MAGIC STORY

ダスクモーン:戦慄の館

EPISODE 05

第3話 振り返ってはいけない

Seanan McGuire
seananmcguire_photo.jpg

2024年8月22日

 

 ウィンターは小さな客間を横切った。その足取りはふらついているようで、まるで動かない家ではなく、動いている船の甲板を歩いているように見えた。ニコは男の足元に注目した。するとその一見不注意な足取りは、色あせた絨毯に織り込まれた蛾の模様を避けているためだとわかった。そして顔をあげ、新たな同行者をしばし観察した――歩き方から服に織り込まれた壁紙の切れ端に至るまで、この男の何もかもが見た目ほど無頓着ではない。適切な光の中で、適切な壁に十分近づいてじっとしていれば、姿を見失ってしまうだろうと思われた。

 この男の何もかもが偶然ではないのなら、冷凍室にいたことは偶然だったのだろうか? それとも、巧みに床の上を歩く様子のように、巧みに計画していたのだろうか?

 そして、偶然でもそうでなくても、この出会いはどのみち重要だったのでは? ウィンターが偶然自分たちに出会ったか、意図的に出会ったかはともかく、剃刀族と言うらしい生物から救ってくれた。少しは信頼しても良さそうだった。少なくとも、それに値しないとウィンター自身が示すまでは。ニコは心を決め、ウィンターを追いかけた。

 「止まれ!」ウィンターは腰をひねりながら言った。だが両足は動かさず、敷物の模様の隙間の空白をしっかりと踏みしめたままでいた。「蛾を踏むんじゃない!」

 「蛾、ですか?」放浪者は丁寧に尋ねた。

 「絨毯の中のだ」ウィンターは自分たちの周囲を手振りで示した。部屋の暖かさは、最初に入った時には心地良く感じられていたが、今はうだるような暑さだった。最後に火を起こした人物が少々熱心にやりすぎたのだろう。骨から寒さが抜けていくにつれ、不快な暑さがそれに取って代わっていた。

 ニコはウィンターの手の動きを追いかけ、顔をしかめた。絨毯の蛾の模様は壁紙まで続いていた。壁に掛かっている額縁の中には、沢山の蛾の標本図が収められていた。その種の多くはニコもわかった――テーロスの神殿にて、火鉢の周りを飛び回っているのを見たことがある。残りは見慣れないが、どれも奇妙な形の翅に、見つめる目が大まかに描かれていた。部屋全体が蛾を通してこちらを見ているようだった。窓はなかった。

 放浪者はニコを見つめ続け、その顔に困惑したような表情を浮かべた。「美しく織り込まれた蛾を踏んではいけない理由を説明して頂けますか?」

 ウィンターは息を吐いた。その音にはかすかな笑いがこびりついていた。「あんたらが新人だってのはわかってたが、そこまで新人だとはな。フラッドピットにたどり着くまでどうやって生き延びた? それまでにダスクモーンに捕まってなかったわけがない。館が飢えてなきゃ話は別だが、飢えてなきゃ餌を仕掛けたりしない」

 「どういうことです?」ニコが尋ねた。胃袋の底に冷たい穴があいたように感じた。どの次元にも、待ち伏せをする狩人がいた。虫や蜘蛛、あるいは人間の身体そのもののような寄せ餌をぶら下げ、捕まえられる距離まで獲物を誘い込む優れた釣り師たちが。

 「扉を通って来たんだろう?」ウィンターは尋ねた。「見たこともない扉、あんたらがいる場所のものじゃない扉を。鍵はかかってなくて、開けてみると簡単に開いて、その向こうには館があった。まるで冒険への招待状みたいに。中に入って見てくれって言ってるみたいに。けど引き返して帰ろうとしたら、扉はもうそこになかった。あんたらはもうダスクモーンのものだ」

