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Magic Story -未踏世界の物語-
未来へ
未来へ
Magic Creative Team / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2017年2月1日
著:メル・リー/Mel Li、ケリー・ディグス/Kelly Digges、アリソン・ルース/Alison Luhrs、ダグ・ベイアー/Doug Beyer、クリス・レトアール/Chris L'Etoile
前回の物語:闇の手先
テゼレットは打ち負かされ、ドビン・バーンは姿を消した。多元宇宙のあらゆる生命への脅威であった次元橋は破片と化し、その発明家ラシュミは再びそれを建造することはないと友人サヒーリ・ライに誓った。ゲートウォッチは、そしてカラデシュの人々はこれから歩んでいく道を決めねばならない......未来ある者らのために。
チャンドラと母ピアにとっては、互いが死んだと思っていた十二年を経ての再会であったが、その日々はあまりに短いものだった。
ドゥーンド収容所はギラプール市の地下、中心から渦巻状に広がる狭い地下トンネルだった。その内では遵法長ディレン・バラルの油断ない視線の下、諜報部員、領事府兵、そして囚人の群れが労苦に耐えていた。
少なくとも数週間前までは。
ドゥーンドの秘密活動がどれほど広範囲に及んでいたのかについては、閉ざされた唇と血に濡れた掌の跡をたどる長い調査を要した。ほどなくして改築計画が立てられ、許可され、動きだした。
諜報部員と兵士らは都市中の新たな部署へと配置転換された。数人は自首した。何百人もの囚人は――そのほとんどは遠い昔に「行方不明となった」魔道士と改革派だったが――数時間のうちに全員が釈放された。廊下には独房の重々しい扉ときしむ蝶番の悲鳴が反響したが、それも自由となった人々のつんざく歓声にほぼかき消された。独房で所有していた僅かなものを置いたまま、彼らは振り返ることなく去った。
次に現場監督らがやって来ると、僅かに残る囚人を収監した中心部を除いて取り壊しを始めた。圧縮空気式の力強い鎚が天井の骨材に穴をあけた。花崗岩と真鍮の塊が轟音とともに降り注ぎ、その上の都市区画全体を震わせた。
だがこの日、通路には誰もいなかった。都市全体を光と色彩で覆いつくす二日間の祝祭の間、解体作業は停止していた。それは新たな領事府の指導体制を称えるもので、改革派の関係者もその中に含まれることが約束されていた。「改革派の長」ピア・ナラー自身もそうだった。
この新たな領事府はきっと、「印象的な」一歩をギラプールに刻むことだろう。パディーム領事が外の群集へと稀な熱意で約束したように。
《結束への呼びかけ》 アート:John Severin Brassell |
二人分の足音がドゥーンドの虚ろな残骸に響いた。ピア・ナラーとチャンドラ・ナラーが、残された中心部へ向かって壊れた廊下を進んでいた。天井の穴から、鮮やかな爆発が見えた。金属の粒子をうねらせる色鮮やかな鳥――二人の頭上、街路の行進から放たれた花火が。
「すごい色! 一体どうやったの?」チャンドラは驚きに息をのんだ。「ケラル砦でもあんなのはできないわよ!」
ピアは首を傾げた。「何砦?」
「ケラル。んと......長い話になるから後でね」
「色について言えば、花火に銅の粉末を少しだけ混ぜてあるの。パースリー夫人に頼めば鞄一杯にくれるわよ」 ピアはそう言って、娘の頬に軽い口づけをした。
遅い午後の陽光が太い柱となって薄暗い内部に差し込んでいた。頭上では細い通路がアーチを描き、その根元はジャスミンとマドハビの蔓に侵食されていた。痛んだ床へと斑に落ちた土が、春の微風に流れてきたまばらな苗の寝床となっていた。
チャンドラは開いたままの独房の中、そのかつての住人が残していったものを覗き見た。木製机に刻まれたもの。半分ほど残された蝋燭が一本。魔道士を拘束する金線の手枷、子供向けの大きさの。チャンドラはその繊細な表面に指を滑らせ、記憶に残る痛ましい手触りを感じた。
廊下で、ピアは一本の霊気管を外側から手袋の金属の指先で押した。反応はなかった。それはこの数時間、もしくは数日間暗いままだった。蓋を開けたが何もなかった。ただ残余霊気の一吹きが、消える寸前にピアの鼻孔を突いた。
「きちんと回されてるわね」 ピアは満足とともに頷いた。「計画通り、速接会地区に」 彼女は領事府の印を格子状の表に押し付けた。
チャンドラは独房の一つから頭をのぞかせた。「お母さん、何だかもうすっかり......」 そして咳払いをし、囁き声を力一杯に発した。「あのさ......」
「そこのお嬢さん?」 わざとらしい抗議口調。
「......配分の領事様」 チャンドラは抑揚をつけて言った。堅苦しい無表情で、だがその試みは失敗して歯を見せた笑いを彼女は見せた。
「うーん」 ピアはたじろいだ。「大声で言われると何だかね。ところで、お母さん領事に手を貸してもらえません?」
二人は支え合い、落下した通路の骨組みの残骸を越えた。
「領事と一緒に働くのってどんな感じなの?」 チャンドラは屈み、通路に巻き付くジャスミンの芳しい蔓を解いた。そして一本の枝を優しく取り除いて手首に巻き付けた。
「......怖い、かな」
「お母さんでも?」 チャンドラは声を上げた。「外でお母さんを見たよ。すんごい英雄扱いだったじゃん!」 彼女は一瞬言葉を切り、そして顔を紅潮させた。「つまりさ、お母さんは今でもそうでしょ! ただ......私が上手に戦えてたら......変わって欲しくなかったと思う」
「変わる......」 ピアは唇から離れたその言葉を思った。「改革派の長」になる以前の日々を思い出せるだろうか? 法から逃げ出す前を? 私達が「改革派」と名付けられる前を?
ピアは娘を一瞥した。陽光の斑の中へ踏み出すと、チャンドラの髪と鎧が燃え立つ金色に輝いた。私の小さな娘......だが不意に何か全くの別人になった。チャンドラ、巨人の殲滅者、霊気塔から爆発したマナと光の標。一人の革命家。大人の女性。
「今思い出せるのは、戦ってたことだけね」 ピアは居心地悪い笑い声とともに言った。「でも世界は変わった。少なくとも私はそうだと思う。私も変わらないとね、何か新しいことを学んで」
二人は角を曲がり、牢獄の壁の影へと戻った。そしてそこにいたのは昔のチャンドラだった――鎧はくぼんで傷つき、もつれて縮れた髪には昨日食べた野菜の欠片が引っかかっていた。ピアは人差し指の先を舐め、熟練の正確さでその腹立たしい野菜屑を摘み取った。
手つかずの牢獄中心部に到着し、通路は唐突に途切れた。古く苦い、ドゥーンドの中心。狭く高い天井に窓はなく、握りしめられた拳のような窮屈さだった。
分厚い真鍮の扉が目の前にあった。すり減った金属の格子は使い込まれて鈍く光り、一枚の厚いガラス窓が部屋の中を覗かせていた。扉の片側に真新しい記録簿が下げられていた。名前、収監日、監視体制。訪問者の名はなかった。
「霊気は確認。さて......」 ピアの声はかき消え、彼女はチャンドラへと向き直った。「......一緒にここへ来なくても良かった、それはわかってるわね?」
チャンドラは不意に、母を強く抱きしめた。「わかってる。でももうちょっとこうさせて。いいでしょ」 チャンドラはそう言って、顔を母の髪にうずめた。機械油とカモミールの香りがした。「一緒にいたいの、お母さん」
透明で温かいものが視界を揺らし、まばたきでそれを振り払いながら思った。その言葉を十二年間、待っていた。
ピアはゆっくりと息を吐き、格子を開けた。
ガラスの向こう、独房は広々としていた。しみ一つなく清潔だった。通路に並ぶ他の独房とは異なり、ここに個人的なものは全くなかった。何もなかった、その孤独な住人以外には。
鎧や仮面、武器が欠けていたためかもしれない。だがその男は二人の記憶よりもずっと小さく見えた。
その重苦しい姿は簡素な麻布の衣服に包まれ、両手には線条細工と黄金でできた魔道士用の手枷がはめられていた。
《ヴィダルケンの枷》 アート:Svetlin Velinov |
千もの言葉が脳裏にうねった――だがピアが発せたのは一言だけだった。「バラル」
ディレン・バラルは格子へと振り返った。霊気拠点での出来事の報い。頭皮は赤くなり、ひび割れた一部からまばらな髪の房が突き出ていた。体じゅう傷だらけで無事な箇所はまれだった。長く、よじれた筋が四肢に絡みつき、真紅と紫の斑点が浮かぶ鮮やかな桃色の塊が飛び出していた。
「検査官に送り込まれたのだな、私を闘技場で処刑するのだろう」 バラルの声はかすれていた。「実に相応しい。私が他の魔道士にそうしてきたように」
ピアはかぶりを振った。「闘技場はもうありません。検査官もいません。あなたの刑期はここで始まって終わるのです」
バラルは鼻を鳴らした。「馬鹿馬鹿しい。領事府の安全は、ギラプール全ての安全は、検査官の手にかかっている! 他に誰があの化け物を狩るというのだ?」
「誰も――いえ、化け物などいません、今も昔も」ピアが言った。
