MAGIC STORY

ローウィンの昏明

EPISODE 01

第1話 この森から出たいなどと

Seanan McGuire
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2025年12月8日

 

 「さあて、大変長らくお待たせしました」大仰な仕草で両腕を広げ、ダイナは宣言した。木立全体、生徒たち、森、すべてを包み込むように。そしてその両腕を自分の脇に下ろして続ける。「鷹ノ森に到着」

 「荷車を使っていいんだったら、もっと早く到着できたのに」生徒のひとりが言った。もはや動かすのも苦痛であるかのように、片足を地面から浮かせる。「せめて山歩き用の靴で来いって言ってくれればなあ」

 「いい指摘ね、キーロル」とダイナ。「荷車や飛空バスじゃなくて、学舎から歩いて来ることがどうして重要だったのか。誰か分かる?」

 「オレたちを疲れさせようとしたとか? 森に迷い込まないように」別の生徒が尋ねた。青い肌で背の低いゴブリンで、その体格よりも採取籠の方がずっと大きい。

 「不正解よ、サナール。でもそれを思いつきたかったわね」とダイナ。「ここは鷹ノ森。そして下級生が試料採取のためにここに来るのを許可されるのは今年でまだ二年目。誰か理由はわかるかしら?」

 細身の女子学生が手を挙げ、ダイナが頷くのを待った。その黄緑の肌には蛇の鱗のように暗緑色の縞が入っている。「オリークと魔道士狩りが追い払われる前は、一年生の魔道生徒を中央学舎から一時間も離れた場所に行かせるのはかなりの危険が伴いました。今はオリークが事実上いなくなったので、こういった遠隔地を研究のために開放できるということです」

 ダイナは頷いた。「大変結構よ、タミラ。この鷹ノ森は学舎から徒歩で一時間。セッジムーアや暴風区画のような魔法的環境から十分離れているから、ここの植物は魔法的に中立だと考えられているの。荷車を持ち込まないのは、それが魔法で駆動しているから。これから集めようとしている花に影響が出る可能性があるためよ」

 “どうしてここに来たのですか? 私はウィザーブルームの課程に入っていないのでわからないのですが” 茶色の羽毛をまとうオーリンが身振りをした。彼女の言葉はほんの一瞬遅れて補聴器から精神感応のように伝わり、周囲の者たちの心に響き渡る。“魔法植物環境学入門を受講しているのは、植物召致学上級の前提条件だからなのですが”

 「ありがとう、アビゲール。確かに『籠を渡すから綺麗な花を集めてきなさい』だけじゃなくて、もう少し詳しい説明が必要な生徒もいるわよね」その言葉に、生徒たちは緊張しながらも笑い声をあげた。ダイナは背後に手を伸ばし、一番近くの木に絡みついている蔓から花を一輪摘み取った。そしてそれを掲げる。「これは交錯花」

 生徒たちは律儀にその花を見つめた。ラッパの形をした白い花であり、特に変わったところは何もない。交錯花は大学のそこかしこで見られ、岩だらけのロアホールドの歩道からセッジムーアの湿地帯までどこにでも生えている。ウィザーブルームでは害獣の主な食料源となっていた。その蔓は成長が速く、石造建築に深刻な被害を与えかねない。だが害獣は根こそぎ食べ尽くすのでそれを防いでくれるのだ。そして交錯花は驚くほど魔法に敏感であり、生育場所によって色や香りさえも変化する性質を持っていた。

 五つの大学はどれもそれぞれのやり方で交錯花を活用していた。プリズマリの栽培家は交錯花を様々なエレメンタルの力にさらすことで形や色を変化させ、精巧な花飾りを作っていた。それらの花は一本一本が全く異なるだけでなく、息を呑むほどに美しい。ロアホールドの植物史学者は発掘現場の近くに交錯花を植え、開いた花の色の濃淡から当該地域における魔法の流れを地図化し、過去にそこで唱えられた呪文について多くのことを学んでいた。クアンドリクスの学者たちは交錯花の蔓の伸び方を研究し、周囲の魔法が数学的確率にどのような影響を与えるかを研究した。シルバークイルの詩人たちは種子に囁きかけ、完璧で唯一無二の生ける詩となるようにその花を育てていた。