 「先程もそう言いましたよね」

 「理解するのに必要なら、100回だって言ってやるよ」

 「ダスクモーンとは館ですか?」

 ウィンターは熱心に頷いた。「そうだ」

 「そして館は……気づいているのですか? 知性があるのですか? 狩りをするのですか?」

 「館は気づいてる。知性を持ってるかどうかは、気にするほど重要じゃない。あんたを丸ごと飲み込もうとしてる相手に、自分がやってることを理解してるのかって尋ねてどうする。気にするほど理解してるなら、止めろって叫ぶあんたの声に耳を傾けたはずだ」

 ニコは再び部屋を見回した。一瞬ごとに不吉な感じが増していった。熱は燃え盛る炎というよりは、ドラゴンの新鮮な死骸から放たれる病んだ暖かさ、生きていて迫りくるもののように感じられた。壁の中の蛾の目玉、それらが投げかける視線が重くのしかかり、逃げようとしても逃げられないことは明白だった。

 本能的に、ニコは灯の温もりを求めた――逃げるためでも、仲間を置き去りにするためでもなく、意志にあいた空洞を塞ぎ、安心させてもらい、運命はまだ決まっていないと知るために。そして、あの侵略以来ずっとそうであったように、久遠の闇のあの小さなちらつきがあるはずの場所には何もなかった――虚ろで、塵以外の何も入れられないほどに壊れてしまった器だけがあった。

 ニコはその感覚にひるんだ。一度魂に根付いた習慣を捨てるのは、簡単なことではない。そして、炎の傍から放浪者を今なお見つめているウィンターに再び注意を戻した。あんなに近くに立って、熱すぎはしないのだろうか?

 「私たちは誘い込まれて扉をくぐったのではありません」放浪者が説明した。「迷い込んだ子供を探しに来たのです。あの子は迷子とは言われたくないと思いますが。その子の母親も……迷い込んだのです、また別の形で。私はその子に対して責任があり、貴方の『ダスクモーン』に入っていったとわかった時、後を追うしかありませんでした。こちらは私の友人であり、一緒に来ることに同意してくれました」

 「あんたらふたりだけで、このどうしようもない場所で子供ひとりを探す?」ウィンターはあざ笑った。「もっと楽な死に方があるぞ」

 「お喋りはやめて下さい」ニコが言った。「私たちの運命はまだ決していません。館には他にも仲間がいます。彼らを見つけ次第、すぐにここから脱出できます」魁渡は今なおプレインズウォーカーであり、その器は壊れていない。たとえ彼がプレインズウォーカーでなかったとしても、ニヴ=ミゼットから貰った四角い箱は今もニコの肩に下がっており、満足そうに音を立てていた。その隅で小さな光が点滅していた。ラヴニカへと情報を送っているのだ。助けは来る。

 助けは来る。そして馴染みのない法則を持つこの奇妙な場所でも、自分たちは無力とは程遠い。ここに来たことは世界最大の過ちだというようにウィンターは自分たちを見ているが、間違って入り込んだのではない。ナシを探しに来たのだ。自分たちの助けを求めている無辜の者を。ニコはもはや自力で久遠の闇を渡ることはできない、そして拒否することはそれ以上にできなかった。

 ウィンターは再びあざ笑ったが、放浪者が不意に目の前に現れて凍り付いた。彼女は絨毯に織り込まれた蛾を苦もなく避け、素早く優雅な足取りで床を横切り、帯で腰に下げられていた刀はいつの間にか手に握られていた。その刃はウィンターの顔面からわずか数インチのところにあった。

 「仲間になったばかりの方を脅すのは賢明ではありません。ですので、これは脅しではありません。ただの約束です。私たちが知るすべもない物事であざ笑うのは止めて頂けますか。お互いを理解しているわけではないのですから」

