MAGIC STORY

ダスクモーン:戦慄の館

EPISODE 10

第6話 死んではいけない

Seanan McGuire
seananmcguire_photo.jpg

2024年8月30日

 

 メレティスでは、太鼓の音はあまり芸術とみなされてはいなかった。テーロスの他の多くの場所とは異なり、そこで戦いを告げる太鼓の音が響いたことは一度もない――戦いの号令が下される時、そこにあるのは足音と剣戟の音であって、皮が叩かれる音ではない。カルドハイムの太鼓が打ち鳴らされ、人々を戦へと呼びかける様を初めて聞いた時、ニコは思わず飛び上がるほどに驚いたものだった。

 そしてまさに今、ニコの頭はまるでそれらの太鼓のように、肉体的な吐き気を催すほど激しく叩かれているように感じられた。ニコはうめき声をあげて動こうとした。身体をゆっくりと、太鼓の音の合間だけ動かすことで、どうにか頭を持ち上げた。そこからは単純に、痛みをこらえて瞬きをして無理やり目を開けるだけだった。

 まだ手足を動かすことはできなかった。身体は座っている椅子に固く縛りつけられていた。両足は固い石の床に押し付けられ、手首はざらつく麻のロープで互いに固定されており、腕を動かそうとすると繊維が皮膚に食い込んだ。完全に捕らわれていた。

 鳴り響くような頭痛に耐えながら歯を食いしばり、ニコはゆっくりと、ゆっくりと周囲を見渡した。左側の椅子にナシが縛られていた。この若い鼠人を捕獲した者たちは過剰なまでにロープを巻き付けたため、まるで繭から鼠の頭が突き出ているように見えた。その光景はどこか不穏なもので、ニコは意図したよりも素早く顔をそむけた――その動きでまたも頭痛の波が広がり、同時に胃がむかついた。ニコはうめき声を飲み込んだ。自分が目覚めたことに捕獲者たちがまだ気づいていないのなら、気づかせたくはない。

 放浪者はニコの右側に拘束されており、その四肢もニコと同じように縛られていた。その数フィート先にはテーブルがひとつ壁に押し付けるように置かれており、自分たちの武器が儀式的なまでの注意を払ってその上に並べられていた。壁自体は暗い色をした何らかの木材でできていた。切り出して間もないのか、砂糖と死の匂いのする赤みがかった金色の樹液が染み出ていた。

 放浪者の目が瞬きをした。ニコはもう一度周囲を見渡し、部屋の様子を確認した。中央にはニコの腰ほどの高さの花崗岩の台座が置かれており、その先の壁には石造りの大きな祭壇があった。祭壇には樹液の筋や汚れと、壁から出てきたとは思えないほど暗い何かの染みがあった。ニコは身震いをした。

 前の部屋で見たあの硬質で角張った蛹はこの部屋にもあり、綿のような白い絹に包まれて天井近くに吊り下げられていた。その中にいるものが夢を見ているか、目覚めようとしているかのどちらかで身動きをすると、蛹も時折引きつるように動いていた。

 それらが羽化した時、ここにいたくはないとニコは思った。

 周囲に他の人影はなく、自分たち三人だけだった。ニコは放浪者へと顔を向けた。

 「ちょっと」

 彼女は目を開けた。

 「私の声は聞こえますか?」

 「はい」かろうじて聞こえる声で返答があった。「私以外にも聞こえるかもしれません。黙ってください」

 ニコは顔をしかめた。彼女の言うことは正しいが、その口調は気に入らなかった。頭が痛み、館の中で得た唯一の味方に裏切られた直後でなければ気にはしないだろうが。それでも、放浪者が椅子にしっかりと拘束されているのは分かった。自分も似たような状況だと仮定すると、少し時間を取って立て直し、結び目を解く方法を考えるのは悪くなさそうに思えた。

 ニコはロープを引っ張った。緩みはほとんど無いようで、ニコは小指ほどの破片を召喚してロープを切断しはじめたが、ほとんど進展のないまま時が過ぎていった。ニコは再びナシに視線を向けた。その目は開かれており、部屋を満たす薄暗い、一見すると光源のない光を映し出していた。怯えているようには見えなかった。むしろ、これから起こる物事に身を委ねようとしているかのようだった。

