MAGIC STORY

ダスクモーン:戦慄の館

EPISODE 07

第4話 諦めてはいけない

Seanan McGuire
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2024年8月26日

 

 金色にきらめき輝く香醍の影が彼らを先導した――「先導した」というのは誤った表現かもしれない。この小さなドラゴンは自分たちが追われていることに気付いているのか、それとも自分たちが向かう先を理解しているのか、それは明白ではなかった。ナシの捜索を手伝って欲しいと頼まれてこのドラゴンは移動を始めたが、それ以降はどんな要求にも応じていなかった。速度を落として欲しいと放浪者が頼んだ時すらも。

 その光霊は恐れることなく館の中を移動していった。光霊は時に消え、完全に消滅することもあるとウィンターは言っていた。だがそれがどのようにして、あるいはなぜ起こるのかはわかっていないらしい。同じく、希望を消し去ることに特化した怪物が館の中にいるかどうかもわからない。いたとしてもそれは影の中を動き、それが襲ってくる所を見た者はいない。光霊は変わらぬ速度で進み続けた。のたうつ霧で満たされた部屋の中をうねりながら抜け、様々な恐怖の隣を通過していった。不運にもその注意を引いた何かの残骸を引き裂く、尖った黒曜石の棘のような皮膚をもつ巨大なもの。あるいは目のない肉の塊、這い進む目玉の集合体。それらすべてが光霊を無視し、平和的に通過させた。

 ウィンターとニコと放浪者は光霊を追いかけた。どの部屋でも注意を向けられることはなく、そのため自分たちは生き延びるという気楽な自信は少しも削がれはしなかった。恐ろしいものが近くに何もなくなった稀な瞬間、ウィンターが不機嫌そうに呟いた。「今にも何か襲いかかってきてもいいんだが」

 「面倒事を呼びこまないで下さいよ」ニコが言った。

 「そうじゃない。館が俺たちを通過させるってことは、何か計画があるってことだ」

 「ならば、気を抜かずにいましょう」放浪者が言った。一行は彼女の光霊を追いかけ、金枠の鏡がずらりと並ぶ長いギャラリーへと入った。鏡の半分は割れ、ガラスの破片が床に散らばっていた。残りの半分は奇妙で乱れた歪みを映していた。

 カルドハイムに長く滞在していたニコは、エシカの虹が舞い、凍った霧を通って屈折し、何千という光と色の粒に砕け散る様を見たことがあった。目の前の光景はそれに似ている、だが……生気はなかった。同じように鮮明で、同じようにまばゆく惑わせてくるが、死んでもいた。

 ウィンターは歩き続けたが、仲間のふたりが立ち止まって鏡を見つめていると気付いた。そこでようやく彼も足を止め、ふたりが何を見ているのかを確認するために引き返した。香醍もそれを追った。移動を開始して以来、この光霊が状況を認識していると示したのは初めてだった。ガラスに映った震える色を見て、ウィンターは硬直した。そして小声で悪態をつきながらニコの腕を掴み、見つめている鏡から引き離そうとした。

 「移動するぞ。ここは無防備すぎる。あいつらが姿を現すのをただ待ってるわけにはいかない」

 「あいつら、とは?」ニコは尋ねた。

 「錯霊だ。反射面を使ってこの館に入ってくる。俺たちは長い間、実は窓になってる鏡が沢山あってそこから脱出できる証拠だと思ってた。けど違った。館の外で死んで、それから俺たちと同じように閉じ込められた奴だけが出入りできる」

 その説明に召喚されたかのように、身を震わせる何かが鏡の枠から引きずり出されるように現れた。動き、屈折する光とともにそれは動き、やがて人の形をとってニコへと手を伸ばした。四肢の残像がその後を追い、描きかけのような歪んだ雲を作り出した。まるでその姿が同時にあらゆる時間に存在し、それだけではなく更に可能性を広げつつあるような。実体を持っているようには見えなかったが、それでもやはり危険に見えた。

 滑らかな「頭」の前面にぼやけた顔らしきものが形成され、できたばかりの口が大きく開かれた。ニコへと今なお近づきながら、その口は張りつめるように更に大きく伸びていった。

 ニコの両目が見開かれた。「違う」そしてそう言い、一瞬の呆然自失から立ち直った。「違う、私たちはそんなことはしない」ニコは自身の隣、何もない虚空に手を伸ばし、青みがかった魔法が輝く破片をひとつ取り出した。そしてそれを掌の上で回転させ、鏡から現れた存在へと投げつけた。

 打つことなく打ち、包み込むことなく包み込む。破片が命中してその何かは消えた。だが破片は残り、踊るように変化する多色の光を膜のようにまとっていた。

 鏡は曇り、ニコの姿は映らなくなったが、もはやあの歪んだ光も満ちていなかった。ニコは宙から破片を取り上げ、鏡の中の姿を観察しながらもう一度回転させ、そして腰の近くに下げた。

 振り向くと、ウィンターが見つめていた。ニコは尋ねた。「どうしました?」

 「そんな……そいつと戦うなんて不可能だ。あんたを連れ去って、そしてあんたは死ぬ。もしくは霊捕獲器を使って外へ、元いた場所へ追い出すか。今やったそんなこと、できるはずがない!」

