MAGIC STORY

ダスクモーン:戦慄の館

EPISODE 08

第5話 屈してはいけない

Seanan McGuire
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2024年8月28日

 

 タイヴァーの変成魔法にとって、床や壁の物質は、自分たちを襲った怪物の肉と同じものだった。生きていて敵対的な何かの体内を歩いている、そう考えると不安にかられた。それでもタイヴァーが館の物質で身体を包み込むと、襲われることなく部屋を横切り、廊下を移動することができた。どちらかが心の奥底で慣れない感情に引かれはじめると彼はその偽装を外し、変身から解放した。それを繰り返しながら、ふたりは進んでいった。

 ジモーンは安全と自己喪失の間の微妙な境界線上を歩きつつ、自分たちを覆い隠しては剥がす彼の技術に感心せざるを得なかった。一息ついた時、その切り替えのタイミングをどう判断しているのかを彼女は尋ねた。するとタイヴァーの表情は苦痛のそれへと変化した。

 「新ファイレクシアの侵略の際、多くの盟友が永遠に失われる様を私は見た」その声は空ろだった。「そして故郷に、美しきカルドハイムに帰還すると、同様の運命があまりにも多くの者に降りかかる様を見た。世界樹が燃える様を。私が崇め、その祝福を求めたコーマが、あの残酷な変質に屈する様を。私の魔法が、ふたつの世界に広がるのを感じるのだ。これは変化の魔法であり、それが広がる様をどのように感じるかはわかっている。私はただその世界が終わると感じるのを待ち、それが起こったら魔法を解くのだ」

 「ごめんなさい」とジモーン。「辛いことを思い出させてしまって……」

 「だが、進まなければならないからな」タイヴァーは再び陽気に言った。そして片手を壁に当て、もう片方の手をジモーンの肩に置いた。すると館の肉体がふたりの上を流れ、悲嘆や喪失は不意に遠くへと、悪夢のヴェールの背後へと隠れた。

 ふたりは移り変わる部屋や肖像画のギャラリーを通り抜け、また別の図書室を通過した。この図書室の棚は空っぽで、床には血まみれの紙吹雪のように紙切れが散らばっていた。ジモーンは名残惜しそうにそれを見た。死した場所の虐殺された物語。彼女はここで立ち止まって、残された死体からそれを再構築したいと思っているかのようだった。

 タイヴァーは偽装を落としてはまた貼り直して時間を稼ぎ、やがてふたりは一見ありえない部屋へと辿り着いた。

 その部屋は広くて居心地がよく、小さなソファーと、大きくてふかふかの椅子がそれぞれ幾つか置かれていた。家具の様式は明らかに、二者の距離を近づける意図で選ばれていた。壁には棚が並び、書物や小間物が詰め込まれ、クリーム色の壁には感じのよい絵が掛けられていた。奇妙な匂いやありえない影はなく、血痕や悪夢もなかった。そこはただ……心地良く、午後のうたた寝をするには完璧な場所に思えた。

 閉じられたふたつの窓から差し込む陽光が、大きめのソファーに座る十代の少女を照らしていた。彼女は膝の上に開いた日記帳に一行だけ書き、そして止めるとペンの末端を口にくわえ、物思いにふけりながら窓の外の一見静かな通りを眺めた。すぐ傍の低い卓の上には、茶と思われる琥珀色の液体と氷のかけらが入ったタンブラーが置かれており、場違いなほどに何もかもが穏やかに見えた。この館はふさわしくない部屋。館の何もかもとは正反対で、存在することがおかしいように思えた。

 ジモーンは驚いて息を呑み、タイヴァーの腕を掴んだ。少し眉をひそめて彼はジモーンを見た。

 「あの子、知ってます」ジモーンが囁いた。「最初の応接間で見つけた絵に描かれていました。中に入って私たちが最初に見つけたあの部屋の! でもあの絵はすごく古かった……あの子、私よりも年下ですよ。どうして……」ジモーンは探知機を手探りし、それを目の前に持ち上げると辺りを調べるかのように動かした。「ここに時間魔法は働いていません。あの子が私より年下なんて、どうして?」

 「幽霊だろうか?」とタイヴァー。「あるいは何らかの精霊か? 私たちの存在には気づいていないようだ。館の物質に包まれていようとも、私はそう簡単に見逃されはしないのだが」

