HALL OF FAME

スティーヴン・オマホニー=シュワルツ

Steven O’Mahoney-Schwartz

選出 2011年
出身 アメリカ合衆国、ニューヨーク州ブルックリン
プロツアー・デビュー プロツアー・東京2001
生涯獲得賞金 【記載なし】
生涯獲得プロ・ポイント 240点

プロツアー・トップ8入賞3回。プロツアー・ロサンゼルス1999ではジョン・フィンケル/Jon Finkelを下して優勝。グランプリ・トップ8入賞は、4度の優勝を含め10回。「旅する戦士」型のプレイヤーの元祖。弟のダニエル・オマホニー=シュワルツ/Daniel O'Mahoney-Schwartzとジョン・フィンケルとともにチーム「Antarctica」を結成。史上最強チームの一角として名を馳せた。マジック黎明期からニューヨークのマジック・コミュニティを支えた。

PROFILE

スティーヴン・オマホニー=シュワルツのキャリアの始まりは、ニューヨークで行なわれた史上初のプロツアーのジュニア部門までさかのぼる。そのイベントには電話ひとつで参加できたが、当時東海岸で行われていた年齢制限のないイベントでも最強の一角だったオマホニー=シュワルツは、子供を相手にしなければならないことが不満だった。彼は本戦の方に参加したいと申し出たが、それは認められなかった。実はそのときのジュニア部門にはジョン・フィンケル/Jon Finkelやボブ・マーハー/Bob Maher、ブライアン・キブラー/Brian Kiblerといったのちの殿堂顕彰者たちがこぞって参加しており、ジュニア部門の方が過酷な舞台だったと思われる。オマホニー=シュワルツがそのことに気づくのは、あとになってからだった。

「競技志向が高く、平均的な社会人よりもデッキをテストする時間があり、自分の実力を信じて疑わないプレイヤーばかりが集まり、競い合う世界でした」とオマホニー=シュワルツは言う。彼自身も、プロツアー初参加にも関わらず高い理想を持っていた。「128位以内になんとか入る成績で終わり、がっかりしましたよ。思い返してみると、当時の私はマジックの大会がどれだけレベルの高いものなのか理解していませんでしたね。あのとき対戦したプレイヤーの多くがその後輝かしい戦績を積み上げていますよ。それはさておき、ジュニア部門の上位128人には次のプロツアーのジュニア部門への参加権利が与えられたので、私も続けて参加することができました」

 オマホニー=シュワルツは3回目のプロツアーから本戦に参加するようになったが、プロツアーの常連になったのは続くシーズン、プロツアー・ロサンゼルス1997とプロツアー・パリ1997で32位以内に入る成績を収めてからのことだった。彼はそれから3シーズン連続でプロツアー・トップ8入賞を記録することになる。プロツアー・マインツ1997では準優勝という好成績を収め、リミテッドの名手としての評価を確立した。そして続くプロツアー・ロサンゼルス1999でのトップ8入賞は、物語に満ちた彼のキャリアの中でも特に思い出深いものになった。のちのプロツアー・ワシントンD.C1999でチームを組んだ弟のダニエル・オマホニー=シュワルツ/Daniel O'Mahoney-Schwartzがその場にいたこともあり、特別な思い出になっているようだ。

「プロツアー・マインツ1997で優勝まであと一歩のところへ行った後、私はさらなる高みを目指すべく、特にドラフトの練習を強化しました」と、オマホニー=シュワルツは回想する。「その努力が報われてついに優勝を手にしたときは、最高の気分でした。友達みんなを集めてひたすら練習を重ね、弟や友達の応援を受けて優勝できたこと、そしてみんなが祝福してくれたことは、何よりも思い出に残っています。優勝が決まった瞬間は、呆然としましたね。弟のダニエルの方が私より興奮していましたよ」

オマホニー=シュワルツは、弟と初代殿堂顕彰者のジョン・フィンケル/Jon Finkelとともにチーム「Antarctica」を結成し、プロツアー・ワシントンD.C1999で自身3度目のトップ8入賞を達成した。なお現時点で、この大会でプロツアー・サンデーの舞台に立った4チーム12人のうち、6人が殿堂入りを果たしている。

 オマホニー=シュワルツはまた、グランプリのために旅をするのが当たり前になる時代に先駆けて遠征を行った、最初の「旅人」でもある。プロ・プレイヤーズ・クラブが創設されるよりはるか昔のことであり、海外のグランプリに行くのは優勝でもしない限り足が出るという時代だった。1998年、プレイヤー・オブ・ザ・イヤーのタイトルを争っていたオマホニー=シュワルツは、プロ・ポイントを稼ぐためにグランプリ・マドリード1998への遠征を決意した。当時、アメリカのビッグ・ネームが海の向こうのグランプリに参加することはなかった。彼が会場に現われたとき、ヨーロッパ人以外が参加できるとは思っていなかった現地の人々は衝撃を受けた。

「最初は、対応してくれたジャッジも参加できないと言っていました」と、オマホニー=シュワルツは言う。「すぐにヘッドジャッジや主催者に問い合わせると、状況は変わりました。参加したい人なら誰でも参加できるというアナウンスをしてくれたんです」