 「多分そうだったんでしょうね、私がやる以前は」

 香醍が放つ金色の輝きはまだ回廊の端に見え、放浪者はそのすぐ背後にいた。その光霊は明らかに我に返ったようだった。放浪者も再びその輝きを追いかけ、うまくいけばナシへと導く道へと向かっていった。ニコとウィンターは急いで彼女たちの後を追い、一行は揃って館の中を進んだ。

 その行動を「奥へ進む」と呼べるかどうかは難しかった――でたらめに広がる部屋と廊下の迷宮には、始まりも終わりもない。論理的に内部構造を理解しようというニコの試みは、崩れて塵と化して久しかった。一貫した法則を守ろうとしない館の頑固な拒絶の前に、それを維持するのは不可能だった。鏡の回廊を抜けると、一行はがらんとした舞踏室を横切った。その天井は塊と化したクモの巣で覆い隠されており、まるで何か見えないものが頭上を動いているかのように、巣は脈動し揺れていた。こちらに気付いてはいるが、まだ襲ってきていない。

 その先は、明らかに閉ざされたまた別の空間ではなく、森の一部のような場所だった。温室に用いられるような、ガラスと金属の細工が施された壁がそれを取り囲んでいた。その壁は木々よりも高くそびえ立ち、頭上に尖った覆いを形成していた。空気は、土や緑の植物の匂いこそ漂っていたが、屋内と同じ程に静止してよどんでいた。

 「まだ屋内なのですね」放浪者が言った。

 ウィンターは彼女へと眉をひそめた。「当然だ。何もかも屋内にある。まだ気付いてないのか?外なんてもう残ってない。遠い昔に館が全部奪った。今ではすべてが中だ、錯霊とそれが出てくる虚無を除いてな」

 「誰かがこの場所を作ったに違いありません。最初から中に閉じ込められていたのなら、そのようなことはできなかったはずです」

 ウィンターはあざ笑った。

 光霊が一行を木々の方へと導いていった。三人は進みながら徐々に身を寄せ合った。閉鎖的な森の影の中、自分たちは小さく取るに足らない存在であると感じた。その光景には何か極めて不自然なものがあり、すでに不安に駆られている一行の神経をさらに苛立たせた。ニコは武器が欲しかったが、そのためだけに新たな破片を作ることはこらえた。放浪者は歩きながら刀を抜き、自身の前に刃を低く構えた。

 光霊は不意に停止し、宙で円を描きはじめた。その輝きが周囲の木々を照らした。放浪者は立ち止まり、眉をひそめ、片手を伸ばした。そして空があるべき方向へと掌を向けながら、光霊へと近づいていった。

 光霊は回転を止め、ほんの一瞬、放浪者の手の上に留まった。そしてそれは上昇し、彼女の肩の上にひらひらと漂った。放浪者は木々の奥深くを見つめ、よろめきながら後ずさりし、かろうじて驚きの声をこらえた。

 「どうした?」抑えた声でウィンターが尋ねた。

 彼女は激しくかぶりを振り、そして仲間たちへと向き直り、空いている手で鋭い身振りをした。ニコとウィンターは無表情のままだった。放浪者はもう一度その身振りをし、そして溜息をついて囁き声で言った。「前です。音を立てないで」

 三人は身を寄せ合って木々の隙間から覗きこみ、そしてひとつの悪夢を目にした。

 一見して自然の空き地の中央に、冷たい炎が燃えていた。森との境界ははっきりしておらず、岩や木の根が散らばっていた。炎から飛び散る火花は、灰というよりは雪の結晶のような形をしており、青白く輝きながら地面に落ちていった。

 枝を樽の形に編んだ檻がその「炎」を取り囲んでいたが、それは作られたものではなく、植えられたものだとわかった。檻は釘のように地面を突き刺す太い根に繋がっていた。檻は全部で7つあり、そのうち4つには人型の鼠が収監されていた。鼠たちは檻に触れないように気を付けながら、怯えた捕虜のようにうなり、歯を鳴らしていた。檻の外では、その捕獲者たちが跳ね回って踊っていた。

 捕虜が何者かは簡単にわかった。ニコにとって鼠人は馴染みのない存在だったが、故郷テーロスのサテュロスやケンタウルスを思えば理解は難しくはない。動物的な面を持つ人々はテーロスでは全く珍しくもなく、むしろ鼠人がいないというのは少し意外に思えた。一方、捕獲者の方は別だった。細長く奇妙な姿、枝編み細工と束ねた枝でできたものにしか見えなかった。花で飾られ、髪や他の装飾品を模している個体や、棘茨で編んだガウンのようなものを着ている個体もいた。木でできた生き物らしく、その動きはぎこちなかった。檻の前を通り過ぎる時には手を伸ばしてそれらを揺らし、捕虜は逃げるように後ずさった。

 「ナシさん」放浪者は息を吐きながら目をこらした。檻の中に座し、両腕で膝を抱えた一番小柄な鼠人。踊り手たちが檻の前を通り過ぎても彼は威嚇もせず、ただ静かな怒りとともに見つめ、相手のあらゆる動きを観察していた。まるで、それが何の役に立つかはわからないが、後で思い出すために記憶しようとしているかのように。

