MAGIC STORY

ローウィンの昏明

EPISODE 03

第3話 この月にはもううんざり

Seanan McGuire
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2025年12月10日

 

 ダイナは巨体のライオン男に指示されることに動揺した。一方で、行方不明となった生徒たちの捜索を責任ある教職員に委ねることができて心から安堵していた。彼女はアジャニの宣言に頷き、割れた茶器をリリアナが片付けるのを待つと両者を執務室のある建物から連れ出し、平原を横切って鷹ノ森へと向かった。

 他の生徒たちはすでに寮へと戻っており、行方不明の学友たちの捜索は実習を監督するはずだったダイナに委ねられていた。彼女は最悪の気分だった。二度と下級生の監督を任せてもらえないかもしれない。下級生はそれぞれ面白く苛立たしく、そして大きな可能性を秘めてはいるが、この仕事を特別望んでいたわけではない。これは自分の天職でも何でもなく、教師になるつもりもない。とはいえ制限をかけられるのも嫌だった。そして「ダイナは生徒を行方不明にしてしまうことがある、その点は信頼できない」というのはひとつの制限だった。

 生徒たち自身については言うまでもない。彼女はアビゲールを気に入っていた。新入生説明会の時から、このオーリンは明らかにシルバークイルへの適性を備えていた。あの子を見失ったと知ったならキリアンはひどく怒るだろう。他の三人はあまり馴染みなかったが、理論の授業でタムと自分とは少しだけ重なるものを感じていたので心配だった。サナールとキーロルについても、彼らをひどく心配する者は学舎内に間違いなくいるだろう。どう考えてもこれは本当にまずい。

 やがて森に到着し、ダイナは脇に退いてリリアナとアジャニに捜索を任せた。彼女の不安はいくらか和らいだ。このふたりがきっと解決してくれるだろう。行方不明の生徒たちを見つけてくれるだろう。自分は叱られるかもしれないが、永続的な評価には影響しないだろう。

 ダイナはその考えをしっかりと持ち続けようとした。一方リリアナは森の中に足を踏み入れて両手を上げ、地面から黒い霧を呼び起こした。霧は周囲に波打ち渦巻き、それらに耳を澄ますかのようにリリアナは少し首を傾けた。そして両手を下ろし、ライオン男へと向き直る。「ジェイスと同じよ。その子たちは死んではいない。虫、齧歯類、害獣……今日ここでは小さなものが沢山死んでいるわ。けれど生徒くらい大きくて複雑なものは何もない」

 「実に思いやりのある情報ですね。ありがとうございます」とアジャニ。

 リリアナは片眉をつり上げた。「あら、猫ちゃん。しばらく会わない間に皮肉を覚えたのね。お似合いよ」

 アジャニはその言葉を無視し、森の奥深くへと進んでいった。魔法を呼び起こしたり目に見える形で呪文を唱えたりはしなかったが、彼はふと立ち止まると地面から何かを拾い上げ、注意深く観察し、丹念に匂いを嗅ぐと踵を返してリリアナの所へと戻ってきた。そして手を差し出し、一枚の薄く青い花弁を見せた。その縁は傷んでいたが先端には縫い目がついており、何か大きなものに繋がれていたと示していた。

 リリアナはそれを見て顔をしかめた。「花弁?」

 「この花の匂いは嗅いだことがあります。この花が豊富に自生する次元があるのです。住民は衣服の材料として用いることもあります」

 ダイナは眉をひそめ、ふたりを交互に見つめた。「答えを当てさせるんじゃなくて、教えて下さいよ」

 どこか演技のようにリリアナは溜息をついた。「ローウィンってこと? そこの妖精が私の生徒たちを迷わせて誘い込んだって言いたいの? 手がかりとしては上々だけど、領界路らしいものはどこにも見当たらないわよ」

 「領界路も開き続けているとは限りませんからね」とアジャニ。

 「その点ではプレインズウォーカーみたいなものね」

 アジャニはその花弁を握りしめた。「今、リリアナさんが望むのはどちらですか? 生徒ですか、それとも貴女の誇りですか?」

 「私の生徒たちよ」リリアナは即答した。

 「失礼致しました。ですがリリアナさんを連れて行くことはできません。私の知る範囲では、ローウィンとシャンダラーの間に安定した領界路があります。彼らをシャンダラーまで連れて行けたならここへ連れ戻せるでしょう」