 ジモーンは信じられないという様子で彼を見た。「自分がどれだけ格好いいかって自慢しているんですか? 今やることですか?」

 「私はただ事実を述べているだけだ――おや、見たまえ。出ていくようだ」

 ふたりに気付かぬままその少女は立ち上がり、飲み物と日記帳を持って部屋を出た。そして起こった変化は恐ろしく、迅速だった――窓の外の空はたちまち雲に覆われ、陽光を飲み込んだ。壁紙は剥がれはじめ、窓は暗くなってカーテンが閉まり、床から血が泡立って少女の足跡が残った。

 「これは良いことではなさそうだ」タイヴァーが言った。

 「ええ、良くはありません。行きましょう」ジモーンはそう言うと少女の後を追った。今回はタイヴァーの方が追いかけざるを得なかった。

 ふたりは隣の部屋で少女に追いついた。そこは小さな温室で、少女の周囲で生気が蘇っていった――枯れた植物が緑色に変わってまっすぐに立ち上がり、壁や家具に絡んでいた獰猛な蔓がほどけて鉢の中へと退いていった。そのすべてをジモーンは鋭い目で見守った。

 「わかった……と思います」彼女はゆっくりと言った。「あの子が何者かはともかく、館を跳ねのけています。館はあの子に触ることはできないんです。どうしてなのかはわかりませんが……でも、だからあの子は私たちが見えないのだと思います。この部屋で館があの子を攻撃できないなら、私たちはここにいる限り安全です。変成魔法を解いてもらえますか?」

 タイヴァーは頷き、呪文を解いた。ふたりは元の肉体に戻り、ジモーンはひとつ咳払いをして呼びかけた。「こんにちは?」

 少女は振り返った。その様子からするに、そこで初めてふたりを見たようだった。見慣れない服を着て箱型の走査機器を持った見知らぬ女性と、シャツすら着ていない裸足のエルフを前に、彼女は唯一かつ当然の行動を取った――飲み物を落として悲鳴をあげた。

 「ああ、そんな!」ジモーンが小さく叫んだ。「あなたを傷つけるためにここに来たんじゃありません!ただ話をしたいだけなんです」

 少女は問い質した。「私の家で何をしているの?」

 「迷い、ほぼ確実な死から逃れようとしながら、悪意に満ちた壁によって私たちから隔てられた友人たちを探している」タイヴァーが語った。

 少女はますます混乱しているようだった。

 「ごめんなさい」ジモーンが続けた。「私たちは説明のつかない現象を追っていて、ここに辿り着きました。私はジモーンっていいます。あなたは……?」

 「マリーナ。マリーナ・ヴェンドレル。私を殺すつもりなら、外に飛び出して叫んであげるわよ」

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アート:Magali Villeneuve

 「マリーナ。ヴェンドレル。どちらも素敵な名だ」とタイヴァー。「私はスケムファーの王子、タイヴァー・ケル。貴女を殺すためにここに来たわけではない。話をさせてもらえるだろうか?」

 「いい……けど。どうやってここに入ったの?」

 「扉をくぐって」とジモーン。「この館に何があったのかを知りたいんです」

 「何があったのかって、どういうこと?」マリーナは困惑した様子で顔をしかめた。「家はいつもと変わらないわよ。大丈夫?」

 「この館は、いつも壁から怪物が飛び出して、人を食べようとしているんですか?」ジモーンは恐怖とともに尋ねた。

 マリーナは彼女をじっと見つめた。「え? そんなわけないわよ!」

 「図書室でこの場所の歴史について書かれた本を見つけましたが、そこにも怪物については何も書かれていませんでした。だから、何かが起こったのは間違いないんです」

 「ああ、『建築的考慮』のこと? 前にここに住んでいた人が書きはじめたものよ。いろんな意味でちょっと変わった人で――家は生き物と同じように、敬意を持って扱われるべきだって感じてたのね。ここで長いこと暮らしてて、亡くなったのもここで。私たちがこの家を買った時、不動産業者に頼まれたのよ。それの内容を更新してくれって――私たちが住んでいる間、更新を続けることが販売条件のひとつだったの。ママとパパは馬鹿みたいだって思ったけど、私はちょっと素敵かなって。すべてのものが大切にされていて、その世界での居場所があるってことでしょ」

