らえた相手の足を見て息をのんだ――蹄。ここがアルケヴィオスとは異なる次元だというのはわかっている。だが落ち着いてそれが何を意味するのかを理解する時間を持つことはまた別だった。これまでは他の生徒たちと一緒にいた。友達とまでは言えない。互いを深く知るほど親しくはなっておらず、それぞれ自分の命を守るために逃げていた。だが今は足が蹄の奇妙なエルフとふたりきりだった。「高位完全者」という何者かが聞きたがるような情報を自分は持っている、この男はそう考えているらしい。

 「ボクの足は見える? 革でできた箱の中に入ってるのが」

 「足を覆うためのものくらいは知っている」侮辱されたようにルーウェンは言った。「キスキンどもはいつも履いている。あいつらの足は柔らかくて軟弱だからな」

 「キスキン?」キーロルは尋ね、だがかぶりを振って自らを遮った。「いや、話が逸れちゃうね。つまりボクたちはその『足を覆うためのもの』を靴って呼んでる。ブーツとかサンダルとかもあるけど……まあそれは気にしなくていいよ。山歩き用の靴は、その『柔らかくて軟弱』な足で長時間歩く時に履くためのものだよ。衝撃を吸収してくれるし、足が痛くなりにくいからね」

 「お前、足が痛むのか?」

 「信じられないくらいに」キーロルは物悲しく言った。「ボク学校ではメイジタワーを……運動競技をやってるんだけど。結構いい運動なんだよ。それに健康維持のために走ってもいるけど、そういう時はちゃんとそれ用の靴を履いてる。でもこれは学内用の靴なんだ。柔らかくて薄くて、何時間も座って話を聞くためのもの。木の根とか岩とか、でこぼこだらけの森で長い距離を歩くためのものじゃないよ」

 「私の足は全くもって痛くなどないがな」

 「だって君のは足じゃないからだよ。蹄だから」

 「それを使って歩くのだから足だ」

 「解剖学的には違うよ。もし君を解剖室に放り込んだら、解剖したお医者さんはそうじゃないって言うはず」

 ルーウェンは再び槍先でキーロルを突いた。「解剖などされるものか」その声は低く、凄みを帯びていた。

 「そうするなんて誰も言ってないよ。仮定の話だよ」

 「仮定でも何でもいい、歩き続けろ、もうすぐリス・アラナだ」

 「リス・アラナって何なの?」

 「世界一美しい森の中にある、世界一美しい都だ」そう言ったルーウェンの声は恭しく、そしてどこか物憂げでもあった。「リス・アラナを初めて見るお前は実に幸運だ。私ももう一度、初めて見る驚きを体験できたならと思う。木々の隙間から差し込む陽光、世界のすべてが黄金色に輝く様……ああ、息を呑むほどに美しい」

 キーロルはきょとんとして立ち止まった。そして辺りを見回し、歩いているうちに周囲の様子が変化していたことに気づく。木々は規則正しい間隔で並び、どうやら何かの模様に従って配置されているらしい。近すぎてわかりにくいものの、あの螺旋なのだろう。賭けてもいいくらいだ。よくわからない歌のように、この世界の至る所で見られるあの模様。枝は優雅かつ目的をもってアーチ状に伸び、花を咲かせる蔓草に覆われ、優美な太枝には生ける黄金に縁どられた淡い緑色の葉が生い茂っていた。

 木々の樹皮は鱗を思わせるように裂けており、それらの隙間は滑らかできらめく樹液に薄く覆われていた。陽光を浴びてその樹液は輝き、森全体に繊細な黄金色の雰囲気を与えている。キーロルはそれを見つめていたが、ルーウェンに突かれて先に進んだ。二本の木の間を抜けると、リス・アラナが目の前に現れた。

 それがリス・アラナ、そうとしか考えられなかった。確かにこの森は広大だが、そこに収まる都がふたつあるとは思えない。そして、目の前に広がる光景を表現できる言葉もなかった。木製の足場のような歩道が、家々や高く優雅な塔を緊密に繋いでいる。木々の幹には扉が埋め込まれ、複数の建物と継ぎ目なく一体化している。頭上高くでは木と蔓でできた歩道が住居群を繋いでおり、森に溶け込む多層の居住環境を形成していた。

