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Magic Story -未踏世界の物語-
業火
業火
Chris L'Etoile / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2017年1月4日
この物語には自殺的思考への言及が含まれています。
前回の物語:革命の始まり
カラデシュの改革派はテゼレット率いる腐敗した領事府へと蜂起した。ナラー母娘に率いられ、犯罪王ゴンティからの武力を得て、発明家や霊気窃盗と結託し、そしてゲートウォッチのプレインズウォーカー達に支えられて彼らはギラプールの中核となる霊気拠点を占拠した。そして今、彼らは領事府からの反撃に対して持ちこたえねばならない......飛空船「キランの真意」号が動き出すまでは。
スカイソブリンの戦術盤は工学の精緻であり、装飾の極致であり、そして無尽蔵とも言える領事府の資金を印象的に誇示していた。だが明敏な目でその詳細を見たなら、それは命令がいかに遂行されていないかを示していた。
卓は地区ごとに色分けされており、ドビン・バーンの目の前で機械の小像が道沿いに動いていた。緑はクジャール、青はボーマット。五体の機械巨人を巧妙に模した人形がモーター音を立て、注意深く踏み出し、霊気拠点を表す金線の楔を苦心の末に取り囲んだ。傾いた朝の陽光が窓から差し込み、真鍮とブリキ製から成る膝高ほどの建物の間に濃い影を投げかけた。
頭上では綱と滑車と霊気装置の留め具から、腕長ほどの大型戦艦スカイソブリンの模型が揺れていた。内部の照明まで再現されており、針穴ほどの覗き窓の列から光が瞬いていた。
赤で示された速接会地区の隅で、別の小像が光を消して地図の下に撤退した。黒いピン型の像が道を下ってその位置を占拠した。左に座る操作員が呟く報告を彼は聞き流した。「第六十三執行分隊の自動機械、霊気切れです。技師らは砲塔を潰して撤退」
指令室の向こう側では、審判長テゼレットが――現在の危機が継続する間、領事府から特別大領事という地位を与えられたテゼレットが――一人の当番兵へとこの状況の悪化に目を向けろと叫び立てることにのみ従事していた。
日ごとに大領事は大声かつ至近距離からの会話に多くの時間を費やすようになっていた。残念なことに、その激昂の有効性に異論を唱えられる者はいなかった(バーンが計測した所、一時間に一度以上は起こっていた)。この危機が発生してからというもの、指令室の人員は通常の能率を上回る成果を上げていた。一人一人が固く巻かれたばねとなって見事な迅速さで全体的及び状況的欠陥を指摘し、大領事自身が気付く前に素早くその問題を修正する。
その当番兵、頬に唾が弧を描いて飛んできた逞しいドワーフは、目をぱちくりさせた。その両腕には手書きの報告書が山と抱えられていた。「閣下」 彼女は繰り返した。「巡回部隊の霊気はもうありません。拠点の改革派は流れを切断しており、何かの計画に使用――」
「心しておけ」 テゼレットは怒りを込めて言った。「すみません、等ともう一度でも言ってみろ。一度でもだ。私直々にお前の首を叩き落して――」
指令室の鋼の床に踵を素早く響かせ、バーンは進み出た。大領事その人が、政府機関の要職ではなく犯罪組織の悪漢のように伝令の生命を脅かすというのは、ここに居並ぶ面々全員へと領事府の道徳的権威を著しく失墜させてしまうことになる。もちろん法的な権威ではないが、それらはしばしば混同されるものだった。
「霊気配分の中枢を一極集中させていたことで、このような事態になる可能性はありました」 バーンは懸命に声を平静に保った。平坦で、平然として、全く特色のない声。眼下のヴィンデー川に揺れる霧のように冷たく漠然とした声を。
テゼレットはその伝令に背を向け、戦術盤へと大股で向かった。乗組員らはその進路から下がり、指針盤と動的状況変化グラフに専念した。
「設備の警備は十分との事でした」 バーンは続けた。「カンバール領事曰く、政府の敵による奪取は、彼の言葉を引用するならば『全くもって不可能』と――」
テゼレットは顔を上げてバーンを睨み付けた。その唇の周囲の皮膚が張りつめ、年齢の割に灰色がかった髪が肩に流れ、歪めた額に真紅の刺青が縮れていた。先週以来、ふとした空き時間の多くにバーンは深い知識を探って熟考したが、その印の意味は未だ確認できていなかった。カラデシュのどのような伝統的刺青とも関連性はなく、彼自身によるものでもなさそうだった。大領事の技術的能力は常に目を瞠るものだったが、芸術性は明らかに懸念というレベルに届いていない問題だった。
指令室の誰一人として――いや、正確には領事の誰一人として――テゼレットの出自はわからなかった。驚くべき問題だった。起源の定かでない刺青、肉体的に不可解な筋力と義肢を構成する金属の伝導性、独特な発音。ラシュミの躍進的な理論が知れ渡ると、その疑いない認識は確実に終わるだろう。彼女の装置が推測させる可能性はありふれた想像力を凌駕するだろう。不確かな創作話が図書館を埋め尽くすかもしれない。
「その舌を引きちぎってやろうか」 テゼレットは怒鳴った。
バーンは毛のない眉を注意深く片方だけ上げ、両手を背中で組んだ。そして声色には丁寧な好奇心を含ませた。「本当にですか」
《ドビン・バーン》 アート:Tyler Jacobson |
大領事は鼻息を荒くし、卑猥な言葉が口から飛び出した。下劣で、衝撃的ですらあったが、創造的な活力は明らかに欠けていた。個々を特記する価値はない、彼はそう判断した。テゼレットの肩の向こうで、乗組員の一人がひるんで身を縮めた。
大領事が押し黙ると、バーンその注意を再び自分へと向けさせた。静かに、自分達以外には聞こえないように、彼は言った。「貴方の長い演説によって、この乗組員たちを従順かつ注意深く保っておく効果があることは認めます。ですがそれで私の......心は動きませんので」
テゼレットの顔から怒りが素早く退いた。不意に、まるで元から無かったかのように。その両目が、冷たく計算的なそれが、焼け付く金剛石のきらめきを帯びて張りつめた。一瞬前、この大領事は危険には見えなかった。今、その目には衝動の微光があった、何かを軋ませ、砕けさせ、のたうつまで曲げてしまいたいという......そしてその状態で止める、ただ何ができるかを見るためだけに。
この男がどのようなユーモアを受け取ったのかはわからなかったが、彼の口の片端は上方に歪んだ。「霊気拠点を手中に」 大領事は普段通りの声色で言った。「君は欠陥を見つけるためにここにいる。仕事をしろ。突破口を見つけて実現させろ」
バーンはゆっくりと息を吸い込んだ。計画を考え付いてから十分間が経過していたが、まだ誰にも伝えられずにいた。「宜しいですか?」 戦略盤を示すと、大領事は簡素な頷きで返した。
バーンは卓へと降り、制御盤を操作した。霊気拠点の周辺区域を残し、機械的景観の大部分が卓内に引っ込んだ。黒いピンで記された改革派の防壁が、不吉かつ不規則な膨らみを街路や線路、運河、そして彼の街の霊気管が描く滑らかな曲線に投げかけていた。そして拠点本体はピンの群れと旗で色分けされた六体のきらめく真鍮人形に囲まれていた。
拠点周囲の改革派の配置を示し、バーンは説明した。「彼らは拠点に主力を配置しています。直接的な攻撃は......悲惨な結果となるでしょう。悪名高い改革派の長が直々に配置を命令しています」
大領事の長い金属の鉤爪が音を立て、拳のようなものを作った。「ピア・ナラーか」
「そうです」 バーンは認めた。ピア・ナラー、キランの妻、チャンドラの母。十二年と七か月前、三人全員に死亡証明が出ていた。三人中二人が生きていたことに動揺した彼は公文書館を漁った。だがそこには、正確に思い出せる通りの記述があった。死亡地点:ブラナット。死因:放火。承認:ディレン・バラル隊長。
バーンは制御盤を操作し、そして改革派の配置区域が光で照らし出された。霊気拠点と彼らが占有する区域を繋げる狭い通路。「拠点防衛におけるこの点は仲間との連絡通路であり無防備です。両側からの十分な圧力で拠点の包囲を完了できるでしょう」
テゼレットは歪な拳を卓について身体を乗り出し、改革派の防衛を示す黒のピンを睨み付けた。「包囲はするな、バーン。自動機械と機体の霊気は減る一方だ。機械巨人を動かし続けるだけでも――」
「彼らはこの通路を開いておくために拠点から防衛を撤退させると予測します。この防衛戦略の立て方はとある......二次元的思考を示しています。私が思うにこれはあの――我らが客人、ジュラ氏によるものでしょう」 テゼレットは感情を隠すように片眉を上げ、乗組員を見渡した。バーンの言葉の違和感に気付いた者がいたとしても、誰も顔を上げはしなかった。
「私の調査によれば、彼は地上戦の司令官です。空的機動力を持つ相手との戦いを十分に経験しているとは思えません」 バーンが取っ手をひねると、路上を交差する一連の黒いピンが高く持ち上がった。「これは生きた植物の防壁です。ほぼ間違いなくあのエルフ、ニッサ嬢によるものです」
バーンの長い指がまるでシタール演奏家のように制御盤を操作し、軍団を設置して動かした。「彼らの防御は主として外部境界線に沿っており、拠点には霊気の備蓄があります。我々の挟撃は」 音を立てる人形が黒いピンを改革派の配置の狭部沿いまで押し返した。「この備蓄から引き離します」 拠点を囲むピンの群れは点々と散り、退却する仲間を守った。「そしてそこで......」
スカイソブリンの模型の艦橋で、これまた模型の飛行機械船団が動き出した。それらは卓の上で揺れ、ゆっくりと霊気拠点の模型の上に降り立った。
バーンは頷き、指針と制御桿から一歩下がった。「輸送機で警視兵を。それなりに自信を持って言えますが、ジュラ氏の前方配置の背後に航空戦力を展開すれば不意打ちとなるでしょう。上部階層に着地し、そこから下ります。非致死的閃光と霊気パルス攻撃で防衛が排除できなかった場合は、霊気缶の爆破が最も効果的と思われます。完全装甲をまとう改革派は僅かであり、破片による拠点そのものへの被害は最小限に抑えられる見込みです」