 ウィンターは、放浪者の刀の輝きをじっと見つめながら、ゆっくりと頷いた。そして武器が下ろされて鞘に収まるまで、彼は緊張を解きはしなかった。

 放浪者は続けた。「館は狩人だと仰いましたよね。ですが今回だけは、手に余るものに噛みついてしまったのかもしれませんよ」

 「そう考えたのはあんたが最初ってわけじゃないだろうな」ウィンターはまだ不安そうにしていたが、次第に落ち着きを取り戻していった。「英雄も悪党も、ダスクモーンは一切ためらわず飲み込んできた。あんたらがどこから来たにせよ、そこでは生き延びてきた。だからここでも生き延びられると思ってるんだろう。けど、ここじゃあんたらはうまくやる英雄じゃない。うまい肉だ。他に仲間がいるって言ったな。ひとりずつ、あり得ない手段で引き離されたのか?」

 放浪者は顔をしかめた。「床が大きく開いて、仲間のひとりを飲み込んでしまいました」

 「遠くで助けを求める叫び声が聞こえ、仲間のふたりがそれを追いかけました」ニコも説明した。「彼らは扉を通って廊下に出たのですが、私たちが後を追おうとすると、そこには壁がありました。壁が現れる所は見ませんでしたが、ふたりが通った時にはなかったはずです」

 「それがダスクモーンだ。あんたらを友達から引き離す。館お気に入りのトリックのひとつだ。孤独にさせて不安にさせる。あんたが怯えれば怯えるほど、館はあんたを欲しがる。恐怖が限度を超えたから、館は剃刀族を送り込むことにした。あの冷凍庫にいた奴だ。館はあんたらがここにいることを知ってる。前から知ってたのでないならな」

 「あれは、何だったんですか?」ニコは尋ねた。

 ウィンターは肩をすくめた。「元生存者だ、たぶんな。家具職人がソファーの張り替えをするみたいに、ダスクモーンは捕まえた奴を修理して作り変える。剃刀族の領域で生き延びた奴らを騙して、自我を失わせて屠殺場の皮を着せるんだよ。運が良ければ、捕まったなら殺される。運が悪ければ、そいつらの仲間にされる。自分たちの正体をどれだけ理解しているかは分からないが、賢いようだし、一度匂いを嗅ぎつけたら容赦ない。あの時は逃げおおせたが、あんたらが思ってるより危ないところだったんだからな」

 「それで、館はあれらを使って狩りをしていると?」

 「剃刀族だけじゃない。館には沢山の手がある。捕まえるまで止めはしない」

 「あるいは、私たちが逃げ延びるまで」放浪者が言った。

 自分が言っていることをあんたは理解していない、ウィンターはそんな面持ちで彼女を見た。「そうだな。逃げてみろ」彼は冷淡な声で言った。

 「私たちは今、礼儀正しく話しているはずですが」ニコが言った。

 「ああ、悪かったよ。悪かった。いいか。あんたらは希望と自信に満ち溢れてるから、この館にいる飢えた連中全員の目にとまる。生き残りたいなら俺といろ。そうすれば幸運にも、あんたらの友達を見つけられるかもしれないな」

 「ですが、そうは思っていませんよね」ニコが言った。

 「こんな展開は何度も見てきたからな。大団円なんて考えられるわけがない」ウィンターは認めた。「それでも、離れずにいることだ。目にしたものがそのままでいるって思わないこと。蛾には触らないこと。たとえそれがチョークで描いたり、指に血をつけて塗ったりした絵でも」

 ニコは答えた。「何も言われなかったとしても、触れたくはありませんよ」

 それを聞いてウィンターは笑みを浮かべた。「素早く動いて、開けた場所に長居しないこと。何もかもが敵意を持ってて、危害を加えてくるかもしれないって想定しろ。そいつ以外は」ウィンターは空中に指を突き出し、放浪者の隣の場所を示した。彼女は瞬きをし、そして顔を向けた。

 そこに、客間の床から数フィート上に、全身が光でできた金色のドラゴンが浮遊していた。しなやかな曲線を描いて動きながらも、それはその場に留まっていた。放浪者は息を呑んだ。「香醍様? ……いいえ。ここに来て頂きたいなどと望んではいませんでした。香醍様だとしても、この精霊は小さすぎます。何なのでしょうか?」

