HALL OF FAME

ブライアン・キブラー

Brian Kibler

選出 2010年
出身 アメリカ合衆国、カリフォルニア州オーシャンサイド
プロツアー・デビュー プロツアー・シカゴ1997
生涯獲得賞金 【記載なし】
生涯獲得プロ・ポイント 248点

マジック史上初のプロツアーであるプロツアー・ニューヨーク1996のジュニア部門に15歳で出場。自身初のプロツアー・サンデーの舞台で《煽動するものリース》に《アルマジロの外套》をエンチャントして会場を沸かせ、「ドラゴンマスター」として広く知られるようになる。2009年にプロツアーの舞台へ復帰すると、その後参加した6回のプロツアーで3度ものトップ8入賞を記録し、プロツアー・オースティン2009では優勝を果たした。そのキャリアを通し、ライターとして、解説者として、ソーシャルメディアのご意見番として、多くの活躍を見せている。

PROFILE

ブライアン・キブラーのプロ・キャリアは3つに分けられ、その原点はニューヨーク・シティで開催された史上初のプロツアーのジュニア部門までさかのぼる。彼がプロツアー本戦に出場するようになったのは、史上最も熾烈なグランプリ決勝ラウンドを勝ち抜いて手にしたプロツアー・シカゴ1997からだった。

「最初のプロツアーのジュニア部門に参加しました。母に電話をしてもらい、無事『予選通過』できたんです。すごいでしょ?」と、キブラーは殿堂入りへの第一歩を笑いながら話す。「しかし初めて『本当の』プロツアーの参加権利を得たときは本当に骨が折れましたよ。グランプリ・トロント1997で優勝して獲得したんですが、そのときトップ8に入賞した面々はみんなその後ウィザーズ社で働いています。殿堂顕彰者マイク・チュリアン/Mike Turian、プロツアー王者マット・プレイス/Matt Place、それから狂気の天才エリック・ラウアー/Erik Lauerもいました。プロツアー・シカゴ1997では、ジョン・フィンケル/Jon Finkelとほとんど同じ結論に至って組み上げたデッキで挑みましたが、彼が第3位という結果を出して世界最高のプレイヤーとなる第一歩を踏み出したのに対し、私は舞台に上がれない日々を数年過ごすことになりました」

 デビューした年に2回プロツアーへ参加し、プロツアー・ロサンゼルス1998では64位以内に入る成績を残したキブラーだが、その後は奮わず、彼が再びプロツアーの舞台に姿を現したのは1999-2000年シーズンの終わりに行われた世界選手権でのことだった。この大会で64位以内に入った彼は、続くシーズンのプロツアー・シカゴ2000で自身初のトップ8入賞を果たし、そこで「ドラゴンマスター」の愛称を定着させた。準々決勝でのちの殿堂顕彰者ズヴィ・モーショヴィッツ/Zvi Mowshowitzとの戦いに挑んだキブラーは……ズヴィと観衆を巻き込み、名場面を生み出したのだ。

あの有名な《アルマジロの外套》をサイド・インしつつ、ギャラリーを指さしてキブラーは言い放つ。「子供の夢みたいなことを実現するのが俺の夢だ。彼らが見たいんだってさ。《アルマジロの外套》を付けた《煽動するものリース》がレッド・ゾーンから飛び出して、君に襲いかかるのを」

その言葉通りキブラーは《アルマジロの外套》を付けた《煽動するものリース》でその試合を制し、世界中のマジック・プレイヤーに強烈な印象を与えた。ここで記録した第3位という成績は、彼のキャリア中盤における最高成績だった。この時期は努力が実を結び、他にもグランプリ・トップ8入賞5回(うち優勝2回)、アメリカ選手権トップ8入賞複数回を記録している。そのキャラクターが大いに愛されライターとしても人気を博したキブラーだが、しかし2004年の終わり頃に一度マジックから離れた――プロツアー殿堂が創設される1年前のことだった。

殿堂入りの資格を得てから数年は、キブラーは引退したプレイヤーとみなされて選出されなかった。だがある日、彼は突然新たな灯を点し、プロツアーの出場権利を求めてプロツアー予選(PTQ)へ戻ってきた。そして3度目のキャリアが始まるなり、プロツアー予選を勝ち抜き手に入れたプロツアー・ホノルル2009で彼は自身2度目のプロツアー・トップ8入賞を果たした。さらにその次のプロツアー・オースティン2009では、10年以上にわたって追い続けてきたプロツアー優勝の夢をついに叶えた。復帰してから参加した6回のプロツアーで、優勝1回を含め3度のトップ8入賞。さらに自身3度目のグランプリ優勝を含め、グランプリ・トップ8入賞2回。そして殿堂入り。これらすべてが、彼が再びPTQへ参加し始めてからわずか1年で成し遂げられたのだ。

