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ストーリー

Magic Story -未踏世界の物語-

大師の学徒

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大師の学徒

Kimberly J. Kreines / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori

2015年3月4日


 龍のいない歴史があった。ナーセットが、ジェスカイとして知られる氏族のカンを務める歴史があった。彼女が自身の内に大いなる潜在能力を感じていながらも、マルドゥのカン、兜砕きのズルゴの手にかかって死んだためにそれを解き放つことができなかった歴史があった。だがその歴史は去った。果てのない時へと永遠に失われた。残ったのはこの歴史。龍たちがタルキールの空に満ち、カンは存在せず、ジェスカイという氏族も存在せず、ズルゴは鐘を突いている歴史。だが一つ、変わらぬままに残されているものがある。ナーセットの内には神秘の力が燃えている――彼女を休みなく突き動かす潜在能力は、解放されたがっている。


「何もせずにいることを覚えて」 久遠の際でためらうナーセットの心に、母の言葉が泳いだ。

 ああ、それができればとどれほど願ったか! 未知を想い、未知へと飛び込むことを忘れられればとどれほど願ったか。皮膚は切望と期待で鳥肌が立ち、両脚は馴染み深い疼きに震えていた。物心ついて以来、ずっとそうだった。今それはただ増していた。身体が語りかけているかのようだった。目指したかった場所がある。長い間、ずっと目指してきた場所がある。

 かつて求めてきた何よりも、次の一歩を踏み出したいと思った。

 そこにはとても多くの物事が待っている。あまりにも多くの新しい、学ぶべき、見るべきことが。

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 ならば、何故行かない? 何が彼女を留めている?

 オジュタイ。

 彼のことを考えて、彼女は危うく我に返った。

 彼こそ、彼女がその際にしがみついている理由だった。これほど長い年月をしがみついている理由だった、その内なる疼きと戦いながら。

 オジュタイ。彼女の師。彼女の龍。

 ずっと、彼についてそのように考えたことはなかった。

 その欠片を拾い上げ、以前のように戻したいと願った。以前のように、彼女が今知る物事を知らなかった頃のように。彼こそ全てであり、彼が全てを知っており、その全てを彼女と共有すると約束した頃のように。


「新鮮な果物だよ! 蜜みたいに甘い林檎だよ!」

「土から抜いたばっかりの人参はいかがかね! まだ泥がついたままだよ。見てごらん!」

「焼き立てのパンだよ! 熱々のパンは最高だよ!」

 商人たちの叫び声、売り物の派手な色彩、そして食べ物のあまりに芳しい香り。それらはまるで壁のようで、市場は窮屈で、塞がれた、我慢できないものに感じられた。ナーセットの両脚の筋肉が引きつり、肺は息苦しさを感じた。彼女は衣服を引っ張った。それは彼女を締めつけていた。母がきつく縛りすぎたに違いなかった。

「じっとしてなさい」 母が上から口うるさく言った。「ひっくり返しちゃうでしょ」 彼女はナーセットには高すぎて見えない、山と積まれた林檎の頂上のあたりをじっと見定めていた。

 ナーセットはじっと立っていようとしたが、できなかった。彼女の内なる疼きが、動くことを求めていた。時々、彼女は自身がそのように取り乱すのを感じた。何かを数え、模様を探し、人々の表情を観察しようとした。だが彼女はその市場をとてもよく知っていた。店の数やその主人を知っていた。既に一通り知っていた。杖をついた男性がその日はあまり脚を引きずってはおらず、具合の悪い脚に普段よりも多くの体重をかけていた。先週、彼が薬草売りから購入した薬膏が痛みを和らげているのだろうとナーセットは考えた。肉屋の露店にはいつものように、板状の肉が三十枚以上吊り下げられている。その一枚ごとに平均十八本の筋がある。筋の数の平均は滅多に変化することはないが、時々大きな不一致もあった。混み合った露店の商人の袖には一様でない汚れがあり、衣服からは三本の糸がはぐれて垂れ下がっている。彼は衣服を荷車に引っかけてしまい、引き抜いて放したに違いない。そしてナーセットの目の前には六十八個の林檎が山と積まれている。それは山の容積から計算したもので、彼女には見えないが、十分に予測できた。彼女の母がそこから一個を選んだなら、六十七個になる。

