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Magic Story -未踏世界の物語-
アスフォデル
アスフォデル
Kelly Digges / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2013年12月11日
メイアは裸足のまま、慎重な足どりで壊れた建物の中を進んでいた。両足は既に煤だらけだったが、それは小川で洗い流せばいい。汚してはいけないサンダルは、上着と一緒に持っていた。以前その間違いを犯してしまった時、母は夕食抜きで彼女を寝台に追いやり、鍛冶場へ行くことを禁止したのだった。
彼女はきしむ梁の下をくぐり、鍛冶場の中へと入った。石造りの金床はいつもの場所に据えられていた。
父は融けた青銅や鉄を精錬している最中、決して中に入れてくれなかった。すごく危険なんだ、ぶっきらぼうにそう言って、そして目を輝かせて付け加えた。来年になったらな。そう、父と一緒に過ごした時間はほとんど、剣や盾を冷やし固め、またその後に青銅の縁を鎚で叩き鍛えるというものだった。彼女は座って、鎚と石がカーン、カーン、カーンと鳴る音を聞いていた。時々父は何をしているのか、それは何故なのかを話してくれた。そしてそのたびに、彼女は僅かずつその商売について学んでいったのだった。
彼女はその手に、優美な白と紫の花を一束握りしめていた。鍛冶場へと向かう途中で摘んだばかりのものだった。母は死者の花であるアスフォデルを父が埋葬された丘の上へと持っていった。捧げるのはその花が相応しいと言って。だが父がいつも好んでいたのはシオンの花で、それに父は丘の上になどいないとメイアは知っていた。父がいるのはこの場所。だからこそ彼女はシオンの花を持ってくるのだった、この場所に、できる限り頻繁に。
メイアは瞳を閉じ、火事が起こる前の、かつての鍛冶場の姿を思い描いた。沢山の道具と煙、鎚が鳴る音。壁にはパーフォロスへの祈りを示す護符がかけられていた。それは創造物への情熱でこの場所を満たすように、鍛冶の神へと嘆願するためのものだった。
彼女は目を開き、まばたきして涙を払った。天井は崩れ、陽光が差し込んでいる。その光は喜ばしいものかもしれないが、それは違う。全く違う。父がその顔に灰色の仮面を被せられ、土の下に横たえられたのは半年前のことだった。
彼女はいつもそうするように、シオンの花束を金床にそっと置いた。通常、数日か数週間経って鍛冶場へ戻ってくると花は無くなっている。彼女は知っていた、それらは鹿に食べられるか、一陣の風に吹きはらわれてしまうのだと。だが彼女は、父がやって来ていつものように花を貰っていくのだと考えていた。
壊れた屋根から差しこむ陽光の傾きが、帰る時間を告げていた。彼女は死者の神エレボスへと素早く祈りを捧げると、急いで鍛冶場を出た。サンダルを取り出して小川へと走り、足を洗い、草の上で乾かし、メレティス郊外にある自分の家へと戻った。
メイアは扉の所でサンダルを脱ぎ、鉢で足を洗った。台所からは豆のシチューの濃厚な匂いが漂っていた。だがそれがもし去年より味が薄かったとしても、入っているのが肉ではなく燻製魚だったとしても、母を責められようか? 鍛冶場も、家を守る父の強い手も無い今となっては、生活は厳しく、食べ物はまさしく糧だった。メイアは何も言わず台所へと向かった。
母はゆっくりとシチューの鍋をかき混ぜていた。そしてまだ四歳のカドモスは床に座って藁の兵士で遊んでいた。彼はメイアを見上げて目をぱちくりして、また遊びへと戻った。
「お母さん、ただいま」 彼女は言った。
母はシチューの鍋から振り返った。その髪には灰色のものが混じり、瞳は常に悲しげだった。それでも母は変わらず魅力的だった。
「おかえり、メイア」 母が言った。「授業はどうだった?」
母は今も都市の学者へと金を払い、娘に授業を受けさせていた。それに必要な金額はもう家にはないことを知り、メイアは止めることを申し出ていた。だが母はそれを聞き入れなかった。それ以来メイアは授業について不平を言うことはなくなった、例えそれが退屈であっても。
「楽しかったよ」 彼女は言った。とはいえ本当のところは、退屈だったのだが。「三角形とその辺の長さの関係と......算数を教わったの」
「良かったわね」 母はぼんやりと言い、再びシチューをかき混ぜに戻った。
夕食は静かなものだった。シチューは淡白だが量だけは沢山あった。カドモスはぐずって椀をこぼしたが、母は溜息をつくだけだった。
メイアは早めに寝台に入り、鎚音が響く夢をみた。
《平地》 アート:Adam Paquette |
一週間以上が過ぎた。また授業が早くに終わった日、メイアは帰宅途中に鍛冶場へと寄ることができた。盛りの季節は終わりに近づき、昼は次第に短くなっていた。そしてシオンの花を見つけるためには丘陵地帯の深くまで行く必要があったが、彼女は花を小奇麗な一束にして、まだ暗くなるまでには時間があると判断した。
手に花の束を掴み、最後の丘に昇ったところで、彼女は音を聞いた。
カーン。
鎚音。父の鍛冶場に誰かがいる!
