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Magic Story -未踏世界の物語-
躍進
躍進
Kimberly J. Kreines / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2016年12月14日
前回の物語:沈黙の時
テゼレットとピア・ナラーの悪夢のような対決は更に恐ろしい何かを隠すものだった。ギラプールとゲートウォッチの目が逸らされている隙に、領事府の執行官らは受賞した発明品とその発明家らを霊気塔の研究室へと連れ去った。以来入賞者達の消息は定かではない。彼らの中に霊気先見家ラシュミの姿もあった。彼女は生涯をかけた発明である物質転送器の研究を、領事府の援助を得て進められると考えた。だが真実を知ることとなる......
「霊気溶接器を」 ラシュミはそう言った。駆動音と三度の爪音とともに、作業場の助手を務める自動機械が駆け寄った。
《作業場の助手》 アート:Victor Adame Minguez |
「ありがとう」 その道具を受け取ると、ラシュミの指が自動機械の小さな金属爪をかすった。「これだけで大丈夫」 機械は声を二度上げ、きらめく霊気塔研究室の隅へ小走りで戻っていった。ラシュミの目は切望とともにその背中を追った。だが知的好奇心に満ちた視線はそこになく、思考を刺激する論評もなく、安心させてくれる存在感もなかった。
ラシュミは溜息をついた。ヴィダルケンの助手、ミタルがいてくれればとどれほど願っただろうか。この転送器を今見てくれるだけでいいのに。自分達が作り上げた輪よりも何倍も大きな、そびえ立つアーチに言葉を失うだろう。着脱式のモジュール核を吟味したなら、素早い瞬きを止めないだろう。実験に立ち会えなかったのをおおいに残念がることは間違いないだろう。だが彼の狼狽は太陽を横切る雲のように一瞬で、猛烈な勢いで記録帳に書き込む音にとって代わられるだろう。ミタルは自身の感情が作業を妨げることを決して許さなかった。ラシュミはその技術を未だものにできずにいた。
霊気モジュールの最後の部品を溶接しながらも、気分は回復しなかった。彼を思いながらも、友の姿が扉の向こうに現れること以外に心躍ることはないだろうと半ば確信していた。だがそれは起こりえないという思いは時とともに増していた。ミタルを連れて来て欲しいと頼んでから四週間、そして機会がある度に職員へと催促していた。だが彼らの返答は常に同じだった、「発明に集中して下さい。他の事は我々にお任せ下さい」と。
確かに彼らは大部分を叶えてくれた。ラシュミが研究室にやって来て以来、至る所で便宜がはかられていた。あらゆる必要を叶えるために、注意深い自動機械と出資者テゼレットの命令下にある職員の一団があてがわれた。彼らはフェンネルやクミン、ターメリックの香りのする暖かな食事を運び、ユリの芳香を放つ清潔な衣服をくれた。室温、霊気圧、湿度を調節した。黄金色の新品の引き出しが仕事場の壁に列を成し、中身の量と質は常に確認されていた。毎朝、輝く新品の器具一式が完璧な順で並べられ、ラシュミの手にとってもらうのを待っていた。要望を遥かに超えるものだった。それでも......
他の発明家も同じ心細い迷いを感じているのだろうか。周囲を眺め、ラシュミは思った。可能ならば尋ねてみただろう、だが勤務時間中の会話は許可されていなかった。テゼレットは、静かに生産性に集中する環境を強いた。「無益な無駄話を大目に見るつもりはない。発明よりも無知な噂話を好む者は研究室を出て脳の無い有象無象に加わるがいい」 彼はしばしばそう繰り返していた。
発明に関する議論だけが許可されていた。だがテゼレットが進捗確認に訪れた最初の日から、それも完全に消え去ってしまっていた。航空工サナの姿なき作業台の光景は、博覧会入賞者の間に形成された仲間意識を消失させてしまっていた。これは一生に一度の夢を叶える機会、だがその夢を叶えられる発明家はただ一人なのだと。
ラシュミは溶接を終え、アーチの点検盤を閉じた。そしてスカートで両手を拭い、少し離れると転送器を丹念に観察した、テゼレットがそうすると思われるように。無人の作業台で次の忘れられた名前にはならない、彼女はそう決心していた。装置は傷ひとつなく、支柱も所定の位置にはめられ、霊気管の接続部各所は補強された。彼女は机の上の時計を一瞥した。いつあの人が来てもいい時間だった。心構えはしてある、そう自身に言い聞かせた。私はここにいられる、そう信じようとした。
研究室の扉が空気音とともに開き、ラシュミの息が止まった。
領事府の華麗な制服をまとった職員に挟まれ、テゼレットが大股で入ってきた。
アート:Ryan Alexander Lee |
食事中のグレムリン一抱えに光を当てた時のように、研究室内のあらゆる動きが止まった。全ての目が金属の手を持つ男に定められた。