 母は咳払いをし、独り言をつぶやき、指を一個の林檎から次の一個へと触れては次へ、不規則に選択しつつ、だが定めはしなかった。

 母は一個を選びそうにない、ナーセットは思った。ここを離れることはない。彼女は恐慌に陥った。視界が揺らぎ、耳鳴りがして、額が汗ばみ始めた。彼女は半狂乱で気を紛らわせる何かを探したが、見えるものは他に何もなかった。ナーセットの背丈は八歳としては低く、露店や人々の上を見通すことはできなかった。それはまるで、背の高い、汗まみれで臭う人々の果てしない迷路の中にいるようだった。

 彼女は閉じ込められていた。


アート:Daniel Ljunggren

 彼女は濃厚で鼻につく空気を深く肺まで吸おうともがいたが、十分にはできなかった。身体がひりつき、むずがゆくなった。まるで皮膚が警告しているようだった。長くはついていられないと、もし動かなければ皮膚は彼女から離れていき、なくなってしまうだろうと。行かなければならなかった。ここから出なければならなかった。

「これにして」 ナーセットは一番近くの林檎を指差した。

 母親は身をかがめてそれを調べた。「駄目よ。傷がついてる」 彼女は拒否するように手を振った。「そわそわしないで、ナーセット」

 ナーセットはその叱責を無視した。「じゃあ、こっちにして」

「腐った所があるじゃない」 母親はほとんど見もしなかった。彼女は山の頂上の果物に指を踊らせていた。

 上の方に母が求める林檎があるというなら、それを手に取ればいいのだろう。ナーセットは飛び跳ねた。「じゃあ、あれ!」 彼女は頂上の果物を指差し――そして彼女の袖がその長い茎に引っかかった。

 続く出来事が、緩慢な動きで起こった。その林檎はまず前方に、そして後方に揺れた。ナーセットはそれを安定させようと手を伸ばしたが、跳躍の頂点を過ぎており、彼女は指で林檎に触れるとそれをそのまま積まれた林檎の絶壁へと引き寄せた。それは一瞬ぐらついて、そして転がり落ち始めた。

「いかん!」 頭上の何処かから、林檎売りの必死の叫びが聞こえた。

 彼女はその商人の大切な売り物の一つが山から跳ねて地面へと落ちていく中、手を伸ばした。

 その軌道は予測できた。彼女は以前に物体の落下を観察しており、地面に当たる寸前に彼女の手は林檎を受け止めた。

「やった! 取った!」 彼女は腕を掲げ、その林檎を見せた――そして遥かに多くが周囲に降り注いだ。音を立てて弾みながら、互いにぶつかり合い、地面に転がった。

「あー......」 そんなはずはなかった、ナーセットは思った。もしもその山が、彼女が推測したようにきちんと積み上げられていたなら。とはいえ林檎が六十五個しかなかったなら、構造的に不安定だったのだろう。それならこの挙動にも納得だった。

「私の林檎が! 綺麗な林檎が! 全部傷物に!」 商人が悲鳴を上げた。

「すみません、すみません」 彼女の母が慌てて地面にかがみ、手が届く範囲の林檎を拾い上げた。「これは大丈夫です、どうですか?」 彼女は一つを掲げた。「大丈夫なはずです」

 商人は露店を回って表に出て来た。「傷物になってるじゃないか」

「いくつあったの?」 ナーセットは尋ねた。「六十五個しかなかったなら、積む時に――」

「お前!」 その商人はナーセットに食ってかかった。「向こうへ行ってしまえ!」

 ナーセットは飛びすさり、露店の角に身体をぶつけた。更に十個以上の林檎が地面へと転がった。

「あっちに行け! 行っちまえ!」 その商人は叫んだ。

 ナーセットは母を見た。「私、説明しようとしただけだったのに。積み方を間違えてたの」

「私が悪いというのか!」 その商人は声を轟かせた。「私は何十年も林檎を積んできたんだ。何十年も! それをお前が手を出して、一日の収穫を台無しにしたんだぞ」

「でも――」

 母の手がナーセットの手首を掴み、言葉を中断させた。「お願い」 母親は言った。「何もせずにいることを覚えて」

「でも――」

「外にいなさい」 母親は出口へと向かって頷いた。「私が元に戻すから」

 元に戻す、自分がそうしようとしていたとナーセットはわざわざ言わなかった。彼女はそれ以上論じる気はなかった。母は、彼女が心から聞きたかった言葉を発していた。彼女はようやくこの窮屈すぎる市場から出ることを許された――外に行く許可を貰えた。


アート:Florian de Gesincourt

 彼女は一呼吸すると、その失敗を見ていた他の商人や店員達の厳しい視線を後にした。彼女は誰かに止められるよりも早く瓜の屋台をくぐり、三つのパン籠を跳び越え、天幕を突破した。