 そしてそのすべてが黄金色を散りばめた木材でできており、キーロルはその輝きと美に息をするのも忘れるほどだった。ルーウェンが隣に歩み寄った。

 「リス・アラナだ」彼は自己満足げに言った。「ついて来い。高位完全者様のもとへお前を連れて行く」

 「ちょっと待って……他に何か教えてくれないの? ボク、その『高位完全者』ってのが何なのかも知らないんだけど」

 「駄目だ」ルーウェンは困惑したような声で言い、キーロルへと向き直った。「一切何も知らないのであれば、間違いは犯すこともある。だが侮辱を与えることはない。これはとても重要なことだ」

 「もし高位完全者って人を侮辱したらどうなるの?」

 「お前は殺される」ルーウェンは肩をすくめた。「だからこの方がいい。行くぞ」

 「……わかったよ」キーロルはそう返答し、一番近くの歩道へ向かうルーウェンに続いた。


 歩いているうちに、他のエルフたちも姿を現し始めた。彼らは街の風景に溶け込む色彩をまとっており、動かなければほとんど見えないほどだった。ルーウェンとキーロルが近づくと、彼らは明らかに新参者に興味津々という様子で見つめてきた。

 「何なの? 吸血鬼を見たことないの?」キーロルは文句を言いたそうに呟いた。

 「ないな。誰も見たことはない。お前が説明しなければいけないことのひとつだ」

 「高位完全者様に、ね。はいはい」

 樫の大樹の幹からそのまま生えたような螺旋階段をキーロルは上り始めた。ルーウェンは睨みつけるような視線を向けた。

 「エルフであっても、高位完全者様にお目にかかれる者は多くない。これは栄誉なのだ」

 「何も教えてくれないっていう栄誉とか!」

 ルーウェンは微笑んだ。「やっとわかったか、何も教えないということに意味があると!」彼は立ち止まり、金色の樹液で覆われた美しい彫刻の扉を叩いた。

 長い沈黙の後、女性の声が聞こえた。「何か? わたくしの完全なる瞑想を妨げるとはいかなる用件ですか?」

 「ベラドンナの群れの狩人、無欠者ルーウェンと申します」リス・アラナに到着してから初めて、ルーウェンは緊張した面持ちを浮かべた。「森にてよそ者を捕らえました。イシルーについて、そしてあのエレメンタルが時勢を外れて徘徊する理由を知るらしき者です。この者の知識は鳥の卵のように巣の内に眠っており、私はまだそれを割るに至っておりません。私の耳はまだ真実の完全さに値しないがゆえに」

 再び、だが今回は短い沈黙。そして扉が勢いよく開かれて金色に覆われた完全な円形の部屋が現れた。壁には金色の苔でできたタペストリーが下げられ、そこに散りばめられた白と黄色の小さな花と合わせてまるで昼間の星空を模しているかのよう。窓はひとつだけで背が高く、その前に置かれた同じく背の高い椅子にひとりの女性が座していた。

 その女性を一目見ただけで釘付けになり、キーロルは無意識に部屋へと数歩踏み入った。背は高く、美しい丸みを帯びて均整の取れた体格は一日中でも崇めていられるほど。蹄はルーウェンよりも大きく鋭く、艶を帯びて金で飾られている。そして息を呑むほど美しい角――長く優美な首では支えきれないほど大きく、その先端は外側に伸びた後に内側へと螺旋を描き、まるで王冠のようだった。角の先端も金で覆われており、窓から差し込む陽光に照らされてその女性は文字通りに輝いていた。

rdJqmuyC4T.png
アート:Victor Adame Minguez

 他に言葉はなかった。そしてこの女性を表現できる唯一の言葉は、ルーウェンが言ったこの女性の称号を説明していた。完全。欠点はなくこれ以上素晴らしくなる余地もないため、高位かつ完全な者というわけだ。

 女性はキーロルを見つめた。その視線の重みと美に一瞬、自分は耐えかねて崩れてしまうのではとキーロルは思った。

 「何者ですか」女性は尋ねた。そこには優しさも冷酷さもなかった。あるのはただ疑問であり、判断を下す意図は一切なかった。

 「キーロルといいます、奥方様」お辞儀をすべきだろうか? キーロルはそうした。何か間違っているような気がしたが、やり直すこともできない。そのため下唇を歯の間に挟んで続ける。「ストリクスヘイヴンの生徒です。意図してここに来たわけじゃありません。ルーウェンが森の中でボクを見つけて、連れて来られたんです。おかげでここでお話をすることができています」