私はここにいてやる。
「進捗を」光沢のある床をテゼレットは足音を響かせて歩いた。「進捗を見せてもらおう」 彼は一人のドワーフへと向かった。バーヴィン、その名をラシュミは最近知ったばかりだった。その金属工は建設作業と非言語的命令伝達に優れた巨大な自動機械で名を知られ、博覧会ではそびえ立つ機械で総合第四位を受賞していた。「まだか?」 テゼレットはにじり寄った。「私に悠長に待つ時間は無いのだぞ」
「わかりました」 バーヴィンは発明品を示した。「前回から多くの進展がありました。ひねり部品の機構を改良しました。これで相当な負荷に耐え――」
「改良?」 テゼレットの声色はラシュミをひるませた。「改良に興味はない。新しく作り出したものを見せろ」
アート:Karl Kopinski |
「あ......」 バーヴィンは落ち着かない様子で両足を動かした。「新しい関節をはめ込みました。最大積載量の増加をご要望でしたが、そこで私は負荷がかかる際の力に破壊されないよう――」だがそこで発明品を見つめる彼の口が唖然と開かれた。
テゼレットは自身の鉤爪で自動機械の左腕先端に取り付けられた巨大な手を掴み、関節ごと逆方向へねじ曲げた。金属はまるで紙のように折れ、傷を受けた獣のようにきしむ悲鳴を上げた。道具も無しに金属をそのように曲げてみせる者を見たのは初めてだった。窓からさし込む光にテゼレットの金属の鉤爪がぎらつき、ラシュミの背筋に震えが走った。
彼は一歩後ずさり、首をかしげた、まるで芸術作品を選考するように。「関節が壊れてしまったな。壊れぬように改良した、そう言っていたが」
バーヴィンは蒼白になった。「はい、テゼレット様。ですがそれは標準的な使用状況下で――」
「失望した。出ていけ」
他の作業台から一連の息を呑む声があがった。
「ですが、大領事様、どうか私は――」
「出て行けと言った」 テゼレットは金属の長い指で扉を示した。「連れ出せ」
同時かつ不意に三人の職員が反応した。その動きは連結した自動機械の一団に似ていなくもなかった。
「お待ち下さい」 バーヴィンは彼らに掴まれて身をよじった。「発明は! 私の発明はどうなるのですか!」
「この屑鉄は貴様のものなどではない」 テゼレットはその自動機械を足蹴にした。「この研究室で作られたものは領事府のものだ」
「そんな!」 バーヴォンは扉の枠に手を伸ばしたが、職員らがその背中へと腕をねじった。「お願いです! 私の全てをかけたんです、返して下さい!」 彼は叫んだ。そして廊下へ引きずり出されても、心をねじるようなその嘆願は潤滑油の匂いが立ち込める空気に居残っていた。
ラシュミは転送器の巨大な金属枠に手を伸ばし、拳が白くなるほど強く掴んだ。創造物と自身とを引き離されまいと願うかのように。
「下らん」 テゼレットは呟き、そして大声で続けた。「進捗を! それほど難しい事か? お前達は発明家だろう、違うか?」 研究室の中央通路をずかずかと歩く彼から、全員が馬の尾のように素早く視線をそらした。「ここから世に出せる最も素晴らしいものだとでも言うつもりか? ここには素晴らしき発明博覧会の受賞者たちがいて、彼らは何を作るというのだ? 屑山ばかりではないか」 彼はラシュミの作業台をぐるりと回った。「お前達は賢いと思っていた。だが部屋を埋め尽くす愚か者どもではないという証拠はまだ何も目にしていないが?」テゼレットは両目を見開き、赤い血管が輝き、そしてそれらがラシュミを直視した。「進捗を見せろ、でなければ出ていけ!」
ラシュミは出資者の尊大な姿を見上げた。動けず、息もできず、だがようやく彼女の心は静かに呟えるほどの意識を引き出せた。私はここにいてやる。息を吸った。この覚悟はできていた。テゼレットの癇癪は何ら新しいものではなく、彼女も自身が何をすべきかはわかっていた。発明品に集中しなければ。作品自身が語ってくれるだろう。幾らかの努力を要したが、彼女はテゼレットに背を向け、今一度転送器のアーチを掴んだ。あなたと私だけ。私達が成し遂げたものを見せてやりましょう。
《永遠の造り手、ラシュミ》 アート:Magali Villeneuve |
ラシュミは咳払いをした。「規模の拡張は終了しました。新たな枠は見てお判りかと思いますが、ご希望通り機械巨人の寸法のものを移動することが可能となるでしょう。金属は三重に補強し、固体の非連続転送がもたらす相当な摩擦に耐えられます。構造的霊気平面も拡張され、更なる輸送量を収容可能です。予備実験は成功しました」 言い終えると彼女は息を吸い、そして止めた。
「幾らかの進歩が見えるな」 テゼレットの声は早口だったが、怒りはなかった。ラシュミは息を吐くことを許した。だがそれは彼女が感じた偽りの安全だった。消えた時と同じように素早く、テゼレットの癇癪が再発した。「だが幾らかの進歩では足りん! 貴様等はここで一日中何をしている? 私の時間を浪費している。モジュール核はどうなった?」