 「その本です」ジモーンが答えた。

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アート:Denys Tsiperko

 タイヴァーが尋ねた。「学術的に不快な魔法が余白に記されているという、あの本か?」

 マリーナは顔をはっと赤くした。「私、ただメモを取ってただけよ」

 ジモーンは顔をしかめた。「マリーナさん、あなたが? ああいう魔法は――その、危険ですよ。そんな魔法を使ったら、誰かが重傷を負ったり、もっとひどい目に遭ったりするかもしれません。そんな魔法を……使ったんですか? 館に起こったのはそれなんですか?」

 マリーナは、悪戯をとがめられた幼い子供のように反応した――両手で耳を塞ぎ、目を固く閉じて繰り返した。「あなたは現実じゃない、あなたはここにいない、あなたは現実じゃない、あなたはここにいない」

 彼女の足元の床だけはそのままに、部屋の残りの部分が歪み、ねじれはじめた。壁に幾つも穴が開き、そこから膿疱に覆われた悪夢の獣が這い出ると、長く関節の多すぎる肢がタイヴァーとジモーンに伸ばされた。ジモーンはマリーナに向かって鋭く踏み出し、手を伸ばした。だがタイヴァーが彼女のシャツの背中を掴んで止めた。そして彼はジモーンを引きずりながら走った。

 ふたりは館の奥深くへと逃げ、獣たちは追いかけてきた。角を曲がったところでふたりは壁に張りつき、タイヴァーが変成魔法を唱えて館の肉で自分たちの身体を覆った。ふたりは息を切らしながら壁から離れ、廊下を覗き込み、館の獣が猛烈な勢いで通り過ぎるのを見守った。

 「館があの娘を守っているのだな」タイヴァーが言った。

 「そのようですね」ジモーンも頷いた。「あの子はここで起こったことと何らかの関係があります。間違いありません。証拠もあります」

 タイヴァーは眉をひそめた。「証拠?」

 小さな、ぼろぼろの本をジモーンは掲げた。あの温室から引きずり出される直前に掴んでいたもの。

 「あの子の日記です」


 「普通だったら、これはすごくいけないことです。他人の私生活や個人的な思いが書かれているんですから」ジモーンが言った。落ち着いて中身を確認するため、壊れていないテーブルを見つけるまでにふたりは三つの部屋を探した。「一度だけ、ルーサの日記を覗いてみたことがあります。人がいかに簡単に火傷をするかについて、ずっと独白をしていました。私を怖がらせようとしたのかって、しまいにはそんなふうに思ってしまいました。だいたいは自分自身を安心させようとしていただけなのに。火はルーサを落ち着かせてくれるんです。とにかく、日記というのは極秘のものです。絶対に中を見てはいけません。ですが、私たちの状況はちょっと特殊だと思います」

 「貴女のその言葉は、自分自身に言い聞かせているようだな。そう思いこむために」

 「カルドハイムに日記はあるんですか?」

 「私の民の間では、繰り返されるべきでないことは書き留めるべきではないとされている。物語や伝説は共有するためにある。だが秘密は飲み込むものだ。他者の目から守るために」

 「ああ、なるほど。ですがあの子が日記をつけているのは助かります。知る必要がありますから」ジモーンはそう言い、小さな本の冒頭を開いた。

 マリーナの筆跡は鮮明で、とても明瞭だった。ジモーンは読みはじめた。

引っ越しなんてしたくない。でも引っ越しはする。私の望みなんて関係ない。「パパの仕事に都合がいい」とか「素晴らしい学校に通えるのよ」とか「たくさんの素敵なお友達ができるでしょうね」とか。

そう。変人しかいない時代遅れの田舎で16年も過ごしたおかげで、新しい学校で社交界の蝶になる準備は万端よ。むしろ社交界の蛾、かしら。影に隠れて邪魔にならないようにして、ランタンを見つけて飛び込む前に叩かれないように祈る。私がそこにいることに、みんな気付いても気付かないふりをする…

 「何ページかはずっとこんな調子ですね」ジモーンはその日記をめくりながら言った。「マリーナは本当に寂しかったし、引っ越しが少し不安だったから、気にしていないふりをしていたんだと思います。あ、待って、ここ……」