 「タムはシャンダラー出身よ。シャンダラーなら大丈夫だわ」

 「わかりました」アジャニはダイナへと向き直った。「お会いできて光栄でした、お嬢さん」そして軽く頭を下げてから振り返り、歩き始めた。

 最初の一歩と共に、その姿は輝きを放った。

 二歩目と共に、その姿は消えた。

 「私たち、見せびらかすのがそんなに好きだったかしら?」リリアナは溜息をつき、そしてダイナへと向き直った。「仮定の質問よ、答える必要はないわ。学舎に戻りましょう。アジャニがきっと見つけてくれるわよ」

 「はい、教授」ダイナは困惑しながらも、希望をもって答えた。

 ふたりは学舎へと引き返していった。


 「たまたま私に会えたのは幸運だったよ、あなたがた」木漏れ日の森を歩きながらブリジッドは言った。広がりつつある暗闇から抜け出し、彼女はすっかり安心しているように見えた。だが周囲の音すべてに注意を払っているのは明らかだった。何かに気づいてひっきりなしに頭を動かし、弓から手を放すことはなかった。

 「何でですか?」キーロルが尋ねた。

 「そうだね、多少なりとも良識がある奴ならあなたがたをイシルーから逃がしてやろうとするし、ローウィンの住民なら誰だってあなたがたを助けたいって思うだろうね。私たちは、夜に飲み込まれたくない奴がそうなるのを防いでやりたいんだよ。けれどあなたがたをゴールドメドウに連れていける奴はそう多くない。休むには一番いい場所だと思うよ。それと多分、言い訳を考える場所としてもね。昼間にイシルーの巣穴に足を踏み入れた理由をどんなふうに取り繕うのか」

 彼女は歩調を速めて森の外れへと向かった。生徒4人は視線を交わし、同じく速度を上げてブリジッドを追いかけた。その姿が視界から消える危険を冒したくはなかった。

 ブリジッドは彼らを森から連れ出し、するとその先は陽光が降り注ぐ広大な草原だった。巨石が立ち並び、野花が一面に咲き誇っている。縞模様の太った蜂たちが、彼らを気にすることなく花から花へと飛び回っている。ブリジッドは歩き続け、生徒たちも後を追いかけた。やがて背後の森は遠ざかり、集落の壁が目の前に現れた。大きくてどこか不規則な建物の集まりを高い壁が囲んでおり、その中央には一本の高い監視塔がそびえ立っている。

 「ここがゴールドメドウ?」サナールが尋ねた。

 「ゴールドメドウだよ」ブリジッドは温かく言った。自分の近くにいるよう手招きをし、彼女はその門へと近づく。すると頑丈そうな人型種族がふたり現れ、彼らに手を振ると門の機構を操作して開けた。ブリジッドが独りで外に出かけ、見知らぬ雑多な者たちを連れ帰ったことは気にしていないらしい。むしろ、ブリジッドが共に歩く相手を見つけたことを彼らは喜んでいるように見えた。

 「ここは?」近くの建物を見回し、思案しながらキーロル尋ねた。すべてがブリジッドの体格に合わせて作られており、つまりここの住民は吸血鬼やゴルゴンやオーリンよりも小柄であることを示唆していた。サナールにはぴったりだった。

 間違いなく。彼はどの扉も通り抜けられるだろうし、その先の部屋にも完璧に調和するだろう。キーロルははっとした。常に背の高い相手に囲まれているというのは、小柄なゴブリンにとってはどれほど不安なことだろう――そんなことを考えたのは初めてだった。

 ブリジッドは円形の建物の前に辿り着いた。そして大きな両開きの扉から中に入るよう合図する。「さあ、入って。ここは集会所。しばらくは大丈夫だよ」

 「ブリジッドさんの家じゃないんですね?」興味からキーロルは尋ねた。

 「ああ、ここに住んでるわけじゃない。私は思考の糸との繋がりがめちゃくちゃになってて、しかも半分切れてるから、ここの皆を少し不安にさせちゃうんだよ。私があんまり長くいるのを皆気に入らないんだ」

