MAGIC STORY

ローウィンの昏明

EPISODE 02

第2話 眠気を払って

Seanan McGuire
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2025年12月9日

 

 サナールは真っ先に踵を返して逃げ出した。臆病だからではなく身を守るために。奇妙な獣から流れ出した闇が彼の小さな光球を飲み込み、消し去った。光る苔も覆い隠され、心地よい薄暗さもまた消えた。もはや何も見えなかった。呪文は幾つか知っているが、この状況で役立つかもしれないものは破壊的なものばかりであり、唱えたなら誰かが傷つくだろう。逃走は唯一の賢明な選択だった。

 キーロルがすぐ後についた。吸血鬼であるその目は多くの者よりも闇に適応していたが、それでも幾らかの光は必要とする――仲間たちのぼんやりとした姿と、部屋の中をゆっくりとこちらに向かってくる獣の巨体を見ることができた。獣が洞窟の通路を通り抜けられるかどうかはわからなかったが、その動く様子を見るにできると思われた。猫やフェレットのように、柔軟な肋骨を圧縮して抜け出すのだろう。だからキーロルは駆け、他の者たちも賢明にそうしてくれることを願った。

 アビゲールに獣の叫び声は聞こえなかったが、その姿は見えた。彼女の目はキーロルよりも鋭く暗闇に適応しており、危険がどこにあるかを正確に把握していた。そしてタムの腕を掴もうとしたが、タムはその助力を拒んだ。アビゲールはよろめき、逃げ出した。学友を救うために自分の身を犠牲にするのはさすがに気が進まない。洞窟は狭すぎて翼を広げることはできず、彼女は森の中と同じように羽毛を逆立て、羽角を立てて走った。これは自分の姿を大きく見せるための自然な生理的反応だったが、巨岩の門から飛び出したその姿を見たサナールは恐ろしさに仰天した。彼は悲鳴を上げ、近くの立石に向かって逃げ出した。

 アビゲールはかろうじて気づいた。洞窟の開口部に出るや否や彼女は飛び立ち、不意の真夜中の空高くに舞い上がると眼下にそびえる門から離れた。獣が辿り着けない高さまで昇ると彼女は振り返り、学友たちの姿を探した。

 サナールを見つけるは難しくなかった――彼は立石の陰に隠れ、不安そうに門の方を覗き見ていた。キーロルは少し難しかった。じっと立つその姿は門から少し離れ、ねじれたトネリコの木の隣で見つかった。その木の枝は螺旋状に編んだ籠細工のようだった。

 タムの姿は見えなかった。

 突然訪れた夜の中、アビゲールは羽音を立てずに降下した。そしてあの獣の頭部が巨岩の門から現れて彼女はひるんだ。頭頂部の月が、外に出た途端に輝きを増す。獣は大きく重い足取りで一歩ずつ進み、遂にはその巨大な体躯が完全に姿を現した。

 荘厳だった。恐ろしかった。見るべきではない、自分には見る資格などない――アビゲールはそんな感覚をはっきりと抱いた。

 そして、その後を追うようによろめきながら門から出てきたのは、タムだった。獣は巨岩の門から一歩一歩、ためらうことなく離れていった。引き返しては来ないと確信し、アビゲールは急降下して学友の隣に着地した。そして簡単な質問を手話で送った。

 “大丈夫?”

 「大丈夫」タムは答えた。「他の皆は?」

 ついて来るようにアビゲールは手招きをした。そしてサナールの隠れ場所へ、次にキーロルがいる木の傍らへと駆けた。揃った4人はありえない真夜中の空の下、洞窟から出てきたあの獣が闇をなびかせながら重々しく進む様子を見つめた。闇は獣の通った跡ではなく、先導者であり従者だった――前を急ぎ、背後にかしずき、周囲のすべてを変容の夜の中に包み込んでいった。

 飲み込んでくるような不意の闇から逃げるすべを探し、キーロルは周囲の野原を見渡した。そして遠くに、太陽の光のようにかすかに輝く斑模様を認めた。「こっちだ!」叫んでキーロルは駆け出し、この時は同行者たちも耳を傾けた。生徒4人は残された昼の中を、かつてないほどの猛烈な速さで走った。

 到着してみると、その昼光はかろうじてタムとサナールを包めるほど小さなものでしかなかった。その上の空は見たこともないほどに青く、太陽の光が一点の曇りもなく降り注いでいた。

 “こんなことはありえない、昼と夜はこんなふうには振舞わない” アビゲールが伝えた。

 「アルケヴィオスではそうかもしれない」タムが言った。「けれど、ここの法則は違うみたいよ」

 もっと太い光の筋を見つけ、生徒たちは再び走った。ありえない暗闇から逃げ、光という安全そうなものを求めて。何故光の方が安全だと思ったのかは、誰も正確には説明できなかった。暗闇は怒り狂って咆哮する獣が生み出したもので、光は自分たちが到着した時からあったというそれだけだった。彼らは慣れ親しんだものに安全を求めた。