 「あんたの光霊だ」ウィンターが言った。「ダスクモーンの誰もが持ってる。あんたの希望や夢、あるいはそういうやつの残り物だ。館がそれを作ってるって俺は考えてるが、本当のところは誰も知らない」

 「貴方のはどこに?」ニコが尋ねた。「私のは?」

 ウィンターはただ肩をすくめただけだった。

 「私の、神河」放浪者は息を吐いた。

 ニコは何も言わなかった。

 「これ以上はここにいない方がいい」ウィンターはそう言った。「ダスクモーンがくれる休息はごく短い。けどその光に従えば、比較的安全な道にたどり着くはずだ」

 「ナシさんの所まで連れて行ってくれるのですか?」放浪者は尋ねた。

 「それを知る方法はひとつだけだ」

 放浪者は浮遊する精霊へと身体を向けた。「お願いします」彼女がそう言うと光霊は宙を泳ぎ、奥の壁にある扉へと向かった。

 他の者たちもそれに続いた。


 魁渡は音もなく落ちていった。訓練の成果を発揮して可能な限り平静を保とうとしながら、暗闇の中を落下していった。灯元の爪が肩に食い込んだ。離れまいと身体を固定しているのだ。落下は十分に長く、一瞬の楽しみが生まれた――落ちたのは自分だけかもしれないが、この館の中で独りというわけではない。灯元が一緒にいてくれた。いつもそうだったように。これからもずっと。

 永遠に落下し続ける運命に違いないと思われたまさにその瞬間、森の地面のようなものに激突して魁渡の落下は終わった。石や木の根が腰や脇腹に食い込み、湿った土壌の濃厚な匂いが鼻孔を満たした。彼は瞬きをしてから身体を起こし、目をこすりつつ怪我がないかを確認した。

 落下距離を考えたなら、骨が何本か折れるか、少なくとも意識を失っているはずだった。けれど感じる痛みは、防具を身に着けずに優れた相手と長時間の訓練を終えた時と大差なかった。それは明らかにおかしい。痛みを感じたいわけではなかったが、その意味するところは不安をかき立てた。

 館は、中で起こる物事をどの程度まで制御できるのだろう? 完全な暗闇に包まれたまま魁渡は慎重に立ち上がり、深呼吸を繰り返し、視覚以外を用いて周囲を確認しようとした。土の匂いがすべてを支配し、朽ちかけた松林の匂いも厚い層のように漂い、木々は陽光が当たらないために折れて枯れていた。空気は冷たく湿っており、木々とともに雨の降り始めの鋭い匂いが混じっていた。そして霧。森の地面全体を覆い隠し、どんなに良い状況も危険なものに変えてしまう濃い霧。

 森の空気を吸い込んでいると、暗闇が晴れ始めた。だが状況が良くなったわけではなかった。明らかに、この森は想像通りの不快な場所だった――近くの木々は腐って互いにもたれかかっており、ただ倒れる許可を待っているかのようだった。倒れそうにない木々は、木に無気力というものがあるなら、病んで無気力であるように見えた。枝は垂れ下がり、灰色でざらついた樹皮の所々に地衣類が貼りついていた。

 魁渡は身震いして辺りを見回した。灯元は肩の上で身動きをし、視線の方向を魁渡のそれに合わせて少しだけ光を加えた。

 「どうして館の舞踏室の下に森があるんだ?」

 灯元は鳴き声をあげた。

 不快そうな多くの方角のうち、どれが最も不快ではなさそうかを判断しようとしていた時、ひとつの影が魁渡の上を通過した。彼は身体を強張らせ、屈みながら同時に見上げた。それが何であれ、暗闇の中では高すぎて見えなかった――森はもはや完全な闇に覆われてはいなかったが、月のない夜ほどの明るさしかなかった。その影の源が遮る星すらもなかった。影が再び通過した。今回それは鮮やかな炎で自身を照らしながら、魁渡の頭上を旋回した。炎は腐った木々を食い荒らして灰に変え、その獣は翼を羽ばたかせて次なる旋回へと備えた――ドラゴン。

