MAGIC STORY

ダスクモーン:戦慄の館

EPISODE 03

第2話 パーティーを分けてはいけない

Seanan McGuire
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2024年8月21日

 

 その廊下は何年も掃除されていないようで、隅にはクモの巣が張り巡らされ、色あせた壁紙には筋のような汚れがついていた。救助隊はどんな細部も見逃すまいと極めて注意深く移動し、足を進めるたびにぼろぼろの絨毯から小さな埃が巻き上がった。先頭は魁渡で、そのすぐ背後に放浪者がついていた。ふたりとも刀を抜いて構え、両目は廊下にナシの気配を探していた。三番目はジモーンで、ニヴ=ミゼットの探知機のひとつに目を凝らし、奇妙な技術でできた安全毛布のように両手でそれを握りしめていた。タイヴァーとニコは最後尾につき、何かが飛び出してくるのを待ち構えていた。

 さえずるような音を発し、灯元が魁渡の方の上で向きを変えると来た道を振り返った。他の者たちも立ち止まり、灯元が見たものを確認しようとした。ジモーンだけは装置の画面を見つめながら歩き続け、放浪者にぶつかって立ち止まった。

 「え?」彼女は顔を上げ、フクロウのように瞬きをしながら尋ねた。

 「扉が消えた」魁渡が言った。

 「それはおかしいです。扉は静的な構造物ですから、そう簡単には……」だがジモーンが振り返ると、その言葉が途切れた。「なくなってる」

 「皆の者、ここからは慎重に行動しよう」タイヴァーが言った。「隠れて狩りをする捕食動物は、堂々と襲いかかってくるものよりも危険だ」

 彼らは先程よりもさらに慎重に探索を再開した。やがて廊下の幅は広くなり、応接間のような場所に出た。色あせた壁紙はここでは剥がれたベロア生地が取って代わり、羽を広げた蛾の模様が淡い薔薇色の背景に緑と灰色で描かれていた。蛾の羽にはそれぞれ複数の目玉模様があり、見られているような不気味な感覚を作り出していた。その場所からは更に数本の廊下が分岐しており、それぞれの壁に出入り口があった。壁の数か所が四角形に淡く変色していた。絵画が落ちたか、外されたのだろう。

 ジモーンは顔をしかめ、監視装置から部屋へと顔をあげ、また装置へと戻った。「ナシさんのドローンのひとつが、さっきの廊下の端までずっと通信を続けていました。ですがここは、ドローンが録画した部屋とは違います。どういうこと?」

 「最も危険な迷宮は、自ら内部構造を変化させることがあります」ニコが言った。「それがテーロスに特有のものだという理由はありません」

 魁渡は頷いた。「誰も見ていない時だけ変わるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。全員離れずにいること。常に誰かが誰かを見ていること。いいか?」

 「ええ」ニコも頷いた。

 灯元も声を立てた。

 一行は互いに背を向けることなく固まり、ナシがここにいたという、あるいは実際に何者がここにいたという証拠を探し始めた。

 魁渡は深呼吸をしながら部屋の中央に移動し、放浪者に尋ねた。「俺を見ていてくれますか?」彼女が頷くと、魁渡は目を閉じた。

 かつて皇国兵としての訓練を受けていた時、空気の動きについて信じられないほど多くの物事を学んだ。戦士はその空間を理解することで、必要に合わせてそれを利用しやすくなる――金之尾学院の学長を務める狐人、俊腕はそう力説していた。部屋に踏み入り、肌に触れる空気の動きから感じる術を魁渡は俊腕の指導のもとで学んだ。中の空気を乱しているのは自分なのか、それとも別の誰かが扉を抜け出たばかりなのか。

 この部屋は学院の中央広間のようで、空気はとても乱れて歪み、同時にあらゆる方向に動いていて、落ち着くことも静止することもなかった。魁渡が眉をひそめて目を開けると、数フィートも離れていない場所から放浪者が熱心に自分を見つめていた。