 そしてウィザーブルームの魔道士たちは言うまでもなくその花を茶や薬液の材料として、また研究に用いる多種多様な要素の源として用いていた。

 「これみたいに魔法の影響を受けていない交錯花は、学舎の中や近辺ではなかなか見つからないのよ。鷹ノ森は『まっさらな』標本を採取できる一番近い場所なの。今日皆が集めた花はウィザーブルームの教室に送られて、新しく召喚された害獣たちの餌になって、害獣が作り出す要素に変化が生じるかどうかを確かめることになる予定よ。何ら特別な実験じゃないわ。教授は毎年やってるし。でも害獣の要素が外部の力によってどう影響を受けるかを知るための、これは有益な入門編よ。私が学んだ時にはね、魔法的に中和された土に生えた花を学舎で探さないといけなかった。つまり、この長い道のりは皆のためだったということ。さ、午後の授業をさぼって、素晴らしい自然を満喫しながら花を集めましょう」

 励ましているように見えればと思い、ダイナは笑みを浮かべた。この授業の教育補助業務は二年目になる。来年はもう少し専門的な授業の担当をヴェス教授に願うつもりだった。そうでないと、専攻を決めていない一年生をセッジムーアに溺れさせてやりたくなってくる。そういう子たちは手が汚れるのを嫌う。それがダイナの神経を逆撫でしていた。

 「皆、誰かと組んで、ハサミを持って。そして無傷の交錯花を少なくとも各自6本、多くても10本摘んでくること。そうしないと学舎に戻れないわよ。もし余ったら他の生徒と分け合っても構わないし、私にくれてもいいわ。お茶の材料はいくらあってもいいものだから」

 そしてダイナは背後の木に寄りかかった。「指示は終わり。さ、行ってらっしゃい」

 鷹ノ森は緑豊かな場所だ。分厚い樹冠が太陽光を完全に遮るため、その下は常に黄昏時のように薄暗い。木々の間を歩き回る生徒たちが自身の行動を見ることができる程には明るいものの、メモを取ったり正確な測定をしたりするのは困難だった。

 生徒たちが採取のために歩き出す様子を、かすかに面白く感じながらダイナは見つめた。誰かと組んだ者も独りの者もいる。彼らの半数ほどは、目的をもって森に入るのは明らかに初めてらしい――根につまずき、あるいは低い枝に髪を引っかけてしまっていた。田舎出身の生徒たちは森の中を楽々と移動していたが、美味であったり役に立つと分かっていたりする果実や薬草へとひっきりなしに気をとられていた。

 事実、特に昨年と比べると、今年の一年生はとても順調にやっていた。昨年は巨大な蔓を魔法で呼び出し、急激に膨らんだ泥水溜まりからクアンドリクス志望の三人を引き上げなければならなかった。彼らはどうしてかそれを自分たちで引き起こし、丸ごと飲み込まれる危険に陥っていたのだった。

 残念なのは、生徒たちが順調にやっているということは、状況はずっと退屈だということだ。ダイナは寄りかかった木の幹に頭をもたげ、梢を見上げた。良い生徒を務めてきた自分のご褒美がベビーシッターの仕事だとは。

 とはいえこの数年を考えるに、ベビーシッターの仕事にも良い点はいくつかあった。退屈かもしれない、けれど誰かが死ぬことはないし、一生夢にうなされるような恐ろしい肉と鋼鉄の融合体に変身したりするということもない。ダイナは目を閉じて森の香りを胸に満たし、生徒たちが作業に勤しむ様子に耳を傾けた。退屈であろうとなかろうと、午後の過ごし方としてはたまらなく素敵だ。

 生徒たちは群れたり散ったりしながら森の中を進んでいった。交錯花は沢山咲いていたが、様々な理由から素材として適さないものも多かった。害獣や他の生物にかじられて花弁に穴があいているもの、明らかに成長途中で魔法にさらされて奇妙な色に輝いているもの、花弁や葉が奇妙な塊となって伸びているもの。課題にふさわしいのは、完璧でまっさらな花だけ。そのため生徒たちは手つかずの花を探し、森の奥深くへと進んでいった。

 アビゲールはダイナの視界から真っ先に姿を消し、細くも誘うような道を辿って森の奥深くを目指した。控えめな彼女はいつも通り注意深く動き、地面を覆う落ち葉を鉤爪の生えた足で踏みしめた。身に着けた補聴器はシルバークイル製であり、周囲の雑音を取り除いて意図的な会話だけを拾う。彼女は慎重に歩いていった。困り事に巻き込まれるような騒音を発してしまっても、知るすべはないのだ。