 ニコは尋ねた。「ナシくん? 大丈夫ですか?」

 「みんな、いなくなった」ナシの声は鈍く、空ろなものに響いた。

 「信者が、ですか? それは良いことです。これからどうなるのか、考える時間が少しできます」

 「違う。僕の友達が。母さんも。みんないなくなった」不意に、ナシは強烈な痛みに満ちた視線でニコを見つめた。「神河で知り合った勢団の四人と一緒にここに来たんだ。僕をひとりでは行かせない、って言ってくれて。みんな賢くて、素早くて、腕もよくて、けど……みんないなくなった。みんなを連れ去ったのはこの館だけど、ここに連れてきたのは僕なんだ。僕がいなければ、みんな家族と一緒に無事に過ごせたはずなのに、こんなことも起こらなかったはずなのに」

 「ひとりでは行かせない、そう言ったのでしょう。つまりナシくんのせいではありませんよ」

 「原因が僕なら、僕のせいだ」ナシは力を込めて言った。「母さんの巻物が消えたとき、僕はただ……母さんを追いかけるのを我慢できなかった」

 「ナシくんはお母さんを追いかけ、皆はナシくんを追いかけた。そうであれば、責めるべきはお母さんの器を盗んだ者たちのように思えます」

 「そして喜んで責められよう」新たな声が言った。ニコは身体を強張らせ、無駄な努力であってもロープの許す限り頭を回して背後を見ようとした。それはうまくいかず、とはいえその必要はなかった――教団員たちの長が、書物を手にしたままニコと放浪者の間にやって来た。「蛾は光に誘われるが、光に非難される謂れはない。蛾はやらねばならないことをしているだけだ。本能と空腹がすべてを支配している。門閾に祝福あれ、炎に祝福あれ」

 その背後で低いざわめきが起こり、他の信者たちもその男の言葉を繰り返した。ニコは睨みつけた。ウィンターの声がその中にあったかどうかはわからなかった。

 「君たちは偉大なる祝福を受ける」長が言った。威圧感のない人物であり、中肉中背で物腰は柔らか、眼鏡は小さな傷で曇っていた。その男は捕虜たちと台座の間に立ち止まり、書物を開いた。「君たちの知識は偉大なる目録に加えられ、私どもはそれを用いて貪食の父を次の饗宴場へと導く。すべてのものが父の傾注という光を知るのだ」

 「いかなる意味ですか?」黙るようニコに警告して以来、放浪者が初めて口を開いた。

 教団の長は彼女に注意を向けた。他の信者三人が彼女とニコの間を通り、台座へと向かった。彼らは四角い箱を運んでいた。それは置かれると上部が勢いよく開き、タミヨウの影が現れた。

 「母さん!」ナシが叫び声をあげた。

 タミヨウの影は顔をそむけた。

 「君たちは数多の世界の塵を運んでいる。楽園の部屋と同じほどに数多の」男はニコに視線を向けながら言った。「未だ門閾を知らぬ地、未だ炎を感じぬ地。君たちを通して私どもはそこに導かれるのだ。君たちを通して私どもの父は基礎を築き、喜び貪るのだ」

 ニコは男をじっと見つめてから、ロープを更に激しく引っ張った。びくともしなかった。

 「物語もそうだが、途方もない彼方まで歩いた者らの肉を食らうというのは……君たちこそが祝福だ。そしてこの者が」男はナシに目を向け、穏やかに微笑んだ。「君たちを私どもの下に呼んでくれた。よって、この者には再生の賜物を授けよう。繭は既に用意されている。貪食の父に仕え、永遠を生きるのだ」

 ナシは歯をむき出しにした。背後でざわめきが起こり、ウィンターが信者たちをかき分けてやって来た。彼が長の目前に立ち止まると騒ぎは収まった。

 「それで、俺はどうなる?」ウィンターは問い質した。「約束しただろうが――」

 「約束したとも。遠い昔の、マリーナと同じ約束を」新たな声が囁いた。それは部屋の端に張り付いた絹のように薄く、何百という層に切り裂かれ、恐ろしい合唱を作り上げるように一斉に響いた。ニコの脳内の激しい脈動はその囁き声によって消え、静まった。その声が話す場所では、他の音は聞こえなかった。