 彼女は自由だった。

 ようやく吸った新鮮な空気が肺に満ち、彼女の魂を解放した。

 皮膚に触れる陽光、近くの川からの魚の匂い、そして目の前の広く果てしない空間。理想的だった。これが物事のあるべき姿だった。ナーセットは走りだした。いつもそうだった。いつでも、目の前に未踏の地が広がっているなら、そうせずにはいられなかった。市場の向こう側へ来るのは初めてのことだった。その地の全てが彼女にとって新しかった。興奮のままに彼女は川へと降り、疼きは歓喜となった。風が彼女の豊かな髪を通って流れ、頭皮を冷やした。足取りの一歩ごとに岩を学んだ。川の流れを観察し、水流と渦の様式を記憶した。植物の数と種類を、花を咲かせたものとまだ実を結ばないものについて考えた。彼女の心は目の前に広がる世界の詳細で沸き返った。あらゆる細部までを貪った。

 彼女はこのために生まれたのだった。行き、見て、学び、調べ、駆け、求める――

「悟りを求めよ」

 彼女はその声に驚いた。それは何者かが彼女の耳の中で喋ったように響いた。背筋に震えが走り、彼女は歩みを緩めた。

「誰?」 彼女は肩越しに振り返った。誰もいなかった。彼女は自身にただの空耳だと、何でもないと言い聞かせた。彼女は水の流れへと足を戻した。

「知恵を追い求めよ」 その声は再び彼女の耳で響いた。

 ナーセットは息を飲み、素早く振り返って、川へと落ちそうになった。

「誰かいるの?」 誰かが彼女を追っているのだろうか?

 彼女に見えたのは水の流れに沿って並ぶ低木と、向こう岸の草原と、その向こうの――「え......」 ありえない、それは......

 ナーセットはよろめいて後ずさり、ふらつきながらも転ばないよう努めた。それは、いた。見たことは一度もなかったが、何を目にしているかは正確にわかっていた。遥か遠くにあったのは、あらゆる聖所の中でも最も尊い、龍眼の聖域。そしてその頂上に身体を休めるのは大師にして龍王、オジュタイ。目にした瞬間に、ナーセットは彼がそうだとわかった。遠く離れた姿でありながらも、そのしなやかで力強い身体が太陽に影を浮かび上がらせているのがわかった。


アート:Filip Burburan

「知識を集めよ」

 彼の声だった! ナーセットは眩暈を覚えた。耳に聞こえていたのはオジュタイの声だった。けれどそんな事がありうるだろうか? 彼はとても遠くにいる。そして彼は龍詞を話しているのでは?

「真実を見つけよ」

 ひとたび自身が何を聞いているかを理解すると、彼女は彼の言葉をそう聞いた。それは彼女がかつて遭遇した何よりも遥かに複雑だった――呻き、舌打ち音、軽い衝突音、引っかき音、鋭い刻み音、唸り声、低い鳴き声、轟き声、そして恐らく、咆哮が複雑に融合したもの。だがどういうわけか彼女にはわかった。彼女の貪欲な心はその意味を解析することができた。

 彼方から運ばれてくる音に耳を澄ましながら、彼女は理解した。彼が教えを語ってくれているに違いないと。その龍が毎日、彼の座から与える教えについてナーセットは耳にしていた。だがそれを自身が聞くことになるとは考えもしなかった。

「す――ごい!」 彼女は両腕を振り上げた。興奮に彼女の内が弾けそうだった。「すごすぎる!」

 その龍は頭をナーセットの方角へと向け、彼女は本能的に身をすくめた。彼は私を見つめているのだろうか?

「ここより始まる」 彼は言った。

 彼は私へ向けて話しているのだろうか?

「お前に道を示そう」

「私?」

「お前は知識を探求する道にある。知恵への旅路だ」 オジュタイが言った。

「はい」 ナーセットは頷いた。彼は彼女を理解していた。大師は、彼女が母へとずっと説明しようとしていた事を理解していた。

「お前は来るべき所へとやって来た。知るべきことは全て、私が知っている」 その龍は誇らしく胸を張った。「学びたいと願う者へと、私は教えるであろう」

 そのように感じるのは奇妙だとわかっていたが、彼の言葉は彼女へと、彼女一人へと向けられたものだと思わずにはいられなかった。「学びたいです」 ナーセットの声は囁き声以上のものではなかった。「全部、学びたいです」 彼女は視線を彼の影へと集中させた。それでも彼は地平線の小さな点でしかなかったが、彼女はオジュタイを近くに感じた。今までに他者をそう感じた何よりも。「弟子になりたいです」 彼女は言った。「お願いです、弟子にしてください」