 そのほぼ真上を、枝の隙間をすり抜けるようにキーロルが進んでいた。枝から枝へと慎重に掴みながら、彼女を追って森の中へ入っていく。アビゲールと同じく、キーロルも片腕に採取籠を下げていた。だがアビゲールと違い、ハサミはズボンの腰部分にしまい込んでいる。もし落下したら刺さって怪我をしてしまうだろう。アビゲールが花の群生をよく見ようと立ち止まった時、キーロルはその真後ろにふわりと着地した。

 まっすぐに前を見ていたアビゲールは気づかなかった。彼女は花へと身を乗り出し、ハサミを取り出し、手を伸ばして完璧な一輪を切り取った。籠の中の3本にそれを加え、背筋を伸ばして振り返る。そして背後の人影を見て跳び上がり、かすれて甲高い声を響かせた。

 キーロルは口に手を当て、歯を見せた笑みを隠した。「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど」

 アビゲールはハサミを籠の中に落とし、鋭く宣言するような仕草で両手を動かした。一拍遅れて精神感応の声が響く。“キーロル、前から言っているでしょう! 私にこっそり近づかないで!”

 「だってすごく簡単だからさあ」またもキーロルはにやりと笑った。今回は鋭く尖った犬歯がはっきりと見える。「ねえ、なんで歩いてるの? ボクに翼があったら絶対に地面になんて立ってないのに」

 アビゲールはため息をついた。“空中で静止はできないのよ。飛びながら花を集めるのは難しいの。いくつ見つけたの?”

 「2本だよ、今のところ」キーロルは石を蹴り飛ばした。「こんな野放しに育ってるのに『まっさらな花』なんて見つけられるのかなあ」

 アビゲールは羽をふわりと広げ、大げさな諦めを表現した。“地面の上にいる方が見つけるのは楽よ”

 キーロルは仰々しく息を吐き、片手でひとつ身振りをした。

 アビゲールの羽角が――頭の両脇にあるため「耳」だと思う者もいるがそれは違う――が弧を描いて上がり、愉快な感情を示した。“惜しいわ。「何でもいいよ」って伝えたかったのよね?”

 「ボクの今のは何て意味になるの?」

 “ヴェス教授の目の前でそれを繰り返さないこと。説教されるかもしれないわよ、言葉遣いに気を付けなさいって”

 キーロルは早口で言った。「汚い言葉なんてあの教授は気にしないよ!」

 “何を言っているのかをあなた自身がわかっていないということが問題なのよ。きっとまた、いい加減な子だって言われるでしょうね“ アビゲールは甲高く響くように笑い、近くの花を観察しようと背を向けた。その脇の茂みで何かが砕ける音がした――彼女には聞こえなかったが、キーロルには聞こえた。振り返ってその方向を見ると、茂みの中からサナールが宙返りとともに現れた。小柄なゴブリンの髪には潰れた交錯花や葉が絡まり、片腕にかけた採取籠は空っぽだった。

 「いいものはあった?」面白がるようにその様子を見つめながら、キーロルは尋ねた。

 サナールは元気よく言った。「もう少しでコチャドリを捕まえられたのに! 交錯花をついばんでたんだよ。種があちこちに散らばっているのは多分そのせいだ」

 「コチャドリ?」

 「そのまま『小』さな『茶』色の『鳥』よ」新たな声が聞こえた。落ち着いて女性的、そしてストリクスヘイヴンの建物で長い時間を過ごした者なら誰でも「学者」とわかるような明確な口調。緑色の縞模様をまとうゴルゴンの生徒が、サナールの足跡を辿って茂みから現れた。そのゴブリンとは異なり、彼女の身なりは小綺麗かつ落ち着いていた。蛇のようにうねる髪に邪魔な植物は一切絡まっておらず、完璧な交錯花の籠は満杯に近かった。

 キーロルはアビゲールの肩を軽く叩き、そのゴルゴンの女生徒が来たと教えた。「やあタミラ。クラスの人気者連中がたむろしてるなあ」

 「私はきちんとやっているわよ。アビゲールも、授業に集中している時は完璧な優等生よ。この前作っていたプリズマリの夜空を謳う詩よりもずっといいわ」タムは穏やかに言った。「まあそうよね、皆同じ所に集合するわよね」