 この日光は4人全員を十分に包む大きさがあった。彼らは身を寄せ合い、不安げに周囲を見渡した。月の頭をもつ巨獣は去っていたものの、ありえない夜は今なお残っていた。そして夜の端は吸い取り紙に滴り落ちたインクのように今もなお変化し、広がりつつあった。

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アート:Mark Poole

 タムが何かに気づいたように身を硬くし、遠くの日の光に照らされた背の高い立石を指さした。そこには射手の革鎧をまとう人型の生物が屈みこみ、必死に手を振って彼らに呼びかけていた。来いということらしい。キーロルとアビゲールは視線を交わし、頷くと走り出した。サナールとタムもすぐ後ろについた。

 目指す道は所々が暗闇になっていた。その人物は生徒たちが影の中に入るとひるんだが、出てくると安心したように見えた。まるでその暗闇に入ったなら何かが起こると予想しているかのように。だが何よりも、走り始めたのは正しいことだったとその振る舞いは語っていた――この唐突な夜には何か危険なものがあるということ。サナールは一度振り返り、小さく悲鳴をあげた。先程自分たちがいた陽光の中へと暗闇が流れ込み、足跡を消し去っていた。

 「足を止めるな、進め、とにかく進め!」速度を上げながら、サナールはまくし立てた。

 間もなく彼らは小さな陽光の一画を見知らぬ女性と分かち合った。その女性は4人を見て頷き、議論や交渉の余地を感じさせない口調で言った。「ついて来なさい」そして背を向けて走り出した。生徒たちは後を追った。

 彼らはその女性に導かれて幾つもの立石の間を抜け、背の高いトネリコの森の外れへと辿り着いた。木々は高くまっすぐに伸び、樹皮には今や見慣れた螺旋の模様が刻まれている。キーロルは近づいてそれを観察し、はっとした――その螺旋模様は刻んだのでも描いたのでもなく、木と共に自然に育ったものだとわかった。そして不安を感じて一歩後ずさった。自然界にふと現れる模様を以前にも見たことがあったが、それはファイレクシアの侵略が迫っている前兆だった。

 だがこの見知らぬ女性は螺旋模様を気にしてはいないようだった。事実、この人物がまとうチュニックの革にも螺旋模様が刻まれており、髪もその模様を思わせるような三つ編みにまとめられていた。ここがどこなのかはわからないが、どうやら普通のことらしい。

 「あれ、何だったの?」サナールは答えを求め、タムに尋ねた。

 「わからない」タムは見上げた。頭上の空はまだ日の光に明るく、高く輝く太陽に支配されている。「こんなの見たことも……わからない」

 「質問することに困っているなら、私からひとつ」見知らぬ女性が言った。その不思議な様相すべてと同じく、アクセントもまた聞き慣れないものだった。「あなたがたは何者? どこから来たの?」

 もっともな質問、だが生徒たちには答える語彙がなかった。やがてアビゲールが詩人の本能に従い、前に踏み出して手話で返答した。“私たちはここからずっと離れた所にある、大きなアカデミーの生徒です。転んで落ちて、この草地に辿り着きました。敵対するつもりはありません。ですが私たち自身がどこにいるのか、どうやって戻ればいいのかがわからないのです“

 見知らぬ女性は顔をしかめた。「良かれと思ってなんだろうけど、私の頭の中に入って来ないでくれるかな。あなたは思考の糸の仲間じゃなから、そこにはいないで欲しいんだ」

 アビゲールは驚いたようだった。謝罪を伝える余裕もなく、彼女は頷いた。

 その女性は溜息をついた。「悪意がないのはわかるよ、可愛い鳥さん。済まないね、年老いた英雄の脆さだ。その道だけど、イニール・イオンセイフが世界の殻を割って以来現れてるんだよ。誰かがトンネルを転げ落ちてきて、運が良ければここローウィンに、そうじゃなかったら向こう側のシャドウムーアに辿り着く」

 キーロルは眉をひそめた。「イニール・イオンセイフ……」そう呟きながら、その言葉を見かけた昔の考古学文献と心の中で比較する。「金属の侵略?」

 女性は頷いた。「ボガートはそう呼んでるね」

 「貴女は何者なのですか?」タムが尋ねた。

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アート:Zoltan Boros

 「ブリジッド・ベイリ、キンズベイルの英雄だよ。あなたがたがローウィンに辿り着いてよかった。幸運だったよ。イシルーに巻き込まれたなら、ほとんどは明るい側の世界にすぐには戻れないから」