 「ナシが最近ここにいたかどうかは分かりませんが、誰かがいました」彼は言った。「空気が乱されています」

 「空気?」ニコが尋ねた。

 一方、ジモーンは熱心に頷いた。「よく知られた現象です。部屋に入って、さっきまで相手がいたはずなのにって確信できたことはありませんか?」

 ニコは更に不本意な様子で頷いた。「ありますね」

 「そしてそう感じた時は、大抵は正しかったのではないですか?それは意識が通常感知できない程度で、危険の存在に本能が反応するからです。空気が肌に当たる様子から、最近その空気が乱されたかどうかを感じ取るんです。意識でその感覚を読み取ることができる人もいます。けれどすごく稀です。かなりの訓練が必要です」

 「それこそが私たちの魁渡だ」タイヴァーが晴れやかに言った。「繊細な物事の達人だ」

 「じゃあ、あなたは何が得意なんです?」

 「敵が私の才能に心を奪われていれば、君の仕事は楽になるだろう?」

 ジモーンはきょとんとしてタイヴァーの背中を見た。

 「あいつは見た目以上に賢いんだ」魁渡が言った。「でも、繊細とは無縁だな」

 「それで、誰かがここにいたと。追ってみますか?」ニコが尋ねた。

 「それは賢明ではないかもしれません」放浪者は言い、陶器でできた空の水差し数本の背後に押し込まれていた額縁を拾い上げた。その絵は描かれたというよりは印刷されたもののようで、三人家族が元の画家の方を向いていた――男性、女性、そして十代の娘。大人ふたりの顔は削り取られ、紙の上で白いかさぶたのようになっていたが、娘は部屋にいる人々へと穏やかに微笑み続けていた。慎重に、放浪者はその絵を棚に戻した。

 「ここに住んでいる人たちを探すべきなんでしょうか?」ジモーンが尋ねた。

 ニコは前に進み出た。「テーロスの迷路で訓練をしていた時は、何も見逃さないようにひとつの法則に従って探索していました。常に右に曲がって、出発した地点に戻るまで右に進み続けるんです。そうすれば迷うこともありませんし、何をまだ見ていないのかも分かります」

 「ここの人たちを見つけたいわけじゃないが、ナシは見つけないと」魁渡が言った。

 「研究チームのために、できるだけ多くのデータを集めたいんです」監視装置をその絵へと向けながらジモーンは言った。ビープ音が鳴り、装置はどうやら何かを記録しているようだった。ジモーンは満足そうに頷いた。「右折を続けるって言いましたよね? その戦術は単純なフラクタル論理にも合致します」

 「承認してもらえて嬉しいですよ」ニコはそう言い、右側の扉を指さした。「こっちへ」

 ニコは歩き出し、残る者たちも後を追った。魁渡は緊張を保ち、家が再び変化するのを身構えた。肌に触れる空気の感覚がまだ落ち着かなかった。自分たちが部屋に入った時、誰もいないとは感じなかった。今も誰もいないとは感じない。これまでの訓練から、背後に敵がいることは分かっていた。

 それでも、彼は歩き続けた。


 皆を先導しつつニコは館の中を進んだ。様々な種類の部屋が無節操に、意味も理由もなく互いに繋がっていた。台所から寝室へ、寝室から温室へ。とある広々とした部屋は、屋内プールのために作られたようだった。半分ほど満たされたプールの水は黒く濁っており、水面には藻や、あり得ないほど大きな睡蓮が咲いていた。その花は溺死した船乗りの肉のように、黒ずんだ桃色を帯びた白い色をしていた。ニコはそれを見て身震いをし、顔をそむけた。

 ニコは旅の間に多くのものを見てきた――その想像力は広大だった。それでも、これはニコが想像できる限り、テーロスの葡萄酒色の海から最も遠く離れた場所といえた。

 次の扉は蛾の意匠が刻まれた金属の枠に背の高いガラスをはめたもので、その向こう側にある部屋はかろうじて部屋とわかる程に広かった。その広大な空間では、収穫されていないトウモロコシ畑の上に、放置された移動遊園地が影を落としていた。トウモロコシの穂は茎に重く垂れ下がり、落ちて腐るがままにされていた。移動遊園地はテーロスのそれとは似ても似つかなかったが、その天幕や木と鋼鉄でできた粗末な構造物という点では共通していた。そこでは風以外は何も動いていなかった。