テゼレットは彼へと向き直り、わずかに首を傾げたまま、両目には値踏みをする光があった。「何故だ、バーン。君にしては珍しく血なまぐさい提案ではないか」
「この計画はタイミングと無力化にかかっております」 冷静な返答だった。「改革派が撤退や降伏を拒否するのであれば、掃討しなければなりません。遅れた場合は警視兵らへと攻撃が集中します。そうなれば死者が出ることは避けられません。それならばせめて、死ぬのは我々の市民ではなく軍人であるべきです」
大領事は同意の笑みを浮かべた。「この計画が成功すると言えるか?」
バーンは顔をしかめた。「無論、保証は致しかねます。私は内々に関与した知識に基づいて予測を行ったに過ぎません。成功確率は八割五分といった所でしょうか」
テゼレットは肉の指で卓の端を叩き、そして下がった。霊気拠点の模型と色分けされた真鍮人形へとぞんざいな仕草を投げ、彼は言った。「我らが客人どもはどうしている? 奴等が事態を複雑にしている」
「個々の能力と練度に基づきまして、各人が警視兵十二人から三十人の価値があると私は判断しています。幸運にも、彼らの欠陥を査定する機会に恵まれました。最も致命的であるのは統率力の分散です。ギデオン氏とジェイス氏は共に自分こそが全体の統率者だと信じております。追加しましてベレレン氏は――」
「そいつの欠陥はわかっている」 テゼレットの歯が一瞬だけ露わになった。毒蛇が風を味わうように真剣に。
「両者ともリリアナ嬢を完全に信頼してはおりません。同様に彼女の方でもギデオン氏を過小評価しております。ジェイス氏に対する認識は分析困難です。保護欲と軽蔑の妙な混合とでも言いましょうか。問われたとしたら、彼女自身でも説明は不可能であると私は考えます」
「統率の他に、彼らの最大の弱点は改革派の長の娘です。容易に挑発されて性急な行動へ移る傾向にあり、そのため他者は彼女に対して過保護となっております。特にギデオン氏とニッサ嬢は」
大領事は頭上に絡まる伝声管を引き、叫んだ。「遵法長バラルを指令室に。すぐだ」 船の廊下にその言葉が反響するのが聞こえた。
「君の計画は了承した」 テゼレットは吟味するように義肢から一本の指を伸ばした。その不可解な金属は彼の接触の下、水のように流動した。「少々改良しよう。ナラー母娘には別の弱点がある」
「お尋ねしても宜しいでしょうか」 バーンは思い切って口を開いた。「その額の刺青にはどういった意味がおありなのですか?」
テゼレットの視線がバーンの頭から足までを走り、その几帳面な中立の姿勢を値踏みした。「これは私に負債を思い出させるものだ」 口の片端が、面白くもなさそうに歪んだ。「聞いてみたいものだな、バーン。私にどのような欠陥を見た?」
彼は一瞬だけ考えた。「その件につきましては、私の内に留めておくのが賢明と考えます」
大領事は短く、鋭い笑い声を発した。「お前は愚かではないということだな」
それはテゼレットからの賛辞と彼は推測した。
バラルが完全な戦闘装備をまとって指令室に現れた。兜は曲げた肘に抱えられていた。彼は二人の前で立ち止まり、おざなりの敬礼をした。「バラルです。ご命令でしょうか」 そして一瞬の後、付け加えた。「閣下」
「ナラーとやり合ったことがあるそうだな」
ゆっくりと、不愉快な笑みがバラルの顔に広がり、火傷の頬が険しい不毛の山峡と化した。「以前に」
「家族全員が死亡と報告していましたね」 バーンが言った。
遵法長は怪訝な視線を投げた。一瞥した先のテゼレットは無反応で、何も言わなかった。やがて、バラルは不満とともに頷いた。「あの娘が放った火です。あれが事態を混乱させました。後に生き残りの中から母親を発見しました」
「本当ですか?」 バーンは漠然と尋ねた。「その報告が反映されておらず、私は困ったのですが」
「公使殿、書類仕事は私の専門ではありません。私は生きたものに忙しいのです。もし街路で一日過ごして頂けましたら――」
「バラル」 テゼレットがその言葉を遮った。「奴等を攪乱してもらいたい」
遵法長の両目が二人を行き来し、当惑に口元を歪めた。「閣下?」
「ナラーを怒らせろ。奴等を霊気拠点から誘い出せ。奴等、そして仲間どもをなるべく多く、追跡できるように」
バラルは傷つき欠けた鼻で喜ばしく笑った。「容易いことです。その後は?」
テゼレットは軽蔑的に手を振った。「好きにするがいい」
バラルは残っている眉を上げた。「好きに、ですか?」
大領事の金属の鉤爪が合わさり鳴った。「領事府に対する裏切り者だ、バラル。暴力の歴史とともにある魔道士だ。もし降伏しないならば......」 彼は肉の掌を宙に掲げた、無表情で。
バラルは背筋を正した。片方の犬歯が唇の間から覗いた。それは笑みなのか嘲りなのか、バーンには判別できなかった。「了解致しました。危険な魔道士を野放しにしてはおけませんので」 そして立ち去ろうと背を向けた。
「分隊を連れて行け。それとバーン公使も行く」
バラルは呻き、肩あてに兜を叩きつけた。「公使殿、第七格納庫です」 その言葉が反響した。「十分後に出ます」 そして足音高く彼は去っていった。金属の靴音が廊下の床板に鳴っていた。
バーンは大領事を見た。「ご説明を」
「バラルは闘犬だ」 テゼレットは戦略盤を見た。「君は手綱だ。追わせるのではなく、噛ませろ」
それは理に適っていた。バーンは少し身動きをした。「私の計画はどのように?」
「私が遂行を監督する。案ずるな」 彼は不愉快そうに微笑んだ。「君を信頼している。失敗しようと成功しようとな」 そして大領事は戦略盤に屈みこみ、輝く真鍮の繊細な輪郭を鉤爪でなぞった。
たぶん、お母さんは上にいる。
そこに大物が揃ってる。ゴンティにカーリにサヒーリ、それとよく知らない何人か、イで終わらない名前の人たち。お母さんはすっかり改革派の長の姿で、だから今はお母さんじゃない。問題を解決する技術者。霊気拠点の上にいる全員が、下にいる領事府の奴等をどうやって倒してやるかを話し合ってる。
あくびが出た。よく眠れなかったから。外出禁止令からずっと、炎と叫び声。ケラル砦で見たような悪い夢。
ギラプールを見渡して、頭の中のぼんやりした形と目の前の鋭い形を合わせようとした。ここは私の家、だけど誰かが家具を全部動かしたみたいな感じ。
登ったことのある給水塔は見つからなかった。辺りで一番高かったのを覚えてる。その上から友達と一緒に空中レースを見た。昼間は公認の退屈なやつを、夜は年長の子たちが叫びながら街路で走って、そのうち領事府の交通整理がやって来て終わる。時々あいつらは私のいる塔をかすめて、通りすぎてく熱い稲妻の匂いの中で捕まらないといけなかった。
何もかもが、その時より高くなっていた。私が走った白い石壁や平らな屋根は、午後の太陽にきらめいて揺れる黄銅色と水色と渦巻き模様の下に沈んでいた。
《霊気貯蔵器》 アート:Cliff Childs |
風は数えきれない昼食と、塵と金属と霊気の匂いがした。街路の先、防壁の向こうに領事府のパンハモニコンが今も「グレムリン結婚行進曲」を鳴らしていた。倍速で、私達に向けて延々と繰り返して。夜じゅうずっとそのままで、そして月が昇るとニッサは叫びだして両耳を塞いだ。
何をしたらいいかわからなかった。力になりたい、でも私は手をどこにもやれないまま、クジャクみたいにひらひらひらするだけで、そして何かわけのわからないことを言った気がする。
ジェイスがその隣に座った。少し話して、ジェイスの目が光った。ニッサは大きな鉢植えの植物にうずくまって太陽が昇るまで起きてこなかった。
お母さんに会いたい。
ずっと会いたかった、でもついに会えた。十二年はすごく長い時間、辺りがすっかり瓦礫になるくらいには。私はいつも騒いでるって誰もが思ってるだろうけど、でも二年間くらい、息もできないみたいだった。可笑しいって思われるだろうけど。
今お母さんはここにいて、この上の階のどこかにいる。ここからほんの少し離れてるだけ。戦うことに凄く忙しくて、お母さんを見たのは、声を聞いたのは、私に毛布をかけてくれる時だけだった。会議が終わるのは夜遅くだから、多分私は寝てるって思ったんだろう。でも私はいつも起きてる。枕の上で向こうを向いて、息を止めて、お母さんが寝台の端に座ってくれるのを待ってる。
でもそうしてくれる事はなかったし、私も、そこから動けなかった。
闘技場の時みたいに抱きしめて欲しい。ほんの十分間でも、領事府と関係のない話がしたい。そして顔色悪い私の頬に触って、私だけ日焼けした所をつついて欲しい。上着に飛び散った機械油と電気焦げの匂いをかぎたい。髪を編んで欲しい、暑すぎる夏に自分で鋏で切る前にそうしてくれたように。私は誇らしく天井から降りてきて、首筋に風を感じて楽しく走り回った。お母さんは泣きだした。その後私をナニ・ジャルバラの古い床屋に連れて行って髪をならしてくれた。そしてすごく良くなったって、本当に大きくなったって言ってくれた。
私が何をしてきたかを聞いて欲しかった。私がどう成長したかを。だってお母さんが知ってるのは、チャンドラは失敗ばっかりしてる事だけだから。
お母さんが最後に私を見た時、私は失敗していた。領事府を連れて来た。
お父さんが殺されるはめになった。
だから? だからお母さんは私を責めてるの? だから私と話してくれないの? そうかもしれない。もし私がお母さんの側だったら、私を責める。
レガーサで、浄化の炎が私に見せたのは、それだった。悪い夢を最後に見た時に。私のせい。私がやった。私が失敗して皆が殺された。お父さんが。村の人たちが。お母さんが。だからあの冷たい火は燃えるのを止めた。だから炎が囁いた。「お前は赦される」、けど私は絶対に自分が赦せなかった。
とにかく、あれは変な炎だった。木の実を炒ることもできない炎。
後ろで床がきしんだ。足音。両目をぬぐった。だってもしそれが私の知らない誰かだったら。ううん、知ってる誰かの方が困る。
もしニッサだったら?
