HALL OF FAME
ウィリアム・ジェンセン William Jensen
選出 | 2013年 |
---|---|
出身 | アメリカ合衆国、メリーランド州シルバースプリング |
プロツアー・デビュー | プロツアー・ローマ1999 |
生涯獲得賞金 | 【記載なし】 |
生涯獲得プロ・ポイント | 231点 |
チームで挑んだプロツアー・ボストン2003での優勝を含め、プロツアー・トップ8入賞4回。キャリア序盤は「Baby Huey」の愛称で呼ばれる。プロツアー・ニューヨーク2000の舞台で行われた史上初のマスターズで優勝。グランプリ・トップ8入賞は、3度の優勝を含め9回。マスターズ、プロツアー、グランプリの3冠を持つ数少ないプレイヤー。特にチーム・リミテッドへの造詣は史上最高との呼び声高い。
PROFILE プロフィール
昨年の殿堂投票であと一歩殿堂入りに届かなかったウィリアム・ジェンセンは、今年度の殿堂入りを希求していた。議論の場でも公表された投票先にも、彼の名は多く挙がった。
「歴史的に見ても激戦だった昨年の殿堂投票であと1票のところまで迫れたので、今年も票を集められると感じていました。昨年票を投じてくれた皆さんは今年も投票してくれると信じていましたから」とジェンセンは言うが、それでも実際に殿堂入りの連絡を受けたときは深く感動したそうだ。
「1分くらいその場に立ち尽くし、動けませんでした。これまでの人生を振り返りましたよ。それからすぐに感情の波に圧倒されました。正直に言いますが、感激のあまり泣いてしまいました」
ジェンセンは子供のころからマジックをプレイし続けてきた。このゲームとの出会いは1996年、サマー・キャンプで遊び方を教わったという。もともと競技志向が強かったジェンセンは、すぐにマサチューセッツのマジック・シーンで目立つ存在になった――その技術の高さと体の大きさで(当時の彼はその幼い見た目から「Baby Huey」の愛称で呼ばれていた)。数年にわたる大会経験は実を結び、彼はレーティングによる招待で自身初のプロツアー参戦となるプロツアー・ローマ1999への参加権利を獲得したのだった。
「どうなるかは予想もつきませんでした」とプロツアー初参加の思い出を語るジェンセン。「うまくやれるのを期待していましたが、最高峰の舞台を恐れる気持ちがあったのも事実です。結果としてそれほどうまくいかず、2日目進出を逃しました」
彼が自身初のプロツアー・サンデー進出を成し遂げたのは、そのシーズンの後半、プロツアー・ロンドン1999でのことだった。それからニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで初めて開催されたマスターズ(マジックで最も厳しい大会のひとつ)でも優勝を果たした。2002-2003年シーズンには、のちの殿堂顕彰者が5人もトップ8に入ったプロツアー・シカゴ2003を含め、2度のプロツアー・トップ8入賞を記録した。そして続くシーズンでは、ジェンセンの初戴冠の瞬間が訪れた。チーム・ロチェスターというフォーマットにおいて世界最強と恐れられていたジェンセンは、マット・リンデ/Matt Lindeとブロック・パーカー/Brock Parkerと手を組み、カイ・ブッディ/Kai Budde率いるチーム「Phoenix Foundation」を打ち破って優勝トロフィーを掴んだのだ。
「プロツアーで一番の思い出は、親友のマット・リンデとブロック・パーカーとともに制したチーム戦プロツアー(プロツアー・ボストン2003)です」と、ジェンセンもチーム「Brockafellers」としての活躍を最高の瞬間として挙げたのだった。
しかしその直後、ジェンセンはマジックから離れた。そして戻ってきた彼は、その人柄と実績を再びマジック・コミュニティに知らせなければならなかった。
「昨年の投票で票が足りなかったのは、個人的に私のことを知らず、これまでの実績だけで判断するのをためらった人がいたからだと思います。プロツアー『ラヴニカへの回帰』でマジックに復帰したのをきっかけに私の灯は再び点り、またあらゆるイベントに参加するようになりました。その結果、対戦相手として私のプレイをじかに見て、あるいは私の人柄に触れて、投票しようという人が増えたんだと思います」