 「出口だ」魁渡が踏み出した。だがジモーンに腕を掴まれ、彼は足を止めて振り返った。ジモーンは光源のない空を指さした。

 「見てください」彼女はそう言い、小さなフラクタル方程式を出現させた。魔法で現実化された数学。それはジモーンの手から飛び出し、青と緑の光を放ちながら一行の頭上数フィートの空中に浮かんだ。

 それが発する光はそれほど強くはなかったが、遠くのガラス板に反射してきらめき、このありえない場所も館の一部であることがはっきりとわかった。トウモロコシのさざめきが突然不吉に思えた。屋内にいるのなら風は吹かないはず、けれど風がないのになぜそれは動いているのだろう?

 「引き返しましょう」放浪者は断固として言った。

 「ですが……」ニコが切り出した。

 だが彼女は繰り返した。「引き返します」

 「王族は命令で伝え、庶民は行動で応える」タイヴァーの声は好意的だった。一行は廃墟となった移動遊園地の不気味な影から目をそらし、プールの部屋へと戻った。

 「私の故郷では、指導者は選挙で選ばれるのです」ニコが呟くとタイヴァーは笑った。

 その水は相変わらず危険そうで、近づきすぎた者を引きずり込みそうな気配も変わっていなかった。一行は壁に沿って歩き続け、来た扉へと引き返した。その先には半ば空の瓶や腐敗した根菜でいっぱいの食糧庫があるはずだったが、そうではなく広々とした舞踏場に彼らは脚を踏み入れた。クモの巣が絡まるシャンデリアが頭上にぶら下がり、窓にはひび割れ模様が走っていた。

 「まだナシの気配はないな」魁渡は立ち止まり、窓を見上げた。「屋根の上から見たらどうかな?」

 「それはいけません」放浪者は断固とした態度で言った。魁渡は眉を上げ、振り返った。彼女はかぶりを振った。「常にお互いの姿が見えていなければならない、そう気付いたのは魁渡さんです。誰も魁渡さんの姿を追うことはできないでしょう」

 「私なら恐らくは」ニコが言った。

 「このような場所では『恐らく』を信用したくはありません」

 「いずれにせよ、意味はないと思います」ジモーンが言い、全員が振り返った。彼女は監視装置を腰にぶら下げ、ベストの中から紙製のノートを取り出し、鉛筆を素早く動かして計算を書き込んだ。「この場所の建築は全くもって不条理です。ある角度は、左から見るか右から見るかによって測定結果が変わります。上の窓に登っても、地下室か屋根裏部屋に出る可能性は同じくらいあります。いずれにしても、館の中にいることになるでしょう」

 嘲るようにタイヴァーが笑った。「館ひとつというだけなのだろう。一体どれほど巨大なのだ?」

 「巨大です」放浪者が言った。一斉に、他の者たちは注目を向けた。彼女は片手をこめかみに当て、かぶりを振った。「この場所……私はもう次元を渡ることはできませんが、次元を感じることはまだできます。かつてと同じように。意に反して久遠の闇に引きずり込まれていた頃と同じように。この場所は、明らかにおかしいのです。琥珀に捕らわれた蛾のように閉じ込められ、内側から腐っていくような。かつてここにあったものが残っているかどうかはわかりません……この館を除いては」

 「放っておいたなら、丘陵地帯ひとつを完全に飲み込んでしまう菌類もいる」タイヴァーが不確かに語った。

 「ええ、それと似たようなものです。かつてここにあったすべてを包む、殻のように感じます。それでいて、果てもないのかもしれません。ラヴニカへの扉が消えた場所に戻り、再び扉を開く方法がないかを確認するべきです」

 「扉は消えてしまいましたよ」ニコが言った。

 「私たちは結構賢いですよ」ジモーンが答えた。「つまり、みんなで協力すれば、扉を元に戻す方法を見つけられるはずです」

 「じゃあ、引き返しましょう」魁渡が言った。「こっちです」

 一行は移動を開始したが、数歩進んだところで何かの悲鳴が届いた。館のもっと奥、計画的に進んでいる間は無視してきた左側の扉の先。タイヴァーは角笛の音を聞いた猟犬のように緊張した。その声は再び叫んだ。