 魁渡は必死に辺りを見回した。今や道は木々を焼き尽くす炎で照らされていた。逃げ場はどこにもなかった。森の奥深くまで行くことはできるが、森は燃えていた。

 けれどこのままじっと立っていたら、生きたまま焼かれてしまう。根が絡み合い、足元が霧で隠された地面を、魁渡は可能な限りの速さで歩き始めた。だが然程遠くまで行く前にドラゴンが再び通過し、今度は森の地面へと直接炎を向けた。自身の過ちに気付いた一瞬の後、ドラゴンの炎が魁渡を襲った。焼けつくような熱、炎が世界を白色と金色に変えた。

 そしてそれが終わり、魁渡は煙と灰の舞う平原の真ん中に立っていた。焼け落ちた森の残骸が彼を取り囲んでいた。その瞬間の何かがおかしいと感じた。テフェリーが時間魔法を使った時のような。そして安堵のすぐ後に、このすべては遠い昔に起こったのだという感覚がやって来た……もし本当に起こったのなら。これはひとつの上演だったのだ。魁渡のための――あるいは館のための。

 炎は霧を燃やし尽くしていた。何十体というドラゴンが頭上を旋回し、それらの注意は燃える街へと向けられていた。時折、一体かそれ以上が業火へと飛び込み、既に与えられた被害にさらなる火を加えた。燃えるものは多くは残っていなかった。ドラゴンと炎以外に動くものはなかった。街に住民がいたとしても、今はもういない。空は今なお暗く、灰色の厚い雲が稲妻を放ち、空気をオゾンの匂いで満たしていた。

 灯元が鳴き声をあげた。魁渡はその背中に手を置いて互いを慰め、ドラゴンたちが戻ってくるのを待った。

 手入れを怠った刀で障子を切り裂くような、粗くきしむ音が聞こえた。風景がちらついて次第に薄れ、まるで周囲で変化していくように現れては消えた。紙を破る音は次第に大きくなり、そして始まりと同じように不意に止まった。森は消えていた。

pT4HtBJ0cL.jpg
アート:Mirko Failoni

 代わりに、魁渡は地下室らしき場所に立っていた。粗い石造りの壁に囲まれ、片隅には上り階段がひとつ、見えない目的地へと続いていた。家具や箱詰めされた雑多な所持品が壁の一面に積み上げられ、唯一の明かりは天井の中央からぶら下がって揺れる燭台から発せられていた。そのろうそくはほとんど燃え尽きており、すぐに部屋は暗闇に戻ると思われた。

 そして彼は独りではなかった。

 空気の動きに関するジモーンの説は間違っていない――これまでに受けた訓練の中には、周囲の空気の変化から何者かが近くにいるかどうかを知るためのものも含まれていた。魁渡は緊張した。幻影のドラゴンが満ちる謎めいた森よりも不安を感じていた。今回は物理的な何か、こちらに危害を加えてくる可能性がある何かなのだ。

 静かにしようとしている、それでいて近づいてくる何か。

 呼吸を浅くかつ平坦に保ち、魁渡は更に気を張り詰めた。そしてその存在が十分近づいた瞬間にくるりと振り返り、背後へと歩いてきた相手の顔面へと右拳をまっすぐに叩き込んだ。細身の、黒髪の男だった。

 情けない悲鳴とともにジェイスは後ずさりし、既に血が噴き出している鼻を片手で押さえた。「やあ、元気そうじゃないか」そしてそう言ったが、手と傷から声はくぐもっていた。