 信者たちは全員、膝をついて額を床に押し付けた。ウィンターだけは立ち続けていたが、振り返りはしなかった。

 「お前の心の望みを叶えると約束した」その声は続けた。頭上の影にゆっくりと光が差し込んだ。悪夢の糸で紡がれた巨大な蛾らしき身体から、それは発せられていた。その翅は周囲の壁に溶けており、次第に伸ばされるかのように石の中から現れては消え、また現れた。その姿を見ると、ニコは骨の髄に凍てつくような寒さが染み入るのを感じた。声の主は巨大な頭部を向け、複眼を輝かせて厳粛にウィンターを見つめた。

 「あんたか」ウィンターの声色は、畏怖と恐怖の間で揺れ動いていた。

 ヴァルガヴォスは笑う唇を持っていなかった。だがそれでも満足そうに頷き、その動作に合わせて羽毛状の触角が引きつるように動いた。ヴァルガヴォスは繊維質の触手を伸ばし、教団の長を小突いた。その男は動じることなく頭をもたげると立ち上がり、自らの神の隣に立った。

 「そうだ」ヴァルガヴォスは言った。「お前は我を知っている。暗闇の中でお前に呼びかけたあの時から、お前は我を知っていた。ここでは我こそが唯一の光源であるために。お前が我がマリーナ以来、正しき贄をもって呼びかけに応えた最初の者である」

 「ああ」ウィンターは小声で同意した。

 「お前の心の望みを叶えるために、四つの命を。我が越えるべきは四つの門閾」

 ニコははっと顔を上げた。「森で話してくれた、友達を。もういないという貴方の友達を。親友を」声を低くしようともせず、ニコは問い質した。

 「あいつがどうした?」

 「ここにいるのは私たち三人だけです」

 ウィンターは返答しなかった。

 「自分自身の欲望のために、その人を怪物の犠牲にしたのですか」

 「あんただって同じことをするよ。ダスクモーンで十分な時間を過ごせば、自由を手に入れるためには何だってやるようになる」

 「嘘です」放浪者が言い放った。

 「真実だ」ウィンターは言った。「すべての希望が消え失せた時、残るのは真実だけだ」彼は再びヴァルガヴォスへと向き直った。「やっと脱出できるってなら何だって差し出せる。だから、なるべくいいものを差し出したんだよ」

 「何ですって?」ニコが尋ねた。

 「俺はすべてを捧げた。だから行かせてくれ」

 ヴァルガヴォスは歪んでかすれた笑い声をあげ、壁と一体化したままの翼を精一杯広げた。そして再び翼を畳むと、その身体の下部にひとつの扉があった。館の奥深くへと続く階段の頂上で、その扉はヴァルガヴォスの腹部に接していた。

 その扉も他と同じ桜材で作られており、戸枠には蛾や収穫の花輪が彫られ、覗き穴があるべき場所には満月が描かれ、扉の縁からは触手のような模様が覗いていた。ウィンターは飢えた者が豪華な食事を前にしたかのようにそれを見つめ、だが動かなかった。代わりに彼はヴァルガヴォスに視線を向けた。

 「行ってもいいのか? 約束だよな?」

 「約束は守る」ヴァルガヴォスの返答に、ウィンターは扉へと駆け出した。だが急ぎすぎた――彼は床の割れ目につまずいてひどく転倒し、両手足をついた。ヴァルガヴォスも信者たちも、彼が立ち上がるのを助けようとはしなかった。ただ黙って、この重要な成り行きを判断するように見守っていた。

 ニコは拘束に抵抗しようとした。ロープは相変わらずきつく縛られており、緩む気配はなかった。だがその時、木材が肉に叩きつけられる独特の音とともに短い悲鳴が背後であがった。続いて、聞き覚えのある声が他の音をかき消した。タイヴァーの大声が響いた。「私たち抜きで戦いを始めるとは、何と失礼な!」

 信者がひとりニコの横を過ぎて壁に激突した。投げ飛ばされたのだ。そして恐ろしい姿がひとつニコの隣に現れた。それはジモーンのような姿をしていたが、ジモーンとは違ってその皮膚は水びたしの裂けた木でできており、口には歯ではなく錆びた釘が生えていた。それは手を伸ばした。曲がった蝶番のような指と壊れた屋根板のような掌が近づき、ニコはロープが許す限り身を引こうとした。

