HALL OF FAME
大礒 正嗣 Masashi Oiso
選出 | 2012年 |
---|---|
出身 | 日本、広島 |
プロツアー・デビュー | プロツアー・ボストン2002 |
生涯獲得賞金 | 【記載なし】 |
生涯獲得プロ・ポイント | 257点 |
プロツアー・トップ8入賞6回。複数のプロツアー・トップ8入賞は日本人として初の快挙。2002-2003年シーズンのルーキー・オブ・ザ・イヤー獲得。グランプリ・トップ8入賞は、グランプリ・ボストン2005での優勝を含め10回。世界選手権2005では日本代表の一員として団体戦優勝を果たす。
PROFILE プロフィール
大礒 正嗣がプロツアー・シーンに姿を見せ始めたのは、2002-2003年シーズンのことであった。彼はデビューしたシーズンの終わりに、プロツアー・サンデー進出も果たした。プロツアー横浜2003準優勝。プロツアー参加1年目でのこの快挙は、日本にスター・プレイヤーが生まれることを予感させた。
大礒はそのシーズン、日本人としては2人目となるルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。その快進撃は留まることなく、彼は日本人プレイヤーとして初めて複数のプロツアー・トップ8入賞を果たした。当時はまだ日本人プレイヤーがプロツアー・トップ8に姿を見せるのは珍しいことであり、ましてや2シーズンで3回というのは並外れた偉業であった。
大礒は6度のプロツアー・トップ8入賞を達成しながらも、優勝がないことを理由に殿堂入りについては不安があったようだ。
「自信はありませんでした。私にはプロツアー優勝経験もプレイヤー・オブ・ザ・イヤー獲得経験もありませんから。それでもたくさんの人が私に投票してくれて、本当に嬉しく思います!」
彼の獲得したルーキー・オブ・ザ・イヤーのトロフィーは、最高の思い出のひとつとして輝き続けている。「クレイグ・クレンペルズ/Craig Krempelsとのポイント・レースはかなりの接戦でした。プロツアー・横浜2003で、私の方がちょっとラッキーだったんです。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの称号には愛着がありますね。私が獲得した数少ないタイトルですし、私のニックネーム『ルーキー』の由来にもなっていますから!」
2003-2004年シーズンのプロツアー・サンディエゴ2004において、大礒は「勝てばトップ8」という試合で致命的な敗北を喫した。しかしそこで彼は、のちの殿堂顕彰者から何物にも代えがたい大切な教えを受けた。
「結果的にタイブレークでトップ8に滑り込んだんです」と、大礒は記憶を呼び起こす。「予選ラウンド最終戦を前にして、5位につけていました。でも素晴らしいデッキを操るニコライ・ヘルツォーク/Nicolai Herzogに負けてしまって。みっともないことに、私は彼に無愛想な態度をとりました。それでも彼は私のトップ8入賞を喜んでくれたんです。感激しましたよ」
2004-2005年シーズンに入ると、大礒は早々にプロツアー・コロンバス2004で4度目のトップ8入賞を果たした。この大会では他にふたりの日本人プレイヤーがプロツアー・サンデーへ進出しており、これを皮切りにこの年すべてのプロツアーで日本人プレイヤーがトップ8に名を刻むことになる。特筆すべきは、この年が「長いシーズン」であったことだ。これまでふたつのシーズンが部分的に重なっていたものをひとつにまとめたため、このシーズンはプロツアーが7回開催されたのだ。大礒はこの年から実生活との兼ね合いが必要になり、プロツアーへの参加をひとつ見送った。それでもなお、彼はこのシーズンのプレイヤー・オブ・ザ・イヤー・レースで、殿堂仲間の津村 健志、オリヴィエ・ルーエル/Olivier Ruelに続き第3位という成績を収めた。3人は歴史に残る熾烈なレースを繰り広げ、横浜で行われた世界選手権の最後の最後まで大磯にもタイトルを手にするチャンスがあった。