 キーロルはきょとんとした。ブリジッドが「思考の糸」というものについて言及したのはこれで二度目になる。一体それは何なのかと聞きたくてたまらなかった。だが常識的に考えて、そしてタムの顔に浮かぶ不安そうな表情からそれは我慢すべきだと悟った。キーロルは衝動をのみ込み、ブリジッドの後を追って建物の中に入った。

 集会所は快適ではあるものの殺風景だった。低く心地よい椅子が床に散らばり、壁には粗削りの棚が並んで雑多な本や色々な物が無秩序に押し込まれている。ブリジッドは中に入ると空いた場所に弓を置き、それから一同へと向き直った。

 「さて、あなたがた。このあたりでは見ない顔だね。どこから来たの?」

 「オレたちがいた所の森になんかブンブン飛び回るのがいて、追いかけてったらでっかい穴が開いててその穴に落っこちて気づいたら大きな草原の真ん中にいて、そこらじゅうに渦巻き模様があって、それはすっげえって思ったんだけど自然の景色のいろんな所に模様ができてる時って、悪の機械が空の裂け目から出てきてみんなを殺し始める合図だったりするじゃん」息をつく間もなくサナールが語った。

 ぽかんとしてブリジッドは彼を見た。

 タムが代わって言った。「つまり、私たちが所属している大学の野外実習で、彼が森の中に見慣れない生き物を見つけました。それで彼はどうしても近くで見たくなって追いかけたんです。私たちも彼を追いかけました。その生き物は地面にあいた穴に私たちを誘導して、それで全員揃って落ちてしまいました。その先はサナールが言った通りです。巨岩の門の外の草原に落ちて、その直後にブリジッドさんに見つけて頂いたというわけです」

 「その生き物ってのはどんな見た目だったの?」ブリジッドは尋ねた。

 「小さくて人型で、肌は青っぽい灰色で、花弁で作った服を着てたかな」キーロルが説明した。

 “甲虫のような翼もありました” アビゲールが手話で付け加えた。

 ブリジッドは顔をしかめたが、精神感応による接触についてこの時は何も言わなかった。「どうやら妖精みたいだね」彼女はそう言い、そして表情を明るくした。「あなたがたは幸運だったよ。そいつらの女王と私は仲のいい友達みたいなものなんだ」

 「え、すみません、どういうことですか?」キーロルが尋ねた。

 「名前はマラレン。ローウィンとシャドウムーア、両方の妖精の女王だよ。どちらか片方じゃなくてね。私から伝言を送ってやれる。そうすれば妖精のひとりがあなたがたの学校にいた理由を教えてくれるはずさ。あなたがたがどうしてその穴に誘導されたのか、そしてどうすれば元の場所に戻れるのかがわかるかもしれないよ」

 「そうであればありがたいのですが」とタム。

 「妖精って話はできるの?」サナールが尋ねた。

 「ええ、もちろん」

 「じゃあ、なんで直接妖精と話さないの?」

 「あれ?」ブリジッドが尋ねた。

 「あれ?」

 生徒たちは揃って聞き返し、振り向いた。サナールの目の前にあの小さな青い妖精がいた――窓から飛び込んできたそれは今、彼の目の前に浮かんでいた。一同が見ている中、妖精は笑い始めた。明るく陽気なその声は次第に大きくなり、部屋を満たしていった。

 だがその支配も束の間、警報が外で鳴り響いた。けたたましく圧倒するような金属音が妖精の笑い声をかき消した。ブリジッドは悪態をつきながら窓辺に駆け、何が起きているのかを確かめようと窓枠に掴まって身を乗り出した。あの妖精は彼女の頭上を通り過ぎ、空へと飛び去っていった。ブリジッドはそれに気付いた様子もなかった。

 壁の外の草原をイシルーが闊歩していた。巨大なその獣は意識するように長い歩幅をとりながら、優雅な足取りで進んでいた。その姿から波のように溢れ出て後に続く闇がなければ、もっとよく見ることができただろう。闇が降り注ぎ、そこに夜が訪れる。生徒たちも窓辺に駆け寄り、突然の夜が街を覆い始める様子をブリジッドと共に見つめた。