 もう三人の鼠人はそこまで我慢強くはなかった。ひとりが檻を揺らした手に襲いかかり、小枝がもつれた「指」からわずか数インチの所を噛みついた。それに応えるように、木でできた生物は踊りをやめて音を鳴らしはじめた。奇妙で恐ろしい音だったが、それはこちらの音を少しだけ誤魔化してくれた。ウィンターが囁いた。「木人だ。もう行くぞ。あんたの友達はもう助からない」

 「同じような言葉を言われたことがあります。ここではない場所で、他の友達について」放浪者は刀を構えて囁いた。

 空き地では木人が檻を開けて手を伸ばし、鼠人の手首を掴むと同時にその指を相手の肉に深く突き刺した。鼠人はすさまじい悲鳴をあげたが、不愉快なその手に噛みつきはしなかった。むしろ、それを恐れているようだった。

 木人は手を離して下がり、鼠人の腕に大きな穴が残った。血は流れ出なかったが、代わりに琥珀色の樹液がゆっくりと滲み出し、その直後に傷口から新緑の芽が弾け出た。

 鼠人は再び悲鳴をあげた。その新芽が神河の若竹のそれであると唯一気付いた放浪者は、片手で口を押さえた。新芽は速度を増しながら成長を続け、鼠人に巻きつき、ついには完全にその姿を覆い隠した。最後に不快な粉砕音がして悲鳴が途切れた。その鼠人は失われ、生気のない虚ろな一体の枝編み人形が残された。

 やがて、ぎくしゃくと硬直しながらもそれは動き出し、檻から出て、凍った火の周りで踊る他の木人たちに加わった。それは他のほとんどの木人よりも背が低かったが、他の木人にも背の低いものがいた――ニコは恐怖とともにそれに気づいた。木人のうち三体は小柄で細身、ねじれた根やもつれた茨でできた「尻尾」があり、鼠人の身体構造を模していた。

 踊りが再開された。新たな同類が加わって活気を取り戻したかのように、先程よりも速く。

 ニコは放浪者へと振り向こうとしたが、見えたのは彼女が刀を手にして、踊る木人たちへと飛びかかる様子だった。彼女は木人たちの間に着地すると何かを叫んだ。その姿は、復讐に燃える死が形を成して渦巻くかのようだった。放浪者の刀は「炎」の光を受けて銀色に輝き、木人たちの肢や頭を切り落とした。それらは踊りを止め、悪夢のように彼女へと向かってきた。

 放浪者は刀を用いてナシの檻を切り開き、すぐさま踵を返して敵へと戻っていった。だが次の瞬間彼女は凍りつき、口を開けて無言の悲鳴をあげた。羽織の前面に血が広がり、檻の中に閉じ込められたまま恐怖に震えるナシが見守る中、胸郭から木の枝が弾け出るとすぐさま彼女を食らっていった。光霊のかすかな金色の光が消えた――館に消されたのだ。手から刀が落ちた。放浪者であったその生物は、かつての仲間へと向き直ろうとした。居場所はわかっていた、けれどもはや仲間ではない――

 ――そして放浪者がはっと驚くと同時に、その光景は砕け散った。アミナトゥの運命変えの細工、それを仕舞っていたポケットに彼女は手を伸ばした。放浪者はニコを見つめ、ニコも黙って見つめ返した。ほとんど確定しかけて、けれどかろうじて回避した選択について、ふたりとも何を言えばいいのかわからなかった。

 ウィンターは眉をひそめてふたりを交互に見つめた。「どうしたんだ、あんたら? ここは立ち止まってぼんやり眺めているような安全な場所じゃない。行くぞ」

 「今のは……あの動きでは上手くいきませんね」ニコが言った。

 「ええ。私も、あのようなことはしません」放浪者が答えた。

 「そうか、何かするつもりなんだな」ウィンターは怯えた声で言った。

 ニコと放浪者は空き地へと視線を戻した。木人たちはもう踊ってはいなかった。代わりにそれらは「頭」を三人の方に向け、目もないのに見つめていた。その静けさは、今にも動きが起こりそうな、攻撃の前の休止のような印象を与えた。

 「そうです」ニコはそう言うと新たな破片を空中から引き抜き、片手にその破片を、もう片方の手には捕らえた錯霊の青白いもやが漂う破片を握りしめた。そして素早い動きで前方へ跳び、両方の破片を同時に投げつけた。錯霊入りの破片は先頭の木人に当たって破裂した。砕け散った光の亡霊が咆哮しながら相手を包み込んだ。

 二本目はナシに命中し、彼を包み込みながら檻の柵を通り抜けて飛び去り、ナシを閉じ込めたまま近くの木に刺さった。

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アート:Jarel Threat

 ニコと放浪者が空き地へと駆ける一方、ウィンターは身を隠そうと低く屈みこんだ。錯霊は先頭の木人を食らい続け、錆びた釘でブリキを引っかくようなおぞましい音を立てた。他の木人たちは混乱したようで、やみくもに襲いかかった。

 放浪者は簡単にそれらを避け、他の檻を切り開いていった。捕らえられていた鼠人たちは檻から落ち、急いで立ち上がりながら石を掴んだ。間に合わせの武器として使うのだ。「火だ」鼠人のひとりが、はっとしたように言った。「そいつらは火を怖がる」