 「花、全部なくなっちゃったよ」サナールは籠の中を覗き込み、そして不機嫌そうにタムへと向き直った。「タム、オレの花が全部なくなっちゃったよ」

 「だから余分に集めてたのよ。少し分けてあげる」タムは自身の籠をサナールに差し出した。彼はそれを受け取ると花の束の中から楽しそうに選び、自分の籠に落としていった。

 タムはキーロルへと振り返った。「またアビゲールに忍び寄ろうとしたの?」

 「違うよ。忍び寄るのに成功したんだよ」

 「失礼な行動よ、こっちが近づいてくる音が聞こえない相手にそんなことをするのは」タムの髪がうねうねと動いた。「やめないなら確かめさせてもらうわよ、石でできたキーロルはどれだけこっそり動けるのかしらね?」

 「タムはそんなことしないだろ。できないだろ。できるの?」

 「知りたい?」

 サナールはタムの背後に腰を下ろしていたが、少し背筋を伸ばして木々の中の何かに目をとめた。

 「誰か、あれ見える?」

 キーロルはそのゴブリンが示す方向を見ようと動き、立ち止まり、頭上の木々の中にいる小さな生物に目を瞬かせた。まるで人型の昆虫のよう――どうやら二足で歩き、細長い肢は青く輝くキチン質に覆われている。翼は幅広できらめいており、まるで大きな塊から剥がれた雲母の板のよう。それは不気味なほど人間に似た顔を一同に向けて笑い、そして空へと飛び立った。

 「おい!」サナールは叫んだ。「待ってよ!」

 彼は急いで立ち上がり、逃げるその生物を追いかけた――タムの採取籠を持ったまま。キーロルはそのシャツの背中を掴もうとしたが間に合わなかった。手が何もない宙を握りしめ、危うく転びそうになる。

 「私の花!」タムが叫んだ。「成績が!」

 「ボクが行く」キーロルが言い、サナールを追って駆け出した。

 そこで騒ぎに気づき、アビゲールはタムに手話で尋ねた。

 “追いかけた方がいい?”

 「ええ!」タムは叫び、同時に手話でその言葉を伝えた。アビゲールは頷くと翼を羽ばたかせ、地面から浮き上がって宙を進んだ。だが木々の隙間は狭くて飛ぶには適さず、サナールの後を追うためには着地を強いられた。キーロルは彼女を追って走り、タムもその後を追いかけた。触手の髪が四方八方に激しく揺れた。

 生徒四人はそれぞれの目的だけを見つめ、森の中へと駆けた――サナールはあの奇妙な生き物を追いかけ、アビゲールとキーロルはサナールを、タムは自分の採取籠を。花が跳ねて地面に落ちるたびに、彼女は小声で罵倒した。その衝撃で花びらが傷つき、成績の評価に使えなくなってしまう。

 足元を見ている者は誰もいなかった。

 下生えからほどけた木の根が一本、小道を横切るように伸びていた。そして水面を破って飛び出す海蛇のように、不均一な塊となって地面に盛り上がっていた。まずサナールがつまずいた。輪になった根に片足が引っかかり、彼は転げた。空中であれば優雅に避けられたであろうアビゲールがそれに続いた。前のふたりのようにつまずくまいとキーロルは立ち止まりかけたが、後ろから突進してきたタムに激突されて揃って倒れ込んだ。

 根の先は下りの斜面になっていた。落ち葉を敷き詰めた地面を生徒四人は転げ落ち、ありふれた木立の中央にある大きな穴へとまっすぐに向かっていった。さらに追い打ちをかけるように、穴の縁には無傷の交錯花が円を描いて咲いていた……まるで合格点を約束するかのように。

 そして彼らは、滝のように降り注ぐ虹色の光の中に落ちていった。授業はもはや大して重要ではなくなったように思えた。一瞬にして、生徒たちは消え去った。

 最初にサナールの注意を引いた奇妙な小さな生物が、翼を羽ばたかせて穴の上に現れた。それは無邪気に大笑いすると生徒たちを追って飛び込み、その向こうで待っているものの中へと姿を消した。