 ジモーンは再び読みあげた。

引っ越してきた時に地下室で感じたあの何かをまた感じたから、何が見つかるかどうか降りてみた。そうしたら今回は話しかけてきてくれた! 彼の名前はヴァルガヴォス。ヴァルね。私たちより前の持ち主に召喚されて、縛り付けられたんですって。召喚した人たちは、ヴァルは小さな奉仕霊みたいなものだと思ってたみたい。単純な仕事をさせるための。けどそうじゃなかった。ヴァルはすごく大きくて強かった。だからそれがわかった時に慌てて逃げ出した、けれどヴァルを解放はしなかった。ヴァルはずっとここに、ひとりでいた。解放する方法がわかるかもしれない本を教えてくれるって言ってたけど…

 「そして、学術的に不審な研究を彼女が始めたのはここからだと思います」ジモーンは言った。「かなり難解な内容がここには含まれています。悪魔学、屍術、魂縛り……どれも結局は悪いことになる魔法です。けれどこのヴァルガヴォスという存在は閉じ込められていた。そして館がこれほど活発に活動しているということは、まだここにいるに違いありません」

 「今でもか?」タイヴァーは心を奪われたように尋ねた。「読み続けたまえ、スカルドよ。物語を語ってくれたまえ」

 「ほんとに変な人」

本を色々読んだ。ヴァルを解放できるとは思うけれど、本当は…やりたくない。学校は相変わらずひどい所だし、それは私がみじめったらしいからかもしれない。けれどヴァルはここに引っ越してきてからできた、たったひとりの本当の友達。ヴァルを失いたくない。ヴァルは長い間、すごく長い間閉じ込められてて、そのことをすごく怒ってる。私と話してる時は怒ってないふりをしてるけど。ヴァルを解放したら、どこかへ行く前に沢山の人を傷つけるかもしれない。私は沢山の人を傷つけたくはない。

 ジモーンは語った。「つまり、たとえ学術的な判断が間違っていたとしても、マリーナはある時点では本質的に善良な人物だったんです」

 「そのようだな」

 「何かが変わったに違いありません」ジモーンは後頭部をさすった。「考えがむずむずしてきました。少しの間、自分たちに戻りませんか?」

 タイヴァーは頷き、変成魔法を解いた。館が認識してくる重みが圧倒するように再び押し寄せた。少ししてジモーンは言った。

 「わかりました、元に戻してください。館に見られながら読み続けるのは嫌ですし」

今日は今までで最悪の日だった。屍生物学クラスの女子が何人か、授業の後に私を捕まえようって決めてたみたいで、その子たちは――

私を――なんて呼んで――壁に押し付けて――

 「大部分は塗り潰されています。けれど残っている部分はかなりひどいです。紙に涙の跡があります。泣くほど傷つけられたのだと思います」

仕返しをしてやれるってヴァルは言う。苦しめてやれるって。もうどうでもいい。こんなふうに生きていられない。

明日の放課後にあの子たちを招待することにした。

 ジモーンはかろうじて息をしながらページをめくった。

私は何をしたんだろう?

ヴァルは…あの子たちをさらった。手が壁から伸びてきてあの子たちを掴んで、そうしたらあの子たちは悲鳴をあげて、凄い悲鳴をあげて、そして、変わっていった。まるでヴァルがあの子たちの肌の下で動いてたみたいに。そして悲鳴がやんで、ヴァルはあの子たちを壁の中に引っぱりこんで、あの子たちはいなくなった。何も残ってなかった。

私がやったんだ。ヴァルはここから出られない。だからどれだけ怒ってても、どれだけ人を傷つけたいって思ってても、私がいなければできなかった。やったのは私。私がヴァルにやらせた。

眠れない。家はずっとぎしぎし言ってて、壁は膨らんだり縮んだりしてる。まるで、呼吸しようとしてるみたいに。あの子たちが家の中に閉じ込められてて、逃げ出そうとしてる音が聞こえるような気がする。ずっとそんなことばっかり考えてる。

