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Magic Story -未踏世界の物語-
争奪戦 その1
争奪戦 その1
R&D Narrative Team / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2017年10月11日
《一番砦、アダント》 アート:Svetlin Velinov |
アダント砦の駐屯部隊は頻繁な攻撃、荒々しい嵐、そして周囲の自然世界から襲いくるあらゆる類の不愉快なものに慣れてきた。だが彼らも、高くそびえる防壁へと海岸から飛び込んできたそれは予想できなかった。
衛兵も司祭も等しく、砦の高く分厚い壁の下で狂乱する萎びた人物を覗き見た。それは高司祭の衣服をまとう吸血鬼の男性で、身体は砂にまみれ頬は飢えに痩せこけていた。両目は荒々しく、その身なりに反して髭は狂人のように伸び放題だった。男は覗き見る顔へと吼えた。「私は波と死を乗り越えたのだ、聖エレンダを称えよ!」
衛兵らはどうしたものかと顔を見合わせた。下の男は外衣を破り捨てて膝をつき、爪の長い両手を祝福の型に組んだ。そして始めた声高な祈祷に自己認識はなかった。定命の衛兵らは当惑に後ずさった――これが誰なのかはわからないが、断血に我を失っているのは確かだった。
「素晴らしき奇跡! 枯れた動脈と力なき舌で、あの御方は我らに生命を与えて下さったのだ! 祝福せよ、熱意なき愚か者らよ!」
人間の衛兵に扉を開ける勇気はなかった。断血中の吸血鬼は途方もなく危険だった。我を失った者に教徒の血と罪人の血の区別はつかない。代わりに、衛兵の一人は司祭を呼びに向かった。
砦外の飢えた吸血鬼の祈祷はその熱狂を増した。「私は清き聖エレンダに近づくべく食事を棄て、今ここに立っております!」
彼は脇に下げた古い鞄に手を伸ばし、金属の乱雑な塊を地面に投げ捨てた。それは壊れた六分儀やコンパス、様々な航海道具の残骸だった。
「このような欺瞞の道具など最早必要ありませぬ!」 その吸血鬼は叫んだ。「エレンダ様への信仰がこの地へ導いて下さいました!」
アダント砦の司祭が扉へと向かった。彼女は分厚い木越しに外の吸血鬼へと呼びかけた。「本日、船は到着しておりません。どの船でお越しになられたのですか?」
「薄暮の軍団でも最高の、神聖不可侵の船だ! 私は『女王の勇壮』号に乗って来たのだ!」
吸血鬼司祭は腕をまくり、扉を開けるよう衛兵へ頷いた。衛兵らが閂を持ち上げて頑丈な鎖を引くと、飢えた吸血鬼は中によろめき飛び込んだ。
司祭は唖然とした。「マーブレン・フェイン高司祭様?」
「最初に聖エレンダありき!」 マーブレン・フェインは激昂した。「あの御方の犠牲によって我らは生き、その無私こそ我らが発展の規範であるぞ! 私は二百年前に儀式を受けた、そして最初の聖エレンダの導きのもと、血の要らぬ不死への道を我らは見出すであろう!」
その時には司祭は膝をつき、捨てられた道具の破片を拾い集めていた。彼女は驚きとともにマーブレン・フェインを見上げた。「これは高司祭様が乗って来られた船の航海道具ですか?」
「そのようなものは最早不要だ!」 マーブレン・フェインは吐き捨てるように答えた。
彼は動きを止め、大気の匂いをかぎ、そして防壁の上にいる衛兵らを見上げた。
衛兵らは身を引っ込めたが、間に合ったわけではなかった。
マーブレン・フェインは興奮に息を鳴らし、上の人間らを見据えたまま壁へと走った。そして鉤爪を突き立て、尖った木端を飛び散らせながら荒々しく壁を登りはじめた。その表情は見るも恐ろしく、歯をむき出しにして両目は見開かれていた。彼は唸り声を上げて素早くよじ登り、一番近くにいた人間の衛兵をナイフのように鋭い爪で捕まえた。
衛兵は驚いて悲鳴を上げ、マーブレン・フェインは狂ったようにその顎と鎖骨を守る金属に噛みついた。血に飢えた吸血鬼を止められる者はいなかったが、その攻撃は無益だった――彼の歯は他の衛兵が駆け寄る前に鎧を貫くことはできず、壁の下へと蹴り飛ばされた。吸血鬼が激しく地面に落下すると、瞬時にアダント砦の司祭が駆け寄り、地面に押さえつけて次なる激昂を抑えた。
「マーブレン・フェイン様、その信仰心は素晴らしきものです」 司祭の声には苦闘があった。「ですがアダント砦に滞在されるのであれば、その断血を終わらせて頂かねばなりません。高司祭様、断血を破って下さいませ。その崇敬は誰の目にも明らか、ですが任務には完全な覚醒が必要とされましょう」
司祭は奮闘の末にマーブレン・フェインを立たせ、罪人の独房へと連れていった。
《駆り立てる僧侶》 アート:Randy Gallegos |
薄暮の軍団に長期拘留用の独房はほぼ不要だったが、囚人の健康状態を判決まで保っておくために一時拘留用の独房は不可欠だった。
マーブレン・フェインは砦中央に位置する教会の地下室へと案内された。壁は土に木材を渡したもので、繊細なランプで照らされていた。司祭は行き止まりの鉄扉を開け、その中へマーブレンを案内した。人間ひとりの泣き声が壁の隙間から漏れ出ていた。
「マニュエルは賭け札の最中に喧嘩へと発展し、仲間を殺害しました」 マーブレン・フェインが独房へと続く扉に近づくと、司祭が告げた。「本日の薄暮の時、この者が高司祭様の断血を破ることになりましょう。私は儀式に必要なものを用意して参ります」