ラヴニカでの事は考えないようにしていた。そうする度に、頭から毛布をかぶって丸くなりたくなる。ニッサはただすごく親切にしてくれて、私は――ああ、ただ、見つめられてるだけで。私はニッサの中が少しだけ枯れるのを見つめていた。
頬と髪が熱くなった。炎を叩いて消した。足音は近づいて、ゆっくりになった。
そして私達はここに、カラデシュに来た。私がニッサにわめいたのはお母さんの事だけだった。ニッサの事は考えもしなかった。そもそも、ニッサは何でここに来たの、私があんなひどい事を言った後に――
あ、やばい。お母さんを探してた途中、ニッサを抱きしめた。二回も。何も考えないで。そもそも考えて抱きしめた事とかあった? わかってたはずなのに、誰かと身体がかすめた時にニッサがどれほど怯えるかを。きっと心の中では、凄い我慢してたに違いない。私は何て――
「チャンドラ?」 低くて、躊躇した、大きな声。
あっ。「ん、ギデオン」
そいつは腕を伸ばしたほどの距離で、手すりにその大きくて逞しい上腕を休めた。前かがみの姿勢で、私と目線が合った。「こんな所でどうしたんだ?」
私は外の街路を見つめた。パンハモニコン以外は静かで何もなかった。何千何百って人が家に籠って、南風が吹き始めるのを待っている。熱い風が額の髪を撫でた。「......別に」
そいつは小さな息を吐いた。半ば笑って、半ば溜息。「チャンドラ、その......何も気づかなくて済まない。色々と衝撃だっただろう。故郷に戻ってきて、お母さんが生きているとわかって。良い驚きなのだろうが、それでも受け入れるのは大変だ。そして――君を殺そうとした男まで。ここは君の故郷、内乱の只中の。二か月で受け入れられることじゃない」
「つまりあんたは、私が、何、不安そうだとか言いたいの?」 手が震えてる? 震えてる。やめて。止まって。
同情するみたいなギデオンの視線を強く、肩に感じた。その声がもっと小さくなった。「グレムリン結婚行進曲」のうるさい間奏に、そいつは低い声で言った。「その......君は物事をとても深く感じ取るだろう。私はそれが――いや、君の素晴らしい所の一つだ。誰か、話をしたい相手なら、気持ちを吐き出したい相手なら、私がここにいる。覚えておいてくれ。何時だっていい」
こいつは、憎たらしいくらい、誠実だ。会った時もそれがいいと思った。怒り狂った私にも不機嫌な私にも、その態度は変わらなかった。すごく正直で、威張り散らしてて、親切で、説教臭くて、慎重で、じれったくて、本当惚れ惚れするような堅物。目を惹かずにいられない完璧な筋肉。百万もの色を映す瞳、まるで......風景画の上手い画家の風景みたいな。チーズもおろせそうなくらい割れた腹筋、ずっと後になって手を触れることになるなんて思いもしなかった。こいつも同じだろうけど。
ものすごく昔のことみたい。あれはほんの十九歳の頃だった、まるで、小娘みたいな? こいつは何歳だったんだろう。今は何歳なんだろう。どっちでもいい。計算できるから。お母さんは技術者なんだから。
私はまたあくびをした。かなり涙が滲んだ。何故かはわからないけど、私は口走った。「ねえ、初めて会った時のこと覚えてる?」 そして髪越しに斜めに見てみた。
ギデオンははっと顔を上げて口を開いて、けれど止めてかぶりを振った。「......よく覚えている」
「最近、そのことを考えてた」
ギデオンも外の風景を見た。「どうしてだ?」
「また夢を見たの」 私は風の中へ顔をそむけた。目に刺さるみたいだった。
そいつは息を吸い、そして何気ないふうを装った。「そうか」 そして居心地悪そうに手すりにもたれかかって、髭をこすった。「あの時のような......?」
「そう、ディラデンの」 ディラデン、終わらない夜の世界。いくじなしだらけの腐った村、とある傾きかけた黴臭い小屋で私達は眠った。目が覚めた時、私は汗だくで息を切らして歯を震わせて、ブラナットの村が燃える夢から叫ぶこともできずにいた。そして、太い腕が私を抱え込んで、過去の悪夢じゃなくて酷い現実へ目を覚まさせてくれた。震えが止まるまでそのままでいてくれた。
「済まない」 そいつは呟いて、恥ずかしいみたいにうつむいた。「あんな事をして。何も言わずに。私は丁度目が覚めて、そうしたら君が......苦しんでいた」
「ん、そうね」 私はその腕を殴りつけた、けどそこまでは感じなかった。軽く叩く程度、少なくとも嫌味じゃなく。「あれで大丈夫でなかったら、本っ当に、言ってたから。そしてあんたに火をつけてやったから」
「近頃君は疲れているようで、心配だった」 そいつは手すりから剥がれた塗料をつまみ上げた。欠片が一つ、風に浮いて飛んでいった。「あの時話してくれただろう、君は魔術が、特に炎の魔術が違法とされている所から来たと。君の家族はそれを隠そうしたと。村が焼かれたのは、両親の死は君の責任だと」 言葉を選んでいるのがわかった。「君は、真実の暗い影を......認めたんだ」
脳裏に古い思い出が戻ってきた。靄がかって穴だらけの。暗い独房、私の力を抑えるための呪文、水面に映った月のゆらめきの色。『自身の行いに向き合うんだ、そしてその責任の重みを受け入れる。嘘をつかず、許しも請わず。背負い続ける過去の霊と向き合って、君は何をした?』 この男はそう言っていた。
ただ一息の間だけ、私はあの独房に戻って、吐き気をこらえて躊躇っていた。吐き戻せる手桶はある? 無い? ならどこに向ければいい? こいつの靴?
「あんたのことは知らなかった。よくは。あの時は。私が言ったことは全部本当、ただ、本当のこと全部じゃなかったけど。大切なことは話した。炎。悲鳴と、匂いと、どう感じたか。どういうふうに私がいけなかったか。どう――どうして、私のせいで皆が殺されることになったか」 私は咳をした、声のかすれをごまかそうと。多分こいつは聞いたと思う、でも何も言わない。ギデオンはそういう奴。私は震える手で鼻の下をこすって、嗅いで、そしてショールで拭った。
そいつは溜息をついて、手すりに置いた手を私の隣まで滑らせた。触れてはこない、ただ......差し出すみたいに。私は心のどこかで、それを掴んで放したくないと思った。「ああ。君の告白は十分だったという事なんだろう。浄化の炎は君が責任を認めることを望んでいた。全てが全て、正確を期すことが必要というわけじゃない」 そして言葉を切った。「少なくとも、私はそう告げられた。私は君のように炎には入らなかったが」
私は笑って手を伸ばし、こいつの髪をくしゃくしゃにしてやった。そのためには爪先立ちをしないといけなかった。言わせてもらうと、鎧の靴だと簡単じゃないんだからね。「あんたみたいな善人は何も心配する必要なんてないくせに」
その腕が強張った。「そうだったら良いが」 そして私を一瞥して、顔をそむけた。恥ずかしがりの子犬みたいに。「私は、取り返しのつかない事をした」
手を鼻の下に持っていって、こするふりをして匂いをかいだ。こいつの髪の匂いがした。ここで育たない薬草みたいな匂い。テーロスの風はこんなふうに香るの?
「私、博物館を消し飛ばしたじゃない」 口をついてそんな言葉が出た。何?
そいつは目を見開いて私を見た。「え?」
チャンドラ、流れに任せなさい。「そんなつもりはなかったの! 会った時のこと。ケファライで。覚えてる? 星の聖域で、ドラゴンの巻物を盗もうとした時。あんたはそれで送られてきたじゃない。牢で、蛇頭のやつらと、でしょ!」
しかめた顔。
待ちなさい、違う。そっちじゃない。戻って、ああもう! 「でも、あんたの言う通りだった。私は何の関係もない人たちに酷いことをしたって。け――警備兵は知らない。警備兵は信じてないし。前はそうだったけど、今はわかんないけど、でも聖域は人だらけで、それに――」
壁が崩れた時、中で見た全員のことが心によぎった。覚えてる。お婆さんが展示品を指さして、可笑しい昔話を孫に話していた。パースリーさんが話すのとそっくり同じように。そして小さい子たちが驚いて、先を争って走って逃げた、埃っぽくなくて暗くない、明るい所へ。でも無理だった。その全員めがけて石が降ってきた。私のせいで。そうしたかったわけじゃない、けれど私のせい。あれも私の失敗。
ちょっと長く黙り込んでいたんだと思う。こいつが一歩寄ってきたから。「チャンドラ」 この時は私に手を重ねてくれた。温かくて乾いていて、古くざらついていた。「君にその意図はなかった」
「でも、私がやった。お風呂に座ってる時に、何でかそのことを思い出すの。私は縮こまって言うの、『おかしい』って、大きな声を出して、そしてお湯に沈む。そして、えと、いつもはお風呂が湯気だらけになった時に......」 待って、最後にお風呂に入ったのはいつだっけ? この何週間か、きっと私はゴブリンの鍛冶屋みたいな臭いがしてる。「あんたも、皆も――」
「わかっている」 そいつは手を放してそれで髪を撫で、私が逆立てたままの房を直した。もう一回くしゃくしゃにしてやりたくなった。「チャンドラ、あの時の君は彼らのことを考えなかった。今は考えている。悔やんでいる......君は成長したということだ。君は善い人物なんだ、本質的に」
私は背を向けて通路を進んだ。階段の脇には鉢植えのジャスミンの花が飾られている。白い花びらを引き抜いて、それを指の間で転がした。「とにかく私は、大失敗ばっかりしてるってこと」
そいつは一呼吸し、そしてまた身をすくめた。「時々な。ああ。済まない。だが君は常に......力を尽くしている。常に思う通りにはならなくとも、大切なことだ。君はそれを正せるということだ」
唇が歪んだ。指から花弁が零れ落ちて、風に運ばれていった。「でも......あんたが何をしてきたかは知らないけど、私より酷いことなわけないでしょ。それにもし『浄化の炎』が許した私みたいな奴が、あんたみたいな奴が――自分達のやる事を、例えば、仕方ないみたいに思ってる奴が――問題ないって言うなら、どう見ても変な炎じゃなかったとしても、喜んで壊してやったわ」 言葉が零れ出るのが止まって、私は息をついた。
そいつは何か疑うみたいに私を見た。「それが、言いたかったことか?」
「話し始めた時は違ったかもしれないけど、今はそう」 私は胸の前で腕を組んで、不機嫌な顔を作って見上げた。「で、あんたの方は気が晴れた?」
瞬き。そして笑った、大きく深く。「その通りだ。ありがとう」 そして一歩下がると塔を見上げた。「だが私は上へ戻らないといけない。防衛隊がどうしているかを見なければ。一応聞くが、他に何かあるか?」
《ギデオンの誓い》 アート:Wesley Burt |
お母さんに会いたい。隣に座って、腕と肩と腰が当たりながら、片手で何か食べてもう片手で計算式を書いてる。私達のために作ってくれたフェヌグリーク入りのナンが食べたい。いつもちょっと焦げてたけれど。肩に頭をもたれて休みたい、抱きしめられてるって感じたい、ずっとそうしていないから。
手すり越しにわめいた時には、もうそいつは五歩も離れていた。「待って! 変なこと言うけど、でも――だ、抱きしめて、くれる? もしあんたが気にしないなら、わかってる、変だって。ただ、ずっとお母さんと一緒にいられなくて、ほんの十分間でも、それで――」
「チャンドラ」
「や、やってくれなくてもいいんだけど。そういうのって凄く親しい関係のことだし? えと、あんたは私の命とか色々を救ってくれたけど、でもそれはそれで違って。誰だって誰かの力になるでしょ、あんたがやるみたいに。リリアナはやんないかもしれないけど。それにどっちみち私もあんたを救った、だから数には入れなくって――」
「チャンドラ」
「し、知ってるし、抱きしめて、なんて言うのは普通にすることじゃないって。でもあんたならしてくれるって。私には探してる相手がいて、それは重力とかみたいに自然なことで、えと、私の中ではわかるんだけど、わかんない。あんたは? ごめん。変な事ばっかりで、それで――」
「チャンドラ」
私はまた震えてる? 震える指を固く握りしめた。一体何なのよ、チャンドラ? 大きく息を吸って、目を拭って、そして振り返った。そいつは腕を広げて、微笑んで立っていた。指が揺れていた。こっちへおいで、このお馬鹿さん。そんなふうに言うみたいに。
いいじゃん。冷静になろう。今わめいた事は関係ない、ゆっくり歩いて。腰に腕が届いた。通り過ぎはしなかったのは間違いない。だから、瞬間移動の魔法はもう存在しないなんて言わないで。
憎たらしいくらい大きな身体。顎の下に私の頭がすっぽり収まった。汗と油みたいな匂い、まるで日がな一日何かを持ち上げた後みたいな。
私は子犬みたいに腕の中に入り込んで、頬を胸に当てて、目を閉じた。耳の下で心臓の音がした。鎧と身体に私はすっかり包まれて、頭の上を息がくすぐった。
こんなふうに誰かに抱きしめてもらったのは久しぶりだった。四年前にこうしてくれたとしても、身体じゅうが痛むような感じだったかもしれない。今は、ただ......