「バーンか、そうだろう? あの意気地なしの役人どもはまったくもってわかっていない......奴等の中に潜む汚れにな。私が、ずっと彼らを守ってきたのだから当然だがな! 奴等は私を闘技場で処刑する権利がある――私に当然与えられるものだ」
「あなたの要求の問題ではありません」ピアは静かに言った。「正義のためです。検査官、魔道士狩り、公開処刑......私達はもう、そのような世界に生きてはいないのです」
「世界の何を知っているというのだ?」 バラルの声は鋭くなった。「お前たちは逃げ隠れるために生まれてきたのではないか? はぐれ者よ?」
「今まではね」 バラルへ向き直りながら、チャンドラは言った。
ガラスの向こうで、バラルはかすれた笑い声を胸からしぼり出した。
「ちびの化け物が! お前とは決着がついていなかったな」
ピアの神経がシタールの弦のように張りつめた。「この子に話しかけないで」
「どんな終わりになるかはわかっているぞ。母親の手を汚さぬよう、一度限り良いことを成せ」 バラルはチャンドラへと吼えた。「想像してみるがいい、私の喉にお前の刃が当てられる。この骸のような身体を燃えがらにする、その時の私の視線を」 青い目が虚ろな影の中、きらめいた。
「チャンドラ」 ピアは穏やかな声で言った。「ここにいては駄目。聞いては駄目。この男はもう私達とは関係ないのだから」
バラルは独房の窓へと顔を精一杯近づけ、太い指がガラスに押し付けられた。
「仕返しをするがいい。肉には肉――お前の父親の屍には私の......」笑みがゆっくりとその顔に広がった。
チャンドラの周囲の空気が揺らめき弾けた。両手が拳に握りしめられた。
「......化け物には化け物を」 その笑みは荒れた頬へ太い傷跡の線を浮かび上がらせた。
「私は化け物なんかじゃない!」 橙がかった金色の火花がチャンドラの拳から弾け、雨粒のように床へと落ちた。
母はチャンドラの肩に腕を回したが、そこから発せられる熱にひるんだ。「違うわ。あなたは化け物なんかじゃない。お父さんも私も、あなたのために喜んで人生を捧げる。チャンドラ、あなたのために」
ピアは冷たい視線をバラルに定めた。「この男には理解できないでしょうけど」
チャンドラは両手を見下ろした。最後の火花が床に踊って消えた。その熱に、手首に巻き付けたジャスミンの蔓が濃厚な香りを強めていた。満開の小さな花は闇の中の星々のように淡かった。
「冷たい水。ランタンが漂って......」 ジャスミンの花を指で撫でながら、チャンドラは呟いた。その香りを吸い込むと、彼女は目蓋を閉じた。
「お母さん。昔行った古い泉を覚えてる? 街の外の......」 その声は物憂げに、どこか遠かった。
ピアは瞬きをし、そして不確かながらも頷いた。
「......いつかまた連れてって」 チャンドラは言った、同じ遠い声のままで。
チャンドラの両目がバラルを見据え、彼女の表情は強張った。「勝手にして。私はあんたに何も求めない」
バラルの脆い笑みが崩れて消えた。「行くな! どう終わるべきか、私は知っているんだ」 悪意の囁き声だった。毒々しい紫色の血管が太い首の脆い皮膚に強張った。束縛された両手に青い閃きが散り、消えた。
「娘も私も今日、お前を置いていきます。ここで、忘れられていきなさい」 ピアは独房の扉の格子を強く閉めた。「お前の終わりです、私達ではなく」
ガラスの向こうから鈍い叩き音が響いた――かつての検査官の拳が無益に窓へ叩きつけられる音が。
チャンドラはジャスミンの蔓から白い花をひとつ摘み上げ、それを独房の扉の下に置いた。
「それは?」
「贈り物かな......友達からの」チャンドラはそう答えた。
ピアは娘の手を強く握り、二人は独房に背を向けた。その前方、崩れかけの通路は陽光に満たされていた。ガラスの向こうからの咆哮はドゥーンドの広大な空間に小さくなっていった。頭上からの祝祭の音がすぐに背後の全てをのみこんだ。
《平穏なる広野》 アート:Sam Burley |
ヤヘンニ宅の中庭。ギデオンは湾曲した長椅子に腰かけ、微笑んでいた。
テーブルを囲む友人と仲間らは悲しみに沈んでいた。上階で、ヤヘンニが死への準備をしているのだ。
違う。笑って去る準備を。ヤヘンニは自身の祝祭のために着飾っていた。下階からわずかに届く音楽から察するに、ヤヘンニが長いこと延期していた「直前パーティー」がついに始まったのだ。
微笑むような時には思えなかった。カラデシュの美しい街路での戦い、テゼレットの逃亡、チャンドラの向こう見ずで無鉄砲な――ああ、それこそいつものチャンドラだ。そして今、ヤヘンニにその時が来ようとしていた。それでもなお、友人たちだけの場所で、ギデオンは微笑んだ。
仲間が斃れたなら、その鎧を故郷へ持ち帰る。そして今わの吐息で(もしくは同等のもので)、その時には笑顔でいてくれと頼まれたなら?
だから微笑む。皆に例を見せる。偽らずに――感じろ、そうしたくなくとも。
ニッサは押し黙っていた。パーティーへ参加するという事自体、彼女とっては特別だった。そして既に口の端を、強引に、わずかに上げていた。それは特別以上の何かだった。
ジェイスとリリアナは並んでギデオンの向かいに座り、互いに無関心を装っていた。ジェイスは物思いに耽り、一本の指で落ち着かなくテーブルの模様をなぞっていた。リリアナは椅子に寄りかかり、下階からくすねてきた飲み物を少しずつ飲んでいた。普段通りの横柄な笑みすらも少し薄いように見えた。
そしてアジャニも、ギデオンの隣に座っていた。猫の表情は掴みがたいが、その広い肩は力なく落とされ、耳は伏せられ、青い片目は何かとても、とても遠いものを見つめていた。
嘆く時は、後に誰も残すな。かつてヒクサスはそう語っていた。お前は彼らを背負っていくのだ。そして一人に背負えるものは決して多くない。
小さな流星が隣の長椅子に落下し、濃い黄橙色の液体が入ったグラスを机に叩きつけた。
「ラッシー持ってきてあげたわよ!」 チャンドラだった。「たった今、わかると思うけど、パーティー始まったから。喉乾いてるんじゃないかと思ってさ」
彼はチャンドラを見た。彼女は上気し、その手では自身のラッシーが既に半分空になっていた。
「あ、えと......気に入ると思って。ヨーグルト......かな?」
彼は一口飲んでみた。
「ありがとう。美味いな」
美味しかった。いささか甘すぎる、だが良いものだった。
ニッサの口には合わないだろう。アジャニは飲めない。リリアナは好むかもしれないが、既に自分で飲み物を持っていた。そしてチャンドラは、味ではなく健康上の利点からこれを持ってきてくれた。自分達は、ゆっくりと、互いを知るようになっていた。
「あ」 チャンドラは続けた。「ヤヘンニさんが入場するまでだいたい十分くらいだってデパラさんが。みんなで行かないと、ねえ」
「勿論だ」 ギデオンが答えた。
それぞれが、それぞれの心のままに頷いた。
「ヤヘンニさんにはとても世話になったものね」 とニッサ。
ギデオンは咳払いをした。
「私達皆ここに揃っていて、まだ少しの時間がある。パーティーが始まればそれぞれ散るだろう。その前に話し合うことがある」
ギデオンは自身のグラスを掲げた。
「失った友に」 そしてアジャニへと向き直った。「そして新たな友に」
同意の呟きが上がった。
ギデオンはそのレオニンの肩へと手を置いた。
「私達五人は誓いで一つとなった。私達全員が、それぞれの理由で、見守ることを誓った。脅威を、敵を。そして一つの敵をここで見つけた――あなたが既に見ていた一つを」
彼は皆の同意を求めて視線を走らせた。ニッサ、ジェイス、チャンドラは頷いた。リリアナは肩をすくめた。
「貴方が加わって下さるなら、とても光栄なことと思います」
猫人は小さな溜息をついた。
「もしも......」
言葉を切り、ギデオンは期待しすぎているような素振りを見せぬよう努めた。その感情を示すことは卑怯な手段に思えた。決めるのはアジャニであり、そうであるべきだと思った。
「そうだな」 アジャニは答えた。「それは......光栄なことだ。誓いを?」
そこでジェイスが微笑んだ。
「形式は特にありません」 ジェイスは言って、自身の額を指で突いた。「宜しければ、直接お伝えしますよ」
アジャニは頷いた。ジェイスがその心にテレパスで教えると、猫の片耳がひねられた。そして彼はうつむいた。
「私は見てきた――」 続けようとしたその声はうわずった。
リリアナは不快感に目をそむけた、もしくはきまりの悪さに。
「今でなくともいいんです」 ニッサが言った。
「いえ。これは必要なことだ」
そしてレオニンは深く息を吸った。
「私は暴君を見てきた。限りを知らない野心の。神々の、法務官の、領事の姿をとりながら、支配する相手ではなく自分達の欲望のみを考える。あらゆる人々が欺かれ、文明は争いに放り込まれる。ただ生きようとするだけの人々を......苦しめ、やがて......死なせてしまうまで」
彼は左手で白い外套の端を強く掴んだ。バント式の縫製にギデオンは気が付いた。レオニンにしては小さすぎる。何を――そして誰を――このレオニンは背負っているのだろう?