 「イシルー?」タムが尋ねた。「あの巨大な、頭に月を乗せた獣のことですか?」

 「もし夜のエレメンタルが他にも徘徊してたら、それはひとりの英雄じゃ解決できない大問題だね。そう、それがイシルー。今は眠っているはずなんだけど。ローウィンを踏み荒らして、私たちの領域にシャドウムーアを撒き散らすなんてことはしないはず」

 「シャドウムーアって、夜のことですか?」タムは境界線を指さした。自分たちが立っている昼間の光と、すぐ近くに広がりつつある夜とがはっきりと分かれている。境はぼやけているのではなく画家の筆致のように鋭く切られ、ただ片側に昼ともう片側に夜があった。

 「いや……ああそうか、あなたがたはここじゃない所から来たんだよね」ブリジッドはかぶりを振った。「ここを離れてから詳しく説明してあげる。大オーロラでも私は変わってないし、今も変わる気はないしね」

 「どうしてここにいたの?」自分も質問をしなければというように、サナールが尋ねた。

 「繰り返すけど、ローウィンに転がり込んできたよそ者はあなたがたが初めてじゃない。まあ、何が起こってるのかはまだ詳しくはわかっていないんだけど……あなたがたみたいな連中がやって来たり、去っていく所を実際に見た者はいないんだ。噂だけなら前からあったけれど、それでも少なかった。けど今ではワンダーワインの奴らが見慣れない旅行者を乗せたとか、どこかの相当な愚か者がエルフに掴まってリス・アラナに連れて行かれたとか、そんな話がしょっちゅう聞こえてくる。だから空に奇妙な光があるって聞いた時、もしかしたら奇妙なお客さんたちはそこから来るのかなって思ってね。で、自分の考えが正しいかどうか確かめに出てきたんだ。そうして今ここにいる。あなたがたもここにいる。そういうわけさ」

 彼女は空を指さした。その動きに合わせて生徒たちは見上げ、ほぼ一斉に溜息をついた。自分たちをこのローウィンへと運んできた領界路、その三角形の輪郭がそこにあった。まだ開いたまま、かすかで遠く、日の光に包まれている……

 ……今のところは。広がる闇は空をも飲み込み続け、彼らが見守る間にも虹色の三角形を拭い去るように覆い尽くそうとしていた。

 “駄目!” アビゲールは思わず否定の身振りをし、宙へと飛び上がった。翼を大きく羽ばたかせ、領界路があった場所へと向かう。他の者たちは見守っていたが、領界路の消滅を確信するとともにアビゲールの様子は変化し、希望は消えていった。彼女はゆっくりと降下し、皆の隣に着地した。

 タムはブリジッドへと向き直り、礼儀正しく尋ねた。「私たち、しばらくはここにいないといけないようです。どこか行ける場所をご存知ありませんか?」

 ブリジッドは考え込むような表情で頷いた。「ええ、多分ね。ついて来なさい」


 木立のゆるやかな枝葉の間から陽光と月光が差し込み、緑豊かな土に鮮やかな金色と涼しげな銀色の光を散りばめている。この隠された谷ではオーロラさえも昼と夜を隔てはせず、両者はわずかに重なり合う。草の緑色は翠玉にも劣らないほど濃く、だが驚くほど豊かに咲き誇る野の花々の前では見劣りする。そこにあるのは虹のあらゆる色、そしてエルフの手のひらほどもある白い花、子供が描いた流れ星のような小さく黒い花。それらの中心は更に暗く、星々の間を満たす空隙の色を帯びている。甘い香りは炎に直接注がれて焦がされた蜂蜜のよう。沈まない太陽ではなく月光の下で育った花々はまだらの夜闇の中で星々のように輝き、結果として天上のふたつの光に続く第三の光、この場所でしか見られない妖精の光となっていた。

 木々は蔓草やらっぱ型の花に絡みつかれながらも高くまっすぐに、谷の遠端までを埋めつくすように立っている。穏やかなせせらぎの小川が谷の中央を分断するように流れ、時と水の重みが石を磨く。だがこの谷を真に守るのは木々や水の壁ではなく、ありえない形で昼と夜が混ざり合う光景でもない。それは森の一画を取り囲む茨の生垣だった。剣で一本一本を切り離すのにも苦労するほど、緻密かつ狡猾に絡み合っている。棘は長く鋭く、緩やかに曲がって鉤のように掴みかかる。近づきすぎたなら肉に食い込むのだろう。さりげなく観察している限り、生垣に動きはない。だがその奥深くからはかすかで柔らかな音が絶え間なく発せられていた。まるでウナギの群れが警戒し、油断なく、貪欲に互いの上へ上へと這いずり回るかのような音が。