 「そしてそれを怒っていらっしゃると? 角なき額に鋭い牙のあなた」

 「そうでした、けど今は違います。もし連れて来られなかったら、今、こうしてお目にかかることはできなかったと思います。その……本当に、完璧です」

 「そうでしょう?」彼女は立ち上がり、蹄を床に鳴らした。「わたくしの名はモーカント。ここリス・アラナの高位完全者です。あなたにはわたくしの名を呼ぶ栄誉を与えましょう」

 「ありがとうございます、奥……モーカント様」

 「さて、まことなのですか? イシルーが歩む理由を知っていらっしゃるというのは」

 「知ってます」キーロルは返答し、モーカントは続けるよう促した。「ボクと同級生とで学校の野外実習に出て、そこで妖精を追いかけていったら穴に落ちてしまったんです。あるはずのない穴に。そうしたら落ちた先がこのローウィンで、着いたところは大きな岩の門の外の草原でした。それでそこを通り抜けたら、月の頭をした大きな獣が地下の円の中で眠ってるのを見つけました。仲間のひとりが近づいて、近づきすぎたのかな、その獣は目を覚まして吠えて、ボクたちを草原まで追いかけてきました。でもその草原も到着した時とは違ってました。前は昼間の明るさだったのに、その時は暗闇に覆われていたんです」

 「近づいただけでイシルーを目覚めさせたのですか?」モーカントが尋ねた。「ありえません。あの夜のエレメンタルは疲弊した時に眠り、夜闇がシャドウムーアに降りるべき時に目覚めます。かつては大オーロラがその目覚めを導いていました。ですが今やそれは失われ、イシルーとエイルドゥは自ら平衡を維持しています。わたくしたちもそれをある程度把握しています。エイルドゥがまだ目覚めたままなのです。イシルーはこの先6か月ほどは眠っていなければなりません。ローウィンに守られたものはローウィンのままに。そしてシャドウムーアに定められたものは広がるべきではないのです」

 「その……全然わからないんですが」とキーロル。「みんなこの昼と夜の周期がどうとか、物事がどんなふうに変化するのかとかは教えてくれます。けどどうやって変化するのか、どうして変化するのかは教えてくれないんです」

 「わたくしたちのこの世界を定義するもの、それが昼と夜です。完璧で美しく欠点なき昼と、邪悪で歪んで苦々しい夜。かつては大オーロラが夜を封じ込め、昼を守っていました。それによってわたくしたちは、昼と夜は、隔てられていました。ですがそのオーロラは消え去り、代わって二頭の獣が現れました。善なる輝かしき獣と、悪しき辛苦の獣。エイルドゥとイシルーです。ローウィンとシャドウムーアです。それらが歩むところで夜は昼となり昼は夜となり、尊き境界線は動き、合意は見過ごされ、誓いは破られます。二頭は決して交わることはありません。片方が歩んだ地では、もう片方が到来するまで夜あるいは昼が持続します。わたくしたちも、イシルーがゴールドメドウとその周囲の平原を歩いているという噂を聞いています。そこは昼に明け渡された地です。もし夜のエレメンタルを再び眠りにつかせ、エイルドゥを呼び寄せてその地の壊れた光を鎮めることが叶わないならば、その地はシャドウムーアへと永遠に失われてしまうかもしれません」

 「ブリジッドさんが言ってたこととは少し違うんですが……」モーカントの言葉を疑問に思い、キーロルは慎重に言った。「もしかしたら、同じことについて別々の歴史的記録を聞いてるってことかな」

 「同一の話にも、常に多くの側面があるものです。あなたが言うブリジッドとはあのキンズベイルの英雄ですね? キスキンは素朴で粗野な民です。土地に深く根ざし、自分たちの共同体を深く気にかけてはいますが、広き世界の必要までは考えていません。あの者には目の前のものしか見えておらず、それがほのめかす意味や可能性に気づくこともないのです」そしてモーカントは声を落とし、考えこむように続ける。「イシルーが周期を外れている……何か弱点を突かれたのかもしれませんね。そしてその弱点を掴むことができたなら、どれほど素晴らしい好機となるでしょうか。夜を永遠に終わらせ、永遠の昼を迎えることができたなら。そうすれば、もはや陽光の下で成し遂げた物事を月明かりに覆されなどしないでしょう。光り葉の帝国は再興するのです!」

