HALL OF FAME

ウィリー・エデル

Willy Edel

選出 2015年
出身 ブラジル、リオ・デ・ジャネイロ
プロツアー・デビュー プロツアー・ニューヨーク2000
生涯獲得賞金 【記載なし】
生涯獲得プロ・ポイント 286点

プロツアー・トップ8入賞4回。うち2回(プロツアー・チャールストン2006、プロツアー・神戸2006)で準優勝。グランプリでは、グランプリ・トロント2012優勝を含めトップ8入賞7回。「ジャンド」や「ナヤ」、「アブザン」のようなミッドレンジ・デッキとの相性の良さで広く知られる。南米地域のマジック・コミュニティ発展に大きく寄与し、ブラジルのマジック界の父として多くの尊敬を集めている。

PROFILE

ブラジルのウィリー・エデルが初めてプロツアー・サンデーの舞台に現れたのは、プロツアー・チャールストン2006でのことだった。チームメイトの(現殿堂顕彰者)パウロ・ヴィター・ダモ・ダ・ロサ/Paulo Vitor Damo da Rosaとともに初めてのトップ8入賞を果たしたエデルは、その大会を準優勝で終えた。3人目にセルソ・ザンピエーレ/Zelso Zampereを加えたこのチーム「Raaala Pumba」がトップ8入賞を記録するまで、ブラジルのプレイヤーがプロツアー・サンデーの舞台に立ったのは1度しかなかった。しかしここからの10年で、その数は着実に増えていくことになる。

 エデルは初めロールプレイングゲームに熱中していたが、彼の中にはマジックのようなゲームを求める想いが常にあった。そしてあるゲーム会で他の人がマジックをプレイしているのを目にすると、彼はたちまちそのゲームに引き込まれていった。

「それがファンタジーの世界観を持つ1対1の対戦ゲームだとわかった瞬間、引き込まれました。私は競技的なゲームが大好きで、RPGには競技性が足りないと思っていたんです」と、エデルはマジックを始めたきっかけを語る。そして彼はそのまま何の準備もなく大会へ向かった……初めて参加するイベントのために武器を磨くこともせず。マジックと出会ってからわずか1週間のことだった。

 彼が装備したのは、あのとき目にしたゲームの知識だけだった。ルールブックを読み込み、周りのプレイヤーがバーン・デッキを好む傾向に気づき、メタゲームの初歩を把握した。そして彼が組み上げたのは、《ダメージ反転》を4枚搭載した67枚のデッキだった。

「1ゲームも取れませんでしたよ」と、エデルは笑いながら回想する。「ですが《セラの天使》や《熾天使》で戦う私はそこで、《ネクロポーテンス》という凄まじい強さのカードを知りました。大会の帰り道にマジックの情報雑誌を買い漁り、週末を費やして読み込みました。そして2週間後に再び大会へ挑むと、今度はあと1勝のところでトップ8入賞を逃しました。それからさらにプレイを重ね、9か月後にはレーティングによるブラジル選手権への参加権利を獲得しました。そこからはもう振り返らず一直線です」

 世界中で開催されるトップ・プレイヤーの戦いを観戦したりお気に入りのプレイヤーの配信を追ったりできるようになる前の時代のことだ。エデルは「The Duelist」や「InQuest」、「Scrye」といった雑誌から世界最高のプレイヤーの物語を知った。そしてプロツアー優勝7回の偉大な王者、カイ・ブッディ/Kai Buddeに憧れた。

「彼の勝利シーンをまとめた動画を見た瞬間彼のファンになり、自分のプレイを信じて最後まで諦めないことを学びました」と、エデルは言う。プロツアー・ニューオーリンズ2001で、ブッディが不可能だと思われた状況から劇的な逆転を見せた試合だ。

 エデルが初めてプロツアーに参加したのは、ニューヨークシティのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたチーム戦プロツアーだった。彼はこの大会に親友2人と参加した。このときは、ニューヨークを訪れ外国のショップへ遊びに行けるチャンスとしか考えていなかった。だがそこで、彼のプレインズウォーカーの灯が点火した――マジックの競技最高峰の舞台で成功するという目標が生まれた。殿堂顕彰者ブラム・スネプヴァンジャーズ/Bram Snepvangersのチームに敗れ2勝3敗でこの大会を終えたエデルは決意した。今度プロツアーへの参加権利を得ることができたら、To-Doリストにショッピングを含めないことを。

 エデルがプロツアーの舞台に戻るまでは数年の歳月を要したが、世界選手権2002で同郷のカルロス・ロマオ/Carlos Romaoが優勝する姿を見てモチベーションを維持できた。ロマオが世界を制した年、大学を卒業したエデルは、マジックのプロになるための挑戦を行うことに決めた。そして国の代表として世界選手権2004と世界選手権2005に出場したものの、賞金圏内に入ることはできなかった。その頃彼は仕事をしながら修士号の取得に忙しくしており、夢を諦めようとしていた。次の挑戦で最後にしようと決めていた。