 谷の高所は小川の源流であり、そこには一輪の巨大な花が空へと伸びていた。その花を支えるのは途方もなく太い茎――よく見るとそれは、キスキンの太腿ほどもある茎が10本以上も螺旋状に絡み合い編みこまれたもの。茎は石や鋼鉄よりも強固に違いなかった。何故ならそれが支える花は、想像を絶するほど広大であるために。

 その花弁は銀と金と象牙色で、月と太陽と妖精という3種類の光を再現していた。花弁は波打って杯の形となり、先端は木々の梢よりも高くに伸びている。雄しべと雌しべがあるべき場所にはひとつの宮殿が鎮座していた。簡素さの中に時代を超越した優雅さを湛えるそれは、石ではなく成形された木苺の煉瓦で建てられていた。それでもかつて存在したどの宮殿にも劣らず巨大だった。防壁と塔があり、馬上槍試合や野外の宴会を開催できるほどの広い中庭も備えている。その何もかもがありえない――ありえない、つまり限りなく魔法に満ちているということ。この宮殿は、妖精の宮廷が成し遂げられるあらゆる物事を象徴していた。敷地内には昼と夜が点々と散りばめられ、混沌の中に美を漂わせていた。

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アート:Yohann Schepacz

 ここはエレンドラ谷、妖精の女王が住まう地。かつては大母ウーナの領域であったが、今は妖精の女王マラレンの居城となっている。妖精たちは絡み合った枝の間を舞い、宮殿の広間を飛び回り、甲殻に反射する光を宝石のようにきらめかせた。野花のように彼らはあらゆる色彩をまとい、その輪郭は無限の万華鏡のように形と角度を変化させた。妖精たちは影と日の変化に煩わされないよう、両方を避けて飛んでいた。

 茨の壁際に、あの妖精がいた――領界路からアルケヴィオスへと抜け出し、生徒たちをこの異界へと誘い込んだ妖精が。そしてそれは壁の隙間をすり抜けた。妖精より大きなものは通れないほど狭い隙間、そしてその妖精は大柄な部類だった。どうにか通り抜けると妖精は身体を震わせ、ぼろぼろの翼を伸ばした。そして絞首台へと連行される泥棒のような熱情をもって、一番近くの陽光へと足を踏み入れた。

 先程シャドウムーアに入った時とは逆向きの変化がその姿を覆った。外骨格にきらめく緑色が剥がれ落ち、翼を取り囲むぼろぼろの傷は滑らかになって柔らかな形をとった。数秒のうちに、緑色の妖精がいた場所には青く小さなローウィンの妖精が立っていた。明らかに失望した様子で自らを見つめるとその妖精は枝から飛び上がり、宮殿を目指して翼を激しく羽ばたかせた。

 そしてエレンドラ谷そのものに辿り着くと、妖精は広間に群がる同類の中へと姿を消した。そうなればもはや大して目立つ存在ではない。ある妖精は広間を掃き、またある妖精は落ちた茨を台所で火にくべ、あるいは午後のケーキの生地を混ぜていた。宮殿はエルフの体格に合わせて作られていたが、その住民のほとんどを占める妖精は大人の人間の手のひらほどの背丈しかない。宮殿のあらゆる壁から戸口まで、この矛盾は一貫していた。

 小さな青い妖精は宮殿内を通り、日光浴部屋へと向かった。そこでは妖精たちの群れが女王の花を世話していた。傷ついたり汚れたりした花弁を取り除き、新たなものの成長を促すのだ。青い妖精はそこで止まり、ジギタリスを一本掴むとまた飛び、広間また広間の奥深くへと進み、やがて目当ての場所に辿り着いた――閉じられたひとつの扉に。

 扉そのものに円形の窓が切り込まれており、その最上部は昇る太陽の形をしていた。小さな妖精は止まることなくそれを抜け、女王の部屋へと入った。

 部屋は大きく円形をしており、生ける苔やシダ、根を空気に触れさせることで育つ花々がタペストリーのように壁を柔らかに飾っていた。中央には城を小型化したような幅広の寝台が置かれ、その柔らかな敷物部分を繊細な花弁が梢のように覆っていた。妖精は中央の寝台に向かって降下し、そこに眠る者の枕にジギタリスを落とした。それから大きく羽音を立てて舞い上がり、部屋の窓から中庭へと飛び去った。

 寝台に寝ているのは、実に奇妙な生物だった。エルフらしく背が高いが、淡い緑色を帯びた肌は半ば結晶質を帯びて硬質で、オパールのようでもある。長く黒い髪は広げられて、敷布の上にまるで翼のような形を描いていた。朝の歌のエルフに特徴的な湾曲した角はその肌よりも緑色が濃く更に硬く、光の中で真珠のような輝きを放っていた。そして顔をしかめ、足先の蹄が敷布に食い込んでいる様子から、本当に恐ろしい夢を見ているのだとわかった。