 「あのう」とキーロル。「ボクはここの出身じゃないし、帝国の再興から始まる何かに関わっていいかどうかもわかりません。もしよければ、帰してもらってもいいですか?」

 「とはいえ、夜そのものをいかにして殺せばいいのか……」今やモーカントは自分の世界に浸っていた。ルーウェンとキーロルが彼女の話を聞くこの部屋から、その心の軌跡は曲がりくねって離れていく。「言うまでもありませんね――夜の武器をもって。アケノテブクロが育つのは夜明けの到来が伝説と化した場所。夜明けが決して見られない場所。昼光の下でツキノテブクロは最も恐ろしい毒を生み出します。それでも、アケノヒカリの治癒力の方が強い。それを夜に持ち込めば、最も純粋な死をもたらすかもしれません。夏の夢と混ぜて薬液とすれば、夜の力のすべてをもってしてもあの獣を救うことは叶わないでしょう」

 戸口でルーウェンが小さくうめき声をあげた。息を呑むような、落胆のような声。キーロルは肩越しに振り返ると、彼は青ざめて戸枠を命綱のように掴んでいた。

 「あのう、もう本当に帰りたいんですが」キーロルは一歩下がった。「友達を探さないといけないんです」

 「あら、いけません」モーカントは恐ろしいほど完璧な笑みを浮かべた。「あなたが必要なのです。どこへも行かせませんよ」

eku0w0772p.png
アート:Heather Hudson

 光り葉の森の奥深く、リス・アラナの近辺には通じない曲がりくねった小道にて。サナールは顔をしかめて辺りを見回し、更には振り返った。キーロルの姿が見えなかった。サナールは駆け出すとタムに追いつき、袖を引っ張った。彼女は困惑したような表情をゴブリンに向けた。

 「どうしたの?」

 「キーロルがいない」

 タムは足を止めた。アビゲールもまた。ふたりが振り返ると、仲間の中にあの陽気な吸血鬼の姿はなかった。

 「どこへ行ったのかしら?」タムが疑問を口にした。

 アビゲールは羽を膨らませてかぶりを振り、手話で伝えた。“この森に入ってから見かけていないわ。また木に登って、こっそり私の後ろに現れるのかと思っていたのだけど”

 「ええ、このあたりにはいないようね」とタム。

 「手分けして探す?」サナールが尋ねた。「そんな遠くまで行ってないだろうし」

 タムは複雑な表情を浮かべた。「学校へ戻らないといけないのよ。課題を終わらせるために。ここは安全ではないし」

 アビゲールは怪訝な視線を送り、羽を更に膨らませた。“キーロルは友達でしょう。私が捜しに行く。ここで待っていてくれて構わないわ”

 彼女は背を向け、川からの足跡を猛然と辿っていった。タムとサナールは顔を見合わせた。

 「私たちのどちらかが追いかけた方が良さそうね」とタム。

 「オレが行く。ここで待ってて」サナールは爪先立ちで駆け、不機嫌なオーリンを追った。

 だが、すべてが悪い方向に進み始める前に彼が追いつくことはできなかった。アビゲールはキーロルを探すことに集中していた――首をぐるりと回し、時にはほぼ一周させて。だが近くの茂みがざわめき、揺れ始めたことには気づかなかった。枝がこすれる音を聞きつけたサナールは、即座にその場で動きを止めた。だがアビゲールには聞こえず、茂みの中から巨大な獣の頭部が顔を出した時、不意打ちを受けたように彼女はただただ驚いた。見たこともない獣で、絡み合った枝が角のようにその頭を飾っている。木々の間から聞こえてくる音から判断するに、獣の身体もまた相応に巨大と思われた。

 その音もまた、アビゲールには聞こえない。サナールは恐怖に震えながら、彼女が獣から後ずさりして小道の反対側の茂みに隠れる様子を見ていた。彼は一本の枝を掴み、迫り来る獣からアビゲールを守ろうと駆け出した。