司祭は扉を閉めて施錠し、上階へと向かった。
マーブレンは独房の周りをふらついた。胃が空腹にうめき、歯は興奮に鳴っていた。
「罪人よ、聖エレンダを知っているか?」 彼は壁越しに尋ねた。
すすり泣きがその向こう側から発せられた。マーブレン・フェインは目を閉じて両手を掲げた。
「聖エレンダ、献身の極致、最初の一人にして信仰厚き御方。定命として生まれ、信仰の兄弟姉妹とともにトレゾン山中にて不滅の太陽を守りし戦士にして修道女。聞け!」
すすり泣きは小さな悲鳴となった。
「悪辣なるペドロンが彼らを皆殺しにした。罪深く、欲深く、汚らしい裏切り者が!」 マーブレンは吐き捨てた。「だがエレンダ様が、エレンダ様だけが生き残られた。九フィートの御身! 鴉の翼の如き御髪、鋭き稲妻の爪! エレンダ様は走り出てペドロンと戦い、だが不滅の太陽は翼ある空の獣によって悪鬼から盗まれたのだ!」
扉の向こうの泣き声が止んだ。マニュエルは明らかにその話を聞いていた。
「不滅の太陽を奪った獣は西へ向かい、聖エレンダはそれを追われた! 忠実なる献身よ! 聖エレンダに祝福を!」
「......その人はどうやって、最初の吸血鬼になったんだよ?」 隣の独房でマニュエルが呟いた。その壁にマーブレン・フェインが体当たりをし、彼は悲鳴を上げた。
「あの御方は天才であったのだ! 幻視人であったのだ! 闇の魔術を転じ、不滅の太陽が取り戻される日まで不死という重荷を背負われたのだ! 驚異にして才気溢れ、最先にして忠節なる聖エレンダに祝福あれ。エレンダ様は数世紀に渡って捜索し、帰還された。そう、トレゾンに帰還され、その儀式を貴族らに伝えたのだ。かくして我らはその犠牲を手に、エレンダ様とともに捜索の任に就くのだ。夜そのものに祝福されし非凡なる幻視人よ!」
マーブレン・フェインは木の壁に爪を立てた。
「私も早くにその一員となった。エレンダ様が西へ旅立つのを見届け、それを追う日を待ちわびた。耐えた。耐えた。耐えた。耐えるのは得意なのでな」
マーブレン・フェインは黙った。隣の独房から、マニュエルの重い呼吸音だけが響いていた。
吸血鬼はひざまずいた。その両手は断血の熱狂に震えていた。
彼は自分と人間とを隔てる壁の隙間に指を突き立てた。
マニュエルは悲鳴を上げた。
そして苦もなくマーブレン・フェインは腕を引き、壁を横へと叩き割った。そして厚板を引き裂き、その間を飛ぶように獲物へと向かった。
一瞬の後、その牙が罪人の首筋に突き立てられ、血の金属臭が大気を満たした。
マーブレン・フェインは歓喜とともに食らった。
突然の騒音に気付いた司祭と衛兵らが独房へ駆け下り、目の前に光景に足を止めた。彼らはマーブレン・フェインが食らう様を恭しく見つめた。吸血の衝動は呪いであり、より善きもののために自らに課した重荷だった。この吸血鬼は自らその状態に入ったのであり、それは悲しく、だが必要なものだった。彼のような犠牲なしに、自分達のものを取り戻すことはできないのだ。
マーブレン・フェインは喘ぎ、長い袖で口元を拭った。自意識がその表情に戻り、身体も次第に落ち着きを取り戻していった。
「司祭殿、そなたの名は」 その声は穏やかで整然としていた。先程までわめき暴れていた吸血鬼とは完全に正反対だった。
「マルディアと申します」 司祭は返答し、頭を下げた。「断血を破る儀式をご用意できず、申し訳ありませんでした――」
「気にすることはない、敬虔なるマルディア殿」 彼は身づくろいを終え、立ち上がると身体の前で手を組んだ。「先程の見苦しい姿を謝罪したい」
「乗組員の方々は死んでしまわれたのですか?」 マルディアは尋ね、その両手が素早く祝福の印を描いた。
マーブレンは溜息とともに頷いた。「そうだ。航海道具が壊された時、我々は岸へ向かっていた。嘆かわしいことだ。だが私は変わらず任務を続けるつもりでいる」
「高司祭様、我々にご用意できるものはありますでしょうか?」
マーブレン・フェインは穏やかに微笑んだ。「替えの衣服と、杖を。コンパスは不要だ」
ヴォーナ
《マガーンの鏖殺者、ヴォーナ》 アート:Volkan Baga |
イエードのヴォーナ、罪人の選定者、マガーンの鏖殺者は何世紀にも及ぶ戦いを通してその名声を得てきた。異統戦争は十分な楽しみを提供してくれた。剣は血に濡れたままで、彼女の渇望は常に満たされてきた。トレゾン大陸の王国は一つまた一つ、教会と国家に統一され、ヴォーナは全ての征服を満喫していた。
そして今、彼女は自身の船の甲板上に立ち、水平線上に見える鉄面連合の船をまっすぐに目指していた。
ヴォーナの人生で最高の日は、当然、第二の誕生の日だった。教会にてひざまずき、国家と教会へ永遠に仕えるために、人生を束縛する魔術を執り行った日。彼女は初めて味わった異教徒の血を、そして呪文を唱えながら唱えた誓いをしばしば思った。「我らが渇望は懺悔となり、我らが献身は生となろう。今、そして永遠に、真の不死を見出すまで、罪人の血が我らを生かす」 新たな生のうねりを、そして胃袋を突き刺す激痛のような飢えを思い出した。彼女が得た力は途方もなく、捕食者の静けさで歩き、捕食者の技術で殺した。彼女は夜の一人歩きを怖れたことはなかった。夜の魂がその心にあるために、血に流れているために。一体何故教会はずっと、血への渇望を止めさせようとしているのだろう?