「二度とさせない。全ての者が居場所を見つけるまで、私はゲートウォッチとなる」
《アジャニの誓い》 アート:Wesley Burt |
同意と肯定の呟きが上がった。
再びアジャニが口を開いた。「ありがとう。そして言った通り、私達は敵を見つけた。皆それについては何か考えているのだろうか?」
リリアナは既にテゼレットとの会話について皆に短く伝えていた、そしてアモンケットと呼ばれる次元についても。
「止めねばならない」 ギデオンが答えた。「テゼレットを野放しにしておくのはあまりに危険だ。そして聞く限り、ボーラスは更に危険だ」
「私が思ってることをあなたが言うのは凄く嫌だけど。わけわからなくなるわ」とリリアナ。
ギデオンはそれをからかいと受け取った。気分を害されるよりは楽だった。
「何かをしないといけないのは確かだ」とジェイス。「俺達はテゼレットの次元橋を壊したかもしれないが、ボーラスの計画は簡単には終わらない。何を企んでいるにしても、代替の計画を持ってるに違いない、何故なら......」ジェイスは言葉を切った。「ああ、俺ならそうするからだ。あいつは俺よりもずっと賢い」
ギデオンは寒気を覚えた。かつてジェイスがそう評したのはウギンだけだった。古から生きるもう一体のドラゴン、その真意は――ボーラスよりは身勝手ではなさそうだが――究極的には人知を超えている。
彼はリリアナへと向き直った。
「アモンケットについて知っている事はあるか?」
リリアナはゆっくりと瞬きをした――かつて見せたことのない程の驚きに。そう、君が情報をくれると信じている、ギデオンは思った。
「あんまり多くはないわ。ボーラスがその世界を完全に支配している。私が知る限り、その世界を作ったのもボーラスよ」
「世界を作った?」 そう言ったのはニッサだった。「そんなに強いの?」
「『かつて、我らは神であった』、あいつは前に私にそう言ったわ。物事が色々変わる前、最も力あるプレインズウォーカーは実質的に全知全能だった。世界を作った者までいた。私にその機会はなかったけどね」
「なら嫌な場所ってことね」とチャンドラ。「何処だっていいわ。そこに行って、そのドラゴンに見せつけてやるのよ、私の故郷をめちゃくちゃにしたらどうなるのかを」
「駄目だ」とアジャニ。
五つの頭が彼へと向けられた。
「ボーラスのねぐらに入り込んで倒せると思わない方がいい。私はかつて対峙したことがある。現に勝った。だがそれも、あれが混沌の魔法エネルギーにかまけていたのと、同時に私が珍しい力で戦っていたからだ」
「無防備にさせたんですよね」とジェイス。「それこそ皆が期待していることです」
「勝ったの?」 とチャンドラ。
「騙したようなものだ。あれは今や私を、そして私に何ができるかを知っている。それを置いても私達は大渦という霊気の混沌の中で戦った。私達双方にとっても非常に危険な場所だった。君達は、あれが力を振るう中心で対峙することを話している。あれが個人的に私達に対して準備をする必要すらない。つまりは危険すぎるということだ」
「あいつと対峙して生きて帰ってきたのは貴方だけではないんです」とジェイス。「あいつは凄まじく強力なテレパスで、俺も皆と同じくそれが怖い。あいつに何ができるかを知っています。ですが俺達に何ができるかを貴方はご存知でない。そしてあいつがどうかは俺にもわかりません」
「私も前にあれのねぐらに入ったことがあるわ」とリリアナ。「そして出てきた」
ジェイスはその言葉に身体を強張らせ、だが何も言わなかった。まだ何かを隠しているのか?
「直接の戦いで倒す必要はないのよ。あの計画を潰して手下を分断して――」
「もう一つやりようはある」とアジャニ。「ボーラスにはとても多くの敵がいる。そして私達には多くの友が、戦う時を待っている。私に時間をくれ、その友人達を集めてくる。それぞれが友を見つけ、ボーラスが実際に何を計画しているのかを、そしてその計画の中で一番の弱点はどこかを見定めるのだ」
その案にギデオンの心は動かされた。ジェイスもだろう。アジャニは自分が何をしていたかを知っている。
「彼の言う通りだ」とジェイス。「俺達はボーラスの計画について何も知らない。アモンケットを偵察すべきかもしれない、そしてどこかから仲間を連れてくる......」
上階から、皆がヤヘンニの名を呼ぶ声が聞こえた。時間だった。
全員がギデオンを見た。
「意見は聞いた」とギデオン。「両方とも。だがボーラスに向かう機会が今以上にあるとは思えない」
「あれは世界の全てを君に歯向かわせるぞ」 アジャニが言った、その声は高く、耳は伏せられていた。「皆を殺すつもりか!」
ギデオンは顔を上げたままでいた。視界の隅で、ジェイスが縮こまったのが見えた。
三百ポンド余りの怒れる大猫が見下ろしている。自分が怒っている時、ジェイスはこんなふうに感じているのだろうか?