 「火と言いましたか?」放浪者が尋ねた。ニコは自力で持ちこたえていた。破片も石も同じ力で投げつけ、その度に標的に命中させた。放浪者は戦いから抜け出し、ナシの入った破片が刺さる木へと急いだ。それを引き抜くと、戦いを迂回してウィンターが隠れている場所まで走った。

 「火を点けられるものはありますか?」放浪者は強い口調で尋ねた。「道具について仰っていましたが、その中にはありますか?」

 ウィンターはしばしベルトを手探りし、やがて掌ほどの大きさの小さな黒い長方形の箱を見つけた。彼はそれを差し出した。「上にある赤いボタンを押せばいい。導火線に火をつけたり、明かりをつけるのに使うやつだ」

 「これを持っていてください」

 彼女は精一杯の敬意を込めてナシの破片を手渡し、それから踵を返して再び戦いの中へと飛び込んだ。

 ニコに切られて木人たちは倒れていったが、それらは驚くべき、恐るべき速さで再び立ち上がった。破片に閉じ込められたものだけは本当に戦いから排除されたが、放浪者はその魔法の限界がどこまでなのかを知らなかった。乾いた草を一掴みし、彼女は黒い箱をそれに近づけてボタンに力を込めた。

 小さな炎が噴き出し、草が眩しく燃え上がった。放浪者は草の束を木人たちの真ん中に投げた。それらは半狂乱に陥り、ニコと鼠人たちを攻撃するのを諦めて森の奥深くへと逃げていった。放浪者はニコのもとに戻った。ニコは自身に怪我がないかを確認していた。

 「貴方は手強いですね」放浪者は言った。

 「私は決して外しません。貴女もそう悪くはありませんよ」

 ふたりはウィンターの所へ戻り、鼠人たちは慎重に距離を置いて後を追った。放浪者はウィンターに箱を返し、代わりに破片を受け取った。

 「ナシさんを解放して頂けますか?」

 ニコは頷き、破片を受け取って消滅させた。不意に、ナシはそこに立ち尽くしていた。一瞬困惑したように見えたが、放浪者が彼を抱き寄せようとした。だがナシはそれを拒み、彼女はがっかりした様子で引き下がった。

 「来たんだ」ひげを震わせながらナシは言った。

 「もちろんです。私の所に来てくださればよかったのに。助けてあげられたでしょうから」

 「自分たちの仲間は自分たちで助ける」別の鼠人が言った。

 「そうですか」放浪者は言ったが、その失望は増すばかりだった。

 「ここに来てから、ずっと母さんを探してたんだ」ナシが言った。「居場所はわかってると思う。でも、一緒に連れてきた仲間のほとんどを失った。母さんを見つけるには、みんなの助けが必要だ」


 うめき声は途切れることなく壁から溢れ出していた。終わりはなく、反響し、ひとつの音とは思えないほどに耳障りだった。不意討ちをされないよう、ジェイスと魁渡は背中合わせに立っていた。壁は分厚い泥のように波立ちはじめ、やがて何か恐ろしい、形のない、触手のようなものが這い出て、ふたりが立つ場所へと伸びてきた。

 それは海の底で見つかるような、柔らかくて不定形の、自重に耐えられないもののように見えた。もちろん、耐える必要はない――それは壁から抜け出すと床の上を漂い、ゼラチン状の膜の前面が裂けて、ギザギザの歯が詰まった口が開いた。その中には幽霊のようにぼんやりとした頭部がいくつも浮かんでいた。それらは薄く実体もなく、煙か霧でできているように見えた。

 「あれは何です?」魁渡が尋ねた。

 「まるで……いや、そんなわけがない」ジェイスは精神魔法をその物体に向けると、両目が青白く光った。それはすぐに戻った。「あれには心がない。口の中の頭には心があるが、自分たちを包みこむものを意識していない。あれはナイトメア、悪夢が実体を得たものだ」

 「悪夢が俺たちを傷つけられるんですか?」

 「できないと仮定するより、できると仮定する方がいい」

 「もっともですね」

 そのナイトメアは2本の長い触手で打ちつけてきたが、魁渡は黙ってその命中を待ちはしなかった。彼は切り裂くように手を動かした。床に散らばっていた小さな石の破片が浮かび上がって瓦礫の壁となり、攻撃を防いで逸らした。瓦礫は落ちてこなかった。ナイトメアはその様子を観察し、前進を続けた。

 「悪夢なんて、どうやって戦えばいいんですか?」

 「その夢を取り除いてやればいい」ジェイスは答えた。「しばらく相手を頼む」

 ジェイスの輪郭がぼやけ、そして消えたように彼は視界から姿を消した。魁渡は罵りを呟き、屈みこんで転がり、触手の次なる攻撃を避けた。

 目に見える標的が魁渡だけとなり、ナイトメアは彼に集中した。ジェイスが何らかの思惑を進めている間、縦横無尽に魁渡を地下室の中で追いかけた。魁渡は身をかわし、転がり、時には刀で触手をはじき返したが、大半は避けることに専念した。

