HALL OF FAME

ランディ・ビューラー

Randy Buehler

選出 2007年
出身 アメリカ合衆国、ワシントン州シアトル
プロツアー・デビュー プロツアー・シカゴ1997
生涯獲得賞金 51,710ドル
生涯獲得プロ・ポイント 126点

デビュー戦のプロツアー・シカゴ1997で優勝。プロツアー配信の実況者としても有名。参加した12回のプロツアーのうち5回で16位以上の成績を収める。1998年度ルーキー・オブ・ザ・イヤー獲得。チーム「CMU」設立。その後はウィザーズ・オブ・ザ・コースト開発部主任として5年間務めた。プレイヤーとしては、「フォービディアン」や「ドローゴー」、「カウンターフェニックス」などの打ち消し呪文を駆使した青のデッキをよく使用した。

PROFILE

マジック公式サイトを見るかプロツアーの生放送を観るか、あるいはここ5年ほどに発売されたマジックのセットのクレジット欄を見れば、ランディ・ビューラーの紹介はほとんど必要なくなるだろう。ここで皆さんにご紹介するのは、マジック・プレイヤーとしてのランディ・ビューラーだ。

 ビューラーは、プロツアー予選突破で参加権利を獲得したプロツアー・シカゴ1997にて、プロツアー初参加にしていきなり優勝という鮮烈すぎるデビューを果たした。彼は勢いそのままにそのシーズンのルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得し、その後わずか11回のプロツアー参加を経てウィザーズ・オブ・ザ・コーストへ就職するためデッキボックスを手放すことになった。

 その短いキャリアの中で再びプロツアー・トップ8入賞を記録することは叶わなかったものの、彼は4度にわたり16位以内に入る成績を収めた(17位という成績も1度残しているが、これも好成績と言えるだろう)。合計12回のプロツアー参加のうち、64位以内に入れなかったことは2回しかなく、最低順位も124位という高い水準だ。ビューラーはグランプリでの成功も追い求めて世界中を旅し、優勝1回を含め7回にわたってトップ8に入賞した。彼が活躍した2年間は特にエクステンデッドで圧倒的な力を発揮し、このフォーマットで行われたプロツアー・シカゴ1997に加えて、エクステンデッド選手権でも優勝している。

 プレイヤーとしての活動を終えたビューラーは、その後マジック開発部の主任やプロツアーの模様を届ける実況者、連載を持つライターなどを務め、社内ではプロツアーの大切さを強く訴えた。プロ・プレイヤーズ・クラブやプロツアー殿堂の制度は彼が提唱したものであり、こうして彼自身も殿堂入りすることになった。その活動時期の短さにも関わらず、ビューラーが殿堂入りするかどうかは今年の殿堂投票で最もホットな話題になった。その結果を誰よりも予想できなかったのは、他ならぬビューラー自身だった。

「自身の殿堂入りについては、ここ数年ずっと考えてきました」と、ビューラーは殿堂入りの知らせを受けた翌日のインタビューで語る。「はじめはたぶん殿堂入りできるんじゃないかと思っていましたが、ベン・ルービン/Ben Rubinや藤田 剛史のようなプレイヤーが着実に実績を積み上げていくのにつれてその期待は減り、五分五分まで下がりました。もし先週の私に尋ねていたら、殿堂入りしない方に賭けていたと思います(それも殿堂入りの可能性が低いことに対する心理的防衛に過ぎませんが)。殿堂入りの知らせを聞いた瞬間、あまりに大きな出来事を前に言葉にならない気持ちになり、今でもその感覚が残っています。殿堂入りは、私が人生を捧げると決めた道をいつでも確かめられる道標です――マジックは私という人間の大部分を作りました。そのことをこれからもずっと覚えていられるというのは、本当に光栄なことです」

 ビューラーはウィザーズ社員としては2人目の殿堂顕彰者だが、選出時点で働き続けているのは彼が初めてだった。先人のアラン・カマー/Alan Comerは、殿堂投票時点ではウィザーズに戻る前であり、他の仕事に就いてプレイヤー復帰を果たしていた。ウィザーズ社員のプレイ問題について、ビューラーは他の解決策を望んでいた。

「実は1997年から1度もプロツアーを欠席していないんですよ。プロツアー連続参加は10年にわたり、これは殿堂顕彰者のラファエル・レヴィ/Raphael Levyよりも良い記録です」とビューラーは言い、殿堂セレモニー後はトーナメントセンターのビデオカバレージ部門を統括する以外のことを望んだ。「世界選手権でプレイしたいですね。仕事は本当に楽しくて大好きですが、それでも競技のスリルが恋しくなったり、(会場へ足を踏み入れたときの)アドレナリンが出る感覚が恋しくなったり、また実力を証明したくなったりします。今のところウィザーズを辞める以外の解決策は見つかっていませんが、周りにはいつも『私が退職する頃でもプロツアーが行われているのが仕事の目標だ』と言っています。私がこれから取り組むべき新しい使命は、ひとつだけ例外を設けたプロツアーを開催することについて意見交換をすることですね……殿堂顕彰を受ける週末に限り、ウィザーズ社員もプロツアーに出場できるというルールでやりたいです。これなら誰も文句を言わないのではないかと思うのですが、いかがでしょう?」