 「助けて、助けて、ああ、太陽が見たい、助けて!」

 英雄的衝動を抑えつける細い鎖が切れ、タイヴァーは駆け出して叫んだ。「恐れることはない! 私が救いに向かおう!」

 ジモーンは両目を見開いた。衝動的なプリズマリの下級生たちと何年も付き合ってきたことで、彼女の反射神経は見事に磨かれていた。誰かが危険に向かって駆け出した時、引き戻すのはだいたいジモーンの役目だった。そうすれば、もっと学問的な状況において自分が危険な方向へとさまよい始めても、彼らはまだ生きていて、引き戻してもらうことができる。ジモーンはタイヴァーを追いかけた。

 「戻ってきて! タイヴァーさん、戻ってきてください! 一緒にいないと!」扉を抜けた瞬間、頭の横で何かが砕け散った。そして舞踏場は消え、そこにいたのは彼女とタイヴァーだけだった――それと、あの叫び声の音。

 扉の向こうは無人の広間になっていた。誰もいなかった。危険にさらされている者も、叫んでいる者もいなかった。タイヴァーだけが、救助を必要とする者がいないことに気付き、困惑して歩みを緩めながらそこにいた。ジモーンは彼に追いつき、相手の肘に手を触れた。

 「戻らないといけません」

 「だが、私は聞いたのだ……」

 「全員が聞きました。館が悪戯をしているのだと思います」ジモーンは肩越しに振り返り、そして愕然とした。「あるいは、ばらばらにならないようにって私たちが言ってるのを聞いて、その方がやりやすいって館は考えたのかもしれません。」

 「館は考えなどしない」タイヴァーは半ば笑いながら、彼女の視線を追った。

 「ええ、どうやらエルフの王子様も考えなんてしないみたいですね。私たちがここにいるってことは」

 ふたりの背後、舞踏室に戻る扉があるはずだった場所は、今や壁になっていた。色あせた青い壁紙には、至る所にある、ますます不気味になる蛾の模様が描かれていた。蛾の後翅には長く伸びる尾があり、まるで紙から溶け落ちていくような印象を与えた。

 タイヴァーは慎重に前に進み出て手を伸ばし、指先で壁紙に触れようとした。そして触れるや否や、顔をしかめて後ずさった。「堅い」彼はジモーンに目を向けながら言った。「これからどうする?」

 ジモーンはかぶりを振った。「わかりません。ですが、答えを出さなければいけないでしょうね」


 「絶対に外さないんじゃなかったのか!」魁渡が振り向くと、ニコは困惑しながら自身の両手を見つめていた。「どうして君の破片はジモーンを止めなかったんだ?」

 「私は……」ニコは言った。「決して外しません」

 「そして外しませんでした」放浪者が言った。「タイヴァーさんが通り抜けた時、入り口が動きました。大きな動きではありませんでしたが、狙いを逸らすには十分でした。既に走り出していたジモーンさんは特に意識することなく抜けていきました。罠だったのです」

 「館がどうやって罠を仕掛けるんです?」魁渡は尋ねた。

 「分かりません。ですが、解決するまでにそれほど時間はかからないような気がします」

 ジモーンが走り出した際にすぐに追いかけていた魁渡は、今は放浪者とニコから少し離れた場所、色あせた大理石のタイルの海の中にひとり立っていた。彼は顔をしかめた。「ふたりは戻ってきますよ。戻ってくるはずです」

 「そうでしょうか?」ニコが尋ねた。

 「俺はタイヴァーを信じる」

 「たった今、真っ先に確実な危険へと飛び込んだ男をですか?」ニコはかぶりを振った。「彼が巨人と腕相撲をしようとしているのを見たことがあります。いい物語になると思ったから、だそうです。ビルギを崇拝してはいないかもしれませんが、間違いなく同類のひとりですね。好ましい人物ですが、信頼できるかと言われますと。彼が栄光よりも安全を選ぶでしょうか? そうは思いません」