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アート:Ralph Horsley

 闇が触れたあらゆる場所で、街は変貌していった。壁は高くなり、その頂から長く太い釘が内外へと伸びた。梯子が消え、その先へとたどり着く手段が失われた。壁に最も近い建物は形こそ変わらなかったものの、その窓辺には釘や格子が生え、建物自体に刻まれた螺旋の模様は複雑で防御的なものへと変化した。扉の幅さえも狭くなり、中に閉じこもりやすいものへと変化した。

 「何が――」タムが尋ねかけた。

 「シャドウムーアだよ」ブリジッドは冷静な口調で言った。「この次元の夜の側。けれど今ここにあるのはおかしい。太陽が沈んで、月が昇って、日が隠していたものを闇が露わにする。でも今ここで起こるのはおかしいよ。ゴールドメドウはずっと長いこと、境よりもローウィンの側にあった。こんな変化は聞いたことがない。いけない、旅の者たちが壁の中にいるのに」

 「それは何か問題なのですか?」再びタムが尋ねた。

 「夜と昼とでは誰もが別者になるの」ブリジッドは必死な様子で言った。「私は街で皆を助けないと。ここの住民は昼間はよそ者でも歓迎してくれるけれど、シャドウムーアではそこまで親切じゃない。マラレンはあなたがたが自力で見つけて」

 「どういうこと」タムが発したのは疑問ではなかった。彼女はその言葉を小さく硬い石のように、そしてそれを両者の間に不意にあいた井戸へと投げ込むように発音した。

 ブリジッドは弓を掴んだ。「本来あるべきじゃない時に夜が広がっているの。ローウィンとシャドウムーアは常に隣り合って存在しているけれど、何の前触れもなくもう片方を塗り潰すなんてことはない。境界線はどちらかの側にいると選んだ住民を尊重してくれてる。私たちがオーロラを破って以来ずっとそうだった。あなたがたと一緒にいたかったよ。一緒にいるって約束したのにさ。でも、行きなさい」

 「どうして――」サナールが言いかけたが、窓の外から石が投げ込まれてその言葉は遮られた。あの妖精が出入りした窓とは異なり、その窓は閉まっている。アビゲールを除いて、生徒たちはガラスの割れる音にびくりとした。彼女はブリジッドの方を向き、素早い手話で尋ねた。

 “そのマラレンさんはどこに行けば会えるのですか? 私たちは全くのよそ者で、どこへ向かえばいいのかもわからないのです”

 ブリジッドは弓の弦を強く締めながら扉へと向かった。外から誰かの叫びが聞こえた。「マラレンはエレンドラ谷にいるけれど、よそ者にそこは見つけられないようになってる。ここを出て、まずはまっすぐ東へ。そうすればワンダーワイン川に辿り着く。その川を渡って、大きな森が見えるまで歩きな。細い枝が絡み合って太い枝みたいになってる森だ。それが光り葉の森だよ。森の外れに沿って進んで、ワンダーワイン川に流れ込む支流を見つけたら滝が見つかるまで上流に向かって。滝の先というか裏にまた別の小川があるから、それを源流まで辿ればエレンドラ谷に着く。マラレンはそこに、黄昏の宮殿にいる」

 生徒たちが見つめる中、ブリジッドは扉へと向き直って言った。「私がこの扉から出たら、あなたがたは逃げなさい。わかった? 暗闇が終わる所まで走りなさい。どんな音が聞こえても絶対に振り返らないで。振り向いてくれって頼む声が聞こえても、それは私じゃないよ」

 彼女は扉を開け、弓を掲げながら外へ飛び出した。

 生徒たちも後に続き、全速力で駆けた。アビゲールはサナールの両腕を掴み、彼が頷いたのを確認するとそのまま飛翔する。キーロルとタムは半ば日向で半ば日陰の、ありえない街路を無理矢理駆けた。どこを見ても、頑丈そうな人型生物たちが戦っていた。陽光の中で抵抗する者も影の中で抵抗する者も、見た目はほとんど同じだった。暗闇から攻撃してくる者たちは身を小さく屈めていたが、タムが見たところそれは身体的な必要性からではなく、自分たちの周囲すべてに対する明らかな疑念からと思われた。何人かは生徒たちを見つけると攻撃しろと叫び、石を投げ矢を放った。その誰ひとりとして陽光の中に足を踏み入れはしなかった。彼らの目は狩猟猫のように黄色く輝いており、瞳孔も白目もなかった。