私がやった。

 ジモーンは顔をあげた。「そんな」

 そして日記へと戻り、次へ進んだ。

両隣の家はなくなって、私たちの家は前より大きくなった。ヴァルが家になったんだと思う。どうやってかはわからないけれど、長い時間をかけて。ヴァルは飢えていて、怒っていて、ヴァルが周りの世界を食べるための力を私があげた。このままじゃ駄目。ヴァルと話をしないと。私自身とパパとママを助ける方法を見つけないと。世界は救えないかもしれないど、私自身まで完全に怪物にはならずにすむかもしれない。

まだ間に合う。

 ジモーンは日記を閉じて脇に置き、壁をじっと見つめた。「マリーナが研究していたあの儀式……四人の命があれば、ヴァルガヴォスは飛躍的にその影響力を拡大できたと思います。もっと沢山の人を自分自身の中に捕えて、それを何度も何度も繰り返すんです。外に何も残らなくなるまで」

 「それはいかなる意味だ?」

 「この次元に、館の外なんてものはもう残っていないと思います」ジモーンはタイヴァーに目を向けた。両目を見開いて怯える、恐怖の館の仮面越しに見るその顔はどこか奇妙だった。「数学的に言えば、現時点で、すべてがヴァルガヴォスなんだと思います」


 踊る木人たちに遭遇した屋外の「部屋」は同じようなさらなる「部屋」に繋がっており、森や茨の茂み、荒涼とした丘陵地帯が続いた。屋内ではありえない環境の中を、ナシは一行を率いて更に深くへと進んでいった。遠くに川が流れ、水が石に砕ける音を放浪者は聞いたような気がした。ありえない音、それでも彼女はその源までたどり着きたいと思った。知りたいと思った。

 館からどうにか脱出できたと感じるたびに壁がわずかに見え、あるいは半ば隠れた窓から光がきらめいた。環境がいかに自然のものに感じられたとしても、それらはすべて完全に屋内にあった。骨が散りばめられ木々に囲まれた土の塚を見て、ニコは身震いをした。カルドハイムの石塚によく似ており、テーロスの墓とは異なる。違いは問題ではなかった。類似点を見れば、それが墓地だとわかった。

 一行は歩き続けた。ナシが先頭に立っていたが、ウィンターは同行者から顔を向けられると、自分たち正しい道を進んでいることを示すように頷いた。森は茂みへ、そして茨へと変化し、やがて一行は屋内にはありえないほど広大な草原に出た。なだらかな丘陵地帯に小屋が点在し、その煙突からは煙が上がって、青白い大気に灰色の筋を描いていた。行程の途中で明るさが戻ってきた。最初はゆっくりと、そして次第に眩しくなり、ついには周囲の恐ろしい風景を隅々まで見渡せるようになった。

 「外」でも、館は変わることなく一行を怯えさせた。不気味に迫りくる木々の樹皮には叫び声を上げる顔が刻まれていた――その木々が叫んでいるのはそのように育ったからなのか、それともそれらは生存者たちの成れの果てであり、今なお知性を保持しながら自らの凍れる運命を認識しているのか、木人との遭遇の後では判断はできなかった。丘の斜面から生えている低木は不気味なほど痩せ細っており、今にも足に絡まったり、裾をひっかけたりしそうな印象を与えた。

 空気がどれほど新鮮に感じられても、川がどれほど陽気に流れていても、ここは良い場所ではなかった。

 小さな、不機嫌そうな声をウィンターが発した。放浪者とニコが見ると彼はかぶりを振った。「ここは静寂の谷だ。ヴァルガヴォスの教団がある。戻った方がいい」

 「母さんがこの方向から僕を呼んでいるんだ」ナシが言った。「僕にはわかる、ここが正しい目的地だって」

 「だがな……」

 「来なくたっていいよ。一緒に来てなんて頼んでないし」

 「一緒に行きます、それが何を意味するにせよ」放浪者が言い、ウィンターへと挑戦的な視線を投げかけた。

 ウィンターは溜息ついた。「警告はしたぞ」彼はそう言い、三人は歩き続けた。

 放浪者が歩く一方、その光霊は彼女の肩の周りを旋回していた。ニコは宙から破片を取り出して指の間で回転させながら、考え込むようにウィンターを見つめて尋ねた。

 「先程仰っていた教団とは?」

 「ヴァルガヴォスの教団だ。奴ら曰く、ここに根を下ろしてすべてを飲み込むほどに成長したひとつの存在によって、ダスクモーンは創造されたんだと。そいつは閉じ込められてはいるが、沢山食えてるからもうそれほど気にしてはいない。教団は生存者を狩る。俺とか俺の友達のような奴らを。可能なら生きたまま捕まえて、改宗させるかヴァルガヴォスに引き渡すために連れ去る。どちらにしても、奴らが捕まえた者は二度と戻ってこない」