「プロツアーに出場しなくなった直後にプロツアー殿堂が発表されて、『チャンスを逃した』と思いましたよ」と、キブラーは言う。「でも過去の成績が消えるわけではないし、もっと良い結果を出せるとも思っていました。私が最初に出場したころと比べて、プロツアーは大きく成長したと思います。マジックの印象がかなり良くなっていて、それから自分の生活が落ち着いていたことも手伝って、また集中して打ち込めました。そうでなければ戻っていなかったでしょう」

 再びプロツアー予選でプロツアーの権利を獲得するのは思っていた以上に厳しかった、とキブラーは認める。だから殿堂入りによって今後はその厳しい戦いに身を投じる必要がなくなったことを彼は喜んだ。

「はじめは冗談だったんです。『投票を集めて殿堂顕彰者になれば、もう土曜日に起きなくて済むな。じゃあPTQに出てみるか』と。プロツアーの舞台に戻ってからはすぐに結果を出せましたが、実はそこへ行くまでに苦労したんです。もう一度同じことをできるかはわかりません。だからその心配がなくなって嬉しいですね!」と、殿堂入りまでの道のりを語るキブラーであった。

千葉で行われる世界選手権にて開かれる殿堂セレモニーへ話が及ぶと、キブラーは謙虚に答えた。

「まだ信じられませんよ。殿堂セレモニーの舞台に立ったら、絶対に自分の頬をつねりますね――《ラノワールのエルフ》と《繁茂》、そして《大喰らいのワーム》が最強デッキだと考えていた13歳の子供に戻らないように。マジック以上に私の人生に影響を与えたものはありません。このゲームのおかげで私は世界を旅し、素晴らしい人々と出会い、多くの親友を得て、ゲーム制作者としてのキャリアを築くことができました。すべてはあの日、誰かがかっこいいカードを持っているのを目にして、興味を惹かれたおかげです」

「マジックが私の人生にもたらしてくれたものに毎日感謝しています。殿堂入りは、そんなマジックに何か足跡を残したいと努力したことの結晶だと思います」

 そしてキブラーは、これまでのキャリアを振り返って感謝したい人物を挙げていった。

「最高のテスト・パートナーにして私が出会った中で最も聡明な男、ベン・ルービン/Ben Rubinへ。マジックでの成功は決してひとりでは実現できません。ベンがいなければ私もここまでの成功は掴めませんでした。それから私のファンの皆さんへ(今も私のファンがいるというのは不思議な気分ですが)、いつもご支援、ご声援ありがとうございます」

「そして、私の一番のファンである母、キャシー/Kathyへ。残念ながら彼女は数年前にガンで亡くなったため、これを読むことはできません。子供の頃から夢を追う私を、彼女はいつも支えてくれました。たとえそのせいで、10代の息子が世界中を飛び回ることになっても。あらゆる意味で、彼女がいなければ私はここにいません。母さん、やったよ。この栄誉をすべてあなたに捧げます」

THE RECORD

プロツアー プロツアー・シカゴ2001:第3位(スタンダード)
プロツアー・ホノルル2009:第7位(ブロック構築)
プロツアー・オースティン2009:優勝(エクステンデッド)
プロツアー・アムステルダム2010:第6位(エクステンデッド)
グランプリ グランプリ・トロント1997:優勝(ブロック構築)
グランプリ・ヒューストン2002:準優勝(エクステンデッド)
グランプリ・タンパ2002:準優勝(ブースタードラフト)
グランプリ・ミルウォーキー2002:第6位(スタンダード)
グランプリ・ボストン2003:優勝(ブースタードラフト)
グランプリ・カンザスシティ2003:第4位(ロチェスター・ドラフト)
グラプリ・ワシントンD.C.2004:第4位(チーム・ロチェスター)
グランプリ・ニュージャージー2004:準優勝(ブロック構築)
グランプリ・ミネアポリス2009:第3位(ブースタードラフト)
グランプリ・仙台2010:優勝(スタンダード)

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