安心していられた。
陶器のぶつかる小さな音がした。
片目を開けて腕の隙間から覗き見ると――あっ、やばっ。
ギデオンを押しやったけど、大きすぎて私の方が後ろによろけた。そいつは顎を落とし、一歩後ずさって愕然として私を見た。違う、あんたは何も――
「邪魔するつもりはなかったの」
ニッサが茄子と芋のカレーの皿を長椅子の一つに置いて、目はうつむいて、注意深く、長い指を陶器と鋼に滑らせた。完璧に皮を剥かれた大きなマンゴーが腕の中に抱えられていた。編み髪が風に揺れていた。
「そんなことない」 私は手すりに手を置いて、掴んで、自力で立った。「ただ喋ってて、それで――」
「じゃあ、私のことは気にしないで」 ニッサはマンゴーの茎を引き抜いて、皿の隣に置いた――それ、服から出したの? 「お腹が空いてるんじゃないかって」 そして背筋を伸ばしてまっすぐ私を見た、手は身体の前で組んでいた。何万年も時間が止まったような緑色。
瞬きして。息をして。失敗しないで。いつもの会話をして。
「こいつが来て、私はどうだって言うから話し始めて、昔、こいつが私を捕まえた時に、博物館を吹き飛ばした時に――」 それを失敗って言うのよ! 「でもこいつは本当はそうしたくはなくて、結局私達はある世界に行って、そこで戦ったのが、紳士様気取りの吸血鬼で、それから私はお母さんの事を考えて――」
ニッサは視線を落とした。影が落ちた。「良かったら、後で聞かせてくれる? ごめんなさい」 彼女は背を向け、ジャスミンの鉢の中へ消えた。花は全て強張り、固く緑色に閉じた。
何で私はこんなふうに失敗ばっかりなの? イニストラードを燃やし尽くすなら文句なしの満点。ニッサと話すなら人間の屑、もとい燃えかす。
その肩に置いた手が私の手のはずがない、この子を震えさせて引き寄せてるのは、だって私は知ってるじゃない、もっといいやり方を。「い、行かないで」 私はどもった。「あの、あんたは慌ててる。私のせいで」
「え?」 注意深く言葉を選んで、ニッサは言った。「ううん。よく......わからない。でも慌ててはいないの。それは信じて」
ニッサは片手を挙げ、私の焼ける指を肩からそっと外した。その手は冷たくて夏の果物の匂いが、夕方のかがり火の匂いが、黄昏の雨の匂いがした。それとも、私がそう思っただけかもしれない。「気にしないで」
「「チャンドラ・ナラー!」」
私達が飛び上がった様子は、実際可笑しかったと思う。
ニッサに対して以上に私は変な動きをしたと思う。振り返りながらニッサの腕を押しのけて、だけどギラプールを見るのに必死だった。なぜなら「グレムリン結婚行進曲」がついに止まって、その声を知っていたから。
「「聞こえているだろう」 」 低くてかすれた声が、大きく小さく、あたりの石と鋼にこだました。
「何者だ?」 ギデオン。私の前に肩を出して、きらめく屋根を眩しそうに見た。あの鞭みたいな剣がするっと伸びた。
「バラル」 私は言おうとした、けど喉に泥水が溢れてきたみたいだった。
「「疑問なのだがね、あの話をご友人らには話したのかな? 君がどうやってお父さんを殺したのかを。君がどうやってお母さんを、五年も牢に閉じ込めたのかを」」
何もかもが白く消えた。両目から火花が散った。気にしない。
「「私はお母さんと毎日話したのだよ。ああ、そうだった。君の行いを言い聞かせてな。毎日。そのことはお母さんから聞いたか?」」
お母さん?
「「お母さんはどれほど恥ずかしかっただろうか」」
やめて!
「「時々泣いていたな。君の炎がお父さんを飲み込んだ様子を話した時などは。叫びながら、皮膚が焦げて音を立てながら。君という子が生まれたことを呪いながら」」
「嘘吐き野郎!」 かすれた金切り声が出た。十一歳の子供の声が。
ギデオンは塔へ声を上げていた。監視機械か飛行機械か、私はわからない。上の方で稲妻が走って道路沿いの屋根から塵の雲が舞った。
バラルは笑っていた。「「あの日、本当に何人もが死んだな。小さな化け物よ」
「あいつを殺してやる。燃やしてやる」 食いしばった歯の間からその言葉が漏れ出た、両目から星が落ちたみたいに。
《極上の炎技》 アート:Chase Stone |
「それがあいつの狙いよ」 心臓の音以外に聞き分けられたのは、ニッサの声だった。何でまだここにいるの? 何で離れていかないの?
「このままじゃいられない」 私は拳を作って、輝かせて、炎をまとわせた。「私を止めないで。あいつは――」
視界の隅で、ニッサの手が私の腕の上に掲げられた、触れはせずに。
「ええ。一緒に戦うから」
ギデオンは下階へ叫んでいた。「皆気をつけろ! これは陽動だ!」 彼は午後の太陽に目を狭め、了承するように手で合図を送った。そして振り返った。「チャンドラ――」
その姿はなかった。
拡声器を通した騒騒しい笑い声の上から、チャンドラの靴音が階段に鳴る音が聞こえた。金属がこすれる悲鳴、角を曲がろうと急ぎすぎて滑った音、そして悪態が空へこだました。
「止めなかったのか!」 彼は手すりへ走って身を乗り出した。
ニッサは階段を降り始めていた。彼の問いに、片足を宙で留めた。「どうして?」
ギデオンは拳を握りしめた。「これは――チャンドラは殺されに行ったようなものだ。あんなふうに誘い出して、チャンドラを怒らせて待ち伏せしている。彼女は考えず、ただ感じるままに動く。だからこそ私達が取るべき行動は――」 胃袋が引きつった。氷で突き刺されたように、自由落下の途中のように。どうして自分はもう階段を下り始めていない?
ニッサは首を傾げた。「ギデオン、それこそがチャンドラだから」
遥か下で、明滅する赤い炎の衝撃が拠点から飛び出し。長い自由落下が終わったかのように、ギデオンの心臓が喉まで上がった。そしてチャンドラは隣接した屋根をよろめき進みながら、今も怒鳴り散らしていた。
「ジュラさん!」 上階からの声が、風に乗ってかすかに届いた。「機械巨人が防衛線に!」
「私が――」 自分はチャンドラを追いかけようとしていた。違うか?
彼は目を固く閉じ、熱い昼間の大気を鼻から吸い、ゆっくりと、油と煙の匂いに集中した。拡声器の声は小さく遠ざかっていた。足元をかすかな揺れが過ぎた、遠くで空ろな爆発が響いたように。
『いつか来るだろう』 ヒクサスの声が遠い過去から響いた。『君が守りたいものと、守らねばならないものとの板挟みになる時が』
ギデオンは目を開け、ニッサの果てしないそれを見つめ、口から息を吐いて、灰のような味のする言葉を絞り出した。「彼女を守ってくれ」 ニッサは頷き、去った。
彼は階段を駆け上り、束の間の鼓動を思い返さないよう努めた。小さな、猛烈な、大切な太陽を胸に抱えた時の。
靴音を立てて舗装路に着地すると、肺から空気を追い出した。バラルは直ちに立ち上がり駆け出していた。全て計画通りに進んでいた。
だが既に足を緩めてもいた。息を切らしながら、まるで一掴みの針が肺を突き刺すかのようだった。鎧をまとってこれほど走ったことはなかった。少なくとも数十歩以上は。魔道士らしき者が距離の優位性を得たと考える、腕の長さが届く以上は。
歳をとった。重く、鈍くなった。
左腕の感覚が回復することはなかった。そう、それは動かないまま垂れ下がり、そして何年もの辛い努力を経て再び従順に動くようになった。だが武器や食器を固く掴んでいると再び確信することはなかった。ある冬の日、兵舎の暖房に近づきすぎて袖に引火したことがあった。既に駄目になった皮膚の焦げた匂いが鼻をついて、笑うことしかできなかった。笑えな過ぎて笑わずにはいられなかった。あの化け物が顔の半分を焼いて数年もすると、それ以前よりも兜をかぶらないようになった。これはこれで威嚇の手段に、呪われた魔道士をひるませる理由になった。
あの化け物のせいで、自分は破滅させられた。
バラルは頻繁に小路を曲がった――左、右、また左――飛行中にバーンが嫌というほど繰り返した通りに。周囲の家々はもはや新しくも輝いてもなく、ゆっくりと腐朽して瓦礫と塵へ崩れていた。襟に汗がたまり、熱い息が兜の中にこもった。
背後ではナラーの娘が怒り狂って罵りながら、でたらめな悪態が石造りの小路にこだましていた。
自然と笑みが浮かんだ。記憶よりも背は伸びていたが、脳はそのままらしかった。沈黙しておくべき時に叫び、拳を放ちたがる。帰ってきてからというもの、一度ならず罠にかかっていた。つまりは自分が勝つ。
つまりはあの化け物を破滅させる。
バーンが提示した場所に到着していた。川沿いの古い石造り建築の迷路。何もかもが剥がれてむき出しで、庭は枯れて干上がっていた。燃えるものは何もなかった。
彼は速度を落とさず角を曲がり、兜の金線のかたびら部分を上げて肩越しに叫んだ。「お母さんはずっと苦しんでいた。君が死んだと思ってな」
彼女は遠い角を曲がって全力疾走しており、真紅の彗星の雲をまとっていた。歯をむき出しにして指を広げ、片手を伸ばし、突いた。
互いの間の大気が即座に点火した。吸い寄せる勢いを感じ、彼はその引力に身を強張らせて抵抗した。白金色の炎の幕がまるでアラダラ急行のように波打って向かってきた。
彼は片手を掲げ、氷色の光輪をまとう指を広げた。軽蔑するような波が炎を蒸発させた。はぐれた燃え滓が路上に転がったが、塵と石の隙間に発火するものは何もなかった。
「そしてお母さんが悲しんでいた間、君は何をしていたんだ?」 嘲るように続けた。「人生を謳歌していたのか?」 身を屈めて角を曲がった、彼女もよろめき汗をかき、燃え盛る髪から火花が流れ出ていた。
彼女を引き連れて走る中、高い、目が眩む歓喜の笑い声が腹の底から湧き出そうとした。だがそれが歯を乗り越えて出て来ることは許さなかった。彼は三十年間、内から湧き出すものを抑えつけて生きてきたのだった。
大気に飛行機械の羽音がこだました。まもなく目指す地点だった。分隊があの化け物を背後から包囲し、飛びかかる構えを――
その次の角を曲がった所で、彼は急停止した。
道は赤黒い茨の壁で塞がれていた。鉤型の棘と、翠玉色の葉を広げて。
これは......以前には無かった。
バラルは振り返ると同時に鎧の靴で娘の腹部めがけて蹴りを放った。彼女は身を曲げ、うめいた。
彼はよろめき後ずさり、剣を抜いた。チャンドラは土へと嘔吐した。彼が剣を振るいながら突撃すると、娘を包む炎は熱狂的な黄色へと明るさを増した。
彼女は鎧の上腕を振り上げ、金属と金属がこすれて火花が散った。
炎に包まれた左腕が振るわれ......そして大きく外れ、彼の背後を通り過ぎた。
彼は笑い出しそうになった。
そして彼女は路面に痰を吐き、左肩を沈めて彼の胸をめがけて体当たりをした。何かが弾ける音がし、彼女は息をのんだ。
バラルが後ずさると、怒れる熱が身を包んだ。
茨に火をつけたのか!