 魁渡はきょとんとし、そしてはっとしたが、拳は下ろさなかった。「ジェイスさん?」

 「他の誰かだと思ったのか?」

 「ジェイスさんだとは……って、こんな所で何をしているんですか?」

 「昔の友達に会えて嬉しくないのかい?」

 魁渡は相手を見つめた。「昔の友達? 最後に会った時は殺し合いをしようとしていたじゃないですか、新ファイレクシアで!」

 「俺はファイレクシアの侵略が始まる前にそれを止めようとした。君たちはその俺を阻止した。ほぼ互角と言っていいだろうな」

 「あの酒杯から、神河を救うためでした。ジェイスさんが起動しようとしていた」

 ジェイスは肩をすくめたが、その仕草はあまりにも軽率で無遠慮であり、魁渡の拳は固く握られた。「もっと速かったら、もしくは離れていなかったら、成功していただろうに」

 「ナヒリさんを失ったのは貴方のせいですよ!」

 「俺もあの時に自分を失った。忘れたのか?」

 魁渡は睨みつけて言った。「何も忘れていません。どこへ行っていたんですか?」

 「それは重要なのか? 俺は今ここにいる」

 「ええ、重要だって言わせてもらいます。とても重要です」

 ジェイスは溜息をつき、鼻から手を離して外套で血を拭った。「折れてはいないよ。君にとっては重要かな」

 「もう一度試してみますか?」

 まるで早く殴れというように、灯元が鳴き声をあげた。

 だが魁渡がそうするよりも先に、うめき声がひとつ地下室に響き渡った。まるで壁そのものから溢れ出しているかのような。ジェイスと魁渡は共に身体を強張らせ、迫り来る危険に備えて本能的に背中合わせの姿勢を取った。

 「喧嘩は後で?」ジェイスは尋ねた。

 「喧嘩は後で」魁渡は同意した。「けれど、喧嘩はしますからね」

 「楽しみだ」


 ジモーンは喜び、タイヴァーは落胆した――あの図書室は図書室のままだった。彼は再び階段を登ろうとはせず、ジモーンを見守ることのできる場所に留まる方を選んだ。学者である彼女は、自分たちが命の危険にさらされているかもしれないことを忘れているようだった。本棚から本棚へと嬉しそうに歩き回り、次から次へと書物を取り出してはタイヴァーに渡し、調査のために確保した大きな勉強机に運ばせていた。実際、ジモーンは自分自身にとっての自然環境の中にいるかのようだった。タイヴァーが思うに、捕食者のほとんどいない自然環境に。彼女は周囲の様子を受け入れ、すっかり寛いでいた。

 彼はジモーンが確保した隣の椅子に両脚を投げ出して座り、肘をつき、頬を指の関節に乗せていた。ジモーンを視界から外すことにならないのであれば、喜んで探索しただろう。だがこの場所では、自分が戻ってきた時に彼女がそこにいるとは思えなかった。館の悪戯によるものにせよ、彼女が図書室の奥深くに迷い込んでしまうにせよ。

 タイヴァー・ケルは学問の場に馴染む人物ではない。今は危険と栄光への好機に満ちた、壮大で恐ろしい冒険の真っ最中なのだ――彼の全身がそう叫んでいた。だが「ここは何なんだ」や「どうしてこんなことが起きているんだ」というようなことは、彼が殴り倒せる敵ではなかった。彼にできるのは、ジモーンの安全を確かめること、あるいはこの恐ろしい館で可能な限りその安全に近い状態を保つことだけだった。

 ジモーンは読み進めていた書物に何かを見つけて眉をひそめ、それを押しのけて別の書物を引き寄せ、驚くほどの速さでその文章に目を走らせた。

 「ここは、館です」やがて彼女はそう宣言した。

 タイヴァーは眉をひそめてみせた。「それはもう確定していると思っていたが」

 「そうです。けれど、それが確定したままでいるという意味ではありませんでした。時に、何かを検証すると、最初に考えていたものとは違うとわかることがあります。それは偽装と呼ばれます」

 「承知している」タイヴァーは言った。「カルドハイムにもそのような概念はある」

 ジモーンの頬がさっと赤くなった。「そんなつもりじゃ……私、ただ興奮してしまっただけです。ここは館です。建てられたものです。元の建築家はずっと昔、ここで家族と一緒に住んでいたんです。少なくとも私が正しく読めているなら。この館には少なくとも12人の所有者がいたようです。建築家を確定するために、初期の所有者のひとりを見つけないといけませんでした」