 戸口に誰かが現れることはなかった。

 「思うに……」魁渡は頬の内側を軽く噛んだ。「俺たちは追いかけるべきだ。そんなに遠くまでは行けないはずだ」

 「私たちは一緒にいなければなりません」放浪者が言った。

 魁渡は彼女へと振り向き、明るく気取った笑顔を浮かべた。「だから『俺たち』って言ったんですよ」

 彼は戸口に向かって踏み出した。

 だが魁渡が足を下ろした瞬間、床がヤツメウナギの口のように円く大きく開いた。内向きの尖った歯が輪をなしていた。魁渡は落下し、その姿が完全に消える直前、残る床の端に刀をかろうじて突き立てた。放浪者はすぐさま動き、彼の名を叫びながら手を伸ばした。魁渡も手を伸ばし、だが指先が触れる直前に床の穴がさらに大きく開いた。刀が抜け落ち、魁渡は暗闇の中へと落ちていった。灯元の目の光だけが彼の落下をたどった。

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アート:Billy Christian


 放浪者は飛び込もうと身構えたが、ニコに手首を掴んで止められた。信じられないというような表情で彼女は振り返ったが、ニコは止めるようにかぶりを振った。

 「いけません。魁渡さんにとっても。あの人は私たちの中で唯一、自力で脱出できる人物です。きっと大丈夫です」

 絶望的な思いで放浪者が穴へと振り返ると、それもまた消えていた――まるで最初から何もなかったかのように、滑らかな床だけがそこにあった。彼女はニコの手を振りほどき、膝をついて滑らかなタイルを見つめた。

 「ですが、独りです。この館に独りで。何もかもがおかしくて、何もかもが腐りつつある館に」

 「ならば、見つけ出すまでです」ニコは彼女に手を差し伸べた。

 放浪者はその手をぼんやりと見つめた。そしてその手を握りしめ、引っ張られるに任せて立ち上がった。

 「ええ、見つけ出しましょう。全員を」


 タイヴァーは両拳で壁を叩いた。ひどい騒音が響き、壁の上部の装飾から大量の埃が降り注いだ。

 「魁渡殿! ニコ殿! 名も知らぬ、とても素敵な剣士殿! 私の声が聞こえるか?」

 「聞こえてはいないと思います」ジモーンは壁に背を向け、再び監視装置を取り出した。「タイヴァーさん」

 「何かな?」

 「問題があります」

 「既に問題は豊富にあると思うのだが」彼はそう言い、振り返った。

 そこはもはや廊下ではなかった。廊下だった場所は、少なくとも 3 階建ての巨大な図書室に取って代わられていた。天井は吹き抜けで、上の階が見えるようになっていた。おそらく利用者が転落して死ぬのを防ぐためだろう、蛾の羽と広げた枝を模した錬鉄の手すりが各層の開口部を取り囲んでいた。壁には本棚が並んでおり、どれも埃まみれの本がぎっしりと詰め込まれ、重みで軋んでいた。

 「私たちのどちらも見ていない時に変化するというのか」

 「量子重ね合わせです」ジモーンの言葉にタイヴァーは当惑した表情を浮かべた。彼女は説明した。「観察者効果とも言います。物理学では真実ですが、一部の魔法でもそうです。ヴォルザーニの推論の解釈には、多元宇宙自体が、それを見ることのできる人々によって一度に複数の方向から見られるという形で、観察を求めているというものもあります。まだ証明できていませんが、次元間の接続が開かれるにつれ、自力で次元間移動のできる人々が減少している理由はそれだと私は考えています。そのような力を授けなくても多元宇宙が安定して存在し、観察してもらえるように」

 タイヴァーはなおも当惑した様子だった。

 ジモーンはため息をついた。「見つめていれば変化はしません、少なくとも、大きな変化はしません」

 「そうか」タイヴァーは壁へと振り返り、安堵した。それはまだそこにあり、本棚やまた別の果てしない廊下に置き換わってはいなかった。「この壁が何らかの形で普通以上に頑丈だと考える理由はあるだろうか?」