彼女は急いで坂を駆け降りた。花はしっかりと握ったまま、そして立ち止まってサンダルを脱ぐことはしなかった。汚れたなら洗えばいい。そこに誰がいるのかを確かめなければいけない。
カーン。
廃墟の中に入るとすぐ、静かな中にゆっくりとした、律動的な鎚音に彼女は脚を止めた。不安が押し寄せた。もし都市の誰かがこの鍛冶場を使いたいというのならば、それを聞かされているはずだ。母がそう言うはずだ。そうなるとここにいるのはならず者か、侵入者か、それとも......
メイアは一つ深呼吸をすると、落ちた梁の下をくぐり、鍛冶場の中を覗き見た。
彼女は、革のエプロンをまとった広い背中と、彼女の胴ほどもあるような力強い腕を見た。片方の腕が焦げた鎚を振り上げ、叩きつけた。
カーン。
メイアは残骸の影に隠れるようにしながら、部屋の隅を忍び足で進んだ。その者の顔を見なければ。
その左手には、作りかけで焦げた剣の残骸があった。それはもう物にならないと彼女の目にもわかった。炎に歪んでしまっていた。彼女はそのような剣を見たことがあった。父はいつもそれらを融かし、作り直していた。その剣の黒く焦げた縁は鎚に打たれて薄くなり、壊れはじめていた。
再び腕が振り上げられ、下ろされた。
カーン。
彼女はにじり寄った。その人物は幅広の顔の黄金の仮面を被っていた。様式化されてはいるが、彼女にはわかった。幅広の鼻、濃い髭、生命力に輝く寄りぎみの目。それが今や死に、冷たい、造りものの顔で。腕が再び上げられた。
「お父さん?」 彼女は言った。
その人物は腕を上げたまま停止し、首だけを彼女に向けてその姿を認めた。それはゆっくりと腕を下ろし、だが金床の前から動かなかった。
彼女は花を持っていたことを思い出し、それを掲げ、前へと進み出た。
その人物は黙ったままだった。
急に動く様子も危険な気配もなかったので、彼女は金床まで進んだ。すぐに彼女はその人物へと触れられるほどに近づいた。父が働いていた時、近寄らせてくれたよりも近くまで。そして彼女はシオンの花束を差し出した。だが黄金の仮面は、何の感情も見せなかった。
鎚が振り上げられた。
彼女は花を落とし、言葉を詰まらせて飛びのいた。
鎚が何度も繰り返し振り下ろされ、それは壊れた剣と柔らかな紫の花に叩きつけられた。
カーン。カーン。カーン。
メイアは背を向け、鍛冶場から飛び出し、鎚音から逃げた。憑かれたような目をして、煤と汗まみれで、彼女は家に辿り着くまで立ち止まらなかった。
母は怒り心頭だった。彼女はメイアを家に引っ張り入れるとすぐに風呂へと放り込んだ。彼女はメイアへと何が起こったのかを尋ねた、何故また鍛冶場へ行ったのかと。
メイアは答えなかった。母は夕食を与えずにメイアを寝室へと追いやった。彼女は気にしなかった。空腹ではなかった。一定間隔で鎚が石を叩く音をちゃんと聞けるように、彼女は夜遅くまで横になったまま起きていたのだった。
《旅する哲人》 アート:James Ryman |
それから数日、メイアは授業と家の手伝いに没頭した。母は娘が近頃無口であると気付いていたかもしれないが、何も言わなかった。母は恐らく、ただ手伝いを得たことを喜んでいた。
鍛冶場での遭遇から四日目のこと、授業が終わり、メイアは他の生徒達が教室から去るのを待っていた。
彼女の教師、ピーリアという名の品のある女性は、他の生徒達が去ると彼女に向き合った。
「このごろ、静かですね」 彼女は言った。「何か、私にしてあげられる事はありますか?」
「あの......私、変わった質問があるんです」 メイアは言った。
「私はあなたの先生なのですから」 ピーリアが言った。「私に質問するのに、変わっているということはありませんよ」
「蘇りし者についてです」 メイアが言った。
「ノストンは悲しき者です」 ピーリアが答えた。「それが質問ですか?」
「彼らは......なにか覚えているんですか?」