 「それを聞いて少し安心した」タイヴァーは言った。「人の手で作られたものは、自然が作ったものよりもたやすく克服できることが多いからな」

 「お気づきかどうかわかりませんが、この図書室の蔵書は特定の分野にとても集中しています。地元の歴史に関するものも……大図書棟でも見たことのない名前も沢山あります。ここは私たちの誰も来たことのない場所だと思いますが、ほとんどはオカルトや、ある種の魔法に関するものです。ヴェス教授でも、研究目標を考え直せって勧めるような」

 「悪しき魔法ということか?」

 「魔法自体には、本質的に善も悪もありません。そこは数学の方程式と同じです。それでも一部の魔法はエントロピーや、兵器として用いるという前提に基づいているため、悪い魔法と表現するのがおそらく一番だと思います」ジモーンはその書物へと視線を戻し、かぶりを振った。「どうしてこんなことを研究したかったのかはわかりません。ですが、誰かがかなり熱心に研究していたようです」

 そうするのが適切な振る舞いだと思い、タイヴァーは覗き込んだ。ジモーンが見ている書物の余白には、黒いインクで、かつ妙に溌剌とした筆致で書かれた長いメモが残されていた。まるでそれを書いた者は、これを素晴らしい遊戯として扱っていたかのように。「この……学術的に不快な魔法こそが、この館が今のような振る舞いをしている原因だと?」

 「無関係だとしたら驚きです。ここに書かれている呪文の中には、正しい順序で唱えれば空間と時間を歪めることができるようなものもあります。どうやって機能するのかは、私はよくわかりませんが」

 ニヴ=ミゼットから渡された監視装置が人工的な音を発した。晴れやかな音で、この図書室には場違いなものだった。ジモーンはその箱を片手で軽く叩いて読み続けた。

 湿って生々しい、肉が裂けるような音が、本棚が並ぶ一番近くの通路からこだました。その音は発生源から離れても静かになる様子はなかった。タイヴァーは背筋を伸ばし、その音に注意を向けた。「ジモーン殿?」

 「人ひとりの生命力を全部吸い取れば、できるかも……」

 「ジモーン殿!」

 彼女は頭を上げた。「ん?」

 「貴女が受けた大学教育は、生き延びるための適切な備えにはならない」タイヴァーは椅子を倒して立ち上がり、音の方へと向き直った。本棚は、まるでねじれるように、奇妙な非対称形に歪んでいった。中の書物もそれに合わせて歪み、まったく新しい何かに変わっていった。見つめていると目が痛くなったが、だからこそ目をそらせなかった。近づきながら世界を歪めるものは、目をそらして欲しがっているもの。自分たちを簡単な獲物にさせるつもりはなかった。

 ジモーンは小さく悲鳴をあげてすぐさま立ち上がり、タイヴァーの半ば背後へと隠れるように移動した。彼は歪んだ空間へと一歩近づきながら言った。

 「下がっているのだ!」

 「必要以上には近づきません」ジモーンははっきりと言った。同時に、ねじれた穴から何か恐ろしいものが弾け出て、タイヴァーの胸をめがけて飛びかかった。

 それは一応は二足歩行で、皮膚は長年風雨にさらされた粘土のような古く乾燥した色をしていた。髪はなく、衣服も身につけていなかったが、蜘蛛のそれのように顔に集まった六つの目と、大きすぎて機能しているとは思えない口がひとつあり、割れたガラスの破片のような歯がびっしりと生えていた。そしてそれは多すぎる関節の肢を用いて、蜘蛛のような恐ろしい優雅さで動いていた。

 それはタイヴァーの胸に正面から激突した。むき出しの肩に爪が深く食い込み、怪物は喉を引き裂こうと身体をひねった。同時にタイヴァーも身体をひねり、その怪物自身の勢いを利用して背後へと投げ飛ばした。その過程で皮膚に深い切り傷ができたが、喉は無事だった。