 その龍は頷いた。

 彼女もそれを見た。それは光の悪戯ではなかった。オジュタイ、この地で最も偉大な龍が同意に頷いた。彼女は彼の弟子となり、彼は彼女の師となる。そして彼女は知るべきことを全て学ぶのだと。


 そして彼女は学んだ。とても多くを学んだ。

 その日より、ナーセットにとって市場への外出は懸念から期待に変わった。彼女の母親はナーセットが市場の外で待つことに快く同意した。彼女はそこにいて、一日の終わりに一杯になった袋を持って帰る。彼女が何かを叩き落とし、今までに食べたいと思った以上の林檎を持ち帰る羽目になることもない。彼女は川岸に降り、その湾曲部まで行くことを許された。そしてその湾曲部の見晴らしは完璧だった。その場所から、彼女はオジュタイの影をはっきりと見ることができた。水の流れの向こうから、彼の声を明快にはっきりと聞くことができた。

 それから三年間、ナーセットは学び、鍛え、遥か彼方の大師のもとで練習を積んだ。彼女は古の龍の知恵を、彼らが持つ無限の知識の井戸を学んだ。彼女はその地全ての龍についてを学んだ。オジュタイは最古の龍であり、最も賢く、最も強大だった。そして彼は、彼女の師だった。

 龍を先達として彼女は龍の狡知の面を学び、精神を研ぎ澄まし、難問や謎かけを解いた。彼女は身体もまた鍛えた。オジュタイの影を観察して何をすべきかを学び、彼の動きを模倣した。彼女はあらゆる空き時間に鍛錬をし、強さと持久力と平衡感覚と器用さを急速に増していった。市場から持ち帰る袋の重さはすぐに綿を詰めたように軽くなった。そしてもし更に軽くしたいと思ったなら、彼女は呪文を唱えてそうすることができた。好奇心旺盛な彼女の心は呪文術の複雑さを好んだ。とても多くの動き、注意すべきもの、構想と積み重ねが、心の奥底から馴染むものとなった。そして彼女はそれを自身に課した。タルキールの龍たちが長年に渡って振るってきた、その次元の魔術の扱い方を学んだ。


アート:Lake Hurwitz

 彼女が感じていた疼きのほとんどは静まったが、完全にではなかった。龍眼の聖域がどれほど遠くにあるかを考えると、今もナーセットの内はそわそわとして落ち着きを失った。彼女がいろいろな意味でオジュタイと近しいのは理解していたが、彼女らを隔てる物理的な距離は大きかった。彼女はいつの日か大師の傍で、彼の座で訓練したいと願った。そして毎日、その密かな嘆願を彼へと送った。

「親愛なる龍、オジュタイ様」 川岸にて、彼女は片手で逆立ちをした姿勢のままオジュタイの姿を凝視した。「私の最大の願いは、貴方の教えを全て学ぶことです」 彼女は勇気を奮い立たせ、言葉を続けた。「私はここまで来ましたが、もし、貴方の傍で学べるのであれば、もっとずっと多くを学べると知っています。貴方への道を見つけさせて下さい、そうすれば私は永遠に、貴方の最も献身的な学徒となるでしょう」

「ごきげんよう、学徒よ」 その声に彼女は驚いた。だがそれはオジュタイの声ではなく、そもそも龍の声ではなかった。それは彼女の足の方向、上方から聞こえてきていた。

 集中力と平衡感覚をよく訓練していなかったなら、彼女は地面へと転げていただろう。だが彼女は平衡を保ち、身を低くした後に直立の姿勢をとったが、左の足首をごく僅かに揺らした。彼女は足首を見下ろし、無言でそれを呪った。それは彼女の弱点であり、しばしば彼女の訓練に非協力的な態度をとるのだった。

「なかなかのものですね」

 ナーセットが素早く振り返ると、背の高い、堂々としたエイヴンが腕の届く距離に立っていた。

「私が貴女だったなら、その足首に力をかけすぎはしないでしょう」 そのエイヴンは言い、頷きながらナーセットの左足を見下ろした。「我らが最も好ましくない欠点とみなす物事はしばしば、我らの最強の利点となるのですよ」

 ナーセットは息を呑んだ。彼女にはそのエイヴンがまとう衣服がわかった――龍語りの衣服!