 陽光の下で戦う者たちはブリジッドに似ており、それが彼ら自身の重荷になっているようだった。彼らの立ち姿は開け広げで互いの絆を感じさせるものだったが、影が進み街路をのみ込むと簡単に背後から捕らえられてしまった。影に抵抗する者はいなかった。それを止めるすべはないのだ。射手たちはひとりまたひとりと陥落し、月の目をした影の側の戦士へと変貌していった。

 生徒たちは逃げ、門を抜けてその先の平原へと出ようとした。だがその時アビゲールはサナールをしっかりと掴んだまま振り返った。ふたりが見たのは、ブリジッドが暗闇へと矢を放つ姿だった。それは殺すためではなく負傷させるための攻撃だった。ブリジッドはひたすら無頓着に襲ってくる者たちを止めようとしていた。はぐれた夜の触手が一本、壁沿いに彼女の背後へと這い進んでいた。そして輝く目をした人影がひとつ、ブリジッドが立つ狭い日光の帯を避けて石材に身体を押し付けながらその後を追っていた。

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アート:Zoltan Boros

 両者は彼女の背後を確保すると肩に掴みかかり、暗闇の中へと引きずり込んだ。ブリジッドは泣き叫んでもがいたが、やがて静かになった。そして再び開かれたその両目は満月のように明るく、昼間とは繋がりのない輝きに満ちていた。

 ブリジッドは新たな同胞と立ち並び、かつての仲間たちに矢を放ち始めた。アビゲールは背を向けた。身震いし、狼狽しながら彼女はサナールを連れ、キーロルとタムを追って飛んだ。

 陥落するゴールドメドウを後に、生徒たちは逃げた。


 「もう一度お願い」進みながらタムが言った。

 アビゲールは素直に手話を始めた。“暗闇の中にいた人たちは邪悪だというよりは怯えているように見えたわ。自分たちより大きな捕食者に追い詰められたと思った害獣みたいに。身を守るために攻撃していたのよ。私はそう思う。ブリジッドさんを止めたのは、怖かったから“

 「そして影の中に引きずり込まれると、ブリジッドさんは夜の姿になった」とタム。「そして、他の人たちと同じように怯えた。だからそちらの側で戦い始めた」

 “その通り” アビゲールの返答。“ここの夜は悪いわけじゃない、ただ違うだけ。それに夜の側の人たちは昼間の側と同じものを求めているわけじゃないということ”

 「オレ、帰りたいよ」サナールが言った。「今季の課題を終わらせたい。ここにいると課題を進めたくなるんだよ。それが嫌だ」

 タムが続けた。「ブリジッドさんは昼間のうちに行き先を教えてくれたわ。マラレンさんって人の所に行けば、ストリクスヘイヴンへ送り返してもらえるはず。きっとね」

 キーロルはタムを推し量るような視線を送ったが、何も言わずに前方の草原へと目をこらした。ゴールドメドウとは異なってそこは今なお陽光に照らされており、夜になるなど全くもってありえないように思えた。緑色に苔むした立石は野花に覆われ、シダの曲線や野花の形など至る所に螺旋の模様が浮かび上がっている。ファイレクシアの印ほど邪悪には見えなかったが、それでもキーロルは居心地悪そうに身をよじり、螺旋模様の間を進もうとした。

 サナールは首を伸ばして地平線を見つめた。「こっちで合ってるの?」

 「真東よ」タムが断言した。「方角の見分け方も知らないの?」

 「必要なかったし。ゴブリンは方角なんて当てにしないんだよ。進む道が正しいってわかってれば」

 「それはすごく……趣があるわね」タムの髪が揺れ、螺旋状にねじれて不服を示した。

 アビゲールは苛立ちに羽を立て、驚いた猫のような様相になった。それでも何も伝えることなく彼女は歩き続けた。

 やがて前方に、陽光にきらめくものが見えてきた。地平線の端から端まで銀色の帯のように伸びている。キーロルは背筋を伸ばし、3人を置いて駆け出した。「ワンダーワインだ! あったよ!」

 水辺に着くとキーロルは足を止めて見つめた。今まで見た中で最も大きな川だった。魚が水面で踊り、その鱗が太陽の光にきらめく。水は澄んで流れは速く、明らかに深かった。

 キーロルは疑問を口にした。「どうやって渡ればいいのかなあ」

 アビゲールは面白がるように羽角を立てた。“私に飛べって言ったのはあなたでしょう?” 彼女はキーロルの背後に立った。“いいかしら?”