 サナールにとっては不運なことに、その行動が獣の注意を引いてしまった。獣はサナールへと顔を向け、その動きに角の一本が彼の胸をとらえて森の中へと放り投げた。サナールは地面に激しく身体を打ち付けて倒れ込んだ。もはや誰かを守るなど叶わない。

 アビゲールは腹を立てた鳴き声をあげて獣に突進した。獣も咆哮し、その音は警報や爆発を知らせる補聴器の機能を作動させるほど大きかった。彼女は両手で耳を塞いだ。そして耳鳴りでふらつきながら藪の中深くへと入り込み、サナールと獣の両方から逃げ出した。

 ブリジッドに探すようにと言われた支流すら見ていなかった。よろめく彼女は水面へと続く傾斜した土手でつまずき、転落した。

 水に落ちる寸前に思った――またキーロルにからかわれるわ、飛び方を忘れたんだろうって。羽が水に浸され、アビゲールは見かけよりも深い川の中央へ、流れが最も強い場所へと引きずり込まれた。彼女は水に掴み取られたように、水面にも水底にもたどり着けないままワンダーワインへ向かって勢いよく流されていった。

 流れにも羽の重みにも逆らって泳ぐことができず、アビゲールは激しくもがいた。だが無益だと悟った彼女は動きを止め、できるだけ落ち着こうとした。多くの猛禽類と同じようにオーリンも肺に加えて気嚢を備えているため、すぐに溺れはしない。無理強いした落ち着きをしっかりと保ちながら、彼女は両手を動かし始めた。素早く、控えめな円を描くように。

 魔法を使うために呼吸を必要とするのであれば、この深淵で恐ろしい危険にさらされていたかもしれない。だがアビゲールに必要なのは自身の両手と、どこへ行くべきかを内なる風の囁きへと告げるための身振りだけだった。

 その動きに呼応して、泡が両手をそれぞれ包み込んでいく。やがて十分な空気を確保するとアビゲールはそれを顔とくちばしに押し当て、空気の仮面のようなものを作り出した。ありがたく彼女は深呼吸をし、そして泡から顔を離すと飲み込んだ水を吐き出した。

 再びの恐怖に圧倒されそうになるも、彼女はそれを押しのけた。そして貪欲に泡の中に顔を戻し、水に流されながら息を吸い込む。岸辺はごつごつとした岩でできており、激突したならひどい怪我をしてしまいそうだった。アビゲールは気をつけながら流れに身を委ねた。このままワンダーワインまで行けるだろう。確か浅瀬を見た覚えがある。そこから陸に上がって、羽を乾かしてから仲間たちを探しに行けるかもしれない。

 そう、きっと何とかなる。冷静かつ落ち着いて行動しよう、シルバークイルへの入学にふさわしいと認められるくらいに。彼女は怪我をしないよう身体を丸めて流れに乗り、泡を顔面に保ち、やがて流れから脱出することだけを考えた。

 前方が徐々に明るさを増し、大河の本流が近づいてきたと示した。そして影の中で動く姿があった。アビゲールは身体を強張らせ、意識して呼吸を平静に保った。魔法の泡の空気は自然と回復するが、慌ててしまえば枯渇する可能性はある。

 近づくにつれ、それらは魚のようなヒレを持つ二足の生き物だとわかった。長い両腕と優雅な鱗の尾があり、槍や三叉矛を握りしめている。彼らはアビゲールを指差して前進し、武器を突きつけてきた。

 アビゲールは必死に平静を保とうとし、両親に叱られまいと幼い頃から繰り返してきたことを試みた――両手を前に伸ばし、指を激しく動かすことでわめき立てた。“ごめんなさい、皆さんの川だなんてわからなくて、でも考えてみればそうよね、もし私が水から出るのを手伝ってもらえるなら私はすぐ行くし誰も傷つくこともないし、本当にそんなつもりはなくてごめんなさい――”

 魚人のひとりが手のひらを前にして差し出し、そのお喋りを止めるよう合図した。アビゲールは戸惑ったもののその指示に従った。男性らしきその相手はゆっくりと、そして慎重に手を動かし始めた。

 彼女の補聴器は意思の疎通を補助するためのもので、「聴覚」という概念を広範に定義するシルバークイルの上級生によって設計されていた。初めて出会う相手の手話を解釈するには少し時間を要したものの、やがて頭の中に浮かび上がってきた言葉は明確で理解できるものだった。

 “落ち着くといい、珍しい姿をしたものよ。あなたはエレメンタルの獣か? 鳥とエルフを混ぜ合わせたような……奇妙な姿だが。私たちの川に落ちたのか?”