 マラレンは驚くように目を覚ました。そして上体を起こし毛布をしっかりと抱きしめた。その動きでジギタリスの花が枕から落ちた。気付いた彼女は気分を害されたかのように、大きく目を見開いてそれを見つめた。慎重に手を伸ばし、なおも見つめたまま拾い上げた。そして持ち上げてじっくりと眺めたものの、その花がどこから来たのかはわからなかった。マラレンは再び花を落とし、頭を抱えた。

 何かがひどくおかしい。自分の夢にまで浸透し、それをひどく歪めてしまうほど大きな何かが。マラレンは身震いをしてジギタリスの花から顔を背け、頭から手を放すと長い指で髪を梳かした。繊細なラベンダーの花弁がはらはらと落ち、散りばめられた他の花と混ざり合う。慎重に、彼女は寝台の端へと身体を動かした。

 マラレンは細い蹄でよろめきながら立ち上がり、化粧台へと向かった。そして世界と向き合う身支度を始めようとしたその時、扉の穴から妖精の大群がなだれ込んできた。妖精たちは渦巻く嵐となって瞬く間に彼女を取り囲み、昆虫のような早口で一斉に喋り出した。

 マラレンは両手を挙げ、掌を突き出した。「やめなさい! 私に聞いて欲しいことがあるのなら、好き勝手にまくし立てないで。あなた」彼女は黒と茶をまとう妖精を指さした。一握りの枯葉が集まってひとつの生命になったような、そうとしか言えない姿。「ケイミー、何が起こっているのか教えて頂戴」

 小さなその妖精はマラレンの顔の少し前の宙で背筋を伸ばし、そして大胆な様子で女王へと近づいた。マラレンは妖精が着地できるように片手を差し出した。他の妖精たちはこの特別扱いに息を呑んだが、ケイミーはそこに着地すると翼を振って中立の姿勢をとった。「私たちは女王様専属の群れでございます」

 「ええ、その通り」マラレンも同意した。その妖精たちは彼女とエレンドラ谷が折り合いをつける中で、身体的必要性を満たすために特別に選ばれた、あるいは自ら立候補した者たちだった。前女王の化身であり朝の歌のエルフを模して作られたマラレンにとって、その調整がどれほどの規模になるかは不明だった。宮殿が拡張され、彼女があらゆる場所を利用できるようになるまでには10年近くを要した。彼女の皮膚が妖精の甲殻へと硬化を始めるまでにはその倍以上の時間がかかった。そしてそうした変化を円滑に進めるためには、女王と居城の両方への助力が必要だと妖精たちは判断したのだった。マラレンは異議を唱えなかった。

 ウーナの化身ではあるものの創造主を声高に拒絶した彼女は、臣民たる妖精たちと正しく繋がることが難しかった。彼女の名前は、創造主にして母であるウーナのような重みを備えていない。奉仕を通じて絆を深めたいと妖精たちが望むのであれば、喜んでそれを許す心づもりだった。

 「群れが集まる季節には、私たちは35人います」ケイミーは続けた。

 「そうね」他に反応のしようがなく、マラレンは頷いた。

 「ですが今は34人で、エーリンの姿がありません。普段怠けてる場所のどこにも見当たらないのに、皆であいつの分まで働かないといけないんですよ」ケイミーは苛立った様子で顔をしかめた。「何時間も何時間も何時間もずっと姿が見えないんです。何人かで探しに出たんですが、見つかってません」

 マラレンはきょとんとした。

 「けど最悪なのは、誰かがあいつの寝台を使ってるってことなんです。で、全員集めるとどうやら35人いるみたいだっていう。だからあいつがどこにいるのか、どうしていなくなったのか、あいつの枕を使ってるのは何者なのか、誰もわからないんです!」

 マラレンは妖精たちの心配事を真剣に受け止める術を身につけてもう長い。目を覚ました時の夢は薄れつつあり、残っているのは刺々しい闇の筋と、世界の秩序が乱れているという胃が締め付けられるような感覚だけだった。そしてそれは、今の報告と重なるとひどく不安なものとなった。だがそれが何を意味するのかを考えようとしていた時、部屋の扉が勢いよく開いてエルフの男性が入ってきた。身にまとうのは光り葉の狩人に見られるような緑と茶色、そして巧妙な幻触術。遥か昔に折れた角がその頭部を飾っている――それはローウィンでの傷から解き放たれて月光の側を、シャドウムーアを歩む時の威厳ある姿。彼もまた広間に群がる妖精たちと同じように、影を避ける術を身につけてもう長い。そうしてその瞬間の記憶を宿すオーロラの側に身を置いていた。