ラシュミは身構えた。先程の返答で十分ではなかったのだ。「その作業は始めておりますが――」
「始めている? 始めているだと! 既に完成しているのではないのか」
ラシュミは後ずさった。「時間がありませんでした。この数週間は拡張に専念し、それにモジュール核に必要となる――」
「確かに」 テゼレットは肉体の手を振った。「十分ではないな。私からの簡単な要望一つ一つがまるで大きな達成不能要件であるかのように、君は行動しているな。だが私は出資者であり、君は発明博覧会の優勝者だ。優勝者! 最大のものを要求するのは当然のことだ、他の者もそうであろう」 だが誰も一言も言葉を発せなかった。「モジュール核を完成させろ。最優先事項だ。いいか?」
「はい」 ラシュミは声を絞り出した。「解決すべき問題はもう幾つかありますが、頂いた期限内で対処できる程のものです」
「ふむ、つまり今見ているものは最小限の未完成品だとでも言うのか?」
「それは――いえ。すぐに終わらせます。主要転送ユニットからの外部焦点を分断した際に起こる反動を処理しなければいけないというだけです」
「反動?」 テゼレットの眉がしかめられた。「つい先ほどまで私は君のことを本当に有能な発明家だと思っていた。だがその知性は未熟、無用も同然だ」 彼は金属の指を転送器の金線に走らせた。その音はラシュミの歯に響いた。「君が作っているのは非連続性転送器、だが君はずっと連続性法則について考えている。少し考え直せ。複数次元空間での摩擦はどうなる?」
止めたとしても、ラシュミの心はその質問を反芻しただろう。熟考せずにはいられない科学的難問だった。テゼレットが一体何を言っているのか、当初彼女はわからなかった。だが理解し、思わず息をのんだ。
「おや。わかったようだな」 テゼレットは物憂げに言った。
ラシュミはその嘲笑にほとんど気付かなかった。突破口の瀬戸際で彼女は深く考えこんだ。「一本の細流を霊気ループに挿入すれば、外部焦点を始点と繋げられる、それも霊気蓄電器を過重充電することなく、そして――」
「そして機能する」 テゼレットがその言葉を締めた。「無論、機能するだろうな」
計算式がラシュミの心を走った。「更に霊気が必要になります。少なくとも二倍、増大する空間的次元数を収容するために」
「いいだろう」 テゼレットは職員の群れを、見たところ適当に眺めた。「研究室への霊気供給を三倍にしろ」
「了解しました、大領事様」 最も近くにいた職員が頭を下げた。
「あの」 二人目の職員が踏み出し、咳払いをした。「お気づきかもしれませんが、そこまでの量を増やすには現在多数の地区に流されている相当の供給量を再設定する必要があるかと存じます。問題となりうる可能性が――」
「問題などない」 テゼレットは言い放った。
「ですが、ただ――」
「言い訳は沢山だ!」 テゼレットの額に血管が脈打った。そして息を吸い、声を低くした。「聞け。この研究室で進む作業以上に重要なことなどない。これは領事府の最優先事項だ。いいか?」
その職員は衣服を正した。「了解しました、大領事様。ですが――」
「もういい」 テゼレットは扉へと手を振った。
「もういい、とは?」 その職員は狼狽し後ずさった。
「そうだ。お前は不要だ」 彼女は動けず立っていた。「お前の仕事はもう不要だ」それでも彼女は動かなかった。「追い出せ」 テゼレットが合図すると、彼女の隣にいた職員らがすぐさま行動に移り、両腕を掴んで連れ出していった。「霊気供給を増やせ」
「畏まりました、大領事様」
テゼレットが振り返ると、ラシュミは息をのんだ。「霊気が必要な地区があるのでしたら、私は――」
「駄目だ!」 テゼレットは転送器のアーチに金属の手を叩きつけた。「必要なのはこれだけだ。お前は期限内を早めて完成させるための霊気を得る。次の進捗確認のために戻ってきた時には、このがらくたを動かしてもらおう 」 彼はバーヴィンの巨大な自動機械を示した。「研究室の向こうまで」
ラシュミは息をのみ、頷こうとした。
「できないならば、お前は終わりだ」 テゼレットが扉へ向かうと、磨かれた床に足音が鋭くこだました。残った職員が後に続いた。
ラシュミの身体から力が完全に抜けた。「終わりだ」の言葉が脳裏に響いていた。首筋の背後に囁き声が潜み上がった。他の者らのまばらな視線が追う中ふらふらと机に向かい、椅子に身を沈めた。こんな事になるなんて? 机の上、壁にもたれかかるように、最初の転送器が鎮座していた。彼女はその金線に指を滑らせた。
《逆説的な結果》 アート:Nils Hamm |
それをその場所に置いたのは、ここで働く勇気をくれればと思ったためだった。その時はとても希望に溢れ、誇らしかった。夢が叶うと思っていた。だが今は? ラシュミは息を吐いた、長くゆっくりと。世界を変えると思っていた、そして今もそう思っている。これは好機。無駄にはしたくなかった。
四週間後