 アビゲールはきょとんとし、慎重に返答した。“はい” すると見知らぬ魚人は再び身振りをしながら近づいてきた。アビゲールは彼の手を見つめ、その言葉を理解しようとした。

 “なんと賢い道具だろうか! ここに来たのは、夜が早くも広がりつつあるためか? この川はあなたにとって安全ではない。我々の仲間の多くも夜へと変化してしまった”

 アビゲールも返答した。“こちらに害意はありません。私たち、妖精の女王様に夜の獣のことを伝えるために森を進んでいたんです”

 “あなたに見せたいものがある” その魚人が伝えてきた。“一緒に来てくれるだろうか? 同意してくれるなら危害は加えない”

IHjcHfOlwQ.png
アート:Gustavo Pelissari

 アビゲールはしばらく考えて頷き、手話で伝えた。“はい” すると魚人の男性が近寄って腕を差し出し、同じく女性がひとり同じようにしてアビゲールをしっかりと挟み込んだ。ふたりはアビゲールを引っ張りながら、ワンダーワインの本流に向かって泳ぎ始めた。その速さはまるで空を飛んでいるかのようだった。遥か彼方の深淵へと連れて行かれながら、アビゲールは大きな笑い声を発した。


 サナールは息を切らし、タムが待つ場所へ戻ってきた。茨の茂みに入り込んだらしく、身体は小さな引っかき傷だらけになっている。

 「サナール? 何が起こったの、キーロルは? アビゲールは?」

 サナールは立ち止まり、膝に手をついて息を整え、それから背筋を伸ばすと恐怖を隠し切れない声で言った。「茂みからなんかでっかいのが出てきたんだよ。アビゲールは驚いて落っこちたところがオレたちが探してた支流で、でも水に流されてった」

 「溺れたの?」タムはさらに不安になって尋ねた。

 「たぶん大丈夫。羽が濡れて水から飛んで出られなくなっただけじゃないかな。それで、川の方へ流されてった」

 タムは押し黙った。目の前の問題に向き合い、触手の髪が絡み合う。アビゲールを追いかけても、妖精の女王には会えるかもしれない。だがその場合は、あの巨大な獣が行く先々で変容をもたらす夜を広げているという警告が間に合わない可能性もある。アビゲールを追いかけなければ、帰るまでに彼女を見つけられないかもしれない。明確な正答はない。簡単な解決策もない。何をしても、誰かが苦しむことになる。

 師は自分にどうして欲しいだろうか? タムが師について語ることは頻繁ではない――師について考えることすら好きではない。理論の授業にいる精神魔道士たちが自分の思考の中に師の姿を見て、質問してくるのを避けるためだ。それでも師が望むことはわかっている――自分の身を守りながら、同時に最も多くの相手を救う選択肢を選ぶこと。

 「支流を見つけたって言ったわよね?」彼女が尋ねるとサナールは頷いた。「よかった。そこに連れて行って。滝を目指しましょう」

 サナールは眉をひそめ、不満そうな表情を浮かべたが反論はしなかった。タムと同等に、彼もまたその理屈を理解していた。「こっちだよ」彼は踵を返し、来た道を猫背で引き返していった。

 長い距離を戻ることなく、ふたりは鹿の足跡を見つけた。支流の岸は急勾配だが草木は生えておらず、ふたりはそれを辿ってたやすく森の奥深くへと進むことができた。やがて滝の音が他のすべてを押し流し、ふたりは足を速めた。

 その滝が見えてきた。滑らかに磨かれた石の上を清らかな水が流れ落ち、飛沫が作り出した虹が辺り一面に待っている。「滝の裏というか先。ブリジッドさんはそう言っていたわね」とタム。「滝をくぐって行かないと」