 そして、喉の奥から発せられるようなかすれた悲鳴とともに、ナイトメアは弾け飛んで霧の雲と化した。うめき声は止み、壁は元通りになった。ナイトメアの残骸は床に流れ、そこで消えていった。魁渡は信じられないという思いで部屋を見つめた。

 目を輝かせ、息を切らした様子でジェイスが再び現れた。

 魁渡は尋ねた。「何をしたんです?」

 「ナイトメアは、それを養う恐怖なしには生きられないんだ」ジェイスは少し得意げに言った。「あれの中で夢を見ていた者たちに接触して、その恐怖を取り除いたんだよ」

 魁渡は見つめ続けた。

 「どうした?」

 「この館にいるすべてのものがこちらを殺そうとしてくるんですよ! 少しの恐怖心は必要だって思わないんですか?」

 「恐怖とか、恐怖を感じる能力を取り除いたわけじゃない。俺たちを殺そうとしていた特定の恐怖だけを取り除いたんだよ。なあに、どういたしまして」

 「まだ鼻は折れていませんでしたよね?」

 「そうだけど……」

 「もう一回やってもいいんですよ」

 ジェイスは溜息をついた。「魁渡、俺は喧嘩をするために来たんじゃないんだ。侵略の後に姿を消したことは悪かったと思ってる。選択肢がなかったとは言わないが、しばらく姿を消すのが正しい選択だったんだ」

 「喧嘩のために来たんじゃないなら、何のために?」

 「ヴラスカさんと、新しい仲間もうひとりと一緒に旅をしていたんだ。けれど見失ってしまって、この家のどこかにいるかもしれないんだ。見つけないといけない」

 「そうですよね、ヴラスカさんの付き添いから離れるなんて、放っておくなんて絶対にできませんものね」

 「それは俺がヴラスカさんと離れたがらないって意味であって、ヴラスカさん自身の力について言ったんじゃないってのはわかってるよ。けどその通り、俺はあの人を独りにはできない。ふたりとも、俺を必要としているんだ。だからもし君が殴るのをやめてくれたら、はぐれた友達全員を協力して見つけ出せると思うんだが」

 魁渡は相手を見つめた。「新ファイレクシアでの事を考えると……俺たちは友達とは言えません、ジェイスさん」

 「俺はそれで構わない。でもそれは、俺たちふたりとも、それを受け入れて生きなきゃいけないってことだ」

 ふたりは共に地下室の奥深くへと向かった。


 あの怪物はもう追いかけてはこなかった。

 それはある意味、追跡されるよりも厄介な状況と言えた。少なくとも、怪物による追跡は予測ができる。だがあの怪物は幾つか前の部屋で追跡を止め、ふたりは逃げる相手もないまま逃げていた。ジモーンは息を切らし、落とした本を拾うために何度も立ち止まった。やがて彼女は壁にもたれかかり、うなだれて激しく肩を上下させた。

 「ジモーン殿?」タイヴァーは尋ねた。「どうしたのだ?」

 「息が、苦しくて。ちょっと、待って」

 タイヴァーは渋々彼女の横に立ち、来た道を振り返った。逃げている間もずっと、館は変化を続けていた。振り返った時に、一瞬前まで自分たちがいた部屋がそこにあった試しはなく、常に全く新しいものがあった。

 その絶え間ない変化を、タイヴァーはありがたいとすら思っていた。油断することのないように、この場所が自分たちの敵であることを忘れないようにしてくれた。まるでコーマほども大きな、理解も説得もできないほど巨大な生物の腹の中を走っているようだった。ここで自分たちにできるのは、生き延びることだけだった。

 目の前の壁が脈動し、ねじれはじめた。タイヴァーもその意味を理解しつつあった。彼はまっすぐに立ち、再びあの怪物と戦うために身構えた。慣れた攻撃と防御に戻ってほっとした所すらあった。ねじれは続き、だがそこから抜け出たのは、ひょろ長く恐ろしいあの怪物ではなかった。髪を頭の上で高く結び、知的な目を縁取る眼鏡をかけた優美なエルフの女性だった。その全身が、かすかな透明感を帯びていた。

 「ジモーン」その女性は言った。「そこにいたのね、いけない子。何週間も私の講義を欠席して」

 ジモーンははっと顔を上げ、目を大きく見開いた。「キ……キアン学部長? でも、私、見たんです……学部長は……」

 「ファイレクシアで? あの侵略で? 私は自らを委ねたのですよ。マナ転換と反射の理論を証明しなければなりませんでしたし、多くの証明を行いました。完成化により私の研究の最後の扉が開かれ、やがてすべてを理解しました。あなたもそこに到達していたはずですよ、講義に通い続けていたなら」

 「いいえ、ですが学部長は……ファイレクシアが打倒された時に、死んだはずです。私たちは学部長を失い、そして学部長は死んだはずです」

 「記憶されたものは死なないのですよ、ジモーン。記憶とは魔法のひとつの形であり、魔法とは使用されるために存在します」彼女はジモーンへと長い指の手を差し出した。「こちらへいらっしゃい。見せてあげましょう」