 「ライズ」安堵に満ちた声でマラレンは呼びかけ、手を下ろした。ケイミーはその場所に少しの間留まっていたが、群れ仲間のもとへと戻っていった。マラレンは友人へと歩み寄った。

 ライズはエルフの標準的な寿命をはるかに超える年齢だが、マラレンと同じくその老いは全く顔に出てはいない。彼の姿を見た者は、全盛期の狩人だと思うだろう――通常の状況ではありえない程に成長した立派な角が静かに物語っている以外は。マラレンにとってライズは友であり、腹心でもあった。そして自分がどれほど変わってしまったかを、いずれ訪れるであろう変化をどれほど恐れているかを理解している数少ない人物のひとりだった。そして、いざとなれば、処刑者を務めることになっていた。

 マラレンはウーナから生まれた。そしてそのウーナがローウィンとシャドウムーアの心臓の根源を蝕んでいたのだった。古き妖精の女王の死はこの世界にとっては贈り物だったが、それには多大な犠牲が伴った。そしてマラレンは創造主と同じ残酷な道に身を委ねることを拒んだ。もしも自分がゆっくりと変容し、創造主の道へと堕ち始める兆候を見せたなら、ライズは自分を殺すことになっている――ツキノテブクロのエキスを塗り付けた短剣を抜き、心臓に突き刺すのだ。ツキノテブクロの毒、ツキノヒカリを治癒する手段はローウィンには存在しない。シャドウムーアだけに咲くアケノテブクロならばという噂もあるが、太陽が輝く中でそれが効くという証拠はなかった。

 どちらの花もエレンドラ谷では育たない。妖精の宮廷のように昼と夜が混じり合うのではなく、片方のみの環境を必要とするためだ。

 殺してもらう必要性がマラレンに残っている限り、ライズは生き続けるのだろう。そしてライズが生きている限り、マラレンは彼に死の重荷を背負わせまいと戦うのだろう。

 「妖精たちが壁にぶつかるのを止めてここに向かっていった。それで君が目覚めたとわかった」ライズが言った。「また悪い夢を?」

 「ええ」マラレンは窓の方を向いた。「妖精のひとりがいなくなったの」

 「本当に? わかるのか?」

 「長く一緒に暮らしてきたのよ。わからないわけないでしょう」マラレンは鋭く言い返し、そして恥じるように言葉を切った。「ごめんなさい、きつい言い方をして」そしてまだその場に浮遊しているケイミーへと振り返った。「他の皆を連れてエーリンを探しに行きなさい。見つかったという知らせがあるまで、私は宮殿にいます」

 ケイミーは頷き、窓へと飛んで行った。群れもそれに続いた。マラレンは妖精たちが飛び去るのを見送り、そしてライズへと振り返ろうとした途中で鏡に目をとめた。一瞬、自分と彼と、そして三人目の誰かが部屋にいるように見えた――小さく、生ける花弁でできた人影が、尽きない敵意の視線を向けているような。マラレンがひるんで飛び退くと、その鏡映しは消えた。

 「マラレン? どうした?」

 「ただ……落ち着かなくて」彼女は動揺を隠そうとした。「中庭を散歩したいの。エイルドゥはまだ敷地内に?」

 「ああ。でも何故……」

 ライズの質問はマラレンに届かなかった。既に彼女は足早に扉に向かっていた。ライズは眉をひそめた。

 部屋を出る際にマラレンは振り返ったが、かすかな笑い声が耳に響いて顔をしかめた。ライズは反応しなかった――聞こえているのは自分だけなのだ。

 逃げるようにマラレンは駆けた。


 エレンドラ谷の庭は甘い香りで満ちている。日光浴部屋やその他に囲まれていながらも、花は奇妙な程まばらにしか生えていない。当初マラレンは戸惑ったが、よくよく考えてみれば巨大な花の中に花を植えても上手くいかないのだろう。それでも、広大な中庭は殺風景でありながら十分に心地よかった。下方の小川から運んできた平らな石が敷き詰められ、壁際には低い卓が置かれ、その上には鉢植えの蔦が自由に生い茂っていた。

 今、中庭に一切の影はなく、陽光だけがあった。宮殿の他の部分とは異なって、曖昧さも変化もない。ローウィンだけがあった。そしてその中心にいるのは、巨大で不可解な獣だった。肢は6本、毛皮の色は赤と白。棘のある長い尾が目印のように、そして自身とその外を隔てるように辺りをぐるりと取り囲んでいる。翼は満足げに小さく折りたたまれ、頭の直上には輝く太陽が浮かんでいる。そこから暖かさと光が波のように放射されて中庭を黄金色に染め、心地よさを与えていた。マラレンが近づくと獣は頭を上げ、静かな親しみを込めて彼女を見つめた。