使い物にならない左腕で彼は燃える外套を肩鎧から取り去り、道に投げた。
この娘の背後をとらなければ。背中を焼かれることになる。
飛行機械の羽音が古い敷石の小石をかすかに動かした。「隊長!」 声が聞こえた、増幅器を通してやかましく平坦で機械的に。
小娘は歯を食いしばり、火花を両目から散らして、左腕を押すように動いた――だが喘ぐだけで、苦痛に両目は定まっていなかった。その腕は力なく下ろされた。
今だ。
バラルは彼女の炎輪へと剣を振り入れ、その力ない腕を攻撃しようとよじった。彼女は速やかに後ずさった、明らかに過剰に。訓練された闘士ではなかった。ただの怒り狂った子供だった。
濁った火球が右の拳から飛び出て、そして......勢いよく倒れた。片腕の重みに塵の中へと倒された。
動かない片腕がどれほど身体の平衡を狂わせるかを彼は知っていた。そう、よく知っていた。
剣を振り上げると、飛行機械の影が頭上を横切った。その金属は耐熱性を持たせてあるが、娘の白熱した炎を通ったそれは既に広がり歪んでいた。彼は剣をその首筋へと振り下ろした。
アート:Min Yum |
腕を引かれて止まった。動かなかった。
彼はそれを一瞥した――燃える蔓に包まれている? そしてその過ちこそ彼女が必要としたものだった。手に込めた炎が弾け、燃え上がる花弁が鎧に散り、顔板を通して焼け付いた。
彼は煙の中で瞬きをし、笑い声を咳込んだ。兜の中の匂いからして、残っていた眉を失ったらしかった。娘は仰向けのまま、苦痛に喘ぎながら動かない腕を引きずっていた。頭上では分隊の飛行機械が弧を描き、青空に白い蒸気を残していた。
三本の蔓が近くの道から飛び出し、瓦礫を降り注がせた。それらは先頭の輸送機の船室を叩き、羽ばたく翼の一枚を突き刺した。輸送機は平衡を崩し、エンジン音を響かせて建物の壁に激突した。
彼は爆発の火球から目をそむけた。建物は崩壊し、白い埃の波がうねって彼の鎧に鳴った。
両目を屋根の上に走らせた。いた!
「二百メートル南だ!」 バラルは騒乱の中に声を上げ、影へと手を振った。「エルフだ、屋根の上!」
二機目の飛行機械が旋回し、二又の電撃を放った。雷鳴が街に轟いた。
黒土と植物の壁がそのエルフの背後に立ち上がり、木と土の巨大な手で包み込んだ。稲妻はその表面で散った。その植物は前進して立ち上がり、四足の怪物へと編み合わさって女主人を守るようにうずくまった。
《大導路の守護者》 アート:Christine Choi |
咆哮とともに、そのエレメンタルの獣は次の支援飛行機械に飛びかかった。エルフは優雅に小路へと飛び降り、ナラーの娘へと駆けた。彼女は立ち上がろうとよろめきながら、白い塵に赤毛の炎は消え、頬は涙に濡れていた。苦痛か怒りでかはわからなかった。問題ではなかった。
罠は失敗した。エルフがいなければ、再利用できたかもしれない――だがその時間はなかった。彼は最後の飛行機械へ合図し、歪んだ手甲剣を外し、それを二人へと狙いをつけず投げつけた。
飛行機械が降下し、白亜色の砂嵐を起こした。
彼は鉤を取り出し、狙いをつけた。バーンが船室から顔を出し、状況に顔をしかめ、そしてバラルが投げた鉤が昇降機を叩くと慌てて後ずさった。
エルフが追い付いた。小娘はよろめき倒れ、鼻息を荒くしていた。「腕が動かないの、腕が!」 そう喚きながら荒く息をつき、目を見開いていた。
「大丈夫」 エルフはそう言って手を肩に走らせた。「脱臼してるだけ。こう......」
鉤が届き、彼を引き上げた。同時にナラーの娘は苦痛の鋭い悲鳴を上げた。
操縦士が機体を持ち上げると、バラルは船室に飛び込んだ。「あのエルフに機械巨人を。今すぐだ!」
バーンが素早く彼を睨み付けた。彼は棚から予備の手甲剣を掴み、素早く掛け金を外した、バラルが毎日そうしているように何気なく。それを学んだのはいつだろうか? 「バラル遵法長」 彼はエンジンの騒音の上から叫んだ。「我々に機械巨人を使用する権限は――」
「やつらを叩き潰す」 彼は怒っていた。そして感覚のない左手で天井の手すりを掴み、風の中へとのり出して背後を見た。別の飛行機械が上昇し、加速しつつ鼻先で避け――
あのエルフのエレメンタルが街路から跳び上がり、空中でそれを引っ掻いた。
彼はあの火球娘へと罵った。汚らしい泥が! 「奔流の機械巨人であの忌々しいのを流して――」
「我々は陽動なのです!」 バーンが断固とした声を荒げた。
彼は船室の端から後ずさり、歯をむき出しにして公使を威圧するように立った。バーンは冷ややかに彼を見つめた。「左腕の感覚がないのでしょう。貴方の動きを完全に損なう方法について、私には三通りの知識がありますが」
二人はしばしにらみ合っていた。
「四通りです」
「いいだろう」 バラルは唸った。
彼は操縦士の肩を叩き、円形の手振りを示した。飛行機械が旋回すると、彼は設備棚から拡声器を掴み、隔室扉の傍に陣取った。
ナラーの娘は顔を上げて睨みつけ、燃える棘の壁に照らされて目をぬぐった。エルフはその隣に立ち、光る片手をその負傷した肩に当てていた。
「「無力な紅蓮術師よ、そのご友人は知っているのかな?」」 彼は二人へと叫んだ。「「言ったのかな? 君のせいで燃やされた村のことを? その子供らの悲鳴を?」」
化け物はただ甲高く言葉にならない悲鳴を上げ、髪が燃え盛った。白い炎の塊が上空に放たれた。
この時、飛行機械は避けられなかった。
彼は手を伸ばし、炎を結びつける赤い糸を感じ取った。指がその中に沈み、曲げ、裂いた。炎は無力に散った。
その隣で、バーンが身体を強張らせた。
娘は彼らへと低俗な悪態を吼え、下降気流の中で火花が星座のように両目から渦巻いた。
バーンは拡声器を引き寄せて口に当てた。「「そういった装置は外部からの使用にのみ対応しております。用法を厳守しない場合は使用者の身体機能を著しく損な――」」
彼女はバーンへと身振りをした、力強く。
「「私は市民の皆様の安全を懸念しております」」 バーンはそう答えた、不機嫌に。
バラルは公使の手から拡声器を叩き落した。それは何もない床に回転した。「あの娘の陽動は終わりだ。霊気拠点からよく見える場所へ連れて行け」 彼はにやりと笑った。「母上に、加わってくれと鼓舞できる場所を」
街路から上昇し離れる中、バーンはしばし彼を値踏みするような視線を向け、そして船室の外を見た。「計画の次段階に入ります」
バラルはその視線を追った。頭上更に高くで飛行機械の黒い点が幾つか、スカイソブリンの艦橋から飛び立った。
巨大な鋼の足が老人の頭を踏み潰す前に、ギデオンは彼を押しやり、それを見上げるくらいの時間があった。
暗闇。
摩擦。金属と金属が軋み、砂利と土に振動が伝わる。
日光。下向きに回転する塵の微片を通して。
彼は上へ手を伸ばし、砕けた敷石の端を掴み、穴から身体を引き揚げた。その老人は道路の隅に伸び、唖然として彼を見つめた。ギデオンは安心させるように笑みを見せ、片手で髪から土を払った。「大丈夫です」 明るさを込めて彼は呼びかけた。「私は難攻不落ですので」 機械巨人の足が振り下ろされ、地面が再び震えた。ラヴニカで訓練をしてくれたニッサに感謝しなければ。
ニッサ。チャンドラ。彼女らはどこに?
今はその余裕はない。構えろ、歩兵。状況を察しろ。動き続けろ。主導権を握れ。
よろめきながら立ち上がると、塵が衣服から落ちた。機械巨人が敷石に残した足跡の大穴の端に彼は立った。巨人は高速警備車を握り潰し、街路へと下手投げで放った。頭上で振り下ろされた鎚手に突風が起こり、彼は前のめりになった。間に合わせの防壁で人影が脇に避けた。機体は障害物を破壊し、金属の悲鳴を上げて道に跳ね返り、真鍮と水晶の破片を散らした。
そうだ、歩兵。巨大な機械仕掛けの兵が道を進んできている、駐車されている機体をその先に位置する改革派めがけて投げながら。その先にはもう四体の機械兵が迫ってきている。三体がこちら側、二体が向こう側。だが正確な位置はわからない。都市の街路は峡谷、そしてお前はその底にいる。戦略的に、行動するには最悪の場所。水も炎も坂を流れ下ってくる。
どうする、ギデオンよ? 危機に瀕している生命がある。そしてお前はその前に開いた入口に立っている、まるで初めての前座戦に挑む子供のように。
まず、現状を理解しろ。
高所からの視点が必要だった。だが屋根へ辿り着くまでの距離は長い。前線は動いている。もしアジャニさんがいてくれれば。あの人ならば可能だろうに――
自分にできることに集中しろ。
その機械巨人が、最前線だった。そしてそれは屋根よりも高かった。彼はその背後へと駆け、重々しい足音の振動に狙いを定めた。維持管理や検査のためにその脚へと登る輪があった。
彼は輪を選び、跳び――
――そして外し――
――だがかろうじて次の輪を掴んだ。刺すような痛みに指が黄金色に輝いた。
彼を宙にぶら下げたまま、機械巨人は脚を振り上げた。踵が塵の中に引きずられた。
ジェイスならばもう少し良い案があっただろう。チャンドラも。
重々しい軋み音を上げ、機械巨人は脚に体重をかけた。傾いてきた所で彼はかろうじて輪に足をかけた。
機械の腰まで這い上り、巨大な脚がすぐ下で振るわれると、彼は単純に掴まって耐えた。
四本左の街路で、腕に管をつけた双頭の機械巨人が改革派の群れを激しい水流で掃っていた。顔を隠した、武装した警視兵の波がその後に続き、熱狂を隠すことなく警棒を振り回しては改革派を取り囲んで袋叩きにしていた。意識が朦朧となった血まみれの体が特大の護送車へと後送されていた。
アート:Daarken |
改革派が三人、水の機械巨人が通過した後の屋根へと急いだ。彼らは大急ぎで屋根の端に三脚を組み、管状の装置を設置した。くぐもった発射音とともに、それは機械巨人の腕をめがけて銛を放った。彼らが尻込みする中、機械巨人の操縦者が損害を予測して腕を掲げた。
その腕が弾け、水が四方八方に噴き出した。銛部隊は退散した。
改革派の前線が崩れゆく先に、ギデオンはもう二体の機械巨人を見た。願望よりも遥かに近かった。装甲には弾痕、稲妻、炎の焦げ跡が点々としていた。見つめていると、改革派の青色を間に合わせで塗られた飛行機械が編隊から進路をそれ、肩の機構へと激突した。機械巨人の腕が震え、振り上げる途中で停止した。飛行機械の操縦士の気配はなかった。
巨大な昆虫がギデオンの肩にとまった。
危うく梯子から落ちかける寸前、彼はそれが真鍮と色付きの絹でできているのを認めた。「やあ!」 機械を通した女性の声が伝わってきた。「君が『厚切り肉』くん、かな?」
「ええと......」
「『白猫』はそれは君の暗号名じゃないって言ってたけど、『夜の女王』様がどうしてもって言い張ってさー」
彼はその金属の昆虫の先を見た。遥か下方で、黒い肌のエルフが街路から手を振っていた。手を唇の前に挙げ、二機の金属蝶が手首に止まっていた。彼女はそれを指さし、唇を動かしていた。
「『ぴくぴく君』に話してくれる?」 彼の蝶がその声を響かせ、音を立てた。
「もしもし?」 彼女へと手を振りながら、ギデオンは恐る恐る呼びかけた。金属の昆虫が触覚を震わせた。
「もしもし、こんにちは! あたしは『シャドウブレイド』。ブレードじゃなくてブレイドね。お世話になってるよー」 ギデオンは巨大な機械人形の腰に掴まっていたが、このやり取りはすぐさま、この日起こった最も奇妙な事に位置づけられた。「『外套くん』が今いないんで、あたしが伝達を請け負ってるわけ」
「リリアナは何処です?」 彼は蝶へと尋ねた。
「『夜の女王』」 シャドウブレイドの声が言った、断固として。
三つ右の街路で、別の機械巨人の一体がふらついた。その背骨を形成している緑の生木が萎れ、黒化した。青白い菌が爆発的に成長し、幹を点々と汚した。
「大丈夫です。今見つけました」
その機械は片膝をつき、木が腐る中で傷ついた熊のように鋭い音を立てた。支えを失った金属が自重で湾曲し、あらゆる関節から黒い液体が流れ出た。
リリアナは豪奢な黒い絹をまとって屋根の上に姿を現した。踵の高い靴を履いて片足を欄干に乗せ、手袋の手を頭上に掲げた。指を鳴らすと、機械巨人は粉々になって足元に崩れ落ちた。
路上の改革派から歓喜の咆哮が上がった。彼女は仰々しくお辞儀をして見せ、群集へと投げキッスをした。
「好奇心から聞くんですが、リリ......『夜の女王』が私達全員の暗号名を?」
「うん。すごく役に立ってくれたよ」
「それは......良いことです」 機械巨人が不意に身動きをし、上半身を軋ませながら回転させた。彼は通過する管の下を避けると身体を伸ばしてその先を見た。
巨人はまた別の車両へと近づき、鎚手を振り上げてそれを眼下の改革派へ叩きつけようとしていた。
機械巨人の放水攻撃から逃げてきた群集が今や防壁の前に固まり、高速警備車によって開けられた穴から逃げていた。顔を隠した領事府警視兵の波が炎の列へと彼らを押していた。
そこに車両が叩きつけられてしまう。
歩兵よ、この状況で何をする?