無論、何世紀もの間その意見は自らの内に留めておいた。トレゾンがようやく薄暮の軍団の支配下になると、ヴォーナは平穏な人生を送るという困難な変化を迫られた。彼女は出身地にて貴族となったが、領土は貧しく岩がちで、また彼女は有能な統治者ではないことがまもなく明らかとなった。倦怠は十年続いた。ある夜、退屈を宥めるべく、彼女は単調な生活を破ろうと決めた。それは楽しく、子供の遊びのようにありふれた、時間を過ごす手頃な方法だった。彼女は寝台や畑にいる人間の農奴に忍び寄り、楽しい遊戯として全員を殺しながら幸せな一週間を過ごした。喜ばしい運動、そしてヴォーナは慎ましい領土を捨てた。
それが五十年前のことだった。
ミラルダ女王が聖エレンダ捜索の――あの聖エレンダの――船団を招集した際、ヴォーナは率先して最初に出港する船を率いた。彼女は渇いていた。ずっと渇いていた。獲物が罪人であろうとそうでなかろうと、道中それを満たせるだろうから。
自らを縛る規則など全く気にしていない、それを誰にも明かさずにいる限りは上手くいく。秘密があるというのは楽しいものだ。
《薄暮軍団の弩級艦》 アート:Titus Lunter |
そして今、鉄面連合の一隻が視界にあった。
ヴォーナは船尾に立ち、人間離れした鋭い目で海を見つめていた。今の任務は倦怠をこらえ、あの興奮を保つことだった。
「喧嘩腰」号の文字がその船腹に書かれており、乗組員は前方の嵐に気をとられていた。マストの上空に飛んだ一体のセイレーンがヴォーナの船を見かけたのは間違いなく、だが彼らは急速に暗くなる空に比べれば小さかった。
ヴォーナは飢えており、吸血鬼の忠節な目には「喧嘩腰」号は食べごろに熟した罪人に満ちて映った。海賊船に斬り込むというのは皮肉だが、倦怠を満たすには必要だった。
不意の波が船を荒々しく前方に傾け、ヴォーナは手すりを掴んで体勢を保った。
「嵐はどこから来た!?」 彼女は航海士へ叫んだ。
その人間は六分儀を岸へ突き出した。「呼び起こされたに違いありません! イクサランの川守りは名高い――」
「そいつらが何に名高いかはどうでもいい! 鉄面連合の船に向かいなさい――近づいて乗り込める距離なのだから!」
ヴォーナは司祭が杖を宙へ掲げ、渦巻く黒煙を起こして船を包む様子を見つめた。「喧嘩腰」号との距離はじれったくなるほどの近さだった(そして何より、ヴォーナは渇いていた)。
だが空は時雨の灰色から怒れる黒に変化し、ヴォーナの船は高く持ち上げられて波の先端を越え、ふらついて戻った。乗組員らは帆を上げて船を風へ向けようと奮闘し、だが絶え間ない波が彼ら全員を転覆させようと脅かしていた。
ヴォーナは白い線を見た。突き出た岩に砂浜が接していた。彼女は目を見開いたが、船が離れ岩に激突するとそれを固く閉じた。
彼女は船から投げ出され、波間に落下し、身体はぼろ人形のように荒波に揉まれたが、やがてどうにか水面に顔を出した。
《残骸の漂着》 アート:Dimitar |
背後には船の残骸が、周囲には乗組員の死体が純白の砂に点々としていた。そして目の前には鬱蒼と暗い密林の壁があった。
ヴォーナは腰ほどの浅瀬をよろめき、足を滑らせながらも進んだ。
波打ち際に上がると、打ち上げられた海藻の間に引っかかった木片につまずいた。背後の水飛沫が、他にも生き残りがいることを示していた。そしてその通りに、見すぼらしい姿となった乗組員が数人、息を切らして彼女の隣に向かってきた。彼らは問題だが、市場で見かける異邦人ほどの問題だった――彼らは生きており、集中しているものや目的や仕事がある。だが彼らの役目は自分にとって重要ではなかった。
ヴォーナの乗組員は、目的を達成するための手段だった。イクサランの岸にたどり着き、つまり彼らは任務を終えた。だが自分のそれは? ヴォーナの目的は女王自らより課された、神意に触れられたものだった。
古の感情が心臓に揺れた。イエードのヴォーナ、マガーンの鏖殺者は、これまでの人生で最も聖エレンダの近くに立っている。
野蛮な笑みが顔一杯に広がった。ついに辿り着いたのだ。
彼女は半ば歩き、半ば泳いで浅瀬を出た。数人の乗組員が助けを求め、もしくは哀れに波を叩いていたが無視した。彼女と乗組員はこの数日間、鉄面連合の船を追っていた。ヴォーナは航海士に指示して敵船に乗り込む準備をさせていた。吸血鬼らに食事をさせ、満たした状態でその先に広がる大地を探検するために。とにかく彼女や同類は力を必要としていた。そしてヴォーナは自らのそれと並んで岸に打ち上げられた海賊船を見て、これは思いがけない巡り合わせだと知った。
ヴォーナは興奮した。もし噂が本当であれば、例のコンパスを持つ異邦人はあの船の船長だ。
吸血鬼は立ち止まり、どうするべきかを考えた。このまま船長が姿を現すのを待つか......それとも密林の中で待ち伏せをするか。ヴォーナの笑みが戻った。最後に狩りをしてから、かなりの時が経っていた。
数人の海賊が背後の岸によろめいた。ヴォーナは大気の匂いをかいだ。
傷だらけの男が一人、折れたばかりの腕を抱えて砂に座っていた。その衣服は鉄面連合の貧乏人がまとう典型的なぼろ布で、顔には亜麻布のように皺が寄っていた。男はヴォーナを見つめると砂の上に倒れかかり、その疲労した脚で更に後ずさった。
「やめろ! やめてくれ! 俺は罪人じゃねえ!」
ヴォーナは大股で前進し、高慢にその海賊を見下ろした。「ミラルダ女王陛下の主権を認めるか?」
「は――はい! 認めます!」
吸血鬼は嘲った。「ならばお前は女王陛下が嘘吐きをどのように処するかを知ることになる。お前は欺瞞により教会から罪人とみなされる」
雑音と砂が彼女の布告を途切れさせ、ヴォーナは海賊の喉から発せられた悲鳴を効果的に黙らせた。