出資者へと積極的に言えることがあるとしたら、少なくとも一つのことが言えただろう。ここまで忙しく働いたことはなかったと。
この数週間に渡って彼女はしばしば悩んでいた。自分はどうなるのか、転送器はどうなるのか――テゼレットの厳しい圧力下にいなかったらと。四日間のうち三日を不眠不休で作業しなかったなら、自動機械に携帯食を運んでもらい、仕事を中断する時間を一口分だけで済むようにしなかったなら、猫猿よりはまともな程度の清潔さを保つシャワーで満足しなかったなら、今ここで自身の傑作に最後の部品を差し込む所に辿り着いてはいなかっただろう。
ラシュミは霊気溶接器を片手に、感知モジュールをもう片方に持って転送アーチの頂上近くからハーネスでぶら下がっていた。静かな研究室に響くのは熱い霊気の囁き音だけだった。テゼレットが最後に姿を現した翌日には、他の発明家全員が霊気塔研究室から移動させられていた。「新たな場所に」、職員の一人はそう保証したがラシュミは信用していなかった。
寂しいと言いたかったが、実のところ彼らの不在は気にならなかった。沈黙と孤独は以前からと同じものだった。会いたいと思うのはミタルだけだった。
溶接部が繋がり、センサーを一周させると、ラシュミはスイッチを叩いて霊気の流れを切った。金属の熱が冷えると、彼女はハーネスで下がったままで背中をもたれ、仕事具合を吟味した。できた。やり遂げたのだ。
不可能に思えたが、それは本当だった。「終わった」、その言葉は吐息以上のものではなかったが、研究室を満たすように響いた。不意に頬へと血の気が走り、興奮が胸に湧き上がった。「終わった!」 彼女は手を放し、ハーネスにぶら下がったままで両腕を広げた。創造物の影の中、弾性ケーブルが眩暈のような笑い声とともに跳ね返った。
彼女は歓声を上げた。自分が作り上げたものは美しかった。完成を目指す慌ただしい日々の中、作品の前でこのように止まって見たことはなかった。金属の曲線、輝く青色の霊気管を支える豊かな金線、装置そのものの巨大さ。魅力的だった。圧倒的だった。全てを満たしていた。
最後の完璧な溶接線に陽光の一筋が踊り、ラシュミは笑みを浮かべた。唇が上に歪み、それは久しぶりの感覚だと実感した。今は微笑む時だった。息をつく時だった今は――突然、彼女は頭からつま先まで緊張した。
「太陽!」 朝が来ていた。進捗確認の朝。テゼレットがやって来る筈だった。
焦る手でラシュミは綱の留め金を外し、滑り降り、足がかりを探って地面に触れた。
「霊気グリップ!」 声を上げると助手機械が飛び上がって命令通りに棚へと走った。転送器は完成したかもしれない、だが実演の準備はまだだった。転送器に対象物の位置を入力する必要があった。実験ではピンセットやレンチといった小型の道具を机の隣にある箱の中へ送っていたが、バーヴィンの巨大な自動機械を送るとなればその箱を破壊しかねない。そして机も、そしてその背後の窓までも。そのような惨状は確実に避けたかった。
小さな自動機械が駆け寄って上に腕を伸ばし、霊気グリップを手渡した。ラシュミはハーネスを外す暇もなくその器具を掴み、モジュール核の下に膝をついて内部の霊気機構へと手を押し込んだ。
《永遠の造り手、ラシュミ》 アート:Magali Villeneuve |
物質を移動させるための基本原理は最初の転送器に用いたものと同じだった。始点は巨大な転送器のアーチ、これは最初の型では輪だったもの。そして対象の位置は三次元空間で選択したいずれかの場所。アーチと輪との違いは、始点から終点までの経路を複数の仮想次元の存在に依存して割り出すことだった。それによって著しく大質量の物質を素早く転送することが可能となっていた。
ラシュミはモジュール核内にある複次元式霊気投射装置へと指を伸ばし、大導路の霊気パターンに対応する霊気平面を感じた。感じられたのは研究室内、自身の周囲を取り巻いている大導路の一部、その他はぼやけて定まらないものの先にあった。まずは上々だった。必要なのは研究室の向こう側にある対象位置を核へと紐づけすることだった。それも素早く。
「そう、そのまま」 必要なのは霊気の糸口、彼女は周囲にそれを求めた。大導路への物理的・深層意識的接触の両方を働かせねばならなかった。目を閉じると、心の目を通して見えた。青く消えかけた霊気写真で研究室を見ているかのようだった。その投影を操作し、狭め、焦点へと――「あった!」 指でかすめた時、まるで自身がそこにいるかのようだった。一呼吸もしないうちに、研究室の反対側に立っているように感じた。
「さあ、次はあなたの番」 彼女は想像上の投影を先導し、モジュール核内の仮想次元平面に沿って曲げ、始点位置を示す定点に向けて引いた。この始点と終点を接続したなら、転送器はバーヴィンの自動機械を研究室の向こう側まで動かせるだろう。事実これは実際に何かを動かすというよりも、空間的次元を崩壊させて二つの位置を共存させるというものだった。一体どれほどの将来性を秘めた技術だろうか!