「貴女の気を散らしてしまったことはわかっています、申し訳ありません」 そのエイヴンは言った。「私は通常、学徒の訓練を邪魔はしないのですが、緊急の伝言を――」

「オジュタイ様」 ナーセットは考えることなくその龍の名を口にした。だが確信があった。その龍語りの衣服はどんな龍語りの衣服とも異なっていた――生地の線、装飾、それは疑いようもなかった。顔から血の気が引き、ナーセットは深くお辞儀をした。「龍語りのイーシャイ様」


アート:Zack Stella

「おや、私をご存知ですか」 ナーセットは視線を上げ、そのエイヴンが小首をかしげるのを一瞥した。「やはり貴女はなかなかのものです」

 ナーセットはその優雅なエイヴンへとまっしぐらに迫るのをかろうじて我慢し、立っていた。「貴女は――あの方の――そして貴女が、ええ、貴女がここで、私に話してる。オジュタイ様の、龍語りが、私に話してる!」 彼女は悲鳴を上げ、そして口を手で覆った。オジュタイの龍語りの目の前でそのような振舞いをしてしまったとは信じたくなかった。

 そのエイヴンは短く、優しい笑い声を上げた。「その通りですよ、学徒さん。私は貴女に話をするためにここにいます。オジュタイ様は――」 彼女は彼の名を、正確な龍詞の抑揚で発音し、翼を動かして適切な強調を加えた――「貴女の献身的な訓練についてご存知です。我らも皆。龍眼の聖域は貴女の噂で持ち切りなのですよ」

「龍眼の聖域」 ナーセットの頭皮がうずき、顔が熱くなり、そして同時に冷たくなった。彼女はたじろぎ、何も考えられなくなった。

「深呼吸してください、若者よ」 イーシャイ――オジュタイの龍語りが、翼を持ち上げてナーセットを支えた。オジュタイの龍語りが!

 ナーセットはそのエイヴンが言う通りに、長く深く息を吸った。ゆっくりと、世界が回転をやめた。

 イーシャイはナーセットの肩を優しく、安心させるように叩いた。「貴女の感激がわかって私も嬉しい。オジュタイ様も私以上に喜ばれるでしょう。そう、私と一緒に来ることに同意してくれるなら」

「りゅ......龍眼の聖域へ?」 ナーセットは小声で言った。

「そうです」 イーシャイは言った。「大師様のもとで学ぶのですよ」

「本当に?」 ナーセットはイーシャイの目をじっと見た。

 エイヴンは彼女の視線を受け止めた。「勿論」

 これは現実だった。本当に起こったのだ。その瞬間が遂にやって来た。ついに、山頂への旅路につくのだ。ついに、師に対面するのだ。ついに、学ぶべき全てを学ぶのだ。

 ナーセットにできたのは、頷くことだけだった。


 師との最初の対面は彼女が望んでいた全てだった、夢見ていた全てだった――全てだった。オジュタイが彼女を迎え、ナーセットは龍詞で挨拶を返し、大師は微笑んだ。彼女はその微笑みを、それから続く数年間にもっとずっと多く目にすることができた。龍眼の聖域にて他の学徒と学ぶ間も、その龍の両眼はしばしば彼女を見ていた。彼の視線は彼女を力づけた。彼女は彼が見ている時には、最大の力を発揮できるのだった。そして上手くいった時に、彼は微笑むのだった。

 しばしば彼女は彼の言葉を、自分ただ一人に向けられたものであるように感じた。それはまるで二人が内密の会話をしており、他者は盗み聞きしているだけに思えた。他の者達は、互いの間に流れるものの真の深みを理解しようと望むことすらできなかった。彼女とオジュタイのような精神を持つ者は誰もいなかった――空智の者でさえも。ナーセットは驕る気はなかった。それはただ事実だった。彼女の心は人間よりも龍のそれに近かった。彼女は聖域の他のどの学徒よりも多く、速く学んだ。そして学ぶごとに師を近くに感じていった。


アート:Chase Stone

 今思い返すと、聖域にいた頃は人生でも最良の期間だった。かつてない程に幸せだった。試され、認められ、満たされた。あの疼きに脅かされることは無くなり、平穏を感じていた。そして物理的に身体を動かしていない時にも、彼女は道の上にあると知っていた。行くべき所への道に、彼女があるべき人物となる道に。オジュタイは彼女を導いていた。そして彼女はその贈り物を龍へと感謝せずに過ぎる日はなかった。

 ナーセットは他のどんな学徒よりも素早く成長した。龍眼の聖域の階級を、最下部の桟敷から最高の歩廊へと昇った。やがてある日オジュタイが彼女を、彼の座へ赴くようにと呼んだ。彼女が同輩テイガムとの訓練試合に勝利した後、彼は訓練を中断させて彼女の出席を願った。階段の最後の一続きを昇りながら、ナーセットは背中にテイガムの視線が燃えるのを感じた。彼は彼女よりも長く聖域におり、彼女の場所を切望していると知っていた。しかし、彼の探求を清めることを学ぶまで、力ではなく知識を求めることを学ぶまで、彼はここに立てないとも知っていた。