今後もすべてのプロツアーに参加する意欲を見せるジェンセンは、殿堂入りをマジックに懸けてきた時間の結晶だと感じている。
「殿堂入りは、私の人生最高の栄誉です。私が人生の大部分を捧げて取り組んできたマジック・キャリアの集大成です。フィンケルやブッディ、マーハー、ナシフといった偉大なプレイヤーたちと並んでマジックの歴史に自分の名を刻めることは、本当に感慨深く、誇りに思います。とても言葉で表せません」
2013年度の殿堂顕彰に際し感謝したい人物を尋ねると、ジェンセンは自分に投票してくれたプレイヤー委員会および投票委員会の人々は言うまでもないと答え、さらに多くの人の名前を挙げた。
「いつも私を信じて支えてくれた両親へ。母は私のわがままを聞いて、私を大会へ送るためにマサチューセッツ州中を駆け回ってくれました。父は私の大会成績が良かったときも悪かったときも私を励まし、いつも見守ってくれました」
「それから、友人たちへ。直接的にせよ間接的にせよ、親友とはみなマジックを通じて親交を深めました。マジックを通じて得た友人たちは、プレイヤーとしての私はもちろん、ひとりの人間としての私にとって、この上ない宝物です。友人たちがいなければ、今の私はあり得ません」
そして最後に、ジェンセンは若き頃マサチューセッツの大会で過ごした日々を振り返って言った。
「そして、マサチューセッツ州ミルフォードにある『TJ Collectibles』のオーナー、シア/Shea夫妻にも感謝を。私にとって彼らは、ただの行きつけの店舗のオーナーではありません。彼らはプレイする場所を提供してくれただけでなく、何度も大会へ連れて行ってくれたり家まで送ってくれたりしてくれました。そのおかげで、私は平日夜のドラフト会や大会に何度も参加できたのです。他にも、カードやスリーブなど私に必要なものをなんでも用意してくれました。彼らは気づいていないと思いますが、私は彼らのおかげでプレイヤーとしても人としても大きく成長できました。彼らがいなければ、これほどの栄誉を受けていなかったと断言できます」
「歴史的に見ても激戦だった昨年の殿堂投票であと1票のところまで迫れたので、今年も票を集められると感じていました。昨年票を投じてくれた皆さんは今年も投票してくれると信じていましたから」とジェンセンは言うが、それでも実際に殿堂入りの連絡を受けたときは深く感動したそうだ。
「1分くらいその場に立ち尽くし、動けませんでした。これまでの人生を振り返りましたよ。それからすぐに感情の波に圧倒されました。正直に言いますが、感激のあまり泣いてしまいました」
ジェンセンは子供のころからマジックをプレイし続けてきた。このゲームとの出会いは1996年、サマー・キャンプで遊び方を教わったという。もともと競技志向が強かったジェンセンは、すぐにマサチューセッツのマジック・シーンで目立つ存在になった――その技術の高さと体の大きさで(当時の彼はその幼い見た目から「Baby Huey」の愛称で呼ばれていた)。数年にわたる大会経験は実を結び、彼はレーティングによる招待で自身初のプロツアー参戦となるプロツアー・ローマ1999への参加権利を獲得したのだった。
「どうなるかは予想もつきませんでした」とプロツアー初参加の思い出を語るジェンセン。「うまくやれるのを期待していましたが、最高峰の舞台を恐れる気持ちがあったのも事実です。結果としてそれほどうまくいかず、2日目進出を逃しました」
彼が自身初のプロツアー・サンデー進出を成し遂げたのは、そのシーズンの後半、プロツアー・ロンドン1999でのことだった。それからニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで初めて開催されたマスターズ(マジックで最も厳しい大会のひとつ)でも優勝を果たした。2002-2003年シーズンには、のちの殿堂顕彰者が5人もトップ8に入ったプロツアー・シカゴ2003を含め、2度のプロツアー・トップ8入賞を記録した。そして続くシーズンでは、ジェンセンの初戴冠の瞬間が訪れた。チーム・ロチェスターというフォーマットにおいて世界最強と恐れられていたジェンセンは、マット・リンデ/Matt Lindeとブロック・パーカー/Brock Parkerと手を組み、カイ・ブッディ/Kai Budde率いるチーム「Phoenix Foundation」を打ち破って優勝トロフィーを掴んだのだ。