内部霊気機構を半分通過したところで、終点への投影が何かによって曲げられた。ラシュミは手を放しかけた。「駄目。駄目、ちょっと」 彼女はその投影をよじり、優しく引き寄せて繋げた。それは仮想次元の一つに引っかかっていた。「時間がないの」 彼女は強く引き、更に強く引き、更に――そして手が滑った。突然何もかもが危うくなった。深刻な眩暈に襲われ、引き下がろうとしたが自身を掴む何かはあまりに力強かった。
氷水の浴槽に飛び込むようだった。
声が出たならば叫んでいたかもしれない――自身の存在内部のどこから声というものがやって来るのかを判別できたなら。だが唇も、肺も、身体の何もわからなかった。わかったのは、おびただしい次元だった。それはもはや仮想ではなく、方程式の変数でもなかった。実在していた。あまりにも沢山。
ラシュミは自身をとても矮小に感じた、それでも自身の真髄は凄まじい大きさを感じていた。
畏敬と驚嘆に圧倒されたまま、そこで呆然としていたに違いない。幾らかの間、だがどれだけの時間という概念はなかった。時は存在しなかった。
そして彼女は動いていた。もしくは少なくとも周囲が動いていた。移動している感覚はなく、だが明白にその証拠があった。都市の風景を見下ろしていたが、見覚えのある建物は何一つなかった。その形状、色、建築様式、全てがあまりにも珍しかった。そして次の瞬間には蔦が密集し巨大な葉の植物が縄張りを争うような森に、あるいは密林にいた。ダイアモンドの形に切り出された巨岩を垣間見た。それは重力の法則を無視するかのように宙に浮いていた。そしてただ深い紫色の雲に満たされて広がる空、雪をかぶり黄色の花が咲く山脈。その映像は――正しく言うならば印象は――今や更に速度を増して流れ、一つの印象は次の印象と混ざり合った。静かな炉辺、広大な砂漠、見たことのない人々と物で満ちてざわめく市場、獣の大口、星が満ちる空。数えきれなかった。知りきれなかった。
ラシュミは感激のまま立ち尽くしていた。この場所、この沢山の場所。ここの外にあることはずっと知っていた。何年にも及ぶ物質転送器の実験を通してそれらを感じていた、ただ手を伸ばしたすぐ先にあったものを。理論を支える証拠が何らなくとも、信じていた。そして今、それを得た。自身の内深くに何かがうねった。生きていることを、そして自身の脆さを感じ焦る何かが感じたこともないほどに強く。そして涙が溢れるような感覚、だがそれを流す余裕はなかった。
この素晴らしい場所に留まっていられたなら――この息をのむ光景に――ずっと。
何処かから音が聞こえた。繰り返し、規則正しく。それは鼓動だった。ひと打ちごとに彼女の真髄の中心を震わせた。そして結晶化し、鋭い音が明白になった。怒り。苦痛。何もかもがこの場所にそぐわないものだった。それは彼女を催促し、音を聞くよう耳に促した。背筋に震えを感じ、体毛が逆立った。ひと打ちごとに彼女はその場所から引き戻されていった。遠くへ、忘れかけていた身体へ。
そして彼女はラシュミに、一人のエルフに戻った。研究室の床に膝をつき、頬には涙が流れ、両手はモジュール核の霊気構造深くに差し込まれていた。音が判明した。性急で卑しい、鋭い足音だった。テゼレット。ラシュミの頬から血の気が引いた。あの人が来る。
両手を素早く核から引くと、内部から深い軋み音が響いて巻き戻った。核の霊気ヒューズが火花を散らした。彼女は霊気の噴出に顔を覆った。
「私が見たかったものとはこれか」 テゼレットはラシュミの隣に立ち止まり、片手ほどの職員が彼を両脇から挟んでいた。「我が発明家が霊気にまみれて無様に横たわっているとは」
「大領事様」 ラシュミは今見たばかりの興奮を抑えきれずにいた。「全く新しいものを見たんです」 支離滅裂で途切れがちの言葉を湧き出させ、彼女はよろめき立ち上がった。「この外に、仮想次元があります。ずっと現実的な。建物、ここにない――あんな植物も見たことがありません。ここのものではなくて、ここの外のどこかにあるんです。前にも感じました、ミタルも。ミタル! 彼を連れてこなければ。彼もわかる筈です。仮説があります、素晴らしい仮説が。これはもう只の物質転送器ではありません。可能性そのものです。私達の理解を広げてくれるものです、理解を、私達の、その、存在を」
目の前に立つ男のどこか深くから、低く轟く音が響いてきた。それは柔らかに始まり、何か不吉なものへと発展してラシュミの内を上下に這うように感じさせた。テゼレットは笑っているのだった。自分へ向けて笑っているのだった。だが何故? 「実に可笑しいことだ。矮小な頭脳が理解を超えたものに直面したならばどう動くかというのは」 テゼレットは陽気にかぶりを振り、だがその物腰全体が転じて彼は睨み付けた。「転送器は完成したのか?」
「はい」 ラシュミは混乱しながらも声を出した。
「宜しい。君は遂に成すべきことを成した」
「ですがこれはもはや転送器などではありません。お判りになりませんか――」
「わからないか、だと?」 テゼレットはにじり寄った。「勿論お前にはわかるまい、わかる筈があるか? お前の見方は腹が立つほどに有限だ」 テゼレットは職員へと合図した。「あのがらくたを持ってこい。何ができるかを見せてもらおう」
「了解しました」 職員らが素早くバーヴィンの作業台へと動いた。
「お待ち下さい」ラシュミはテゼレットの行動が信じられなかった。「危険すぎます。仮想次元に押し込んだ際の負荷を完全には理解して――」