 「タイヴァーさん!」

 「そこにいたまえ!」彼は叫び返し、その怪物を追撃しようと急いだ。怪物は咆哮し、タイヴァーに対峙しようと身構えた。奇妙な関節の肢が動き、それはたやすく周囲の本棚に掴まった。怪物が出現した時の歪みは今やほとんど消え、本棚はゆっくりと元通りになっていたが、怪物が掴まっている本棚は歪み始めていた。つまり、歪みはこの怪物の仕業。注意すべきことだった。

 ジモーンは卓上の監視装置を掴み、胸に抱きしめた。怪物はその動きに気付いて頭部を動かし、視線を彼女へと定めた。そして滑らかに、狙いをジモーンへと変更しようと向きを変えていった。

 本棚の隙間には、大理石でできた人間やエルフの胸像が押し込まれていた。それらはブックエンドとして機能すると同時に、図書室に不気味な雰囲気を加えていた。だがそれらが無くても簡単にやれただろう。石の構造が肌に染み込んでいくのを感じながら、タイヴァーは一番近くの胸像をつかみ、怪物の頭部めがけて全力で投げつけた。それは友好的な投擲ではなく、家畜の群れに近づきすぎた狼に向けるような投擲でもなく、できるだけ大きな傷を与えるための投擲だった。

 胸像は怪物の頭蓋骨に激突して砕け散った。怪物はすぐさまジモーンへの興味を失い、素早く振り向くと再びタイヴァーに向かってうなり声を発した。彼は両手を叩いた。石はなおも腕に広がり続け、肩の傷を覆って出血を止めた。

 「プレインズウォーカーの灯は、心臓ひとつが保持できるものではない。それでは自己満足に陥る」タイヴァーはそう言い放った。「灯が消えてからずっと、私は自分の伝説を作り上げようと取り組んでいるのだ」

 怪物は再びうなり声をあげ、タイヴァーへと飛びかかった。

 この時、彼は身構えて相手の攻撃を受け止めた。そして手首を掴み、振り回して床に叩きつけ、側頭部に蹴りを入れた。怪物は息の音を立ててうなった。タイヴァーは怪物の胸の中央部を踏みつけ、力を込めて動きを封じた。

 「ジモーン殿はお前が危害を加える相手ではない!」

 怪物は再びうなり声を上げた。その音はどこか虚ろだった。タイヴァーは石をなおも身体に広げながら、足を上げた。そして足首に迫るのを感じた瞬間に全力で踏み下ろし、その足を怪物の胸骨に突き立てた。腐った板のように胸骨が折れ、怪物はぐったりとして動かなくなった。タイヴァーは軽蔑するように鼻を鳴らすと手首を放し、ジモーンの所へ戻った。皮膚から石が消えていった。

 「それは……どうやって?」

 「自然世界が私の呼びかけに応えてくれるのだ。皮膚を変化させるためには、以前はその素材の断片を手元に置いておく必要があった。だが今では記憶が同じ働きをしてくれている」

 「すごいですね。けど、その」

 ジモーンは震える手で彼の背後を指さした。タイヴァーは振り返った。

 怪物が身体を起こしつつあった。潰れた胸が広がり、血液は雫となって身体に戻り、急速に塞がっていく傷口へと流れ込んでいった。鼻を鳴らすようなうめき声とともにそれは立ち上がり、ふたりへと威嚇を向けた。

 タイヴァーは顔色を失った。

 ジモーンは彼の腕を掴んで引っ張った。「逃げたほうが」

 「勇敢な行為は、語り継がれてこそ名誉となる」タイヴァーの返答に、ふたりは共に踵を返して図書室の奥深くへ、うなり声を上げる怪物から逃れて本棚の影の中へと逃げていった。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

  • この記事をシェアする

Duskmourn: House of Horror

OTHER STORY

マジックストーリートップ

サイト内検索