「もし今後ウィザーズ社を離れることがあれば、そのときはプロツアーへ復帰したいという欲求と正面から向き合うつもりです。許してもらえるなら、世界選手権に本気で出るつもりですから」とビューラーは続ける。「今はだいぶ腕が鈍っていると思いますが、また取り戻せると信じています。その日が来るまでは、プロツアー期間中の深夜に行われているドラフト・イベントへの参加を続けたいと思います」

 ビューラーが優勝したエクステンデッドのプロツアーへの参加権利は、PTQ(プロツアー予選)優勝によってもたらされた。

「『ミラージュ』ブロック構築で行われたPTQで、私は《時の砂》と《平衡》を用いるロック・デッキを使って優勝しました。その原型は、『Origins』で以前行われたPTQで目にしたデッキです。そこでは結果的に負けましたが、それを大きく調整したんです」

 ビューラーに一番の思い出を尋ねると、やはりと言うべきか優勝という最高の形で終えることができたデビュー戦を挙げた。しかしその大会では、開幕から殿堂顕彰者との厳しい戦いに挑むことになり、勇気を試されたという。

「第1回戦の対戦組み合わせから記憶に残っていますよ。相手を確認しに行くと、なんとダーウィン・キャスルだったんです。それでも私は『望むところだ、やってやる……』と戦いに臨み、蓋を開けてみれば2ゲーム連取で勝てました。その瞬間思ったんです、『こっちのデッキの方が強かった……プロツアーでも通用するかも』と」

 そしてその週末の最後の戦いで、嬉しい出来事が起きた。ビューラーはその試合を次のように語る。

「対戦相手のデヴィッド・ミルス/David Millsは、言葉に詰まって『ど、ど、どういうこと?』と口にしました。《ドワーフ鉱夫》で私の土地は《沼》2枚のみになっており、ロックが決まったと思っていたのでしょう。その状況で私は《Lake of the Dead》を置き、X=4の《生命吸収》をミルスへ放ったのです。このプレイでプロツアー優勝が決まったことには、私も本当に驚きました――心の中では、次の第5ゲームのサイドボーディングをどうしようか考えていましたから。もし彼が《対抗呪文》を持っていないことを知っていたら、5ターンくらい前に《ドワーフ鉱夫》へ撃っていましたよ。他にも可能性は無限にありました。準優勝のミルスは、たぶんその後夜通しドラフトをして朝食に出かけたことでしょう。17位タイくらいの成績に終わったときのように」

 ビューラーにとって、殿堂入りはプレイヤーとしての彼とウィザーズ社員としての彼の両方に大きな意味があり、そのふたつを味わえる幸運を噛み締めた。

「殿堂入りは、今後の人生を通して大切にしたい栄誉です。殿堂リングは常に持ち歩いて、ある分野で世界の頂点に立った自分を忘れないようにします」

「私は大の野球ファンで、とりわけ統計データを見て世代を超えてプレイヤーたちを比較するのが大好きです。つまりプロツアー殿堂のアイデアは、私がいつも楽しんでいたことから生まれたんです。プロツアーが始まって3、4年ほど経った頃には、ビールを飲んだりパックを開けたりしながら話すネタとして『史上最強プレイヤー議論』はありました。3年前に会議の場でアイデアを出すよりも先に、私の中にはうっすらとその考えはあったのでしょう。私のアイデアを聞くと、会議で同席していた誰かが言いました。『そういえばプロツアー10周年だね』と。『殿堂』を創立するこの上ないタイミングでした。これは私にも適用されるのかな、と3~4秒考えましたよ」

「私自身の経験が仕事に偏った見方を与えるのは良くないと考えることもありますが、同時に、その偏りこそ私が雇われた理由だと理解しています! ウィザーズは社内にも多くの顧客がいるため、さまざまな製品やプロモーションに対してプレイヤーが考えていることや感じていることを受け取りやすく……働きがいのある素晴らしい会社です」

最後にプレイヤーとしてのキャリアとウィザーズ社員としてのキャリアを振り返って感謝したい人物を尋ねると、ビューラーは以下のように話を締めくくった。

「マジックに関わるすべての人に感謝します。どうしてもひとりだけ挙げるなら、妻のデル/Delへ。これまでの16年間、彼女は私がさまざまな趣味に没頭し夢中になっている姿を見ながらも、広い心で私を支えてくれました。中でもマジックは、私たちの生活を根本から変えるほどのものでした。そのゲームに携わる道を彼女とともに歩めたことを、本当に嬉しく思います」

THE RECORD

プロツアー プロツアー・シカゴ1997:優勝(エクステンデッド)
グランプリ グランプリ・アトランタ1998:優勝(ロチェスター・ドラフト)
グランプリ・アントワープ1998:第5位(ブースタードラフト)
グランプリ・インディアナポリス1998:第5位(ブースタードラフト)
グランプリ・ボストン1998:第2位(ブロック構築)
グランプリ・リスボン1998:第3位(ブロック構築)
グランプリ・ウィーン1999:第5位(エクステンデッド)
グランプリ・カンザスシティ1999:第7位(エクステンデッド)
その他 1997-1998年度ルーキー・オブ・ザ・イヤー

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