 「人々を魅了しているのでしょうかね」

 「違う」

 「皮肉で言ったのですが」

 「わかってるよ」

 「では何故――」ニコは我に返ってかぶりを振った。「いえ、気にしないでください。その教団があるというのは悪い知らせなのですか?」

 「最悪だ」ウィンターは重々しく言った。

 ニコは彼を見た。「木人、剃刀族、錯霊と来ましたが、最悪なのはその教団だと?」

 「そのうちわかる」ウィンターは溜息をついた。「奴らに遭遇するまでもう少し長くかかると思ってたんだが」

 「つまり、遭遇するということは予想していたのですね」

 「奴らはダスクモーンでは避けられない存在だ。そいつらが崇める貪食の父と同じく、どこにでもいる」

 ニコは顔をしかめた。そしてナシと放浪者を追いかけ、出入り口のような形をした石のトンネルを抜けて次の部屋に入った。


 そこは何世紀もの時間をかけて岩が浸食された、自然の洞窟のように見えた。壁はざらついて不均一で、天井には鍾乳石がびっしりと並んでいた。鍾乳石の下の床には対となる石筍が所々に生えていたが、そのほとんどには意図的に形を変えた跡が見られた。上部が削り取られて平らにされ、聖餐用のランタンや鉢を置けるようになっていた。平らにした4つの石筍の上に手で削り出した石英の板を置いて作られた、大きな祭壇もあった。

 それらはすべて舞台装飾であり、環境の中における不変の事実であり、その部屋にあるものとは異なって全く不穏ではなかった――蛾の翅のような形状をした長いローブをまとう、数人の人型生物。その衣服は清潔でよく修繕されているが、裾はぼろぼろだった彼らの衣服の状態が何故これほどまでに不吉に感じるのか、ニコは理解に少しの時間を要した。

 そこには継ぎ目も、汚れもなかった。ウィンターにはないような贅沢な方法で、自分たちの身なりを整える余裕があるのだ。そしてその延長で、この館をさまよう生存者たちにはそれが許されていないのだろう。この場所では、清潔さというものは事実上、権力を意味していた。

 部屋の端には幾つもの蛹がぶら下がっていた。硬質で角張っており、自然と不自然の両方の幾何学的印象を同時に与え、まるで法則の異なる別空間から掘り出した純理論的立体から形作られたかのようだった。蛹は緑と茶の色合いで塗られており、ニコが見ているとそのひとつが引きつるように動いた。内部の何かに動かされたのだろう。不安がかき立てられた。あまりに長く見ていると目が痛くなった。

 部屋の中央にはウィンターと似たような装いの人物が三人、縄で縛られて弱々しく抵抗していた。ひとりは脚にひどい切り傷を負っており、布地の層を貫いて皮膚まで達していたが、他のふたりは無傷のようだった。ローブを着た人物が革装丁の本を胸に抱き、彼らに説教をしていた。

 「貪食の父はまだ君たちの奉仕を受け入れて下さるだろう」その声は朗々として、明らかに誘惑するように高らかに響いていた。「父の名において再誕せよ。そうすれば栄光の内に君たちは姿を変え、門閾の賜物によって恐怖から解放されるだろう。子供たちよ、もう恐れずともよいというのは素晴らしいことではないだろうか? 弱さという鎖に縛られず、父の守りのもとに誇らしく立つことが叶うのだ」

 負傷した生存者は大声をあげて泣きはじめた。「はい」彼女は涙を流しながら言った。「そうなったら、どんなに素晴らしいか。怖くて、とても怖くて」

 「黙れ」仲間のひとりが囁いた。「奴らに装備は奪われたが、まだここから脱出できる。まだ生き残れる」

 「できないわよ! 何度も言ったのに、あなたは聞いてくれなかった。勇敢になりたかったから。勇敢なことと怖れないことは同じじゃないのよ」彼女は語り手を見つめ、目を大きく見開いて涙を浮かべた。「もう恐れたくありません」

