HALL OF FAME
パウロ・ヴィター・ダモ・ダ・ロサ Paulo Vitor Damo da Rosa
選出 | 2012年 |
---|---|
出身 | ブラジル、ポルトアレグレ |
プロツアー・デビュー | 世界選手権2003 |
生涯獲得賞金 | 【記載なし】 |
生涯獲得プロ・ポイント | 369点 |
プロツアー・サンファン2010優勝を含め、プロツアー・トップ8入賞9回。プレイヤー・オブ・ザ・イヤー・レースで5度にわたり10位以内の成績を収める。グランプリでは、グランプリ・シンガポール2011の優勝を含めて12回のトップ8入賞。南米地域初のプロツアー殿堂入り。スーパー・チーム「Channel Fireball」の中心的人物であり、ライターとしても人気を博す。
PROFILE プロフィール
ブラジルのパウロ・ヴィター・ダモ・ダ・ロサは、プロツアー・チャールストン2006でチーム「Raaala Pumba」のセルソ・ザンピエーレ/Celso Zampereとウィリー・エデル/Willy Edelとともに一躍その名を競技シーンへ知らしめた。前シーズンから幾度となく賞金圏内に入り続けたすえの結実の瞬間だった。ダモ・ダ・ロサがプロツアーへの旅をするようになったのは、プロツアー予選(PTQ)で航空券を得られるようになってからのことだった――赤道を越えて旅をするのは費用の点で難しかったのだ。そして多くの活躍を見せた彼は、ブラジルで開催されたグランプリの場で殿堂入りの連絡を受けるに至ったのだ。
「記事やTwitterで公表された投票先を見て、殿堂入りの可能性は高いと思っていました」と、今年の殿堂投票の結果についてダモ・ダ・ロサは語る。「それでもグランプリ・サンパウロ2012で殿堂入りの知らせを受けたときは驚きました。金曜日に他の候補者の結果とともに発表されると思っていたので。ウィザーズの担当者がいきなり私の手を握ってお祝いの言葉をかけたとき、しばらく何が起きているのかわかりませんでしたよ。その意味がわかった瞬間、『やり遂げた』という想いと安心感が押し寄せてきました」
プロツアーを観戦している者なら、ダモ・ダ・ロサが選出されたことに驚くことはないだろう。殿堂入りの資格を得るよりはるか以前に基準となるプロ・ポイント100点を得ていた彼の名前は、殿堂投票のたびにいつも挙がっていた。これまでの10年間で9度ものプロツアー・トップ8入賞を記録している彼は、ほとんど毎シーズン、プロツアー・サンデーの舞台に立っていることになる。
そんなダモ・ダ・ロサのプロツアー・デビューは、レーティングによる招待を受けた世界選手権2003だった。
「あのときのことはほとんど全部記憶に残っています……南米地域のレーティングで参加権利を得て(当時は上位8名が招待されました)、そのとき招待された全員の旅費を『Devir』という会社が負担してくれました」と、ダモ・ダ・ロサは当時の思い出を語る。「それからスペインのリゾート地でポルトガル勢やスペイン勢と合流し、ともに練習を行いました。自信はありませんでしたが、64位以内に入れてとても嬉しかったのを覚えています。最終ラウンドでダーウィン・キャスル/Darwin Kastleを破ったのも良い思い出です」
ダモ・ダ・ロサはデビュー戦から64位以内という成績を収め、その後も賞金圏内に入る結果を残し続けた。そしてついに、プロツアー・チャールストン2006で飛躍のときを迎えた。それからは世界最高のマジック・プレイヤーへの道をひた走り、プロツアー・トップ8入賞を懸けた最後の試合で絶対に当たりたくないプレイヤーと評されるまでになった――事実、彼はこれまでのキャリアの中で、トップ8入賞を懸けた戦いで負けたことがないのだ。こうして見ると彼がまたたく間に世界有数の優れたプレイヤーになったように思えるが、ダモ・ダ・ロサ自身はそう考えていないという。
「一歩ずつゆっくり進んできましたよ――少しずつ強くなって、他のプレイヤーを追い越していったんです。経験値を貯めてあるとき一気にレベルアップするようなものではありません」と、常に論理的なダモ・ダ・ロサは言う。「結果は重要じゃありません。私は今でも『さっきのゲームはすごく良かった――他のプレイヤーなら違う展開になっていたな』とか『さっきのゲームはひどかった――もっとうまくできたはずだ』とか考えます。そのゲームで勝ったか負けたかは関係ありません。正しくプレイできたかどうかだけが大切なのです。だから私は、特定の大会を指して『この大会は良かった』とは口にしません」
パウロはプロツアー・サンファン2010で自身初のプロツアー優勝を果たした。それは彼にとって、最高の思い出のひとつになっている。
「プロツアー・チャールストン2006でウィリーとセルソとともに初めてのトップ8入賞を果たせたことは素晴らしい思い出です。それから、プロツアー・サンファン2010で初めてのプロツアー優勝を達成できたことも忘れられない記憶ですし、初めてパリの地にブラジル国旗を立てられたのも最高の思い出です」