 「それは私にはわかりません。どうしてですか?」

 それに応えてタイヴァーの皮膚が波打ち、足元の床を構成する堅木の光沢を帯びた。彼は腕を引き、拳を壁に強く打ち付けた。その勢いは壁紙の下の木材に亀裂が走るほどだった。

 「ああ。暴力ですね」

 そこに留まって、タイヴァーが壁と戦う様子を見守るべきだと彼女はわかっていた。目をそらしたなら見失ってしまう危険がある。だがタイヴァーが館自体を殴りつける音は大きく一貫していたので、彼が跡形もなく消えてしまうという心配を彼女はしていなかった。ロアホールドの石運び屋のエルフ版には、時には利点もあるということだ。そのため彼女は振り返ると周囲の棚をざっと見回し、そこに並んでいる題名を書き留め、パターンを探し始めた。

 大きな破壊音が聞こえ、タイヴァーの喜びの声が続いた。「抜けた! 向こうに階段があるぞ!」

 ジモーンは指を弾いて、渦巻くエネルギーをひとつ解き放った。「これの片側を持って行ってください」彼女はそう言い、タイヴァーの方向へとそれを送り出した。「もう片方は私が持っています。そうすれば、はぐれることはないでしょう」

 一緒に行くべきだとはわかっていた。けれど、書物――ひとつの次元の失われた知識は、どんなに危険であっても、簡単には諦められない。フラクタルの光のリボンの端をしっかりと握り、彼女は一番近くの棚に近づき、どこから始めようかと考えた。

 タイヴァーは少し顔をしかめてジモーンの糸の端を掴み、彼女が本に近づいていく様子を見つめた。彼は疑似餌を見たならそれが疑似餌だとわかった。多くの怪物が疑似餌を用いて獲物を捕まえる。甘美な見た目で、本当に欲しいものの姿で、それらは罠にかけられないほど巧妙な相手も捕まえる。

 「ジモーン殿……」

 「すぐに戻ってきてください。ここの床の層を見る感じ、長く離れていない方がいい気がします」

 タイヴァーは瞬きをした。そして肩をすくめて階段の方を振り返った。穴は開けたのだ、試すべきだろう。若い女性を抱え上げて運ぶか、この場に閉じ込められたままでいるか。その他に選択肢があるとは思えなかった。

 彼はフラクタルの糸を手首に巻き付け、壁に開けた穴を通り抜けて階段を上り始めた。階段の壁には人間やエルフからなるごく普通の人々の肖像画が飾られていたが、先へと進むにつれ、より歪んでおかしなものになっていった。歯は伸びて牙となり、手は鉤爪と化し、笑みは顔の中で大きくなりすぎて、やがて頭部が真二つに割れるのではと思うほどだった。タイヴァーは身震いをしながら歩き続けた。

 ファイレクシア以降、所有者の許可なしに身体を歪ませるものはもはや恐怖の域を超え、自然の秩序を侵害するものとなっていた。もしかしたら嘘偽りなく、この肖像画の人々は自分たちで変身を求めたのかもしれない。だが描かれた彼らの目には絶望がきらめいており、そうではないとタイヴァーは考えた。悪夢の画廊を通り抜けると、次の踊り場の先に扉が見えた。タイヴァーは大いに喜び、歩みを速めた。

 手首に巻き付いた糸は彼の移動とともに伸び続けており、無益にちぎれることもなかった。そのためジモーンは何ら変わることなく、あの図書室で安全に命を保っていると彼は考えた。タイヴァーは歩き続け、扉を通り抜け、ぎっしりと詰まった本棚の間の狭い通路に入った。本棚は埃だらけの本でいっぱいだった――あの図書室に戻ってきていた。

 意気消沈し、タイヴァーは通路の端まで歩いた。ジモーンの声が聞こえた。「ちょっと、タイヴァーさん! こちらです!」

 左を見るとそこにジモーンがいた。糸のもう一方の端を自身の手首に巻きつけ、もう片方の手を力強く振っていた。タイヴァーはがっかりしながら彼女へと歩いていった。

 「ジモーン殿。私たちは非常に危険な状況に陥っているのかもしれない」

 彼女は頷いた。「たぶん、その通りだと思います。文書保管係のはしごを動かすのを手伝って下さい。一番上の棚に行かないといけないんです」

 ジモーンが糸を引っ張ると、それはきらきらと光り輝きながら消えていった。そして彼女は図書室の奥へと歩いていった。タイヴァーは追いかけた。今回は目を離したくはなかった。