 ジモーンはしゃくりあげるように鼻を鳴らし、キアンへと一歩を踏み出したが、タイヴァーの手に肩を押さえつけられて立ち止まった。彼女は振り返って鋭い視線を向けた。

 「放してください。キアン学部長なんです」

 「その者が完成化した姿を見たのだろう? その者が死んだところを見たのだろう? ならば何故ここにいる? なぜその者は、君を共に来させようとしているのだ?」

 キアンの影が目を細めてタイヴァーを睨みつけた。「関係のないことに口出しするのですね、よそ者さん」

 「関係はあるとも。この者がいなければ、館から出ることは決して叶わない。私の物語が語られぬまま、ここで終わらせるわけにはいけない」

 「つまり、あなたは利己心から口出しをすると」

 タイヴァーはジモーンを押さえたまま、キアンを睨みつけた。「お前は館の企み、罠だ! だからこそ私は口出しをするのだ。衝撃から立ち直ったなら、ジモーン殿もお前の本当の姿を見るだろう」

 「そうかしら?」

 「あなたは、キアン学部長じゃありません」ジモーンは声を震わせながら言った。「学部長は……死んだのです。死んで欲しくなんてなかったけれど、死んだのです」

 「あら、そうなるのですか?」キアンの顔から優しさの痕跡が完全に消えた。「うぬぼれ屋のおちびさんは、肉挽き機に投げ込める『英雄』がいるからこそ生き残れると思っているだけ。とはいえ彼らはいつも貴女を守りたくて必死なのよね。そうでしょう、ジモーン? あなたの同輩の一体何人が、弱くて可愛いジモーンをファイレクシアから救おうとしたせいで生き残れなかったんでしょうねえ?」

 ジモーンはうめいた。「そんなこと言うの、ずるいです」

 「ずるいのは、あなたが生きていることよ!」幻の学部長は怒鳴り、彼女へと突進した。ジモーンは悲鳴をあげて後ずさり、立ち続けるタイヴァーの背後に身を隠した。

 キアン学部長の輪郭は動くにつれて波打ち、タイヴァーは半歩後退しながらも、ジモーンを攻撃から守った。だがクアンドリクス学部長の半透明の胸から、先程まで襲ってきていたあの怪物の手が現れた。鉤爪の生えたそれはタイヴァーの無防備な胴体をとらえ、皮膚と筋肉をいとも簡単に切り裂いた。タイヴァーはよろめきながら後ずさった。開いた傷口から液体や湿ったものが飛び出し、滑り落ちるのを感じた。

 「タイヴァーさん!」ジモーンは叫んだ。タイヴァーは倒れ、目は開いたまま虚空を見つめ――

 ――そしてその瞬間は、冬の朝の川岸に張った氷のように砕け散った。タイヴァーは息をのみ、ベルトに差し込んだ運命変えの細工へと片手を伸ばした。キアン学部長はまだ動いていなかった。あの怪物の兆候はなかった。

 「私は何を間違えたのだ?」タイヴァーは尋ねた。「アミナトゥは、何か間違ったことをしたら元に戻るはずだと言っていたが」

 「留まって戦ったことです。あれはキアン学部長じゃありません。逃げないと!」

 「いや」タイヴァーが言った。「それに、切られた時に感じたのだ……」そして体勢を正し、挑戦的な目でキアン学部長を見た。「幻よ、かかって来たまえ。その勇気があるのなら」

 相手はまたもうなり声をあげ、突撃してきた。この時タイヴァーは後退し、怪物の鉤爪がキアンの胸から現れると接触される前にその手首を掴んだ。まだ実際には負けていない戦いの知識が、どこにどう立つべきかを正確に教えてくれた。敵は吠え、タイヴァーは握りしめた手に力を込めた。石膏のようなものが彼の手から這い上がり、腕を飲み込んだ。それでも彼は掴み続けた。変化は速度をあげ、ついにはタイヴァーの全身が相手の皮膚と同じ色を帯びた。

 彼は手を放した。敵は再び攻撃してはこなかった。代わりに、それはジモーンへと向き直った。偽のキアン学部長が壁の中へ退くと、怪物は顔を歪めてうなり声を発した。タイヴァーはジモーンへと急いだ。怪物もまた。そしてタイヴァーがジモーンへと腕を回して引き寄せ、味方からの抱擁としては恐ろしいほど強く抱きしめると、彼女は悲鳴をあげた。タイヴァーの魔法がジモーンへと殺到し、彼女は自分の肌が変化を始めるのを感じた。

 不意にその生物は踵を返し、ふたりを残して廊下を駆けていった。

 ジモーンは尋ねた。「何が……?」

 「その怪物……獣か……ともかく何でもいいが、殺すことは叶わない。生きていないからだ。私たちが生命と認識している形では生きていない。それは館のものだ。貴女の亡くなった友人の残像も同じだ。それもまた、館のものでできている。一方は木と漆喰で、もう一方は埃で」

 ジモーンは顔をしかめた。「どういう意味ですか?」

 「それらの肉は館の肉であり、そして今や……私たちも」

 ジモーンはきょとんとした。「え?」

 「私がこの魔法を解くまで、私たちは館の一部であり、館は私たちを侵入者とは見なさない。館の免疫は私たちを放っておくはずだ」

 「私も?……ああ」変化した、不安をかき立てる自身の手を見ないよう努めながら、ジモーンは残りの本をかき集めて立ち上がった。「これは、いつまでもつんですか?」

 「今はひとまず、永遠に続けられるような気がする」

 それについて、ジモーンは疑問を持たないことにした。ふたりの前方に伸びる廊下は真っすぐで、先ははっきりと見えていた。そこで彼女は再び歩き出し、タイヴァーについて来るように手招きをした。