彼女は貪欲に飲み、罪人の血によって道義的に満たされるのを感じた。下品な行為だと微かに感じ、だが気にしなかった、海がこのはしたなさを洗い流してくれるだろう。
吸血鬼は飽きるほどの満足に息をつき、隣に打ち上げられた剣を拾い上げた。
ヴォーナは緑の分厚い壁へと歩き出した。
彼女は忍耐強い方ではなかった。ついて来られるなら、乗組員は追ってくるだろうとわかっていた。
それを置いても、この先に待つ任務に彼らは必要なかった。自分はマガーンの鏖殺者、不滅の太陽を手に入れるのだ。
《血潮隊の聖騎士》 アート:Bastien L. Deharme |
ジェイス
ありがたいことに、泳ぎ方は覚えていたようだった。
嵐の混沌の中、彼はヴラスカと共に投げ出された。ジェイスは水に浮いた木片を掴んで体力を節約すると、岸へ向かって水を蹴った。口の中を海水で満たしながらも、ヴラスカが浮上するのを見た時は安堵の溜息をついた。彼女が力強くしっかりとした泳ぎで隣にやってくると、二人は岸へ向かった。
「誰かが嵐を起こしたんです」 海水を吐き、ジェイスは言った。
「岸に精霊使いがいた。あそこの岩の上だ。もう見えないが」とヴラスカ。
ジェイスは近くの岩を見た。左には自分達を追っていた薄暮の軍団の船があった。それは岩に打ちつけられ、だが搭載した小型船の一つが残っていた。それは幅広の三角州近くの浅瀬に傾いて浮いていた。
「あの艀だ。あれで川を上って内陸へ行ける」 ヴラスカが言った。「皆と一緒に戻る。死ぬなよ」
ジェイスは不本意ながらも頷き、一人で砂浜へ向かった。船の事故に遭ったばかりで、今死ぬつもりはなかった。
砂浜は役立たず島のそれよりも散らかっていた。はぐれた岩や打ち上げられた海藻が点在し、そして引き潮によって全てが海の悪臭を発していた。大気には魔法で起こされた嵐の重みがあり、それが運ぶ微風には濃い湿気があった。
不快な空気だった。物事が必然的に流血沙汰になる前に離れるべきだった。彼はまるで競争のゲートに立っているように感じた。何か扉が開いてウサギが放たれ、追ってくるような。
彼は浜に打ち上げられた艀へ向かおうとした。水から出ると、嵐がもたらした途方もない損害がわかった。「喧嘩腰」号は薄暮の軍団の船腹に激突していた。両船の残骸が重なり合い、木製の巨体が交錯していた。ジェイスは水中の死体がわかったが、あえてよく見ることはしなかった。友のそれと敵のそれを見分けたくはなかった。
心臓が止まりかけた。マルコム、「短パン」、ガヴェン、アメリア。それは彼が思い出せる全ての人々だった。
ジェイスは心の内で呟く声が大きくなるのを聞いた。それは飢えて、野蛮で、何か獣のそれのようだった。右を見ると、輝く鎧をまとった一体の吸血鬼が砂の上を全速力で駆けてきていた。
恐慌がジェイスの心を揺すり、だが本能が彼を圧倒すると、時が止まったように知覚が緩慢になった。
吸血鬼の心が彼の内に現れた。渦を巻いたガラスと脆いエネルギーの小片。ジェイスは外へ知覚を伸ばし、自身の力が広がるのを感じ、目標へと届いてほんの小さなひと刺しをすべく精一杯奮闘した。彼は一つの単純な命令を発する力を溜めた。『眠れ』
時が動きだし、ジェイスは息をのんだ。目の前の吸血鬼は砂へと倒れ、地面に転がり、いびきをかいた。
ジェイスは動きを止め、嬉しい驚きとともに足元の吸血鬼を見下ろした。
「ジェイス!」
ヴラスカが駆けてきた。
『目を閉じな』――聞こえるように、彼女が心で大きく叫んだ。
ジェイスが目を固く閉じると、背後の砂に何か重いものが倒れる音がした。
振り返って足元を見ると、石と化した吸血鬼が横たわっていた。まるで美術館から落ちてきたようだった。吸血鬼は走っているそのままの姿で固まっており、衣服は彫刻ではありえない薄さ、そしてその詳細が顔の毛穴までとらえられていた。何も知らなければ、これは達人の手で彫られたものと考えただろう。ほとんど美しいと言ってよかった。
ヴラスカが彼の前にやって来て立ち止まった。
「エドガーが死んだ」 彼女は厳しい声色で言うと、背を向けて船へ向かった。眠った吸血鬼と石となったその仲間を放ってジェイスも続いた。
「喧嘩腰」号の生き残りは衝撃を振り払い、戦いに備えていた。数人の吸血鬼が鎧の明らかな重さを気にする様子もなく、岸へと泳いでいた。彼らの力はただ食事のためだけではないように思えた。
「短パン」がその背後に尾を浮かせながら、砂の上を軽やかにヴラスカへと駆けてきた。
「オレら戦う、船長行って!」 彼は叫んだ。ヴラスカは膝をついて目線を合わせた。
「私ら全員で行くんだよ」 彼女は簡潔に言った。
「短パン」はかぶりを振った。「オレら薄暮と戦う、船長太陽見つける! 後で会う!」
「どうやってだよ?」
「すごいマボロシ追う!」 「短パン」はジェイスを指さした。
ヴラスカは頷いた。「私らが上流でボートを降りたら、ジェイスが何か背の高いものを作る。一時間ごとにマルコムを飛ばして探させな」 ヴラスカはそう言って「短パン」へ毅然と頷いた。
ゴブリンは頷き返し、仲間へと二本脚でよろめきながら戻った。それぞれの手には恐怖の人形のように小さなナイフを振りかざしていた。
「短パン!」 ヴラスカは今一度呼びかけた。ゴブリンは振り返り、その背後にいる他の乗組員らも船長の言葉へと耳を傾けた。
「ここに長くいるつもりはない。現地民は放っておきな。けど吸血鬼は見つけ次第殺すんだよ」
ゴブリンはにやりと笑い、「喧嘩腰」号の乗組員は武器を抜いて残った吸血鬼へと突撃した。
ジェイスは夏の熱気にもかかわらず身震いをした。海賊船に乗ったことを感謝した。
「ベレレン! 一緒に来な!」 彼女は呼びかけ、そして川に浮く小舟へと向かった。
ジェイスとヴラスカは重い足取りで砂浜を駆け、砂洲近くの船へ向かった。足元は滑らかで湿った表面から粗く乾いた砂へと次第に変わり、二人の靴がそれを蹴り上げた。二人は自らの血に濡れた海賊の死骸を通り過ぎ、ヴラスカは悪態をついた。血の足跡がその死体を離れ、鬱蒼とした密林へと消えていた。