 「落ち着いてください」その声はジモーンの声だった。その人物はジモーン自身であり、いかにしてか木人のように変身していたのだ。彼女は再び手を伸ばし、今回ニコは動かずにいた。ジモーンはロープの輪に蝶番の指を引っかけて切断を始め、単純に手を曲げるだけでその繊維を切った。

 また別の信者が部屋を横切って飛んでいき、背後の空気は叫びと笑い声でかき乱された。タイヴァーは今なお人生最高の時間を過ごしているようだった。「少なくとも、今日という日を楽しんでいる人はいるようですね」ニコはそう呟いた。

 ジモーンはニコへと恐ろしい笑みを向けた。異様で見慣れないその様相は悪夢のようだった。「あの人にとって、悪い日なんてものはないんだと思いますよ」

 ニコの腕を拘束していたロープが外れ、次にジモーンは背後に移動してニコの手首を探った。ヴァルガヴォスは咆哮し、翅を羽ばたかせると周囲の壁が揺れてねじれた。不意の恐ろしい生気に、館全体が痙攣しているようだった。ウィンターは再びあの扉へと駆け出したが、信者のひとりが扉に激突したために開けることはできなかった。彼はよろめきながら後退した。

 ニコの手首のロープが緩み、両手が自由になった。ニコはすぐさま宙から破片をふたつ取り出すと放浪者へと投げつけた。破片は彼女の四肢を拘束していたロープを切り裂き、放浪者は椅子から床に転がり落ちた。ジモーンに脚のロープを切断してもらう間にニコはまた別の破片を取り出し、放浪者の両手を解放した。放浪者は武器の置かれたテーブルへと素早く駆け寄り、自身の刀を取り戻した。

 ぎりぎりだった――ヴァルガヴォスは咆哮をやめ、腐食性の白い糸を空中に吐き出していた。放浪者は糸を楽々と切り裂き、踊るような軽やかな足どりでナシのところへ辿り着き、彼を解放すると小さくて硬い物体をその手に押し付けた。「あなたの運命は変えられます」そう囁き、放浪者は蛾のデーモンの巨体へと駆けていった。

 ウィンターはまたも扉へ向かったが、ニコが放った破片のひとつが背中に直撃して彼を包み込み、切望していた自由から遠ざけられてしまった。ニコは今なお続く乱闘の音へと振り返った。

 タイヴァーは六人の信者を相手に奮闘していた。皮膚が肉から石へと波打ち、そして素早くまた肉に戻る。それはまるで太陽の上を雲が流れゆく様を見ているかのようだった。タイヴァーは笑っていた。ニコはジモーンへと振り返った。

 信者のひとりが彼女に掴みかかった。ジモーンは蝶番状の指で相手を切りつけ、頬を裂いて後退させた。その顔からは血が噴き出した。彼女はタイヴァーへと向かいながら、ニヴ=ミゼットから預かった箱を取り出すと素早く複数のスイッチを入れた。十分に近づくとタイヴァーは彼女の肩に触れた。すると溢れ出るようにジモーン本来の身体が戻り、一時の恐怖を追い払った。

 ジモーンが手にした箱はすぐさま、青と緑の線でできた幾何学的な奔流を宙に放出した。その線は一番近くにいた信者の身体に巻きつき、皮膚の上を走り、指数関数的に増殖し、ついには信者を光の中に飲み込んだ。

 「よく捕まえた!」タイヴァーは激励するように叫んだ。

 「私、理論的戦闘数学ではトップの成績だったんですからね」彼女は箱からまたも線の流れを取り出し、タイヴァーへと無造作に投げつけた。その線が彼の皮膚に当たると、もつれて絡み合い、鎧のように変化して彼に命中するはずだった一撃を弾いた。タイヴァーは瞬きをし、そして笑顔を浮かべた。