「済まない」 とアジャニ。
「大丈夫です。容易い決断だと言うつもりはありません」
アジャニは二人をその薄青の瞳で見つめた。
「どうか、今はまだアモンケットには行かないで欲しい。ここに留まるか、どこかで仲間を見つけて来るんだ。明日の朝に合流場所を選ぼう。数週間後に仲間を集めて情報を比較して、次の動きを計画しよう」
彼は立ち上がった。
「パーティーが始まるまで少し、一人にしてくれ」
彼はテーブルから離れ、だがチャンドラが立ち上がって駆け寄った。そしてきつく彼を抱きしめ、大猫はよろめいた。
「入ってくれてありがと。抱き着くのにぴったりだし、ギデオンよりも大きいし、それに、えっと、ふかふか具合も上々だし」
リリアナは声をあげて笑った。
「君もだ」とアジャニ。「心地良い小さな暖炉の炎だ。君がいなければお母さんの人生はさぞかし寒いものになるだろう、小さな蝋燭くん」
チャンドラの笑みが消え、そしてアジャニは去った。彼女は重々しくギデオンの隣の椅子に座りこんだ。
「さて」ギデオンは静かに言った。「皆、どう思う? 彼の言う通りだろうか? アモンケットへ向かう前に、もっと情報と仲間を集めるべきだろうか?」
重い沈黙の時が過ぎた。
「ううん」とチャンドラ。「私達は三体のエルドラージと、テゼレットを打ち負かした。次はそいつを叩きのめしてやるのよ」
「違うわね」とリリアナ。「気持ち良い考えじゃないけれど、ボーラスが悪だくみしている上にテゼレットが野放しとあっては、私は――誰も――どこにいたって心休まらないもの」
「......いや」とジェイス。「彼の判断は信じるし、怖れももっともだ。けどそうじゃない。ボーラスは俺達よりも賢い。俺達がたとえどんなに準備に時間を費やしたとしても、あいつはさらにその上を行くだろう。ギデオン、君の言う通りだ。これは俺達の好機だ。ここで起こったことをテゼレットが伝えてしまったら、俺達は唯一の強みを失う」
ジェイスとチャンドラが同意する――とても珍しいことだった。
ギデオンはニッサに顔を向けた。
「私はわからない。ボーラスも、アモンケットも知らない。でも......自分達のことはわかる。自分達に何ができるのか。皆が、できると思うなら、私も信じる」
「あの猫は怖がってるのよ、ギデオン」とリリアナ。「ボーラスと遭って生き延びたのは幸運だって思ってる、そしてもう一度戦うのを怖れている」
怖がって......? もしリリアナがアジャニの嘆きに気付いていないとしたら、それを指摘することでアジャニの事情に切り込むわけにはいかなかった。
「彼に何があったのか、わかったと思い込むのは駄目だ」
リリアナの紫色の瞳が彼を見据えた。
「じゃあ、決定ってことでいいか?」 ジェイスが言った――リリアナの気をそらすように。
「ああ」とギデオン。「ボーラスがアモンケットで何をしていようとも、私達がいようがいまいがそうするだろう。そこにいなければ誰の力にもなれない。そしてジェイス、私も君の意見に賛成だ――時間を費やしたなら、向こうがこちらへ知らせようと意図した内容を掴まされるだろう」
ギデオンは立ち上がった。
「明日の朝に集合場所を決めよう。そしてそこでアジャニさんと合流する......ボーラスに対峙した後に」
「行きましょ」とチャンドラ。「パーティーの時間よ。笑顔でね!」
ギデオンは彼女の心を思い、そして微笑んだ。
最後の装いを。
思いやりに溢れて有能な、愛しきデパラ嬢が私のお気に入りのケープをかけてくれた。そして一番のお気に入りであるブローチで留めてくれた。外の沈みゆく太陽が、部屋の隅に置かれた黄金の宝石箱を照らし出し、その光が我が私室に温かく踊っている。消えゆくその光を塵の粒がとらえ(何と愛おしい最後の夕日だろうか)、部屋に響くのはデパラ嬢のハイエナが鼻を鳴らす音のみ(クランクシャフト、良い子だ。良い娘だ)。私の命はあと四時間。そして我が直前パーティー(料理その他全てが提供される)は、私が階段を下り次第始まる。
「さあ」 私のブローチを直しながら、デパラ嬢は力強く言った。「素晴らしい姿よ、ヤヘンニ」
「いつも通りですよ」 私の声はかすれていた。
我が親友の笑い声は少々虚ろだった。彼女は悲しげに微笑んだ。
私は確固たる口調で言った。「時が来たのですよ、デパラ」
「もしかしたら、ずっとそれを言わない気なのではって不安だったのよ」
私もまた、それについては少々不安だったかもしれない。
「本当に、確かなの?」彼女は心配に眉をひそめて言った。
「ええ。短期間の経費が長期間の利益に値しない、というだけです」
「それは投資家としての意見?」
彼女は微笑んでいた。それ以上を知る必要はないのだ。今ここでもう数日を得たところで、この死にゆく感覚に勝るものはない。そして人でないものだけを殺したとしても、若きあの記憶、我が親友の悲鳴を消すことはできない。私は私が何者かを、私なりに決断したのだ。そして私は殺人者ではない。
《短命》 アート:Ryan Yee |
「さあ、音楽はもう始まっているではないですか」
デパラ嬢は頬に笑みを広げ、部屋の向こうから私の装具を持ってきてくれた。そして私を立たせて(間違いなく私の体重はこの時点で猫猿ほどだった)それに入れてくれた。左脚の残骸を留めてもらうと、私は背筋を伸ばして扉の前に立った。
扉はそびえ立っていた。
それは豪奢な黒色の木製で、艶やかな表面に自分の姿が映っているのがわかった。
気が付かなかった、こんなにも大きかったとは。
デパラ嬢はその扉を開けようと手を伸ばし、そして止めた。彼女が無言の、ためらいがちな質問を発しているのを感じた。私は理解した。準備はできている。私は頷いた。
彼女は扉を開き、同時に私は叩きつけられた感情に倒れそうになった。
『最後の日おめでとう、ヤヘンニ!』
甘く豊か、花のような高揚の南風に私は打たれた。友人らの愛が私に溢れ、歓喜に笑い声を上げずにはいられなかった。
最初に近づいてきたのは我が霊基体の家族だった。短く静かに互いの喜びにふけり、喜ばしくも素早く密かな共感の会話を交わした。愛は鼓舞となり、それがまた愛となる。霊基体の家族は、何にも増して、決して終わることのない循環であり、終わることなくそれらを慈しむ。何よりも清らかなエネルギーがそこにある。
周囲を見て、どれほど多くの人々が出席してくれているかをようやく把握できた。我が家は満員で、生演奏の音楽が中庭から流れる中、直前パーティーだけがもたらすことのできる一体化した喜びに震えていた。
良き行いを成すための良き時間、そう思う。内ポケットから目録を取り出すとパーティーは静まり、皆の目が集まった。そして私は(物理的にではなく気分的に)高々と部屋の中央に立った。
「我が家族の皆へ!」 私は叫んだ。「我が貯蓄の半分を残しましょう!」
家族らは歓声とともに互いの背中を叩き合った。そんな事はしなくても、でも本当にありがとう。そんな内気ながらも現金な感情が発せられた。
片方の拳を決意に握りしめ、私はもう片方で(指は既に二本なく、残り三本!)群集の中を示した。
「もう半分はそちらに、その隅の、赤いスカーフの人間さん!」
食事テーブルの近くの隅に立っていた人間がびくりとした。そして口一杯にグラブ・ジャムンを頬張ったまま、おそるおそる自身を指差した。
「サナ・アール殿、19歳、航空設計部門第三位。間違いありませんね?」 私は確認した。
両目を大きく見開き、その人間は頷いた。
「素晴らしい! 我が貯蓄のもう半分を研究にお使い下さい!」
狂喜に圧倒され、その人間はすぐさま卒倒してしまった。我が周囲の群集は高揚と歓喜を爆発させた。我らは終わりのない祝祭の円環。
馴染みある存在が階下に来たのを感じ、親類の一人が私を新参者たちの所へ連れて行ってくれた。私を取り囲む者らはパーティーへと散り、少しして、以前知ったゲートウォッチという一団の先陣が私を迎えてくれた(彼らが何のゲートを見守っているのか、尋ねなかったのは残念だ)。私は踏み出すと左の支えにもたれかかった。
チャンドラ嬢が先頭に立っていた。下ろしたてのサリーに身を包んでおり、昨今の戦いで受けた打ち身や擦り傷はほぼ装飾品に隠されていた。満足と、疲れの笑み。素早く読むに彼女は以前にも直前パーティーに出席したことがあるようで、これは幸福な機会なのだと知っていた。
だが他の者らは......困惑していた。直前パーティーとは何か、それを説明するという大変な役割をチャンドラ嬢は引き受けたに違いなかった。ジェイス氏の雰囲気は雨に濡れた居心地悪さを声高に鳴らしていた、この部屋にいる共感者全員を振り向かせるほどに。その後ろ、二足歩行の猫殿は(その心は今も生々しい悲哀で満ちていた。何と悲しいことか)今にも泣き出しそうだった。他の者らは目に見えて落ち着かない様相だった。