 ニコと放浪者は不屈の目的を持って進み、通ってきた角を曲がって引き返した。だは館は常に変化しており、不気味で見覚えのない部屋をふたりは抜けていった。豪華な居間や寝室が続く中、空気はあまりにも暑くなっていた。ふたりは汗だくになり、衣服は悲惨な様相と化した。その先にはガラスの壁のある長い廊下だった。まるで王家の壮大な温室と、庭師たちが日々の労働に使う通路のような。だがそのガラス壁の先にあるのは庭園の緑ではなかった。そこは水浸しの部屋の世界で、腐敗して浮かぶ家具や水を吸って膨らんだ本が沢山、不可解な流れに乗って行き来していた。

 「あえて言わせてもらいますが、ここは好きじゃありません」ニコは言った。「実際、かなりひどいですよ」

 放浪者はかすかな笑みを浮かべた。魁渡が失踪して以来、初めての笑みだった。「その意見には全員の同意が得られると思いますよ」

 「ご友人のことはお気の毒です」ニコは言葉を切り、そして付け加えた。「私たちが捜索しに来たご友人の方です」

 「ええ、ナシさんです。私にとっても、あの子の母親はとても大切な方でした。私はあの子の家族にとても多くのものを負っているのです。ナシさんの母親はあの侵略で亡くなりました」

 「それは可哀相に」

 「私が殺したのです」

 ニコはかぶりを振った。「その方が侵略で死んだのなら、貴女が殺したのではありません。ファイレクシアです。貴女はただ、その事実を確かなものとしたに過ぎません」

 放浪者はため息をついた。「そう思えたなら、もっとたやすく眠れるのですが。私は神河の人々に多くのものを負っています。中でも、あの方は最高のひとりでした。あの方はファイレクシアの手にかかったのかもしれませんが、そのようにして一度失われてなお戻ってきた方々もいます。もし私の防御がもう少し遅く、もう少し迷っていたなら、あの方は今頃私たちと共にいたかもしれません」

 「あるいは、神河は失われていたかもしれませんよ」

 放浪者は目をしばたたかせた。それは考えていなかった。しばらくの間、ふたりは黙って歩き続けた。自分自身の思考に圧倒されそうだった。

 前方にひとつの扉が見えてきた。繊細なガラスの壁とはまったく場違いな、ずっしりとした金属製の扉で、蝶番は霜に覆われていた。ふたりとも顔をしかめたが、ニコが掛け金に手を伸ばして扉を開けた。凍てつく空気が勢いよく放たれた。

 慎重に通り抜けると、ふたりの背後で扉が閉まった。閉じ込められたのだ。

 そこは寒い部屋だった。床は石で、天井からは太い鉄の鎖が何本もぶら下がっており、その先端の鉤には巨大な肉の塊が刺さっていた。放浪者は生皮を剥がされた死体を調べ、人間や鼠らしきものが見当たらないことを確かめて安堵した。少なくとも、館はナシの死を見せつけるために自分たちをここに連れてきたわけではない……

 ……今はまだ。ニコと放浪者は互いを見失わないよう慎重に、ぶら下がっている肉の切れ端の間を静かに歩いていった。既に館は自分たちのうち三人を捕えていた。仲間を助けるために今できることは、ラヴニカに戻ってニヴ=ミゼットに助力を求めるというものだけだろう。きっと、最初の捜索隊が行方不明になった際の対処法は考えてあるだろう。きっと、仲間を連れ戻すための方策をくれるだろう。

 きっと。

 寒い部屋は果てしなく続いているようだった。壁は見えず、ただ吊るされた死体と鎖だけが次の獲物を待ち構えていた。不意にニコが腕を突き出し、それ以上進まないよう放浪者を止めた。彼女が顔をしかめると、ニコは部屋の奥の方を顎で示した。何本かの鎖が揺れていた――まるで何か巨大なものが、吊るされていた死体を押しのけたかのように。