ヴラスカは走りながらジェイスを振り返った。「ジェイス、私らを隠せるか」
彼はその言葉に従って目を閉じ、自身とヴラスカへと不可視の覆いを念じた。彼は自分達の動きを隠して砂浜を駆けながら、同時に足跡を隠す幻影を唱えた。
ヴラスカは河口の浅瀬に飛沫を上げ、小船に乗りこんだ。ジェイスも身体を持ち上げて続き、息を整えようとした。
ジェイスの幻影に守られ、ヴラスカは忙しく帆を張りにかかった。
その船は小さく、漁や偵察行のために意図されたものらしかった。黒い帆がはためき、不意に起こった内陸の微風が二人を密林の上流へと押し流した。
ヴラスカが言った。「できる限り風を使えればいいんだが。先に行くにはかなり漕がないといけないからね」
二人は砂浜の差し迫った戦いを見つめていたが、木々の迷路を過ぎると「喧嘩腰」号の姿はもはや見えなくなった。戦いと波の音は昆虫の鳴き声や頭上のトビトカゲの呼び声に代わった。
ここの密林は役立たず島のそれとは異なっており、ジェイスは木々の規模に驚嘆した。彼がいた島では空間的な制約があったが、ここの木々は大きく高く広がっていた。
ヴラスカはせわしなく動き、次第に衰える風を帆に捉えようとしていた。そしてしばしの後でそれを諦め、座席の下からオールを取り出した。その表情には明らかに心配があった。
「皆が心配なんですね」 ジェイスが言うと、ヴラスカは頷いた。
「ああ。けどあいつらは自分で何とかできるさ。私は船長であって母親じゃない。敵を始末したら追ってくるだろうよ」
木々の梢が空を覆いはじめた。
《森》 アート:Min Yum |
影と緑が小舟を包み、川は狭まって深い水路へと変化していった。枝は頭上で交差し、太陽は完全に見えなくなった。大気は濃く湿って、水気のある土の匂いがした。
彼は船腹から水を覗きこんだ。魚の群れがその下で遊ぶように泳いでいた。濁った水でもその姿がわかった。
顔を上げると、ヴラスカが意味ありげな視線を投げかけていた。その表情だけでは意図が読み切れなかった。そこにある躊躇に、気分が悪そうに見えたほどだった。
「どうしたんですか?」
彼女は深呼吸をした。
「私ら二人とも、ここから来たんじゃないんだ」 彼女は口を滑らせたように言った。
ジェイスはきょとんとした。「ですよね。俺達はラヴニカって所から――」
彼女は顔をしかめた。話すのは不本意でなく、だがそれを黙っているのは更に居心地が悪いような様子だった。「ラヴニカはこの次元にはないんだ」
ジェイスは精一杯眉をつり上げた。「この......次元?」
ヴラスカは明らかに、言おうとしている内容にそぐう言葉を探していた。彼女はコンパスを仕舞いこみ、手振りとともに続けた。
「最初にここに来た時、身体が消えてまた現れた、そして頭の上に模様が現れたって言ったよな?」
ジェイスは頷いた。
ヴラスカは息を吐き、集中した。奇妙な影がボートにかかり、そして彼女の身体が消えた。
ジェイスは驚いて飛び上がり、川の流れへと落ちかけた。
そして突然の落下音を聞き、急ぎ振り返るとヴラスカが船の端に現れていた。先程と同じ場所、ただ船が上流へ向かった分だけずれた――そしてあの同じ、三角形と円の模様が彼女の頭上に現れていた。
ジェイスは驚きに顎を大きく落とした。
ヴラスカは小さく自分を示してみせた。「私もなんだよ。そして通常なら――」 そして自分達二人を示し、「――ああすれば――」 更に周囲を示して続けた。「――他の世界へ旅することができる。私らは、プレインズウォーカーっていうんだ」
一度に受け入れるには、あまりに多くかつ新しすぎる情報だった。即座に三十もの疑問が心に浮かび、最初の一つをジェイスは発しかけた。
ヴラスカは掌を見せて彼を止めた。「言い終わるまで待ちな! さて、プレインズウォークしようとしても、何かが私らを引き戻す。そしてここから離れられない。わかる? 思うに、オラーズカには不滅の太陽があるだけじゃなくて、私らをここに閉じ込める力があるんじゃないかって。不滅の太陽を見つけたら他の次元に連絡する呪文を私は教えられた。そうすれば私らも同じくここを離れられると思うんだよ」
「そんなことができ――」
「私に航海術を教えたドラゴンがそう言ったんだよ、ジェイス。この先、何ができるかなんて誰もわかんないさ」
ジェイスは幾つもの手がかりをまとめるために途方もなく興奮していた。彼はヴラスカの目を見つめ、声の限りに考えを述べた。「俺達はそのコンパスがただ都を指してると思ってました、けどそれは強い魔力が発散された所を指すんです」 彼はヴラスカのポケットを顎で示した。「磁北じゃなくて魔力が向く方角を指すんです、そして似たような大きな魔力が別の所に現れた時も。だから、ヴラスカさんが俺を見つけた時、それは俺を指してたんです。だから、きっと今はヴラスカさんを指していると思います。船が転覆する前に言おうとしたんですが」
ヴラスカがコンパスを取り出すと、針は彼女を指していた。だが頭上の模様が消えると、それはゆっくりと元に戻った。
ジェイスは確証に頷き、「魔力が向く方角」を針が指していると知りつつ、コンパス脇のスイッチを操作した。スイッチを交互に動かしても、オラーズカを示す針は変化しなかった。「魔力の向きとオラーズカの角度を測って、正確な進路を地図にできます......もしくはヴラスカさんがやっていたように、大きな魔力の方角にそのまま向かうか。片方はあまり鮮やかな方法じゃないですが、上手くいきます」
「それは......凄いな」 ヴラスカはそう言って、魔学コンパスへ瞬きをした。そして表情を緩め、笑い声を上げた。「私らがプレインズウォークに使うのと同じ魔法に守られてるってことか! だからコンパスはそっちへ向くのか! お前がそれを解明するなんて!」