こうして今後すべてのプロツアーへの参加権利を得ることになったダモ・ダ・ロサだが、それを理由にアクセルを踏む足を緩めるつもりはなさそうだ。彼は今もなお、毎シーズン確固たる目標をもって取り組んでいる。
「今後もプラチナ・レベル到達に挑戦し続けます。とはいえ未来のことはわかりませんが」ダモ・ダ・ロサはそう言うと、続けて殿堂入りの意味を語った。
「私にとって多くの意味があります。本当に光栄なことです。マジックの歴史に永遠に残る足跡を付けることができました。今後の人生の中でどんな決断をしても、それがどんな結果になっても、どれだけ長い道のりをたどっても、私はいつもプロツアー殿堂の一員です。今はもちろん、これからもずっと私の人生の一部になるでしょう」
ダモ・ダ・ロサが今後さらにプロツアー・トップ8入賞回数を伸ばし、ジョン・フィンケル/Jon Finkelとカイ・ブッディ/Kai Buddeというマジックの生ける伝説たちしか到達していない「トップ8入賞回数ふた桁」の高みへ登っても、驚くことではないだろう。彼はこれからもマジックというゲームを深く追求し続け、至高の戦略記事を私たちに届けてくれるはずだ。
そしてダモ・ダ・ロサは、最後にこれまでの道のりを支えてくれた人たちへ感謝の言葉を紡いだ。
「感謝したい人はたくさんいますが、中でも第一に伝えたいのは母です。彼女は私がマジックを始めてから今に至るまでの最大の支援者であり、きっとこれからもそうだと思います。私が若いころ――若いというより子供のころ、彼女は私をひとり店舗に置いていくことができず、私がマジックで遊んでいる間ずっと待っていました。初めての大会遠征のときも、私が勝てる根拠なんて一切ないのに飛行機のチケットを買ってくれました。彼女がいなければ、大会へひとりで行くことはもちろん、マジックを始めてさえいなかったでしょう」
「それから、ウィリーへ――私が『マジックが上手いやつ』から『プロ・プレイヤー』になれたのは、彼によるところが大きかったと思います。彼はプレイングから世界中を旅するライフスタイルまで、私に多くのことを教えてくれました。兄のような存在です」
「最後に、LSV(ルイス・スコット=ヴァーガス/Luis Scott-Vargas)へ。ここ数年は私のマジック人生に欠かせない人になっています。彼がいなければ、『ChannelFireball』という強力なチームはなく、私も大好きな記事執筆をしていなかったでしょう。彼はまた、マジック以外でも親友として多くのものをもたらしてくれています」
「記事やTwitterで公表された投票先を見て、殿堂入りの可能性は高いと思っていました」と、今年の殿堂投票の結果についてダモ・ダ・ロサは語る。「それでもグランプリ・サンパウロ2012で殿堂入りの知らせを受けたときは驚きました。金曜日に他の候補者の結果とともに発表されると思っていたので。ウィザーズの担当者がいきなり私の手を握ってお祝いの言葉をかけたとき、しばらく何が起きているのかわかりませんでしたよ。その意味がわかった瞬間、『やり遂げた』という想いと安心感が押し寄せてきました」
プロツアーを観戦している者なら、ダモ・ダ・ロサが選出されたことに驚くことはないだろう。殿堂入りの資格を得るよりはるか以前に基準となるプロ・ポイント100点を得ていた彼の名前は、殿堂投票のたびにいつも挙がっていた。これまでの10年間で9度ものプロツアー・トップ8入賞を記録している彼は、ほとんど毎シーズン、プロツアー・サンデーの舞台に立っていることになる。
そんなダモ・ダ・ロサのプロツアー・デビューは、レーティングによる招待を受けた世界選手権2003だった。
「あのときのことはほとんど全部記憶に残っています……南米地域のレーティングで参加権利を得て(当時は上位8名が招待されました)、そのとき招待された全員の旅費を『Devir』という会社が負担してくれました」と、ダモ・ダ・ロサは当時の思い出を語る。「それからスペインのリゾート地でポルトガル勢やスペイン勢と合流し、ともに練習を行いました。自信はありませんでしたが、64位以内に入れてとても嬉しかったのを覚えています。最終ラウンドでダーウィン・キャスル/Darwin Kastleを破ったのも良い思い出です」
ダモ・ダ・ロサはデビュー戦から64位以内という成績を収め、その後も賞金圏内に入る結果を残し続けた。そしてついに、プロツアー・チャールストン2006で飛躍のときを迎えた。それからは世界最高のマジック・プレイヤーへの道をひた走り、プロツアー・トップ8入賞を懸けた最後の試合で絶対に当たりたくないプレイヤーと評されるまでになった――事実、彼はこれまでのキャリアの中で、トップ8入賞を懸けた戦いで負けたことがないのだ。こうして見ると彼がまたたく間に世界有数の優れたプレイヤーになったように思えるが、ダモ・ダ・ロサ自身はそう考えていないという。