 彼女はテイガムへの意識を脇に押しやり、心を澄ませ、オジュタイの座へと足を進めた。それは彼女が踏み出した中でも、最も意義ある一歩だった。

「我が学徒、ナーセットよ。時は来た。知識への飽くなき飢え、それがお前の最大の長所だ。お前は強く、力強く、賢くなった。それは常に悟りを求め続けていたからこそ」 龍は彼女へと微笑みかけた。それを目にできると彼女は知っていた。その輝かしい一つの瞬間、全てが完璧だと感じた。「お前に師の称号を授けよう。お前はそれを受けるに相応しい。また、それがもたらす栄誉と責任をも授けよう」 オジュタイは首を低くし、その巨大な掌を彼女の肩に置いた。

 ナーセットは頭を下げて受諾を示し、その小さな手を龍の掌に重ねた。頬を流れ落ちる熱い涙を拭おうとはしなかった。十五歳にして、彼女はオジュタイが任命した最年少の師となった。彼女は頂点へと昇りつめた。

 彼女は龍眼の聖域の頂上から、眼下の世界を見下ろした。初めて、オジュタイの座を見上げていない。彼女はそう悟った。

 奇妙な感覚だった。

 眼下の学徒達が歓声を上げていた――少なくともほとんどが。空智たちは彼女を祝して周囲を舞った。そしてオジュタイの輝きの魔術が空に弾け、舞い踊っていた。


アート:Willian Murai

 そこまでだった。彼女は成した。到達した......

 突然、ナーセットの耳のどこか深くが鳴り始めた。

 行くべき所はもう何処にもない。

 学ぶべきものはもう何もない。

 顔が紅潮し、その晴れやかな瞬間は薄れ始めた。まるで閉じ込められたかのようだった。視界が揺らぎ、額は汗ばんだ。心の中で、彼女はあの市場に戻っていた。

 オジュタイは誇らしげに彼女を見下ろしていた。彼は彼女の発言を、感謝と称揚を期待している、それがわかった。だが彼女にできたのは、逃げ出したいという欲求と戦うことだけだった。その感情に彼女自身衝撃を受けながらも、これはオジュタイの過ちだったと思わずにはいられなかった。この瞬間は違うものになるはずだったと、もっと何かがあるはずだったと思わずにはいられなかった。全てを知っている、彼はそう断言した。だが全ては終わりなどではなかった。彼女は叫びたかった。彼女の旅路が終わることはない。

 そして、疑問を持った。彼女がどうするかをオジュタイはわかっていたのだろうか? 賢きオジュタイ、全知の大師は、彼女が逃げ出すだろうとわかっていたのだろうか? だが彼女にそのつもりは無かった。わざと彼を置いて行くことは決してしない、そう言いたかった。今なら彼が耳を傾けてくれると信じ、そう言おうとした。

「ごめんなさい」 彼女は水面の向こうへ囁いた。

 答えはなかった。


 以来ほぼ一年の間、ナーセットはその疼きと戦い続けたが悪化するだけだった。彼女の内は嵐のように荒れ狂い、彼女を引き裂いた。動かなければならなかった。行かなければならなかった。上に行くことは最早できず、ナーセットは山を降りることを決心した。

 下山は彼女が予期したよりも早く終わった。ひとたび走り始めると、彼女は速度を緩めなかった。そして底に達しても彼女は進み続けた。両脚は止めることなく彼女を運び続けた。

 その山の、とある片隅にはめ込まれ封じられた隠し通路を発見し、彼女はようやく足を止めた。だがそれも長くはなかった。扉を開く呪文を唱えると、奥には通路と下り階段があった。彼女はそれを降りた。階段は踊り場で終わり、そこから更なる階段が続いていた。彼女はまた降りた。

 彼女は降りて、降りて、降り続け、曲がりくねった通路を過ぎ、崩れかけた地下通路を這い進んだ。岩を観察しながら、砂と沈泥を学びながら、彼女は土を深く深く、永遠に掘り進んだのかのように思えた。だが突然、地下通路は行き止まりとなった。

 すかさず、あの疼きが立ち上がった。だがそれが彼女へと鉤爪を突き立てる前に、ナーセットは行くべき先を見た。その部屋の壁には巻物が並んでいた! それを読むことができる。何処かへと連れていってくれる。更なることを教えてくれる。