「何ということでしょう」 私はわざとらしく囁いた。「どなたか亡くなられたのですか?」
リリアナ嬢は笑ったが、他の者らはぎこちなく顔をしかめた。
笑いをこぼすと、顔の一部が崩れて落ちた。
一団の背後に立っていた巨体の猫が私に近づき、視界に入るよう膝をついた。
「アジャニと申します。この残り僅かな時間、私達にできる事はありますでしょうか?」
ああ。何と愛おしいことか。
「これは私のパーティー、ですので私の規則に従って頂きたい。皆様全員に満喫して頂き、そして私は全員にお別れを告げたい。ですがそれは楽しくなければなりません! それが重要なのです!」
アジャニ氏は心からの思いやりで頷いた。チャンドラ嬢の笑みを感じた、それが顔に現れるよりも早く。
「手を貸そうか?」 彼女が申し出た。
「......皆にさよならを言うためのですか?」
「楽しむための、かな?」
私は丸々一秒かけてこれを考えた。
「是非とも」
「じゃあ失礼!」
チャンドラ嬢は素早く屈んで私へと手を伸ばし、持ち上げると私を肩に乗せた。装具が床に倒れ、私は歓喜の悲鳴を上げた。
「どちらへ行かれますか、ご主人様?」 彼女は顔一杯の意地悪な笑顔で言った。
「前へ!」私は叫び、部屋の中の群集を指さした。
それから数分、チャンドラ嬢は私を肩に乗せたまま、時折駆け、時折よろめくふりをし、その間ずっと笑ってくれていた。満足すると、彼女は欠伸をして私をギデオン氏へ手渡し、彼は心から笑いながら私を荷物のように腕に抱えた。そこから私はデパラ嬢へ軽々と渡され、彼女は私を目立たせるよう頭上に持ち上げ続けながら進んだ。
その間ずっと、私は興奮しきった笑いとともに自分の意思を叫び続けていた。
「愛しのデパラ、我が投資用書類鞄を受け取って下さい!」
彼女は歓声を上げ、私の残り少ない頬に口付けをするとギデオン氏へ手渡した。
「パースリー夫人、老いぼれ癇癪持ちさん、我が高速警備車を持って行ってくれたまえ!」 群集の後ろのどこかで夫人が驚愕する叫び声が聞こえた。
しばし放り投げられて皆を回った後、私は部屋の向こうから共感的なネロリの香りをとらえた。ギデオン氏へとその源を示すと、寝椅子へと私を優しく下ろしてくれた。すぐそばに、優しく微笑むニッサ嬢がいた。
「ニッサさん! ああ、ニッサ、ニッサ、ニッサさん。貴女も私を持ち上げて、元気をくれますか?」
ニッサ嬢はかぶりを振った。「私は隣に座っていたいです。痛みはありますか?」
「少しだけ」 私は認めた。「ですが耐えられないものではありません」
彼女は私を上から下まで見て片手を挙げた。あの同じ馴染みある、暖かなエネルギーの流れが私の(ほとんど失われた)両脚に流れ込んだ。安堵の溜息が零れた。以前と変わらず、良いものだった。癒しではないにしても......楽にしてくれた。
何か奇妙なものが彼女の内に動いているのを感じた。
ニッサ嬢は会話を好まない、今はそれがありがたかった。彼女がエネルギーを流してくれている隙に、その沈黙から私は必要な全てを推測できた。
表層の香り:悲嘆。信頼。女性的なネロリ(彼女の精神的芳香としては通常のもの)、そして新鮮な流れ(風変り、新しいらしきもの)
主な香り:古い、沼のような怖れ。その端に異質な白亜の羞恥。
基礎となる香り:深い密林と家族。違う、家族ではない。血族? 言葉なき繋がり、だが個性の区別と鮮明さはない。
感覚を閉じた。彼女は私を失うのが悲しいのだ、私のような友は僅かなために。
いや、そうではない。私のような友は誰もいないために。
以前、それを感じた。彼女は理解できない人々に嫌気を感じていた。それは古いこだま、だが彼女がいかに怯えていたか、そしてその怯えが彼女をどれほど、他者に近づけさせなかったかを私は感じた。
ゲートウォッチに出会うまで。私に出会うまで。
彼女がその古い、忘れて久しい感情を叫びながら私に会わなかったことを嬉しく思おう。過去の行動の罪を吐き出す対象に私を選ばなかったことを。そのために私を必要とすることなく、自身の問題に向き合っていた。もっと卑小な人物ならばそうしたかもしれない。だが彼女は違った。自身の力で認め、成長した。自身をよりよくするために。
彼女は特別なのだ。
エネルギーの流れが止まった。苦痛は消え、ニッサ嬢は私の目を見つめた。私の内面は知らぬまま、笑顔で。
「ずいぶんとパーティーには慣れたようですね」 私はからかった。
ニッサ嬢は肩をすくめた。「そんなに怖くないってわかりましたから」
その返答は半ば無意識だったかもしれない。だが、彼女が何を言おうとしているかはわかっていた。
「理解したんです......知りたいって、馴染みないことについてもっと」 彼女は続けた。「理解できれば、怖がることはないですから」
その心は穏やかな謙遜の木立、そしてオレンジの花。
「何かを差し上げたいのですが」そう静かに言うと、ニッサ嬢の雰囲気が尖った。「貴女が贈り物を嫌うのは存じています。ですがそれでも。これを」
私はシャツの下に手を入れ、首飾りを取り出して外した。
「この鎖は山からの金。中央のサファイアはラスヌーのものでしょう。衣服の下に身に着けて下さい、悪しき者に奪われぬように」
ニッサ嬢はそっと手を伸ばして首飾りを受け取り、頭から静かに通して上着の中に入れた。
「伝統的に、そういったものは遠い故郷を懐かしむ方に与えられます。ですので貴女に」 私は声を枯らした。そしてこの言葉を彼女がどう感じたかを知り、肯定的感情の小さな輪に包まれて私は安堵した。
「ありがとう、ヤヘンニさん。私もお返しに何かあげられればいいのですが」
「私が持ち運ばなくて良いものでしたら、何でも」
彼女は少し考えた。
「秘密を聞くのはお好きですか?」
「いつでも」
目の前のエルフが悪戯な笑みを浮かべた。だがその表情の背後には、内緒話を打ち明ける期待と密かな喜びで急速に育つ巨木を感じ取った。
「この世界は、無数の世界の一つなんです」
は。
「果ての無い平原の一つの砂粒です。その粒の一つ一つが、それぞれ異なる世界です」
彼女が発する感情の輪が、それは真実だと告げていた。その言葉の全てが真実。いかにして――
「時々、いるんです。そういった世界の間を......旅する人々が」
人々、その言葉とともに彼女は洞察を求める視線を投げた。正直な、とても正直な、暖かな銅の誠実さ。いかにして――
「故郷からとても遠く、全く違う場所へ旅する人々です。彼らは皆知っています、私達はその広大で複雑なもののごく一部だと。ですが世界の間、その宇宙それぞれを繋げるものは、霊基体を作り上げるものと同じ物質です。あなたを作っているものは、カラデシュの遥か彼方へ繋がっているんです。あなたも、多元宇宙に繋がっているんです」
しばし、私は黙り、ニッサ嬢が語ったことの途方もなさを吸収した。そしてようやく私は着地し、反応した。
「知っていました」
《全知》 アート:Jason Chan |
ニッサ嬢は歯を見せて笑った。私は驚嘆に天井を見上げた。自分がちっぽけに感じた。巨大に感じた。人生最大の贈り物を受け取ったように感じた。
「では......貴女は、本当はどこから?」 やがて私は尋ねた。
「私の生まれた世界は、ゼンディカーと呼ばれています」
「ゼンディカーに霊基体はいるのですか?」
「いえ、でも近い感じの、精霊がいます。あなたに似ているかもしれない吸血鬼も。ですがあなたの方がずっと友好的ですね」
「そこにはどのような風景が?」
「大地が歩くんです」
「なんと」
私達は話し、話し、話した。やがて遂にはニッサ嬢自身のことも。私の頭はその間ずっと、興奮と勝利にふらついていた。私はこの寛ぐことのない並外れた人物を、最も途方もない秘密を明かせるほどに打ち解けさせたのだから。何という勝利だろうか!
視界の隅にデパラ嬢の姿を見て、私はすべきことを思い出した。デパラ嬢は我が霊基体の家族を率いて、最後にもう一度私を屋上へ連れて行ってくれるのだ。
「ニッサさん。私はもう行かねばなりません。ご希望でしたら屋上へご一緒しますか」
彼女の感情は感傷による滝となった。「いえ、私はこのままで。さようなら、ヤヘンニさん」
その寝椅子の中に彼女はとても小さく見えた。彼女が最後に見つめてくれたその映像を、私は心に焼き付けた。
「お元気で。愛しいお方」
ニッサ嬢は寂しく微笑み、私の心は螺旋に捕われた。たった今私にくれた贈り物は、何と途方もない最後の贈り物だろうか......