「出ていけ」 テゼレットは肉の手を振った。
「え?」 恐怖心と衝撃がラシュミを掴んだ。
「お前は仕事を終えた」 テゼレットは金属の鉤爪で転送器の金線を撫でた。「この美しき作品は今や私のものだ。つまりもうお前に用は無い」
ラシュミの本能が叫びかけていた。この男に転送器を渡すわけにはいかない。その両目には何かがあった、高まる不安の残り火を煽る何かが。自分が作ったものを守らねば――それ以上に、自分が目にしたものを。あの場所を、あの生命を――
「用意致しました、大領事様」 職員らがバーヴィンの巨大な構築物をアーチの下に置いた。
「宜しい。ではそのエルフを追い出せ」
「了解致しました」 職員らが動き、ラシュミを取り囲んだ。
「お待ち下さい」 ラシュミの心臓が跳ねていた。何かをしなければ。「まだです」 彼女は喋りながら計画を作り上げた。口実を作り、核を仮想次元から切り離せば、あの世界が害されることもないだろう。「霊気ヒューズが切れてしまったんです」 彼女は霊気に汚れた両腕を掲げた。「お入りになる直前に」
テゼレットの背筋が伸ばされた。「完成したと言わなかったか?」
「完成しました。間違いありません。ただ交換が必要なだけです」
「嘘をついたな」 それは質問ではなかった。「私に嘘を言うなど」
ラシュミの胸の鼓動が内臓までうねって押し寄せ、だが彼女は立続けた。「嘘ではありません。完成しました。僅かな修正が必要というだけです」
「お前は理解していない」 テゼレットの左頬の筋肉が引きつった。「私に嘘をつける者などいない、そのような者の命はないのだからな」
ラシュミは息ができなかった。まるで霊気万力で内臓を締められたかのようだった。
「お前にはずっと辛抱してきた。それはもう限界に近い。お前の命も同じくな」
《テゼレットの野望》 アート:Tyler Jacobson |
ラシュミはアーチへと後ずさり、大導路の投影をモジュール核から退くにはどれほどかかるかを見積もった。だが行動するよりも早く、テゼレットが一本の指を動かすと職員二人の力強い手が彼女の腕を拘束した。テゼレットはラシュミを見据えながら大股で歩み寄った。「今すぐに直せ。そうするならお前の些細な命を伸ばしてやることを考えないでもない」
その言葉に彼女は恐怖に襲われたが、決意を固めもした。テゼレットがどのような男かはもはや明白だった。兆候はずっとあったというのに、何と愚かだったのだろうか。今自分にそうしているように、この男が他の発明家をどう扱うかを見てきていた、だが自分は間違っていない、これは世界を変える好機、そう思い直そうとしてきた。必死なほどに求めていた。そのためにこの男の癇癪を無視し、暴力に見て見ぬふりをしてきた。自分の力を出し尽くして欲しいからこそなのだと、駆り立てているだけだと言い聞かせてきた。だがこの男は怪物、それこそが真実だった。
あの地をこの怪物から守れるかどうかは自分にかかっていた――命をかけることになろうとも。ラシュミは深呼吸をした。この男のために転送器を直すのではない、破壊する。「道具を」 彼女は職員らの束縛を解こうと動いた。
「私を見くびるつもりか?」テゼレットが言い放ち、ラシュミは凍り付いた。「お前の些細な考えなどわかる。その意図がな。これを壊そうというのだろう」 その的確さに、ラシュミは驚きを隠そうとした。「だろうな、やってみるがいい。やれ。だが心しろ、そうしたなら殺す。そしてミタルといったか? お前の取るに足らぬ友を連れて来てこれを完成させる。お前の仕事はよく知っているのだろうからな。そしてそいつも殺す」
「やめて!」 ラシュミは職員の掌握の中で身をよじった。ミタルは。あの穏やかで、親切で、優しいミタルは。「ミタルにそんな事は!」
「ならば、お前次第だ」 テゼレットは嘲った。「どうせならばやる気を出してもらおうか」 彼は肉の指を素早く突き出し、職員二人を呼んだ。「お前達。そのヴィダルケン、ミタルを連れてこい。今すぐだ」
「了解致しました、大領事様」 職員らは早足で研究室を出ていった。
「やめて下さい!」 ラシュミは狂乱した。息が途切れ途切れに詰まった。部屋が左右によろめいた。職員らに腕を掴まれていなければ、立ち続けてはいられなかっただろう。
「お前の友が来るまでに終わらせなければ、どちらも殺す」 そしてラシュミを拘束する職員へと頷いた。「放せ」
光る床のぎらつき。自動機械の関節。転送器の金線。よろめき進むと研究室の様々な要素が分かれ、孤立して見えた。それらを一つのものとして考えることを心が拒んだ。一つのものとして考えるには暴力的すぎた。
「どうした?」 テゼレットが迫った。「何を待っている?」
待っているのではなかった。麻痺していた。考えられるのはミタルのことだけだった。彼は今朝も甲虫型研究室の机の前にいるのだろう。いつも朝早くにやって来る。今はどんな素晴らしい装置を手掛けているのだろう。喉にきつい熱がうねった。領事府の手が迫りつつあるなんて考えもしないのだろう。警告もなく、説明もなく、乱暴に騒騒しく。彼らはミタルに危害を加えることも厭わないのだろう。不条理だった。ミタルは他人の心を傷つける事すらなかった。そして自分のために今、苦難を被ろうとしている。