 エイルドゥに愛されるということは、太陽からのありえないほど広大な愛を受けるということでもある。この昼のエレメンタルはあまりにも偉大であるため、そのすべてを認識できるのはエイルドゥ自身以外にないのではないか――マラレンは時折そう考えた。立っている時は限りなく大きく見えるが、小さく丸まって満足そうにしている時はどんな空間にも馴染む。まるで中庭のように、女王の傍らにいるかのように。

 「こんにちは」マラレンは近づきながら言った。すると獣は頭を低くし、彼女は片手をその鼻先に押し当てた。このエレメンタルの前では、自分も妖精たちのように小さく感じる。いつもながらそのことには驚嘆させられた。彼女は手のひらをその皮膚に押し当てて目を閉じ、ただそこに数分間立ちつくした。獣が小さく鼻を鳴らしたところでマラレンは一歩下がって目を開け、微笑んだ。エレメンタルは朝日のように立ち上がり、身体を震わせると中庭の端へとゆっくりと歩いていった。

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アート:Lucas Graciano

 「また会いましょうね」マラレンはそう言い、自室へ戻ろうと背を向けた。輝かしい獣は中庭を出て、輝きと温かさを保ったまま歩き去っていった。

 今は待つべき。そして妖精たちが何か知らせを手に入れたなら、それを持ってくるはずなのだ。

 壁際にいた妖精の一群が、去り行く獣を見守っていた。ひとりが言った。「昼間を閉じ込めておくのは良くないもんね」

 「また戻ってくるよ」もうひとりが言った。

 エイルドゥが歩き去ると、宮殿内の至る所に点在していた暗闇が中庭にも現れはじめた。そして頭上の穏やかな青空にもまた夜闇が差し込んでいった。マラレンは陽の光に照らされた小道を歩き続けた。

 少し離れた場所で、あの青く小さな妖精がそのやり取りを聞いていた。それは明らかに困惑したように眉をひそめていた。妖精は周囲を見回し、新たに現れたシャドウムーアの一画を見つけた。そして月光の中に飛び込み、逆の変化をその身に受けた――青は緑に、滑らかさは刺々しさに。妖精はくすくすと笑って悦に入り、舞い上がるとマラレンを追いかけて彼女の部屋へと向かった。

 エレンドラ谷での仕事はまだ終わっていないのだ。


 教授としても学生としても、リリアナ・ヴェスは長いことストリクスヘイヴンに身を置いていた。それゆえに魔法植物環境学の講義の進行についてはよく理解していた。生徒たちは登録し、アルケヴィオスの魔法植物について学び、適切な頃合いになれば標本採集の実習に出かける。その間自分は午後の講義を休み、成績評価の遅れを取り戻す。現在の状況はまさしくそういった所だった。

 今この時までは。彼女は個人的に気分を害されたかのように執務室の扉を睨みつけ、静かに命じた。所定の時間外にノックしてくるとは何事なの。立ち去りなさい。

 だが訪問者は再び扉を叩いた。リリアナは黒いスカートを翻して立ち上がり、文句を言ってやろうと大股で向かった。だが扉を開けて彼女はひどく驚き、片手で口を覆った。

 執務室の外の廊下に立っていたのは、黄金のたてがみのアジャニだった。彼女の視線をまっすぐに受け止め、その表情は普段と変わらずに限りなく穏やかだった。「こんにちは、リリアナさん」

 「アジャニ」彼女は一歩下がり、入るように促した。「これは驚きね」

 「そうでしょう」彼は同意し、扉を閉められるよう中に入った。「リリアナさんに会わなければならない用事がありました。確かめなければならないことが……」どう続ればいいかがわからないかのように、その声は小さく消えた。

 リリアナは鋭く息を吸い込んだ。「お茶はいかが? それより強いものはないわよ。ここは学校だから」

 「だからといって自重しない者はいるでしょう」

 「残念だけど、言い訳しても駄目。規則には従わないといけないのよ」彼女は茶器が置かれたサイドボードに向かった。だがそこで立ち止まり、両手を木材に押し当ててアジャニへと振り返る。「誰が死んだの?」

 「何故それを?」

 「私はずっと長いこと屍術師をやってきたわ。いつもゾンビと一緒に月明かりの下で高笑いをしてるだけじゃない。あなたの行動は遅すぎたって分からせなければいけない時もあるし、立ち上がらせて歩き回らせることができても、それは生き返らせるという意味じゃないって教えないといけない時もあるのよ。だからお願い、アジャニ。昔からの友人だとか、ただ私の様子を見に来ただけだとか、そんな嘘はつかないで。私たちが知っている誰かが死んで、だからここに来たのでしょう。誰が死んだの?」