 きらめくプリズムのような光のトンネルを、生徒四人は転がるように落ちていった。光はありえない幾何学的形状やフラクタルや螺旋を形成してはほどけ、無限に広がっていた。

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アート:Alayna Danner

 落下はほんの数秒で終わった。息をつく間もなく彼らは穴から転がり出て、見知らぬ草原の只中へと落下した。草は青々と生い茂り、野の花が奇妙な模様を描いていたが、落下中の光の色彩を見た後では地味にも思えた。花々は自然のもののように見えたが、それらが描く螺旋は極めて正確だった。周囲に点在する大きな、滑らかな石にも同じような螺旋模様があった。地面から数フィート浮いている石もあり、自身を宙に浮かべる魔法に満ちて震えているようにも見えた。

 タムは息を呑み、一番近くの石を見つめて手を伸ばそうとした。

 アビゲールが首を横に振りながら片手で力強く宙を切り裂いた。“駄目!” 精神感応で命令し、そして両手を素早く動かして続ける。“ここがどこなのかわからない。どうしてここに辿り着いたのかもわからない。理解していないものに触れたら駄目よ“

 タムは手を引っ込めた。その様子には罪悪感すら滲んでいた。サナールは唇を尖らせた。アビゲールは気にしていないように、肩をすくめるような仕草で片方の翼をぴくりと動かした。

 そして手話で伝えた。“ごめんなさい、私たち全員、死ぬわけにはいかないからと思って”

 一方、キーロルは頭をもたげて空を見上げていた。アビゲールは何があるのかとその横に立ち、自身も見上げた。そしてくちばしをぽかんと開けた。

 15メートルほどの頭上の宙に、切り取られたような三角形の隙間が浮いていた。それはシャボン玉のようなもろい物質でできているようで、落下中に見た虹色を踊らせていた。その更に上、空高くに太陽がひとつ輝き、遠い地平線近くにはぼんやりとした月が浮かんでいた。

 「太陽がひとつなくなってる」サナールが言った。「太陽がなくなることなんてないのに」

 「太陽は消えてはいないわ。本来あるべき場所に、アルケヴィオスにあるのよ」

 一瞬、その発言の意味を考えるだけの沈黙があった。やがてアビゲールが伝えた。“その太陽がアルケヴィオスにあるなら、私たちがいるここは……”

 「アルケヴィオスじゃないってこと」タムが結論づけた。

 率直に言って、それは明白だった。学舎近辺の領界路はすべて発見され、地図に記されているはずだった。それでも時折、他次元へと繋がる神秘のポータルが何の前触れもなく開く……そしてすぐに消えてしまうことがある。キーロルは頭上のシャボン玉の膜を見上げた。「あんな所まで行けるの、アビゲールだけだよね? 飛んで、助けを呼んできてもらうのがいいんじゃないかな……」

 “いいえ” とアビゲールは身振りをした。“皆をここに残しては行かないわ。ここがどこなのか、危険なのかどうかもわからないのだから”

 「ねえ、みんな」サナールが言った。「あれ、危ないかもしれないと思うんだけど」

 一行は振り返った。そこに、落下した場所の背後に、ひとつの巨大な門がそびえ立っている。背の高い石を二本立て、その上にもうひとつ石を乗せたものだ。石には螺旋模様が描かれ、かすかに光る紫色の苔に覆われていた。だが何よりも不気味なのは、その門が壁や山に接しているのではなく、門だけが独立してそこにあるということ――それでいて、まるで周囲の明るく美しい昼と、真夜中を隔てる障壁のように見えることだった。門の向こう側は闇に包まれていた。光るキノコやきらめく蛍の群れが時折見えるだけで、それ以外は果てしなく深い闇だった。

 「普通じゃないね」キーロルが言った。

 「巨岩の門よ」不思議に思うようにタムは言った。「だいたいは墓地か、誰かの家への入り口なのだけど」

 「家だとしたら、すごく背の高い誰かのだな」サナールが言った。「住んでる奴はここにいると思う?」

 「誰か助けてくれる相手を探すべきだと思うのよ。あの門を作れるくらい背が高いなら、私たちをあのポータルまで持ち上げてくれるかもしれない。確認してみる価値はあるわ。今は他にいい選択肢も無さそうだし」タムはそう答えた。