「普通は、何も覚えていません」 ピーリアは言った。「彼らはその技術と、世界についての知識を保持しています。ある蘇りし者の航海士は今も沿岸を航海できるでしょう。ですが彼らは生前の記憶を死の国へと置いてきました。悲しい皮肉です。彼らは蘇るほどに生を愛していたというのに、その愛を持ったまま戻っては来られないのですから」
「そのひとたちはどうなるんですか?」 メイアは尋ねた。
「ある者は放浪します。ある者は暴力に走ります。多くの蘇りし者が死者の都へと集まります――静かなるアスフォデルと、怒れるオドゥノス――仲間へと加わるために。彼らは影の生を生きるのです、悲嘆と憤怒に満たされて」
メイアは頷き、涙を払った。教師の表情は和らいだ。
「メイア」 彼女は言った。「ノストンとなる者はとても稀です。そして帰還を果たしたとしても、彼らを彼らたらしめていたものは――記憶、関係、大切なもの――永遠に失われています。死の国から真に戻ってくる者はないのです」
「わかりました」 メイアは言った。「ありがとうございました」
ピーリアは頷き、メイアは立ち上がると全速力で教室を去った。
彼女は都市を離れ、家を目指した。彼女はここ数日と同じように、鍛冶場へと続く道を急いで通り過ぎる意志を固めようとしたが、道の曲がり角に来た所で小路の周りの草が踏みしめられているのに気が付いた。近づいてよく見ると、軍隊の装備を身に着けたような重い足跡が様々に入り乱れていた。
彼女は鍛冶場へと走った。
二十人ほどからなる重装歩兵の集団が鍛冶場を包囲していた。何人かはその内へと槍を向け、他の者は周囲を警戒していた。
「やめて!」 メイアは叫んだ。
《密集軍の指揮者》 アート:David Polumbo |
重い鎧を着込んだ男女が振り返ったが、彼らのほとんどはその声の主がほんの子供だと見て任務に戻った。彼らの指揮官、高い冠飾りの兜を被った屈強な青年がメイアへと歩み出た。彼女はその横をすり抜けようとしたが、彼は槍の柄でその道を塞いだ。
「離れていなさい」 彼は言った。「この地域で蘇りし者を見たという報告があった。私達はそれが何かを壊すか、君のような子供をさらう前に死の国へ帰すために来た」
「建物は空です!」 部隊の一人が声を上げた。
「展開しろ!」 指揮官が言った。「もしこのあたりにいるならば、見つけ出してやる」
彼が振り向く前に、メイアは駆け出した。
メイアは彼を追い越し、後ろからかけられた声も無視した。そして軍勢を追い越して丘へと入った。探す時間はとても長く思えた、だがついに彼女は発見した。背を曲げた人影が鎚を手に、大股で藪を抜けようとしていた。
「待って!」 彼女は呼びかけた。
その人物は立ち止まると振り返った。その仮面は悲嘆の感情に固まっていた。彼女はその人物へと歩み寄り、だが手の届かない距離で止まった。
「あいつら、あなたを探してる」 彼女は言った。「あなたを傷つけようとしてるの」
その人物は頷いた。
「私の......私のこと、わかる?」
ゆっくりと、悲しげに、それは首を横に振った。
メイアの目から涙が零れ出た。蘇りし者は手を伸ばしたが、彼女はひるまなかった。彼は親指で、メイアの頬の涙をぬぐった――メイアがよく知る、穏やかな仕草だった。そしてそのことは衝撃的だった。
「泣くな」 抑揚のない口調でそれは言った。「泣くな」
彼女が後ずさると、その人物は背を向けて去ろうとした。
「どこへ行くの?」 彼女は尋ねた。
大きな広い背中が、肩をすくめた。「遠くへ」
メイアの唇が震えた。彼女は足元を、そこにまばらに咲く花を見た。頑丈な緑の茎に、長く白い花。彼女はかがんでそれを摘み、その者へと差し出した。
「アスフォデル。この花と同じ名前」 彼女は内陸の方を指差して言った。「アスフォデルへ行って。死者の都。あなたみたいな人が沢山いるの」
蘇りし者は彼女の震える手から花を受け取り、頷いた。
それは背を向けて、彼女の指が示す方向へと歩み出した。鎚を手に、崩れた鍛冶場を去り。アスフォデルへ。
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