 無我夢中で最初の巻物に手を伸ばし、彼女は自身のいる場所が何かを漠然と知った。そこは古の書庫、伝説でのみ聞いたことのある場所、オジュタイがほぼ全ての者に禁じた場所。だが彼女は気にしなかった。気になどできなかった――彼女が感じていたのは、探し、求め、知ることの必要だけだった。


アート:Chase Stone

 飢えきった心で、彼女はできる限り注意深く、最長の巻物をほどいた。脆かったが、損なわれてはいなかった。そこには言葉が連なっていた――歴史、知識、知恵を伝える輝かしい言葉が。彼女は埃っぽい、瓦礫の床に膝をつくと目の前にその言葉を広げ、読み始めた。再び動き始めているような気分になった。

 その古の巻物にはタルキールの過去が記述されていた、だがそれは彼女が学んだことのないものだった。幾らかは大師が彼女へと教えたものと一致していたが、外れた、もしくは矛盾した記述もあった。その詳細は歪められていた。氏族は龍王ではなくカンに仕えていた。彼女の知らない呪文や魔術もあった。そして巻物の記述からは、オジュタイ以前にも龍王が存在したように思われた。

 大師はタルキール最古の龍ではなかったのか? 彼こそ最も賢い存在ではなかったのか? 全てを知るのは彼ではなかったのか?

 その考えがナーセットの心に根を張った。彼女は真実を知らねばならなかった。知らねばならなかった。学ぶべきことが更にあるのなら。

 龍眼の地下書庫の巻物を読み終わると、彼女は更に他の場所を探そうと決めた。彼女は階段を駆け上がり、日の光へと出ようとして――テイガムの固く筋肉質な胸にぶつかった。

「降りていったのはわかっていた」 テイガムが言い放った。

「通して」 ナーセットは彼のそねみに構っている余裕はなかった。それどころではない。

「知っている筈だ、オジュタイ様の元にいる者には相応しくないものがこの下にあると、師と呼ばれる者には特に」 彼はその言葉にこだわった。

「テイガム、お願い、そこをどいて。行かないといけない」 あの疼きがナーセットの内で音を立てていた。真実を知りたいという燃えさかる願いが、力となって彼女を内から押していた。これ以上は耐えられそうになかった。


アート:Jason A. Engle

「君の不敬を報告しないといけない。君はオジュタイ様を裏切った。君は暗愚の道を行くことを選んだ、オジュタイ様は君を罰するだろう」

「じゃあ、勝手にすればいいのよ!」 ナーセットは魔力を爆発させ、テイガムを吹き飛ばした。そして彼の叫び声を無視して走り去った。


 その瞬間をどう感じていたか、ナーセットは正確に思い出すことができた。子供の頃の彼女を駆り立てた、瓜の屋台をくぐり、パン籠を跳び越えて、自由へと飛び出した時と同じ感情だった。龍眼の聖域の山を登った時と、オジュタイの座を目指していた時と同じ感情だった。そしてそれは彼女の胸に渦巻く、行かせようと、跳ばせようと、渡らせようとする感情だった。

 その感情をずっと憎んでいた。人生において、それはずっと彼女へと苦痛を与えてきた。そして今それが、オジュタイの真実を学びたいと彼女を急かしている。これほどの苦痛はなかった。

 龍眼の書庫を後にして、ナーセットはその疼きに屈服し、身を委ねた。更なるものを求めた、常に更なるものを。この外には更なる知識がある、彼女はそう感じた。死に物狂いでそれを知りたいと思った。

 彼女はコーリ山と河水環の地下にてそれぞれ書庫を発見し、その内で更に多くの巻物を発見した。そこに記された言葉から、彼女はタルキールの隠された歴史を更に深くまで継ぎ合せていった。彼女は精霊龍ウギン、この次元のあらゆる魔術と龍の嵐の源を学んだ。氏族が争っていた時代を、龍たちが距離をとっていた時代を学んだ。

 その全てが彼女を熱狂させた。

 それで十分と思われたが、そうでなかった。彼女は更に探した。

 そして彼女はダルガー要塞の地下書庫を発見した。

 他とは異なり、ダルガーの地下書庫の保存状態は良くなかった。それは遠い昔に略奪され、破壊されていたらしかった。彼女は心のどこかで、そこが全くの空であることを望んでいた。彼女の内なる何かが、そこを探し続けたなら知るべきでないことを知ってしまうだろうと囁いていた。