 「つまり、あの不気味な門をくぐって、ありえない暗闇の中に入って行くの? そうすれば何とかなるかもって?」キーロルが言った。「そんなことある?」

 タムが先頭を切り、アビゲールがすぐ後に続いた。刺激的かつ新たな状況に遅れまいと、サナールも急いでふたりを追った。キーロルはため息をつき、かぶりを振りながら三人を追いかけた。

 巨岩の門に踏み入ると、暗闇が全員を飲み込んだ。


 陽光に照らされた牧草地から見た時には、その門はどこにも繋がっていないようだった。だが門をくぐるとそこは洞窟の中だった。地面は緩やかに傾斜し、しばらく前方へと続いているらしい。壁は輝く苔に点々と覆われ、通路全体が薄暗く不気味な光に包まれていた。先はよく見えなかったが、サナールが片手で複雑な動きを作ると、安定した光を放つ黄色い球体がその目の前に現れた。彼がもう一度身振りをすると球体は前方に進み、タムの一歩先で止まった。タムはサナールに満足げな視線を投げた。サナールは少し背筋を伸ばし、満面の笑みを浮かべた。

 「これ見てよ」キーロルは壁を凝視しながら言った。サナールの光が通路を照らすおかげで、石に絵が描かれているのがわかった。苔で汚れているものの、それでもはっきりと見える。様式化され、螺旋の模様が散りばめられた絵だ――長い首、6本の肢、そして巨大な翼を持つ2頭の巨大な獣が、連星のように互いの周りを巡る様子が描かれている。一方の獣の頭部は太陽、もう一方は月。生徒たちが歩いていくにつれて獣たちの絵は進化し、その頭部に一致する空の下を移動する様子へと変わっていった。太陽の頭の獣は昼を歩き、月の頭の獣は夜を歩く。やがて2頭は出会った。昼の獣は横たわって眠り、夜の獣は見張りについた。そして両者は居場所を交換した。

 取り入れられた螺旋の模様が、絵に動きの表現をもたらしている。それによって、獣同士のやり取りが不思議なほどありありと伝わってきていた。

 「太陽と月の化身が、入れ替わる……」キーロルは言った。「昼と夜の区別を描く方法を見つけようとしてたのかな。けど、両方の状態を生き物として描く――素晴らしく抽象的な表現だよ。驚きだ……」

 ふたつの物事に同時に気づき、キーロルの声はそこで途切れた。まず、自分が独り言を呟いている間に、他の皆は先に進んでしまったということ。

 次に、他の皆は3メートル程離れた場所で立ち止まり、何かを見つめているということ。

 キーロルは我に返ると急いで後を追った。

 そして追いつくと同じく立ち止まり、前方の空間を見つめた。

 ここまで辿ってきた洞窟の通路は広がり、円形の部屋へと続いていた。その奥は暗闇に消えて見えないほど広大で、石の地面には空間全体を支配するように螺旋模様が刻まれている。奇妙な彫刻が施された幾つかの石がその模様を取り囲んでおり、あるものは宙に浮かびながら、どれも淡く柔らかな銀色に輝いていた。

 そしてその円の中心に、洞窟の壁に描かれた月の頭の獣がいた。表皮は真夜中の深い青色で、頭部に近づくにつれて満月のような淡い金色へと変化している。首はありえないほど長く、翼は背中の上で融合しており、まるで巨大な尾を引きずっているかのような印象を与えている。翼とは別に歩行するための肢が6本あるが、それは4本の脚と2本の腕のようでもあった。獣の頭部は明白な形をとっているようには見えなかった。たなびく霧のようなものに覆われているのだが、それは霧のように見えてそうではなく、柔らかく輝く月を揺らめいて取り囲む雲の塊であると何故かはっきりとわかった。

 獣の呼吸はゆっくりで安定しており、生きているが深く眠っていると示していた。大気は奇妙な静寂に包まれ、秋の訪れを感じさせる何かがあった――遠くで焚き火が燃え、枯葉が足元に舞い落ちるような。