「プロツアーで一番の思い出は、親友のマット・リンデとブロック・パーカーとともに制したチーム戦プロツアー(プロツアー・ボストン2003)です」と、ジェンセンもチーム「Brockafellers」としての活躍を最高の瞬間として挙げたのだった。
しかしその直後、ジェンセンはマジックから離れた。そして戻ってきた彼は、その人柄と実績を再びマジック・コミュニティに知らせなければならなかった。
「昨年の投票で票が足りなかったのは、個人的に私のことを知らず、これまでの実績だけで判断するのをためらった人がいたからだと思います。プロツアー『ラヴニカへの回帰』でマジックに復帰したのをきっかけに私の灯は再び点り、またあらゆるイベントに参加するようになりました。その結果、対戦相手として私のプレイをじかに見て、あるいは私の人柄に触れて、投票しようという人が増えたんだと思います」
今後もすべてのプロツアーに参加する意欲を見せるジェンセンは、殿堂入りをマジックに懸けてきた時間の結晶だと感じている。
「殿堂入りは、私の人生最高の栄誉です。私が人生の大部分を捧げて取り組んできたマジック・キャリアの集大成です。フィンケルやブッディ、マーハー、ナシフといった偉大なプレイヤーたちと並んでマジックの歴史に自分の名を刻めることは、本当に感慨深く、誇りに思います。とても言葉で表せません」
2013年度の殿堂顕彰に際し感謝したい人物を尋ねると、ジェンセンは自分に投票してくれたプレイヤー委員会および投票委員会の人々は言うまでもないと答え、さらに多くの人の名前を挙げた。
「いつも私を信じて支えてくれた両親へ。母は私のわがままを聞いて、私を大会へ送るためにマサチューセッツ州中を駆け回ってくれました。父は私の大会成績が良かったときも悪かったときも私を励まし、いつも見守ってくれました」
「それから、友人たちへ。直接的にせよ間接的にせよ、親友とはみなマジックを通じて親交を深めました。マジックを通じて得た友人たちは、プレイヤーとしての私はもちろん、ひとりの人間としての私にとって、この上ない宝物です。友人たちがいなければ、今の私はあり得ません」
そして最後に、ジェンセンは若き頃マサチューセッツの大会で過ごした日々を振り返って言った。
「そして、マサチューセッツ州ミルフォードにある『TJ Collectibles』のオーナー、シア/Shea夫妻にも感謝を。私にとって彼らは、ただの行きつけの店舗のオーナーではありません。彼らはプレイする場所を提供してくれただけでなく、何度も大会へ連れて行ってくれたり家まで送ってくれたりしてくれました。そのおかげで、私は平日夜のドラフト会や大会に何度も参加できたのです。他にも、カードやスリーブなど私に必要なものをなんでも用意してくれました。彼らは気づいていないと思いますが、私は彼らのおかげでプレイヤーとしても人としても大きく成長できました。彼らがいなければ、これほどの栄誉を受けていなかったと断言できます」
THE RECORD 戦績
プロツアー | プロツアー・ロンドン1999:第6位(ブースタードラフト) プロツアー・シカゴ2003:第8位(ロチェスター・ドラフト) プロツアー・ベニス2003:第4位(ブロック構築) プロツアー・ボストン2003:優勝(チーム・ロチェスター) |
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グランプリ | グランプリ・サンディエゴ1999:優勝(リミテッド) グランプリ・フィラデルフィア2000:第5位(エクステンデッド) グランプリ・カンヌ2000:第4位(チーム・リミテッド) グランプリ・ピッツバーグ2000:優勝(チーム・リミテッド) グランプリ・デトロイト2001:第5位(リミテッド) グランプリ・ヒューストン2002:第3位(エクステンデッド) グランプリ・ミルウォーキー2002:第7位(スタンダード) グランプリ・オーランド2004:第5位(ブロック構築) グランプリ・オークランド2013:優勝(リミテッド) |
その他 | マスターズ・ニューヨーク2000:優勝(エクステンデッド) |