今となってはプレイヤーが世界中どこのグランプリに参加しても特別珍しいことではなくなったが、2000年代の中頃は、北米地域で行われる大会に日本人プレイヤーがいることはまれだった。その中で大礒は、エクステンデッドで行われたグランプリ・ボストン2005に日本人プレイヤーの一団を率いて参加し、マジック・コミュニティ全体に衝撃を与えた。さらに驚くべきことに、大礒はそのグランプリのタイトルをさらっていったのだ。
この劇的な優勝を含め、大礒はグランプリ・トップ8入賞を10回達成している。また、プロツアー・トップ8入賞は6回。他に日本選手権2008優勝、そして横浜で行われた世界選手権2005では日本代表チームの一員となり、団体戦優勝を果たした。諸藤 拓馬と志村 一郎を擁するこのチームは、プロツアー常連のアントニノ・デ・ロサ/Antonino De Rosa、ニール・リーヴス/Neil Reeves、ジョン・ソンネ/Jon Sonneで結成されたアメリカ代表チームを打ち破ったのだ。
大礒は殿堂顕彰の栄誉を誇りに思うと同時に、残した仕事を完遂するためのチャンスであると考え、毎シーズン少なくともひとつはプロツアーに参加する、と今後のプランを明かした。
「これからも『プロツアー優勝』に向かって挑戦できて、本当に嬉しいです!」と大礒は高らかに言う。
そして大磯は、殿堂にその名を刻む栄誉と感謝の念を多くの人に伝えたいとしながらも、とりわけ同時に殿堂入りしたあるプレイヤーへの想いを語った。
「私のマジック人生には、感謝すべき『師匠』がたくさんいます。中でも津村 健志は外せません」と大礒は言う。「彼は親友であり、最大のライバルです――今でも、どちらが先にプロツアーを勝ち取るか競争しているんですよ。今回私たちがふたりとも殿堂入りできたのは、長きにわたる切磋琢磨のおかげだと思います。それから、彼は私の『師匠』でもあります。私が残した結果のいくつかは(例えば日本選手権2008などは)、環境について色々と教えてくれた彼のおかげなんです」
大礒はそのシーズン、日本人としては2人目となるルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。その快進撃は留まることなく、彼は日本人プレイヤーとして初めて複数のプロツアー・トップ8入賞を果たした。当時はまだ日本人プレイヤーがプロツアー・トップ8に姿を見せるのは珍しいことであり、ましてや2シーズンで3回というのは並外れた偉業であった。
大礒は6度のプロツアー・トップ8入賞を達成しながらも、優勝がないことを理由に殿堂入りについては不安があったようだ。
「自信はありませんでした。私にはプロツアー優勝経験もプレイヤー・オブ・ザ・イヤー獲得経験もありませんから。それでもたくさんの人が私に投票してくれて、本当に嬉しく思います!」
彼の獲得したルーキー・オブ・ザ・イヤーのトロフィーは、最高の思い出のひとつとして輝き続けている。「クレイグ・クレンペルズ/Craig Krempelsとのポイント・レースはかなりの接戦でした。プロツアー・横浜2003で、私の方がちょっとラッキーだったんです。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの称号には愛着がありますね。私が獲得した数少ないタイトルですし、私のニックネーム『ルーキー』の由来にもなっていますから!」
2003-2004年シーズンのプロツアー・サンディエゴ2004において、大礒は「勝てばトップ8」という試合で致命的な敗北を喫した。しかしそこで彼は、のちの殿堂顕彰者から何物にも代えがたい大切な教えを受けた。
「結果的にタイブレークでトップ8に滑り込んだんです」と、大礒は記憶を呼び起こす。「予選ラウンド最終戦を前にして、5位につけていました。でも素晴らしいデッキを操るニコライ・ヘルツォーク/Nicolai Herzogに負けてしまって。みっともないことに、私は彼に無愛想な態度をとりました。それでも彼は私のトップ8入賞を喜んでくれたんです。感激しましたよ」