 「この者を連れて行くのだ」語り手が言った。

 他の者たち――信者たちが――進み出てその女性を解放した。ひとりが彼女の額に口付けをし、別のひとりが彼女の腕をとった。彼らは一丸となってその女性を一番近くの蛹へと引っ張っていき、中へ入れようとした。

 ニコはもう見ていられなかった。一番近くの石筍に飛び乗り、両手に破片を出現させた。「待て! その人を放せ!」

 ゆっくりと慎重に、語り手がニコへと振り返った。そして仲間の方を。「素晴らしい。本当に成し遂げたのだな」

 放浪者は進み出ようとしたが、奇妙で静かな感覚が身体に染み渡るのを感じた。気を失わせるには足りない――彼女にはそれ以上の意志の力があった。だが不意に両脇から腕を掴んできた手は、まるで鉄でできているように感じられた。ナシは放浪者の隣に移動したが、他の鼠人と同じように拘束された。残るはニコとウィンターだけだった。

 ニコは石筍から降り、ウィンターの側面へと回り込んだ。捕まらないよう力を貸すつもりだった。ウィンターは何も言わずに頭を下げるだけで、信者たちは立ち上がって今度はニコを捕まえた。

 ニコが逃げようともがいていると、語り手がふたりへと近づいてきた。その男は微笑み、満足そうにウィンターの肩に手を置いた。「君には最高の恩恵が与えられるだろう」

 「じゃあ、俺は行かせてもらう」ウィンターはそう言って後ずさり、緩んだ石を壁から引き抜いた。硬い花崗岩の一枚板が彼の前に落下し、一行は教団の信者たちと共にその部屋に閉じ込められた。


 そもそもは負けるはずのない戦いだった。多元宇宙で最も優れた剣士のひとり、決して外すことのない槍投げの名手、そして神河の路上で生き延びる術を学んだナシ。安全な家を失った人々と共に逃げ回りながら、七人の狂信者と戦う。負けるはずがなかった。

 だがその時、教団の指導者が書物を掲げてページを勢いよくめくると、分厚い塵の層が紙から舞い上がり、光の中で銀色に輝きながら周囲のすべてを覆った。自分たちの手足は重くなり、動きは遅くなり、そして少しの間意識を失った。それは眠りとはまったく異なる無の境地だった。

 最初に目を覚ましたのは放浪者だった。長年、灯に翻弄されて多元宇宙の行き来を強要されてきた彼女は、不意の衝撃から回復する能力に誰よりも優れていた。鎮静効果のある粉の残滓を振り払ってから見ると、彼女は白い綿のような素材の輪に拘束され、柱にしっかりと固定されていた。先程とは別の洞窟だった。より大きく、より暗く、壁には岩が粗く露出していた。仲間たちも同じく、部屋の端にある石の柱に縛られているのが見えた。

 壁のひとつは心臓のように脈打つ巨大な繭で占拠されており、それが収縮と拡張を繰り返すたびに柔らかで囁くような音が部屋中に響き渡った。

 部屋の中央にはまた別の祭壇があり、その上にはウィンターが持っていたものと同じような四角い装置が置かれていた。これまでに屋敷のそこかしこにも同じようなものが放置されていた。その上部は開いており、巻物から顕現したタミヨウの名残がそこに浮いていた。それは途切れるように明滅しており、まるで姿を保つことが苦痛であるかのようだった。タミヨウは肩を落としてうつむきながら、放浪者には聞き取れないほど小さな声で、目の前の男に語りかけていた。男は彼女の言葉を一言一句残らず書き留めていた。

 「なんと美味な物語だろうか」左から声が聞こえた。放浪者が精一杯頭を向けると、先程の洞窟で儀式を指揮していた男が、書物を手にしたまま隣に立っているのが見えた。「あの者は素晴らしい発見、途方もなく貴重な宝石だ。あの者を迎えることができたのは、この上ない栄誉だ」