駄目。そんな事はさせない。傷つけさせはしない。動きなさい、ラシュミは自身に言い聞かせた。ミタルのために、動きなさい。揺れる心で彼女は部品室へとよろめき向かった。何か方法はあるはず、両方とも助かる道があるはず。あの地と愛しい友の両方が。心の中で状況を整理し、テゼレットが突きつけた問題を論理パズルの制約条件として考えようとした。だがどう取り組もうとも結果は同じだった。両方を守る術はない。選ばなければならない。
ならば、ミタルを選ぼう。
ごめんなさい。その言葉は彼女が見たあらゆる地のあらゆる生命に向けられたものだった。そこに理解してくれる者がいたならば、彼らも同じように友人を選ぶのだろうから。
部品室の扉に掴まりながら、ラシュミは新品の霊気ヒューズが入っている黄金色の引き出しを探した。必要なヒューズを機械的に選び、机に運び、記録書を開き、型番を記録した。涙が頬を伝って流れ落ちた。彼女はそれを拭い、だが二滴目、三滴目が今も机に立てかけられている最初の転送器、その金属の輪に飛沫を上げた。私達、どうやってここに来たんだっけ? こんな事になるとは思っていなかった。何もかもが間違っていた。こんな結末になると誰かが言ってくれたなら――突然、ラシュミの口が乾き手に汗がにじんだ。甲虫型研究室......パズルはすでに解かれていたのだ。
両手が既に動いていた、記録書の頁をめくった。遠くからテゼレットが監視していることは知っていたが、振り向く気はなかった。自分がしようとしている事を知られたなら、間違いなく殺される。だがこれを気付かれずにやれたなら、ミタルの生命を守れるかもしれない。ならば全てを賭ける価値はあった。
彼女はかろうじて読める字で書きなぐった。ここは危険。逃げて。霊気塔に連れてこられないで。
そしてそれを小さく丸めた。
「何をしている?」 テゼレットの声にラシュミの心臓が止まりそうになった。
「計算です」 その言葉に込められた確信と声量には彼女自身驚いた。
「部品を交換するのではなかったか?」 テゼレットが苛立っているのは明らかだった。足音が床を横切り、近づいてきた。スイッチを入れ、ラシュミは転送器を起動した。「計算など何も言っていなかったではないか。またも私に嘘をつくというのか?」
「ヒューズが再び切れないように、です」 ラシュミの声は力強かった。ミタルを守るための勇気だった。「この試験を失敗させるわけにはいきません。ご理解下さい」 その言葉がテゼレットを不快にさせることは知っていたが、それが狙いだった。転送輪から気を逸らす必要があった。
「死ぬ前の悪あがきではあるまいな」 テゼレットはバーヴィンの古い机を迂回した。響く足音で彼女はそれを察知した。
片手で記録書を書き続けて囮にしながら、ラシュミは片手で転送器の制御盤を開くと中に手を伸ばした。この輪に記録させた終点は少数だったので、甲虫型研究室へと戻る霊気流を見つけるのは容易だった。そそこは物質転送が最初に成功した目的地であり、彼女も、輪も忘れてはいなかった。ラシュミは霊気流を定め、素早くパネルを閉じるとミタルへと願った。そこにいて、どうかこれを見て。
「計算は終わりだ」 テゼレットの金属の拳が彼女の右に降ろされた。「実験の時間だ」 その息が首筋に熱かった。
彼女は両手で輪に狙いを定めめた。だが今紙を落としてしまったなら、見られてしまうだろう。今一度気を逸らさなければ。彼女は息を吸い、身構えた。「時間を決めるのは私です。私は発明家です」
「どういうつもりだ?」 テゼレットの声は増幅器を通したかのようだった。だが狙い通り、この男は気を散らされた。彼女の指先に危うくぶつかりそうなところに、閉じた記録帳のカバーを乱暴に叩きつけた。ラシュミは息をのむふりをし、同時に丸めた紙を輪へと放った。それは消えた。
ラシュミの腰についたままのハーネスを掴み、テゼレットは彼女を振り返らせた。「言ったと思ったがな。お前に価値などない。何もない」 熱い唾が頬をかすめた。「お前がここにいるのは、私が必要としているからだ。お前が生きているのは、私が許しているからだ。私の言う通りにしろ、さもなくば死ね」 そして彼女の返答を待たず、ハーネスを引きずって研究室を進んだ。転送器の下でバーヴィンの自動機械が実験の時を待っていた。
ラシュミは動じなかった。もう時間を稼ぐ必要はない。できる事は全てやった。ミタルは逃げられるかもしれない。自分とこの怪物が次にどうなろうとも。
「直せ!」 テゼレットはラシュミを床に投げた。
磨かれた床に膝を強打した。涙が湧き上がり、だがそれを払った。泣き顔など見せたくはなかった。この男にだけは。自分に価値はないなどと言った男には。自分の才を侮辱した男には。価値などないのはこの男の方だった。権力と支配力はあるのかもしれない、だがそれは本性を隠すためのもの――もしくは本性でないものを。何もかもが欠ける男だった。自分にとってごく当たり前の科学体系を否定した。この転送器も決してこの男のものではない。だからこそ自分をここに連れてきたのだ。自分が必要なのだ。独りで何の価値もない身勝手な男。そしてこの無価値の男に殺されるわけにはいかなかった。
数秒で事足りた。彼女は霊気ヒューズを差し込み、モジュール核の定位置にひねってはめ込み、設定された終点と始点とを繋げた。そして転送の反動を受け止める程度に、接続をわずかに緩めた。「できました」 彼女は立ち上がり、ハーネスの金具を確認した。緩みはなかった。
「下がれ」 テゼレットは肩で彼女を押しやった。「私が操作する」
ラシュミは舌を噛み、その意外性のない傲慢さへの感謝をこらえた。それこそまさに彼女が期待していた事だった。彼女は縦長の窓に一歩近づき、両目で近くの滑車機構を見た。