 「わあ……」囁き声とともにサナールは踏み出そうとした。だが円の中に入る前にタムの手が彼の腕を掴んだ。サナールは立ち止まり、気まずそうな様子でタムへと振り返った。

 「駄目」タムは小声で言った。サナールはアビゲールを見たが、彼女もかぶりを振った。キーロルは黙ったまま、その獣から目を離すことができずにいた。

 サナールは頷き、するとタムは手を離した。だが解放されるや否やゴブリンは再び前進し、今度は掴まれる前に境界線を越えて円の中に入った。彼は近づいていった。畏敬の念がゆっくりと湧き上がる。その呼び声にはどうやっても抗えなかった――月光に照らされた長い秋の夜、焚き火を囲む。もうすぐこの静寂は、語られる物語によって破られる。舌に感じるのは甘いリンゴ酒、収穫の季節のあらゆる恵みが歓迎する……

 そして手を触れた時、自分が何をしようとしていたのかを彼はようやく察した。月の獣の冷たく滑らかな首に手のひらを押し当てると、苔のような柔らかな体毛が肌をくすぐるのを感じた。一瞬、彼はかつて経験したことのない至上の安らぎに満たされた。

 当然、月の獣が目を覚ましたのはその時だった。

 目が開かれ、小さな月ふたつのように淡く輝いた。そこには虹彩も瞳孔もなかったが、本物の月のような窪みやクレーターの模様が刻まれていた。雲をたなびかせて頭を上げ、そして獣は咆哮した。

 それまで、その獣は優しく吹く秋の涼風のような存在感を放っていた。だが怒りの声とともにその風は冷たく残酷なものへと、心地よい抱擁から敵意ある攻撃へと変化した。その音は生徒たちを包み込んで延々と響いた。夜の恐怖が、怯えと困惑が、終わりのない嵐の咆哮が満ちた。

 アビゲールですら、身の毛もよだつ恐怖に襲われて縮こまった。全身の羽毛が逆立った様は、フクロウでありながらホコリタケのようだった。

 キーロルは駆けて小柄なサナールの肘を掴み、獣から引き離した。恐怖で凍りついていた彼はキーロルに感謝の視線を向け、ゆっくりと立ち上がろうとする獣から共に逃げ出した。獣は咆哮を続け、威嚇するように頭部を振り回した。そして後ろ脚でわずかに立ち上がり、前脚を踏み鳴らした。その衝撃とともに、実体を持ったような暗闇が波となってあふれ出た。

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アート:Lucas_Graciano

 影は生徒たちに襲いかかり、通り過ぎて洞窟の通路を満たし、輝く苔を消し去った。まるで固体であるかのようなその闇は洞窟から流れ出て、草原に溜まっていった。もはやそこに太陽の光はなかった。

 闇は草原を流れて陽光をのみ込み、色彩のオーロラを束の間生み出した。だがそれも闇の中に消え去った。オーロラはその跡に変化を残していった――溜まっていた闇は薄れ、ありふれた夜のそれに近づいた。頭上の空には星々が一斉に輝き、太陽は遠くで日食時の炎環となり、そして不意に月が完全な満月と化した。草は萎れて枯れ、花も多くがそれに続いた。だが大きく勢いよく生命を弾けさせるものもあった。螺旋模様は残っていた。あるものは回転方向を逆転し、あるものは尖り、途切れた。

 とある立石の上に、生徒たちを領界路へと誘い込んだあの小さく青い妖精が立っていた。翼と両腕を広げ、青い甲殻が最後の陽光に輝いている。そして闇に洗い流されると、妖精もまた姿を変えた。人間に近かった顔の輪郭は尖って昆虫のように変化し、両目は拡大して黄金色に輝いた。翼は秋の落葉のようにその縁がぼろぼろに裂けた。頭頂部には王冠のようなぎざぎざの冠羽が生え、翼の前翅が広がってケープのような形をとり、妖精にどこか高貴な風格を与えた。

 最も大きな変化は、その甲殻から青い色が次第に消え、金色の斑点を散りばめた緑色に変わったことだった。妖精は自身の姿を見下ろし、満足したようにくすくすと笑った。そしてぼろぼろになった翼を羽ばたかせ、空へ飛び立つと闇の道を辿っていった。数秒もせずに、妖精は姿を消した。

 後に残ったのは巨岩の門から流れ出る暗闇と、かすかな叫び声だけだった。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)


※本稿のタイトルに用いた「この森から出たいなどと」は、シェイクスピア『夏の夜の夢』第三幕第一場(『新訳 夏の夜の夢』河合祥一郎 訳/角川文庫)から引用したものです。

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