 「あの方は奪えるものなどではありません」放浪者は吐き捨てるように言った。

 「それでも、我々はあの者を得た」男の声は陽気とすら言えた。「貪食の父はダスクモーンを離れる意図をお持ちではない。ここは父を養い育む素晴らしい繭であり、父は力強く成長された。だが最近、壁の外の空間は変化した。今や父は更なる祝福を、より多くの新たな世界へと広げることが可能となったのだ。もはやひとつの扉を開くために全力を尽くされる必要はない。多くの扉が存在すると認識されたなら、それで充分なのだ」

 放浪者は拘束に抵抗しようとした。ナシとニコが身動きを始めた音が聞こえた。「あなたがたはあの方の物語を盗み、それを怪物に与えているのですね」

 「異端のままでいたいというなら、私が君を救うことはできない。だが同志となってくれるなら、それは大いなる喜びだ」申し訳ないような様子で男は言った。「申し出は行った。君はただ受け入れるだけでいい」

 放浪者は顔をしかめ、かぶりを振った。男は溜息をついた。

 「残念だ、そして勿体ない。だが考え直す時間はあげよう」

 男は書物を小脇に抱えて放浪者から離れ、祭壇へと歩き去った。そこではタミヨウの記憶が、残酷な聴衆へと自らの生涯の仕事について無力に語っていた。


 ダスクモーンの不気味な静けさの後では、ラヴニカの喧騒は襲撃のように感じられた。攻撃されるかと警戒し、魁渡はすぐさま振り返った。そこはジモーンと最初に会ったあの路地だった。すべてが始まった場所――自分はラヴニカを目指していたのだろうか? 具体的などこかを目指していたのだろうか? 手遅れになる前に必死に逃げ出そうとして……

 握りしめた掌に何かが食い込み、開くには力を要した。血に染まった木片が手の中にあった。ダスクモーンからの別れの贈り物。魁渡はそれを睨みつけ、それから意識を久遠の闇へと向け、あの館の汚れた基礎を探した。そしてそれを掴み、虚空を越えて無限の世界へと身を投じ――

 ――何も起こらなかった。魁渡は恐慌状態に一瞬陥り、腹の底から恐怖が湧き上がった。破片を掴んだ手が素早く握られた。皆と同じように自分の灯も消えて、領界路に頼らなければならない時が来たのだろうか? 自分は捕らわれたのだろうか? 神河は自分を――即座に行動できる守り手を失ってしまったのだろうか?

 焦りのまま、魁渡はニヴ=ミゼットたちが設営したあの場所へと路地を急いだ。アミナトゥとエトラータが彼を見つけ、止まるように手を振って促した。だが魁渡はそのまま駆け続けて隔離区域へと向かった。

 だがまもなく着くというところで、ニヴ=ミゼットが魁渡の肩に大きな爪を引っかけて立ち止まらせた。

 「カイトよ、何があったのだ?」優しさすら感じさせる口調で、ニヴ=ミゼットは尋ねた。

 魁渡は立ち止まった。「俺たちは分断されて、そしてジェイスさんが……ジェイスさんがいました」

 「ベレレンだと?」

 「俺を見捨てていきました」怒りを思い出しながら、魁渡はニヴ=ミゼットを見た。「謝ってはいましたが、俺を見捨てていきました」

 その頃にはアミナトゥとエトラータが追いついていた。義丸はアミナトゥの後を追ってきた。彼女は魁渡へと手を伸ばしたが、思い直したように引っ込めた。「あなたが恐れていることは起こっていないわ。まだ燃えていて、まだ燃え尽きていない。問題はあなたの中にはない。館にあるのよ」

 「館に?」

 「館はもうあなたのことを知ってる。あなたが実際よりも厄介な存在だってことを。だから、館の壁の中に入ってきて欲しくないのよ。あなたのお友達の運命は、あれと同調した人たち次第。あなたが賢明な選択をしたのであれば、いずれあれは自由になるわ」

 プロフトは他の者たちほど慌てることなく、その小集団へと歩み寄った。彼は魁渡の手を見た。そこには、まだダスクモーンの破片が握られていた。

 「一緒に来てくれるかな。役に立つかもしれない案があると思うよ」プロフトはそう言い、前に出るよう魁渡に促した。

 他に良い案もなく、魁渡はプロフトを追いかけて中庭の反対側にある作業場へと向かった。時間は過ぎていく、そしてそれは彼らの味方ではない。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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