 「わかった」サナールはそう言って走り出し、きらめく水の壁へと飛び込んだ。彼の姿は再び現れはしなかった。タムは息を呑んだ。

 ゆっくりと進み、震える片手を伸ばして滝に触れる。指先は滑らかに水の中へ滑り込んだ。冷たく、甘い香りが漂う水。これほどまでに何かを飲んでみたいと思ったことはなかった。彼女は深呼吸をした。

 同級生たちが自分を必要としているのだ。

 タムは踏み出した。


 マラレンは部屋の床に両膝をつき、両手で髪を掴みながらうめいた。「駄目、駄目、駄目!」怒鳴り声をあげる。「絶対に駄目」

 化粧台とその周囲の床を覆う花弁は今なお舞っていた。変わらぬまま、非難めいたまま。芳香を放つ小さなそれらは、ローウィンの花でもシャドウムーアの花でもない。だがマラレンはよく知っていた。ああ、本当によく知っていた。かつてウーナによって創造された時、その花弁から生まれたのだから。今も自分の名とする、朝の歌のマラレンの姿と記憶を得る前に。

 これらはウーナの花弁。ここにあるはずがない。あるとするならば、それは……

 ウーナの創造物のひとつが、創造主の同意なしに独立して生きることを可能にした魔法。そのねじれが何らかの形で解けてしまったのだろうか? マラレンが自分自身であり続ける想定ではなかったのかもしれない。最後まで、ウーナの一部という想定だったのかもしれない――もしかしたら、今もそうなのかもしれない。

 エイルドゥは自分のもとを去っていた。一方でイシルーが徘徊し、昼と夜が衝突しているという噂が宮廷にも届いている。昼と夜との戦いになるかもしれない。その戦いの後には新たなオーロラが訪れ、周期を束縛してそして破壊するのかもしれない。それはとても理にかなって合理的で、この世界を守る最良の手段に思える。

 そうすれば自分はウーナとして生まれ変わり、マラレンは流されて消え去るのだろう。

 彼女は意志を込めて立ち上がり、腕の一振りで化粧台の花弁を払いのけ、そしてその前に座ると鏡を見つめた。するとそこにあったのは緩やかに変化しつつある自分の目ではなく、ウーナの恐ろしい凝視だった。思わず鏡から勢いよく後ずさり、床に尻を強打してしまう。

 だがそして見た鏡には何も映っておらず、彼女の恐怖をあざ笑っていた。どこかから笑い声が聞こえた。遠く奇妙で懐かしい、夢から出てきたような笑い声が。マラレンは耳を拭ってその音を追い払おうとした。

 その時、部屋の扉が勢いよく開いた。

 マラレンは瞬時に立ち上がった。反射神経は王宮の生活でも鈍ってはいない。すると妖精の一団が押し寄せた。彼らは見知らぬ2体の生き物を取り囲んで連れてきた――ボガートに似た小さく青い生き物と、赤い縞模様の緑の肌に、白から赤へと色を変える触手を生やした背の高い人型のエレメンタル。マラレンは息を呑み、問いただした。

 「何者? 一体何ごと?」

 「こいつらが宮殿の階段を上ってくるのを見つけたんです」妖精のひとりが言った。他の妖精たちも頷いて同意の声を上げる。「女王様と話がしたいって言ってたので連れてきました。武器は持ってません」

 「片方はエレメンタルのようだけど。エレメンタルは武器と同じよ」マラレンが言った。

 「誰? 私のこと?」背が高い方のよそ者が尋ねた。「私はエレメンタルじゃありません。ゴルゴンです。タムといいます……ブリジッドさんに言われてここに来ました。そもそも、私たちがここにいること自体が想定外なのです。アルケヴィオスという次元の、ストリクスヘイヴンという場所から来ました。私たち、ただ学校に戻りたいだけなのです」

 「うわあ」とサナール。

 「どうしたのよ?」タムが尋ねた。

 「タムがそんなに沢山喋ってるの初めて見た」

 あの笑い声がまたも耳に響き、マラレンはひるんだ。「誰か、これ聞こえる?」彼女は尋ねた。

 タム、サナール、そして妖精たちは困惑した様子だった。マラレンは妖精たちを鋭い目で見つめて言った。「私たちだけにして」

 彼らはゆっくりと部屋から出ていった。彼女とタムとサナール、そしてあの嘲笑だけが残された。

 「さて」マラレンは切り出した。「ここはローウィンとシャドウムーア。皆さんが来たというアルケヴィオスからは遠く離れています。何があったのですか? いかにして辿り着いたのですか?」