ジェイスは照れくささを上手な困惑で誤魔化した。ヴラスカは続けた。「コンパスが示すものを見つけられなかったら、私をここに送り込んだ奴に始末されるだろうって確信してたんだ。けどこれで何とかなりそうだ。お前のおかげだよ!」
「俺達それぞれに、それぞれの才能があるんですよ」 ジェイスは謙遜して答えた。
ヴラスカは歯を見せて笑った。「お前のは凄いよ!」 彼女の言葉がそこで途切れた。その表情の何かが変化した。和らいだ。「ジェイス、プレインズウォークのことを黙っていて悪かったよ。最初にお前を見つけた時、信頼していいかわからなかったんだ。もう隠し事は無しだ」 彼女がオールを漕ぐと、波が船腹を優しく叩いた。「孤高街に寄ったあの夜、お前が言ってくれた事への礼を言ってなかったな。あんなふうに私の話を聞いてくれたのはお前が初めてだった。ありがとう」
ジェイスは微笑んだ。「貴重なお話でした。教えてくれてありがとうございます」
そしてヴラスカが返した優しい笑みに、ジェイスは止まった。無防備な、心からの笑み。目と目が合った。
彼女は漕ぐのを止めていた。
この密林の全てが鮮やかに、そしてこれ以上なく満たされていた。全てに深い意義を感じた。ジェイスの内に何十という疑問が列を成し、平凡な問いも風変りな問いもごた混ぜに、そしてその全てが他のものと全く異なっていた。この人は本が好きだろうか? 次元と次元の間の哲学的空間は何で満たされているのだろう? プレインズウォークは普通の呪文を唱えるのとどう違うのだろう? この人の好きな甘味は何だろう?
だが心の隅の何かがジェイスの注意を惹いた。
彼は川の土手を見つめた。そして数秒の間静かに座ったままで力を伸ばし、自分達が追われているかどうかを確認しようとした。ボートの不可視呪文は保たれていた。周囲の大半はほぼ無人、だが外縁に幾つかの印象があった。彼は集中し、力の限りに認識の範囲を広げた。
ヴラスカは真剣に彼を見つめた。「何か感じたのか?」
ジェイスは頷いた。「人間が一人、吸血鬼が一人、マーフォークが一人......それとミノタウルスが一人」
ヴラスカは困惑に顔をしかめた。「ミノタウルス?」
ファートリ
深いマングローブは粗い砂地となり、ファートリは乗騎が一歩進むごとに純白の砂浜へわずかに沈むのを感じた。彼女は振り向いて、副官へと短い手振りをした。ここはあのマーフォークが最後に目撃された地域だった。
彼女はここで、黄金の都への案内人を見つけるつもりでいた。
《恐竜騎士、ファートリ》 アート:Anna Steinbauer |
その大きな挑戦を思い、ファートリの意欲が湧いた。
乗騎の鉤爪竜が反応し、興奮の小さな叫びを上げた。
恐竜と乗り手の繋がりは強いものだった。ある者は恐竜が孵化した瞬間から乗騎として育てるのを好む。ある者は野生の個体を捕獲して魔法的に刷り込む。ファートリは非常に実践的だった。乗騎は子供でも愛玩動物でもない。尊敬をもって扱われる道具であり、戦士としての自身の延長だった。
前方の空は怒れる灰色で、海へ突き出た岩に大荒れの波がぶつかっていた。その近くには二隻の難破船が見えた。一つは鉄面連合の色、もう一つはその壊れたマストに薄暮の軍団らしき黒い帆の残骸があった。
一つの人影が目にとまった。人間には違いないだろうが、それはファートリが見たこともない姿をしていた。
その女性の皮膚は翠玉色、むしろ爬虫類のそれに近く、黄金色の瞳を荒々しく輝かせながら仲間の生存者を探していた。その頭からはもつれた蔓が伸びて宙を舐め、上下の衣服は船長のそれだった。
ファートリは船に近づくべきではないとわかっていた。マーフォークが起こした嵐は船を座礁させるほど強かったが、恐らくその中の全員を始末はできなかったのだろう。戦士としての鍛錬が侵略者との戦いを促したが、今は余計な行動をすべきではないと彼女は知っていた。
インティがファートリの右にやって来た。彼はファートリと同じ小型で素早い鉤爪竜ではなく、ずっと大型で逞しい剣牙竜に乗っていた。インティは隊長を見下ろすと、難破船近くに飛び出た鋭い岩を指さした。そして別の手でファートリの鞍の脇に下げられた網を叩いた。
ファートリは頷いた。彼には嵐を起こした川守りが見えているに違いない。
彼女はテユーへ向き直った。「街へ戻って、部隊を呼んで生き残りの侵入を防いで」
テユーは頷いて襟巻角を促し、暗緑の密林へと戻っていった。
ファートリとインティは密林が砂に接するすぐ内側を浜に沿って切り裂くように進んだ。マングローブと塩水の中、二人はインティが目的地とした岩を目指した。
背後の砂浜で、二人は男の悲鳴を聞いた。ファートリはその衝撃的な光景を見るために振り返りはしなかった――そうすれば集中が逸れてしまうとわかっていた。代わりに、彼女はその機敏な鉤爪竜を前方へ促し、密林から眩しい日の光へと飛び出した。悲鳴は背後で不意に途切れ、そして彼女は前方の岩に何者かが横たわっているのを見た。ファートリは乗騎を駆り、よく見ようと近づいた。
そこに、広大で果てのない海を見下ろす岩に、意識を失った女性のマーフォークが横たわっていた。
《轟く声、ティシャーナ》 アート:Anna Steinbauer |
その女性は年老いて見えた。長い鰭は先端で色褪せ、顔の周囲には翡翠の装飾品が動かずに浮いていた。何者かはともかく、このマーフォークが嵐を起こして二隻の船を沈めたに違いなかった。そしてファートリはこの人物が重要だと感じていた。その通りであるなら、オラーズカの場所を知っているかもしれない。
不安がファートリの胸に増した。当初この計画は拙いものに思えた。だが目の前のマーフォークの姿に、これは遥かに困難だと彼女は感じた。
どう納得させれば、太陽帝国最古の敵に手助けをしてもらえるのだろう?