2004-2005年シーズンに入ると、大礒は早々にプロツアー・コロンバス2004で4度目のトップ8入賞を果たした。この大会では他にふたりの日本人プレイヤーがプロツアー・サンデーへ進出しており、これを皮切りにこの年すべてのプロツアーで日本人プレイヤーがトップ8に名を刻むことになる。特筆すべきは、この年が「長いシーズン」であったことだ。これまでふたつのシーズンが部分的に重なっていたものをひとつにまとめたため、このシーズンはプロツアーが7回開催されたのだ。大礒はこの年から実生活との兼ね合いが必要になり、プロツアーへの参加をひとつ見送った。それでもなお、彼はこのシーズンのプレイヤー・オブ・ザ・イヤー・レースで、殿堂仲間の津村 健志、オリヴィエ・ルーエル/Olivier Ruelに続き第3位という成績を収めた。3人は歴史に残る熾烈なレースを繰り広げ、横浜で行われた世界選手権の最後の最後まで大磯にもタイトルを手にするチャンスがあった。
今となってはプレイヤーが世界中どこのグランプリに参加しても特別珍しいことではなくなったが、2000年代の中頃は、北米地域で行われる大会に日本人プレイヤーがいることはまれだった。その中で大礒は、エクステンデッドで行われたグランプリ・ボストン2005に日本人プレイヤーの一団を率いて参加し、マジック・コミュニティ全体に衝撃を与えた。さらに驚くべきことに、大礒はそのグランプリのタイトルをさらっていったのだ。
この劇的な優勝を含め、大礒はグランプリ・トップ8入賞を10回達成している。また、プロツアー・トップ8入賞は6回。他に日本選手権2008優勝、そして横浜で行われた世界選手権2005では日本代表チームの一員となり、団体戦優勝を果たした。諸藤 拓馬と志村 一郎を擁するこのチームは、プロツアー常連のアントニノ・デ・ロサ/Antonino De Rosa、ニール・リーヴス/Neil Reeves、ジョン・ソンネ/Jon Sonneで結成されたアメリカ代表チームを打ち破ったのだ。
大礒は殿堂顕彰の栄誉を誇りに思うと同時に、残した仕事を完遂するためのチャンスであると考え、毎シーズン少なくともひとつはプロツアーに参加する、と今後のプランを明かした。
「これからも『プロツアー優勝』に向かって挑戦できて、本当に嬉しいです!」と大礒は高らかに言う。
そして大磯は、殿堂にその名を刻む栄誉と感謝の念を多くの人に伝えたいとしながらも、とりわけ同時に殿堂入りしたあるプレイヤーへの想いを語った。
「私のマジック人生には、感謝すべき『師匠』がたくさんいます。中でも津村 健志は外せません」と大礒は言う。「彼は親友であり、最大のライバルです――今でも、どちらが先にプロツアーを勝ち取るか競争しているんですよ。今回私たちがふたりとも殿堂入りできたのは、長きにわたる切磋琢磨のおかげだと思います。それから、彼は私の『師匠』でもあります。私が残した結果のいくつかは(例えば日本選手権2008などは)、環境について色々と教えてくれた彼のおかげなんです」
THE RECORD 戦績
プロツアー | プロツアー横浜2003:準優勝(ブースター・ドラフト) プロツアー・ニューオーリンズ2003:第4位(エクステンデッド) プロツアー・サンディエゴ2004:第8位(ブースター・ドラフト) プロツアー・コロンバス2004:第6位(エクステンデッド) プロツアー・ロンドン2005:第5位(ブースター・ドラフト) プロツアー横浜2007:第7位(ブロック構築) |
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グランプリ | グランプリ宇都宮2002:第4位(ロチェスター・ドラフト) グランプリ京都2003:第3位(リミテッド) グランプリ香港2004:第3位(リミテッド) グランプリ北京2005:準優勝(エクステンデッド) グランプリ北九州2005:第4位(エクステンデッド) グランプリ新潟2005:第4位(ブロック構築) グランプリ台北2005:第7位(ブロック構築) グランプリ松山2005:準優勝(リミテッド) グランプリ・ボストン2005:優勝(エクステンデッド) グランプリ北九州2009:準優勝(リミテッド) |