 探し始めてから四週間目のこと、彼女は書庫に残っていた貴重と思しき巻物を発見した。それは地下深くに厳重に隠され、分厚い扉の背後に封じられていた。しばしの間、ナーセットはそれを見つめることしかできなかった。自身の発見を全くもって信じられなかった。そして鼓動を高鳴らせながら、震える指でそれを手にとった。

 彼女はその巻物を地面に広げ、指先に冷たい炎を灯して明りにすると、読み始めた。

 筆跡は荒く、にじんでいた。まるでとても短い時間のうちに急いで記されたかのようだった。読み進めて彼女はその理由を理解した。

 その巻物は古のカン達の会合を記したものだった。


アート:Yeong-Hao Han

 彼女は、氏族を守るために龍の終焉を望んだカン達を学んだ。彼らの意見の相違と計画を学んだ。そして一つの名前を学んだ。サルカン――人であり、龍であり、カン――精霊龍ウギンを救い、よってタルキールの龍を救った存在。そして彼女は最後の、究極の真実を知った。その会合は、集まったカン達を二体の龍とその子らが襲撃したことにより突然の終わりを告げた。そしてその龍のうち一体は、オジュタイだった。

 師の名を目にした時、ナーセットの背筋を強張らせ、拳を握りしめた。手の中で、脆い紙が砕けた。同じ瞬間に、彼女の内なる何かもまた、砕けた。それが胸の中で、卵のように割れるのを感じた。彼女の内で砕けた何かは熱く、濃く、それは胸骨を流れ落ち、身体から外へと広がった。そして彼女は感じたことのない力に引かれ、タルキールから運び去られた。

 異なる世界が彼女の前に広がっていた。新たな世界。未踏の世界。そこは約束していた――知識を、可能性を、行くべき場所を約束していた。

 それは素晴らしかった。

 そしてナーセットは足を踏み出そうとした。

 だが最後の瞬間で、彼女は自身を引き戻した。

 喘ぎ、震えながら、ナーセットはタルキール最後の巻物の上にどさりと倒れこんだ。


 何故行かなかったのか。彼女自身、今も説明できなかった。

 その時以来、彼女は自身の内を引く力をほとんど毎日、常に感じていた。それに身を任せるのは容易いように思われた。それが正しいように思われた。だが彼女は踏みとどまった。その代わりに、彼女はタルキール世界を回った――あらゆる谷を、あらゆる山頂を――そこに学ぶべきことがあるはずだと確信して、見つけるものがあるはずだと確信して。

 今や、彼女は世界を一周し、あらゆる地を目にしてきた。あらゆる秘密を目にしてきた。そして彼女はあの川の湾曲部に座していた。

「学んできたことを熟考する時を、我らは常に必要としてきた」 重々しい声が突然、ナーセットの視線を上方へと引き寄せた。

 オジュタイ。

 彼女の龍、彼女の師が、昇る朝日の最初の曙光に影を成していた。彼は朝の教えを与えるために、その座に姿を現したのだった。


アート:Steve Prescott

「さて、何を学んだのだ?」 オジュタイは彼女へと頭を向けた。

 見つめられていた。

「何を発見したのだ?」

 話しかけられていた。

 ナーセットの内が震えた。彼女は長いこと、破門されたのだと考えていた。テイガムが言っていたように。彼女は異端者なのだ。違反者なのだ。

「何を知ったのだ?」

 もしかしたら、テイガムは間違っていたのかもしれない。オジュタイは今も彼女の師なのかもしれない。彼の問いはナーセットの耳に響いていた。自分は何を知ったのだろう? タルキールを、その全てを、その美を、驚異を、その欠点を。そしてしばしば、その欠点は最大の利点となるのだった。彼女は龍へと微笑みかけた。彼はタルキールの一部、そして彼の存在があるからこそ、大地は、人々は、歴史はよりよくなった。世界はより強く、より完璧になった。彼女は今それを目にすることができるのだ。

「真実を、学びました」 彼女は囁き声で言った。

 オジュタイは頷いた。彼もまた微笑んでいる、見えないながらもナーセットにはわかっていた。温かさが彼女に満ちた。平穏が満ちた。「すべき事を思案したなら、進むがよい」 オジュタイは言った。「誰もが必要とすべきは――」

「悟りを求めること」 ナーセットは彼の言葉を締めた。

「学ぶべきものは常にある」 そう言うと、オジュタイは翼を広げて空へと飛び立った。

「ありがとうございます」 ナーセットは言った。彼女が放った言葉は、タルキールの風に運ばれていった。


卓絶のナーセット》 アート:Magali Villeneuve
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