転送器のアーチ下に置かれた自動機械へと、テゼレットは得意げに金属の鉤爪を叩きつけた、「時間だ」そして脇によけ、操作盤の操縦桿を掴んだ。「お前の理解を超えた輝かしい時を記すのだ。私が記すのだ」
それがいかに間違っていたかを、テゼレットは知らなかった。
テゼレットが操縦桿を引いた。ラシュミは息をのんだ。自動機械が消えた。
ラシュミは息を吐いた。モジュール核内のヒューズが切れ、火花を散らし、そして同時に自動機械が再び現れた――終点に、彼女がそれまでに何度も用いた金属箱の上に。大きすぎるバーヴィンの傑作はその箱を破壊し、ラシュミ近くの机を破壊し、そしてその背後の巨大なガラス窓を砕いた。気圧の変化に霊気の突風が起こり、紙や道具をギラプールの空高くへと舞い上がらせた。
「何をした!?」 テゼレットは青ざめ、切れたヒューズから溢れた霊気をかぶったまま彼女へと突進した。だがラシュミは準備が整っていた。彼女はハーネスを滑車機構の綱に引っかけた。その男の愚鈍な精神が現状を把握するよりも早く、彼女は窓の穴へと駆けるとその先のうねる霊気へと飛び出した。
アート:Jonas De Ro |
そこから先は全て本能の行動だった。空中を垂直に落下すると開いた口を風が打ち、息ができずに肺が熱くなった。彼女は口を閉じた。両目から流れ出る冷たい涙の先に、眼下の街路がはっきりと見えた。目を閉じた。綱が弾力をもって張りつめ、そして跳ね返った。身体が上昇し、また下降し、再び。もう一度。跳ね返りが収まると彼女は目を開けた。領事府の車の屋根のすぐ上にぶら下がっていた。彼女はハーネスの器具に手を伸ばし、震える指でそれを外した。
立ち上がろうとした足は反応せず、そのため彼女はぎらつく金属の屋根に横たわった。起きなさい! 半ば這うように車から転げ落ち、肩から敷石に落下した。
そこかしこで騒動が起こっていた。人々が叫んでいた。火花が散っていた。飛行機械が飛んでいた。そして遥か上でテゼレットが叫んでいた。ラシュミは身体を起こし走った。どこへ向かっているのかはわからなかったが、移動しなければいけなかった。ここから離れる。できるだけ遠くへ。あの男から逃げる。
両脚が痛み肺が悲鳴を上げても、決して止まるつもりはなかった。決して。
突然、目の前に金属の壁が跳び出た。彼女は避け、左へ向かった。別の壁。この時は再び進行方向を変える前にぶつかり、だが別方向に駆け出して――三枚目の壁。振り返ると、囲まれていた。「そんな!」彼女は金属に拳を叩きつけた。「出して!」 あの男に勝たせるわけには。
肩を掴む両手があり、彼女を振り返らせた。ラシュミは拳を上げた、戦うために。その気になれば殺すつもりでもいた。
「大丈夫、ラシュミ。私よ。もう大丈夫」
ラシュミは瞬きをした。わけがわからなかった。どうやって? どこに?「サヒーリ?」
「ここは私の装置の中。誰にも見つからない所まで連れて行くから」 ラシュミは足元に動きを感じた。それはもはや敷石ではなく金属の床だった。「終わったのよ、ラシュミ。もう大丈夫。あなたは大丈夫」 ラシュミの息が落ち着くまで、サヒーリはその言葉を繰り返した。
「ミタルは?」彼女はかすれ声で友の名を呼んだ。
「無事よ」
ついに緊張の糸が切れ、ラシュミはサヒーリの腕へと倒れ込んだ。
「劇的な脱出だこと」 ラシュミが顔を上げると、黒のドレスをまとった見知らぬ女性の姿があった。
「すごかったと思うけど」とサヒーリ。
「個人的にはちょっと残念だったわ。テゼレットと少しは遊べそうだったのに」 黒づくめの女性が言った。
その名を聞いて、ラシュミの内が強張った。「サヒーリ」 彼女は友の腕を掴んだ。「あいつは転送器を奪った――あれはただの転送器じゃない。あなたは正しかった。自分が作ったものの意味を私はわかっていなかった。でもあいつは、わかっていたんだと思う。わかっていたに違いないの、まるで......」 ラシュミの声はかき消え、サヒーリを見た。「あなたが知っていたように」 彼女はふらついて一歩後ずさった。様々な手がかりを一つにはめながら、心が急いていた。
ラシュミは友を見た。そして弾け出て自分達を包む金属を。その独特で華やかなぎらつきを。そして黒ずくめの女性を。流れるような黒いスカートは見たこともない布地で、女性の皮膚には微かだが明らかに何らかの模様があった。ラシュミの知らない言語。
彼女の心臓が高鳴り、再びサヒーリを見た。だがこの時真に見たのは、霊気の深淵へと落下する視点だった。他にはない感覚、そして一度それを実感したなら、以前にもあったと気付いた。あの男が部屋にいた時に。突如、ラシュミは多大な違和感と、ちっぽけさと、恐怖を感じた。「サヒーリ。知っていたのね」
サヒーリは何も言わなかった。
構築物が急停止した。「やれやれ」黒ずくめの女性が立ち上がり、サヒーリを見た。「あの筋肉自慢の会議くらいには快適だったわ。出してくれる?」
単純な動作で、サヒーリは固体の金属を分割した。そして黒ずくめの女性は暗い倉庫と思しき場所の中へと歩み出た。
サヒーリは咳払いをしてラシュミへと向き直った。「みんなが待ってるわ」
「誰?」 ラシュミの声は静けさの中に響いた、彼女自身と同様に不安を帯びた声が。「何が起こってるの、サヒーリ? みんなって?」
「改革派へようこそ。話す事が沢山あるの」
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