 「これが数学の力だ!」高らかな宣言とともにタイヴァーは振り返り、信者の顔面を真っ直ぐに殴りつけた。

 ヴァルガヴォスが吼えた。放浪者は石の祭壇に飛び乗って、巨大な蛾のデーモンと戦っていた。腐食性の糸の雲を切り裂き、鉤爪の肢による攻撃を防いだ。その刀は、ヴァルガヴォスの一見細い肢を切り裂くことはできなかったが、相手からの攻撃は弾き返した。そして衝撃を吸収するにつれて、刃は眩しく燃える白色に輝きはじめた。

 放浪者の下ではナシが台座へと急ぎ、タミヨウの姿が浮かぶ箱を確保した。彼は箱の中に手を伸ばし、母の巻物を掴もうとした。その瞬間、タミヨウがナシへと顔を向けた。

 「待ちなさい!」

 ナシは凍りついた。

 「僕は母さんを救うために来たんだ。母さん、僕は母さんを救いたいんだ」

 「ナシ、彼らは私の物語を奪いました。物語をばらばらにして、奪っていったのです。奪われたものを私は覚えていません。ですが、あなたのことは覚えています。いつまでも、いつまでも覚えているでしょう」

 「母さん……」

 「物語のおかげで、私はこの姿で存在することができました。私の血や肉が奪われた後、物語がそれらすべての代わりとなってくれました。そして今、物語までも奪われてしまいました。これは霊を捕える装置です。私を連れ去った者たちは、私をこの場所に留めておくためにこれを用いました。ナシ、これが私をここに留めている唯一のものです。私をここに留めているのは、彼らだけなのです。今回は、あなたが私を救うことはできません」

 「母さん。そんなの嫌だ」ナシはひげを頬につけ、耳を平たくした。彼は混乱し、理解できないというように震えながら母を見つめた。

 「ああ、私のかわいい子。物語には、結末を変えられるものと変えられないものがあります。そしてこれは、変えられないもの。私の結末は何年も前に書かれました。ナシ、あなたのお母さんは、本当のお母さんはあなたをとても、とても愛していました。とても愛していたから、その愛の物語は私が忘れていない数少ない物語のひとつでした。彼らはそれまでも奪おうとしましたが、それがなければ私はすぐにほどけて消えてしまうとわかったのです。そしてナシ、あなたを呼び出すように私を仕向けました。なぜならあなたは、私の心の中から消えない物語だったからです。月を捕える狩人たちは、私を用いてあなたを誘い込みました。ごめんなさい。本当に、本当にごめんなさい」

 「母さん」ナシの目から涙が溢れた。周囲の戦いは遠い叫び声と武器のぶつかり合う音だけとなった。今重要なのはゆらめく母の影だけだった。「お願い、母さんがいてくれないと僕は」

 「あなたは私を救うことはできませんが、救わなくていいのです。ナシ、あなたはもう、私がいなくても大丈夫ですから。自分が成し遂げたことを見てごらんなさい。あなたは救えない者を救うために、デーモンが棲む家の中心へと勇敢にやって来ました。そして見てごらんなさい。あなたが困っているという理由だけで、あなたを助けに来てくれた人たちを。あなたは自分が思っている以上に愛されているのですよ。さあ、ナシ、行きなさい。そして、素晴らしく花開いてください。あなたの本当のお母さんが、あなたはきっとそうなると思っていたように」

X7FYjt3R50.jpg
アート:Miranda Meeks

 ナシは放浪者から押し付けられた小さな物体を掲げた。「運命は変えられるって言われた。僕に……できるって……」

 「ありがとう。でも、いいえ。そんなにも遡ることはできません。私の本は閉じられ、私の物語は終わりました。あなたに、あとひとつだけお願いしたいことがあります」

 「なに?」

 「私を解放してくれますか」

 ナシは沈黙し、怯えながらタミヨウを見つめた。

 「まだ私から奪うことのできる物語があります。お願いです、私のかわいいナシ。どうか。私を解放してください。そうすれば私の人生をかけた務めが、悪しき物事に使われることはなくなります。私を解放してください。かわいい、大好きなナシ。解放してください」

 ナシは顔をそむけ、背後の混乱を再び見つめた。

 ニコは信者たちの身体に破片を投げつけ、タイヴァーがすでに倒した者たちを踏み越えて扉を目指していた。タイヴァーはついに本領を発揮し、途切れない敵へと依然として無謀な攻撃を続けていた。ジモーンはそのすぐ後ろにつき、魔法と機械で彼の背中を守っていた。