彼は機械巨人の表面を見渡した。固い金属。明白な機構や弱点はなかった、両脚と上半身との接続部以外には。そこでは装甲の間に大きな溝があり、四肢が動けるようになっていた。その内に、彼は巨大な歯の伝動装置が動力管の霊気に青く照らされ、うなりを上げて回転しているのが見えた。
スーラを見た。そして回転する歯車を。
機械の蝶へと彼は言った。「『ぴくぴく君』を宙で受け取ってもらえますか」
「了解」 不満そうな声が返ってきた。口笛の音が数回届き、そして昆虫は飛び立った。
彼はその装甲の間の溝を見て、数度素早く呼吸をして、歯車の間へと飛び込んだ。暗闇が黄金の光で溢れた。
長く続く、苦痛と、騒音と、動き。
金属が軋み、世界が跳ね上がった。
黄金の暗闇の中で横向きに落ちながら、千もの小さなナイフが脚や腕を噛み、背骨を圧迫し、口内を銅の苦味で満たした。
頭が壁にぶつけられた。
静寂。
闇の中に響く呼吸音。
つまり......自分はまだ息をしている?
暗闇の一部が持ち上がった。暖かい眩しさが痛む目に流れこんだ。チャンドラ?
にやりと笑う顔が太陽を遮った。「英雄さーん?」 シャドウブレ......ブレイド。
彼女はくすぶる墓所から瓦礫を剥くように彼を救い上げた。立ち上がると、細やかに鋳造された歯車の残骸がなだれ落ちた。彼の胸鎧は歪んで穴だらけになっており、しばし肩紐からぶら下がっていたが、音を立てて落ちた。
機械巨人は道を塞ぐように伸び、顔面から建物へと倒れこんでいた。彼が今這い出てきた脚は引き裂かれていた。若者や機械生物がその瓦礫に群がり、両手一杯に残骸を引き上げては破片や塊を交換し合っていた。
アート:Winona Nelson |
「ありました、ブレイド様!」 ヴィダルケンの少年が声を上げ、六本指の手を振った。その背後で、この戦闘機械の操縦士らが操縦席から這い出てきた。油で汚れた領事府の制服をまとった、不機嫌そうなドワーフの一団だった。
「凄い仕事だったよ、厚切り肉くん」 シャドウブレイドは笑いかけ、むき出しで傷だらけの肩を叩いた。「今の、もう何回くらいできる?」
ギデオンは通りの先にもう三体残る機械巨人を、そして船で満ちた空を見た。「手が回りません」
リリアナが素早く現れ、ゆっくりと彼を上から下まで見て、物憂げに片手を腰に当てた。「......服はどうしたの」
彼の両目が領事府の飛行機械の群れに引き寄せられた。それらは霊気拠点の上階へと近づき、うなりながら旋回する、まるで......
ギデオンははっと鋭く息を吸った。ふらつく程に、まるで頭を水に沈める前のように。
......あれはまるで、アクロスを襲うハーピーのような。
「拠点へ戻れ!」 彼は叫び、駆け出した。「走れ!」
殺してやる。
石につまずいた。縁石。肩をぶつけた。胃が痛んだ。
よろめいた。膝と掌をすりむいた。立って! 進んで!
逃げない。絶対に。あの野郎。
世界は暗いトンネル。見えるのはくるくる回る飛行機械だけ。そこから笑い声が響く。言葉が響く。
お母さん。お父さん。『化け物』。死んだ。苦しんだ。殺した。『化け物』。村を。火を。子供を。『化け物』。
それはもう聞こえてなかった。考えにまとめられなかった。ただの音。ただの燻り。
もう涙は残ってない。炎だけ。冷たくて白い炎。浄化の炎。
腐ったあいつを焼き尽くしてやる。この街から焼き尽くしてやる。
「チャンドラ、私が」 背中で、ニッサが一息に言った。
こんな所にいないで。こんな私を見ないで。
目の前で巨大な根が地面から持ち上がって、屋根まで伸びた。その向こうで飛行機械が止まって音を鳴らした。
よじのぼると、冷たい土が焼け付く指を覆っていた。湿っぽい木に靴が滑った。すり傷の指で屋根の端を掴むと、血の跡がついた。
空は巨大な船で、埋まっていた。街が燃えていた。
金属の巨人が炎の中を進んで、その目の前から人が逃げていた。飛行機械が羽虫の群れみたいに沢山、霊気拠点の周りをうなっていた。上の階が迫ってきた。
お母さんはどこ。
飛行機械がそこに着地した。裂ける音、閃光。走る人影。落ちた。
......お母さん?
「見るがいい、お前が何をしたかをな」
バラル、その無残な顔が砕けた歯を見せて笑った。浮揚している飛行機械が目に砂を吹き付けた。「お前があそこにいたなら、違ったかもな」 太陽が剣の端にぎらついた。この男は私の顔へとそれを向けた。「もしくは......もっと死んでいたかもな」
頭皮から髪が浮き上がるのを感じた。焼け付くような、極寒の光が屋根に溢れた。
「お前の狙いは外れてばかりだ、全くもってな。どうだ、化け物よ?」
「あんたもね」 私は呟き、そして顔面めがけて炎を放った。
白い炎の壁は風にかき回され、蝋燭の炎みたいにちらついて散った。
「まだ懲りていないのか?」 この男は輝く片手を下げ、兜の覆面を下げた。「犬でももっと作戦を考えるだろうに」
屋根が震えた。向こうから、ニッサのエレメンタルが轟かせて、跳ねて――
――そして瓦礫と黒い土と灰色の石、白木と緑の葉の塊になって落ちた。バラルは輝く片手で肩から土の塊を払った。「ここはギラプールだ。泥汚れを機械の戦いに持ち込まないでもらいたいものだ」
その背後で金属の波がせり上がって屋根に溢れた。真鍮の車輪と鋼の脚、炎の噴き出し口ときらめくアンテナ。
「安らぎを」 ニッサが呟いて、温かい手が肩を撫でてくれて、そして去った。
そして彼女は空中にいた。細い剣を一体の自動機械の光学装置に突き刺して、転がって、別の一体を肘で突いて、冒険靴の踵で三体目を粉砕して、切り裂いて、突いた。緑色の鋼の花が風に乗って歌う。そして固くて確かな筋肉。地面に足を突くのはほんの少し、まるで礼儀としてだけのように。
待って。
よく見て。
どういうこと。
ニッサが剣を持ってる?
《精霊信者の剣》 アート:Daniel Ljunggren |
彼女の杖の先が屋根を転がってきて、つま先に当たった。
瞬きをすると、バラルのそれが私に向かって降りてきた。
左、右、叩いて、吹きつけて、転がって、下がって、下がって!
鋭い陽光。氷が腕を切った。
よろめいた。膝をついた。屋上の水たまり。銀色のさざ波、赤い自己相似形が爆発する。剣が振り下ろされるのが見えた、重なるみたいに。
避けて!
風が耳をかすめた。
水たまりに力を込めると、蒸気の雲が爆発した。あの男のぼやけた影がうなり声を上げて後ずさり、顔の前から払おうとした。
何をすべきはわかった。
屋根の接着剤が液化して湯気を立てるタールと化した。あの男は苦痛に吼えて、雲を切るみたいに剣を振り回した。
飛行機械の羽音が頭上で途切れた。稲妻の音。ニッサは大丈夫? どこ?
突然の雲の影。後ずさると、冷たい氷の針が額をかすった。
反射的に、その方向へ炎の稲妻を返した。でも青く脈打って融けて火花になった。
タールの中を進みながら、あいつは笑っていた。世界の左半分が赤い汚れに溶けた。ぬぐったけど、無くならなかった。手が滑るようになっただけだった。
大気の中で、その剣だけが白かった。兜の金線から息の音がこだました。
下の方で建物が揺れた。あの男は唸ってよろめいたけど、それでも進んできた。そのずっと後ろで、お父さんの船が霊気拠点の隣に飛び上がった。砕けた搭乗台と切れた錨線を引きずったままで。
空気が足りない。足りない。私はふらついて、息を切らした。何時間戦ってるの? 何分?