 「ジェイス君です」

 それはとても短い言葉だった。たった一言、数文字、それでもまるですべての終わりのようにこの部屋に落ちてきた。わずかに残る心の、硬くなった壁に槌が叩きつけられるように。ジェイスが? ジェイス・ベレレン、あの賢くも見事な災厄が? 死ぬわけがない。いなくなるわけがない。テゼレットもボーラスも新ファイレクシアも乗り越えて生き延びてきたのだから。幾度となく自ら屍術師となって、もはや戻れない所から蘇ってきたのだ。それが今になって死ぬなどありえない。

 リリアナは自身の否定を批判的に考え、これが唯一理にかなった反応だと判断した。かつて、彼を愛していた。だがもはや愛してはいないし、二度とそうなることもないだろう。だからといって死んでも構わないというわけではない。これまで自分はとても沢山の感情を葬ってきた。こんなに簡単に、またひとつ手放すわけにはいかない。

 彼女は手を震わせることなく茶を淹れ、その間は何も言わずにいた。沈黙が続き、やがてアジャニが気まずそうに尋ねた。「聞こえましたか?」

 「聞こえたわよ」彼女は杯に蜂蜜を加えてようやく振り返り、感情のない顔でアジャニを見た。「そうですか、って単純に信じることはできないわ。何があったの?」

 「リリアナさん、その……」

 「何が、あったの?」

 その静かな凄みに、アジャニはひるんだようにも見えた。そして低い声で彼は話し始めた。「ドラゴンの嵐はご存じでしょうか? 私はタルキールにいて、それを止めるためにエルズペスとナーセットさんを手伝いました。私たちは兆候を追いかけ、瞑想領土に辿り着きました。そこにジェイス君がいたのです。彼は――」アジャニは言葉を切り、身構えるようにひとつ息を吸った。「もはやファイレクシア人ではありませんでしたが、何かが、どういうわけかおかしかったのです。彼は私たちの誰にも判別できない何かを唱え、そして制御を失いました。暴走したその呪文はジェイス君の手の中で崩壊し、ジェイス君自身もまた崩れていきました。呪文がジェイス君を捕らえ、そしてその姿は消えました。残ったのは光と、風に乗るエネルギーだけでした」

 「あの子……」リリアナは言葉を切り、かぶりを振った。「死体はなかったのね。なら死んではいない。ジェイス・ベレレンが死体を残さずに死ぬわけがないのよ」

 「リリアナさん――」アジャニは再び身構えた。「もうひとつ、伝えなければならないことがあります。その嵐は瞑想領土を襲い、すべてを切り裂きました。そしてジェイス君は嘘をついていました。彼はラヴニカで貴女を見逃しましたが、あの時ボーラスは死んだのではなく、ウギンに捕らえられていたのです。そしてそれをジェイス君は偽装し、あのドラゴンは死んだと私たち全員に思わせていたのです」

 「それで?」

 「ボーラスは逃走しました」

 リリアナの杯が床に落ち、砕けた。

 「領界路を通ってです――その灯が残っているのかどうかはわかりません。たとえ残っていたとしても、あのドラゴンは貴女の居場所を知りません。ですが貴女は知る必要があった」

 リリアナはアジャニを見つめたままでいた。その時、執務室の扉が勢いよく開いてダイナが飛び込んできた。葉の髪がひどく乱れている。「ヴェス教授、今日連れ出した生徒が4人、行方不明なんです!」

 リリアナはアジャニから顔を背け、その生徒へと向き直った。教授としてのプロ意識が覆いのように彼女を包み込む。「何があったのですか?」

 「4人のうちのひとりが、見たこともない空飛ぶ小さな生き物を見つけて走り出したんです。両手のある大きな虫みたいだったとか。もう3人が続きました。そして領界路に落ちたようなんですが、私たちも追いかける前に閉じてしまったんです。お願いです、見つけないといけません!」

 リリアナとアジャニは視線を交わした。

 「見たこともない空飛ぶ生き物? 大きな虫みたいな?」リリアナは尋ねた。

 「思い当たるものは沢山ありすぎますが」とアジャニ。

 「このあたりにそういうのはいないけれど」とリリアナ。

 ダイナはふたりを見た。伝えたことでその焦りは幾らか和らいだようだった。「見つけて頂けますか?」

 「もちろん試してみよう」アジャニが言った。「その子たちがどこにいたのか、教えて頂けるかな」

 ダイナは頷き、3人は揃って出発した。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)


※本稿のタイトルに用いた「眠気を払って」は、シェイクスピア『テンペスト』第二幕第一場(『真訳 シェイクスピア傑作選』石井美樹子 訳/河出書房新社)から引用したものです。

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