「一歩ずつゆっくり進んできましたよ――少しずつ強くなって、他のプレイヤーを追い越していったんです。経験値を貯めてあるとき一気にレベルアップするようなものではありません」と、常に論理的なダモ・ダ・ロサは言う。「結果は重要じゃありません。私は今でも『さっきのゲームはすごく良かった――他のプレイヤーなら違う展開になっていたな』とか『さっきのゲームはひどかった――もっとうまくできたはずだ』とか考えます。そのゲームで勝ったか負けたかは関係ありません。正しくプレイできたかどうかだけが大切なのです。だから私は、特定の大会を指して『この大会は良かった』とは口にしません」
パウロはプロツアー・サンファン2010で自身初のプロツアー優勝を果たした。それは彼にとって、最高の思い出のひとつになっている。
「プロツアー・チャールストン2006でウィリーとセルソとともに初めてのトップ8入賞を果たせたことは素晴らしい思い出です。それから、プロツアー・サンファン2010で初めてのプロツアー優勝を達成できたことも忘れられない記憶ですし、初めてパリの地にブラジル国旗を立てられたのも最高の思い出です」
こうして今後すべてのプロツアーへの参加権利を得ることになったダモ・ダ・ロサだが、それを理由にアクセルを踏む足を緩めるつもりはなさそうだ。彼は今もなお、毎シーズン確固たる目標をもって取り組んでいる。
「今後もプラチナ・レベル到達に挑戦し続けます。とはいえ未来のことはわかりませんが」ダモ・ダ・ロサはそう言うと、続けて殿堂入りの意味を語った。
「私にとって多くの意味があります。本当に光栄なことです。マジックの歴史に永遠に残る足跡を付けることができました。今後の人生の中でどんな決断をしても、それがどんな結果になっても、どれだけ長い道のりをたどっても、私はいつもプロツアー殿堂の一員です。今はもちろん、これからもずっと私の人生の一部になるでしょう」
ダモ・ダ・ロサが今後さらにプロツアー・トップ8入賞回数を伸ばし、ジョン・フィンケル/Jon Finkelとカイ・ブッディ/Kai Buddeというマジックの生ける伝説たちしか到達していない「トップ8入賞回数ふた桁」の高みへ登っても、驚くことではないだろう。彼はこれからもマジックというゲームを深く追求し続け、至高の戦略記事を私たちに届けてくれるはずだ。
そしてダモ・ダ・ロサは、最後にこれまでの道のりを支えてくれた人たちへ感謝の言葉を紡いだ。
「感謝したい人はたくさんいますが、中でも第一に伝えたいのは母です。彼女は私がマジックを始めてから今に至るまでの最大の支援者であり、きっとこれからもそうだと思います。私が若いころ――若いというより子供のころ、彼女は私をひとり店舗に置いていくことができず、私がマジックで遊んでいる間ずっと待っていました。初めての大会遠征のときも、私が勝てる根拠なんて一切ないのに飛行機のチケットを買ってくれました。彼女がいなければ、大会へひとりで行くことはもちろん、マジックを始めてさえいなかったでしょう」
「それから、ウィリーへ――私が『マジックが上手いやつ』から『プロ・プレイヤー』になれたのは、彼によるところが大きかったと思います。彼はプレイングから世界中を旅するライフスタイルまで、私に多くのことを教えてくれました。兄のような存在です」
「最後に、LSV(ルイス・スコット=ヴァーガス/Luis Scott-Vargas)へ。ここ数年は私のマジック人生に欠かせない人になっています。彼がいなければ、『ChannelFireball』という強力なチームはなく、私も大好きな記事執筆をしていなかったでしょう。彼はまた、マジック以外でも親友として多くのものをもたらしてくれています」
THE RECORD 戦績
プロツアー | プロツアー・チャールストン2006:準優勝(チーム・ブロック構築) 世界選手権2006:第6位(混合フォーマット) プロツアー・ハリウッド2008:第8位(スタンダード) 世界選手権2008:第5位(混合フォーマット) プロツアー・オースティン2009:第8位(エクステンデッド) プロツアー・サンファン2010:優勝(スタンダード/ブースタードラフト) 世界選手権2010:第3位(混合フォーマット) プレイヤー選手権2012:第3位(混合フォーマット) プロツアー『闇の隆盛』:準優勝(スタンダード/ブースタードラフト) |
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グランプリ | グランプリ・ポルトアレグレ2004:第6位(ロチェスター・ドラフト) グランプリ・デイトナビーチ2007:準優勝(リミテッド) グランプリ・サンフランシスコ2007:第3位(ブロック構築) グランプリ・バルセロナ2009:第3位(スタンダード) グランプリ・シアトル2009:第3位(スタンダード) グランプリ・ポートランド2010:第8位(リミテッド) グランプリ・ヒューストン2010:第6位(エクステンデッド) グランプリ・サンティアゴ2011:第6位(リミテッド) グランプリ・プロビデンス2011:第4位(レガシー) グランプリ・シンガポール2011:優勝(スタンダード) グランプリ・オーランド2012:第3位(スタンダード) グランプリ・ボルチモア2012:第5位(スタンダード) |