左手で炎を投げた。消された瞬間、私は右手でその変な顔面を殴りつけた。
変な、金属をかぶった顔面を。砕けた音がして私は悲鳴を上げた。
「愚かな化け物め」 この男は呟いて、蹴った。強く。
痛みがお腹に弾けた。
熱くて臭いねばつきへ吐いて、息を吸おうともがいて、でも息をするとまた違う苦しさが続いた。でも泣いてはいなかった、この男を喜ばせることになるから。
立ち上がらないと。
あの男は渡り切った。うるさく、靴は黒く汚れて湯気を立てていた。何もかもが終わった後のイニストラードの悪臭がした。不気味な、歪んだ肉の山が燃えるような。
息ができない。ニッサ、助けて。
剣が振り上げられた。
私は這った。助けて。ニッサ。
刃が振り下ろされた。顔をそむけたかった。動きたかった。
――カラン。
瞼を少し開けて、降り注ぐ真鍮を見た。私の首は繋がってて、でもその代わりに金線の鳥が、凹んで裂けていた。それは屋根の上を転がって歯車が散らばった。溜息みたいに鳴いて、そして黙った。
「その子から離れなさい、できそこない!」 パースリーさんの怒鳴り声だった。
震える、血まみれの腕で私は身体を起こした。パースリーさんは私達の向こう側、霊気拠点の昇降段にいて、震える拳をバラルへ向けていた。アジャニがその隣にいて、手には斧を持って、耳を平たくして無事な方の目をすごく大きく真黒に開いていた。
《不撓のアジャニ》 アート:Kieran Yanner |
私は弱々しく煙を出すのがやっとだった。両目から火花が散った。
拠点ではキランの真意号の大きく開いた入口めがけて人の波が駆けていた。取り付けかけの小塔から火花が散って、顔を隠した警視兵の群れを撃った。領事府の飛行機械が輝く空中機雷を落とすと、息を詰まらせる雲が広がって咳の音が溢れた。
「砲手!」 バラルは飛行機械へ叫んで、壊れた剣を投げ捨てた。「あの造命士を落とせ!」
脳内で悲鳴が上がった。この男が振り返ったところを見ると、もしかしたら私も声を上げてたのかもしれない。立ち上がったけど、何もかもが眩しい青と白になった。鏡に映った月の光、雲のない砂漠の空、そして私は目が痛くなるくらい眩しい炎を、ぼやけた翼とぎらつく真鍮めがけて――
バラルの両手が拳を掴んだ。
何もかもが止まった。魔法が止まった。
「お前がしたことを見ろ」 バラルは私の顔めがけて叫んだ。「見ろ!」 マナはそこにあるのに、でも掴めなかった。水に浮いた油みたいにのたくっていた。手を伸ばしても、こいつの手に滑り落とされた。そして私の腕を曲げて、私を壊そうとした。「お父さんも知っていたよ。私がその胸に剣を突き刺した時に。血を流しながらその目に見たよ、お前への後悔をな」
白く弾ける二又の光が拠点を突いた。
パースリーさんはつまずきながら柵から離れた。アジャニは怒りを叫びながら斧を振るった飛行機械から走った稲妻は斧の刃に弾かれた。一発。二発。
「その顔だ」 バラルは笑った。その息は安物の肉と砂糖を入れ過ぎたチャイの、何週間もの独りだけの食事の匂いだった。腕が引っ張られた。「絶望だ。化け物と、お前を闘技場で見た時と同じものだ。お前の首に刃を当てた時のな」
三本目の稲妻が世界を砕いた。
パースリーさんは引きつってよろめいた。煙色の編み髪が散った。
笑い声。「お前が殺していない者はまだ残っているか?」
どうやったんだろう。私の血まみれの手がこの男の喉を掴んで、金属の隙間にねじ込んで、力いっぱいに握りしめた。欠けた爪をめり込ませて、血まみれの親指を喉仏に押し付けた。叫んでたんだと思う。喉がひりひりした。
篭手が私の頭を何度も何度も殴りつけた。そして私は暗闇のトンネルへ落ちた。先には火花だけがあった。
そして心臓の音以外に、金属を叩くみたいな声が響くのが聞こえた。「......謀議罪、反逆罪、暴行罪で逮捕します。膝をついて両手を頭の後ろに......」
バラルは何かをわめいて黙った。固まりかけのタールへ唾を吐く音、強い上昇気流。
頭上で、領事府の飛空船が一隻と、十くらいの砲台が私へ向かって回っていた。
失敗した。また。何もかもが燃えていた。
「チャンドラ」 隣でニッサが、剣にもたれかかっていた。火傷だらけで血を流していて、編み髪が半分ほどけていた。止まらない熱波の中で金属が焼けてかたかた鳴っていた。ニッサの目が私を見ると翡翠が零れ落ちて、震える指が私の頭の切り傷に触れかけて止まった。
「すぐに離れて」 軋む声で私は言って、立ち上がった。
私は化け物じゃない。
でもそうなってしまう。
私は大きく息を吸って、止めて、そして搾り出した。手の中に火花が点って、燃え上がる黄金色の魚が群れた。それは震えて、半狂乱になって、危ないくらいの白になった。これまで何千回もそうしてきたみたいに。
バラルは凹んだ兜を後ろに傾けた。屋根に落ちる音。そして笑った。「改革派よ、私はお前の父親を殺した。お前の叔母もな」
風が強くなってきた。もっと空気を。もっと熱を。押さえつけて。動けなくなるまで。息ができなくなるまで。私は歯を食いしばった。光は冷たくなって、尖った青い影を投げかけていた。
「そしてこれからお前を殺す」 バラルは帯からダガーを引き抜いた。飾り気はなくて、刃に古い錆びと、柄に焦げ跡があった。「そして最高なのは、究極に最高なのは、お前には何もできないという事だ」
簡単なことだった。前にも考えるべきだった。同じことを罠にかかった時も試したけど、私は慌てすぎていた。今は何もかもが晴れてる。空っぽで、見通せて、絶望したくなるくらいにはっきりしてる。
「できることはある」 私はそう言った。
償いはできる。パースリーさんへの。お父さんへの。お母さんへの。星の聖域で殺してしまったお婆さんと子供達への。ずっと失敗だらけの人生への。私のしてきた酷いこと全部への。傷つけてしまった、死なせてしまった全員への。手の中に星が満ちて、震えて、すごく熱くなった。光の筋が視界を引っかいた。
「......いつだってできる事はある......」
バラルを倒せる。船と機械巨人を。テゼレットと領事府を。望むなら、ギラプールの全てを。とっても簡単なこと。私はただ閉じ込めて、放てばいい。ただ解放すればいい。
だって、もう何も関係ないから。違う? 何もかもが壊れたんだから。
好きなように。
目を閉じて。
起こるままに。
終わらせよう。
もう、構わない。
私は痛む目をカラデシュから閉じて、囁いた。「私は、燃やせる」
《チャンドラの憤怒》 アート:Volkan Baga |
背後から包む腕。花の香り、そして耳に柔らかな風。「独りじゃないわ」
ニッサ?
「あんたも傷つける。放して」
腕の力が強くなった。「ううん」
「もう終わらせるの。放して」 星は涙を燃やし尽くして、けれど身体が震えだすと私の声はうわずって揺れて、言葉は途切れ途切れになった。ばらばらになりそうだった。「お願いだから」
「ううん。そんなふうに私達を置いていくなら、私も一緒に」
「駄目――」 もう何も見えなかった。ただ光と、ニッサの声だけがあった。
「行かないで」
パースリーさんは痙攣して倒れた。編み髪がもつれて、目は私を見つめて、安全な所へ逃げてくれって願っていた。お父さんは膝をついて、お腹にあいた赤い穴を押さえながら、目は私を見つめて、安全な所へ逃げてくれって願っていた。私のせいで死んだのに。
「私達を置いていかないで」 ニッサは静かに言った。「あなたは愛されているんだから」
手の上を舞う風に引かれて、海みたいに涙が滲んだ。火花、残り火、塩水が揺れる。
力を込めるのを止めた。押しつけるのを止めた。手から星が滑り落ちて震えた。光は波打って、銀青色の火花が怒り狂った蛍みたいに飛んだ。鍋の上の油みたいに弾けた。
何かがおかしい。
炎が変になっていた。まだ熱くなって、内側へ向かって崩れていってた。それ自体が、炎自体が、私が何もしなくとも燃えていた。瞬きをすると、束の間の暗闇に光の筋ができた。
まだ熱くなる。
私はその熱を少しずつ下げた。気を付けて、ゆっくりと、だけどそれは噛みついてきた。私の罠から逃れたがって。ありえないくらい熱い炎の粒が解き放たれて噴き出した。私はそれを捕まえて、怒り狂う青い光を閉じ込めるように手で押さえた。バラルは唖然とした。どこか近くで震えがあって、建物の残骸が崩れた。
「できない」 私は息を切らした、心臓が、痛む胸骨の中で高鳴っていた。「おかしいの。止められないの」
「チャンドラ。泳ぐのってどんな感じか覚えてる? ラヴニカで話してくれたじゃない、また説明して。浮かぶのってどんな感じか。あなたの上にはただ青い空だけがあって。何もかもが涼しくて静かで......?」
目を閉じて、十歳の頃に戻った。大気は焼け付くみたいに暑くて、濃くて、眠れなかった。お母さんとお父さんは草の上に並んで横になって、息はゆっくり静かで、夏の暑さの中でも眠れていた。私は抜け出して苔むした岩へと降りていった。あおむけに水面を滑ると、縮れた髪を水が這って、汗をかいた頭皮に冷たかった。喉が締め付けられた。
「泉があったの――よく行ってた。草むして、苔だらけで。夜に外に出て私はそこに浮いた。星が水面に映ってた。白と青と橙。緑色と薔薇色のまだら模様、まるで遠くの幽霊みたいに。波が岩に跳ね返って、私の息の音だけがして、それも小さくなっていった。まるで何もかもから落ちてくみたいに。横になったまま静かになったら、まるで......その真ん中にいるみたいだった。星の間に浮かんでるみたいだった」
「星の中にランタンがあって、一番眩しいのがそれ。想像できる?」
一つの純粋な白い灯。まっすぐに偽りなく燃えて、氷みたいな鋭く痛む光を暗い岩へ投げかけている。「うん」
「その炎がだんだん小さくなっていく」 ニッサは囁いた、まるで風が葉を鳴らすように。「今は夜。大地の明かりが暗くなる時間。星と霊を輝かせる時間。水があなたを撫でる。触ると冷たい。光は消えていく」
瞼の向こうの凶暴な輝きが薄れていった。私は目を閉じて、浮かんでいた。息をすると、ニッサの髪からは松の木と夜の花の香りが届いた。私は揺れた。一つの光が静かな水面に弾んだ。温かい腕がしっかりと胃袋のあたりに回されて、私が流れてくのを防いでくれた。
「あなたは水に浮かぶそのランタン」 ニッサが言った、私を掴んで左右に揺らしながら。私の肩を春の波みたいに揺らしながら。「だけど、小さな光。小さな炎が、夜にひらめいている。感じられる? あなたは漂っている。果てしない水面の大切な光。そして星があなたを待っている」
その光はちらついて、消えた。
ナラーの娘がエルフの腕の中に倒れると、バラルは罵り声を上げた。彼女の片目は血走って疲労にくぼみ、もう片目は額の剣傷から流れた血が乾いて塞がれていた。頬は焼け、涙で縞模様を作っていた。
「立てない」 娘は言った。その声はか細く軋んでかすれていた。「脚、動かない......ゼンディカーの時みたいに』
「それなら、私が運ぶ」
捕まえかけた所だった。この化け物を追い詰めた、苦痛と恐怖で狂乱して自分の足に噛みつくまで。自分はドゥーンドの監獄で百人もの魔道士を切り刻んできた。誰も介入することを知らない忘れられた暗闇の中で。
「上等だ」 焦がされた脚をかばいながら、彼はのろのろと二人へと進んだ。時には自分の手を汚さねばいけない時もある。父親然り、娘然り。彼は錆びた古い刃を強く握りしめた。「お前にあるのは炎だけだ。燃えるのが嫌だというなら、何ができる?」 そして嘲った。「また私を殴るか?」
一本の木が彼を左から殴りつけた。
胸で金属線が折れ、何かが砕けた。
目から火花が散った。呼吸は凄まじい激痛を伴った。