 ヴァルガヴォスは翅を広げて咆哮した。壁が震え、館底種とナイトメアが溢れ出て部屋になだれ込んだ。タイヴァーはジモーンを掴み、館の恐怖が再び彼女を覆って変質させた。箱からの魔法の奔流が止まった。ジモーンは傷ついたような視線をタイヴァーに向けた。

 「貴女の安全を守る唯一の方法だ」

 素早くジモーンは反論した。「安全なんてどこにもありませんよ」

 「確かにそうだ」タイヴァーはそう言い、触手で空気を掴みながら向かってきたイカのようなナイトメアを撃退しようと振り返った。

 ニコは扉のノブを掴んだ――未知の次元でも、ここよりはましだ。領界路を見つけて脱出できる。だがヴァルガヴォスが再び咆哮した。扉は消え、ニコの指の下で塵と化した。ニコは顔を上げて巨大な蛾のデーモンを睨みつけ、次の破片を準備した。

 放浪者はねばつく白い糸に半ば巻き付かれていたが、両腕はまだ自由で刀はまだ動いていた。とはいえ機動力は大幅に低下していた。ニコは彼女のもとへ向かおうとしたが、横から掴みかかられた。顔を向けると、物騒に湾曲したナイフの刃が目前に突きつけられていた。

 「門閾を!」信者は叫び、容赦なく突き刺した。

 ニコは感じた――その刃が目を貫き、頭蓋骨という薄い障壁をも貫き、筋肉も骨もたやすく切り裂き、やがて脳組織を貫通し、思考を乱して記憶を切り落とし、すべてが暗闇と静寂に包まれ、テーロスから遠く離れた場所で死へと向かい、死の国を見ることも、来世に辿り着くこともない――

 ――張りつめた弓弦を放すように世界が弾け、ニコはヴァルガヴォスを見上げていた。そして信者に掴まれる前に素早く避け、破片を放って相手を輝く魔法の中に封じ込めた。だが更にふたつの破片を取り出そうとしたところで、背後から掴まれてよろめいた。

 勝利と憤怒に咆哮しながら、ヴァルガヴォスは片方の翅を壁から半ば引きちぎった。そして木と石の中へと引き戻される前に、放浪者を床に叩きつけた。彼女が落とした刀を触手で払いのけ、ヴァルガヴォスは語りかけようと身を乗り出した。その光景は、まるで天井が床に迫るかのように見えた。

 「貴様のすべてを飲み込み、貴様の世界を我が思う通りに破壊してやろう」その囁き声は、不意に柔らかなものとなった。「貴様の負けだ」

 「お前もだ!」ナシが叫んだ。ヴァルガヴォスが見ると、鼠の少年が霊の罠へと手を伸ばしてタミヨウの巻物を持ち上げた。彼女はナシに微笑みかけ、透き通った顔に涙を流し、月光の中へと消えていった。

 「その女は必要ない」ヴァルガヴォスはそう言い、押さえつけられて抵抗する放浪者に注意を戻した。「今や貴様ら全員が我がものだ」

 デーモンは口を開け、折れた針やガラスの破片のような歯がびっしりと並ぶ口内を露わにした。そして再び放浪者へと迫り、噛みつこうとした。

 その背後の壁に、小さいながらも場違いな光が青白くきらめいた。ヴァルガヴォスは不意に動きを止めた。デーモンは小さく苦しそうな息の音を立て、再び身体を伸ばして広げた。ヴァルガヴォスとその周囲が静まり返った。胸を見下ろすと、そこから刀の先端が突き出ていた。その刃は膿と血リンパでぎらつき、青みがかった魔法の光を放っていた。

 ヴァルガヴォスは声を発そうとしたが、音は出てこなかった。

 刃が引き抜かれ、濡れた傷口が残された。ヴァルガヴォスは支えの糸によって天井に強く引かれ、痙攣するように身体を伸ばした。巨体のデーモンが退くと、両手で刀を持ち、荒く息をつく魁渡がその背後から現れた。彼のさらに背後の壁には青白い光でできた扉があった。その戸枠は組み合わさった三角形、様式化されたドラゴン、そして小さな蛾の模様で覆われていた。館の至る所で見られる蛾は絶望しか呼び起こさない、だがその蛾はどこか希望を感じさせた。模様全体が明るく輝き、暗闇をはね返していた。