勇気が胸にうねり、決心に眉を引き締めた。方法は見つけてみせる!
ファートリは近づき、恐竜から降りた。歩いて向かうとそのマーフォークは身動きを始め、やがてふらつきながら上体を起こした。その老マーフォークは目に見えて意識をしっかりさせ、その両目をファートリとその隣のインティに定めると、驚きに顔の鰭を後方へ鋭く動かした。
「あなたを攻撃するつもりはありません」 ファートリは力強く言った。
そのマーフォークは目を閉じた。
ファートリは苛立った。何をしようと?
マーフォークは息を吸い、吐き、そしてファートリの凝視を受け止めた。「あの子はもう向かっています。私の邪魔はおやめなさい、でなければ私がやめさせます」
一体どういう意味だろう? ファートリは武器を強く握りしめた。川守りの言い回しは不可解なことで有名だった。案内人になってくれるよう交渉するのは難しいとわかっていたが、この一人との交渉はまるで太陽帝国のシャーマンに今日食べるべきものを尋ねるようなものだと感じた。直接的な回答は決して返ってこない。
「私はファートリ、太陽帝国の戦場詩人となる者です。あなたのお名前は?」
「川守りのティシャーナ」 マーフォークは慎重に答えた。「そしてイクサランは危機にあります」
彼女が片手で宙を鋭く掻きむしると、一つの波が下の岩に打ちつけた。
これは威嚇。ファートリは容易く脅されはしなかった。彼女は退かなかった。「何故イクサランが苦難にあるのですか?」
ティシャーナの鰭が顔の両側で動揺にはためいた。「ある川守りが私の忠告を無視し、今やあの地を目指しているのです。クメーナは長きに渡って貫いてきたものを根本から崩そうとしています」
そのマーフォークに、ファートリは太陽帝国のシャーマンと少々変わった叔母を会わせたらどうなるか、そのようなことを思った。賢明で明敏な神秘家と、天性の風変りな語彙の持ち主。
「私はオラーズカを目指しています、ですが案内が必要なのです」
マーフォークは鰭を震わせた。「何ですって?」
「彼女は、それを見たのだそうです」 インティが割って入り、ファートリを見た。
マーフォークは鰭を広げた。
ファートリは慎重に言葉を選んだ。「私、奇妙な魔法を用いて、黄金の都を見たのです」
ティシャーナの顔に感情はなかった。「黄金の都を見た、と?」
「そうです」
「あの、黄金の都をですか?」
ファートリは眉をひそめ、当惑した。何度も繰り返したやり取りだった。「オラーズカを見ました」 彼女ははっきりと答えた。
インティが慎重な声で割って入った。「太陽帝国も川守りも、身を守るためには黄金の都を見つけねばなりません」 そして彼は砂浜の惨状を示した。
ティシャーナはファートリへと向き直り、疑問とともに近寄った。その表情は固く真剣で、捕食者のように狙いをつけていた。「あなたはただ、そこへ行きたいと? 手に入れるためでなく? あなた自身やあなたの帝国の名のもとに手に入れるのでなく?」
ファートリは口を固く閉ざした。彼女は膝をつき、武器を地面に置き、両目に完全な尊敬を宿してマーフォークを見上げた。
「私の内なる何かが、都を見させたのです。それは私の任務が、太陽帝国と川守り両方が生き残るために極めて重要なものである証拠だと確信しています。我々は敵同士ではありません」
マーフォークは黙り、ファートリの表情を観察した。従属するように膝をつき、まっすぐに見通され、ティシャーナの凝視を受け止めるとファートリは自分が非常に未熟であるように感じた。
ティシャーナは目蓋を下げて唇を片側に動かし、どう返答すべか考えた。そして片手を下ろし、ファートリの額の前に置いた。
ファートリは奇妙な温かさを感じた。まるで誰かが胸の内なる炎を刺激したような。
ティシャーナは目を開けた。「あなたを感じました、数日前のことです」
ファートリは驚き、思わず反射的に見上げた。
彼女の反応を無視してマーフォークは後ずさった。「我らが世界のエネルギーを大きく引く力を感じました、まるでイルカが川面を跳ねようとするように」
ティシャーナは少なからず狼狽していた。ファートリは隠喩に慣れていないわけではなかったが、このマーフォークは水準からして完全に異なっていた。
「それが何か、御存知なのですか?」 ファートリは催促するように囁いた。
マーフォークは瞳孔を細くした。「私にわかるのは、この世界の水面は下から破れないということだけです。落ちることはあっても、ひとたび沈んでしまえば飛び出すことは叶いません」
ティシャーナが何を言おうとしているのか、ファートリは全くわからなかった。
「今朝、同じ力を感じました。海の方角です。同じく二か月前にも、水平線の遥か先に。ですがそれはあなたのものではありませんでした」
マーフォークは膝をつき、ファートリと目を合わせた。「世界の端へ浮上した際に都を見たというのなら、あなたを信じましょう」
インティはファートリを見下ろし、誇らしく微笑んだ。ファートリは、彼が助けに入ってくれたことに感謝した。
「ですが告げておかねばなりません、ファートリさん」 ティシャーナは睨み付けた。「都へ向かうのは、クメーナを遠ざけるためです。あの子の存在はあなただけでなく、私達をも脅かすでしょう。そして、もしもあなたがオラーズカを自らのものにしようとするなら、私は躊躇わずに殺しますからね」
この探索行がどう展開するのか、ファートリの不安が深まった。とても奇妙な旅になろうとしている、だが他に選択肢はなかった。
「ありがとうございます、ティシャーナさん」
ファートリは乗騎に登り、一緒に乗るようマーフォークへ片手を差し出した。
ティシャーナはその手がまるで虫でできているかのように見た。「自分で行けます」 彼女は顔をしかめた。
マーフォークは脇に下げた鞄から小さな翡翠像を取り出し、地面に置いた。
《歩哨のトーテム像》 アート:Anthony Palumbo |