 もはや館はふたりの存在に気付いていないように思えた。ふたりが向かう先を意識する様子もなかった。歩いても何も変化せず、動かず、閉じた扉も再び開けると同じ部屋に通じていた。ふたりは進み続け、両側に桜材の扉が並ぶ通路の先に円形の部屋があった。扉はどれも、ラヴニカからここに来た時のそれと同じように凝った彫刻が施されていたが、意匠は微妙に異なっていた。

 ジモーンは扉のひとつを見て言った。「これは、クアンドリクス研究棟の装飾に似ています」

 タイヴァーも別の扉を見た。「これは私の兄の饗宴場の意匠だ」

 「広がっているんです、多元宇宙に」とジモーン。「扉が……沢山の人の目をひきそうな場所に罠をしかけているんです」

 「だが、何故?」タイヴァーはまた別の扉を見ながら尋ねた。その扉には蛾と面晶体が刻まれており、戸枠に打ち込まれた板で半ば塞がれていた。まるで、他の扉の中でこれだけは開けるのを許されていないかのようだった。向こう側にはゼンディカーがあるのかもしれない。危険で、美味なゼンディカーが、貪り食われるのを待っている。

 待て。貪り食われる? タイヴァーは考え込み、眉をひそめた。「館は……飢えているのだ」

 「館が飢えるなんてことはありませんよ」

 「この館は飢えるのだ。館は広がり、自らよりも弱きものをすべて捕え、飲み込むだろう。それがすべてだ。それ以上は何もない」

 「タイヴァーさん? それは違……」だが完全に間違いでもないと気付き、ジモーンは言葉を切った。多元宇宙全体を真二つに裂き、中から柔らかい部分を、美味しくて甘い中心部分を取り出すという考えには、どこか魅力的なものがあった。

 瞬間、ファイレクシアの侵略の記憶が彼女の思考を襲った。大好きなキャンパスに怪物が跋扈していた。ほんの数秒前まで友人やクラスメイト、教授だった怪物が。彼らが被った白磁のような変質を思い出し、ジモーンは石膏のように硬化した皮膚を掻きむしった。これも同じじゃないの? これもファイレクシアの別の形じゃないの?

 脱出する手段はあるの? 「ない」の言葉が脳内に響き渡る中、ジモーンは悲鳴をあげて床に倒れ込み、その身体は内から壊れ、小さく新たなあの怪物へと開花し、遂に食われ、遂に館へと――

 ――そして彼女はストリクスヘイヴンへの扉を見つめていた。運命変換の細工が、燃える石炭のように熱く感じた。ジモーンは素早く振り返り、タイヴァーの腕を掴んだ。

 「この偽装を止めて」彼女は懇願した。

 「だが何故? これは私たちを守り、強くしてくれる――」

 「これが私たちを食べているんです!」

 タイヴァーは顔をしかめた。英雄ならば彼女を守るもの、だが食らいたいという気持ちがあった。「……確かにそうだ」彼は不承不承言った。

 皮膚から石膏が流れ出し、ふたりはすぐに元の姿へと戻った。ジモーンは安堵の溜息をついた。「これで大丈夫です。館の一部みたいな姿でいる必要はあります。そうでないと館に攻撃されます。けれど、ずっとその姿でいることはできません。また別の方法で攻撃されてしまいますから」

 「申し訳なかった」タイヴァーは悲痛な声で言った。「私が貴女にしようと考えていたことは……本当に申し訳ない。決して英雄が考えるようなことではない」

 「さあ」ジモーンは彼の腕を掴み、部屋を横切って戸口へ急いだ。その先は長い廊下になっており、これまでに見てきた他のそれとよく似ていた。「まだタイヴァーさんの技は使えます。ただ、長く続けては駄目というだけです。他の方法で館を騙す必要があります」彼女は本を脇の下に挟み、床に落ちていた箱型の装置を拾って肩にかけた。「持ち運べるもの……できれば着られるものを探してください。この場所の出身のように見えたなら、館はそれほど私たちを欲しがらないかもしれません。シャツでも何でも」

 タイヴァーは近くの棚をかき回し、ぼろぼろのベストを引っ張り出した。肩をすくめて彼はそれを着た。「これで良いかな?」

 タイヴァーの胸と腹部は相変わらず露出しており、ジモーンはため息をついた。「いいですね。進みましょう」

 もはや館の目から隠れることはできない。ふたりは扉の部屋から離れ、未知の目的地へと再び歩き出した。


 ナシが先頭に立ち、残る一行はすぐ後ろについて歩いた。香醍の光霊は放浪者の肩の上に浮遊していた。ニコは最後尾にて、ウィンターを警戒しつつ歩調を合わせた。

 「ずっとここに独りでいたのですか?」ニコは尋ねた。

 ウィンターは眉をひそめた。「ずっと、ってどういう意味だ? 俺は元々はここの出身じゃない。親友と一緒に、扉のひとつを抜けてここに来た。昔のことだ。長い間、自分たちだけでこの館の中を歩き回ってた。あいつは……あいつはもういない」