 不意にその扉が勢いよく開き、その先には別の扉に繋がる短い通路が見えた。プロフトが戸口に現れ、大きく身振りをして叫んだ。

 「こっちだ! 長くは持たないぞ!」

 ニコは放浪者の刀を掴み、それを用いて彼女を繭から切り離し、刀を返して立ち上がらせた。ふたりは共に扉へと駆けた。空白となった母の巻物を抱え、ナシも後に続いた。部屋の奥でジモーンがタイヴァーの腕を引っ張り、身振りで状況を伝えた。彼はすぐさまジモーンを肩に抱え上げると仲間たちを追いかけた。

 もうすぐ辿り着くというところで一体のナイトメアが襲いかかり、鉤爪の手がタイヴァーの頭部へと弧を描いた。ジモーンは悲鳴を上げた。だが手裏剣が次々とその手に叩きつけられ、そして自ら引き抜かれて魁渡のもとへと戻っていき、再び刀へと組み合わされた。彼はタイヴァーへと頷いて扉をくぐった。

 タイヴァーはジモーンを両腕に抱えて飛び込み、直後に扉が音を立てて閉じられた。


 「急げ、急げ」短い通路を全員が駆け抜ける中、プロフトは身振りで促した。「この空間は必ずしも安定しているとは言えないんだ」

 「これは何なんです?」ニコが尋ねた。

 「人工的な領界路だ」魁渡が言った。「俺の灯、プロフトさんの精神魔法、アミナトゥの運命を曲げる力、それと館の破片、これは俺がプレインズウォークで離れた時に持ってきたものだ。プロフトさんが解いた瞬間に、この領界路は久遠の闇へと溶けて失われるはずだ。一緒に失われたくはない」

 ナシが歩みを止めた。

 仲間たちが通路の先の扉に近づく頃、放浪者は振り返って眉をひそめた。

 「ナシさん?」

 ナシは手にした空白の巻物を見た。「母さんの身体は、神河で僕たちと共にある」彼は巻物へとそう告げた。「けど、母さんの魂は久遠の闇にある。それはわかってる。今はもう、安らかに眠ってるのかな。母さんは正しいことをしたって、安心してくれてるのかな。母さんの物語は終わったけれど、僕の物語は始まったばかりだ。愛しています、母さん」

 彼は巻物を通路の床に置き、他の者たちを追いかけて走り、彼らと共にラヴニカの午後の光の中へと踏み出した。

 最後に外に出たのはプロフトだった。他の全員が脱出するとすぐに彼は鋭い身振りをし、扉は勢いよく閉まった。きらきらと輝く小さな蛾のような光の飛沫とともに、それは消えていった。

 「もう降ろしてくれていいんですよ」ジモーンが言った。

 「済まない」タイヴァーはそう返したが、申し訳なさそうな様子は全くなかった。

 魁渡が尋ねた。「タイヴァー、お前一体何を着ているんだ?」

 タイヴァーはベストを見て肩をすくめた。「ジモーン殿に言われたのだ、館の中で隠れるにはこれが役立つと。だが、もはや隠れる必要などないな」

 彼はベストを脱ぎ、視線を仲間たちへと向けた。放浪者と魁渡はナシとアミナトゥと共に立っていた。義丸は再会の喜びを全身で表現し、ふさふさの尻尾を激しく振りながら彼らの周囲を駆け回っていた。

 「どうやら、これこそが本来の姿のようだな」どこか哲学的な響きでタイヴァーは言った。


 ヴァルガヴォスは天井から身体を下ろし、儀式の間の残骸を見渡した。床には信者たちの死体が散乱していた。館底種の死骸は倒れた場所ですでに腐敗しており、もはや恐怖を糧にできずナイトメアは退いていた。