 放浪者は刀を抜いて戦闘の構えをとり、ニコは空中から魔法の破片を数本引き出して指先で回転させた。ふたりは必ず訪れる戦いに身構えていたが、背後から伸ばされた手に対しては身構えていなかった。それは一番近くの、皮を剥がれた巨獣の背後にふたりを強く引き寄せた。

 生前は何であったにせよ、それはある種のナマケモノに似ていた。頑丈な筋肉で覆われ、長い手足の先端には物騒な鉤爪があった。だが今やそれは役に立つ壁だった。

 ニコと放浪者は戦闘態勢を整えてくるりと振り返った。背後にいたのは青白い細面の男で、ふたりを遠ざけようとするかのように両手を挙げて後ずさった。そして唇に指を当て、ポケットから一枚の紙を取り出して差し出した。

 そこには、テーロス語や神河語を含む複数の文字で「静かに」と書かれていた。翻訳は正確ではなく、神河語の文は「発する 無音」と書かれていたが、何にせよ意味は通じた。

 ふたりは訝しむような沈黙とともに男を見つめた。男は大げさに頷くと、別のポケットからパチンコを取り出した。続けて同じポケットから血で固まった髪の毛のようなものを取り出し、パチンコのカップの中に滑り込ませるとそれを引っ張り、背後を顎で示した。

 ニコと放浪者は死体の端から顔を出し、鎖だらけの薄闇の中を覗きこんだ。見つめていると、長身で筋肉質の人影が死体の間を闊歩するようにやって来た。ぼさぼさに乱れた髪が、顔の上半分を覆う仮面の周囲に生えており、狂ったように何かを探すふたつの目だけが露わになっていた。それは口にすべきではない汚れで覆われたカンバス地のエプロンをまとい、肉切り包丁を持っていた。

 見知らぬ男はパチンコのカップをさらに引いてから放ち、血まみれの髪の塊は人影の先の暗闇に飛んでいった。外したのだ。そしてその人影は彼らに向かって無言で、威嚇するように歩き続けた。

 だが髪の毛の玉が遠くの鎖に当たり、金属音を立てた。人影はぞっとするような速さで振り向くと音の方に向かった。人影は動きへと近づいていったが、床の霧に隠れていたベアトラップに足を踏み入れた。人影は吠え、逃れようともがいた。血の臭いが空気中に充満した。

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アート:Cristi Balanescu


 見知らぬ男はパチンコをポケットにしまい、満足そうな表情で死骸の間を静かに移動しながら、ふたりについて来るよう合図した。ニコと放浪者は何が起こっているのかわからず、だが他にどうしていいかもわからず、男の後を追った。

 ようやく扉が見つかった。磨き上げられており、目の高さに小窓がついていた。見知らぬ男は警戒することなく扉を開け、ふたりはその後を追ってまた別の客間へ出た。その客間は暖かく、たった今逃げ出してきたばかりの凍える寒さを打ち消してくれるようだった。片隅にある暖炉で小さな火が音を立てていた。本棚はほとんど空だった。明らかに火を燃やすために使われたに違いない。

 「あれは剃刀族だ」男は言った。「フラッドピットにいる奴らは、水に反響しない音を聞くことに慣れてない。時々気をそらすこともできる。あれはでかい奴だった。正面から戦おうとは思わないことだな。負けるぞ」

 一方、ニコはその新顔を率直に見つめた。乱れた黒髪、長くて緩いジャケットベストをまとい、その下の衣服は十種類以上の異なる素材を継ぎ接ぎにしてできていた。その布地の一部は壁紙だったに違いない。ニコは尋ねた。「そちらのお名前は?」

 「ウィンター」

 「それで、ウィンターさん。この館にはどれくらい長くいるのですか?」

 「ずっと」見知らぬ男はそう言い、肩をすくめた。「ここには他に何もない。この館こそが世界で、世界はこの館だ。そして一度館に捕まったなら、どこにも行けない。あんたらはまだ気づいてないかもしれないが、すぐにわかるよ」

 「あんたらはもう、ダスクモーンのものだってことを」


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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