 その声に込められた痛みは無視できなかった。ウィンターの気持ちを察し、ニコは顔をしかめて目をそらした。「すみません。それは辛かったに違いありませんよね。ですが今は私たちもいます。ここから抜け出す方法を見つけるつもりです。もし貴方もここを出たいというなら、一緒に来て頂いて大丈夫です」

 「来てからずっと出たいって思ってるよ」

 一行の先頭にいた放浪者がナシへと呼びかけた。「私を見てくれないのですか」

 「どうして?」ナシはそう尋ねた。「顔は知ってるし。こっちだ」彼は方向を変え、残る者たちもそれに続いた。

 「次に何をすべきかを話し合う間、あなたの顔を見たいからです」

 「話し合うことなんてない。この家は僕の母さんを奪ったんだ。母さんを取り戻しに行く」

 「ナシさん……」

 「ファイレクシアは母さんを奪って、母さんは帰ってきた。次に、あなたが母さんを奪って、母さんはまた帰ってきてくれた。母さんは僕から離れない。だから、僕も母さんから離れない」

 「ナシさん――」

 鼠人のひとりが腕に触れ、放浪者は顔を向けた。「俺たちも止めた。扉が餌でこれが罠だって気付いた時、止めたんだ。あんたの言葉なんて聞かないよ。あいつの悲しみはまだ終わってないんだ」

 放浪者はナシを見つめ、唇を固く引き結んだ。そして進み続ける間、何も言わなかった。


 あれ以来、ジェイスと魁渡を襲ってくるナイトメアはいなかった。それは良いことだった。地下室は永遠に続くようで、ひたすらに地中深くへと進んでいった。階段は下りばかりで、上りはなかった。窓もなかった。

 地下室はボイラー室から貯蔵庫へ、そして知らない星空が見えるガラス天井の中庭へと続き、その先は巨大な洞窟になっていた。砕けた石の間にむき出しの煉瓦が所々に見えていなければ、自然の洞窟と思ったかもしれない。洞窟の果てにはひとつの扉があった。ジェイスと魁渡はそこへ向かって歩きはじめ、だが半分ほど進んだところで足元の床が崩れてふたりは落ちた。今回は虚空ではなく、何か濃厚でねばつく物質で満たされた穴だった。それはふたりの皮膚を刺激し、四肢を掴み、動きを妨げた。

 穴の側面からは金属の棒が何本か飛び出しており、それを掴めば脱出できそうだった。魁渡は自分に近い方の棒に向かって進んだ。粘体のせいでゆっくりとしか動けず、彼の耳元で灯元が励ましの鳴き声をあげた。力を振り絞り、指先が金属をかすめた瞬間、両足首に枷が巻き付くのを感じて彼は叫んだ。

 ジェイスもはっと息を呑み、魁渡は視線を向けた。「ジェイスさんも?」

 「足枷だ。思惑通りに捕まったってことか」

 「そうかもしれませんけどね」動く余地は多少あり、魁渡はジェイスの所まで戻った。そして下を向き、念動力を用いて粘体を押しのけ、細いトンネルを作り出した。ジェイスの足が視界に入った時には、彼は息を切らしていた。

 「これが限界です。粘体を押しのけながら鍵を開けることはできません。ですが灯元なら」

 狸型ドローンは魁渡の腕を伝ってジェイスの足に飛び乗った。足首の鎖が下方に引かれ、ふたりを深く引きずり込んだ。あと数回同じように引っ張られたら、溺れてしまうだろう。

 灯元はジェイスの足枷の錠前を操作し、金具がカチリと音を立てて開いた。ジェイスは足を上げ、一番近くの棒を握り締めた。今回は何も掴みかかってはこなかった。ジェイスは振り返り、魁渡へと腕を伸ばした。「引き上げるから、鍵を外したら掴まってくれ。集中を続けて、俺たちふたりともここから出よう……」

 頭上の何かを見つめながら、ジェイスは声を落とした。魁渡は頭を後方に向け、ジェイスの視線を追った。

 天井に映し出されていたのは、ヴラスカだった。橙色の毛皮で覆われた小さな生物をかばいながら、全身が刃物でできているような怪物の群れから身をかわしていた。

 「駄目だ、俺は行かないと」ジェイスはそう言い、魁渡を見た。「本当にすまない。あの子は、とても大切な存在なんだ」

 何が起こっているのかを魁渡が気づく前に、ジェイスは上りはじめた。そして彼が一歩進むたびに、魁渡の足枷がさらに下へと引っ張った。

 「ジェイスさん! 戻ってきて、ちょっと――」完全に引き込まれる直前、魁渡は叫んだ。

 灯元が脚にしがみつくのを感じた。足枷がまた引っ張られ、魁渡はさらに深く引き込まれた。粘体が目に入ってしまうので目を開けることはできず、呼吸もできなかった。

 本当にごめん、みんな――あいつの鼻を折っておけばよかった。その思いとともに魁渡はラヴニカへ、始まりの場所へ、生き延びられるかもしれない場所へとプレインズウォークしていった。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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