 大悪魔の胸の傷口からは粘つくおぞましい液体がまだ滲み出ており、ヴァルガヴォスは息を吐いた。食事を摂り、繭に戻って治癒しなければ。生命が自分を再生させ、忠実な信者たちが得た物語が、探求への錨となるだろう。必要なのは忍耐だけ。そうすれば獲物はやってくる。必ずやってくる。

 そして、宝物がすべて逃げおおせたわけではない。ヴァルガヴォスは頭上の屋根裏部屋へと意識を向け、身もだえして震える橙色の毛皮の塊に触手を巻き付け、視界に入るまで引き下ろした。その生物はうなり声をあげ、歯をむき出しにした。ヴァルガヴォスはそれを強く揺さぶり、威嚇をやめさせた。これは貴重なものだ。きっと役に立つだろう。

 まもなく。だが今は傷を塞ぐ必要があった。ヴァルガヴォスは再び部屋の中を見渡し、ほんの少しでも命が残っている信者がいないかと探した。そして壁に背を預けて縮こまるウィンターの姿を見つけた。その隣にはあの扉が開かれたまま放置されていた。呪われた月が輝く、暗愚の地へと続く扉。ウィンターはいかにしてか解放されており、武器は持っていなかった。この男ならうまくやれるだろう。

 ウィンターは視界の隅に動きをとらえて振り返った。ヴァルガヴォスの触手が自分へと伸ばされていた。彼は叫び声をあげ、すぐさま立ち上がったが間に合わなかった。触手は彼の腰を掴み、足から引き倒し、無力のまま宙に吊り下げた。

 「お前には自由を約束した」重々しく時を経た、太古の基礎がきしむような声でヴァルガヴォスは言った。「自由を与えよう。ある種の自由を」

 穴が開いてうずく胸元までウィンターを持ち上げると、ヴァルガヴォスは天井へと溶け込んだ。そして、館の中は静まりかえった。


 義丸と魁渡に挟まれ、放浪者は庭園の端に立っていた。彼女たちの視線の先では、夢中で聞き入る子供たちへとナシが自分たちの冒険物語を語っていた。放浪者が言った。「ナシさんには才能がありますね」

 「ええ、本当に」魁渡は頷いた。「あの子供たちは怪しげな扉を見つけても開けはしませんよ」

 悪戯っぽく輝く目で、放浪者は彼を見つめた。「魁渡さんは、怖い話を少し聞いたからって悪戯をやめるような子供でしたか?」

 魁渡は笑い声をあげた。

 ナシは周囲に視線を向け、ふたりに微笑みかけてから話に戻った。義丸は尻尾を振りながら跳ね回り、そしてナシの話を聞く子供たちへと駆け出し、アミナトゥの隣の草の上に座り込んだ。アミナトゥは片手で義丸の毛皮を撫でながら話を聞き続けた。他の仲間たちはストリクスヘイヴンに帰るジモーンに同行していた――タイヴァーとニコは「メイジタワー」なる競技がとても気になっているらしい。今この瞬間だけは、多元宇宙のすべてが心配無用であると思い込むことができた。すべてが順調であると。

 少なくとも、神河では素晴らしい一日といえた。


 ニヴ=ミゼットの地図作成事業が完了し、領界路はほぼ確保された。そのためプロフトとエトラータは通常の業務に戻っていた――プロフトにとってそれは、心の内で理想の執務室を再現し、夜遅くまで最新の事件の証拠を研究する作業を意味していた。とある壊れた彫像の完璧な複製がきらめく青い破片となって目の前に広げられ、彼がその日早くに見たものと全く同じ、いくつかのピースが欠けたジグソーパズルのように並べられていた。

 プロフトが気付かぬまま、背後の壁の青白い表面が微妙に歪みはじめ、棚や写真の中から戸枠の形がゆっくりと現れた。その形が完成すると、戸枠に囲まれた空間は滑らかになり、白い翅の蛾が刻まれた扉となった。彼を睨みつけるかのように、翅の目玉模様が狭められた。

 現れた時よりも更にゆっくりと扉が開き、冷たい風がひとつ執務室を吹き抜けた。プロフトは身を固くした。

 辺りを見回しても、そこには何もなかった。



(Tr. Mayuko Wakatsuki)

  • この記事をシェアする

Duskmourn: House of Horror

OTHER STORY

マジックストーリートップ

サイト内検索