家族が私の椅子を持ち上げ、哀悼と哀れみに私を浸し、屋上へ連れて行ってくれた。
夜空に、大導路が鮮やかな青色にうねっていた。何百もの星が都市の明かりの中でも大胆に輝き、我が最愛の友人らは無人の寝台の周りに集い、私の到着を待っていた。空は驚くべき美しさだった。紫色と青色の飛沫、霊気と星。別れを告げるには最高の、美しい夜だった。
私を取り囲む家族は慰めと安心を放っていた。それは効き、私は平穏の中に落ち着いた。宇宙はこんなにも広大で、私はこんなにも小さく、そしてニッサ嬢は私がかつて受け取った中でも最高の贈り物をくれた。
集ってくれた愛しい者らの目を見つめた。私は与えられるものを全て与え、彼らの喜びが私の隅々まで溢れ、我らの円環は完成された。
一人一人に心からの別れの言葉を告げた。時間をかけ、彼らが感じる全てを私も感じることで返し、それぞれを楽しみ、目を見つめ、最高を願った。誰も悲しまず、私が残したものの幾らかはこれから生まれ出る霊基体のために残すと全員が約束してくれた。最後の力の欠片で、私はデパラ嬢のハイエナへと手を伸ばし、耳の裏を撫でた。誰もが幸せだった。誰もが笑顔だった。私が去った後もパーティーは続くと、誰もが約束してくれていた。
都市の流れを感じた、次の永遠へうねるような。私が故郷と呼ぶ一粒を、そして私の知が及ぶ遥か先、無数の世界を思った。
大丈夫、友人らがそう告げてくれた。いつでも大丈夫だと。
だからその通りに、
私は震えて
解き放たれて
(素晴らしい感覚だ)
終わりのない、果てのない空へと消えて
そして、
誇らしく、喜ばしく、
私という存在は終わった。
「あんまり長く離れてられないんだけどね」 チャンドラはそう言った。
陶器のタイルが詰まった籠を重そうに運びながら、チャンドラは母の隣を歩いていた。その母はというと道具箱を肩から掛けていた。ピアはアラダラ駅の昇降台から脇道を示し、二人はその目的地へと向かっていた。
「あなたが悪いわけじゃないから大丈夫でしょう。それに......いつでも戻れるんだから」
チャンドラは言葉を飲んだ。「そうかもしれないけど」
「あら」 角を曲がると、母は道具箱を引き上げた。「ええ、呼んだのは突然だったものね」
「気付くべきだったかも、何とかさ。霊気を漂ってくる、お母さんの波みたいなものを」
母は娘を見つめた。「それはどんなふうに機能するのかしら?」
「ないって!」
「んん、そうなの。残念だわ。お母さんの波はすごく優しいのに」
チャンドラは小石を蹴った。「そうだと思うけどさ」
「それなら、 あなたみたいな――力を持つ人は――どうやってるの? 故郷から離れるのは。どうやってできるの?」
チャンドラは物憂げな笑い声を上げた。「聞く相手を間違ってるよ」
「でもあなたは......できるんでしょう? その炎と同じように」
「炎とは違うかな、正しくは。でもそれが私を他の世界へ動かしてくれる。闘技場のあの日からできるようになった、違う類の才能」 チャンドラは真剣に自分の顔を見つめる母に気付いた。これは親としての心配ではないと知っていた――飛行機械技師のそれだと。母はいつも機械の腹部を開いてその動きを見るのが好きだった。「お母さん、私の蓋を開けたいの?」
「一続きの詳細な回路図を知りたいのよ」
「ん、そんな感じじゃないよ。言ってみれば......ぼんやり見つめると、見えなかった模様が見えてくるみたいな」
母は残念そうに肩を落とした。
「それとも、列車の駅だと音を聞くのはやっとだけど、一瞬、全部が繋がって旋律になるみたいな」
「比喩は回路図じゃないわよ」
チャンドラは肩をすくめた。「これが私の精一杯。何でこうなのかは私だってわからないよ。今の私が何でこうなのかはさ」
二人は次の角を曲がり、その場所を見つけた。父の。壁に描かれた壊れかけのモザイク画は、父の肖像だった。都市の至る所に、著名な発明家のモザイク画が何十と存在する。その偉業に感銘を受けた芸術家によって作られたそれらの一つだった。墓所とするならばこれが一番近いもの、父の記憶が都市にしみ込む場所だった。
長いこと顧みられていなかったためか、肖像画は穴と傷だらけだった。チャンドラは籠を置き、適切な色の陶器タイルを選ぶ作業を始めた。
《失われた遺産》 アート:Greg Opalinski |
母はペンチを用いてそのタイルを正しい形状に砕いた。そして手袋の指で隙間に接合材を塗ると、チャンドラがタイルを押し当てた。
しばしの間、二人は無言で続けた。涙はなかった――事実チャンドラは単純かつ勤勉な楽しさを感じていた。母の隣で働くのは気持ちよかった。ギラプールの只中で、手を汚しながら何かを作るという行動。誰にも邪魔されない創造的行動。チャンドラは小さな正方形のタイルを父の眉へ押し付け、動きを止めて父の目を見つめた。
「私、ここに残る」
「え?」
「残るの、ここに。カラデシュに。お母さんと」
「でも――」 母は驚いたようだった。「私は――、それは嬉しいわ、チャンドラ。でもあなたは――」
「私はここで生きる。これから、お母さんと一緒に」 赤みがかったタイルで、チャンドラは父のゴーグルの部分を埋めた。「家族として」
母はしばしの間何も言わなかった。チャンドラはモザイク画から母へと向き直った。
「お母さん?」
母の表情はカーテンのように閉ざされていた。「チャンドラ、私はもう耐えたくないの」
「何をさせないで?」
「心が潰れてしまいそうになるから」
「お母さん。だから私は残るって!」
「駄目よ。そんな事は言わないで。ずっと難しくなってしまうのよ」
「何が難しくなるの?」 チャンドラは尋ね、父親の胸にタイルを壊れるほど強く押しつけた。
「これが、今の私達。家族」 母はペンチで自身とチャンドラを行き来するように示した。「あなたという人物、私という人物、私達という家族。私達は、母親と、訪ねてきた娘」
「違うよ、私はもう離れない。ずっと」
「駄目、そんなことを言っては駄目!」 母はほとんど叫んでいた。彼女は溜息をつき、タイルの間に重々しく腰を下ろした。彼女はペンチで銀青色の一片を摘み上げ、優しく脇によけた。「チャンドラ、私はあなたの母親。だから勿論、長くいてくれることは嬉しいわ。でも私達両方とも、あなたはこの場所に留まる以上の存在だって知っている。新しい生き方があるのに、それなのに、私のためにそれを偽るのであれば、私は耐えられない。私があなたを引き留めている、もしそう考えたなら、私は毎日、少しずつ死んでいってしまう」
チャンドラは喉に塊が引っかかるように感じた。「お母さん、私は行けないよ。行かなきゃいけなくても――できない」
ペンチの先端が彼女に向けられた。「行けるでしょう。あなたは旅人、だから行って、また帰ってきなさい。そして私達は再会して、あなたと私の時間を取り戻す。お父さんともここで。『じゃあね』で終わる家族は止めて、『おかえりなさい』って迎える家族になりましょう」
チャンドラは目に涙を浮かべ、叫んだ。「そんなこと言いたくないよ!」
母は立ち上がった。激しい、怒れる、少し華奢な柱のように、愛を体現して。「チャンドラ・ナラー、あなたは私に別れを言うの。五回も、十回も、私に向かって、そしてその言葉から元気を貰う。わかる?」
「お母さん......」
「その言葉を聞けないかもしれない、そんな心配であなたを縛り付けることはできない。あなたの才能を必要としている世界からそれを隠したくはない。それに、この建物の裏でタイルを割ってもう一つの聖地を作りたくはない、私が失った――」 彼女ははっとして言葉を切り、震える手で口を覆った。
「お母さん?」
「もう一つ......モザイク画があるの。あなたの。十一歳の時の」
チャンドラの目から涙が零れた。「なんで?」
「言ったでしょう。聖地。誰か名も無い発明家や崇拝者がこれを作ったと思ったでしょう? 私が両方作ったの、あなたとお父さんと。出所してすぐにね。私には場所があったの、あなたたちに別れを言える場所が」
チャンドラは何も言えなかった。ただ母の腕の中へ倒れ込み、強く抱きしめた。
《安堵の再会》 アート:Howard Lyon |