 「……あんまり」キーロルはその申し出を少しだけ考えて答えた。それでも両腕を広げ、アビゲールに掴まれて宙に舞い上がった。

 「すごく強い吸血鬼は空も飛べるんだよ。いつかボクも飛べるかもって母さんは言ってたけど、父さん曰くうちの家族は誰もそんな力は持ってないんだって。どっちが正しいのかなあ」キーロルは両腕を広げたまま、空を飛ぶ感覚を存分に味わっていた。「母さんの方だったらいいな。空を飛ぶって最高だねえ」

 アビゲールは黙ったまま川を渡り切り、着陸してキーロルを立たせてから真面目な面持ちで返答した。“ええ、とても”

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アート:Mark Zug

 彼女は再び飛び上がり、もうふたりの所へ戻っていった。残されたキーロルは考え込むように辺りを見回した。川のこちら側、近くのどこかに大きな森があるのは明らかだ――キーロルが魔法植物環境学入門を受講したのはウィザーブルームへの密かな関心からではなく、環境が近くのものについて教えてくれるあらゆる物事への関心からであり、キーロル自身もそれを全く隠そうとはしていなかった。川のこちら側の草はごわごわとしており、日陰に適応した草花の葉は平らで滑らか。それでも美しい環境だった。ゴールドメドウの外に立つ木々よりも、ずっとよく周りのことを伝えてくれていた。

 キーロルは屈みこみ、指先で花々を撫でた。アビゲールがタムを下ろしてサナールの所へ戻っても、まだそうしていた。キーロルはそこで顔を上げ、不機嫌そうなゴルゴンと目を合わせた。「この花見てよ。光ってるんだ。太陽が出てるからよくわからないけど発光してるんだよ。シャドウムーアの明かりはこれなのかも」

 「すごく不思議ね」タムはキーロルの隣に屈みこんで答えた。

 アビゲールがサナールを抱えて戻ってきた時、ふたりは野花の効能について熱心に議論を交わしていた。タムはアルケヴィオスの花々にはあまり詳しくないようだったが、キーロルは地域ごとに分布する花の名前を暗唱できた。サナールが駆け寄るとふたりは議論を止め、背筋を伸ばした。

 「森はこっちのはずだよ」キーロルはそう言って歩き始めた。

 他の者たちも続いた。そして、これから起こるすべての物事もまた。


 森までの道のりは一時間ほどを要したが、その間にも頭上の太陽は微動だにしなかった。イシルーが地上を歩いていないこの場所では昼が続くらしい。あの夜の精霊は川の向こう岸にいるため、ここで怯える必要はなかった。

 永遠に続くのではと思うほど彼らは歩き、だがやがて森が見えてきた。ブリジッドが言った通り、その枝は籠のように編みこまれている。ようやく彼らは木陰に足を踏み入れた。自然のままの移ろいやすい暗闇が、まるで昔ながらの友のように彼らを包み込む。イシルーが放つ秋の輝きはない。これはただの影であり、不意の夜ではない。森の涼気を感じながら、生徒たちはブリジッドが言っていた支流を探して進んだ。

 当初、キーロルは足早に先頭を進んでいた。そのため次第に遅れ始めたのはそれほど驚くことではなかった。サナールは声高に話しながら歩いてタムの集中を削いでおり、そしてアビゲールは話し声以外の音を聞き取ることができない。キーロルの背後の茂みから静かな狩人が現れて掴みかかり、声も音も立てることなく引きずり込んだとしても驚くべきことではなかっただろう。