そして片手を挙げると、翡翠像の緑の斑模様が蛍のように内から輝きだした。
彼女らが立つ岩、それを縁どる石や蔓が震えだし、鉄が磁石に引き寄せられるように翡翠像へ向かった。岩と木は湾曲し、広がるとともに像を取り上げ、エレメンタルの姿を作りだした。瞬く間に、美しい彫刻だったものはファートリの鉤爪竜ほどもある獰猛なエレメンタルとなった。
《野茂み歩き》 アート:Ryan Alexander Lee |
木が足かがりとなった場所へ、ティシャーナは片足をかけた。そしてその上に登ると、呼び出したばかりの乗騎の頭を掴んだ。
「ついて来なさい」
ファートリは息をのんだ。この女性は途方もない力を持っている。
彼女は自身の恐竜を転回させ、砂浜で繰り広げられた無秩序の極みを見下ろした。数人の生存者が二隻の船から逃げ出してきており、血の大きな染みが砂浜の白色を汚していた。一体の吸血鬼が深い密林へと走った。
ファートリは逃走する征服者を指さした。「インティ、あいつらを尾けて! 追い払えたら、雨林の方へ私を追ってきて」
インティは岩の脇を滑り降り、密林へ入った。
ファートリはテユーへ向けて口笛で短い旋律を吹いた。その訓練を覚えていてくれたことを彼女は密かに感謝した。テユーは命令を聞くと直ちにインティと吸血鬼を追い、密林の中へ向かった。
オラーズカへ向かって走っているのは間違いない、ファートリは独り笑った。哀れな蛭。
鉤爪竜を急かして岩から降りると、詩の冒頭が心に花開いた。そして壊れた船を見て、この探検を語る詩の始まりを呟いた。
蛭の船が、蚤の船を追いかけて......
「止まりなさい。川の方へ向かいます」 ティシャーナが命令するように、マーフォークは乗騎のエレメンタルを転回させ、川へ向かった。ファートリはすぐに追い、ティシャーナの隣で止まった。
ティシャーナは多忙な学者のようにじれったく溜息をついた。「何者かがそこで幻影を作っています。水面です」
ファートリはマーフォークの手が示す先、川が海水と混じり合う付近を見て立ちすくんだ。川の流れは緩く静かで、それを妨げる波はなかった。だがそこに、穏やかな航跡が水を切っていた。その源は見えず、水面下を泳ぐものも明らかになかった。
「あれは......奇妙ですね。本当に幻影なのですか?」
ティシャーナは嘲笑った。「私はあなたが生まれる前から幻影を唱えてきたのですよ」
「ですが、あれは薄暮の軍団の生き残りだと?」
マーフォークはかぶりを振った。「あのような幻術は彼らに叶わぬ技です。更に大きな脅威かもしれません」
そして何も言わず、マーフォークはエレメンタルを雨林へ向けた。
ファートリは苛立ちにうめき、乗騎を促して速度を上げた。二人は視界に奇妙な航跡をとらえたまま、深い密林に駆け入った。
葉と蔓がファートリの顔を叩き、彼女の心は期待を歌った。結局のところ、こうするのが正しかったのかもしれない。今の状況は、何もかもが馴染みなく同時に落ち着かないものだった。ファートリは不安を感じているとは認めたくなく、とはいえ今のところ物事は上手くいっているように思えた。彼女が知る限り、望んで太陽帝国の戦士の力になってくれた川守りは今までいなかった。
それでも、ティシャーナの協力は並外れて奇妙なことのように思えた。このマーフォークは自分を利用しようとしているのだろうか、ファートリはそう訝しまずにはいられなかった。ティシャーナのことを理解できないのはどうしようもなかった。
ファートリの鉤爪竜が興奮に鳴き声を上げた。密林の植生に、その足音が一定の律動を叩いた。
「太陽帝国はあの囁きを耳にしましたか?」 ティシャーナが、叩きつける葉と湿った密林の風に負けじと叫んだ。
「それは実際の囁きですか、それとも噂という意味ですか?」
マーフォークは説明の要求を無視した。「我らの一人が孤高街の前哨地で会話を耳にしました。後にあなたがたの仲間からも同じ内容を聞きました。鉄面連合のとある船長が、黄金の都を示すコンパスを持っていると。その女性は翠玉色の肌に――」
「......蔓のような髪?」 ファートリがそう言い終えた。
マーフォークは黙った。岩と木のエレメンタルが響かせる足音だけが密林の静けさを破っていた。
ファートリが言った。「船の残骸の中にそれらしき者を見ました。もしあなたが言うものを持っているとしたら、あの航跡は間違いなくそれです」
「熟練の幻影使いに違いありません」 ティシャーナの両目は川の航跡を追った。
ファートリは恐竜の手綱を強く握った。「でしたら備えなければいけません。川が狭まって彼らがそれ以上進めなくなったら、攻撃します」
「より必要なのは彼らの死ではなく、そのコンパスです」とティシャーナ。
「彼らを殺すつもりはありません」 ファートリは感情を損ない、怒りとともに言った。
ティシャーナは舌打ちをした。「朝に欠かせぬ霧です」そして思慮深い頷きを見せた。
ファートリは苛立ち、唇の内側を噛んだ。「はっきり言って頂けますか、霧とは――」
「オラーズカの場所は我ら自身にすら秘密なのです」
ファートリの自信に大穴があいた。
「御存知ではないのですか......何も?」
マーフォークは睨み返した。「大まかな位置を知っています」
ファートリは口を固く閉ざした。彼女は深呼吸をし、襲い来る不満を隠そうと全力を尽くした。「ですが太陽帝国領土の先にある、そうですよね?」
「パチャチュパとクェザトルを隔てる山岳地帯を越え、そして湖を渡ります」
ファートリは脳内に地図を思い浮かべた。「失われた谷間の北ですか、南ですか?」
「南です」
「御存知なのはそこまでですか?」
「そうです」
ファートリは頷いた。どうにもならないと感じた。
そのコンパスを手に入れなければ。
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