母は彼女を放し、鼻をすすって笑った。母は彼女を技術者の瞳で称え、腰に巻いたショールの模様を直し、肩鎧の紐を締め直すと晴れやかに尋ねた。「いつ行くの?」
「すぐ」
「そんなにすぐに?」 彼女はチャンドラの顔から髪の一房をよけて耳の後ろにかけ、そっとチャンドラの頬に指で触れた。
「うん」 チャンドラはそう言って、目から涙の筋をこすった。「アモンケットって所へ。行ったことない場所だけどね」
「そう。じゃあ、今度その場所のことを詳しく教えてね」
チャンドラはモザイク画を見つめた。そこにはまだ隙間と欠片があった。「お父さんのが終わってないよ」
「どのみちもうタイルが無くなるわ。あなたが戻ってきた時に完成させましょう」
「しばらくかかるかも」
「ならたくさんタイルを焼いておけるわ」
「私のも手伝っていい? 次の時にさ」
母が微笑むと、喜びの小さな皺が頬に浮かび上がった。彼女はゴーグルを直し、チャンドラの手をとり、期待して彼女の目を見つめた。
チャンドラはその言葉を言おうとした。言うことのできる言葉。そして母からも、来たる日々と年月の中で何度でも。
大気に流れる川が彼女を運んでいた。花粉の粒のように。
巨大な心臓が空の深くで幾つも脈動し、歓喜の調和をゆっくりと響かせていた。言葉はなくとも、それは多くを伝えていた。太陽が雲の端を破り、凍りついた山頂にかかる星は鋭く、内で育まれる新たな生命の意識は心地良くだが辛抱強く、輝きの最初の吐息を待っている。
彼女はその歌い手の中を身体なく浮かび、耳を澄ましていた。何度も呼びかけ、雲と流れにこだまして、雨と、記憶の、重さのない夢を共に作り上げていた。
家ほどもある目が瞬きをした。好奇心が放たれて彼女を洗い流した、あらゆるものの端の向こうから陽光が戻ってくるように。私達の空に、何か新しいものがある。それは感覚と脈動の言語で歌っていた。早まる鼓動と震える筋肉、止まった呼吸と百もの青の色合い。まだ知らないものというのは、何と素晴らしいのだろう。
《霊気烈風の古きもの》 アート:Sam Burley |
どこかで、振動が彼女の注意を惹いた。駆けるように空が離れていった。
彼女は耳を鋼の足音へ向け、鼻を揚げ物と甘味へ向け、そして――ようやく――両目を向けた。
霊気塔、薄明りの昇降台をチャンドラが歩いてきた。疲れから四肢の力はなく、両目の下の灰色の影をこすっていた。「や、ニッサ。寝てたと思ってた」
音楽の滑らかさと揺れは言葉の尖った角へと道をあけた。乱暴にこすれる言葉が戻ってきた。「ううん、私は......」 声はかすれていた。
チャンドラは腕を伸ばした程の距離にうずくまり、曙光色の瞳が彼女の顔の端から端へと走った。ニッサはその表情を探った。温かく紅潮した、落ち着かなくて神経質な生気。だが理解の余地はなかった。掴める手がかりはなかった。説明できる言葉はなかった。
それでも彼女は言った。「空鯨の声を聞いてたの」 そしてそうすることが重要だと思えた。
チャンドラは上空へ瞬きをした。「え? どこ?」
ニッサは霊気流の曲線とせわしなさを感じた。顔を向けると、関節が動く重みを感じた。「ずっと東、何日か南。朝日が当たるあたり」
チャンドラは大きなあくびをした。顎が震えて目に涙が浮かんだ。「耳いいね」
「一緒にいたの」
「でも今ここにいるじゃん?」
彼女は息を吸い、飛び込んだ。「私は力線を感じられる。霊気流も。瞑想すれば、時々ただ座ってるだけでも......その一つになれる。意識とか、考えとか、そういうのは無くなって、世界と一つになる」
チャンドラは踵を前後に動かし、指は神経質に膝を撫でた。「むずかし。それはエルフ的なやつなの? それともゼンディカー的なやつ? 私も瞑想すればそんなふうにできる?」
「できない」 頬に熱が昇るのを感じ、ニッサは顔をそむけた。「単に......私だから」
チャンドラはすぐさま立ち上がった。髪に火花が散り、波打って持ち上がった。「ごめん! そんなつもりは――」
ニッサは声を届かせた。「行かないで」
彼女はチャンドラの指が紫色の空に震えるのを見つめた。「私またあんたを慌てさせて」 髪が散って音を立てた。橙色の曙光のような帯が頭部に揺れた。「私はいつも――」
ニッサは両目を硬く閉じ、かすれた声を宙に搾り出した。「ち――違うの!」
チャンドラは振り向き、息を止め、目を合わせられずにいた。
ニッサは喉の渇きをのみこんだ。「私はあんまり喋れない。ずっと......何十年も一人だったから。ゼンディカーが仲間だった。言葉より深くお互いをわかりあって......だから......わからないの、どうやって喋ったらいいか。学ぼうとしてる所なの」
チャンドラは顔を上げた。目を見開いて驚いていた。「私に、どう喋ったらいいか、わからない?」
「きっと間違えるし、間違った言葉を選ぶと思う。誤解させると思う。変なことをして、それもわからないと思う。でももし、我慢してくれたら、きっと......」 空に響く歌の記憶が波のように湧き上がった。色と温かさが調和する音楽、響き合う動きと一つになった呼吸。彼女はそれらを止め、減らし、判り易い真実という蒼白の影の形に、堅苦しい言葉を絞り出した。「......友達になれると思う」
チャンドラの両手が彼女を迎えるように伸ばされた、鳥の巣のように温かく。「わかんないけど」 そして鼻を鳴らし、口の端がわずかに上げられた。「あんたは言葉を選ぶのがすごく上手だと思うよ」
「この言葉を考えるために、午後全部かかったくらい」
チャンドラは笑い、だがそれはまたも欠伸になった。彼女はニッサの手を放して口を覆った。「ん。ごめん」
チャンドラの目の下の影が濃くなった。ニッサは隣に座るように合図した。「まだ瞑想を学びたいって思ってる? ここはあなたの街で一番静かな場所だけど」
「わかんない」 チャンドラは肩越しに振り返った。「思うに、今日は最後の夜じゃん。みんなに色んな所を教えてあげようかなって。空中レースに花火に、最高のウンディユが食べられる食堂がボーマットにあるし、マンゴー味の氷を売ってくれるエルフの子とか......」 彼女は言葉を切った。「でもあんたはそういうの好きじゃないよね? 混んでてうるさいし」
「行く」 ニッサはそう言った。チャンドラは語調を早め、靴の踵が葉にあたる雨のような音を立てた。
「パースリーさんが言ってたんだけどさ、色々見せてあげなって、あんたと私だけでも。何故ってこれまでやってきたのって、牢獄の周りを歩いて閉じ込められただけなんだからって」 チャンドラは眉をひそめた。「それと、サリーを着ろって。一着選んでくれたし。まるで......『七百万段の階段を昇って塔のあの子に会いに行くんだけど』みたいな? かなり変な――待って、今なんて言った?」
ニッサは口の端が自然と上を向くのを感じた、意識することなく。今、私は笑ってるんだ。「行く」
チャンドラは瞬きをして彼女を見下ろした。「......ほんと?」 その言葉は、雄弁だった。
「あなたの故郷を見てみたい」
「でもあんたは――」
「怖いかもしれない」 彼女は認めた、悩むように膝の上で指を弄びながら。「私は......離れて黙ってると思う。でも一緒なら、一人じゃないなら」
「ああ。じゃさ、まだ時間はあるから。遅いけど晩御飯にしよう。それか、何か飲むものだけでも」
「そうだ。あなたにこれを」 ニッサは背後に手を伸ばし、蓋をされた杯を取り出した。太陽が雲の下へと滑り込む前に持ってきたものだった。
「それは?」 チャンドラはニッサの隣にかがんだ。
「わからない」 ニッサは蓋を取って匂いをかいだ。「これを持ってきてくれた人は、落ち着くだろうって」 彼女はその杯を、口に手の甲を当てて大きくあくびをするチャンドラへと手渡した。「冷めてしまっているかも。温かくして飲むものなんだろうけど」
「どれ」 チャンドラは得意の笑みを浮かべ、輝く掌を杯の底にあてた。そして立ち上ってきた蒸気を注意深く吸い込んだ。「甘いミルク。ピスタチオとアーモンドとカルダモンが入ってる」 暗闇の中で彼女の瞳が輝いた。「お父さんが作ってくれたことがある。私が眠れない時に」