彼は屋根の端の柵へと叩きつけられた。ずっと先で、エルフが今や力を失ったあの娘を腕に抱えていた。その隣にはエレメンタルの獣が再びそびえ立ち、飛行機械ほどもある根の拳から血を払い落した。それが身を震わせると、背中の葉が怒れる虎のように威嚇音を立てた。
「帰って」 エルフは冷ややかに言って、背を向けた。
飛行機械の咆哮が彼の背後に降下してきた。
靴が彼の頭部を取り囲んだ。
バーンの声が騒々しい羽音を制して聞こえてきた。正確かつ客観的に遠くから。「複数本の肋骨骨折に鎖骨の細いひび。軽度の脳震盪。気管と咽頭の損傷。背中、顔、足に深度二の火傷。左足に深度三の火傷。警視兵、担架を」 バラルの分隊は低く同意を斉唱し、走った。
バーンは靴が血で汚れないよう気をつけながら、バラルの頭の隣に屈んだ。「私が安全基準の正しい適用を強調するのはこのためです。もしこの柵が無ければ――」
「黙れ!」 バラルは怒鳴り、そして浅く無力な息を、痛む胸から吐き出した。
バーンはそれを睨みつけ、鋭く息を吸った。「バラル遵法長」 乾いた声だった。「十二年前の貴方からの報告では、ナラー嬢と両親は放火事故で死亡したとありました。彼女が起こした不埒な騒ぎで、と。本日の貴方の言質によれば――私が一字一句違わず正確に記録してあります――貴方自身がキラン・ナラーの生命を奪い、ピア・ナラーを審理もせず投獄し、そして彼らの娘を公開処刑にかけようとした......あたかも闘技場での催しのように」
「ナラー一家は霊気窃盗だった。あの娘は鋳造所を破壊した」
「それらの罪は正当に裁かれるべきでした。しかしながら死に値するような重大犯罪とは言えません」
「馬鹿を言うな、バーン、あの娘は紅蓮術師だ!」
「彼女はいち市民です」
「化け物だ!」 彼は吼え、そしてその言葉に息を切らした。「魔道士は全て、化け物だ」 呟きは空へ向けられた。
バーンは溜息をついて指を組み、上腕を膝に置いた。その表情は重々しく、酷い嫌気を感じさせるような哀れみで汚れていた。「遵法長ディレン・バラル。貴方を一件の殺人及び......あるいは未だ発覚していないものが複数件存在する可能性もありますが......一件の殺人未遂、一件の超法規的拘禁、繰り返しますがこちらも余罪が明らかになるでしょう、そして隠蔽を含む複数件の公文書改竄により告訴します」
「貴方はその制服に相応しくありません。そして貴方は領事府が掲げる理想を脅かし逸脱させる存在です。私は貴方を告発しますが、極めて悩ましいことに......貴方のような者であろうと、法廷にて裁かれる。法はそう定めています。お気を付け下さい、この先貴方が発するあらゆる発言は証拠として公式に記録され、提出されます」
「奴等は逃走した」 バラルの声はかすれていた。「あのエルフと紅蓮術師は。奴等に止めを刺せ」
バーンは首を傾げた。「それは不適当です。我々の任務は成功に終わりました。霊気拠点は奪還しました。残った分隊は移動し、反撃に備えるべきでしょう。逮捕されて私と共に来ますか、それとも貴方をここに置いて行くのであれば、あの低木と一対一で戦うことになりますが」
空気が尽きた。ここまでか。彼は横たわったまま、そびえ立つ雲を見つめた。「忘れんぞ、バーン」
「大変結構なことです。同じ事を繰り返して言いたくはありませんので」
ギデオンは膝をついて背中を彼女へと向けた。「乗れるか」
「そんな事しなくていい」 その声は聞いたこともない程に弱々しく、低く、生気に欠けていた。
「任せろ、チャンドラ。知っての通り私の肩は広い。乗っていけ」 喜んでそうしたがっている、彼は自分の声がそう伝わることを願った。
背中の上に体重がかかった。膝と肘が傷だらけの上半身をかすめると、彼は素早く静かに息を吸った。細い腕が肩に回されると、むき出しの膝の下に腕を通した。チャンドラの指先は全て焼け焦げ、手には汚れた包帯が巻かれていた。顎の下に通された上腕は飛散した鋼とガラスによる酷い切り傷が走っていた。
「いいか?」
「ん」
「上へ行くぞ」 彼はうめき、よろめきながら立った。重さは然程なかった、本当に。ただ......傷が痛んだ。チャンドラから脈打つ熱が、衣服の下の生々しく赤い傷に心地良く感じた。
ギデオンは彼女を背負い、放棄された集合住宅の廊下を過ぎた。崩れかけて苔むした壁に、青い光を放つ霊気容器が不恰好な星座のように刺さっていた。
キランの真意号が、霊気拠点からの脱出者を改革派の強固な支配域である速接会地域へと運んできた。驚くことに今それは大通りの上、高くふらつく鋼の作業場の間から吊り下げられていた。命綱をつけた修繕工らが破損した装甲を剥がして交換する間にも、車両と列車がその巨体の下を通過した。背後では急ごしらえの対空砲の轟き音がひっきりなしに、領事府の飛空船を追い払っていた。それは少なくとも「グレムリン結婚行進曲」ではなかった。
改革派の一団が前方の廊下に群れ、囁き合っていた。
「......あの娘が何もかもを......」
「......違っていたかもしれないのに......」
「......長はまだ耐えなければいけないとでも?」
「......拠点から全てを見ておられたと......」
彼らはギデオンが近づくと顔を上げ、そして睨みつけられて躊躇うように押し黙った。チャンドラは顔を彼の肩に押し付け、腕に力を込めた。衣服越しの背中に暖かな吐息が途切れがちに触れた。
彼らを残し、二人は階段へ向かった。半ば下った所でチャンドラは片手を引き、熱を帯びた指でギデオンの肩をなぞった。軽く、優しく。腕毛の多くが逆立った。「体中こんななの? こんな傷だらけなの? 拳骨の嵐を食らって負けでもしたの」
ギデオンは短く笑った。彼女のためでもあり、自分のためでもあった。そのこだまは階段を上に下に侘しく響いた。「そうかもな」
「あんたは難攻不落だと思ってた」
「ちょっと工夫する必要があったんだ。だが私は今も厳密には......いや、難攻有落、かな」 そして下の階、治療師が詰める区画へと向かった。
「そんな言葉あるの」
「ジェイスは六冊の辞書を記憶していた筈だ。ゼヴ艦長と戻ってきたら尋ねてみるさ」 前方の扉へ頷くと、そこに待機していた改革派が扉を開けた。
パースリー夫人がたわんだ寝台に横たわっていた。胸の上で手を組み、目を閉じ、顔は消耗し蒼白に......だが呼吸はあった。アジャニがその隣に座り、大きな片手で老女の両手を包み、うつむいて集中していた。銀色に輝く微かなオーラが二人を取り巻き、脈打つ力がアジャニから流れていた。
その光景にチャンドラは身を震わせた。彼女はギデオンへと小声で言った。「だ、駄目――私がここにいたら。ねえ、戻ってよ」
アジャニの光が消えた。彼は顔を上げてチャンドラの様子を伺い、鼻から静かに息を吸った。「チャンドラ、かなり酷い具合だな」
《英雄たちの結束》 アート:Eric Deschamps |
「何? 私はそんな――」
「そうなる、すぐに。傷は僅かだが広い範囲にある。しかも深刻に。君とニッサは両方とも手当が必要だ。ギデオン、後で連れてきてくれるか?」
彼は頷いた。チャンドラは口を開きかけたが、言葉なく閉じて顔をそむけた。ニッサは彼女を運んで街の半分を駆けてきたのだった。静かに、かつ領事府の目を警戒しながら。そして彼女をギデオンに預けると、陽の当たる草地へと倒れ込んで疲れ果てた眠りに落ちてしまった。
アジャニは立ち上がってその椅子を示した。「座ってくれ。おばあちゃんが君のことを心配していた」
ギデオンは椅子の前で片膝をつき、チャンドラを椅子へと下ろした。彼女はパースリー夫人の両手へ、自身の震えるそれを恐る恐る近づけた。「パースリーさんは......?」
「おばあちゃんは良くなる、そのうちに。私がいる限り殺させはしない」 アジャニは言葉を切ってチャンドラを見つめた。「チャンドラ、君の過ちではないよ」
彼女は顔をそむけ、離れた壁を見た。「わ......わかってるわよ」
「自分のせいだと思い詰めることはない。そのために君にそう言いたかった」
彼女の手が夫人のそれに触れた。「席を外した方が良いですか?」 ギデオンが尋ねた。
チャンドラの指が老女のそれを掴んだ。「私はパースリーさんを殺しかけた。ここに来て二か月にもなってないけど、二度も殺しかけた」 涙が両目に溢れた、心臓の脈動に合わせるように。「私が逃げた日にかばってくれた。言ったことあったっけ? 働いてた所に私を隠してくれた。バラルと部下の邪魔をしてくれた。それなのに私は戻ってきてから、その時のことも何も尋ねてすらいなかった。あいつら、お母さんと同じようにパースリーさんも牢に入れたんじゃないの?」
「いや」アジャニは声を低くした。「おばあちゃんは逃げた。君のお母さんが釈放された時――」
「でも、私は、尋ねもしなかった!」 彼女は叫び、拳を自身の膝に叩きつけた。そしてふらつきながら立ち上がり、扉へ向かって踏み出し、倒れこんだ。アジャニが片腕でそれを受け止めた。「馬鹿じゃないの! 私はそんなことすら――私は......私はここから離れたい。ここにいるべきじゃない。私にそんな資格は――」
廊下の端で扉が乱暴に閉まる音がした。チャンドラは顔を上げ、息をのんだ。
確固とした視線を定め、ピア・ナラーが早足で向かってきた。水に濡れた古い紙屑がその足跡に舞っては落ちた。煙を帯びたその髪が背中になびいた。
ギデオンはチャンドラの隣に屈み、上腕を差し出した。彼女はそれを掴んだ。「私が」 そうアジャニへ呟くと、レオニンは頷いて下がった。
「私、もうだめ」 小さな声だった。「いつもこんな。お母さんが怒るのは当たり前。私は最悪なの。なのに何で、あんたはこうしてくれてるの」
三語の狡い、不確かな、許されない言葉がギデオンの心に鳴り響いた。ひとたび発してしまったなら、二度と戻れなくなる言葉が。
代わりに、彼は告げた。「お母さんと話すんだ」
チャンドラは力の限りに背筋を正し、震える片手でギデオンの腕を固く掴み、体重を支えた。顔は上げず、だが近づく足元を見ていた。
「チャンドラ」 母の声。楽器の弦のように高く張りつめて。
「お母さん、私――」
母は飛びつくように激しくチャンドラを抱きしめ、後ずさらせた。「あなたをまた失うなんてできない」 その声は低く震えていた。チャンドラは泣くような、小さな声を漏らした。
彼女は身体を引いてチャンドラの目を見つめ、日焼けした頬を煤けた手で包み、額をつけた。古い悲嘆が刻まれた顔に、涙の跡があった。「聞いてる? できないの。そんな事になったら、私が壊れてしまうから。愛してるわ」
チャンドラの目に涙が溢れた。「お母さんが泣くなら、私だって泣いちゃうよ」 彼女は鼻をすすり、唇の端が歪んだ。
ギデオンは背後で扉を閉め、熱く痛む目を手の付け根で拭い、アジャニを一瞥した。「夫人の具合はどうなんですか?」
彼はレオニンの感情を上手く読めたことはなかったが、アジャニは微笑んだように見えた。「これを聞けば、どんな魔法よりも効くさ」
「ですが意識が無いのでは」
否定するように、アジャニは尾を横に振った。「真に大切な物事は眠っていてもわかるものだよ」
靴音の群れが廊下を近づいてきた。代用の制服をまとった改革派の一団が照合表や軍備品、配置を議論しながらやって来た。ギデオンとアジャニはしかめた顔を見合わせ、わずかに肩をすくめ、そして腕を組んで肩を怒らせると扉の前に並び、あらゆる侵入へと立ち塞がった。
先頭のドワーフ事務員が急いだ様子で、不機嫌そうに告げた。「長に伝えなければいけない事が。今すぐです。急ぎの――」
ギデオンは片手を挙げて彼を黙らせ、かぶりを振った。「十分程、お待ち頂けますか」
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