 振り返る者はなく、キーロルの姿が消えたことに気づく者もいなかった。


 叫ぼうとしたが口を手で塞がれ、キーロルは身体を強張らせた。だがそれは首回りを締め付けて呼吸を妨げる腕に比べたら些細な問題だった。

 冗談だよね、そう考えながらキーロルは無言で抵抗した。吸血鬼にも呼吸は必要だが、人間やエルフに比べたなら少なくて済む。望むだけ長く絞めさせておけばいい。

 しばし引きずられた後、首に回されていた腕が外された。だが代わりにナイフの鋭い刃が顎と喉の境目、その柔らかい部分に強く押し付けられた。親しみを込めた、友好的ですらある声が言った。「抵抗したり叫んだりしてみろ、お前の血がここの花にやる水になるぞ。よそ者、分かるか?」

 キーロルは可能な範囲で必死に頷いた。

 「話せ」

 「喉を切りたくないから、どこまで話せるかわからないよ。何の用だよ? ボクを捕まえてもドラゴンは手に入らないよ、交錯も害獣も」

 ナイフが離れ、その持ち主が引き下がってキーロルの視界に入ってきた。それはエルフの男性で、緑と茶の革でできた狩人の頑丈な衣服をまとっている。靴は履いておらず、実際、足はない――代わりに、華奢な蹄が土を踏みしめていた。更に不可解なのは、長く湾曲した角がその額から伸びていることだった。そのエルフはキーロルを奇妙なものであるかのように見つめた。自身とは異なるようなもの、そして実際ここではそうなのだろう。

 「その『ドラゴン』とやらが何なのかはわからないが、私が欲するものではない」エルフは言った。「お前が他のよそ者たちとゴールドメドウから逃げるのを見た。イシルーがなぜ歩くのか、お前は知っているはずだ。私が知りたいのは、お前が知っていることだ」

 「まず、ボクの名前はキーロルだ。何を知ってるかって、友達がボクを心配してるだろうってことだよ」

 そのエルフはきょとんとした。「は?」

 「ボクが知ってることを知りたいって言ったよね。知ってる中で一番重要なのはそれだよ。そっちの名前は?」

 「ルーウェン。お前の友達とやらのことは何も知らない。ただ最初に遅れをとったのがお前だったというだけだ。私が追いつけるのがお前だったというだけだ」

 「それはどうも」キーロルは呆れたように言った。「でも、どうしてそこまでして誰かを捕まえる必要があったの? ボクたちは君の森を抜けて……君の森だよね、エレンドラ谷へ向かう途中なんだ。マラレンって人に送り返してもらうために」

 「送り返してもらう、それは何処へだ?」

 「領界路の向こうにある世界。こことは色々違う世界だよ」キーロルはかぶりを振った。「ボクはここの生まれじゃない。お願い、置いていかれる前に友達のところに戻らないと。こんなふうに捕まったことは言わないから」

 「駄目だ」ルーウェンはそう言い放ち、背中から槍を引き抜いてキーロルに突きつけた。「一緒に来てもらう。高位完全者モーカント様がお前に会いたがるだろう。今やお前は私の捕虜だ。つまり、私の言うことを聞かないといけない」

 「そういう意味になるの?」キーロルは尋ねた。「そんなにはっきりした規則はないよねえ?」

 ルーウェンはキーロルの背後に回り、槍先でその背中を突いた。キーロルは悲鳴をあげて振り返り、睨みつけた。

 「わかったよ、行くよ。でもルーウェン、君は人選を間違ったよ。ボクは模範的な囚人なんかじゃないからね」

 「私は優秀な狩人ではないと言う者もいる。だから間違うのは当然のことだろう」ルーウェンはそう言い、再びキーロルを促した。「いいから歩け」

 ふたりは揃って森の中へと踏み入り、更に奥深くへと進んでいった。キーロルは肩をすぼめながらも叫び声を上げずに歩いた。遠くで、仲間たちがどんどん遠ざかっていくのがわかった。けれどすぐに、自分がいなくなったことに気づいてくれるだろう。きっと気づいて、自分を探すために引き返してくるだろう。

 間違いなく。

 キーロルとルーウェンの痕跡は森に飲み込まれたように、何も残らなかった。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)


※本稿のタイトルに用いた「この月にはもううんざり」は、シェイクスピア『夏の夜の夢』第五幕第一場(『新訳 夏の夜の夢』河合祥一郎 訳/角川文庫)から引用したものです。

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