「それがプロツアー・チャールストン2006予選でした。しかしPTQ直前に、チームメイトのひとりがアメリカに行くためのビザがないから出場できないと言ってチームを抜けたんです」と、エデルは語る。だがその空いた穴を埋めたのが、すでにプロツアーで何度も賞金を獲得し、同じくチームメンバーを探していた未来の殿堂顕彰者、パウロ・ヴィター・ダモ・ダ・ロサだった。「ハッピーエンドになりましたよ!」

 彼らは予選を勝ち抜き、プロツアー・チャールストン2006本戦でも準優勝という好成績を収めた。エデルとダモ・ダ・ロサの長きにわたる成功の歴史は、ここから始まったのだ。エデルはそのシーズン、個人としてもプロツアー神戸2006で決勝戦まで進出し、準優勝を記録した。その後2009年シーズンに一度競技シーンを離れるまで彼はプロツアーに継続して参戦し、プロツアー・ジュネーブ2007では2度目のリミテッド・プロツアー・トップ8入賞を達成した。2011年に復帰すると、彼はまた着実にプロ・プレイヤーズ・クラブのレベルを上げていき、2012年にはプロツアー『ラヴニカへの回帰』でトップ8入賞、グランプリ・トロント2012では優勝を果たし、プラチナ・レベルまで登り詰めた。

 自身のキャリアを振り返り、個人戦での好成績は確かに特別なものだと語るエデル。しかし彼の口からは何度も、チームを組んだ仲間やブラジルのコミュニティ、友人や同じ国のプレイヤーの活躍についての話が出た。

「パウロが2012年度の殿堂に選出されたとき、彼のキャリアの第一歩、初めてのプロツアーをともにしたときのことを思い出し、心が震えました……まるで私も一緒に殿堂入りしたような気持ちでした」これまでのキャリアを振り返って最高の瞬間を尋ねると、エデルはそう答えた。「それから、昨年のワールド・マジック・カップでトップ8に入賞できたことで、マジックの世界地図にブラジルを書き加えることができましたね。個人戦でも活躍している3人だけじゃないんだということを示せました」

 ウィリー・エデルは今年の殿堂投票には期待できないと考えていた。彼が自身4度目のプロツアー・トップ8入賞を記録したのは何シーズンも前のことであり、投票権を持つ人たちが意識する名前ではなかった。事実昨年の得票率は30%ほどに留まっており、今年大活躍を見せることができたなら殿堂入りもあり得たが、「まずまず」くらいでは難しいと彼は思っていたのだ。だからプレイヤー投票に関わる議論の場で彼の名前が何度も挙がったことには、本当に驚いたという。投票委員会からもう10%得票できれば選出されるという希望が生まれたのだ。

「プレイヤー投票には驚きました。ソーシャルメディア上であんなに多くの声援をもらえ、ブラジル人プレイヤーたちがあんなに熱心に私を推してくれるとは思っていなかったんです。友人がスプレッドシートで投票先が公表されている票をまとめてくれました。私は『mtg hof 2015』でGoogle検索を繰り返し、Twitterでも『#mtghof』と検索し続けました」と、エデルは当時の心境を打ち明けた。「当落線上にいるときの殿堂投票シーズンは心配でたまりませんよ。大半の投票者や多くの記事が私の殿堂入りに肯定的でも、不安は拭えませんでした」

 グランプリ・ダラス/フォートワース2015に向けた準備の最中も、殿堂入りを逃した自身の姿がちらついた。イベント当日、組織化プレイのプログラム・マネージャーであるスコット・ララビー/Scott Larabeeが会場の裏へエデルを招いたとき、彼は多くの票と支持を集めた八十岡 翔太のためのお祝いのメッセージを撮るのだと思っていたという。

「なんと私の殿堂入りを伝え、お祝いの言葉をかけてくれたんです。続けて詳しい情報も教えてくれましたが、あまりの衝撃に話が入ってきませんでした」と、エデルは殿堂入りが決まった瞬間を振り返った。「にやにや笑いが止まりませんでしたよ」

 殿堂顕彰者として生涯にわたるプロツアー参加権利を得たことは、多くのブラジル人プレイヤーをプロツアーへ送る手助けをしているエデルにとって特別な意味があるという。

「プレイヤーとしてのキャリアの中で達成してきたことを実感できる一生ものの報酬です。参加褒賞や不戦勝などの他の特典にはあまり魅力を感じませんが、生涯にわたるプロツアーの参加権利はこの上ない価値があります。もし私の息子がプロツアーへ参加するときが来たとしても、必ず私というプレイテスト・パートナーがいることになるのですから」

「まずは他の誰よりも、家族に感謝を伝えたいです」と、エデルは続ける。「私が仕事を辞めてマジックのプロになると決めたときも、家族は私を支えてくれました。練習のために部屋に閉じこもっても、世界中を飛び回っても、文句ひとつ言わずに見守ってくれました。うまくいかないときこそ前を向く素敵な家族です。それから、ブラジルのマジック・コミュニティにも感謝を。名前を挙げれば本当にキリがないのでここでは控えます。そして、私に投票してくれた人たちと投票を呼びかけてくれた人たちに感謝を。どうしても自分から投票を呼びかけることができなかった私ですが、そんな私の秘めた想いを言葉にしてくれた人が何人もいました。ここまで来られたのは皆さんのおかげです。中でもパウロには、特別な感謝を伝えたいと思います」

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