 その遠征への意欲から、オマホニー=シュワルツは最初のマジック伝道師のひとりとなった。

「大会があったところでもう数日過ごし、そこの地元のプレイヤーたちと交流していました。ガンスリンガーをやったりマジックのクイズショーをやったり、あるいは私が参加できないイベントを観戦したりもしました。マジックの伝道師として、それぞれの地域のために過ごしたんです」と、オマホニー=シュワルツは語る。「初開催の南米選手権にも行きましたし、ジュニア・スーパー・シリーズにも何度か足を運びました。そうやってマジックと、この世界の別の一面を楽しんだんです」

 そのマジックへの寄与と実績にも関わらず、オマホニー=シュワルツはプロツアー殿堂入りを想像もしていなかったという。

「マジックが競技性の高いゲームとして成長してきたことはもちろん知っていましたが、まさかプロツアーがこれほど大きくてしっかりしたものになるとは思いませんでした」と、オマホニー=シュワルツは言う。「殿堂入りは、私の人生の中でも特に大きな影響を受けたものをいつでも確認できる記念碑です。ここしばらくはプロツアーに参加していませんが、マジックで出会った友人たちとの絆は一生続きます。大学に通ったことや結婚したことと並んで、マジックは私の人生に大きく影響を与えました」

 プロツアー殿堂が創設された2005年からオマホニー=シュワルツは殿堂資格を持ち、毎年コミュニティから暖かい支援を受け続けてきたが、こうして2011年を迎えるまで殿堂入りは果たせなかった。そして高名なマジックのライターが支持していたにも関わらず、今年の投票が始まったとき彼は今年もまた惜しくも殿堂入りを逃すのではないかと不安を抱えていたという。

「投票者たちがTwitterをはじめさまざまなウェブサイトで投票先を公表し始めるのを見て、去年よりも多くの票を得られていると感じました。まだ不安はありましたが、今年こそ殿堂入りできるのではないかと思いましたね」と、オマホニー=シュワルツは語る。そして世界選手権の席が確保されるという知らせを耳にした瞬間のことを、次のように言葉にした。

「最初に感じたのは安堵です。それから、マジックへの寄与が認められて殿堂入りできたんだという実感が湧いてきて、とても幸せな気持ちになりました。それが落ち着いてきたら、今度はもう一度競技の舞台に戻ったらどれほど楽しいだろうと考えるようになりました」

 殿堂特典によって再びプロツアーへの参加権利を得たオマホニー=シュワルツは、年に数回はプロツアーに参加したいと意欲を見せた。最近結婚し、実生活が忙しいためここ数年はマジックをプレイする時間が取れていないという彼は、「腕が鈍っているかもしれないから4回目のプロツアー・トップ8入賞は少し難しいですね」と認める――少なくとも、今すぐには。

「構築フォーマットはもう何年もやっていません」と言うオマホニー=シュワルツが最後に優勝を記録したのは、マット・ワン/Matt Wangと組んで参加した双頭巨人戦のグランプリ・マサチューセッツ2007だ。「今はニューヨークでよくドラフトを楽しんでいるので、ドラフトの自信はすぐに取り戻せると思います。ですがプロツアーは混合フォーマットで行われるようになったため、構築フォーマットの遅れが気になりますね」

1996年のジュニア部門参戦から2011年の殿堂入りに至るまでの道のりを思い返したオマホニー=シュワルツは、ともに歩んできたマジック仲間たちに感謝したいという。

「感謝を伝える相手はたくさんいますよ」と前置きをした上で、オマホニー=シュワルツは続ける。「イベントに出たことはありませんが、私にマジックを紹介し遊び方を教えてくれた高校時代の友人のニック/Nickへ。それからいつも一緒にいて、最高のチームメイトでもあった弟のダンへ。誰に対してもその人がやることに協力を惜しまない、良い友人にして良いチームメイトでもあったジョン・フィンケルへ。どんなに無茶な遠征でも楽しい旅にしてくれた最高の相棒、デヴィッド・ウィリアムズ/David Williams へ。ただ友人と遊んでいただけの私に、カード・ショップやマジックのイベントを開催する主催者の存在を教え、競技マジックの世界に引き込んでくれたアレックス・ガラムボルギ/Alex Garamvolgyiへ。ニューヨークでマジックの一大イベントを開催し、最高のカード・ショップを経営していたブライアン・デヴィッド=マーシャル/Brian David-Marshallをはじめとする、「NY Magic」、「Gray Matter」、「Neutral Ground」のオーナーたちへ。そして、子供の夢を広い心で応援してくれた両親に感謝を伝えたいです」

THE RECORD

プロツアー プロツアー・マインツ1997:第2位(ロチェスター・ドラフト)
プロツアー・ロサンゼルス1999:優勝(ロチェスター・ドラフト)
プロツアー・ワシントンD.C1999:第3位(チーム・ロチェスター)
グランプリ グランプリ・トロント1997:第6位(ブロック構築)
グランプリ・マドリード1998:優勝(エクステンデッド)
グランプリ・リオデジャネイロ1998:準優勝(エクステンデッド)
グランプリ・チューリッヒ1998:優勝(シールド)
グランプリ・ボストン1998:第3位(スタンダード)
グランプリ・オスロ1999:第6位(ブースタードラフト)
グランプリ・セントルイス2000:優勝(チーム・ロチェスター)
グランプリ・ピッツバーグ2000:第3位(チーム・ロチェスター)
グランプリ・ニューオーリンズ2001:第4位(ブースタードラフト)
グランプリ・マサチューセッツ2007:優勝(双頭巨人戦)
マスターズ マスターズ・サンディエゴ2002:第8位(スタンダード)

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