 「ポータルから落っこちて。で、頭が月になってるあのでっかいやつを起こしちゃって」サナールが言った。「それでそいつは歩き回ってるんだよ。ブリジッドって人が言ってたけど女王様はそれを知りたいだろうって、それともしかしたらオレたちが帰るのに力を貸してくれるかもしれないって」

 マラレンの喉から笑い声がこみ上げてきた。「力を貸す? 私にも力を貸して頂けますか?」

 「何をすればいいのですか?」タムが尋ねた。

 「そこかしこに花弁が散らばっています。そして周期が狂いつつあります。ウーナが帰還しようとしています。今回、私に止められるかどうかは定かではないのです」

 「うわ。どういう意味なのかぜんっぜんわかんないんだけど」とサナール。

 その時、部屋の扉が勢いよく開いた。あの小さな青い妖精を肩に乗せ、ライズがマラレンを見ていた。サナールは叫び声を上げてその妖精を指差した。

 「オレたち、あいつを追っかけてポータルを通ったんだよ!」

 ライズはマラレンだけを見つめていた。その表情は真冬の夜のように冷たく、その両目には奇妙で恐ろしい安堵が浮かんでいた。「教えてくれなかったんだね。秘密にしていたんだろう?」

 「ライズ、あなたにはわからないことがあるの」マラレンはどこか必死な様子で言った。

 「もう手遅れなのか?」激しい苦痛を受けているかのように、彼は目を閉じた。「マラレン。遠い昔に君と約束したことだ」

 「私たちにもまだわからないことが――」

 ライズはマラレンの言葉が終わるのを待たなかった。彼はベルトから短剣を抜き、突進した。

 マラレンは悲鳴を上げて両腕を交差させ、顔を守ろうとした。だがその時、思いがけないことが起こった――優雅に、かつ恐ろしい意図に満ちて動いていたライズが、床を覆う花弁に足を滑らせた。彼は驚いて目を見開き、そして並外れた速度と優雅さで体勢を立て直し、もう片方の足に体重をかけた。

 そしてまた別の花弁を踏み、滑った。

 そこから先は制御不能だった。ライズは大きく二歩よろめき、そして近くの窓から転落した。肩に乗っていた妖精は宙に舞い上がり、驚いたカササギのように怒鳴りつけた。全員が唖然とし、言葉を失っていた。タムだけは幾何学的形状の何かに両手を光らせていた。

 「何だったの?」唖然としたままサナールが尋ねた。

 「たぶん魔法……今のは誰?」

 マラレンは両腕を下ろし、責めるような表情を妖精に向けた。「あなたは私に仕える存在のはずよ。裏切るんじゃなくて。でも見たことのない顔ね?」

 妖精はマラレンへと向き直ってもなお怒鳴っていた。とはいえ意味のわかる言葉はなかった。

 「何が起こっているのですか?」急いでタムは尋ねた。

 「ここを離れなければ」マラレンは答えた「今のはライズ。私の助言者であり、最も古い友です。もしウーナが戻ってくると察したなら、彼は私を殺すでしょう」

 「どうして?」サナールが尋ねた。

 「そうするよう私が誓わせたのです」

 「でも今仰いましたよね――」とタム。

 「自分が何を言ったかぐらいはわかっています! ですがまだ死ぬつもりはありません。イシルーを落ち着かせて周期を修復できれば、死ぬ必要はないかもしれません。さあ、彼が戻ってくる前に逃げなければ」彼女は小さな妖精に目をやった。「あなたも一緒に来なさい。今すぐに」

 妖精はすっかり面白がっている様子で、マラレンの肩に飛び乗った。彼女は扉へと踵を返し、駆けていった。他に選択肢はないと判断し、タムとサナールはすぐ後を追った。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)


※本稿のタイトルに用いた「その花を取ってこい」は、シェイクスピア『夏の夜の夢』第二幕第一場(『新訳 夏の夜の夢』河合祥一郎 訳/角川文庫)から引用したものです。

  • この記事をシェアする

Lorwyn Eclipsed

OTHER STORY

マジックストーリートップ

サイト内検索