ニッサは首をかしげ、それは良いものか悪いものかを推し量ろうとした。やがて、チャンドラは注意深く一口飲み、そして微笑み、目を大きく見開いて言った。「すごく美味しい」
「想像してもらいたいものがあるの」
「瞑想みたいに?」チャンドラはそう言って杯を脇に置いた。「そんなふうに座った方がいい?」
「楽なら何でも」
チャンドラは片脚をもう片方の下に折り曲げようとして、だが顔をしかめて鎧を外し、音を立てて脇に置き、艶のある鋼の山を築いた。「それで、空鯨と一緒に浮かぶの?」 彼女はにやりと笑った。
「そうするなら、私が受け止めてあげる」 ニッサは真剣に言い、そして目を閉じた。「川を想像して」
「どんな?」
「流れは速い。岩の間を走る。飛沫で虹がかかる」
「どんな色?」
ニッサは閉じた目蓋の闇の中で眉をひそめた。「虹? ありとあらゆる――」
「ううん、水。川の水。濁ってるのか、澄んでるのか、......」
「お好きなように。想像して。それが揺れて、土手であなたの足に泡を立てる」
「靴は?」
「ない――裸足で」
「岸には何があるの? 木か、それとも岩山とか――」
「シーッ」
「でも」
「シーッ」 彼女は待った。沈黙。「ただ――」
とても静かに、チャンドラは囁いた。「静かにしたよ」
「......ただ私の声だけを聴いて。風の音。水が岩に当たる音、白く荒々しい。その川を広げて。深くして。広がると、流れは遅くなる。岩の飛沫は静かになる。轟きはざわめきになる」
川を選んだのは、水に浮かぶ優しい記憶をチャンドラが持っていたからだった。既に、彼女の呼吸は緩やかになり、せわしなく鳥が羽ばたくような鼓動は静かになった。
ニッサは呟いた。「その川へ入って。ゆっくりと。水は、足で分かれて、太陽に静かに輝いてる。一歩ずつ。冷えていく。足首が。膝が。腰が。爪先の間に軟らかい泥が」
彼女は低い声で、鼓動のリズムで話した。母はこのように物語を語ってくれた、ジョラーガのまた別の宿営地へ追いやられ、ニッサの見る悪夢と彼女を歓迎して開く花が、他のエルフに疑いと呟きをもたらした後に。星明りの下、静かに漂ってゆく山の物語。孤児の足元に果物を落とし、突進するベイロスから彼らを守る木々の物語。棘と歯に挟まれた道の世界ではなく、深くて奇跡のように美しい、果てしない庭園の世界の物語。その全てが、耳を傾けてくれる者を待っている。
それらは精霊信者の物語だと彼女が知るずっと以前から、失われて抑圧され、異説として禁止されていたものだった。彼女の他に、生ける魂は誰も覚えていない物語。
「指を広げて、その間に水が流れるように。もう胸まで来てる。あおむけに寝て。水に持ち上げられる。重さはない。あなたは雲の間に浮かんでる。静かにして。じっとして。息をするだけ」
耳を澄ますと、チャンドラの呼吸は緩く深く、横から穏やかな熱が伝わってきていた。次第に長くなる沈黙への反応はなかった。
ニッサはカラデシュのうねりへと再び自身を開いた。
霊気が彼女を、脈打つ色彩が散る街の上へと運んだ。押し合い、橋を駆ける人だかり。広場は音楽とさざめきで脈動し、喜びに揺れていた。川から空をめがけて火花が上がり、囁く光の尾が続いた。そして音とともに弾け、赤と黄色の炎の花を咲かせた。水辺の群集は驚き、そして歓声を上げた。
その下の影の中、きらめく塔の間に、霊気が不思議な動きをした。
祝祭から一つ離れた路地に流れが形を成し、沈殿し、渦巻いた。彼女は降りて行くとその周囲に踊り、意識を注ぎ込んだ。ひび割れた敷石を辛抱強く貫く草から、夜の花が絨毯のように弾けた。
霊気の粒が流れこんだ。街のどこか遠くから、彼方の空の岸から、そしてカラデシュの先に横たわる久遠の無辺から。そのエネルギーが混じり合い、凝集し、そして青く輝く雲へと吐息を発した――午前半ばの空、礁湖の水、山の底、海氷、幼子の瞳。世界の呼気に、新たな星がひとつ素早く、激しく、そしてしっかりと脈打った。
雲の端が暗くなり、凝固した。
その内の、激しい静電気が煙とともに静まった。
一人の霊基体が自身の手を、そしてニッサの花を見た。
『こんにちは。世界へようこそ』 根と葉の震えがこの生まれたばかりの子に理解できるのか、彼女は定かでなかった。
それは真新しい手を花に掲げた、まるで蝋燭の炎のように。エネルギーの焦げ音から模様が現れた。自発的に、不思議とそれを知っているように。『き――きみ。君? いい匂いがする。まるで――まるで、ネロリの匂いだ』 そして止まり、稲妻の思考がひらめいて四肢を震わせた。『ネロリって何?』
眩暈がするような既視感がニッサに打ち寄せ、彼女は伝えた。『あなたには素晴らしい冒険が待っている』
その霊基体は考えこんだ。『わたし、何をすれば?』
どうするべきだろう、またあんなふうに? 自分はまた光に、音に、接触にひるんでしまうのだろうか。手振りで話して、おかしい動きをして、相手を困らせてしまうのだろうか?
この新たな命へどう伝えればいいのだろう。後先なく笑って泣けばいい。星や水へ歌えばいい。何もしなくてもいい。素直に無防備に愛して、その愛する存在とのあらゆる時を楽しんで、どんなに悲しんでも傷ついても許して、動くのではなく躍って、温かい仲間との長い沈黙を味わって、朝が来たなら歓迎して、その時ごとに『きっと冒険が待っている』って、勇敢に、優しく、信じて、そして......
......チャンドラのように。
その霊基体は明滅しながら待っていた。だが生の真価を他者の考えの中に見つけられるだろうか?
『怖がらないで、心のままに生きて』 ニッサはそう伝えた。
『......どうして、それはそんなに怖いの?』
離れた場所で、彼女の身体が深まる黄昏へと笑い声を吐き出した。『あなたを困らせるから、かな?』
路地の先から何かが伝わってきた。彼女はそれを、細く白い根の網を通して感じた。霊基体の子が彼らを見た。『わたしと同じ!』
他の霊基体らが子を取り囲み、新しくおぼつかない足で立たせて抱きしめた。歓迎の言葉、香気と色なきエネルギーに辺りは震えた。それぞれが放つ感情が互いに共感し合い、鼓舞し合った。『ようこそ、大好きだ。これから素晴らしい日々が来る、すぐだよ!』
彼らは素早い思考を閃光のように交わしつつ、その霊基体を連れていった。路地の先で、その子は一度だけニッサの花へと振り返った。
《放埒》 アート:Ryan Yee |
『君は......』 その子は首をかしげ、一つの思考を振り落とそうとした。『すてきな......瞳だね......君は』 どこか馴染みある笑い声が大気を震わせた。
ドン。
ニッサは自身の身体に衝撃を感じて目を覚ました。
チャンドラは彼女に寄りかかって倒れていた。頭を肩まで傾げ、銅色の髪の束が鼻をくすぐり、開いた口からはゆっくりとした呼吸が行き来し、袖に涎が垂れていた。
ニッサはこうなることを期待していた。チャンドラには睡眠が必要だった。瞑想は後でもいい。水に漂うことを想像すれば、悪夢の炎は消えるだろう。そうでなくても自分ははこのまま、力を貸せる時を待てばいい。
だがこの体勢は快適ではなかった。彼女の腕は既に痺れつつあった。
ニッサはチャンドラの暖かく軽い体重を注意深く持ち上げ、巧みにその頭部を膝の上に休ませた。チャンドラは眠ったまま身動きをし、横を向いてうずくまり、膝を胸に抱えて両手を顔の前に置いた。そして口が開き、昇降台に規則正しく大きないびきが響いた。
弾ける音楽で、色彩と光で、何千もの食事でカラデシュはその再生を祝っていた。広場や公園にはかがり火が揺れ、鮮やかな衣装の踊り手に影を投げかけていた。人だかりは橋を渡って染料の鞄をヴィンデー川へ投げ入て、水の流れを渦巻く虹色に変えていた。手をとり合い踊る人々で街路は溢れ、笑い声を、歓喜の叫びを、涙を、歓迎を、許しを交わし合っていた。
空は静かで、ニッサはチャンドラの眠りを守っていた。
それは正しいように思えた。
《雨雲の迷路》 アート:Jason Chan |
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